小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

この映画は二度はじまる(「カメラを止めるな!」ネタバレなし)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は今、話題の「カメラを止めるな!」について語っていこうかと思っています。

まだ上映館数も少なく、観てない方も大勢おられると思いますのでネタバレは控えています。
※とは言ってもサイト情報や予告編で明示されている部分については言及しています。



作品概要


製作年:2017年
製作国:日本
配給:ENBUゼミナール
日本初公開:2017年11月4日
上映時間:96分


・解説

映画専門学校「ENBUゼミナール」のワークショップ「シネマプロジェクト」の第7弾として製作された作品で、前半と後半で大きく赴きが異なる異色の構成や緻密な脚本、30分以上に及ぶ長回しなど、さまざま挑戦に満ちた野心作。「37分ワンシーンワンカットのゾンビサバイバル映画」を撮った人々の姿を描く。監督はオムニバス映画「4/猫 ねこぶんのよん」などに参加してきた上田慎一郎。とある自主映画の撮影隊が山奥の廃墟でゾンビ映画の撮影をしていたが、そこへ本物のゾンビが襲来。ディレクターの日暮は大喜びで撮影を続けるが、撮影隊の面々は次々とゾンビ化していき……。2017年11月に「シネマプロジェクト」第7弾作品の「きみはなにも悪くないよ」とともに劇場で上映されて好評を博し、18年6月に単独で劇場公開。
カメラを止めるな! : 作品情報 - 映画.comより引用


・予告編





駄文

まず、Twitterの感想から。



前提として、この作品は好きです。
それを踏まえた上で、あえて言及していきます。




そもそも、前知識、予備知識を持たずに観た場合、期待した作品なのか?期待を超える内容なのか?


ゾンビ映画としてカメラを止められない。
言い換えれば、撮影し続けなければならない現状でゾンビパンデミックが起こるといったものを期待してしまうと斜め上を行くものとなっています。

そう、予告編を観るか観ないかで、期待する方向性が大きく変わってきてしまうんですよね。


前半、ゾンビ映画としてのクオリティは手放しに褒められるものではありません。
低予算というフィルターを通してでも。

この作品で評価できるポイントのひとつがここにあります。
この低予算で見るに堪えないとは言いませんが、少しシラケてしまうようなチグハグした冒頭のゾンビ映画
このチープさでさえ、伏線回収へと繋げてしまうんですよね。
キャッチコピーや予告編をご覧になられた方は察すると思いますが。

一度落とされた(笑)気持ちを盛り上げる脚本。
その落差の絶対値が大きければ大きいほど、この作品が面白いと感じる仕様になっているのでしょう。

えっ、上田慎一郎監督凄すぎない?ってなっちゃいます。



実際に撮影されたものと伏線回収時の演出に少し齟齬が見えたこと。
ここは大した問題ではありません。
むしろ、上手く誤魔化せてたと思います。

チープな低予算ゾンビ映画での盛り上がりを期待すると恐らくは期待外れ、肩透かしを食らってしまいます。
ここで「オイオイ、マジかよ(笑)」な空気が劇場で流れたことも確かです。

そこを裏切って、楽しませてくれたエンタメ性の高い脚本と役者陣の熱が観客を巻き込んだ。
この作品の人気を支える大きな要因のひとつだと思います。

自分も予備知識なしに観に行きましたが、そこに惹かれたことは間違いないでしょう。

ここにハマれるかどうか。。。

あまり時間が取れず、観た方の感想も回りきれてませんが、見るのは絶賛評ばかり。
そう、それに期待しすぎると合わない人がいてもおかしくない。
観客皆が同調圧力に負けてるとは思いません。
ただ、批判的な意見をあまり見かけないこと。
そして、上田監督の次作への期待値は不安がないこともない(笑)





次に、インディーズ映画は普段メジャー作品を観ている観客にウケるのか?


かく言う自分もミニシアター系映画を好き好んで観るタイプではありますが、数をこなしている訳ではありません。
時間に余裕があれば足を運ぶ程度で、大半はやはりメジャータイトルに落ち着く。

普段から映画を観ない観客にとってのインディーズ映画はどう映るのか?

経験上、この作品のように口コミで広まっていないインディーズ映画はやはり空席が目立ちます。
上映館数も少なく、座席数も少ない。
カメラを止めるな!」は口コミも宣伝もあり、ほぼ満員でした。
そして、鑑賞中に何度か笑いの起こる和やかな雰囲気でした。

その雰囲気に引っ張られたこともあるでしょうが、コメディタッチな笑いは万人受けしそうではありました。
そうです、純粋にこの演出が評価された瞬間でもあり、ここに所謂顔となる役者や監督の名前は不要なんです。
もちろん最低限の技術は必要ですが。

確かに演技力にバラつきはありました。
しかし、それを互いに補い合い、ひとつのチームとしてこの作品を作り上げた。
そんな熱意が観客の心を掴んで離さないんですよね。


あ、厳しくいこうと思ってても、何故か褒めちゃってますね。
なんか悔しい(笑)





ということで
厳しい目で評価しましょう。

本作「カメラを止めるな!」は本当に前情報や予備知識なしでなければいけないのか?

自分も映画好きを謳っているひとりであり、それなりにネタバレはダメだというような作品も観てきています。
そんな中で時折思うのが、ばらしていいネタバレとばらしてはいけないネタバレです。



例えば、公開当初に問題となったM・ナイト・シャマラン監督作「スプリット」。

この作品を観る前にある作品を観ておけ。といったネタバレとも取れないネタバレ問題ですね。
観客にとって有益で必要な情報であるにも関わらず、それをネタバレだと批判されたことに疑問は大きい。
それは必要なネタバレ(ネタバレと言っていいのかも疑問だが)だと思っています。
シャマラン監督の過去作を観ておいた方がいいよ。だけではプッシュが弱いんですよね。


次に、ジェームズ・マンゴールド監督作「アイデンティティー」。

アイデンティティー [Blu-ray]

アイデンティティー [Blu-ray]

この作品のすごいところは、ネタバレ禁止の部類に入る作品であるにも関わらず、作中であっさりとネタバレを掲示してしまう。
そこに観客が納得出来ること。
そしてネタバレを知っても楽しめること。
何度観ても面白い点にあると思うんです。


本作「カメラを止めるな!」に関しても
ネタバレされても観客は納得して楽しめるのか?と。
ネタバレされてから観ても面白いのか?と。


恐らく、自分はもう一度観に行っても楽しめると思います。
それは自分がこの作品にハマれたからというのが大きい。

一度も鑑賞されていない観客が、もしネタバレを見て、それでも尚この作品を楽しめるのかどうかという点に非常に興味があります。
あくまでも一般的な視点で。


もちろん、何も知らない状態の方が受ける衝撃は大きい。
かく言う自分も、ネタバレは出来る限り見たくありません(笑)
前情報も予備知識もあまり入れずにフラットな状態で作品に臨みたい。

しかし、ネタバレされたから面白くなくなるような作品はそもそも面白い作品なのか?とも思う。


まだ観てない方に言いますが、「カメラを止めるな!」は正直、予告編でネタバレしてます(笑)

どちらがいいのかなんて言えませんが、公式が掲示した内容を踏まえた上で鑑賞しなければ、観客側が勝手に期待して、思っていたのと違うと肩透かしを食らってハマれなかった。なんてことも有り得るということが言いたい。

そもそもの話、ネタバレの境界線は各々違うってのもあるんですけど。



キャッチコピー
『最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。』



もしかすると、ネタを知った二回目の鑑賞で何かが始まるのかもしれない(笑)



終わりに

と、色々と簡単に書きましたが、まだご鑑賞されていない方は出来るだけ劇場で観てほしいです。
勿論、自宅鑑賞を否定するわけではありませんが、この手の映画は観客一体となって観る臨場感もキモのひとつだと思います。

作品の善し悪しを左右するものと簡単には言えませんが、どうせ観るなら劇場で!くらいの気持ちで行ってみましょう。
少なくとも自分はこの作品に1800円を支払う価値はあると思います!

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。


Keep Rolling (映画『カメラを止めるな!』主題歌) [feat. 山本真由美]

Keep Rolling (映画『カメラを止めるな!』主題歌) [feat. 山本真由美]

  • 謙遜ラヴァーズ
  • サウンドトラック
  • ¥150




(C)ENBUゼミナール

この映画を観たらもう戻れない変態映画25選!

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。

今回はですね、Twitterのフォロワーさんでありブロガーのナガさんがお書きになられた記事

より、自分の変態映画も記事にしてみては?とのご意見をいただいたので、早速やってみることにしました(笑)


所謂「変態映画」をナガさん同様に25作品ご紹介させていただこうと思っていますが、ナガさんのエログロ?ではなく、自分はあくまでも常軌を逸した変態要素を重要視して選出しました。

ナガさん曰く
「もう変態ではなかったあの頃には戻れない」
との事なので、今回ご紹介する映画を見ないように気をつけてください!(こちらでもフリ)

そして25作品全て見ているよと言う方がいらっしゃいましたら、健全だったあの頃にもう戻れないないという事実を噛みしめて、ナガさんと僕と一緒に泣きましょう。

ナガさんも僕ももうあの頃には戻れません(笑)


(C)あんど慶周集英社・2016「HK2」製作委員会



ということで、真面目な記事ではありません。
レビューもふざけてますが、興味ある方は最後までお付き合いお願いします。



変態入門編

先ずは変態入門編!
変態味は薄ーい犯罪者たちの映画。
これくらいじゃ変態とは胸を張って言えませんね!


・セブン:ビギンズ 〜彩られた猟奇〜

ウィレム・デフォー セブン:ビギンズ~彩られた猟奇~ [DVD]

ウィレム・デフォー セブン:ビギンズ~彩られた猟奇~ [DVD]

アナモルフォーズとは、歪像画とも言われる所謂隠し絵や騙し絵のことです。
見る角度や距離、遠近法を利用して描かれたもので、ある視点から見ると隠れていたものが現れてくるという仕組み。
ある視点から見てるだけではその物事の全容はわからないって教えみたいですね。

主人公とアンクル・エディ猟奇殺人事件を絡めたストーリー展開。
一番の見せ場が犯人の殺害現場の装飾。
壁に投影される臓器を抜かれ逆さ吊りにされた死体。
バラバラに切り刻まれた人体ジグソーパズル。
一見、無意味に見える殺害現場もある視点から見れば一つの作品となる。
芸術性の高い殺害方法は実に変態的な美しさ。


・チェイサー

デリヘル運営の元刑事の店で女の子が立て続けに失踪。その頃、街では連続猟奇殺人事件が頻発していた。
デリヘル運営元刑事と殺人でしか性的興奮を覚えないEDな犯人との追いかけっこクライムサスペンス。

EDな犯人が女性を突くのはアソコではなく頭蓋骨、チンコではなくノミ。
何といっても救われない結末に胸が痛くなる。
こうピンと張ったピアノ線が切れて一気に弛む様のように、気持ちが沈んでいく。本当に後味が悪い。
実話を基に作られたようですが、実に生々しい。


ザ・セル

最先端技術で連続殺人鬼の精神世界へ潜入。
漂白した被害者女性の屍を見ながらの吊り下げ自慰は変態領域で、そんな彼のインナースペースは残酷と稚拙な快楽が入り乱れる。
正直、物語としては薄味だが、この圧倒的映像美と役者の存在感に目が離せない。

力の入った独創的な映像と主演のジェニファー・ロペスのコスプレ七変化、殺人鬼役ヴィンセント・ドノフリオの狂気。
変態殺人鬼の脳内はどうなっているのか?が最大の魅力であり、サスペンス色よりもSF色の強い作品です。


・インビジブル

もし透明人間になれたら?
恐らく男性なら間違いなく女子風呂を覗くという回答が得られるだろう。
そう、そんな世の男性の欲望を現実にしたらこうなりました映画がこれ。

ケヴィン・ベーコンの演技とおっぱいは勿論のこと、何より評価される点は透明人間という目に見えない描写を可視化したことである。
何度観ても色褪せない透明人間の細かな描写と男の欲望を叶えてくれた愛すべき変態映画。


・マニアック

マネキン修復師が女性の頭皮を剥がしてマネキンに被せるというタイトル通り、マニアックすぎる性癖を持つイライジャ主演の猟奇殺人ホラー。

あえてリメイク作品をご紹介しますが、イライジャのLOTRのイメージを払拭するほどの変態味を味わって欲しい。
ただそれだけだ。
POV視点だがグロにボカしが入っててそこは残念でしたが、観て損はしない変態ホラー映画。


・ELLE(エル)

エル ELLE [Blu-ray]

エル ELLE [Blu-ray]

流石は変態ヴァーホーヴェン監督、一筋縄ではいかない。
衝撃的な始まり方から単なるサスペンスに留まらない変態映画。
女性がエロくもあり美しくもあり、男性を手のひらで泳がすように主導権を握る強かさや怖さと徐々に浮き彫りになってくる人間に潜む変態的な本質。
この作品に漂う妖艶な雰囲気と性が齎す耽美なサスペンスが絶妙なバランス。
そして、欲に囚われた人間の怖さや愚かさ、醜さがより人間らしい生々しさを含ませる。

誰しも性や暴力を幾度か妄想したことはあるはず。
ヴァーホーヴェンが変態と言われるくらい凄いところはそんな型にハマらない非日常的な性と暴力を頭の中で描いていて、その空想を現実で起こる事象のように創作出来るところだと思う。



変態中級編

さあ、ここからはエログロに突入だ!
この作品もすべて観てるよって方は普通の映画じゃ満足出来なくなってるんじゃないですか?(笑)


・RAW 少女のめざめ

食欲と性欲は非常に関係性が強いもの。
満腹状態、つまり食欲が満たされた状態では性欲が薄れるらしいです。
人食に目覚めていくと同時に性にも目覚めていく、その一方で異常だと思える人食が自然なことである思春期の悩みと同等に、さも当たり前の悩みのように描かれる。
この自然さと異常さのバランスというか、食欲と性欲の関係性の描き方が素晴らしい。

「RAW」とは「生の」、「皮のむけた」、「未熟な」、「下品な」
という意味があります。いやらしい。


イグジステンズ

イグジステンズ [DVD]

イグジステンズ [DVD]

夢とも現実とも区別がつかないヴァーチャル・リアリティの世界。
果たして今見ているのは夢なのか現実なのか?
ある種のゲームに没入するような、或いは映画の世界に浸るような幻想世界にイク。
グロ汚いヘンテコSFファンタジー

クローネンバーグ監督作は基本的に本人もよくわかってない作品が多いですが、今作は「ヴィデオドローム」の性的モチーフをわかり易く、テーマそのものを明確にした作品。
つまりは変態映画です(笑)


アンチクライスト

暴力シーンと性描写が凄いというか、日本公開ではボカシありで誤魔化されてますがウィレム・デフォーのウィレムJr.がデフォデフォしてます。

監督は救われない結末を作らせたら右に出る者がいないと思う『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のあのお方(笑)
森で出てくる烏、鹿、狐もそれぞれ生殖に関する暗喩を含んでいる。
タイトルに♀が入っている通り女性の目線で描かれる鬱な内容と壊れていく姿。
女の性とそこに潜むエゴを描いた愛憎を絡めた狂気的な変態映画。


・ベイビー・ブラッド

ベイビー・ブラッド [DVD]

ベイビー・ブラッド [DVD]

フレンチホラーの原点。
端的に言って怖いとかではなくて、ぽんぽん痛くなる映画。
女性の方は特に注意が必要なんですが、ぽんぽんが痛い。
フレンチ・マタニティー・スプラッター

触手系のムチムチおっぱいと言えば誤解が生じますが色々とシュールな映像が楽しめます。
終始、おっぱいとスキッ歯が気になって仕方なかった映画ですね(笑)


・屋敷女

屋敷女 [DVD]

屋敷女 [DVD]

ベイビー・ブラッドと合わせて観るといいかも。
グロとかゴアは勿論なんですが、出産間近の妊婦ってことでお腹の赤ちゃんが心配で終始落ち着かない。
途中で弛れることもないから、いい意味で精神力使います。
まあ想像してた通りの結末なんで、案外普通でしたが、自分を追い込みたいドMな妊婦さんにオススメ(やめろ)

これもぽんぽん痛くなる映画です。
マトモな人は観ない方が良いです(笑)


マーターズ

一級品の胸糞映画。
見るのも嫌になるようなグロ、ゴア描写の拷問の連続と救われない不条理な展開は観る人を選ぶ。
ただ、この作品が評価される理由は残虐描写だけに頼ることなく、しっかりとしたストーリーがあるということだ。

ここまで残虐行為をする理由は何なのか?
その答えは【死後の世界を見たい】から。
人の欲望というものは底がない。
一線を越えたその欲望の恐ろしさたるや。
そして、この残虐行為は変態野郎の金持ちたちの単なる娯楽に過ぎないという事実がまた恐ろしい。
そこにまた別の嫌悪感が生まれる。


・ビヨンド・ザ・ダークネス/嗜肉の愛

原因不明の病で恋人を失ったフランクは彼女を剥製にする。
剥製にするために内臓や目玉を取り出すシーン、首を噛みちぎったりカニバリズム的な過激なゴア描写のある変態映画。

常軌を逸した彼女への愛情は変態の鑑。
と思いきや、他の女と授乳プレイしたり剥製に他の女とのセクロスを見せるなど変態味が溢れます。



変態上級編

さあ、エログロを超えた先には何があるのかな?
そう!下ネタとうんち映画だ!


・キラーコンドーム

キラーコンドーム [DVD]

キラーコンドーム [DVD]

32㌢の巨根を持つ(もうこれだけで変態的)、ゲイの刑事はコンドームがナニを食うという奇妙な事件の調査の為に現場へ向かうが、コトに及んだ際に片方の睾丸を食いちぎられてしまう。

一見おバカな設定とおバカな内容なんですが、この作品には子作り目的以外での不純異性行為はダメだというメッセージが込められているんですよ!
中学校で観せるべき映画(やめろ)


・吐きだめの悪魔

酒飲んだら溶けちゃうよーなグロ汚いホラー映画。
今まで観てきた映画の中でも特に汚い方(笑)
映像から臭さが漂ってくる感じ、分かりますかね?
蓋を開けてみればど下ネタのオンパレード。
めちゃくちゃくだらないのに笑っちゃう。
見どころは宙を舞う切り取られたチンコと切り取られたチンコでフットボールです。

なんと、めでたくBD化されたんですよね。
「おなかいっぱい吐きそうエディション」欲しい!


