小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

自分の"正しさ"を押し付ける危うさ(「ある少年の告白」感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回はジョエル・エドガートンの監督二作目「ある少年の告白」についてネタバレなしで語っています。

最後までお読みいただけると幸いです。



作品概要


原題:Boy Erased
製作年 :2018年
製作国:アメリカ
配給:ビターズ・エンド、パルコ
上映時間:115分
映倫区分:PG12


解説

俳優ジョエル・エドガートンが「ザ・ギフト」に続いて手がけた監督第2作で、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」などの若手実力派俳優ルーカス・ヘッジズを主演に迎え、2016年に発表され全米で大きな反響を呼んだ実話をもとに描いた人間ドラマ。アメリカの田舎町で暮らす大学生のジャレッドは、牧師の父と母のひとり息子として何不自由なく育ってきた。そんなある日、彼はある出来事をきっかけに、自分は男性のことが好きだと気づく。両親は息子の告白を受け止めきれず、同性愛を「治す」という転向療法への参加を勧めるが、ジャレッドがそこで目にした口外禁止のプログラム内容は驚くべきものだった。自身を偽って生きることを強いる施設に疑問と憤りを感じた彼は、ある行動を起こす。ジャレッドの両親役をラッセル・クロウとニコール・キッドマンが演じるほか、映画監督・俳優としてカリスマ的人気を誇るグザビエ・ドラン、シンガーソングライターのトロイ・シバン、「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のフリーらが共演。
ある少年の告白 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



監督とキャスト

ジョエル・エドガートン監督二作目となる今作「ある少年の告白」。
前作「ギフト」でその才を開花させ、次回監督作を楽しみにしていました。




本作でも監督兼キャストとしてこの作品を支えています。

ジョエル・エドガートン出演作で有名なのはなんでしょう?
トム・ハーディと共演した「ウォーリアー」やジョニー・デップ主演「ブラック・スキャンダル」、ジェニファー・ローレンス主演「レッド・スパロー」などでしょうか?



今作はなんと言ってもキャストが良い。


牧師の父ラッセル・クロウとその妻ニコール・キッドマン。

ラッセル・クロウは自分の中でずっとパパ顔。
「パパが遺した物語」や「スリーデイズ」など良き父親から「グラディエーター」のようなむさ苦しい男、「ビューティフル・マインド」のような繊細な役や「レ・ミゼラブル」のような憎まれ役まで卓越した演技力を持つ好きな俳優のひとりです。

ニコール・キッドマンは「アザーズ」や「LION ライオン 25年目のただいま」など、最近では「アクアマン」でも美しい母親役を演じていますね。
自分が人生で初めて観たR-18指定映画が「アイズ ワイド シャット」でして…ってこの話はいいか(笑)



そしてその息子、主人公ジャレッド役のルーカス・ヘッジズ。

ルーカス・ヘッジズは良い役者になりましたね。
地味なのですが、個人的に彼の表情で語る演技が好きなんですよ。
自分のオールタイム・ベストでもある「マンチェスター・バイ・ザ・シー」でも素晴らしい演技を披露されています。


ジョエル・エドガートン自身も、前作「ギフト」で描いた心理的狂気を今作「ある少年の告白」でも遺憾無く発揮しています。

独特で不穏な空気が出せたのも、これら豪華キャスト陣の演技があってのこと。
ご馳走様です!という感じです。



本題

さて、早速本題に入っていきます。
あらすじ通り、今作は同性愛を矯正する施設の闇に迫る事実に基づく物語。


宗教の盲信。
信仰は自由であり、当然ながら他者に押し付けるものではない。

では、牧師の息子として生まれたら?

信仰心とは別に親子関係や世間体が絡んでくる。
だからこそ厄介なものであり、最も身近な存在である家族ですら抑圧的になったり、強迫観念に駆られた狂気的な存在となり得るのだ。


キリスト教の影響を受けた欧米諸国では伝統的に、同性愛は聖書において指弾される性的逸脱であり、宗教上の罪(sin)としてきた。一方、近年の欧米諸国においては、同性愛も異性愛と同様に生まれつきの性的指向であり、不当な扱いをされるべきではないとの認識が広まっている。ただ、欧米諸国においても同性愛に対して、宗教的観点、道徳、倫理を主張する立場から問題とする意見も有力である。

同性愛の容認傾向が広まっている現状に対する積極的肯定と非難、およびその間に位置づけられる様々な見解がキリスト教の中にある。 旧約聖書では創造神ヤハウェは、男と女が結ばれるべきだと命令している。

キリスト教と同性愛 - Wikipediaより引用



私自身、無神論者であり、そんなバカな話はないと思っていますが、宗教的観点、道徳、倫理を主張する立場から問題とする意見もあることが事実です。

だからこそ、今作「ある少年の告白」は今観ておく映画ではないでしょうか。

ここで、勘違いされないように言及しておきますが本来、聖書は"同性愛の傾向を持っていること"が罪だとは述べていません。
禁じられているように見える聖句は、あくまでその"行為"を禁じているのであって、"傾向"を持っていること自体が罪だという教えではないのです。



驚くべきことに、この施設では同性愛はドラッグ、ギャンブル依存、アルコール依存、精神疾患、ギャング、家庭内暴力などと並べられる"自分の罪"として扱われます。

同性愛は神に反する行為であり、行動の原理を断ち切り我々の身を神に戻す、と。

確かに、聖書によれば、神を信じる人々に対して明確な倫理基準が設けられており、その中には偶像礼拝や淫行や盗みなどと合わせて、同性愛行為を禁じているような箇所もあります。



それは旧約聖書の律法でも明記されています。

〈レビ記〉18章22節
あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。

〈レビ記〉20章13節
男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。

主にレビ記には同性愛、近親相姦、獣姦などを禁じるものが多い。



しかし、一般的な感覚から見ても淫行や盗みなどが罪であることは受け入れやすいのに対し、"同性愛の行為"については、その"傾向"を持つ人々にとって、受け入れがたい問題となるのです。

性的嗜好は生まれ持った性質であり、本人が意図せずにそのような"傾向"を持っている人たちに、その"行為"は"罪"だと押さえつけることこそが"罪"だと思いませんか?



その"罪"の意識を懺悔する"心の精算"。
同性愛の行為が罪だということを前提に、同性愛を"治す"その思想がエスカレートし、"同性愛であることが過ちである"といった矯正へと発展しています。

聖書を盾に主張を正当化して洗脳させる。
異常なまでの狂気が空気感としてひしひしと伝わり、恐怖と不条理さを痛烈にぶつけてくるんです。





ここからは個人の見解として

性愛とは一対一の誠実な人格的関係の中でのみ、真実の喜びを成就するもの。
つまりは、異性愛であろうと同性愛であろうとこの関係に他者が介入すること自体が受け入れがたい話である。


旧約聖書の性の考え方を現代に置き換えると、そこには齟齬が生じる。

例えば、オナニーという言葉の起源になったオナンという人物は、精液を膣外射精して
彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された(創世記38章10節)
とある。

子孫繁栄のためにならない性行為は、すべて違法行為という考え方がその根底にあり、そこと同性愛を結びつけること自体、ナンセンスではないだろうか。


また、同性愛者による結婚に関しても問題が生じる。
創世記の記述に基づいて、結婚は一対一の男女にのみ許された制度とするならば、これは同性愛の排除を目的とした記述ではなく、異性愛を不可侵の規範とするには根拠が薄弱である。

ノアが方舟の後、生き残った生き物に対して神は新しい時代の契約として「子を生んで多くなるように」と伝えました。
この命令は男女の結婚を前提としたものです。

モーセの律法やパウロの手紙などでも男女の結婚、男が一人の妻を持つことが前提とされ、男女の結婚に関する秩序は一貫して神から出ていることが分かります。


生殖に結びつかない性行為の是非は語るまでもなく、性の享受は権利ではなく自由の特権であり、誰もが持つ基本的人権の尊重。
自然の理を否定する人間の偏見の恐ろしさと自分を否定される人間の苦しみ。
同性愛の問題に現代のキリスト教がどのような対応を示したとしても、真摯に受け止める姿勢です。



終わりに

今作「ある少年の告白」を観終わって、少し思いの丈をぶちまけたくなったので衝動的に思い立って書き出しました。

自分の意見が全て正しいとは思っていません。
しかし、同性愛否定論者の主張が正しいとも思っていません。
自分が"正しい"と思う主張を他者に押し付けることの危うさをこの映画が切実に訴えています。
正直なところ、双方が納得する答えを出すのは難しいでしょう。

だからこそ、「ある少年の告白」を観て感じることを思いのままぶちまけて欲しいのです。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2018 UNERASED FILM, INC.