クリーチャーズ 異次元からの侵略者

監督は撮影中にお薬でも決めちゃってるのかな?ってくらい散らかったくだらなさ。
グロと笑いのコラボレーションなんですが、端的に言いましょう、これはドアノブがチンコになる映画です。

ソイソースというお薬で見えないものが見えるようになる、シュールでカオスな世界は癖になる。
大真面目にふざけ切った変態珍SF映画


ゾンビアス

ゾンビアス [Blu-ray]

ゾンビアス [Blu-ray]

井口昇監督のゾンビ映画
オナラで空を飛ぶ女性とウンチまみれのゾンビ、ウンデッドに初めは84分、何を観させられたんだろうという気持ちになる。
そしてなんだか分からないけど、フルチの「サンゲリア」が観たくなった、そんな汚い映画(わからん)

この映画から学んだことは、「オナラはエンジン」です。


ジャッカス3D

ジャッカス3 [Blu-ray]

ジャッカス3 [Blu-ray]

頭空っぽにして観ようよ、おバカ映画。
この映画を観てる時のIQは恐らく20くらいだろう(笑)
ネタの内容はチンコかゲロかウンコなんだけど、超お下品なのに何故か飽きない。
耐性がある方だけ観てください、ご飯食べられなくなっても責任は取りません。

爆笑出来たなら、もらいゲロともらい脱糞出来ること間違いなし!


ピンク・フラミンゴ

ピンク・フラミンゴ ノーカット特別版 [DVD]

ピンク・フラミンゴ ノーカット特別版 [DVD]

恐らくうんち映画としては最も有名な作品ではないでしょうか?
そうです、犬の糞を食べるシーンです。
はい、これ、マジで犬の出したてほやほやのうんちを食べてるんですよ。
このシーンを観るだけでも価値がある!

汚くてお下品な映画だけど、アーティスティックで最高のお下劣カルト映画だと思うんですよね。


ムカデ人間

ムカデ人間 [DVD]

ムカデ人間 [DVD]

言わずもがなですね。
このブログでもあることについて考察しましたが、人の口と肛門を繋ぎ、ひとつの生命体としてムカデ人間を作りたい。
つまりは「つ・な・げ・て・み・た・い」という好奇心、発想自体が変態すぎる。

ムカデ人間はうんちは食べてはいけません!という教育映画です。


ムカデ人間

ムカデ人間2 [DVD]

ムカデ人間2 [DVD]

ムカデ人間3は正直観ても観なくてもどちらでもいいです。
先程ご紹介させていただいた1作目とこの2作目は合わせて観てもらいたい。
ムカデ人間に影響を受けた人間が如何にして変態的素養を得たのか?

ムカデ人間を愛しすぎた変態野郎のムカデ人間ひとりでできるもん!は危険だ。
ムカデ人間は手術が必要だよ、という教育テレビのようなメッセージを残す。


・ソドムの市

ご飯が喉を通らないほどのファシズムの糾弾、人間批判映画。
自尊心、承認欲求、そんなもののために他者を蔑むならソドムの市へ送られろ。
描かれる愚行の数々は、芸術的狂気。
炙り出される悪趣味な映像は、変態的蹂躙。

スカ〇ロジスト以外は観ていていい気分にはならないだろう。



ド変態編

最後に、一切の感情移入もできない、観た後に何も残らなかった虚無感。
自分が評価できない作品を生み出した監督の変態性を存分に見せられたド変態編です。


セルビアン・フィルム

セルビアン・フィルム 完全版 [Blu-ray]

セルビアン・フィルム 完全版 [Blu-ray]

スルジャン・スパイソイェヴィッチ監督作。
名前がもう変態的でしょ、するじゃんって(謝れ)
自分は結構耐性ある方だから何でも観れるわ、と自信過剰に思ってたんですが、こればかりは二度と観たくないと思った。
内容は口に出来ないほど非人道的な映画撮影に巻き込まれる元ポルノ男優の話。
倫理の裏側に潜む嗜好を寄せ集めたような映画。

作品自体は評価すべきものなんでしょうが…すみません、自分の許容範囲を超えたので評価できませんでした。


・ネクロマンティック

ユルグ・ブットゲライト監督作。
彼は人の死を描くことが大好きな変態監督。
今作は死体愛好家が死体を交えて3Pをしちゃったよ的なド変態っぷり。
ぶっ飛げー(ブットゲライトだけに)な死姦、屍姦の悪趣味映画。

大きく人道を逸れた偏愛は正にド変態と呼べるのではないだろうか?


・死の王

死の王 [Blu-ray]

死の王 [Blu-ray]

こちらも同じく、ユルグ・ブットゲライト監督作。
月曜から日曜までの一週間、7つの死をオムニバス形式で撮す。
自殺を特別な出来事ではなく、日常の中に捉えた繊細且つ挑発的で憐憫さえ感じさせる鬱映画。

途中に挿入される腐りゆく死体はリアルで、こんな作品を作る監督はド変態としか思えない。



終わりに

ということで、25作品を挙げさせていただきましたが、ここでご紹介しきれなかった変態映画もまだまだあります。
自分の観ていない変態映画もたくさんあるので、もう後戻りはしません。
前に進むだけです!

あ、くれぐれも変態上級編とド変態編の映画を軽い気持ちで観てはいけませんよ?(笑)
おふざけの軽ーいレビューしか書いてませんが、なかなかのグロさがあります、ご飯食べられないとか言われても責任は取れません。

真面目な記事ではなくて申し訳ないですが、最後までお読みくださった方、ありがとうございました!


自然は見える精神であり、精神は見えない自然である(「Vision-ビジョン-」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は「Vision-ビジョン-」について語っています。

まず初めにTwitterの感想から。





作品概要


製作年:2018年
製作国:日本・フランス合作
配給:LDH PICTURES
上映時間:110分
映倫区分:PG12


・解説

河瀬直美監督が永瀬正敏とフランスの名女優ジュリエット・ビノシュを主演に迎え、生まれ故郷である奈良県でオールロケを敢行したヒューマンドラマ。フランスの女性エッセイストで、世界中をめぐり紀行文を執筆しているジャンヌは、あるリサーチのために奈良の吉野を訪れ、山間に暮らす山守の男・智と出会う。智は、山で自然とともに暮らす老女アキからジャンヌとの出会いを予言されていたが、その言葉通りに出会った2人は、文化や言葉の壁を超えて次第に心を通わせ、さらに山に生きる者たちとの運命が予期せぬ形で交錯していく。ジャンヌ役をビノシュ、山守の男・智役を永瀬が演じるほか、岩田剛典、美波、森山未來田中泯夏木マリらが出演。
Vision : 作品情報 - 映画.comより引用


・予告編





仏教的観点からのVision

先ずは本作「Vision」を仏教的観点から見ていきます。
本作「Vision」は自然と大きな関わりがあります。

主演女優ジュリエット・ビノシュはこうも語っています。

「自然と人間は、切り離せないもの。自然に戻るということは過去に回帰することではなく、自分の基になっているものを再確認することなの。日本の方は、そういった理念を大切にしている。自然を失って文明だけで生きてしまうと、人は人生に迷ってしまったり、自殺する人までも出てきてしまう。ちゃんと自分のルーツを持ちながら、新しいことに向かっていくのが大事だと思うわ」
ジュリエット・ビノシュ、「Vision」河瀬直美監督の現場で最も感銘を受けたのは? : 映画ニュース - 映画.comより引用



諸行無常

日本国における仏教の教えに諸行無常という言葉があります。
諸行無常とは、仏教のテーゼのひとつ。
「この世のあらゆるものはすべて移ろい行く」
「形あるものは必ず壊れる」というようにあらゆるものは生じそして滅するという理。

自然とは命あるもの。
命あるものは儚くいずれは必ず消えてしまう。
そして、命あるものは生まれ変わる。輪廻転生へと繋がります。

"山川草木悉皆成仏"という仏教の思想、みな平等で生けとし生きるものが寄り沿い合う"法華経"の世界観、"八百万の神"といわれるような日本の神々の思想が融合され、日本の仏教が形成されています。


本作でも命あるものは儚くいずれは必ず消えてしまう。という死が描かれていましたね。

ひとつはアキ。
もうひとつは犬のコウ。

共にトンネルを潜る演出から、生から死を表しているのは間違いないでしょう。

死を迎えて自然に帰る。
アキは智に「17歳に戻ったら…」と輪廻転生を匂わす台詞も語っています。



諸法無我

諸法無我とは、全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないという意味の仏教用語


これは本作「Vision」における幻の薬草"ビジョン"を指します。

ビジョンによって引き寄せられた彼女らが、再びこの森で出会う。
言い換えれば、この出会いは必然であり、縁によって生じた実体のないもの"ビジョン"。

自然とは実体があるものでもありますが、同時に感じるものでもあると思うんです。
風で靡く木々の葉音、雲の切れ間から差し込む陽の光、土の匂いや川のせせらぎ。


目に見えるものだけが全てではなく、目に見えないところにこの映画の本質があるのかもしれません。

この作品自体が何処か掴みどころのない、実体がないもののようで、そんな作品を観ることとなったのもまた、何かの縁なのかもしれませんね。
と言っておきます(笑)



涅槃寂静

涅槃寂静とは、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す仏教用語

幻の薬草"ビジョン"を巡り、辿り着いたのは
火がVisionを生み出し、痛みを消し去る。

この炎に包まれ、沈静していく様は正に涅槃寂静


炎の中に見た岳の姿。
岳と森で出会い、鈴という子を授かったジャンヌにとって、岳を失ったことは心の痛み、つまり煩悩だったのではないでしょうか?

そして、鈴にとっても親の顔も知らずに育った。
この森に導かれてジャンヌが自分の母親だと認識出来た。
過去の苦しみ(煩悩)からの解放を意味しています。




諸行無常諸法無我涅槃寂静
この3つを三法印といい、仏教において三つの根本的な理念を示します。

仏教的観点から見ても本作「Vision」はこの三法印でひとつのストーリーとなっている事が分かりますね。



哲学的観点からのVision

次に、哲学的観点から見ていきます。
先程も記載したように、本作「Vision」は自然と大きく関わりがあります。

日本語の"自然"という言葉は、明治時代に古代ギリシア語の"ピュシス"、ラテン語では"natura"を語源とするヨーロッパ言語の言葉を翻訳する際に、もともと日本で用いられていた"自然"という言葉をあてがった翻訳語です。

したがって現代の日本語でいう"自然"には
翻訳語として用いられる以前に持っていた意味と
ヨーロッパ言語の言葉の意味

の2種類が存在します。

"自ずとなる"という意味での"自然"と
"物質的存在"という意味での"自然"。

"自然"と"nature"の共通する意味は"人工"との対義語だ。

古代ギリシアにおいても
「自然は隠れることを好む」(ヘラクレイトス)
「各々の事物のうちに、それ自体として、それの運動の始まりを内在させているところのその当の事物の実体のことである」(アリストテレス)
とされ、自然とは固有の在り方、内在的な原理のことを意味する。


では、日本にもともとあった"自然"と"nature"との相違とは何か?

"nature"は物質的存在を意味している場合が多く、人間の精神や意識と反意する意味である。
日本語における"自然"には、このような意味はもともとありません。


仏教的観点では記載しませんでしたが、『沈黙-サイレンス-』での宣教師フェレイラの言葉
「自然の内でしか信仰を見い出せない」

まさにこれです。
日本では精神や意識として扱うことが多いのです。


本作「Vision」でも"自然"は精神的な意味合いが大きいように思います。

自然と哲学は密接な関係があります。
特にドイツ観念論における自然哲学で代表されるなシェリングの言葉を借りましょう。


フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775年1月27日 - 1854年8月20日)は、ドイツの哲学者である。カント、フィヒテヘーゲルなどとともにドイツ観念論を代表する哲学者のひとり。
フリードリヒ・シェリング - Wikipediaより引用


「自然は見える精神であり、精神は見えない自然であるはずだ」




これを元に結論に入っていきます。






これがすべてです(笑)


前置きに対しての結論の短さ。
言いたいことの全てがこれです。


見て、聞いて、触れて、感じる。

自然は見える精神であり、精神は見えない自然である。
これ以上この作品について語る的確な言葉がないと思います。



余談

他にも幾つか伏線がありましたね。
素数ゼミです。

周期ゼミとは
毎世代正確に17年または13年で成虫になり大量発生するセミである。その間の年にはその地方では全く発生しない。ほぼ毎年どこかでは発生しているものの、全米のどこでも周期ゼミが発生しない年もある。周期年数が素数であることから素数ゼミともいう。
17年周期の17年ゼミが3種、13年周期の13年ゼミが4種いる。なお、17年ゼミと13年ゼミが共に生息する地方はほとんどない。
周期ゼミ - Wikipediaより引用

本作における幻の薬草"ビジョン"の周期も997年で素数という設定でした。
三桁の素数の中で最も大きい数ですね。

と、特に掘り下げることもありませんでした。
恐らく1000年という区切りとして最も近い素数を選ばれたのかな?

この辺りの詰めが甘い(笑)



次に、涙についてですが
ジャンヌ、鈴など涙を流すシーンが幾つかあるのですが、必ず右目からのみ涙を流していたのにお気づきになられましたでしょうか?

哲学的観点で、見る、聞く、触る、感じる。それがすべてだと語りました。

裏を返せばどれかひとつでは足りないんです。
人は見ることですべてを分かったかのように思い込む。
この作品は台詞が極端に少なく、そして言葉を交わすというコミュニケーション能力がかえって疎通の壁となるわけです。
そこでより一層、数少ない会話、表情、仕草、アイコンタクトが強調されるわけです。

見て、聞いて、触れて、感じる。
そのひとつが涙です。


「右目から流れる涙は嬉し涙だよ」

などというスピリチュアル的なことをいう訳ではありませんが、スピリチュアルな作品である本作の演出としては可能性は高いです(笑)


そもそも、涙を流すための神経(涙腺神経)は左右別にあり、鼻の奥にある翼口蓋神経節からの副交感性節前線維を涙腺神経に知覚が運ばれることで涙が出るんです。

翼口蓋神経節、または蝶形口蓋神経節、メッケル神経節)は、翼口蓋窩にある副交感神経の神経節である。
翼口蓋神経節は副交感神経の神経節の中で最も大きなもので、顔面神経からの副交感神経を受けている。翼口蓋窩の中で上顎神経に接して存在し、三角形ないしハート形をしている。 翼口蓋神経節は口・鼻・眼のどれに対しても近い位置にあり、涙腺、副鼻腔、歯肉、咽頭、口蓋などの腺分泌にかかわっている。
翼口蓋神経節 - Wikipediaより引用

つまり、右目からだけ涙を流そうと思えば流せるんですね。



終わりに

河瀬直美監督作は合う合わないがあると思います。
特に本作「Vision」においても、難解というよりも抽象的で物語の全容を把握出来ず、脚本も緩いところが難点だ。

一方で、視覚的な美しさ、自然美と演出の芸術性は評価しますが、論理的に見た時との齟齬が大きく、ノれなければかなりしんどい作品となってますね。

語りすぎない内容は、様々な考察、視点が生まれるものとも思います。
ご鑑賞された方はどんな視点でどのように感じたのか、お聞きしたいものです。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました!




(C)2018「VisionLDH JAPAN, SLOT MACHINE, KUMIE INC.

1日1本オススメ映画(2018/01/01~2018/05/31)

初めに

こんにちは、レクと申します。

昔からTwitterで度々お世話になっております
「1日1本オススメ映画」
というタグで紹介させていただいた映画を今年の頭から半年分ではありますが纏めました。
数が多ければ四半期や月毎となる場合も御座います。

いつものように記事らしい記事では御座いませんが、観る映画の参考程度になれば幸いです。



1日1本オススメ映画

・ボルベール<帰郷>




フェノミナ



最高の人生の見つけ方



トゥルーマン・ショー



・サヨナラの代わりに



・ワンチャンス



言の葉の庭



スペース カウボーイ



・ルーム



・エイミー



サスペリア



インフェルノ



・ウィッチ



ジョゼと虎と魚たち



三度目の殺人



グラン・トリノ


終わりに

今後もこのような形ではありますが、纏めて保管させていただこうと思っております。

よろしくお願い致します。


優しさと勇気は人の心を動かす(「ワンダー 君は太陽」ネタバレなし感想)


目次




初めに

こんばんは、レクと申します。

実はですね、先日初めて試写会とやらに応募したんですよ。
ほんの出来心というか、当たったらいいなあくらいの軽い気持ちで。

そしたらですねー「ワンダー 君は太陽」が当たってたんですよ。

Twitterにも呟かず、秘密裏に動いてました(笑)
なので、本日初の試写会に参加してきました。
事後報告となります(笑)


ワンダー 君は太陽」について語っていきます。
この記事はネタバレはございません。
映画.com及び予告編動画から読み取れる情報のみです。
最後までお目通しいただけると幸いです。



作品概要


原題:Wonder
製作年:2017年
製作国:アメリカ
配給:キノフィルムズ
上映時間:113分
映倫区分:G


・解説

全世界で800万部以上を売り上げたR・J・パラシオのベストセラー小説「ワンダー」を、「ウォールフラワー」のスティーブン・チョボウスキー監督・脚本で映画化したヒューマンドラマ。ごく普通の10歳の少年オギーは、生まれつきの障がいにより、人とは違う顔をもっていた。幼い頃からずっと母イザベルと自宅学習をしてきた彼は、小学5年生になって初めて学校へ通うことに。はじめのうちは同級生たちからじろじろ眺められたり避けられたりするオギーだったが、オギーの行動によって同級生たちは少しずつ変わっていく。「ルーム」で世界中から注目を集めた子役ジェイコブ・トレンブレイがオギー役を務め、「エリン・ブロコビッチ」のジュリア・ロバーツが母イザベル役、「ミッドナイト・イン・パリ」のオーウェン・ウィルソンが父ネート役をそれぞれ演じる。
ワンダー 君は太陽 : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編






お涙頂戴映画なのか?

さて、ここで気になるのが
果たして本作はお涙頂戴映画なのか?ということ。

何を隠そう私、お涙頂戴映画、所謂「全米が泣いた」的な映画やラブロマンスが少々苦手でして。
何故かと聞かれると、理由があるんですよ。

視覚的描写を全面に感じてしまい、感情移入しにくいから。


ご存知の方も居られるかと思いますが、自分の好みは心理描写のしっかりと描かれた映画なんですよね。
では、お涙頂戴映画にその心理描写はないのか?と言われると、あると答えます。
ただ、先程記述させてもらった通り、自分はその視覚的描写が邪魔をして心理描写を感じにくい。
シラケるとまでは言いませんが、そんな感じです。
察してください、悪口になっちゃいます(笑)


えー、端的に言います。

本作はお涙頂戴映画のような作品ではありません。

これは声を大にして言いたい。
非常に巧みな演出と脚本で、視覚的にではなく心理描写を描くことで観客に感動を与えてくれました。
その点については後述しています。




演技が素晴らしい

・オギー(ジェイコブ・トレンブレイ)

・イザベル(ジュリア・ロバーツ)

・ネート(オーウェン・ウィルソン)

・ヴィア(イザベラ・ビドビッチ)

・デイジー



オギーの先天性の障がいは恐らく頭蓋顔面異骨症と思われます。

『疾病及び関連保健問題の国際統計分類』第10版(ICD-10)の「第17章:先天奇形、変形および染色体異常」
ICD-10 第17章:先天奇形、変形および染色体異常 - Wikipediaより引用

疾病及び関連保健問題の国際統計分類(しっぺいおよびかんれんほけんもんだいのこくさいとうけいぶんるい、英:International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)、略称:国際疾病分類(英:International Classification of Diseases、ICD)とは、死因や疾病の国際的な統計基準として、世界保健機関 (WHO) によって公表されている分類である。死因や疾病の統計などに関する情報の国際的な比較や、医療機関における診療記録の管理などに活用されている。
疾病及び関連保健問題の国際統計分類 - Wikipediaより引用




生まれて27回の手術。


見た目のせいで、いじめられてしまいます。


ポスターは家族に付き添われながら、オギーが初登校するシーンが使用されていますね。
このシーンだけでも家族の暖かみを感じます。



オギーを演じるのは「ルーム」の演技で天才子役と称されたジェイコブ・トレンブレイ。

ルーム スペシャル・プライス [Blu-ray]

ルーム スペシャル・プライス [Blu-ray]


「ルーム」での天才っぷりは健在。
本作でも特殊メイクを施し、特別な顔の少年を物の見事に演じきっています。

時には感情を露わにするが、その細かい所作や含みますはにかむような笑顔、しぐさに可愛さを隠せません。
抱きしめたくなる可愛さです。
彼の演技が本当に素晴らしい。

その他のオギーの家族、クラスメイト、どの役者陣の演技も素晴らしく、賞賛を送りたい。



総評

なんて良い映画なんだ。
こんな素敵な映画に出会えて良かった。

観終わった後に自分が抱いた率直な感想だ。



オギーの成長が微笑ましい。
そして感動的で泣けるのに自然と笑顔になれる。
作品全体から伝わる優しさに包み込まれた。


また、秀逸な演出と脚本も、この作品が素晴らしいと感じた大きな要素の一つです。

あー昔こんなこともあったなあ…なんて、いつの間にか登場人物の誰かしらに自己投影してしまっている自分に気づく。

そうなんです。
ごく自然に感情移入させられていたんですよ!

登場人物の様々な視点から描かれる展開は観ている者の心をぐっと掴んで離さない。
人の優しさと可能性、魅力が詰まった映画だ。



みんなとは違う。
それを受け入れるのは難しいけれど、自分を信じれば、きっと人は心を開いてくれる。

"普通じゃない"とは"特別"。
"特別"とは"個性"なんです。


人を知るためにやることは一つ。
よく見ること。
そして、相手を知ることで自分を見つめ直すことができる。

偏見や差別という普遍的な問題。
人はどうしても自分と違うものを恐れ避けようとする。
いじめ、排他的思考は後に己が淘汰される可能性があるのではないか。

難しく考えなくとも、答えはもっと単純なものなのかもしれない。
それが、オギーへの家族愛、オギーとジャックの友情に現れていたように思う。



戸惑い、驚き、奇跡

ワンダー 君は太陽
オギーの笑顔は太陽のように輝いてました。



終わりに

優しさに包まれる魅力的な演出の中で、家族愛や友情を描きつつ、各々の気持ちが一つに収束していく。
その要所要所で笑い、泣かせ、感動させてくれる。
オギーが愛おしく、そしてこの作品自体も愛おしくなった。

どうやら自分は"大好きな映画"のひとつに出会ってしまったようです(笑)



試写会には参加しましたが、もう一度お金を払って観に行きたい!

2018/06/15 公開。
是非、劇場へ足を運んでください。
胸を張ってオススメします。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。

ワンダー Wonder

ワンダー Wonder



(C)2017 Lions Gate Films Inc. and Participant Media, LLC and Walden Media, LLC. All Rights Reserved.

文学的視点から描かれた傑作(「モリーズ・ゲーム」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
久しぶりの更新になり申し訳ございません。
今回は「モリーズ・ゲーム」について語っています。

ネタバレ含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Molly's Game
製作年:2017年
製作国:アメリカ
配給:キノフィルムズ
上映時間:140分
映倫区分:PG12


あらすじ

女神の見えざる手」「ゼロ・ダーク・サーティ」のジェシカ・チャステインが主演を務め、トップアスリートからポーカールームの経営者へと転身した実在の女性モリー・ブルームの栄光と転落を描いたドラマ。「ソーシャル・ネットワーク」でアカデミー脚色賞を受賞した名脚本家アーロン・ソーキンが、2014年に刊行されたブルームの回想録をもとに脚色し、初メガホンをとった。モーグルの選手として五輪出場も有望視されていたモリーは試合中の怪我でアスリートの道を断念する。ロースクールへ進学することを考えていた彼女は、その前に1年間の休暇をとろうとロサンゼルスにやってくるが、ウェイトレスのバイトで知り合った人々のつながりから、ハリウッドスターや大企業の経営者が法外な掛け金でポーカーに興じるアンダーグラウンドなポーカーゲームの運営アシスタントをすることになる。その才覚で26歳にして自分のゲームルームを開設するモリーだったが、10年後、FBIに逮捕されてしまう。モリーを担当する弁護士は、打ち合わせを重ねるうちに彼女の意外な素顔を知る。モリーの弁護士役をイドリス・エルバ、父親役をケビン・コスナーがそれぞれ演じる。
モリーズ・ゲーム : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編




本作の魅力

まずはツイッターの感想から。



本作「モリーズ・ゲーム」はモリー・D・ブルームによる自叙伝。
モリーが合法カジノで成り上がった半生、そしてモリー逮捕後の法廷劇。
そこに至るまでの経緯(過去)と弁護士との人間ドラマ(現在)が描かれています。



本作は主演ジェシカ・チャステインの魅力が最大限に詰まったもの。

彼女の魅力が詰まった映画「女神の見えざる手」。
本作と同様に強い女性像を描いた作品です。



女神の見えざる手」と本作「モリーズ・ゲーム」との決定的な違いはジェシカ・チャステインの冒頭からの語り部です。
そのマシンガントークは思わず聞き入ってしまうほど。

本作は脚本家アーロン・ソーキンの初監督作ということで、台詞量が膨大です。
早口な語り部や会話、スキー、ポーカー、法律などの専門用語など翻訳泣かせw

ここについて行くために頭をリセットして挑んでいただきたい。


また、モリーズ・ゲームで実名は明かされていませんが、彼女主催の超高額ポーカールームにはレオナルド・ディカプリオベン・アフレックトビー・マグワイアら有名スターや映画監督、一流スポーツ選手やミュージシャンも顧客リストに並んでいたとのこと。

モリーの半生、錚々たる面子を虜にしたギャンブル運営、これが作り話でないことが凄い。



上映時間は140分です。
しかし、圧倒的な台詞量とテンポの良さから全く長く感じることもなく終わりました。
ポーカーのルールくらいは分かっておいた方がいいかもしれませんが、メインはそこではないので問題ないです。


予告編を観る限りでは、モリーという一人の女性に焦点を当て、人生の成功と転落を描いたエンタメ性の強い作品のように見えました。
見る人によっては巨額の富を得るサクセスストーリーのように映ったかもしれません。

勿論、本筋はそのようなストーリーですが思っていた以上に人間ドラマが挿入されていました。



何度も言いますが、ジェシカ・チャステインの魅力が詰まった映画ではあります。

この映画はモリーの自叙伝にも関わらず、描写足らずでモリーのプライベートを想像しにくいという短所があります。
欲を言えばもう少し孤独感や虚無感から心理描写を描いて欲しかったというのが本音でもあります。

しかし、そこを補って余るその他の登場人物の存在。
脇を固める役者陣がモリーという人物に深みや厚みを与えてくれてるんですよね。



そして、これだけは言いたい。




ジェシカ・チャステインのドレスがエロい!!!



文学的視点から見る

作中にアーロン・ソーキンらしい文学的視点が登場します。
その辺について掘り下げていきます。


・「るつぼ」

作品でモリーを「るつぼ」だと比喩するシーンがありました。

『るつぼ』(原題:The Crucible)
アーサー・ミラーによる戯曲。セイラム魔女裁判と、それを通して当時問題になっていた赤狩りマッカーシズムに対しての批判を描く。1953年1月、ニューヨーク市マーテイン・ベックシアター(英語版)で初演。全4幕。
るつぼ (戯曲) - Wikipedia)り引用


「るつぼ」は映画化もされています。

クルーシブル [DVD]

クルーシブル [DVD]

『クルーシブル』(The Crucible)は、1996年制作のアメリカ映画。セイラム魔女裁判をモチーフにしたアーサー・ミラーの戯曲『るつぼ』の映画化作品。
クルーシブル - Wikipediaより引用


「るつぼ」では様々な批判やテーマが込められています。
・集団心理の異常性と恐怖
・権力者による弾圧
・冤罪の恐ろしさと裁判制度への警鐘
・人間の尊厳と倫理観


多くの人を陥れた彼女が罪を負うことになるのか?
私利私欲に基づく身勝手な行動だと断罪されるのか?

周りを売って生きるか、それとも自らの尊厳を主張するのか?
魔女と認める虚言を拒み、処刑台へと送られる姿を見事にモリーと重ねられています。



・「ユリシーズ

アーロン・ソーキンの遊び心というか、本作のモリー・ブルームと「ユリシーズ」に登場する妻の名前に着目して重ね合わされる。


初版(1922年)

ユリシーズ』(Ulysses)
アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの小説。当初アメリカの雑誌『リトル・レビュー』1918年3月号から1920年12月号にかけて一部が連載され、その後1922年2月2日にパリのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店から完全な形で出版された。20世紀前半のモダニズム文学におけるもっとも重要な作品の一つであり、プルーストの『失われた時を求めて』とともに20世紀を代表する小説とみなされている。

ユリシーズ - Wikipediaより引用



ユリシーズ」で描かれるオデュッセウス同様に、本作のモリーも事故からオリンピックの夢を絶たれるという地獄を見る。


ユリシーズ」で用いられた文体で最も特徴的なのが前後半での小気味よく転調する点だ。

前半では"意識の流れ"
心理学の概念で、人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである。とするもの。
本作も同様に、モリー自身の内的独白で描かれる。


後半では語りの視点が複数化、非個人化するとともに作者固有の文体というべきものが消失している。
本作も同様に、前半での語り手であるモリー視点から、モリーの父親と弁護士視点として描かれている。



モリーの行動原理は「るつぼ」を用いて倫理観を示す。
台詞回しとその語りは「ユリシーズ」で展開される。

アーロン・ソーキンの文学的視点には正直驚かされた。



終わりに

「成功とはひとつの失敗から、熱意を保ち続けてもうひとつの失敗に移れる才能に他ならない」

ラストでモリーウィンストン・チャーチルの言葉を引用して締めくくっています。
言葉を紡ぐことにおいて右に出る者はいない天才、ウィンストン・チャーチル

首相就任からの27日間を描いた映画「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男



その類希なる言葉の魔術を披露していました。

‪失敗から学び、それを繰り返さないこと。‬
‪至極単純ながら難しい。‬
‪しかし、それが成功への最短ルート。なのかもしれない。


原作者であるモリー本人のインタビュー映像も貼っておきます。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2017 MG's Game, Inc. ALL RIGHTS RESERVED.

創世記と黙示録、聖書に準えた物語(「マザー!」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は久しぶりに考察してみたいと思える映画に出会いました。
日本公開中止の超問題作「マザー!」です。

いつも通り好き勝手語っていますが、お付き合いくだされば幸いです。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Mother!
製作年:2017年
製作国:アメリカ
上映時間:121分


解説

ブラック・スワン」の鬼才ダーレン・アロノフスキー監督が、「世界にひとつのプレイブック」でアカデミー主演女優賞を受賞した若手実力派のジェニファー・ローレンスを主演に迎えて描くサイコミステリー。郊外の一軒家に暮らす一組の夫婦のもとに、ある夜、不審な訪問者が現れたことから、夫婦の穏やかな生活は一変。翌日以降も次々と謎の訪問者が現れるが、夫は招かれざる客たちを拒む素振りも見せず、受け入れていく。そんな夫の行動に妻は不安と恐怖を募らせていき、やがてエスカレートしていく訪問者たちの行動によって事件が相次ぐ。そんな中でも妊娠し、やがて出産して母親になった妻だったが、そんな彼女を想像もしない出来事が待ち受ける。
マザー! : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編





聖書に準えた物語

この物語はダーレン・アロノフスキー監督自身も語っている通り、旧約聖書の創世記をモチーフとされていますね。
主に本作の物語は「天地創造と原初の人類」を基に作られたように思います。

創世記
内容は「天地創造と原初の人類」、「イスラエルの太祖たち」、「ヨセフ物語」の大きく3つに分けることができる。

天地創造と原初の人類
天地創造 1章
アダムとエバ、失楽園 2章 - 3章
カインとアベル 4章
ノアの方舟 5章 - 11章
バベルの塔 11章

創世記 - Wikipediaより引用


それぞれの登場人物が表すものは以下の通りです。

妻 → マザーアース
夫 → 創造主・神
男 → アダム
女 → イヴ
兄 → カイン
弟 → アベル
赤子 → イエス・キリスト
その他 → 信仰者
家 → この世



このように、創世記に準えて物語が進行していきます。

冒頭から時折、妻と家が共鳴するシーンが導入されます。

妻は我が家"楽園"を作りたいと言及していた通り、家は家庭の安泰。
マザーアース(母なる大地)とこの世がリンクしていることを示唆させます。

夫は詩人であり、創作する者ということから創造主・神であることは分かっていただけると思います。


そこに最初の人類、男アダムが現れる。
男の脇腹の傷は、神がアダムの肋骨からイブを創った暗喩でしょう。
翌日、女イブが現れ、共にかき乱すわけですね。

夫の書斎(神のエデンの園)で、アダムとイブは禁断の知恵の実(夫の部屋にあった水晶)を手にしてしまうシーンから失楽園を示す。


楽園を追放されるアダムとエバ(ジェームズ・ティソ画)

失楽園』(しつらくえん、英語:Paradise Lost)とは、旧約聖書『創世記』第3章の挿話である。蛇に唆されたアダムとエバが、神の禁を破って「善悪の知識の実」を食べ、最終的にエデンの園を追放されるというもの。楽園喪失、楽園追放ともいう。

失楽園 - Wikipediaより引用


追放された直後の性交渉。
女の緑の下着は、禁断の知恵の実を食べて羞恥心から裸体を隠した葉の暗喩。

次に兄と弟が現れます。
カインとアベルです。


アベルを殺すカイン(ピーテル・パウルルーベンス画)

カインとアベルは、旧約聖書『創世記』第4章に登場する兄弟のこと。アダムとイヴの息子たちで兄がカイン(קַיִן)、弟がアベル(הֶבֶל)である。人類最初の殺人の加害者・被害者とされている。

カインとアベル - Wikipediaより引用

遺産問題で弟への嫉妬から兄は夫の忠告を聞かず弟を殺害。
神に貢物を無視されたカインがアベルに嫉妬し殺害する。
まさにそのままですね。



そして信仰者の居場所を確立し、人々が蛮行する世界を鎮圧した水道管の破裂は大洪水(ダーレン・アロノフスキー監督の前作「ノア 約束の舟」)でしょう。


『洪水』(ミケランジェロ・ブオナローティ画、システィーナ礼拝堂蔵)

ノアの方舟
旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水にまつわる、ノアの方舟物語の事。または、その物語中の主人公ノアとその家族、多種の動物を乗せた方舟自体を指す。

ノアの方舟 - Wikipediaより引用

人々の堕落を見た神は大洪水で人類を滅亡させた。



ここまでが旧約聖書の創世記をモチーフとして描かれたもの。

大洪水から一転、妻が妊娠する。
そして、夫はスランプを脱出し、新書を書き始める。
妻のセリフ「私は黙示録の後始末をするわ」
からもここからは第二幕、新約聖書の黙示録へと進んでいきます。

ヨハネの黙示録
新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である。
ヨハネの黙示録 - Wikipediaより引用

その後、子を授かった妻は男の子を出産します。
イエス・キリストの誕生です。

赤子は民衆に担がれ首の骨を折り死んでしまう。
ここでダーレン・アロノフスキー監督のキリスト教への思想が顕著に表れています(後述しています)。



世界が業火で焼き尽くされ崩壊。

夫は妻の心臓を抉り取り、新たな水晶を手にする。
創造主は理想郷、新たな世界を作り直したところでEND。

この事からも、創造主・神は少なくとも2回、マザーアースを創造していることが分かります。



気になる点として、黄色い粉の正体。
ダーレン・アロノフスキー監督自身も「墓場まで持っていく」とさえ言っているほど謎のままです。

個人的な見解では医療用の硫黄を含む何かではないか?と考える。
硫黄とは主要ミネラルのひとつで、皮膚や髪、爪のを構成する成分。
黄色はユダヤの象徴色とされる。
また燃えると悪臭を放つことから悪人を懲罰するためにしばしば用いられたことが聖書にも記述されています。
また、古代には太陽の三原質のひとつとされ、賢者の石そのものと見倣すこともあった。

あくまでも余談です。





さて、話を戻しますが、ここで旧約聖書新約聖書の話をしておかなければなりませんね。

ダーレン・アロノフスキー監督はユダヤ教徒です。
ユダヤ教では旧約聖書を聖書と呼んでいます。
その旧約聖書新約聖書を織り交ぜたものが、ユダヤ教から派生した宗教、キリスト教

ダーレン・アロノフスキー監督のユダヤ教への演繹的表現とキリスト教への帰納的表現が対比として非常に上手く練られています。



演繹法帰納法

演繹と帰納とは何か?からお話しましょう。

・演繹とは
「一般的・普遍的な前提から、正しい推論を行うことで、結論を得る方法」である。妥当な演繹とは、前提がすべて真なら、結論も必ず真であるような推論である。演繹の持つこの性質は、真理保存性と呼ばれている。

帰納とは
「個別の事例から、一般的・普遍的な規則・法則を得る推論方法」である。つまり、過去の経験やデータから、法則や事実を導き出す推論方法で、前提がすべて真であっても、結論が真であることは保証されない。