雌雄を決する三位一体バトルミステリー(「劇場版名探偵コナン 紺青の拳」ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は「名探偵コナン 紺青の拳」について語りたいと思います。

映画「紺青の拳」の事件の核心(犯人や手口等)には触れていませんが、物語に関するネタバレ、名探偵コナンの原作コミックス、及び前作までの劇場版名探偵コナンのネタバレは含みます。

未読、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2019年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:110分


解説

大ヒットアニメシリーズ「名探偵コナン」の劇場版23作目。劇場版シリーズでは初めての海外となるシンガポールを舞台に、伝説の宝石をめぐる謎と事件が巻き起こる。コナン宿命のライバルでもある「月下の奇術師」こと怪盗キッドと、これが劇場版初登場となる空手家・京極真が物語のキーパーソンとなる。19世紀末に海賊船とともにシンガポールの海底に沈んだとされるブルーサファイア「紺青の拳」を、現地の富豪が回収しようとした矢先、マリーナベイ・サンズで殺人事件が発生。その現場には、怪盗キッドの血塗られた予告状が残されていた。同じころ、シンガポールで開催される空手トーナメントを観戦するため、毛利蘭と鈴木園子が現地を訪れていた。パスポートをもっていないコナンは日本で留守番のはずだったが、彼を利用しようとするキッドの手により強制的にシンガポールに連れてこられてしまう。キッドは、ある邸宅の地下倉庫にブルーサファイアが眠っているという情報をつかむが……。
名探偵コナン 紺青の拳(フィスト) : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



蹴撃の貴公子

400戦無敗"蹴撃の貴公子"と称される杯戸高校空手部主将、京極真。


原作初登場は「園子のアブない夏物語」
ある事件で犯人に狙われた園子を助けたことから二人の関係が始まります。

「バレンタインの真実」では発射されたライフルの弾丸を避けるという人間離れした身体能力も披露します。
他にも「園子の赤いハンカチ」で園子のピンチに駆けつけるなど、園子にとってヒーロー的存在でもあるんですよ。
真面目が故に園子の露出の多い服装を注意したり、一途が故に連勝記録を止めてでも何日も園子を待っていたり、天然な所も。


「容疑者か京極真」では園子と蘭のクラスメートで截拳道の使い手の世良真純と初対面します。

怪盗キッドvs.京極真」では園子の思惑、そして嫉妬させようと園子の心を盗んだと茶化す怪盗キッドに敵意剥き出しの京極真が描かれます。
鈴木財閥の相談役、鈴木次郎吉が京極真のことを"世界最強の防犯システム"と称しました。

京極真と怪盗キッドがライバル関係になったのはこの回からなんです。



怪盗1412号

怪盗キッドとは、名探偵コナンの原作者である青山剛昌先生が描く作品「まじっく快斗」の主人公。


天才マジシャンであった亡き父、黒羽盗一の死の真相を突き止めるべく、父の後を引き継ぎキッドという怪盗で世間を騒がしています。
彼の目的は父の死の真相と関わりのあるビッグジュエルを探し出し、真実を解き明かすことなんです。
怪盗と呼ばれていますが、所謂義賊。
盗んだものは元の持ち主に返還しています。


正式名称は怪盗1412号。
書きなぐりの"1412"が"KID"に見えたことから怪盗キッドと呼ばれるようになりました。

原作怪盗キッドの驚異空中歩行」では、鈴木財閥が所有するビッグジュエル"大海の奇跡"を狙って怪盗キッドとコナンが初対面します。
その時、園子がキッドに攫われて京極真が助けに来てくれるという妄想を蘭に話しており、怪盗キッドvs.京極真」で実現することに。

また怪盗キッドの瞬間移動魔術」でも鈴木財閥が所有する"紫紅の爪"を使ってキッドへの挑戦状を叩きつける。

怪盗キッドvs.最強金庫」ではキッドからの予告で鈴木財閥が誇る難攻不落の金庫"鉄狸"を披露。
「闇に消えた麒麟の角」「コナンキッドの竜馬お宝攻防戦」「コナンvs.キッド 赤面の人魚」でキッドとコナンは何度も対峙しています。

鈴木次郎吉がコナンのことを"キッドキラー"と呼ぶ所以がここにあります。



今作「紺青の拳」では協力関係にあるコナンとキッドも探偵と怪盗という本来は追う側追われる側の立場。
コナンの好敵手である怪盗キッドの好敵手が京極真という絶妙な三角関係。
というか、怪盗キッドに敵が多いだけなんですが。



今回もキザなセリフを残していきました。

『中身を言い当ててくれよ名探偵。殺人という名の謎めいた拳の中身をな。』



本作を観る前に

ここで、本作を観る前に原作もしくはアニメの「名探偵コナン」で書かれた事件「容疑者か京極真」怪盗キッドvs.京極真」を読んでおくことをオススメします。
京極真が如何に真面目で如何に強いのかが分かります(笑)


ただ本編で怪盗キッドvs.京極真」の映像が少し挿入される程度なので、今作『紺青の拳』単品でも十分楽しめる仕上がりになっています。
無理に観る必要は特に問題はありません。

前作『ゼロの執行人』同様に予備知識さえあれば単品で楽しめる仕様となっており、登場人物と人物相関図さえ頭に入れておけば問題はありません。


さて、前回の記事『ゼロの執行人』でも、Twitterでも何度も語っている自論"名探偵コナン"とは何たるか。が本作には詰め込まれています。



改めて語りましょう。


原作「名探偵コナン」では新一と蘭、平次と和葉、園子と京極、小五郎と妃、高木と佐藤…など様々なラブコメが描かれています(青山剛昌先生がラブコメ大好き)。

極論ですが、自分は「名探偵コナン」はラブコメありき、寧ろラブコメのない「名探偵コナン」は「名探偵コナン」ではないと思ってます。

‪APTX4869という黒の組織が開発した新種の薬を投与され、幼児化してしまった工藤新一。‬
江戸川コナンとして事件解決していく中で、新一がコナンとして過ごすという現状は新一と蘭のラブコメは平行線のままということ。
しかし、原作や映画でも何度か新一の姿に戻ったり、声だけでも蘭の傍に寄り添う。

‪ミステリー漫画として売り出している以上、本筋は黒ずくめの組織との対峙、殺人事件の推理がメインなのは仕方ないのですが…時が止まったように、本来は進展しないはずのラブコメが徐々に進展していく様、お互いの気持ちを素直に言えないもどかしさや物理的な障害が最大の魅力だと思っています。



今作ではシンガポールを舞台に鈴木園子と京極真、この二人のラブコメを中心‬に怪盗キッドの好敵手・京極真との三角関係、そして毛利蘭と工藤新一と怪盗キッドの三角関係も絡ませつつ非常に上手い人物相関図を描いています。


また、従来追うはずの立場である探偵・江戸川コナン怪盗キッドに協力するという、言わば"容疑者か怪盗キッド"という構図も見所。


今作は京極真が劇場版初登場なので劇場版の過去作を鑑賞する必要はないのですが、過去作でのキッド出演作もチェックしておくとより今作を楽しめます。

「世紀末の魔術師」

「銀翼の奇術師」

「探偵たちの鎮魂歌」

天空の難破船

「業火の向日葵」




ネタバレ感想

ここからネタバレ感想になるので未鑑賞の方はご注意ください。










さて、上記で鈴木園子と京極真のラブコメと記述しましたが、今回で園子への想いがしっかりと分かる描写がありましたね。

特に、京極真の額に貼られた絆創膏の秘密が。
園子とのプリクラを肌身離さず持ってるだなんて乙女かよと(笑)
400戦無敗の最強の男にこんなことされたら、そりゃあもうギャップに萌えますね!


ギャップと言えば、園子の髪型。
普段はカチューシャなどで前髪を上げたヘアースタイルをしていますが、今回初めて前髪を下ろす園子が拝めます。
端的に可愛すぎます。



と、基本的には園子と京極の恋愛が中心なのですが、結局のところ最後は工藤新一と毛利蘭のラブコメで締まりました。

メインはあくまでも園子と京極ですが、新一と蘭のラブコメは水面下でしっかりと描かれていたんです。
これは自分が今作こそ「名探偵コナン」だと賞賛する一因でもあります。
正直、前作での不完全燃焼から一転、ここまでのラブコメを見せられては、原作ファンとしても非常に嬉しい。


「ホームズの黙示録」でロンドンにて遠回しな告白をした新一、「紅の修学旅行」で蘭が答えを出した。
原作でも正式に付き合ったことになるのですが、キッドはこのことを知らなかったんですよね。


ラストで蘭は新一がキッドの変装だと見破っていました。
『二回も新一に変装して!』の台詞。
これは過去作天空の難破船のことです。
蘭は新一がキッドの変装だと見破ったのも、新一がしないようなことをキッドがしたから。
今回のきっかけは父である毛利小五郎のことを『おっちゃん』と呼んだから。

これ、めちゃくちゃ些細な日常の一片であって、二人の仲だからこそ気付けることなんですよね。
コナン自体も気付かなかったほどに。


それまでの新一と蘭のツーショットや言動、全てをしっかりと観察した上で確信したからこそのあのラストなのです。

蘭がどれだけ新一のことを考えているのか、どれだけ新一のことが好きなのか。が分かる素晴らしい描写なんです。

これ、コナン(新一)からすればめちゃくちゃ嬉しくないですか!?
自分なら嬉しい。。。

怪盗キッドvs.京極真」でも、園子に変装したキッドを京極真が見破ります。
京極が見破った理由はアレでしたが(笑)



キッドが間に入り、愛の再確認が出来る。
それを可視化する演出が最高of最高なんですよ!!!


もう一度言います。
今作はラブコメがしっかりと盛り込まれた"これぞ名探偵コナン"だと思います。



怪盗キッド出演作の劇場版名探偵コナンはミステリーというよりもアクションに重きが置かれ、いつもの名探偵コナン以上に視覚的に楽しめると思います。

欲を言えば、怪盗キッドと京極真の直接対決をもっと見たかった気もしますが、敵対する関係が協力関係になるという構図は好みでしたね。



今作の監督を務められた永岡智佳さん。
劇場版名探偵コナン初の女性監督ということもあって、ラブコメ要素に関して申し分無し。
また、キャラクタームービーとしても最高で、怪盗キッド、京極真のファンにとっては最高でしょう。



終わりに

コナン(新一)とキッドは今までにも貸し借りのある仲で、利害の一致で今回も協力関係にあったわけですが、新一と蘭の間を良い感じで怪盗キッドが取り巻いてくれました(笑)

現在の最新巻96巻でも別の事件ですが怪盗キッドと京極真が登場しています。
また前作「ゼロの執行人」のメインキャラクター、安室透も登場し、各々の登場人物が文字通り一本に繋がる展開に…!

同時に新一と蘭、平次と和葉、警視庁の千葉と三池など恋愛要素も徐々に進展。

96巻にして依然として飽きることなく、更に楽しみにさせてくれる「名探偵コナン」を今後も応援していきます!