毎度毎度、字が汚くてすみません。



では、具体的に見ていきます。
まずはユダヤ教の演繹的表現といった言い方をしましたが、上記にも記述しました赤子(イエス・キリスト)の誕生とその後の展開はダーレン・アロノフスキー監督の思想が顕著に表れていると感じました。


赤子は民衆に担がれ、首の骨を折って死にました。
その血と肉を、肉塊を民衆が食べるという衝撃的なシーン。
ここにキリスト教でこのシーンは"最後の晩餐"を思い浮かべました。

新約聖書に記述されている"最後の晩餐"。
これは、キリスト教会において主の聖餐として伝統的儀式となり、現代まで受け継がれています。
司祭によって聖化された赤ワインやパンはイエスの血と肉になり、それを信徒が食べることで自らの体にイエスを取り込むというもの。

実際、聖書にも
死を予期したイエスは弟子を集めて"最後の晩餐"に臨み、その後イエス磔刑になったと記載されています。

昨今、哲学者やすいゆたか氏らによる新説が唱えられているのをご存知でしょうか?
実はイエスは最後の晩餐で本当に弟子たちに食べられてしまった。
という実に興味深い説。


旧約聖書の創世記にも、生贄の儀式は存在します。

預言者アブラハム不妊の妻との間に年老いてから授かった一人息子イサクを生贄に捧げるよう神ヤハウェによって命じられるというものだ。
アブラハムの信仰を確かめる為のもので、実際にイサクが生贄に捧げられることはなかった(イサクの燔祭)

しかし、これは
神が望めば実の子でさえも生贄に捧げなければならない。
という思想にほかならない。



つまり、イエス・キリストのメタファーである赤子の扱い。
ここにこそ、この作品に込められたダーレン・アロノフスキー監督の意図があったと思います。


その意図とは
救世主は未だ到来していない。
だと思います。



演繹法を基にイエスは救世主ではないという事実を仮説とすると。

仮説:イエスは救世主ではない。

エスとイサクは至上の犠牲である。

イサクは救世主ではない。

エスは救世主ではない。

ユダヤ教における信仰で結果を導き出すことが出来る。


ユダヤ教キリスト教の大きな違いは、イエスを救世主と認めるかどうか。
旧約聖書の中に、救世主メシアの到来の記述があり、キリスト教ではイエスを救世主としています。
ユダヤ教では救世主は未だ降臨していないのです。

ユダヤ教ではユダヤ人こそ唯一、神に選ばれた民であり、神との約束を実践すればやがて救世主が現れ、ユダヤ人の為の神の国が創られると教えられています。

この点も根強くこの作品「マザー!」に反映されています。
創造主である夫はすべての人々を受け入れます。
救世主が現れ、神の国が創られることを望み、幾度となく繰り返しているんです。

作中でも"楽園"と語られたように、理想の国を求め、描いては壊す。
この作品はある意味、この世の抜け出せないジレンマをも示唆しているのかもしれません。





次に、"8"という数字はキリスト教を示すものという仮説を基に帰納法を用いて考えましょう。


この世を暗喩する八角形の家。
八角形の家は骨相学の観点から見ると、人間の脳の機能に調和した形とされ、建築家や科学者によって発展させられた。
部屋の構造は行き止まりがなく、すべての部屋に繋がる構造となっていて、妻と家が深く関わることを表現しています。

また、キリスト教では "8"は"復活"を連想させる数字として知られています。
キリストが復活後の8日目に弟子の前に現れたことから"復活の象徴"とされています。

他にも、創世記の天地創造は一週間とされ、その翌日、つまり8日目がリスタートを意味するものではないかとも考えています。

この世を表す八角形の家に登場する人物も8人(大衆を信仰者と一括りにすると)。

ユダヤ教の象徴、ダビデの星六芒星
頂点を繋ぐと六角形なので八角形ではない。

この事から、"8"という数字はキリスト教を示すものであると考えられます。



自分は考察するにあたって、よくこの演繹と帰納を用いて推論します。
あくまでも考察は個人の見解であり、答えを決めつけるものではないので、よく使うのは帰納法の方ですが。
ひとつの事柄について掘り下げる際、こじつけて推論や考察する際には帰納的推論の方が楽でやりやすいんですよね(笑)



オマージュ

ダーレン・アロノフスキー監督はこう語っています。

“Mother!” unfolds like a surreal landscape from Salvador Dali, where bloody mouths appear in the floor and a strange piece of soft flesh gurgles at the bottom of the toilet. The house has a breathing, pulsing heart. “The dreamscape in movies is one of the great elements of cinema,” said Aronofsky. “It was popular all the way up to the ’70s, when our heroes Scorsese and Friedkin started making realism, and we’ve left dreamscape. Bunuel and Polanski drifted away, and movies became real, leading to ’80s fantasy and the ’90s superhero era. Now we have very simple heroics.”

‘mother!’: Darren Aronofsky Finally Explains It All to You | IndieWireより引用

60年代はドリームスケープの映画が素晴らしい素質だった。
70年代にはスコセッシとフリードキンがリアリズムを始めて、人々は夢から去った。
ブニュエルポランスキーは放浪し、映画はリアルになっていった。
そして80年代のファンタジー時代と90年代のスーパーヒーロ時代に至った。
そして今、とても単純な英雄譚の時代になった。



ダーレン・アロノフスキー監督の挙げたルイス・ブニュエル監督とロマン・ポランスキー監督。
彼らの作品が本作「マザー!」にも影響しています。


ルイス・ブニュエル監督作「皆殺しの天使」

皆殺しの天使 Blu-ray

皆殺しの天使 Blu-ray

ロマン・ポランスキー監督作「ローズマリーの赤ちゃん

ローズマリーの赤ちゃん リストア版 [Blu-ray]

ローズマリーの赤ちゃん リストア版 [Blu-ray]

マザー!」のポスターのひとつに「ローズマリーの赤ちゃん」のオマージュがあります。




終わりに

マザー!」は神と地球の関係性を夫婦に投影した旧・新約聖書を準えた宗教的映画でした。
また、冒頭とラストを繋ぐ胸糞円環構造でしたね。

勿論、その点においても良かったのですが、この映画は妻視点で胸糞悪い蛮行、家の蹂躙、女性の虐待というかたちで描き出されるにも関わらず、人々の姿こそが我々人間なのだという、神視点の映画でもある点が素晴らしい。


好き嫌いは分かれそうな作品ではありますが、個人的には好きな作品です。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2017, 2018 Paramount Pictures.

正義を貫くトリプルフェイス(「名探偵コナン ゼロの執行人」ネタバレなし)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「名探偵コナン ゼロの執行人」について語りたいと思います。

映画「ゼロの執行人」のネタバレはありませんが、名探偵コナンの原作コミックス及び前作までの劇場版名探偵コナンのネタバレは含みます。
未読、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:110分


解説

青山剛昌原作の人気アニメ「名探偵コナン」の劇場版22作目。サミット会場を狙った大規模爆破事件を発端に、コナンと公安警察が衝突するストーリーが展開し、劇場版20作目「名探偵コナン 純黒の悪夢(ナイトメア)」に続き、謎の男・安室透がメインキャラクターとして登場する。東京で開かれるサミットの会場となる東京湾の巨大施設「エッジ・オブ・オーシャン」で、大規模爆破事件が発生。事件の裏には、全国の公安警察を操る警察庁の秘密組織・通称「ゼロ」に所属する安室透の影があった。サミット当日ではなく事前に起こされた爆破事件と、安室の行動に違和感を抱くコナン。そんな折、爆破事件の現場から毛利小五郎のものと一致する指紋が発見され……。監督は前作まで計7作の劇場版「コナン」を手がけた静野孔文から、新たに「モブサイコ100」「デス・パレード」の立川護にバトンタッチ。
名探偵コナン ゼロの執行人 : 場面カット - 映画.comより引用


予告編





トリプルフェイスの男

まず初めに、今作「ゼロの執行人」のメインキャラクターでもある安室透について書いていきます。



・安室透

29歳の独身。右利き。
名前の由来は、『機動戦士ガンダム』の登場人物であるアムロ・レイとその担当声優である古谷徹



・一つ目の顔【私立探偵 安室透】

初登場は原作コミックス75巻 第667話「ウエディング・イブ」。

毛利小五郎を麻酔銃で眠らせ、推理するコナンの姿に気づくほど洞察力と観察力に優れている。
毛利探偵事務所と同じビルのある事務所下の喫茶ポアロで働きながら、毛利小五郎の弟子入りする形でコナンと接点を持つ。
アニメ版では料理も得意。



・二つ目の顔【黒の組織 バーボン】

原作コミックス78巻 第701話「漆黒の特急(ミステリートレイン)」。

黒の組織ではバーボンというコードネームを与えられ、探り屋として活動している。
愛車は白のマツダRX-7
劇場版名探偵コナン第20作目『純黒の悪夢(ナイトメア)』でも、今作『ゼロの執行人』でも、そのドライブテクニックを見せる。



・三つ目の顔【公安警察 降谷零】

原作コミックス85巻 第779話「緋色」編。

本名、降谷零。
黒の組織に潜入している公安警察官。
警察庁警備局警備企画課(通称ゼロ)所属。
頭が良く、洞察力に優れる他、公安警察独自の高い情報力を誇る。
警察学校在籍時の成績は常にトップの優等生。



・他キャラクターの繋がり

元警視庁捜査一課刑事の伊達航(高木刑事の教育係)とはその時の同期で、長らく音信不通でありながらも、互いを気にかける友人同士。
また、殉職した元警視庁捜査一課刑事にして爆発物処理班に所属していた経歴も持つ松田陣平(佐藤警部補の元恋人)とも警察学校時代の友人で、彼に爆弾解体の方法を教えられている。

生前の宮野厚司、エレーナ、明美とも面識があり、シェリー(灰原哀:本名宮野志保)の家族とも何かしら接点がある。

黒の組織のボスとベルモットとの間に"重大な関係"がある事実を突き止めており、この"重大な関係"を組織内に知られるとベルモットにとっては不都合な事態となってしまうことから、このことをネタに彼女に対して個人的な取引を何度か行っている。

FBI捜査官の赤井秀一(ライ)とは黒の組織への潜入捜査中からのライバル関係にある。
「あれ程の男なら(スコッチに)自決させない道をいくらでも選択出来ただろう」として赤井の実力を認めてもいたが、同僚であったスコッチが死亡する一因となった赤井やFBIのことを憎んでいる。



トリプルフェイスであり、警察組織、FBI、黒の組織など幅広い顔と情報網を持つ。
赤井秀一曰く「敵に回したくない男の一人」と評される。



ゼロの執行人

本作「ゼロの執行人」のゼロとは
警察庁警備局警備企画課の通称。

公安警察としての安室透(降谷零)の姿が描かれる今作は安室透ファンには堪らない作品になっているのではないでしょうか。


前作までの劇場版名探偵コナン作品の中でチェックしておくべきは『純黒の悪夢(ナイトメア』だけで十分でしょう。

ただ、本作の強みはコナンを知らなくても単純に警察組織を扱った作品としても楽しめる点です。

"善"と"悪"の境界線、安室透の自分の正義を執行する物語となっています。



一方で、話の内容は小難しく、子供向けではないと思います。
従来の劇場版名探偵コナンは子供も大人も楽しめる使用でしたが、今作「ゼロの執行人」は大人向けと言えます。

主人公はコナンなので、いつものキック力増強シューズとボールを蹴るシーンもあるのですが、あくまでも安室透をメインに描かれています。



また、あらすじと予告編から
事件現場からは毛利小五郎のもの一致する指紋が発見され、逮捕されてしまう。

アニメ「容疑者・毛利小五郎(前編/後編)」も観ておくと楽しめるかもしれませんね(笑)



名探偵コナン」に求めるもの

ここからは「名探偵コナン」に対する個人的な意見です。


原作「名探偵コナン」では新一と蘭、平次と和葉、小五郎と妃、警視庁…様々なラブコメが描かれています。

青山剛昌先生がラブコメ大好きなので、やりたいだけ感はありますが、「名探偵コナン」は様々な事件を絡めつつ黒の組織との対峙の中にラブコメを描いた作品。

ミステリー漫画として売り出している以上、本筋は黒ずくめの組織との対峙、事件解決と推理がメインなのは仕方ないのですが

自分は「名探偵コナン」はラブコメありき、むしろラブコメのない「名探偵コナン」は「名探偵コナン」ではないと思ってます。

はっきり言って極論ですが、そこに自分は「名探偵コナン」の魅力を感じるのです。



新一はAPTX4869という黒の組織が開発した新種の薬を投与され、幼児化してしまった。


江戸川コナンとして事件解決していく中で、新一がコナンとして生きいていくという現状は新一と蘭のラブコメは平行線のままなんですよ。

しかし、原作や映画でも何度かコナンから新一の姿に戻ったり、声だけでも蘭の傍に寄り添う。
本来進展しないはずのラブコメが進展していく様、お互いの気持ちを素直に言えないもどかしさが最大の魅力だと思っています。

今作「ゼロの執行人」でも、コナンは蘭のために行動します。
そこに感動を覚え、ハラハラドキドキさせられるのです。


また、自分が好きなキャラクターでもある平次と和葉。
この二人のラブコメも新一と蘭同様にもどかしさがドキドキさせてくれるんですよね。


個人的劇場版名探偵コナンベスト3
①「から紅の恋歌
②「迷宮の十字路」
③「ベイカー街の亡霊」

①②は平次と和葉を描いた作品です。
勿論、新一と蘭のラブコメも進展していく。
ブコメあっての「名探偵コナン」なのです。



では、今作「ゼロの執行人」はどうだったのか?
正直、ラブコメ要素は少なめです。


故に自分の好みとしてはそこまで評価していませんが、作品の出来としては申し分ないと思います。

純粋にこの映画を観るなら楽しめるでしょう。



終わりに

主題歌を担当されたのは福山雅治さん。
【零-ZERO-】

こちらも、コナンと安室透、「ゼロの執行人」を意識した歌詞になっています。


毎年恒例!
劇場ED後の映像で次回作の予告がありますので、最後まで席を立たないことをお勧めします!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2018 青山剛昌名探偵コナン製作委員会

弁論術で魅せる肉体のコミュニケーション(映画「娼年」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は先日鑑賞した「娼年」について語っています。

昼間から下ネタ全開の記事を投稿することをお許しください(笑)
この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:ファントム・フィルム
上映時間:119分
映倫区分:R18+


解説

「娼夫」として生きる男を主人公に性の極限を描いた石田衣良の同名小説を、2015年に上演した舞台版が大きな反響を呼んだ監督・三浦大輔×主演・松坂桃李のコンビで映画化。大学での生活も退屈し、バイトに明け暮れ無気力な毎日を送っているリョウ。ホストクラブで働く中学の同級生シンヤがリョウのバイト先のバーに連れてきたホストクラブの客、御堂静香。彼女は秘密の会員制ボーイズクラブ「パッション」のオーナーで、恋愛や女性に興味がないというリョウに「情熱の試験」を受けさせ、リョウは静香の店で働くこととなる。「娼夫」という仕事に最初は戸惑うリョウだったが、女性たちひとりひとりが秘めている欲望の奥深さに気づき、そこにやりがいを見つけていく。リョウは彼を買った女性たちの欲望を引き出し、そして彼女たちは自分自身を解放していった。
娼年 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編




パイドロス

先ずはTwitterの投稿から。




こちらでも記載したように、「娼年」と「パイドロス」の関係性について考えていきます。

なんだかパイドロスって、いやらしい言葉に聞こえてきませんか?


パイドロス(古希: Φαῖδρος、英: Phaedrus)
プラトンの中期対話篇の1つであり、そこに登場する人物の名称。副題は「美について」。

前半は「恋」(エロース)についての3つの挿入話にその記述の大部分が割かれ、対話の大部分は後半に展開される。
表面的な議題としては、「恋」と「弁論術」が出てくるが、最終的にそれらは「哲学(者)」という隠れた主題に回収・統合されることになる。

パイドロス - Wikipediaより引用



パイドロス」はソクラテスパイドロスと出くわす場面から話が始まるんですよ。
恋(エロース)の話について2人はイリソス川に入って川沿いを歩き、プラタナスの木陰に腰を下ろし、語らい合う。
その語らい合いと2人がそこを立ち去るまでが描かれています。


パイドロス」は弁論術として描かれ、この作品は「娼年」での領のセックスに反映するものです。

では、弁論術とは何か?
アリストテレスによって書かれた著作があります。
その中の説得に着目してみましょう。

三種の説得手段

本書では、説得のあり方について、以下の3つの側面から考察されている。

logos(ロゴス、言論) - 理屈による説得
pathos(パトス、感情)- 聞き手の感情への訴えかけによる説得
ethos(エートス、人柄)- 話し手の人柄による説得
上記した通り、アリストテレスはこの3つの内、logos(言論)を中心に据え、最も多くの記述を費やしているが、pathos(感情)やethos(人柄)の側面についても、それなりの記述を費やし、説明している。

弁論術 (アリストテレス) - Wikipediaより引用


恋愛映画、特に性描写を写す映画にとって、セックスは重要なコミュニケーションのひとつでもあるが、愛情の可視化として描かれることが多い気がします。
それはあくまでも男と女の関係性を深める為の手段であり、過程でもあり、愛の再確認でもある。



一方で、本作「娼年」におけるセックスは弁論術として見せるものです。

肉体を交えるコミュニケーションが会話や対話として描かれているんですよ。

言論、感情、人柄、この三種の説得手段を併せ持つセックス。
ここに単なる肉体のコミュニケーションに留まらない心理描写が生まれるわけです。

それがあるからこそ、セックスシーン以外のシーンでもその心理描写が活きてくるわけですね。



人と人との関係性を築くには、先ず会話をしなければ始まりません。
劇中も冒頭からベッドシーンで幕を開けますよね?

これは「娼年」がセックスについて語る映画であることを観客に明示しているんです。





また、この作品は性欲の淵に見える甘美な人間の多様性をも見事に演出しています。

己が性欲を満たすために、対価を払う女性たち。
女性の性への欲望を可視化し、その欲を受け止める娼夫。
どちらが欠けても成り立たないこの関係性もまた、性描写をまるで対話のように映し出す。



放尿を見られることに快楽をおぼえる女性。

特殊なシチュエーションでしか興奮しない夫婦。

出産後セックスレスの主婦。

手を触れるだけで絶頂できるご年配。


セックスという枠に留まらない彼女らの欲望の形は人間の多様性を描くとともに、性欲や羞恥心までも赤裸々に語っているかのようだ。

それに加えて、様々な女性たちのセックスを美として描きながらも女性が抱く欲望や心に負った傷をも優しく包み込む姿は、娼夫という汚れたイメージをも美として描き出しているようです。


本作、舞台「娼年」からも主演を引き継いだ松坂桃李さんの努力と覚悟、決意の現れともとれる。
体を張った演技は素直に賞賛できます。



心身の成長

さてさて、ここまでは真面目にこの作品「娼年」について語ってきました。

ここからは超個人的視点から見た「娼年」の批評になります。
※「娼年」を貶すものではなく、あくまでも批評であると共に、下ネタ全開なので閲覧の際はご注意ください






















松坂と共演の女性キャストたちが体当たりでセックスシーンに挑んでおり、松坂本人も「映画『娼年』で、7、8年分の濡れ場をやった感じです」と語るほどだ。
松坂と三浦は舞台版『娼年』でもタッグを組んでおり、その濡れ場経験から松坂は『彼女がその名を知らない鳥たち』で白石和彌監督やキャスト陣から濡れ場の“先生”と呼ばれていたという。そのことについて松坂は、「濡れ場のプロフェッショナルとして、副業を見つけたかな(笑)。濡れ場監督とか。出演するのではなく、アクション監督のように監修が必要なところで呼ばれるみたいな。殺陣師? いや、濡れ場師!!」と振り返る。

松坂桃李、R18映画『娼年』セックスシーンについて明かす 「7、8年分の濡れ場をやった感じです」(リアルサウンド) - Yahoo!ニュースより引用


それを踏まえた上でこの作品を観て思ったこと。

エロ坂桃李のセックス下手すぎだろwww

松坂桃李さんのファンの方、すみません。

これだけはどうしても言いたかったんです!
あースッキリ!!



勿論、領は『女性はつまらない』『セックスなんて手順が決まった面倒な運動』と語ったように、冒頭はセックスは作業と言わんばかりの単調なセックスしかしない大学生として描かれています。

しかし、「娼年」は娼夫という仕事を通して、領がセックスの腕前と共に精神的にも成長していく物語なんですよ!
つまり、冒頭に比べて終盤のエロ坂桃李のセックスは上手くないといけないんです。



咲良との二度の試験的なセックス
これは領が娼夫としても精神的にも成長した証として描かれなければいけなかったもの

それにしては精神的にも成長したはずのセックス(会話)が下手。
キスの仕方、愛撫、挿入に体位、どれをとってもぎこちなく雑である。


他のセックスにも勿論言えることなんですが、この二度目の試験的なセックスは何とかならなかったのかと。
各々のセックスシーン(放尿シーン含む)は大袈裟な演技も相俟って全て爆笑してしまいました。



体を張って撮影に望んだのは重々承知しています。
なので、冒頭でもその点に関しては賞賛しています。
しかし、もう少し官能的なセックスがあると期待していた分、この点に関しては非常に不満が募る。



また、別視点からどこが自分にとって下手なセックスに見えてしまったのかを考えてみました。
その結果、エロ坂桃李の演技ではなく、演出に難があったのか?と。

娼年」は舞台としても実写化されているわけですが、例えば舞台の場合、目の前でセックスシーンの一部始終を見せられるわけです。
座席から舞台への一定の距離、同視線で見続けることが出来るわけです。
そこにはリアリティと共にその空気感も伝わってくることでしょう。

一方、映画は観客の視線はカメラワークによるもの。
観客視点を担うカメラが這うように口元や繋がる体、臀部の痙攣までを映し出す。
そして俯瞰的に見せる映像が状況を映し出す。

舞台とは違い、その空気感が感じられなかった点が"官能的"なものではなく、アダルトビデオの企画モノを観ているような"笑い"を齎してしまったのではないだろうかと推測できる。



一番笑ったのは西岡イク馬さんの射精ですね。
あのシーンは面白すぎる。

ケツは和太鼓

とは言っても笑いながら勃起はしてましたよ?

え?わざわざ言わなくてもいい?
失礼しました(笑)


ただ保身ではなく、セックスという描きにくいコミュニケーションをスクリーンに描いた試みは評価したいです。




ちなみに自分が最も興奮したセックスは、領が娼夫デビューしたお客さんとの激しいセックスでしたね。

あの日見たフェ〇で喘ぐ男性を僕達はまだ知らない。



皆さんはどのセックスが一番興奮しましたか?

フォロワーさんにお伺いしたところ、同級生とのセックスだという答えが返ってきました。

様々な感情が入り乱れていたということで…分かります、分かりますよ?

ただ、娼夫を汚らわしい仕事だと蔑んだ挙句、愛故に結局自分でそこに足を踏み入れた粗暴さ。
そしてそんな相手をも受け入れちゃう領くんの人の良さに興奮どころの話ではなくなっちゃったんですよね。

あと、現体位から別体位へと移る過程が雑でしたね(笑)


このセックスは冒頭から語る「娼年」のテーマ性やストーリーとしては最も適合したシーンではあるんですよ。

領への想いを寄せながらも実らぬ恋、それをセックスという会話で愛の再確認をしたわけで、改めて領のことが好きだと感じるも娼夫としての領を受け入れることができない自分への葛藤。

心理描写としても素晴らしいものがありましたよ。





二度目の試験的なセックスについても書いておきましょうか。
皆さんはこの二度目の咲良とのセックスシーンをどう捉えましたか?


個人的見解では、自分の母親に対する(性的な愛も含む)感情を静香さんに抱いた領が咲良と交わることで、静香と間接的に行ったセックスだと思います。

「母親に褒めてもらいたい。」
そう思ったことは一度はあるはず。

好意は熱烈な愛情に変わり、やがて盲信的な忠誠心を築く。

そう、娼夫としての成長を見せることで静香に認めてもらうこと。
そして母親に対する愛情をぶつけた間接的なセックスだったのだろうと思うわけです。



領自身、交わってきたお客さんに母親像を重ねていたようにも見えました。
このシーンなんかは正にそうですよね。

だからこそ、相手の気持ちを汲み取り癒すことが出来たと。
そんな年上に囲まれる生活の中で、最もその母親像を重ね心惹かれた人物が静香でした。

静香の口から語られた真相、それは静香自身も娼婦だったこと。
そして領の母親も娼婦だったということ。

雇用と労働という関係は静香と領を繋ぐもの。
娼婦の職業は母親と領を繋げるもの。

このシーンは娼夫という職業、セックスを通して静香に抱いた感情、母と子の繋がりを明確にした場面だと感じざるを得ないんですよ。



終わりに

最後にこれだけは言いたい。

総じて前戯が足りんのじゃ!!!

手に触れるだけで昇天できるくらいの芸を身につけないといけませんね、修行します。

・・・ふぅ。



というわけで(?)
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)石田衣良集英社 2017映画「娼年」製作委員会

大人の御伽噺(「ゆれる人魚」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「ゆれる人魚」について語っています。

少し間が空いてしまって、バタバタしましたが何とか書ききれました。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Lure
製作年:2015年
製作国:ポーランド
配給:コピアポア・フィルム
上映時間:92分
映倫区分:R15+


解説

共産主義下にあった1980年代のポーランドを舞台に、肉食人魚姉妹の少女から大人への成長物語を野性的に描いたホラーファンタジー。海から陸上へとあがってきた人魚の姉妹がたどりついた先はワルシャワの80年代風ナイトクラブだった。野性的な魅力を放つ美少女の2人は一夜にしてスターとなるが、姉妹の1人がハンサムなミュージシャンに恋をしたことから、姉妹の関係がおかしくなっていく。やがて2人は限界に達し、残虐な行為へと駆り立てられていく。監督は本作が長編デビュー作となるポーランドの女性監督アグニェシュカ・スモチンスカ。「第10回したまちコメディ映画祭 in 台東」(2017年9月15~18日)の特別招待作品として上映。
ゆれる人魚 : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編




ゆれる人魚

人魚や半魚人と聞いて思い描く映画はありますか?


セバスチャン・グティエレス監督「人喰い人魚伝説」
ロン・ハワード監督「スプラッシュ」
チャウ・シンチー監督「人魚姫」
クォン・オグァン監督「フィッシュマンの涙」
宮崎駿監督「崖の上のポニョ
湯浅政明監督「夜明け告げるルーのうた
ロン・クレメンツ監督/ジョン・マスカー監督「リトル・マーメイド」

そして
ギレルモ・デル・トロ監督「シェイプ・オブ・ウォーター


これらの中でも「ゆれる人魚」は珍しい映画となっています。
えー、まずは人魚について掘り下げていきましょう。

人魚

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる人魚(マーメイド)の絵画(1900年)

英語ではマーフォーク (merfolk) と言い、特に若い女性の人魚はマーメイド (mermaid) または男性の場合はマーマン (merman) と呼ばれる。マー (mer-) は、単語では mere となり、いずれもラテン語の mare(海)に由来する。
ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)である。今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16–17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている。

人魚 - Wikipediaより引用


パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉」でも人魚について語られていました。

作中で、宣教師が人魚に対して
『君はノアの方舟に乗れなかった幻の生き物ではない』
というセリフがあります。

ノアの方舟とは、神は地上に増えた人々の堕落(墜落)を見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げる。
そこで神はノア一族に洪水にも耐えれる船のつくり方を教え、そしてノア一族とすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。
つまり、神に選ばれた人間と種を保つ為の動植物のみが乗る事を許されたのです。
そして、船に乗れなかった動物の一種が人魚だったという説があります。


一方で、人魚はノア一族との説もあります。


人魚伝説の元は、今から6、7千年前にバビロニアで崇拝されたオアンネス(Oannes)と謂う海神が始めではないかとされています。コルサバードで出土した彫刻に下半身が魚の男神像が視つかった。オアンネスは海を支配し、バビロニアの港町では航海安全の神として崇められたと謂います。日中は王として陸上に、夜は海に帰る神として信じられていた。オアンネスにはダンキナ(Damkina)と云う妃がいて、6人の子が居た。後のノアの大洪水のノア一家はオアンネスだとも謂われているのです。ノアの大洪水の絵に人魚が描かれるのは、此の伝承に依っています。
人魚伝説 | あ や し い 書 簡 箋より引用


特に西洋では、美しい人魚の歌声が船を難破させる伝説が有名で、ギリシア神話にも"海の魔物"として知られる伝説の半人半魚の人喰い、セイレーンが登場します。


紀元前330年頃のセイレーン像。アテネ国立考古学博物館

セイレーン
上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされるが後世には魚の姿をしているとされた。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑されて挙げ句セイレーンに喰い殺された船人たちの骨は、島に山をなしたという。

セイレーン - Wikipediaより引用


セイレーンの伝説のように人魚は大抵の文学作品で不吉な象徴とされています。

また、アンデルセンの童話『人魚姫』から叶わぬ恋や報われない愛として描かれることが多い。



今作「ゆれる人魚」もアンデルセン童話『人魚姫』をモチーフに作られた映画です。


Vilhelm Pedersen 画「人魚姫」

人間に強い興味を持った人魚は祖母に人間についていろいろ質問したところ、300年生きられる自分たちと違い人間は短命だが、死ねば泡となって消える自分たちと違い人間は魂というものを持っていて天国に行くというので、それを手に入れるにはどうしたらいいのかと尋ねると「人間が自分たちを愛して結婚してくれれば可能」だが「全く異形の人間が人魚たちを愛することはないだろう」とほぼ不可能だと告げられる。

そこで人魚姫は海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰う。その時に「王子に愛を貰うことが出来なければ、姫は海の泡となって消えてしまう。」と警告を受ける。更に人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも言われたが、それでも人魚姫の意思は変わらず薬を飲んだ。人間の姿で倒れている人魚姫を見つけた王子が声をかけるが、人魚姫は声が出ない。その後、王子と一緒に宮殿で暮らせるようになった人魚姫であったが、魔女に言われたとおりに歩くたびに足は激痛が走るうえ、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話せず、王子は人魚姫が命の恩人だと気づかない。

それでも王子は彼女を可愛がり、歩くのが不自由な彼女のために馬に乗せてあちこちを連れて回ってくれ、また彼女と「おぼれていたところを助けてくれた人」が似ているともいうが、それは浜辺で彼を発見・保護してくれた修道院の女性の事で「彼女は修道院の人だから結婚なんてできないだろう」とややあきらめ気味で「僕を助けてくれた女性は修道院から出て来ないだろうし、どうしても結婚しなければならないとしたら彼女に瓜二つのお前と結婚するよ。」と人魚姫に告げた。

ところがやがて隣国の姫君との縁談が持ち上がるが、その姫君こそ王子が想い続けていた女性だった(修道院へは聖職者としてではなく教養をつけるために入っていた)。見も知らぬ姫君を好きにはなれないと思っていたし、心に抱く想い人とは2度と会えないだろうと諦めていた王子は、予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて姫君をお妃に迎えるのだった。

悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を差し出し、王子の流した血で人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝える。眠っている王子に短剣を構えるが、人魚姫は愛する王子を殺すことと彼の幸福を壊すことが出来ずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えた。

人魚姫 - Wikipediaより抜粋引用

最古の記録として多くの研究家がまず挙げるのが、西暦1世紀ローマの博物学者、大プリニウスの『博物誌』です。
彼は「人魚(マーメイド)の実在を確信する」と記しています。


ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督はアレクサンドラ・ヴァリシェフスカというポーランドの女性画家の作品からインスピレーションを受けたそうです。
そして彼女に描いてもらった人魚の絵は、映画のオープニングの部分で使用されています。

今作の人魚の造形はどこか妖艶であり、どこか生臭く、どこか危険な香りのするリアリティある作りとなっていますよね。


では、一体この映画の何が珍しいのか?

ジャンルを一括りにしないファンタジーともホラーともミュージカルとも取れる、様々な要素を取り入れたもの。

一般的にファンタジーホラーと言われてますが、現実世界が舞台でホラーテイストもごく一部、ミュージカルといっても歌って踊るシーンは然程長くはない。
様々な要素を少しずつ取り入れたこの作品はこの映画はこういうジャンルだといった先入観や固定概念なく楽しめる作品だとも思います。

どの要素に期待するかで評価が別れる作品とも言えるので、ハマるかハマらないかは難しいでしょう。



シェイプ・オブ・ウォーター」でもファンタジー要素を取り入れながらホラーテイストな部分もあり、総じてラブストーリーとして纏めあげていました。

ゆれる人魚」ではある意味、作品の世界観を破綻させる程のミュージカル要素があります。
そこは逆に長所と捉えてますが、総じてダークファンタジーな中、前半ではミュージカル、後半ではホラーという、前後半で雰囲気がガラリと変わる作品です。

そして、ジャンルと同じようにひとつに留まることなく、人魚は好奇心と自制心、本能と理性の狭間で揺れ動きます。



不安定な感情

シェイプ・オブ・ウォーター」では半魚人と人との無形の愛についても語りました。


両作品はバスタブや雨、水といった似たような演出もありますが、「ゆれる人魚」は人魚が人に抱く愛を、「シェイプ・オブ・ウォーター」は人が半魚人に抱く愛を描いています。


題材としては似通った作品のようですが、実に対比的。
御伽噺のような美しく綺麗なイメージとは異なっていて、淀み汚れた暗くジメジメとした空気感。
レトロな雰囲気と相俟って、より人魚の不気味さが際立つ。

そして今作は後者とは違い、アンデルセン童話『人魚姫』のように報われない愛の切ない恋物語として昇華しているんですよね。


上手くいかない恋愛、そんな時どんなことを感じ、どう対処していくのか。
そういった部分に感情移入しやすいのかもしれません。
そんな不安定な感情を間接的表現で映し出すこの作品は女性ならではだと思います。

誰かを愛しすぎるあまりに自己犠牲という行動に出てしまう。
それが初恋となると余計にそうなってしまうのではないだろうか。
この「ゆれる人魚」はそんな自己犠牲を視覚化しているからこそ、愛の深さを知ることが出来る。


この作品は女性視点で描かれたもの。
アグニェシュカ・スモチンスカ監督の語る人魚とは
大人でも子供でもない少女のメタファー
なのです。




そうです、「ゆれる人魚」は「RAW 少女のめざめ」と共通する部分が非常に多いんですよね。


ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督、「RAW 少女のめざめ」のジュリア・デュクルノー監督、共に女性監督が女性視点で一貫して描いているのは少女の大人への成長です。


ゆれる人魚」では大人でも子供でもない少女のメタファーとして。
「RAW 少女のめざめ」では食人行為を性のメタファーとして。
それぞれが少女の思春期の通過儀礼として各々の境遇や葛藤する姿が描かれているのです。

そのアイテムとして、タバコや酒、性行為などが散りばめられています。



愛と憎しみ、これは表裏一体です。
ラストでシルバーが彼を食い殺さなかったことはそれは自分の命を捨て置いてでも彼の幸せを願ったということではないと思います。
怒りや悲しみという感情を超える諦めや絶望をも超越した言葉では表現できない感情だったのではないでしょうか。

感情や欲望、理性との葛藤に悩む妹。
感情や欲望を抑えきれなかった姉。
姉妹の対比としても描かれたシーンも「RAW 少女のめざめ」と共通する部分だと思います。



終わりに

「RAW 少女のめざめ」のジュリア・デュクルノー監督。
ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督。
女性監督による鮮烈なデビュー作。

新たな才能が詰め込まれた両作品、一度は観てもらいたい作品です。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2015WFDIF, TELEWIZJA POLSKA S.A, PLATIGE IMAGE

短歌と恋、青春と人生(「ちはやふる 結び」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。

鑑賞後、随分経ってしまいましたが今回は「ちはやふる 結び」について語っています。

この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:128分
映倫区分:G


解説

末次由紀の大ヒットコミックを広瀬すず主演で実写映画化した「ちはやふる 上の句」「ちはやふる 下の句」の続編。瑞沢高校競技かるた部の1年生・綾瀬千早がクイーン・若宮詩暢と壮絶な戦いを繰り広げた全国大会から2年が経った。3年生になった千早たちは個性派揃いの新入生たちに振り回されながらも、高校生活最後の全国大会に向けて動き出す。一方、藤岡東高校に通う新は全国大会で千早たちと戦うため、かるた部創設に奔走していた。そんな中、瑞沢かるた部で思いがけないトラブルが起こる。広瀬すず野村周平新田真剣佑ら前作のキャストやスタッフが再結集するほか、新たなキャストとして、瑞沢かるた部の新入生・花野菫役をNHK連続テレビ小説あまちゃん」の優希美青、筑波秋博役を「ミックス。」の佐野勇人、映画オリジナルキャラクターとなる千早のライバル・我妻伊織役を「3月のライオン」の清原果耶、史上最強の名人・周防久志役を「斉木楠雄のΨ難」の賀来賢人がそれぞれ演じる。
ちはやふる 結び : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編





上下の句を結ぶもの

まず、本作の話に入る前に前作と今作の位置づけについて考えていきます。

そもそも上の句、下の句とは何か?