そして、「紺青の拳」のエンドクレジットで恒例の次回作の触り映像が流れましたね!

次回作はどうやら赤井秀一についての映画のようです。
原作の黒ずくめの組織とのエピソードを準えつつ、前作「ゼロの執行人」の続編的な作品になりそうです。

2020年も劇場版名探偵コナンが楽しみです!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2019 青山剛昌名探偵コナン製作委員会

栄華に狂い、破滅と踊る(『サンセット』ネタバレなし考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は第68回カンヌ映画祭コンペティション部門に出品した『サウルの息子』のネメシュ・ラースロー監督最新作『サンセット』について語っています。

この記事にネタバレはございません。



作品概要


原題:Napszallta
製作年:2018年
製作国:ハンガリー・フランス合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:142分
映倫区分:G

解説

長編デビュー作「サウルの息子」がカンヌ国際映画祭グランプリのほか、アカデミー賞ゴールデングローブ賞外国語映画賞も受賞したネメシュ・ラースローの長編第2作。第1次世界大戦前、ヨーロッパの中心都市だったブダペストの繁栄と闇を描いた。1913年、ブダペスト。イリス・レイテルは、彼女が2歳の時に亡くなった両親が遺した高級帽子店で職人として働くことを夢見て、ハンガリーの首都ブタペストにやってくる。しかし、現在のオーナーであるオスカール・ブリッルはイリスを歓迎することなく追い払ってしまう。そして、この時になって初めて自分に兄がいることを知ったイリスは、ある男が兄カルマンを探していることを知り、イリスもブタペストの町で兄を探し始める。そんな中、ブタペストでは貴族たちへの暴動が発生。その暴動はイリスの兄とその仲間たちによるものだった。2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品。
サンセット : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



時代背景

1913年頃、現代のオーストリアハンガリーをはじめチェコスロバキアクロアチアスロベニアルーマニアボスニア・ヘルツェゴビナの領土を持ったオーストリア=ハンガリー帝国が存在していた。

ハプスブルク家ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に解体するまで存続した。

帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。
その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」(ツィスライタニエン)と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(トランスライタニエン)に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。

オーストリア=ハンガリー帝国 - Wikipediaより引用


第一次世界大戦勃発前、ヨーロッパ全域の緊迫した情勢の交差点、そして多数の言語と文化や宗教の近代化と廃退が混在する多民族国家でもあり、不穏な空気が入り乱れる時代。
その中心地でもあったブダペスト
そこにある当時最先端で憧れの職業でもあった高級帽子店を舞台にひとりの女性が翻弄されていく物語。

冒頭から流れるシューベルトの楽曲と美しい日没(サンセット)の街並みはこの後に起こる何かを示唆させる。



フランツ・ヨーゼフ1世オーストリア皇帝に即位し、ハンガリー国王も兼ねた。
舞台となる高級帽子店レイターに貴賓として迎えるのは皇位継承者フランツ・フェルディナント皇太子とその皇太子妃ゾフィー
1914年、この2人がセルビア人青年に暗殺され、オーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国に宣戦布告し第一次世界大戦の勃発に繋がった。

これが、サラエボ事件です。


暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付(La Domenica del Corriere)

サラエボ事件サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア出身のボスニアセルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。プリンツィプは、セルビア系秘密結社「黒手組」の一員ダニロ・イリッチ(英語版)によって組織された6人の暗殺者(5人のボスニアセルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者らの目的は青年ボスニア(英語版)と呼ばれる革命運動と一致していた。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。

サラエボ事件 - Wikipediaより引用




高級帽子店を舞台にしたのにも理由がある。
20世紀初頭において帽子は重要なアイテムのひとつでした。
当時はブリムと呼ばれる帽子のつばの部分が大きく、顔を覆うようなボリューム感のあるデザインが流行していました。

劇中で、「帽子はおぞましい物を見ないようにするためにある」と語られるようにつばの広い帽子は劇中の物語の確信に迫る真実を覆い隠すという意味があるのかもしれません。


女性解放運動などの社会的な方面、医学的な側面からもコルセットは廃れ、様々なファッションが模索される時代でもあります。
コルセットを必要としないファッションに合わせるように帽子のデザインもコンパクトなものが流行するようになる。

このように自由な女性のファッションという流行の変化が、時代の変化のメタファーとして盛り込まれています。



ネメシュ監督の手腕

さて、冒頭でも記述しましたネメシュ・ラースロー監督。
彼自身、ハンガリーブダペスト出身で、彼の初の長編作となるサウルの息子では手腕を見せつけられました。



サウルの息子』ではアウシュヴィッツを舞台に第二次世界大戦を描く。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、ハンガリーユダヤ人のサウルは同じユダヤ人の死体処理係(ゾンダーコマンド)として働く。
強烈なテーマと独自のカメラワークは彼の名を世界に広めることとなる。



長編二作目となる今作『サンセット』では第一次世界大戦に至る前の歴史と時代の陰りを見事に描き切っています。

サウルの息子』同様に執拗以上にカメラは主人公イリスの後方を追い、彼女を映しながらその世界を体感させる。

常に先を見据えたような、そして彼女の困惑と真実を知りたいという視点が我々観客の視点とリンクした時、初めてこの作品は完成する。



正直なところ、直接的な表現や明白な意図、得られる情報が少ないまま物語は進んでいき、置いてけぼりになる可能性が高い、非常に不親切な手法。

これは2019年公開の『ウトヤ島、7月22日』の疑似体験型ドキュメンタリーを観た時の不安感やモヤモヤ感に近い。



ウトヤ島、7月22日』において、観客がその場に居るような体感型を取り入れながら物語に一切介入しないモキュメンタリーとしての"視点の矛盾"が生じる。
つまりは"存在しないはずのカメラマンの存在"だ。

今作『サンセット』では引きの映像も織り交ぜ、あくまでも俯瞰的にその世界を見つめる客観的視点とした上で、体感型としても臨場感を味わうことが出来る。
それが"視点の矛盾"を回避しているんです。



ひとりの女性に焦点を当て、時代に翻弄され、世界に迷い、自分を見誤り、何を見て何を体験したのか?
ピントをわざと外したり、暗闇ではっきりと映さない芯を掴ませない映像、その全容を明かさず世界の片鱗を覗かせるように映し出される。


ネメシュ・ラースロー監督は

この作品は全編35mmフィルムで撮影されています。映画という表現とテクノロジーの関係についてどのようにお考えですか?
私にとって現在の映画とテレビの標準化は疑わしく、すでに証明し尽くされ文脈に当てはめられつくした方法に頼るのではなく、イメージや物語を現す新しい方法を探そうと依然として決心し続けています。つまりは、リスクを犯さなければならないという意味です。

今日、観客が映画から得る経験は、だんだん不満足なものになり、観る者の想像の旅を無視し、より簡単に理解できる産業化された表現に堕ちてしまったように感じます。いまの映画に満足している人にとっては、私の『サンセット』の監督方法は、簡単には受け入れ難かったかもしれません。しかし、私は映画が持っている大いなる可能性と観客を結び付けたいのです。

(オフィシャル・インタビューより)


と語るように、受け入れ難いリスクを承知の上でこの手法をとっているのです。



観客に"気づき"を与え、観客が想像力を膨らませる。
観客に委ね、観客を信じ、時には謎は謎のまま明白な答えを掲示しないこと。

ここの徹底ぶりは監督の意図であり、腕があっての演出であろう。



まとめ

ブダペストにある高級帽子店を舞台に、ヨーロッパの歴史の自滅、時代の変化をファッションの流行の変化に準えながら、兄探しというミステリードラマで描かれる主人公イリスの視点と我々観客の視点が同化した時、困惑とともに絶大なる疲労と余韻を齎す。



映画を通して歴史を推理する。

この楽しみに気付いたのは学生を終えて"勉強"という枠から解放されてからだ。
特にわたくしはホロコースト映画、ナチ映画が好みで、フィクションか否かは関係ない。
そこに在った事実をどう見せるのか?が重要だと思っています。


専門書なら兎も角、映画という"娯楽"から学ぶ"史実"はもっと演出に"自由"があってもいいのではないか?

史実とはあくまでも史料によって導き出された結論のひとつに過ぎない。
言わば"原作"のようなもの。
その窮屈な枠から解放され、その他の史料、諸説を繋ぎ合わせて新たな仮説を立てることの面白さ。

映画を通して歴史を推理するとは、ミステリー小説におけるハウダニットホワイダニットのように、"どのように"、"何故その行為に至ったのか"、散りばめられた手掛かりから結論を紡ぐように推理していく行為に似ています。


観客の想像力を信じたネメシュ・ラースロー監督のリスクを承知で謎を謎のままで残す新たな映画の見方。
観客に委ねる手法と独自のカメラワークはその腕を確かなものにしたと思います。



終わりに

如何でしたか?
上記にも書いたように非常に不親切で難解な内容ではあるのですが、映画の答え(感じること)は自分で持てばいいんです。

ネメシュ・ラースロー監督の次回作にも期待します!




(C) Laokoon Filmgroup - Playtime Production 2018

運ばれるもの(『運び屋』ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は3月8日に全国公開された『運び屋』について(とは言ってもいつものような掘り下げた考察ではなく、イーストウッドの過去作を交えながら)語っています。

待ちに待ったイーストウッド監督最新作。
そして『人生の特等席』から7年振りの主演、自身の監督作では『グラン・トリノ』から10年振りということで、ずっと楽しみにしていました!