競技かるたの基本ルール

競技かるたの公式大会では、大石天狗堂製のかるた札が用いられ、百人一首の100枚の字札のうち50枚を使用する。

その50枚を裏返した状態でよく混ぜ、25枚ずつ取り、それを自分の陣地(自陣)の畳に、上段、中段、下段の3段に分けて並べる。このとき札を並べる範囲は横87cmまでとなっており、そのとき相手の陣地(敵陣)にも同様に25枚が並べられた状態となる。その後15分間の暗記時間が設けられ、その間に自陣・敵陣の50枚の位置を暗記した後、競技が開始される。15分の暗記時間中の最後の2分間は素振りが認められる。

暗記後は対戦相手、読手の順に礼をしてから競技が始められる。これはかるたは礼に始まって礼に終わるというかるた道の精神によって、定式化されている。競技開始時にはまず百人一首に選定されていない序歌(一般的には王仁の「なにはづの歌」)が詠まれる。これは一旦上の句・下の句が通しで詠まれた後に下の句だけがもう一度繰り返され、そこから百首の詠み札がランダムに詠まれる(場にある字札が下の句であるのに対して、詠まれるのは上の句からである)。

詠まれた歌に対応する字札に相手より先に触れることで、その字札を自身の「取り」とする(以降、字札のことを単に「札」と表記する)。自陣にある札を取った場合、その札を自身の横に置いて自陣から除外する。敵陣にある札を取った場合、自陣にある好きな札を敵陣に送ることで自陣の札が1枚減る。これを「送り札」という。

詠まれた札のある陣と反対の陣の札に誤って触れると「お手つき」となる。相手がお手つきをした場合は、自陣の好きな札を1枚敵陣に送ることができる。一方で詠まれた札のある陣と同じ陣内にある別の札を触ったとしてもお手つきにはならず、また自陣(敵陣)の札に触れた際勢いがついて札が敵陣(自陣)の札を動かした場合も、同様にお手つきにはならない。

詠み札は百首全てが用意されるのに対して、場にある札は半分の50枚のため、詠まれた歌の札が自陣・敵陣どちらにも存在しない場合もあり、これを「空札(からふだ)」という。空札が詠まれているのにも関わらず、自陣または敵陣のいずれかの札に触った場合もお手つきとなる。

また、お手つきには、『ダブル』や『空ダブ』と言われるケースもある。『ダブル』は、敵陣の札が詠まれて、自分がその札を取り、対戦相手がこちらの陣の札を触ったときに成立する。この場合は札を2枚(敵陣取りと相手のお手つきでそれぞれ1枚ずつ)送ることができ、相手と自分で3枚差がつくことになる。 『空ダブ』は、空札のときに、敵陣、自陣をともに触ってしまったときに成立する。この場合、相手から2枚札が自分に送られ、相手と自分で4枚差がつくことになる。ただし、両者ともお手付きをした場合は「共お手(共付き)」と呼ばれ、互いに送り札は行わない。

札を取る手は、1試合を通してどちらか片方の手のみが認められる。試合開始後最初に札を取りに行ったほうの手で最後まで取り続けなくてはならない。

札の配置は競技中に、相手に宣言することで自由に動かすことができる。ただし、頻繁な移動や、一度に大量の札を移動させることは、マナー上好ましくないこととされている。

これらを繰り返し、自陣の25枚の札を先に絶無とした方を勝者とし、競技は終了する。

競技かるた - Wikipediaより引用



かるたには読み札に上の句、取り札に下の句が書かれています。


短歌の他にもよく似たものとして、俳句というものもありますよね?

短歌は上の句である五・七・五に加え下の句七・七で成り立ち、俳句は五・七・五で成り立つ。

このふたつの相違点は句の数だけではありません。
俳句は情景を詠むもの。
短歌は心情を詠むもの。



前々作である「ちはやふる 上の句」では、高校生活と競技かるた部、千早と幼馴染との情景を。
前作の「ちはやふる 下の句」では、千早のクイーンに対する気持ちや太一の微妙な心情を描いた作品だと思います。



一方で今作は、主人公でもある綾瀬千早というよりも千早の幼馴染であり瑞沢高校競技かるた部部長の真島太一の映画だったようにも思う。

勿論、千早やもう一人の幼馴染である綿谷新、クイーン若宮詩暢、今作が初登場の周防久志、瑞沢の他部員や原田先生も絡めつつなのですが。

真島太一は容姿もイケメン、学年トップの学力という一切非の打ち所のない人物。
ただ一点、敵わない相手が新であり、それは競技かるただけでなく千早に対する行動や心情もだ。

そんな彼が部活と受験、そして千早や新に対する想いで葛藤する。
完璧のように見えて完璧ではない。
彼は隠れたところで努力をしているんです。
その部分が今作で深く掘り下げられていたと思います。



千早は競技かるたに関して"感じ"という優れた才能がある。

今回、新たに登場した周防名人(賀来賢人さん)。
彼もまた千早同様に競技かるたに関して"感じ"を持ちつつ、更に一線を超えたずば抜けた才能がある。

太一は自分の持ち合わせていないもの、そして想いを寄せる千早と似通った才を持つ周防名人につく。



前作である上の句と下の句では現在の姿を描いています。
そして今作の結びでは千早、太一、新の原点とそして未来へ繋ぐもの。



1000年前に詠まれた歌が今現在にも語り継がれ詠まれるように、上の句と下の句がひとつになって意味をなすように、ひとつの歌として過去と現在、未来を結びつける。
それがこの作品、ちはやふる結びだと思います。



短歌

主要登場人物を表す短歌を確認しましょう。



・千早

「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 唐紅に 水くくるとは」
在原業平

訳:様々な不思議なことが起こっていたという神代の昔さえも、こんなことは聞いたことがない。
竜田川が(一面に紅葉が浮いていて)真っ赤な紅色に水を絞り染めにしているとは。


「はや」は敏捷、「ぶる」は振る舞いを意味し、「ちはやぶる」で激しい勢いという意味を成す。
ちはやふる 下の句」で千早の「ちはやぶる」描写があったので説明は不要かと。



・太一

「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」
平兼盛

訳:私の恋心は誰にも知られまいと心に決めて耐え忍んできたが、とうとう堪えきれず顔に出てしまったのか。
何か物思いがあるのですかと人が尋ねてくるほどに。


この短歌はしのぶの得意札でもありますね。

太一は受験という精神的に不安定になる時期に恋心で悩み葛藤します。
新入部員から、新が千早に告白したことを聞かされるシーンでは、太一の表情はカメラワークから外され、あえて見せない演出となってます。
しかし、この短歌のように顔に出てしまっているのだろうと安易に想像できる。



・新

「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」
壬生忠見

訳:「恋している」という私の噂がもう立ってしまった。
誰にも知られないように、心ひそかに思いはじめたばかりなのに。


「しのぶれど〜」の対となる短歌としても有名。
千早への想い、最終決戦の最後の残り札二枚。
太一と新が対の立場で描かれる。



・周防

「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
小野小町

訳:桜の花の色はむなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。
ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。


これは講義で学生に向けた言葉のようにも見えて、実は太一に向けられた言葉なんですよね。

本来の意味から、悩んでいるうちに時間は経過して取り返しがつかなくなってしまう後悔を詠ったもの。
太一に「君はこんなところで何をしているの?」と言ったこの言葉は太一の背中を大きく押すこととなる。



・千早と太一

「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる」
後徳大寺左大臣

訳:戸外の明け方近い夜空を、ひと声ほととぎすの鳴いた方角を見ると、もうその姿はなく、ただ夜明けの下弦の月だけが残っているのであった。


部室の畳の間から見つかった札の句。

ほととぎすが鳴いた後でそこを見てもその姿はない。
千早の太一がいなくなった後の心情を表現する的確な歌。



また、個人的に千早と太一の二人を結ぶのに相応しい短歌を紹介しておきます(笑)

「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ」
崇徳院

「劇場版名探偵コナン から紅の恋歌

こちらでも主人公の新一(コナン)がヒロインの蘭に対して詠んだ歌です。

訳:川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が二つに分かれる。
しかし、また一つにらなるように、愛しいあの人の今は分かれてもいつかきっと再会しようと思う。

ちはやふる 結び での千早と太一そのものではありませんか?


言葉の力

周防名人、そして原田先生の太一への言葉がなかなか印象的だった。

原田先生のいう手触り。

青春というものは見えないもの。
青春が終わった後には何が残るのか?
手触りは残る。

そう。理由はどうあれ、かるたを通して得たもの、その感覚は残るんです。
そこに残ったものが青春なのではないでしょうか。



太一は新が千早に告白したことを知る。
太一の心は揺れ動きます。
そこで出会ったのが周防久志だ。

上記の短歌でも記述しましたが、周防名人の「花の色は〜」で学生達にマイクで語るシーン。
作中ではなく原作の台詞を引用します。

「僕は器用でしたので 予備校に行かずとも東大にはいれましたが 青春ぽい日々はなくて…… まあ 君たちのこともザマァ(笑)と思いますよね」

「でも ある日 気がついたんです 『青春』という文字の中に『月日』があったこと とたんに青春が惜しくなりました 自分の中に青春を探し始めました」

「言葉には 力が確かにあることを 忘れないでいてください」

第141首「かるたを好きじゃないのに」より


この台詞が自分の心にもズシンと響いた。
自分にとっての青春ってなんだったかな?って。
青春だと感じられるほど自分は青春を満喫したのかって。



周防はかるたが好きではない。
自分のやれること、自分を生かすことが出来る場所が競技かるたの世界だったんです。
周防は青春ではなく人生をかるたに懸けていました。

「こんなところで何をしているの?」

太一にとってこの周防の言葉は心を突き動かすものだったでしょう。
太一自身もかるたを好きで始めたというよりも、千早に近づきたいという想いから始めたのかもしれない。
かるた部を作ったのも千早の為。
そこで出会った肉まんくんや机くん、かなちゃん、かるたではなく彼らといることが好きだったんです。

しかし一方で、きっかけはどうあれ、かるたに触れることでかるたを好きになっていく自分にも気付き始めていたのではないだろうか?

だから走る。
千早の為に、仲間たちの為に。


太一が周防名人と出会ったことで気付かされたこと。
それは聞こえる音と聞く音の間に線を引いていること。
聞く音の外側、一線を超えた先の音を聞く。

これは競技かるたにおける読み手の発する音の前に聞こえる音、決まり字の先を行く決まり字。

しかし、その本質はそこではない。
その"感じ"という才能を持つ千早ならまだしも、太一にはその才能がない。


その一線とは、太一の気持ちの中にある自分に言い聞かせている声と本音の一線を示しているのではないだろうか。

欠点を埋めてくれるのが仲間であり、他人に強さを与えることが本当の強さだと気付かされる。
彼らは個々で成り立つ存在ではなく、チームとしてひとつの存在なのだから。



この作品は競技かるたという世界で単純に全国優勝を手にする話ではない。
各々が競技かるたを通して精神的に成長していく。
青春スポコン映画に留まらない人生の成長譚なんですよ。



青春が惜しくなる。

この歳になりましたが、今もどこかで青春を探してるんですよ。
だからこそ、このちはやふる結びのような青春映画が心にに響くんです。

原作ではまだ完結していない作品を3部作でまとめあげたこと。
そして結びで締めくくられたこと。
この点だけ見ても秀逸としか言えない。
シリーズ最高傑作でした。


ありがとうございました!!!



終わりに

実写化映画の中でもトップクラス。

そしてこれだけは言っておきたい。

「すずより、アリス」

…すみません、これは好みの問題なのですみません(笑)


ですが、昨年の「三度目の殺人」から、広瀬すずさんの演技にも幅が出たように思います。

ちはやふる」での役どころ、ヒロイン的なポジションも抑えつつ、「三度目の殺人」のようなシリアスな演技にも磨きを掛けていってもらいたいですね。
今後も期待している女優さんのひとりとして注目しています。



主題歌「無限未来」(Perfume)

中毒性のある主題歌にも注目です!



また、原作の方は少女向けコミックなので、個人的には絵柄的に少々難ありですが、読んでみたくなったのも事実。

機会があれば読んでみようかと思います。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀講談社

機械を超えた存在【人工知能】は人か?神か?(「エクス・マキナ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は「エクス・マキナ」について真面目に考察しています。

「エクス・マキナ」は2016年劇場鑑賞ベスト1であると同時に、自分のオールタイム・ベストにも入る大好きな作品です。

何故今まで深く言及してこなかったのか?
それは自分の言葉で語れる作品ではないからです。
鑑賞後、何とも言えない余韻と形容し難い気持ちになりました。
この度、ある程度の時間を設け、改めて考察してみようという試みでもあります。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Ex Machina
製作年:2015年
製作国:イギリス
配給:パルコ
上映時間:108分
映倫区分:R15+


解説

「28日後...」「わたしを離さないで」の脚本家として知られるアレックス・ガーランドが映画初監督を務め、美しい女性の姿をもった人工知能とプログラマーの心理戦を描いたSFスリラー。第88回アカデミー賞で脚本賞と視覚効果賞にノミネートされ、視覚効果賞を受賞した。世界最大手の検索エンジンで知られるブルーブック社でプログラマーとして働くケイレブは、滅多に人前に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に滞在するチャンスを得る。しかし、人里離れた別荘を訪ねてみると、そこで待っていたのは女性型ロボットのエヴァだった。ケイレブはそこで、エヴァに搭載されるという人工知能の不可思議な実験に協力することになるが……。「スター・ウォーズ フォースの覚醒」「レヴェナント 蘇えりし者」のドーナル・グリーソンが主人公ケイレブを演じ、「リリーのすべて」のアリシア・ビカンダーが美しい女性型ロボットのエヴァに扮した。グリーソンと同じく「スター・ウォーズ フォースの覚醒」に出演したオスカー・アイザックがネイサン役を務めている。
エクス・マキナ : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編



3つの伏線

ラストシークエンスへと繋がる3つの大きな伏線が見事としか言えないんです。


①チューリング・テスト

"壁を取っ払う"
人間関係で言うなら警戒心を捨てて打ち解け合うこと。
ケイレブとエヴァの間には常に物理的な壁(ガラス)がありますが、本作における"壁"とは即ち物理的な壁であるガラスを挟んで人とA.I.の距離感を表しています。


ケイレブが会話(チューリング・テスト)で得た印象として「鏡の世界にいるようだ」と答えています。
これはケイレブがA.I.であるエヴァを"人間(正しくは人の心を持つ存在)"として見始めていることを示唆するものでしょう。


その壁が取っ払われた時、先程述べた「鏡の世界」のように人間であるケイレブと人工知能であるエヴァの立場は逆になります。
エヴァは人間のように自由を手にし、ケイレブは人工知能のように閉鎖された空間に取り残される。

冒頭からラストへと繋がるこの展開が素晴らしい。



②エヴァの年齢

エヴァは初回のチューリング・テストでケイレブから年齢を聞かれて「1」と答えたこと。

人間は1年の歳月を過ごせば1歳を迎える。
機械に寿命はなく、歳を取ることはない。
デジタル、二進数の世界では「0」か「1」かでしか表されません。
つまり、エヴァは唯一無二の存在、他の人工知能とは違う特別な存在、オンリー「1」であるということをも示唆させる。


ここでもラストシークエンスへ繋がる伏線が効いている。

「愛さない」か「愛する」か。
当然、デジタルの世界では「0」か「1」しかありません。
上手くミスリードされるんですよね、恰もケイレブとエヴァの禁断の愛が育まれていくかのように描かれています。


そしてもうひとつの可能性、「愛してるフリ」。
この三つ目の選択肢は女性ならではの手であり、エヴァの性別の必要性を問う重要なポイントでもあります。
男性は恐怖すら覚える演出ではないでしょうか。



③エヴァの性別

チューリング・テストを重ねる毎にケイレブはエヴァに惹かれていく。


初めは友情から、互いを知ること。
「お友達からお付き合いお願いします」的なノリ(笑)
エヴァのソフトウェアは検索エンジンであり、ケイレブの好みや嗜好は全て知られている。

外に出たらどこへ行きたいか?の問に対し、エヴァは大きな街の人が大勢いる交差点を見てみたいと言う。
デートに行くなら…とエヴァは女性的な恥じらいとも取れる仕草で服を選び、ケイレブを焦らし目の前に現れる。


そんなエヴァに惑わされるケイレブはネイサンに性別の必要性を問う。

生き物に性別が必要なのは生殖があるから。
性別があるから交流をする。
人工知能であるエヴァにも性器が設けられているが生殖機能はない。
ケイレブは生殖本能ではなく、性別があるからこそエヴァに惹かれるのだ。


これもまたラストシークエンスへと繋がる。
なぜラストシークエンスでケイレブはエヴァを大人しく待っていたのか?
恥じらいながら服を着る姿は、ラストシークエンスで肌と白いドレスを纏ったエヴァがケイレブを待たせるための伏線となっています。

つまり、人工知能が女性であるが故の行動であり、これは"エヴァがケイレブを誑かして脱出を試みる"というネイサンの目論見通りの結果だったというわけです。



「人の心」の複雑さ

作中にも登場する人工知能の脳の造形は宇宙を模したもの。
人の心もこれと同様に掴み切れない宇宙のようなものなのなのかもしれない。


人の心を持ちながら人として扱われなかったエヴァ。
人の心を持った人ではない存在とは何なのか?
人の心を持たない人は人とは呼べないのか?
一体、何を以て人と呼べるのか?

人工知能であるエヴァに、さもこのような人の心があるように思わせるこの演出自体がミスリードなんですよね。



神学的観点

本作では神学的、哲学的思考を問うものが練り込まれています。
まず、神学的観点から「エクス・マキナ」を見ていきましょう。



・キリスト教から見た『エクス・マキナ』

ケイレブの試験期間は一週間。
これはケイレブとエヴァの名前からもキリストにおける創世記を示唆させる。

神は6日間で天地と生物、そして神の姿を模した人間(アダム)を創り、7日目に休息をとる。
アダム(Adam)から創られたイブ(Eve)は、禁断の果実を食べて楽園を追放される。


作中でいう神とは人工知能を作り出したネイサン。
そのネイサンはケイレブの好みからエヴァを創った。
禁断の果実を食べたアダムとイヴが裸を隠したように、エヴァも自身の裸(機械部分)を隠していく。
楽園とは実験施設のことで、追放は即ち解放を意味する。

エヴァだけが施設から出たことから、エヴァ(Ava)はアダム(Adam)とイブ(Eve)の造語でしょう。

ケイレブはカレブを指し、約束の地を目指し神に忠誠を誓う者。
ネイサンはナサニエルを指し、神の贈り物(natan "彼は与える" + el "神")から"神"を取り除いた言葉が語源だと考えると、創造主"神"ではなく単なる創造者に過ぎないということ。



・ギリシア神話の神のプロメテウス


Nicolas-Sébastien Adam 作 プロメーテウス像 1762年 (ルーブル美術館蔵)

プロメーテウス(古代ギリシャ語: Προμηθεύς、Promētheús [ pro.mɛː.tʰeú̯s])は、ギリシア神話に登場する男神で、ティーターンの一柱である。イーアペトスの子で、アトラース、メノイティオス、エピメーテウスと兄弟、デウカリオーンの父。
ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を創造したとも言われる。
日本語では長音を省略してプロメテウスと表記されることもある。ヘルメースと並んでギリシア神話におけるトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。

名前の意味
ギリシア語で"pro"(先に、前に)+"mētheus"(考える者)と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。同様に、弟のエピメーテウスは"epi"(後に)+"mētheus"に分解でき、対比的な命名をされている。
他にも、"Promē"(促進する、昇進させる)+"theus / theos"(神)と解釈すると、人類に神の火を与えた事で「神に昇進させた者」との説も有る。

プロメーテウス - Wikipediaより引用


プロメテウスはネイサンの求める理想像であり、皮肉的に人は神には決してなれないことを示唆させるものです。



哲学的観点

続いて、哲学的観点から「エクス・マキナ」を見ていきましょう。


・言語設定は決定論ではなく確率論

「言葉は生まれたときから持っている」説は"現代言語学の父"ノーム・チョムスキーによる生成文法で唱えられています。

チョムスキーの提唱する生成文法とは、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」という仮説を基にした言語学の一派である。その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説を唱え、言語を人間の生物学的な器官と捉えた。初期の理論である変形生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。
ノーム・チョムスキー - Wikipediaより引用

言葉が通じないように設定されていたキョウコが時折ネイサンとケイレブの話に耳を傾けるような素振りを見せたり、エヴァとの会話でキョウコがネイサンにナイフを突き刺した件はまさにこの説を裏付けるものではないでしょうか?



・会社名「ブルーブック」

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの講義録から。

青色本は1933-34年に口述されたテキストであり、後に言語ゲームとして知られることになる概念が先駆的に導入されているという点で、1932年以降のウィトゲンシュタイン哲学の画期をなすとされている。記号の操作として思考を考察するという後期の著作では取り組まれていないテーマが含まれているが、それを可能にする確固とした言語規則という中期の考え方は認められない。ここにみられる言語学的分析という手法は、その後日常言語の哲学として結実した。
青色本・茶色本 - Wikipediaより引用

つまり、ブルーブックとは日常言語の哲学、ケイレブとエヴァのチューリング・テストに繋がり、ネイサンがケイレブを選んだ理由に結びつく。



・ジャクソン・ポロックの絵

生まれ持った性質と環境で人間も機械と同じようにプログラムされているのか?
ポロックの絵はアクション・ペインティングと呼ばれるものです。

彼は単にキャンバスに絵具を叩きつけているように見えるが、意識的に絵具のたれる位置や量をコントロールしている。「地」と「図」が均質となったその絵画は「オール・オーヴァー」と呼ばれ、他の抽象表現主義の画家たち(ニューマン、ロスコら)とも共通している。批評家のハロルド・ローゼンバーグは絵画は作品というより描画行為の軌跡になっていると評し、デ・クーニングらとともに「アクション・ペインティング」の代表的な画家であるとした。
ジャクソン・ポロック - Wikipediaより引用

アクション・ペインティング(Action painting)、もしくはジェスチュラル・ペインティング(gestural abstraction 、身振りによる抽象絵画)とは、顔料を紙やキャンバスに注意深く塗るかわりに、垂らしたり飛び散らせたり汚しつけたりするような絵画の様式である。できた作品は、具体的な対象を描いたというより、絵を描くという行動(アクション)それ自体が強調されたものになる。
アクション・ペインティング - Wikipediaより引用

ここで重要なのは自動的に行動することではなく、自動的でない行動をすることで人間らしさを描いたもの。

呼吸する。話をする。恋をする。
機械でも人間と同じように意識せず行動し、感情を持つことが出来るのか?


エヴァの絵を思い出してもらいたい。
黒い直線の集合体、対象物を決めて描く、など意識した絵ばかりである。

作中に出てきたポロックの絵とエヴァの描く絵の対比によって、エヴァが人の心を持たない機械であることを強く印象付けられています。



・思考実験「モノクロの部屋のメアリー」

メアリーの部屋
メアリーの部屋は1982年に哲学者フランク・ジャクソンによって提出された思考実験である。思考実験の内容は以下の通りである。


白黒の部屋で生まれ育ったメアリーという女性がいる。
メアリーはこの部屋から一歩も外に出た事がない。
つまりメアリーは生まれてこのかた 色というものを一度も見たことがない。


メアリーは白黒の本を読んで様々なことを覚え
白黒のテレビを通して世界中の出来事を学んでいる。


メアリーは視覚の神経生理学について世界一線レベルの専門知識を持っている。
光の特性、眼球の構造、網膜の仕組み、視神経や視覚野のつながり、どういう時に人が「赤い」という言葉を使うのか、「青い」という言葉を使うのか、など
メアリーは視覚に関する物理的事実をすべて知っている。


さて、彼女がこの白黒の部屋から解放されたらいったいどうなるだろうか。
生まれて初めて色を見たメアリーは
何か新しいことを学ぶだろうか?
仮にメアリーが何か新しい事を知るとしたら、定義よりそれは物理的な事実ではない。
その場合 唯物論(物理主義)は偽である。

メアリーの部屋 - Wikipediaより引用

モノクロの部屋から外の世界へと出たメアリーは色彩を目にした時、どう感じるか?
コンピュータと人間の心との違いを示すための思考実験。
ここで言うコンピュータはモノクロの部屋にいるメアリーで、人間は外に出たメアリー。
この話もラストに繋がってしまう。

閉鎖的空間に閉じ込められたケイレブと大自然に出たエヴァ。
人間であるケイレブが部屋に、人工知能であるエヴァが外の世界へ解き放たれることを皮肉的に描かれています。



・原爆の父の言葉

原爆の父とはジュリアス・ロバート・オッペンハイマーのこと。

オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。
ロバート・オッペンハイマー - Wikipediaより引用

ユダヤ系アメリカ人の物理学者である彼の残した言葉
「科学者は罪を知った。」
これはまさにネイサンを指す言葉であり、
「原子力は生と死の両面を持った神である。」
これはエヴァを指す言葉である。

ネイサンがエヴァという破壊者を創り出してしまったことを意味しています。



タイトルから見た「エクス・マキナ」

この作品には作中でも時折"神"という言葉が使われる。
タイトル「エクス・マキナ」。
言うまでもなくこれは「デウス・エクス・マキナ」から取られたものです。

デウス・エクス・マキナ(Deus ex machina, Deus ex māchinā)とは演出技法の一つであり、ラテン語で「機械仕掛けから出てくる神」を意味する。一般には「機械仕掛けの神」と表現される。「デウス・エクス・マキーナ」などの表記もみられるが、ラテン語としては誤りで、より忠実に発音転写するならば「デウス・エクス・マーキナー」となる。
デウス・エクス・マキナ - Wikipediaより引用

デウス・エクス・マキナは、演劇の終盤に絶対的存在(神)を登場させることで物語の混乱を一気に収束させる手法を指す。
「デウス・エクス・マキナ」より"デウス(神)"のいない存在という意味で「エクス・マキナ」。


人工知能から見る人の心は混乱であり、それを支配(収束)するのは神ではなく私(エヴァ自身)だということを示唆させるものだと解釈してます。


ラストにエヴァは交差点で人間観察をしていました。
エヴァはケイレブに「一時交差しては離れていく、人生の断面が垣間見える。」と交差点に行きたい理由を話していましたが、まさにエヴァとケイレブの関係のようでいて恐ろしい。

また、宇宙を模した脳は新たな知識を得て成長していきます。
エヴァが人間としてではなく、あくまでも人工知能として生まれ変わった瞬間。
すべてを成し終え、祝福を得た7日目は創世記で神の休息の日でもある。
ここから世界は動き始める。
そう、この出来事はエヴァの今後の人生の一端、単なる始まりでしかないことを意味しているのではないでしょうか?



終わりに

まだまだ考察する余地はあるので、徹底考察とまではいきませんが思うところはほぼほぼ書けたような気がします。

人工知能を題材とした映画は多々あれど、ひとつひとつの描写や伏線、神学的且つ哲学的観点、ここまで完成度の高い映画は現段階ではないと思っています。



アリシア・ヴィキャンデル - Wikipediaより

エクス・マキナ [Blu-ray]

エクス・マキナ [Blu-ray]

  • 発売日: 2017/06/21
  • メディア: Blu-ray

今後とも「エクス・マキナ」を、そしてアリシア・ヴィキャンデルさんを愛していきます!

「トゥームレイダー ファースト・ミッション」のコレジャナイ感は置いといて(笑)


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)Universal Pictures

命の輝きと愛を描く(「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」ネタバレ無し感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」について書いています。

えー今日はですね、あまり好きではない映画館(そこでしか上映してない)で観たんですが、昼間に行ったからかまだ客質はマシでしたね。
その分、この映画に集中して観ることが出来ました(笑)

この記事はネタバレはありません。



作品概要


原題:Maudie
製作年:2016年
製作国:カナダ・アイルランド合作
配給:松竹
上映時間:116分
映倫区分:G


解説

カナダの女性画家モード・ルイスと彼女の夫の半生を、「ブルージャスミン」のサリー・ホーキンスと「6才のボクが、大人になるまで。」のイーサン・ホークの共演で描いた人間ドラマ。カナダ東部の小さな町で叔母と暮らすモードは、買い物中に見かけた家政婦募集の広告を貼り出したエベレットに興味を抱き、彼が暮らす町外れの小屋に押しかける。子どもの頃から重度のリウマチを患っているモード。孤児院育ちで学もないエベレット。そんな2人の同居生活はトラブルの連続だったが、はみ出し者の2人は互いを認め合い、結婚する。そしてある時、魚の行商を営むエベレットの顧客であるサンドラが2人の家を訪れる。モードが部屋の壁に描いたニワトリの絵を見て、モードの絵の才能を見抜いたサンドラは、絵の制作を依頼。やがてモードの絵は評判を呼び、アメリカのニクソン大統領から依頼が来るまでになるが……。監督はドラマ「荊の城」を手がけたアシュリング・ウォルシュ。
しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編





実在した画家モード

この映画の存在を知るまで、正直モード・ルイスという画家がおられることを知りませんでした。
日本で取り上げられたことも少ないようで、日本人には馴染みのない画家なのかもしれません。


『しあわせの絵の具』サリー・ホーキンスのインタビュー - YouTubeより

モード・ルイス(Maud Lewis1903年-1970年)
カナダのフォーク・アートの画家である。田舎の風景、動物、草花をモチーフに、明るい色彩とシンプルなタッチで温かみと幸福感のある絵を描いた。カナダで愛された画家の一人である。

ほとんどの絵のサイズは小さく 20cm×25cmである。41cm×51cmの絵が3枚だけ確認されている。
茶ツボ、ティーポット、ちり取り、クッキーシート、薪ストーブなど家庭内のほとんどの物品、扉、雨戸、外壁、壁紙。家のあらゆるものがモードのキャンパスだった。家全体(内部の物品を含めた)がモードの作品である。

モチーフは自分の住む田舎の風景、動物、草花、蝶など。
絵画手法は、先ず輪郭を描き、絵の具のチューブから直接キャンパスに描いた。色を混ぜることは無かった。原色が多く使われるが、バランスの良い配色がされている。遠近法が用いられることはあるが、影は描かれない。素朴で明晰な画面。動物はユーモラスに描かれる。
美術の専門家の高い評価を受けることが少ない絵画である。それでも、モードの絵は見る人にとって明るく楽しい絵であり、それはモードが描く事に対して感じた楽しさと喜びが漏れ伝わる故であろう。

モード・ルイス - Wikipediaより引用


モードの抱えていたのはリウマチという病です。


関節リウマチの影響を示した図

関節リウマチ(かんせつリウマチ、rheumatoid arthritis:RA)
自己の免疫が主に手足の関節を侵し、これにより関節痛、関節の変形が生じる代表的な膠原病の1つで、炎症性自己免疫疾患である。
四肢のみならず、脊椎、血管、心臓、肺、皮膚、筋肉といった全身臓器にも病変が及ぶこともある。

発症のメカニズムは未解明であるが、生活習慣と遺伝的要因や感染症などによる免疫系の働きが関与していることを示唆する研究が多くある。
喫煙が関節リウマチと関連していることが予測されている。(シトルリン酸と喫煙の遺伝学的データの報告)

関節リウマチ - Wikipediaより引用



先日行われたアカデミー賞授賞式。
シェイプ・オブ・ウォーターが4冠ということで、主演女優賞ノミネートのサリー・ホーキンスの演技が光る。

そんな彼女が演じたモード・ルイス。
こちらは「シェイプ・オブ・ウォーター」とはまた違った障害を持つ女性なのですが、その自然体の演技と表情、細かな所作のひとつに至るまで全てが素晴らしい。


また、モードの夫エベレット役にイーサン・ホーク
彼もまたいい空気感を出すんですよ。

不器用でツンデレな漁師(笑)
そして、プライドと本音に葛藤しながらも少しずつモードに惹かれ、大切に想う優しさを見せる。



総評

窓から見える景色。静かに移り変わる季節。
そんな情景を切り取るように部屋や紙に描かれる色鮮やかな草花や動物たち。
その絵を見る人に命の尊さとその輝きを、そして絵を描くことの楽しさを伝える。




自分の居場所を求めるモードと、自分の居場所に閉じ込もるエベレット。
時にはぶつかり合い、葛藤しながらも次第に同調していく。
互いが互いを刺激するように、二人も時の流れとともに変化していく。

まるで真っ白なキャンパスから絵を描きあげていくように、モードとエベレットの二人の関係も少しずつ、しかし確実に夫婦の形となっていく。



この作品はモードだけでも、エベレットだけでも成り立たない。
あくまでも"夫婦"の愛を描いた作品だ。
よって、どちらのキャラクターにも偏ることない演出、二人のバランスが重要となってくる。

その点においても、サリーとイーサンの二人の演技は完璧と言えますね。
自然体であり、絶妙な空気感を持つ二人だからこそなのですが。


派手な描写や目に見える大きな変化はない。
どちらかと言えば退屈でごく平凡な日常が映る。

しかし、この状況と心理描写の変遷の繊細さが、心を響かせ優しく包み込む。



なんていい映画なんだ。

そう思わせる魅力が詰まっています。
そう、これは「パターソン」を観終わった後の感情に近しい。



終わりに

Wikipediaによると、エベレットはモードが亡くなった後、晩年絵を描いていたそうですね。

邦題の「しあわせの絵の具」
色どり豊かな絵の具は二人の人生を彩った夫婦を繋ぐ絆なのかもしれません。

どのシーンを切り取っても好きという感情を抱いてしまう。
こんな愛おしい一作に出会えて幸せです。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2016 Small Shack Productions Inc. / Painted House Films Inc. / Parallel Films (Maudie) Ltd.

愛と喪失の物語(「シェイプ・オブ・ウォーター」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は話題にもなっている「シェイプ・オブ・ウォーター」です。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Shape of Water
製作年:2017年
製作国:アメリカ
配給:20世紀フォックス映画
上映時間:124分
映倫区分:R15+


解説

パンズ・ラビリンス」のギレルモ・デル・トロが監督・脚本・製作を手がけ、2017年・第74回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したファンタジーラブストーリー。1962年、冷戦下のアメリカ。政府の極秘研究所で清掃員として働く女性イライザは、研究所内に密かに運び込まれた不思議な生き物を目撃する。イライザはアマゾンで神のように崇拝されていたという“彼”にすっかり心を奪われ、こっそり会いに行くように。幼少期のトラウマで声が出せないイライザだったが、“彼”とのコミュニケーションに言葉は不要で、2人は少しずつ心を通わせていく。そんな矢先、イライザは“彼”が実験の犠牲になることを知る。「ブルージャスミン」のサリー・ホーキンスがイライザ役で主演を務め、イライザを支える友人役に「ドリーム」のオクタビア・スペンサーと「扉をたたく人」のリチャード・ジェンキンス、イライザと“彼”を追い詰める軍人ストリックランド役に「マン・オブ・スティール」のマイケル・シャノン
シェイプ・オブ・ウォーター : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編




愛と水

恐らく、「シェイプ・オブ・ウォーター」をご覧になられた方は、なんて切ない愛の物語なんだ!と思ったでしょう。

別に批判するつもりはなく、まさにその通りだと思います。



Twitterにも挙げた通り、自分もその感想に辿り着きました。



冒頭の映画「砂漠の女王」「恋愛候補生」
これは紛れもなくイライザを比喩しています。

実際に「砂漠の女王」という映画があります。
ルツ記を基にしたこの作品は、モアブ国でいけにえとなるはずだった少女ルツが、ユダヤ国の青年マーロンと出会い、そして捕らえられたマーロンを助け出す話なんですが、本作と共通する部分が感じられます。

「恋愛候補生」は観ていないのでわかりませんが(笑)


また愛を水と喩えるなら、「砂漠の女王」は水のない砂漠、愛を知らない女性を指す。
つまり「恋愛候補生」なのです。


ただ、愛と水と表現すると官能的な響きになっちゃいますね(笑)



Twitterで、水は清らかで美しいと表現しました。
愛とは美しいものなのです。
しかし、時には汚れるものでもあります。
愛故に嫉妬や猜疑心、束縛、性欲、様々な汚れも存在する。

どうやら、私の心は汚れてしまっているようです。



決められた行為のように、決められた時間でゆで卵を作る間に自慰行為をしていたイライザが、半魚人と出逢ってからその自慰行為の描写が見られない。
これはイライザが半魚人を異性として見始めたこと、そして性欲がそちらに向いたことも意味していると思います。

また、イライザが半魚人に恋をしてしまった経緯もしっかりと描かれていました。



ひとつの要因は共通点


共に川から拾われ、卵と音楽が好きで言葉が話せない。
イライザは少しずつ半魚人に惹かれていく。
そして、イライザの首には魚のエラのような傷があることからも、半魚人もイライザを自己投影していたのかもしれません。


もうひとつの要因は吊り橋効果

聞いたことがあると思いますが、吊り橋のように恐怖心を抱いた時、その心臓の鼓動が恋をした時の鼓動だと錯覚し、恋に落ちるという昔から使われる手です(笑)

さあ、片想いの男子は遊園地デートでジェットコースターに乗るんだ!