というわけで、最後までお目通しいただけたら幸いです。



この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Mule
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:ワーナー・ブラザース映画
上映時間:116分
映倫区分:G


解説

巨匠クリント・イーストウッドが自身の監督作では10年ぶりに銀幕復帰を果たして主演を務め、87歳の老人がひとりで大量のコカインを運んでいたという実際の報道記事をもとに、長年にわたり麻薬の運び屋をしていた孤独な老人の姿を描いたドラマ。家族をないがしろに仕事一筋で生きてきたアール・ストーンだったが、いまは金もなく、孤独な90歳の老人になっていた。商売に失敗して自宅も差し押さえられて途方に暮れていたとき、車の運転さえすればいいという仕事を持ちかけられたアールは、簡単な仕事だと思って依頼を引き受けたが、実はその仕事は、メキシコの麻薬カルテルの「運び屋」だった。脚本は「グラン・トリノ」のニック・シェンクイーストウッドは「人生の特等席」以来6年ぶり、自身の監督作では「グラン・トリノ」以来10年ぶりに俳優として出演も果たした。共演は、アールを追い込んでいく麻薬捜査官役で「アメリカン・スナイパー」のブラッドリー・クーパーのほか、ローレンス・フィッシュバーンアンディ・ガルシアら実力派が集結。イーストウッドの実娘アリソン・イーストウッドも出演している。
運び屋 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編




前置き

まず、前置きとして、クリント・イーストウッドの映画について語っていきたいのですが、ちょっと長いのである程度焦点を絞って語ろうと思います。




これはTwitterに上げたイーストウッド監督作ベスト10です。
多少前後入れ替わりはあるかもしれませんが、大体こんな感じです。

ご覧の通り、自分は概ねイーストウッド監督作はゼロ年代以降に好みが偏ります。


まあここに『運び屋』(19年)が入るんですが。



ミスティック・リバー』(03年)
ミリオンダラー・ベイビー』(04年)
チェンジリング』(08年)

といったゼロ年代の作品は明確なテーマを基に人の心の影を、心を抉るような骨太ドラマを描いた作品が多い。
映画的には正統派、分かりやすく、そして心に留まる、それ故に傑作なのです。



また、21世紀以降の作品はイーストウッド監督にとっても転機であったと思います。

硫黄島からの手紙』(06年)
父親たちの星条旗』(06年)

から、イーストウッドは実話を基に数々の作品を残しています。

インビクタス/負けざる者たち』(09年)では、黒人初の南アフリカ大統領ネルソン・マンデラを。
J・エドガー』(11年)では、FBI長官ジョン・エドガー・フーバーを。
ジャージー・ボーイズ』(14年)では、伝説のグループ、ザ・フォーシーズンズを。


そして
アメリカン・スナイパー』(14年)
ハドソン川の奇跡』(16年)
15時17分、パリ行き』(18年)

戦争の恐怖、航空機事故、銃乱射事件。
それらの実話を基に、ヒロイズムと奇跡を描いています。


実際にあった出来事は観客がどれだけその知識が共有されているか、がひとつの問題。
当然、その出来事には様々な要因やその背景があり、それを劇中でどの程度、どの分量で上手く見せられるのか、教えられるのかが重要であると考えています。

その点、イーストウッド監督は良い意味での割り切り、潔さがあるんです。
劇中で見せる部分は見せる。
端折る部分は切る、もしくは淡々とあっさり流してしまう。
そして訴えたいこと、残したいメッセージを的確に伝えてくる。
つまり、裏を返せば、"イーストウッド監督が見せる映像には全て意味がある"ということ。

ここがわたくし個人の好みと合致するが故にクリント・イーストウッドが最高峰の映画監督と称する所以です。


過去の作品に遡って見てみると、イーストウッドのその映画がイーストウッド自身の人生と重なる部分が多い。

例えば、ガントレット』(77年)、『許されざる者』(92年)、『ブラッド・ワーク』(02年)など出演、監督作の多数に見られる死と再生。
敬虔なキリスト教徒でもあるイーストウッドの"イエス・キリストの復活"とも受け取れる。

更に踏み込んだ話をするならば、監督作ではないにしろ一昨年に『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(17年)としてリメイクされた『白い肌の異常な夜』(71年)や、『タイトロープ』(84年)などで女性に虐げられる姿も晒け出す。

イーストウッド初監督作の恐怖のメロディ』(71年)を鑑賞された方なら御察しだと思いますが、イーストウッドはプライベートでも女好きで有名で、プレイボーイそのもの(笑)
ブラッド・ワーク』等でお爺ちゃんになってもラブシーンを撮るなど、割とこの手のセクシャリティがなんの躊躇いもなく盛り込まれている作品も多い。


こうした何気ない描写ひとつひとつも、後から見てみれば意味を持つ。
これもイーストウッドの映画人生の楽しみ方ではないでしょうか。



さて、冒頭でも語りましたが、そんな長期に渡るイーストウッドの映画人生の中でも、21世紀以降のイーストウッド監督作はガラリと毛色が変わった"転機"なんです。

そのきっかけがこの作品。

許されざる者』(92年)



グラン・トリノ』(08年)


この二作を繋ぐものは、クリント・イーストウッドの自己投影、集大成だということ。


グラン・トリノ』と今作『運び屋』を観る前に、ある程度過去のイーストウッド出演作及び監督作を観ておくことをオススメします。



許されざる者では、これまで悪党を殺しまくってきたガンマンが「もう暴力の時代じゃない」と銃を置く物語。
イーストウッドの俳優時代を支えた西部劇を否定するような構成は夕陽のガンマン』(65年)などを経た俳優イーストウッドの精神的遺作なのだ。

そしてグラン・トリノは、『許されざる者』から監督イーストウッドとしての新境地開拓してきた自身の映画の答え、集大成であるとともにダーティハリー』(71年)などの現代劇からの脱却、更なる挑戦である。


では、今作『運び屋』(19年)とはイーストウッドにとって一体どのような立ち位置による作品なのだろうか。



本題

前置きが長くなりましたが、ここからが本題です(笑)

『運び屋』は2014年6月にニューヨーク・タイムズ・マガジンに掲載された『シナロア・カルテルの90歳の運び屋』に着想を得て作られています。

今作の主人公アールは、デイリリーというユリの一種の栽培で有名な人物であり、一度に13億円相当のドラッグを運んだレオ・シャープという実在の人物がモデルです。



主にイーストウッド監督作には形骸的な家族をテーマとする作品が作られている。

グラン・トリノ』に関してもそうだ。
妻を亡くし、息子とは不仲。
そんな中で隣に越してきた少年と"擬似家族"のような関係を築いていく。


今作でも『グラン・トリノ』と同様に不仲な家族を描きつつ、麻薬組織の一員として彼らとの関係を築いていく。
まるで家族との関係性の代わりのように。

故にこの劇中の言葉が胸に響く。



"時間がすべて"。


今まで生きてきた90年という歳月の中で、デイリリーの栽培、仕事を優先し家族を蔑ろにした結果、その失った時間を金で埋め合わせようとする姿。
そして、時間はお金で買えないという普遍的なテーマから、時間が家族との愛を育むものとして、気付かせてくれのが皮肉にも妻の病であること。
それらの人生をデイリリーという花に準え落とし込んだイーストウッドの自己投影。


劇中にも語られますが、デイリリーは1日に数時間しか花を咲かせない。
その注目されるひと時のために人生を捧げ、有名になり、賞を貰うアール。

イーストウッド自身も、俳優、監督として数々の賞を貰い脚光を浴びる一方で家庭問題を抱えていた。
前置きでも語ったセクシャリティな部分はしっかりと今作にも反映されています。



イーストウッド自身、こう語っています。

俳優として60余年のキャリアを誇るイーストウッドは「若い時はたくさん役を演じ、なかには社会的価値のあるものも、アクション満載の娯楽作品だけのこともある。いろいろな機会がある。でもある段階に達したら、少し自分に負荷を課す作品を探すことも必要だ。言えなかったことが言えるような作品を選ぶこともね」と作品選びの重要性を説く。
さらに、「学ぶことに年齢は関係ない。年を取っても学べる。そうしながら、人に教えることもできる」と本作で描かれるテーマについて触れ、「私はいつも異なるタイプの物語に興味がある。西部劇でも、現代劇でも、どんな作品でも、私はずっと新しいもの、脳を刺激するものを探そうとしてきたし、この作品もそうだ」と創作のポリシーを明かす。
イーストウッド「学ぶことに年齢は関係ない」 創作のポリシー語るインタビュー映像 : 映画ニュース - 映画.comより引用



イーストウッド自身が師と仰ぐドン・シーゲル監督。
ドン・シーゲルイリノイ州出身ということで、イーストウッドドン・シーゲルを目指すように劇中でもテキサス州からイリノイ州に向かうアールの姿が描かれています。(考えすぎかもしれませんが)。

『白い肌の異常な夜』(71年)ダーティハリー』(71年)など俳優イーストウッドとして育ててもらったことはお金では買えない有意義な時間。
次はイーストウッドブラッドリー・クーパーに与えたいと思ったのかもしれない。

『アリー/スター誕生』(18年)でも、当初はイーストウッドが監督を務める予定でした。
クーパーが監督を務め、レディー・ガガを起用したことに苦言を呈しながらも、完成度の高さに前言撤回するなど、師弟愛を感じさせる。


『運び屋』劇中でも、追われるアールとその背を追うベイツという構図がまさにそれ。
ブラッドリー・クーパー演じる麻薬取締局の捜査官ベイツに声を掛けるイーストウッド演じるアール。
この師弟コンビの会話シーンが最も印象的だ。

90歳という年齢だからこそ、思ったことを口にしただけであってもその会話ひとつひとつの言葉にも重みが含まれる。
役だけでなく、監督としてまるでイーストウッドからクーパーへ意志や想いが運ばれていくような…そう想って観ると、ますます映画人生の教えのようにも見えてくるんですよ。


『運び屋』はイーストウッドの"集大成"ではなく、あくまでそれは『グラン・トリノ』。
『運び屋』はその集大成『グラン・トリノ』を経て、次に進んだイーストウッドの"映画人生の継受"。
映画におけるアールが自身の投影ではなく、映画『運び屋』そのものが自身の映画人生の投影なんだと思います。