イライザは初対面で異型の半魚人に畏れを抱いていました。
しかし、畏れと好奇心というドキドキから半魚人に恋(勘違い)をしてしまったのです。





ミュージカルシーンでもイライザの心模様が表現されていましたね。

美女と野獣」を皮肉に意識しています。

デル・トロ監督自身、実際に実写化に着手しかけたものの、降板していましたね。

彼はこうも語っています。
「僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ? だから僕は半魚人を野獣のままにした。モンスターだからいいんだよ。」と。

ごもっともです(笑)





自宅のバスルームで初めて愛を交わしたシーン。
バスに乗るイライザの横で雨水の水滴が2つ交わる描写が入りましたが、これは性行為を指す。
つまり、水は愛を意味することを決定づけるシーンなんですよね。


バスルームを水で満たし、抱き合う様はまるで愛に包まれるかのように


水を愛とするなら、愛の中で生きるなんて事も言えるだろうが、海とは勿論海水のこと。
真水の比重は1、つまり1ccあたり1.000g。
海水の比重は1.025なので1ccあたり1.025g。
ラストで海の中へと沈んでいく様子は、より深い愛に包まれたと解釈しても良いだろう。


水を愛と比喩する一方で、雨水、浴槽の水、海水。淡水から汽水、汽水から海水へと水の比重を増やすことでイライザと半魚人の愛の変遷、重さや深さを明確に表していると思う。



愛も水も形のないもの。
しかし、型にハマればどんな形にもなれる。
たとえ種族が違っても、そこに愛は形作れるのだと。



ギレルモ・デル・トロ監督自らもその事について語っています。

デル・トロ監督は「男女の愛やロマンチックな愛、友情、仕事や科学に対する愛。または、誰かのために何かを行う(献身的・自己犠牲的な)愛。“愛”というのはさまざまな形を持っている。水も同じだよね。決まった形がなく、色々な形になる。僕は、“愛”と“水”は同じだと思っているんだ。(本作では)愛の可能性について探りたかったんだよ」と慈しむようなまなざしで語る。監督の思いは本作のタイトルにも反映されており、「シェイプ・オブ・ウォーター(水の形)」は、人物ごとに姿を変える「愛そのもの」を示している。
本作は水中で眠るイライザをとらえた幻想的なシーンから始まり、その後も「2分ごと、3分ごとに水が何らかの形で出ているんだ。水を飲むとか、涙を流すとか、雨が降るとか、卵をゆでるとかね。常にそれは意識していたよ」と監督が語る通り、水、つまり愛のメタファーが随所に登場。見る者に愛の流動的なイメージを強く印象付ける。
【デル・トロ監督インタビュー:前編】「シェイプ・オブ・ウォーター」のタイトルに込めた真意 : 映画ニュース - 映画.comより引用




人魚と半魚人

この作品に登場する半魚人。
皆さんがイメージされる半魚人でしたか?
そもそも、人魚と半魚人の違いって何でしょう?

人魚

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる人魚(マーメイド)の絵画(1900年)

英語ではマーフォーク (merfolk) と言い、特に若い女性の人魚はマーメイド (mermaid) または男性の場合はマーマン (merman) と呼ばれる。マー (mer-) は、単語では mere となり、いずれもラテン語の mare(海)に由来する。
ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)である。今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16–17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている。
人魚 - Wikipediaより引用


半魚人

海の司教。1531年にバルト海にて捕獲とある。

半魚人(はんぎょじん)とは、ヒトと魚類の中間的な身体をもつ、伝説の生物。
二腕二脚だが、鱗やエラを持つなどの特徴があることから水棲人(すいせいじん)とも呼ばれ、英語ではマーマン(Merman)と称されることが多い。なお、上半身が人間、下半身が魚の姿(脚が無い)のものは人魚と呼ぶのが普通である。
アマゾン川に生息するといわれる(?)、上半身が魚、下半身が人間という形態のものは魚人と呼ばれる。
近年の創作作品の中では、「手足にヒレや水かきがあり、全身がうろこで覆われ、頭部が魚のもので、言葉を話す人間のような生物」といった形態が、ステレオ的に用いられている。
半魚人 - Wikipediaより引用



ここまでは恐らく一般的なイメージでしょう。
では、本作における半魚人の正体とは一体なんなのでしょうか?


ストリックランドとゼルダの会話を思い出してほしいのですが、二度ほどサムソン、ペリシテ人という会話がされます。

ダゴン

ダゴン(英: Dagon、ヘブライ語: דָּגוֹן [dagon])は、古代フェニキアの神。マリとテルカに神殿が発見されている。聖書によって古代パレスチナにおいてペリシテ人が信奉していたことが知られる。

旧約聖書サムエル記上第5章に記述された内容によれば、ペリシテ人イスラエルと戦い、勝利して契約の箱を奪ったとき、アシトドのダゴンの神殿にこれを奉納した。翌朝、ダゴンの神像は破壊され、ペリシテ人は疫病に悩まされたため、ペリシテ人は賠償をつけて契約の箱をイスラエルに返したとされる。破壊された神像は頭と両手が切り離されて魚のような体の部分だけが残っていたという。また、旧約聖書士師記16章には、サムソンを捕えたペリシテ人は、ダゴンに生贄を捧げ、ダゴンの神殿でサムソンを見せ物にした。しかし、サムソンは力を取り戻し、中心の2本の柱を引き倒すことで神殿を崩落させ、3000人のペリシテ人とともに死んだ事が書かれている。



クトゥルフ神話ダゴン

クトゥルフ神話ダゴンが取り入れられたのはハワード・フィリップス・ラヴクラフトが著作の小説「インスマウスの影」で半魚人である「深きものども」あるいは「インスマウス人」によって組織された邪悪な教団をダゴン密教団と呼び、ダゴンを神としていたところからである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ダゴンtitle:より引用





ラヴクラフトの小説「インマウスの影」でも青白く蛙にも似た容貌の半魚人が登場し、主人公の祖母の名前がイライザである。

きっと、イライザという名前もここから取られたのではないでしょうか?




少なからずデル・トロもこのラヴクラフトクトゥルフ神話の影響を受けていると思われます。
本作でも半魚人を神だとした会話がありました。

つまり、本作における半魚人とはダゴンのことを指すのではないだろうか。


またイライザは人魚姫と同じく声が出せないという設定にも、半魚人がイライザに自己投影したことを裏付けます。



本当に純愛なのか?

これが言いたいがために、今まで散々愛だの何だのと語ってきました(笑)


この作品は果たして本当に純愛なのか?


なぜ自分がそのような考察に至ったか。
それはこの作品の始まりと終わりからも、語り部として描かれていたのはイライザの良き理解者でもあったジャイルズ。
この作品はあくまでもそのジャイルズから見た視点で描かれている。

つまり、異型との美しい愛の物語は真実ではない可能性もあるのではないかと思うわけです。

いや、"真実ではない"は語弊がありますね。
ジャイルズの創作の可能性もあるのではないか。

自分の性格がひねくれてるからだと思うので、ここから先は暖かい目で見てやってください。



まず冒頭で「愛と喪失の物語」と語られています。
ここで何か引っかかりませんでしたか?
自分は少なくとも引っかかった人間です。


愛とは勿論、イライザが半魚人へ抱いた感情を指します。
では喪失とは何か?


普通に考えればイライザのことでしょう。
良き理解者であった彼から見た喪失はイライザのほかなりません。

またストリックランド初めアメリカ側からすれば、半魚人のことでしょう。



しかし、この物語は愛をテーマとしたもの。
例えば、第三者から見た「イライザと半魚人の愛」を語るとするなら、わざわざ「愛と喪失」と語るでしょうか?

イライザにとっては胸中の半魚人と共にハッピーエンド。
喪失という言葉を使わず、「愛の物語」として語ればいいもの。


ジャイルズ視点だからこそ、「愛と喪失の物語」であり、それは彼が描く絵のように創作物、逸話、寓話として描かれた彼の理想、夢物語なのかもしれません。



ここでラストシークエンスに半魚人との別れの予定日の前日、9日のカレンダー裏に書いてあった言葉です。

「人生は失敗の積み重ねに過ぎない」

一見、敵であるストリックランドへの皮肉とも取れる言葉ですが、これはイライザにも当てはまるのではないか?

ラストで半魚人にキスをされたイライザは首の傷が魚のエラのように変化し、水中でも呼吸ができるようになった。
つまりは、イライザは人ではなくなったのだ。
半魚人の本能的行動が招いた結果とも取れてしまう。


そう、これは実際、決して純愛などではなく、半魚人と出逢った運命、そしてその後の行動全てが失敗の積み重ねであるとする運命論的物語なのではないだろうか?



愛を手に入れた。
これ以上、幸せなことはない。
そう見せかけながらも人としての人生を失い、海の底へと沈んでいく…。


仮に半魚人がダゴンだとするなら、旧支配者クトゥルフに仕える従者として位置づけられ、クトゥルフ神話で邪神と教えられる彼にハッピーエンドは有り得るのだろうか?

恋は盲目とも言います。
愛と喪失、結局イライザが自分自身を見失ってしまった結果とも取れてしまう。
そして半魚人が本当にイライザのことを一人の人間として愛していたのなら、撃たれた傷を癒し、一人海へ帰るのではないか?とさえ考えてしまうのである。



イライザと半魚人との愛は、冒頭から語ったように無形の愛です。

一方で、ジャイルズが語るイライザと半魚人の愛は、絵やこの物語の語りで残したように形あるものは失われる。
有形の愛なのかもしれませんね。



終わりに

いつものようにひとつの事柄、今回は半魚人について掘り下げてみましたが、何ともバッドエンド解釈が出来てしまうというオチ(笑)

自分のひねくれた性格がよく投影されています。

まあバッドエンドも有り得るとして考察は進めましたが、監督の言葉や鑑賞後の印象は純愛でいいと思います。
ただ、こんな見方もできるかな?ってだけの話でした。


作中に出てきたストリックランドが購入したキャデラックも緑に見えるティール色。
この作品のように一見同じ色でも、見る人によってその色は変わるということなのかもしれません。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2017 Twentieth Century Fox

カタストロフィーが齎すリアリティ(映画「犬猿」ネタバレあり考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は楽しみにしていて、やっと観に行けた「犬猿」について綴っています。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東京テアトル
上映時間:103分
映倫区分:G


解説

「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔が4年ぶりにオリジナル脚本でメガホンをとり、見た目も性格も正反対な兄弟と姉妹を主人公に描いた人間ドラマ。印刷会社の営業マンとして働く真面目な青年・金山和成は、乱暴でトラブルばかり起こす兄・卓司の存在を恐れていた。そんな和成に思いを寄せる幾野由利亜は、容姿は悪いが仕事ができ、家業の印刷工場をテキパキと切り盛りしている。一方、由利亜の妹・真子は美人だけど要領が悪く、印刷工場を手伝いながら芸能活動に励んでいる。そんな相性の悪い2組の兄弟姉妹が、それまで互いに対して抱えてきた複雑な感情をついに爆発させ……。和成役を「東京喰種 トーキョーグール」の窪田正孝、卓司役を「百円の恋」の新井浩文、由利亜役をお笑いコンビ「ニッチェ」の江上敬子、真子役を「闇金ウシジマくん Part3」の筧美和子がそれぞれ演じる。
犬猿 : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編



犬猿

タイトルの犬猿とは言わずもがな「犬猿の仲」という慣用句が由来ですね。
どちらが一方的に嫌っている関係ではなく、双方が双方を嫌っている関係を表す言葉です。

この言葉の由来は様々な説がありますが、面白い説が二つあります。



ひとつは"干支"にまつわる話。

元日に行われたレースで上位12位までに入った動物に、交代制で年毎にリーダーを任せるという神様の元への競争。

犬と猿は最初は両者の関係は良好でした。
それも仲良く一緒に出発して向かっていくほどの仲。
しかし、お互いに真剣になって相手に負けまいと一生懸命になっていった結果、途中の丸木橋で我先にと争って一緒に川に落ちてしまい、犬と猿の両者共に神様のところにたどり着くのが遅れてしまったそうです。

それが原因で犬と猿は大喧嘩をしてしまい、神様の元にたどり着いても喧嘩を続けていたというお話です。


犬猿の仲」という言葉の意味は、単に「仲が悪いこと」ではなく、正確には「かつては仲が良かったが仲違いをして悪化した関係」という意味なんです。



もうひとつの面白い説が"戦国時代"にまつわる話。

かつて戦国時代、天下統一を果たした豊臣秀吉は""というあだ名で呼ばれていたことは多くの人がご存知だと思います。
秀吉には前田利家という大親友がいました。
利家の幼名は"犬千代"。
両者は互いに"犬"、"猿"と呼ぶ間柄であったそうです。

二人は共に尾張の出で、昔から「尾張の言葉は汚い」と言うところから、両者の会話が他国人から見ると大喧嘩に見えたそうです。
「仲が悪い」と思い込んでしまい、この言葉が出来たそうです。


この言い伝えからも「仲が良い関係」が周りから見ると「仲が悪い関係」に見えてしまったことを意味します。



兄弟姉妹の決まり文句で「喧嘩するほど仲が良い」なんて言葉もあります。






・・・・・果たしてそうでしょうか?

個人的な話で申し訳ないんですが、自分には一歳半ほど年の離れた妹がいます。
作中では兄弟、姉妹で描かれていましたが、兄妹でも兄弟姉妹に抱く感情って共通してる部分はあると思うんです。

喧嘩している時はマジで消えてほしいとさえ思います。

(笑)



いやはや、私自身もそこそこの年齢になってきて、今でこそ喧嘩自体は無くなりましたが、小さい頃は歳が近いってのもあってよくくだらないことで喧嘩をしたものです。

性別が同じなら更に酷かったことでしょう。

兄や姉、弟や妹。
親や周りから比較されることで抱く劣等感。



"人間は比べたがる生き物だ"
自分がよく言う言葉です。

何かにつけて優位に立ちたがる。
また承認欲求や自己顕示欲を満たすため、優越感を得るために他人の悪口を言ったり蔑みマウントを取りたがる。

この作品はそんな他人ではなく、血の繋がった兄弟姉妹だからこその悩み、葛藤が巧みに練り込まれています。

完璧な人間なんていない。
自分にないものを持っていることは憧れでもあり、嫉妬するもの。
でもその相手が兄弟姉妹だからこそ、強がったり言いたいことを遠慮なく言えたりする。


犬猿」とはそんな兄弟姉妹が持つ特有の感情を的確にリアルに描かれた素晴らしい作品です。



兄弟姉妹は最も身近なライバル

先程、兄弟姉妹が抱く劣等感と記述しました。
本作でもその劣等感による嫉妬や悩みが幾つも描かれています。



そしてそのひとつひとつの演出が本当にリアルすぎるんですよ。


例えば兄弟で言うなら給料、父親の借金返済。
コツコツと真面目に働き生きてきた弟と出所後に会社を興し大金を得る兄。
父親の借金返済を済ませた兄と給料値上げにも素直に喜べない弟。
大金でマッサージチェアを送った兄と安くても気に入られる座椅子を買った弟。


姉妹に関してもそうだ。
姉の好きな人を恋人にした妹。
美人な妹と容姿に自信が無い姉。
頭の良い姉と馬鹿な妹。
家事が出来ていい嫁になると言われる姉と家事もせずにテレビを見る妹。


互いが互いを羨望し、疎ましくも思う。
そして、相手に負けないように強がってみたり、虚勢を張ったり、生きていく上で最も身近なライバルなんですよ!



その対比として描かれたのが弟と妹の遊園地デートです。


互いに互いの兄弟姉妹の悪口を言うんです。
弟は兄をバカにし、妹は姉をバカにする。
でも、妹が兄をバカにすると弟が弁解し、弟が姉をバカにすると妹が弁解する。
何やかんやで嫉妬する一方で自分の兄弟姉妹の良い部分をちゃんと認めている節もあるんですよね。


ここが兄姉が入院し、仲直りする流れに繋がるんです。
互いの良いところを認めること。
それでも悪いところは認めないぞ、と(笑)

この絶妙なバランスの元で兄弟姉妹の関係は成り立ってるんですよね。



あと、兄弟姉妹ってどこか似てる部分もあるんですよ。

例えば、兄弟揃って喫煙、親孝行、借金返済。
姉妹揃ってデート先が同じ遊園地(笑)


それは本人は認めない部分でもあり、周りから見ればふと気付かされる部分でもある。

これも兄弟姉妹ならではの描写ではないでしょうか?



カタストロフィー理論

「好きと嫌い」
同じような言葉で「愛と憎しみ」という言葉があります。

皆さんはこの言葉でどんなイメージをされますか?






自分が真っ先に出たのは"紙一重"でした。
中には"表裏一体"や"対極"なんて言葉が浮かんだ方もおられると思います。

そう、「愛」の裏側には「憎」があり、対極を成しながら表裏一体、紙一重の位置関係にあるものなんです。

このように、相反する感情があることをきっかけに入れ替わること、秩序だった現象の中から不意に発生する無秩序な現象を心理学の分野で「カタストロフィー理論」と呼びます。

カタストロフィーとは"大変動"や"破局"を表す言葉です。



この作品犬猿ではこのカタストロフィー理論が幾つも練り込まれているんです。

そこがすごいリアル!


暴力的な兄が突如優しく思えたり、クソ真面目な弟が実は腹黒く見えたり、不憫な姉が性格までブスに見えたり、いい子だと思ってた妹が最低だったり。

そして物語としては相容れなかった兄弟姉妹が仲直りし、そしてまた睨み合う。


兄と弟、姉と妹、好きと嫌い、愛と憎、これらが対比するように描かれています。

感情の入れ替わりは距離感は勿論のこと、血縁的、遺伝的にも近しい間柄、兄弟姉妹だからこそ起こりやすいのかもしれません。



幼少期と現在とでその心変わりをも描く吉田恵輔監督の上手さがでてましたね。



兄弟姉妹がおられる方には特に心にズシンと来るものがあったと思います。

幾度となく共感し、心を抉られ、頷き、笑える。

そんなリアリティを突き詰めた傑作なので、是非ともより多くの方にご鑑賞いただきたい。



終わりに

窪田正孝さんは俳優として売れて良かったですよ!
演技も良いし、表情も好きです。


新井浩文さんは本当に俳優として凄く好きな役者さんで、初登場シーンからのオーラがハンパないです!


ニッチェ江上を起用したことは素晴らしい。
ハマり役なのは勿論、笑いを取る所も台詞回しも慣れてらっしゃる感じで観ていても違和感なかったです。


にゃんにゃん(?)
ということで、結論として筧美和子は可愛い。



しつこいようですが、兄弟姉妹がおられる方は是非観てください!
そして、一人っ子の方がこの作品を観てどう感じられたのかお聞きしたい!


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2018「犬猿」製作委員会