許されざる者』、『グラン・トリノ』を経て、イーストウッドが、今作で我々に訴えるメッセージはイーストウッドにとって"映画は人生そのもの"であるということ。

『運び屋』はまさにイーストウッドの人生観、映画人生を示したもの、そしてそんな人生を次世代へ継受する作品なのです。



イーストウッドにとっての映画とは、仕事ではなく家族と過ごすような愛を育む時間であると今になって気付かされた。

何に時間を使うのか。
時間は有限であり不可逆的だからこそ、その使い方次第で価値のあるものにも、無価値なものにもなり得るということ。

これは映画業界へ遺したものであり、師弟関係にあるクーパーへの遺産でもある。



また、ラストの裁判のシーンにイーストウッドの意志が強く反映されているように思う。

逮捕、起訴され、弁護士の弁論中にアールは自ら「自業自得」「有罪」という言葉を発する。
これは素直に受け取ると、アール自身の人生への最終宣告、つまり身柄を拘束されその引導を渡す相手がベイツであることから、やはりイーストウッドからクーパーへの継受なのだろう。

その上で「老いたりしない」と語り、ラストにデイリリーを栽培する姿は「イーストウッド監督としてもまだやっていくぞ」という意気込みなのだろうか。

「年を取っても学べる。そうしながら、人に教えることもできる」
と語るイーストウッドのこれからに注目だ。



終わりに

結局、本題より前置きの方が長くなってしまいましたが、如何でしたでしょうか?

自分で書きながら、イーストウッド出演作、監督作をまた改めて観直していきたいと思いました(笑)

何れにせよ、改めて今後もクリント・イーストウッド監督作及びブラッドリー・クーパー監督作を観ていきたい。
そう思える充実した最高のひと時でした。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC


人間の本質とは(『岬の兄妹』ネタバレなし感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。

またまた久しぶりの更新になって申し訳ございません。
今回はポン・ジュノ監督が傑作と認めた片山慎三初長編監督作『岬の兄妹』について、ネタバレなしで語っています。

最後までお付き合いいただけると幸いです。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:プレシディオ
上映時間:89分
映倫区分:R15+



解説

ポン・ジュノ監督作品や山下敦弘監督作品などで助監督を務めた片山慎三の初長編監督作。ある港町で自閉症の妹・真理子とふたり暮らしをしている良夫。仕事を解雇されて生活に困った良夫は真理子に売春をさせて生計を立てようとする。良夫は金銭のために男に妹の身体を斡旋する行為に罪の意識を感じながらも、これまで知ることがなかった妹の本当の喜びや悲しみに触れることで、複雑な心境にいたる。そんな中、妹の心と体には少しずつ変化が起き始め……。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭の国内コンペティション長編部門で優秀作品賞と観客賞を受賞。
岬の兄妹 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編



貧困がテーマの映画

『母なる証明』のポン・ジュノ監督作品や『マイ・バック・ページ』の山下敦弘監督作品などで助監督を務めた片山慎三の初長編監督作であり、個人的にこの二人の監督の共通するテーマは人間の本質だと思います。
今作『岬の兄妹』を鑑賞し、片山慎三監督も少なからずこれらの影響は受けているように思いました。

普段何気なく平穏な生活を送るにあたって、我々が目にも留めないであろう貧困層、障害者の抱える問題。



昨今、日本映画では貧困に焦点を当てた作品が多数作られています。

例えば、2017年公開の個人的邦画ベストにも入った白石和彌監督作『彼女がその名を知らない鳥たち』。


所謂貧乏生活の中でも愛の多様性を訴えた作品。
愛とは見返りを求めず、ただ純粋に与えるもの。
これは恋人だけでなく家族にも通ずるものがあります。
イヤミスと言われていますが、個人的には純愛そのもの。
共感出来ない愛、それは当人たちの間で育まれたひとつの愛の形だからです。



そして、2018年公開の是枝裕和監督作『万引き家族』。


こちらも貧乏生活の中で、血の繋がらないひとつの家族としての在り方を描いた作品。
生きるために犯罪を犯す。
その犯罪が共有する秘密、擬似家族としての絆を育んでいく皮肉。
不可視である家族愛というものを主観的に、そして現実の厳しさを客観的に見せたこの作品は心に複雑な想いを残しました。



日本映画以外にもアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作『ビューティフル』や、ケン・ローチ監督作『わたしは、ダニエル・ブレイク』、ダニス・タノヴィッチ監督作『鉄くず拾いの物語』など、貧困をテーマに鑑賞後に心に重くのしかかるも家族愛を描いた作品も多数あります。



ここで疑問に思うのが、貧困とは生活だけの問題なのだろうか?ということ。
確かに金銭面での貧困は目に見えるものです。
『万引き家族』のように居場所のない人達が社会的弱者となること。

そんな貧困を問題提起とし、人と人の絆を描いたこの作品、個人的評価はイマイチな理由がその更に一歩先に踏み込んで欲しかったという点に尽きる。


今作『岬の兄妹』のように兄の良夫は正しく貧困であることは目に見えています。
しかし、妹の真理子のように一人で出歩くことすらままならない自閉症などの精神疾患を抱えた人たちは生活が潤っていたとしても満足なのでしょうか?

"貧困な発想"などと表現されるように、貧困には目に見えない精神的な部分も示されるのではないか?


そう、今作『岬の兄妹』では金銭面での貧困だけでなく、障害者としての社会的弱者の貧困をも描き出した『万引き家族』では描ききれなかった、生きる為ならなんでもするという更に一歩踏み込んだ現実の生々しさや厳しさから人間の本質を炙り出した衝撃作なんです。



社会的弱者から見た視点

上記でも挙げさせていただいた『万引き家族』でも生活苦を脱却するために犯罪が正当化されるような演出がなされています。
勿論、犯罪は犯すべきものではないのですが、それを主観で見ることで劇中で正当化しているんです。


今作『岬の兄妹』でも身的障害を持つ兄がリストラに逢い、罪の意識を抱きながら生活苦から無許可の売春斡旋を行う。
犯罪に手を染めながら、知的障害の妹真理子の姿に喜びを得て、そして生を性で繋ぐこの生活から逃れられなくなっていきます。

そこには社会的弱者から見た主観が入る。
苦肉の策とでも言おうか、その選択肢しかなかったのです。
そうするしか生きる道はなかったのです。

真理子の視点から見ても、自閉症ということもあり、善悪の判断は出来ません。
言い方は悪いですが、そこにつけ込んだ良夫の罪はあるでしょう。
そんな行動も、美味そうに飯を食う姿、快楽、そして潤っていく生活に犯罪行為や倫理観が正当化されてしまっている怖さ。


決して共感出来るものではない。

自制が効かず自分から性を求める真理子の姿は痛ましいものがある。
あくまでも客観的に、第三者から見れば明らかな異常。
これは良夫の親友でもある警察官・肇の視点でも示されます。

この社会的弱者と我々との視点の齟齬が鮮明に描かれています。



障害者と健常者の視点

この作品はあらすじにあるように、貧困による生活苦から金銭のために妹の身体を商品とする売春斡旋に手を出してしまう。

そんな重いテーマの中、妹の真理子の台詞から笑いを誘うようなブラックユーモアな演出が幾つもされている。

これは例えば某番組での運動神経悪い芸人を笑いものにするように、或いは外国人のカタコトな日本語を嘲笑うように。
我々が普段何気なく目にするバラエティ番組などでの無自覚な偏見に気づかせるものでないのか?

何不自由のない平穏な生活を送る我々が、客観的に社会的弱者を、自分よりも劣る対象を見て揶揄したり嘲笑うこと。

片山慎三監督はこのブラックユーモアを見せることで、健常者が無意識に持つ障害者への差別や偏見を伝えたいのではないのか?

この疑問は鑑賞後にも、今も尚、自分の心に留まり続けています。



終わりに

第71回カンヌ国際映画祭で、最高賞のパルムドールを受賞。
第91回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。
第42回日本アカデミー賞最優秀作品賞を含む8部門で最優秀賞を受賞。
現在も劇場での上映がされており、話題性も高い『万引き家族』を敢えて引き合いとして挙げさせていただきました。

勿論、共通する部分は多いのですが、『岬の兄妹』は上記で述べたように更に一歩踏み込んだ現実の厳しさを見せられます。
生々しい性描写など、美化されていない人間の本質を顕著に描き切っています。


小規模上映が勿体無いと思えるほどの力作であり、衝撃作。
映画館で鑑賞することをオススメいたします。

人間の本質とは何か?
是非、その目で確かめてください。


最後までお目通しいただいた方、ありがとうございました。



(C)SHINZO KATAYAMA

魔女の存在と意思(「サスペリア(2018)」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。

公開日初日に鑑賞してきました1月25日公開の『サスペリア(2018)』について語っています。

今回もいつもながら、こじつけと自論で展開しております。
興味のある方は最後までお付き合い頂けたら幸いです。

この記事はオリジナル版、リメイク版ともにネタバレを含みます。
ご注意ください。




作品概要


原題:Suspiria
製作年:2018年
製作国:イタリア・アメリカ合作
配給:ギャガ
上映時間:152分
映倫区分:R15+


・解説

映画史に名を刻むダリオ・アルジェントの傑作ホラーを、「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督が大胆にアレンジし、オリジナル版とは異なる視点から新たに描いた。1977年、ベルリンの世界的舞踊団「マルコス・ダンス・カンパニー」に入団するため、米ボストンからやってきたスージー・バニヨンは、オーディションでカリスマ振付師マダム・ブランの目に留まり、すぐに大きな役を得る。しかし、マダム直々のレッスンを受ける彼女の周囲では不可解な出来事が続発し、ダンサーたちが次々と謎の失踪を遂げていく。一方、患者だった若きダンサーが姿をくらまし、その行方を捜していた心理療法士のクレンペラー博士が、舞踊団の闇に近づいていくが……。「フィフティ・シェイズ」シリーズのダコタ・ジョンソンほか、ティルダ・スウィントンクロエ・グレース・モレッツら豪華女優陣が共演。イギリスの世界的ロックバンド「レディオヘッド」のトム・ヨークが映画音楽を初めて担当した。撮影はグァダニーノ監督の前作「君の名前で僕を呼んで」に続き、「ブンミおじさんの森」などで知られるタイ出身のサヨムプー・ムックディープロム。

サスペリア : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編






オリジナル版『サスペリア(1977)』

今回、『サスペリア(1977)』のリメイクということで、正直なところ期待と不安、フィフティーフィフティーだったわけですよ。



君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督に決定!と初めて聞いた時には
「おいおいおいおい!」
と。


いや、監督がどうこうというよりも、リメイクするのかという方に驚きが。
リメイクすることは、古い映画への認知、古参新参共に楽しめるという点では賛成なんですがね。



何を隠そう、当管理人レクはですね…
サスペリア大好きマン!!!
なんですよ(笑)



キャッチコピー
「決してひとりでは見ないでください」
インパクトを与えた作品でもあります。



特別ダリオ・アルジェント監督のファンというわけでもないのですが、魔女三部作の中でもそりゃあもう『サスペリア(1977)』は至高です。

続編の『インフェルノ』、『サスペリア・テルザ 最後の魔女』はまあ置いておいて、『サスペリア(1977)』はずっと色褪せない傑作だと思ってます。



ということで『サスペリア(1977)』から語らなければ本作の話には入れないので、少し前置きが長くなりますが語ります、すみません。
語りたいだけなので、オリジナル版の話なんか要らないんだよという方は飛ばしていただいて結構です(笑)

正直な話、リメイクと言いつつオリジナル版の鑑賞は必須ではありません。

なぜなら、オリジナル版『サスペリア(1977)』とは異なる視点から描いたものとのことで、基本的に予備知識がなくてもひとつの作品としてしっかりと成り立っています。

むしろ、過去の有名作を40年以上経った今リメイクするということについて、改変は大正解だと思います。
同じストーリーを準えるだけではオリジナル版を鑑賞した方にとっては面白味に欠けちゃいますからね。


しかし、しかしですよ?
オリジナルを観ていれば「おっ!」となる箇所は幾つかあります。
そして、この魔女三部作の一作目『サスペリア』においては特に魔女の存在をしっかりと把握することで見えてくるものがあるんじゃないかと思っております。





Twitterの"1日1本オススメ映画"というタグでも『サスペリア(1977)』をオススメしています。



もしオリジナル版をご鑑賞なさるならこちら、HDリマスター パーフェクト・コレクションがオススメです!


ここで記載したダリオ・アルジェント魔女三部作の魔女とは何か?という話をしておきましょうか。
一応、リメイク版でも言及はされますが、魔女三部作ではより詳しく言及されています。


魔女三部作では一作目『サスペリア(1977)』に登場する魔女の正体は続編『インフェルノ』、『サスペリア・テルザ 最後の魔女』で明かされることになります。




要約すると

サスペリア(1977)』に登場した三姉妹の魔女の1人"溜息の母(『インフェルノ』では嘆きの母)"。
続いて『インフェルノ』に登場した魔女"暗黒の母(『インフェルノ』では暗闇の母)"。
サスペリア・テルザ 最後の魔女』では魔女"涙の母"。

インフェルノ』にて。
近所の骨董屋で"3人の母"という本を見つけます。
その本の著者はバレリという人物で、数世紀前の建築家。
その"3人の母"(魔女)のためにそれぞれフライブルク、ローマ、ニューヨークで家を建てたことが明かされる。

サスペリア・テルザ 最後の魔女』にて。
1000年以上前に3人の姉妹が黒海の近くで姿を現し、世界中を放浪して行く先々の村や町で死や破壊、混沌をもたらした。
やがて3人は安住の地を求め溜息の母はフライブルクに、暗黒の母はニューヨークに、涙の母はローマにそれぞれが移り住んだとされる。

サスペリア(1977)』の舞台がドイツ。
インフェルノ』の舞台がアメリカ。
サスペリア・テルザ 最後の魔女』の舞台がイタリアというわけです。




さて、ここからは魔女について少し話を進めましょう。
魔女の正体について魔女三部作から得た情報を元に独自に探っていきます。


ここで言う"3人の母"とは、クトゥルフ神話ニャルラトホテプ(Nyarlathotep)の産み落とした百万の恵まれたもののうちの三体。

マーテル・ススピリオルム(Mater Suspiriorum, 嘆息の聖母)、マーテル・テネブラルム(Mater Tenebrarum, 闇の聖母)、マーテル・ラクリマルム(Mater Lachrymarum, 涙の聖母)。


H・Pラヴクラフトの作品『魔女の家の夢』で「黒い男」として現れたナイアーラトテップ

ナイアーラトテップ (Nyarlathotep) は、クトゥルフ神話などに登場する架空の神。日本語では他にナイアーラソテップ、ナイアルラトホテップニャルラトホテプ、ニャルラトテップなどとも表記される。

ナイアーラトテップ - Wikipediaより引用



この嘆きの聖母たちは、ギリシア神話におけるゴルゴン三姉妹のモデルとも言われています。

また、1839年歴史学者フランツ・ヨーゼフ・モーネが唱えた説によると、魔女宗教とはかつて黒海沿岸にいたゲルマン人ヘカテー崇拝と接したことで生まれた地下宗教であるとのこと。


ヘカテーウィリアム・ブレイク/画、1795年)

ヘカテー古代ギリシャ語: Ἑκάτη, Hekátē)は、ギリシア神話の女神である。
ヘカテー」は、古代ギリシア語で太陽神アポローンの別名であるヘカトス(Ἑκατός, Hekatós「遠くにまで力の及ぶ者」、または「遠くへ矢を射る者」。陽光の比喩)の女性形であるとも、古代ギリシア語で「意思」を意味するとも言われている。

「死の女神」、「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「ラミアーの母」、「死者達の王女」、「無敵の女王」等の別名で呼ばれた。


3面3体の姿をしたヘカテーの像(キアラモンティ美術館所蔵)

中世においては魔術の女神として魔女と関連付けられた。
また、シェイクスピアによって書かれた戯曲『マクベス』に登場するヘカテーは、マクベスに予言を行った3人の魔女たちの支配者として描かれている。

過去、現在、未来という時の三相を表している。

ヘカテー - Wikipediaより引用


このことからも3人の魔女の基となったのはクトゥルフ神話の3人の魔女、死の女神と称されるヘカテーの混合の宗教、悪魔崇拝であろうと考えられます。



当時はアーティスティックでショッキングな前衛的なホラー映画。
女性の身に降りかかる畏怖や狂気を孕んだ夢か現実かも分からないような恐怖体験。
美しい死体に刺激的な色彩、そして何よりも
「わけがわからない」んです。


イタリアンホラーによくある事なんですが、とっ散らかってて全てを理解なんて出来ないんですよね。

伏線か?と思ったら回収されずにそのままであったり、構えれば構えるほどこの映画の不可解さに取り込まれていく感覚…そうなんです、簡単にリメイクしても納得のいく作品が出来るような代物ではない作品なんですよ(笑)

ここがリメイクと聞いて不安になった大きな要因。


あくまでこれはオリジナル版の情報から抜き取ったものに過ぎません。
オリジナル版を既に鑑賞されている方は、このオリジナル版をどう解釈するかによってリメイク版の解釈、また評価も変わってくるのではないでしょうか?



今回、リメイクという名目でそんな名作を、持ち前の丁寧さとセンスで「再構築」したルカ・グァダニーノ監督。
君の名前で僕を呼んで』で知名度、認知度も高くその名を知らしめた監督が作る新しい『サスペリア』。

今作は
ダリオ・アルジェントではなくルカ・グァダニーノの『サスペリア』劇場の開演なんです。



リメイク版『サスペリア(2018)』

さて、ここからはリメイク版『サスペリア(2018)』の話に入っていこうと思います。

先ずなんと言っても目玉はキャスト。



1977年公開のオリジナル版のヒロインを演じたジェシカ・ハーパーが41年の歳月を経て同名タイトル作品に出演!
リメイク版では心理療法クレンペラー博士の妻アンケ役を演じています。

ここで小さな感動が(笑)



公開前に1人3役を演じていることが明かされたティルダ・スウィントン

その中でも特殊メイクで演じた心理療法士クレンペラ―博士が凄い。
ルッツ・エバースドルフ名義で本編クレジットされている82歳の男性。

なんたって、あるカットで股間が露わになるんだもの。




さてさて、オリジナル版『サスペリア(1977)』とリメイク版『サスペリア(2018)』を比較すると、一番に目に見えるのは色調の違い。



サスペリア(1977)』


サスペリア(2018)』



オリジナル版には序盤からの視覚的演出がありますが、リメイク版では序盤は落ち着いた印象。
これは演出にも同じように反映されています。

オリジナル版の方でも話しましたが、『サスペリア』の舞台はドイツ。
リメイク版『サスペリア(2018)』ではオリジナル版と同じ年代でもある1977年当時のドイツの背景を共に描き、何か起こりそうな不穏な空気を演出しています。




少し、当時のドイツがどのような状況であったのか、引用しておきます。

ドイツの秋(ドイツのあき、Deutscher Herbst)は、1977年後半の西ドイツ(当時)で起こった、一連のテロ事件の通称。

ドイツ赤軍(Rote Armee Fraktion、RAF)は、この年の9月にドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤー(Hanns-Martin Schleyer)を誘拐し、10月にはパレスチナ解放人民戦線PFLP)とともにルフトハンザ機をハイジャックした。ハイジャック機には特殊部隊が突入し、RAF幹部は獄中で相次ぎ自殺し、シュライヤーは遺体で発見されるという衝撃的な結末を迎えたこれらの事件は、マスコミで連日連夜大きく報じられた。戦後最大のテロ事件と政治的危機により西ドイツ社会は恐怖に震えた。

ドイツの秋 - Wikipediaより引用

ドイツ赤軍(ドイツせきぐん、ドイツ語: Rote Armee Fraktion, RAF)は、1968年結成のドイツ連邦共和国(西ドイツ)における最も活動的な極左民兵組織、テロリスト集団。バーダー・マインホフ・グルッペ(ドイツ語: Baader-Meinhof-Gruppe)との名称も使用した。ドイツ語名の直訳は「赤軍派」だが、日本では「ドイツ赤軍」または「西ドイツ赤軍」の呼称が一般的である。

1977年の後半にはブリギッテ・モーンハウプトとクリスティアン・クラーを新たな指導者として、相次いで事件を起こし西ドイツを震撼させた。

1977年9月5日には西ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーが誘拐された。1977年10月にはルフトハンザ航空181便ハイジャック事件を起こすが、ソマリアモガディシュに着陸したところを西ドイツ政府によって派遣された特殊部隊GSG-9によって急襲された。結果、ハイジャック犯3名を射殺、1名を逮捕、乗客人質全員を救出され、ハイジャックの失敗を知ったバーダーらは獄中で自殺。10月19日、ドイツ赤軍は誘拐した会長を殺害、遺体はフランスで発見された。

ドイツ赤軍 - Wikipediaより引用


直接的に本筋とは関わりはありませんが、1968年にアンドレアス・バーダー、ウルリケ・マインホフ、グドルン・エンスリンは極左地下組織「バーダー・マインホフ・グルッペ」(後にドイツ赤軍と改称)を結成。

ドイツ赤軍の指導者でもあるウルリケ・マインホフはテロリストの母と称されることもしばしば。
ある意味で魔女のような存在と言えます(こじつけ)。



この不穏な空気が、リメイク版ではテーマ性を盛り立て、良い感じに活きてくるんですよね。

当時のドイツの時代背景と並行して舞踊団で巻き起こる不可解な出来事。
まるでナチズムのように抑圧に苛まれる人々を舞踊団という小さな枠組みの中で投影したように、尚且つ夢か現実かわからないオリジナル版とは違い、よりリアルに生々しく映し出すことで露わとなる救済(ここについては後述しています)。

舞踊団の一員が「マルコス!」と掛け声を上げていたのも、ナチス政権のような抑圧的独裁政権を彷彿とさせます。





ラストシークエンスで地下の真っ赤に染まる部屋。
これはオリジナル版のように刺激的な色彩を見せて来なかったリメイク版が、溜めに溜めた鬱憤を晴らすような破壊力のあるインパクトを与えてくれます。

赤を基調とした映像と同化するように鮮血の紅が混ざり合う芸術性。
目が釘付けになること間違いなし。


魔女達の集会(サバト)については映画『ウィッチ』で語っています。


また、悪魔崇拝は映画『ヘレディタリー/継承』にも通ずるものがあります。







地下での集会サバトに入る直前
弟子達との会食はレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」的な構図。
マダム・ブランとスージーが互いに見合うシーンはこの後、何か大変なことがあるな…と思わせる。

勿論、ここで言うイエスはマザー・マルコスのこと、そしてユダはスージーです。

ちなみに人数も数えましたが、この会食で腰掛けた人数は12人、使徒の数と一致します。


作者レオナルド・ダ・ヴィンチ

『最後の晩餐』(さいごのばんさん、英: The Last Supper伊: L'Ultima Cena)は、キリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の晩餐の情景を描いた絵画。ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景である。

最後の晩餐 (レオナルド) - Wikipediaより引用

そしてサバトで、周りを踊る女性達の中心にあったサラとパトリシアを含む三位一体像

これこそが上記で挙げた3人の母のモデル"ヘカテー"を彷彿とさせ、魔女誕生の儀式、クライマックス感をヒシヒシと感じられる仕様になっています。




オリジナル版のストーリーの大筋を準えてはいますが、ほぼ別物と言ってもいい内容、特に結末が大きく改変されています。

サスペリア(1977)』ではマルコスが嘆きの母という設定でしたが、『サスペリア(2018)』ではなんとスージーが嘆きの母という設定に。

冒頭の
「母はあらゆる者の代わりにはなれるが、何者も母の代わりにはなれない」
という言葉は正にこれ。


マザー・マルコスも、マダム・ブランも、嘆きの母の可能性として候補に挙がっていました。
マルコスを魔女の1人だと思い込んでいた舞踊団のメンバー(と我々観客)。
彼女の器となるダンサーを探し求めていたところ、ついに相応しい人物スージーが現れたぜ!

と思い込ませておいてのコレですよ。
嘆きの母になる者は実は初めから決まっていたということですよ。



そして、先程記述しましたが

まるでナチズムのように抑圧に苛まれる人々を舞踊団という小さな枠組みの中で投影したように、尚且つ夢か現実かわからないオリジナル版とは違い、よりリアルに生々しく映し出すことで露わとなる救済。

スージーはあの地下儀式により3人の母の1人、嘆きの母として新たに誕生しました。

そこで行われたのが望みを叶えること
また、その後にクレンペラ―博士の自宅を訪れ、記憶を消したこと



上記で"3人の母"は"ヘカテー"説を説きましたが、ヘカテーの持つ特徴に「死の女神」と「遠くにまで力の及ぶ者。遠くへ矢を射る者。陽光の比喩。」、また古代ギリシア語で「意思」を意味するとも言われている。

三相は過去、現在、未来を表し、クレンペラー博士の妻アンケの行く末を知っていたのも頷ける。

ラストカットのスージーの微笑みも、きっと未来を見据えたもの。
残りの2人の魔女も復活させてしまうのだろうか…。



ホロコーストで迫害されてきたユダヤ人と魔女狩りで虐げられてきた魔女。
その2つの接点が見えてくる。

望むものに死を、そして苦悩の忘却。
スージー意思で行った抑圧的な環境からの解放と悲哀に満ちた人生からの解放
一見、舞踊団の魔女たちへの復讐、見方によっては虐げられてきた者たちへの救済と受け取れませんか?



「おいおいおいおい!」と。

やりやがったな!と。
僕好みの展開じゃないか!と。

ルカ・グァダニーノ監督、リメイク決定と聞いた時に不安を抱いてごめんなさい!と。



不明瞭で畏怖する対象となる魔女を説明的に丁寧に描いたことで、リメイク版単品でもひとつの作品として成立しています。

オリジナル版『サスペリア(1977)』で描いた"魔女の存在"から、更に踏み込んだ新たな"魔女の存在と解釈"

リメイクの存在意義についても確実のものとしたリメイク版『サスペリア(2018)』。


こりゃあとんでもないものを見せられたと思うわけですよ!



良くも悪くもダリオ・アルジェントルカ・グァダニーノ、2人の監督によってオリジナル版とリメイク版で異なる視点から映画が作られた。という事実が素晴らしい‬!




終わりに

長々と失礼しました。
オリジナル版『サスペリア(1977)』についてはもう少し語ることはあったのですが、だいぶ端折らせていただきました。
あくまでもリメイク版『サスペリア(2018)』に必要な部分のみ記述したつもりです。


少し…いや、かなり独断と偏見を交えながら語ってきた新旧『サスペリア』。
如何でしたか?

芸術性に富んだオリジナル版『サスペリア(1977)』
社会性を取り込んだリメイク版『サスペリア(2018)』
どちらも素晴らしい映画であり、割と好みな内容で安心しました。


とはいえ、今年は1月から凄い作品が出てきますね!
後半に失速しないか心配になってしまう程です(笑)



また不定期に、ブログ案件の映画に出会うまでは書きませんが、今後ともよろしくお願いいたします。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




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歴史を作る全ての女性に対する賛美(「バハールの涙」ネタバレなし感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今年初の更新ということで・・・

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。(遅)

今年も不定期ながら更新していきます。



さて、今日は「バハールの涙」について語っています。

この記事は物語の核心に迫るネタバレはありません。
いつものような考察記事ではなく、前情報として知っておいた方がいい事と当管理人が感じたこと、思ったことをそのまま綴っています。



作品概要


原題:Les filles du soleil
製作年:2018年
製作国:フランス・ベルギー・ジョージア・スイス合作
配給:コムストック・グループ、ツイン
上映時間:111分
映倫区分:G


・解説

「パターソン」のゴルシフテ・ファラハニが、捕虜となった息子の救出のためISと戦うこととなったクルド人女性を演じるドラマ。「青い欲動」のエバ・ウッソン監督が、自らクルド人自治区に入り、女性戦闘員たちの取材にあたって描いた。弁護士のババールは夫と息子と幸せな生活を送っていたが、ある日クルド人自治区の町でISの襲撃を受ける。襲撃により、男性は皆殺しとなり、バハールの息子は人質としてISの手に渡ってしまう。その悲劇から数カ月後、バハールはクルド人女性武装部隊「太陽の女たち」のリーダーとして戦いの最前線にいた。そんなバハールの姿を、同じく小さな娘と離れ、戦地で取材を続ける片眼の戦場記者マチルドの目を通して映し出していく。2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作品。

バハールの涙 : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編




予備知識として

ISはヤズディ教徒を虐殺するためにイラク北部を侵攻。
約50万人のヤズディ教徒が他国へ脱出、逃げ遅れた男性は殺害され、多くの女性と子ども達が拉致された。

この出来事は事実である。


この映画の出来事はそんな悲劇を基に着想を得て作られたもので、エヴァ・ウッソン監督自身も逃げ出してきた女性たちの証言を得るためにクルド人自治区の前線と難民キャンプへ足を運んでいます。



ゴルシフテ・ファラハニが演じた主人公バハールは、監督がそこで出会った彼女たちの証言から作り上げられたもの。

2018年にノーベル平和賞を受賞し、自らも性暴力や虐待の被害者として世界に訴えたシンジャル出身ヤズディ教徒のナーディヤ・ムラードを想起させる。


ナーディーヤ・ムラード・バーシー・ターハー(Nadia Murad Basee Taha)
ヤズィーディー教徒の人権活動家。1993年、イラクのスィンジャール(英語版)近くにあるヤズィーディー教徒のコミュニティ、コジョ村(アラビア語: كوجو)生まれ。ノーベル平和賞候補に名前が挙がり[4][5]、2016年9月16日に人身取引に関する国連親善大使に就任した。

ナーディーヤ・ムラード - Wikipediaより引用


エマニュエル・ベルコが演じた女性記者マチルダのモデルは戦地で片目を失った隻眼のジャーナリストのメリー・コルヴィンと、文豪アーネスト・ヘミングウェイの3番目の妻で従軍記者として1936年から活動したマーサ・ゲルホーンとのことです。

メリー・コルヴィン(Marie Catherine Colvin)
1956年、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランドに生まれる。エール大学を卒業後、UPI通信を経て、1986年にサンデー・タイムズに移籍。レバノン内戦や第1次湾岸戦争チェチェン紛争東ティモール紛争など世界中の戦場や紛争地などの危険な取材を重ねる中、2001年のスリランカ内戦の取材時に左目を失明。その後、心的外傷後ストレス障害PTSD)を負いながらも現場復帰し、その際に付けるようになった黒い眼帯は彼女のトレードマークとなった。

2012年2月22日、シリア内戦が起きていたシリアのホムスにて、反政府勢力側の取材中に政府軍の砲弾を受けて死亡。56歳。
2018年、彼女の生涯を描いた映画『ア・プライベート・ウォー』が制作され、ロザムンド・パイクがコルヴィンを演じた。

メリー・コルヴィン - Wikipediaより引用

『私が愛したヘミングウェイ』(原題:Hemingway & Gellhorn)は、2012年、HBO制作のアメリカ合衆国のテレビ映画。

20世紀のアメリカ合衆国を代表する文豪アーネスト・ヘミングウェイと彼の3番目の妻となった戦時特派員マーサ・ゲルホーン(英語版)との恋愛をスペイン内戦や第二次世界大戦を背景に描いた作品。ヘミングウェイクライヴ・オーウェン、ゲルホーンをニコール・キッドマンが演じた。

私が愛したヘミングウェイ - Wikipediaより引用


女性監督でもあるエヴァ・ウッソンはこの映画を製作し戦場をリアルに描くことにあたって、このように語っています。

シナリオを書いているときから映画の完成までのすべてのプロセスにおいて、さまざまな人たちにアドバイスを求めました。フランス人の戦場ジャーナリストのグザヴィエ・ムンズはそのひとりで、私は1年にわたって彼から話を聞きました。また、クルド人の元兵士のサムからは、武器の種類や扱い方から、兵士たちが夜寝るときに銃をどこに置くかといったことまで、戦場にまつわるすべてを教わりました。
映画の冒頭に3人の戦場ジャーナリストが出てきますが、そのひとりをグザヴィエ自身が演じています。撮影の初日、彼はサムに言いました。「なんだかちょっと胸騒ぎがする。この撮影現場にいるとまるでクルディスタンにいるような気分になってしまう」と。サムは、「君もか。僕はいま、無意識に地雷を探していた」と答えたそうです。実際に戦地にいた彼らがそんなふうに反応したことに私は凄く驚いたと同時に、安堵もしました。現実に即した形で戦場を表現するのにひとまず成功したわけですから。

https://www.vice.com/jp/article/zmaby5/les-filles-du-soleilより引用




感想

捕虜となった女性たち。
"女性という表現が真実ではない"という言葉が包含する重み。

この映画は決して強い女性を描いたものではない。
バハールを中心に何故戦わざるをえない状況に陥ったか、を過去と現在で壮絶に描いている。


人としての尊厳を奪われ、それでも生き抜くために、家族のために戦うことを選択せざるを得なかった女性戦闘員の意志。
真実を伝え続けるべく、観客に代わって戦場の最前線に立ち、数々の悲劇を見てきた女性ジャーナリストの意志。

「バハールの涙」は普遍的なもので、悲劇に抗い戦い続ける母への讃歌、歴史を作る全ての女性に対する賛美、そして我々観客に真実を届ける映画です。



また、淡々とした時間の流れが、緊迫した状況と過酷な環境を克明に表し、息づかいや鼓動にも似た音が不安を煽る演出。

この映画を観ていて、戦場で自分の弱さを感じるのは何故か?ということを理解することが重要であるようにも映る。
何故ならば、弱さを知ることで強くなれる、強くなろうとすることが出来るからだ。

それを表現されたのが、立場は違えど似たような境遇にあった女性ジャーナリストのマチルダと女性戦闘部隊リーダーのバハール。

強さと弱さの両方を表現することがこの映画で最も重要な点だったと思う。



人が信じたいのは夢や希望。悲劇から必死に目を背けたがる。

人は他人に無関心だからこそ、真実を語り訴え続ける必要がある。


人は楽しい夢や未来への希望は何度でも観たいと思うが、真実はワンクリックで消される。

たとえ関心がないわけではなくとも、安全な国日本で暮らす我々は、このような悲惨な出来事でさえもニュースで流れる映像くらいしか受け取らない。

だからこそ、こういう映画を観るべきではないのだろうか。
もし、この映画の内包する何かしらのメッセージが伝わったとしたら、それは自由を手にするために悲劇に抗う女性たちが何かを残せたということになるのではないか?

感情移入出来なくてもいい。
共感出来なくてもいい。
お金を払い劇場で観ることに、このような悲劇に目を向けることに意味があると思う。



バハールの流した涙が彼女の抱えた背景を見せる。
是非、劇場で"バハールの涙"の意味を感じてもらいたい。



終わりに

と、ここまで感じたままにダラダラと書き綴ったわけですが、言葉で語るよりも実際に観て感じてほしいというのが本音です。

正直、簡単に纏めたら母への讃歌と女性賛美の映画なんですが、込められた想いに鑑賞後は何も言えない状態でした。
どんな言葉ですら安っぽくなってしまうんじゃないかって。

全てが劇中で語られています。
何度も言いますが、劇場で観て、感じてほしい映画です。
是非、劇場で!




(C)2018 - Maneki Films - Wild Bunch - Arches Films - Gapbusters - 20 Steps Productions - RTBF (Television belge)

2018年劇場鑑賞邦画ベスト10


目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
恐らく、今年最後のブログ更新となりますので、まずは挨拶から。

年の瀬も押し詰まってまいりましたね、皆さんいかがお過ごしでしょうか?
皆様方のお力添えにより今年もブログを続けられましたことを厚く御礼を申し上げます。

来年もマイペースではありますが、更新していきますのでよろしくお願い申し上げます。


では昨年に続き、今年劇場鑑賞した作品の中から邦画に絞ったベスト10をサクッと紹介していきます。



次点5作

まずは残念ながらベスト10に入らなかったけど、これも外せないと思う作品を5作品、ご紹介させていただきます。


教誨師

(C)「教誨師」members

感想


ギャングース

(C)2018「ギャングース」FILM PARTNERS (C)肥谷圭介鈴木大介講談社

感想


四月の永い夢

(C)WIT STUDIO / Tokyo New Cinema

感想


恋は雨上がりのように

(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん小学館

感想


愛しのアイリーン

(C)2018「愛しのアイリーン」フィルムパートナーズ(VAP/スターサンズ/朝日新聞社

感想


番外編


ここで、ベスト10に入る前に今年一番笑った映画をご紹介しておきます。
とはいえ残念ながら邦画15位にはランクインせず…(笑)

番外編「娼年

(C)石田衣良集英社 2017映画「娼年」製作委員会

感想




10位〜4位

では本題に入っていきます。
まずは10位から4位まで一気に。

10位「日日是好日

(C)2018「日日是好日」製作委員会

解説

エッセイスト森下典子が約25年にわたり通った茶道教室での日々をつづり人気を集めたエッセイ「日日是好日 『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」を、黒木華主演、樹木希林多部未華子の共演で映画化。「本当にやりたいこと」を見つけられず大学生活を送っていた20歳の典子は、タダモノではないと噂の「武田のおばさん」が茶道教室の先生であることを聞かされる。母からお茶を習うことを勧められた典子は気のない返事をしていたが、お茶を習うことに乗り気になったいとこの美智子に誘われるがまま、流されるように茶道教室に通い出す。見たことも聞いたこともない「決まりごと」だらけのお茶の世界に触れた典子は、それから20数年にわたり武田先生の下に通うこととなり、就職、失恋、大切な人の死などを経験し、お茶や人生における大事なことに気がついていく。主人公の典子役を黒木、いとこの美智子役を多部がそれぞれ演じ、本作公開前の2018年9月に他界した樹木が武田先生役を演じた。監督は「さよなら渓谷」「まほろ駅前多田便利軒」などの大森立嗣。
日日是好日 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想



9位「人魚の眠る家

(C)2018「人魚の眠る家」 製作委員会

解説

人気作家・東野圭吾の同名ベストセラーを映画化し、篠原涼子西島秀俊が夫婦役で映画初共演を果たしたヒューマンミステリー。「明日の記憶」の堤幸彦監督がメガホンをとり、愛する娘の悲劇に直面し、究極の選択を迫られた両親の苦悩を描き出す。2人の子どもを持つ播磨薫子と夫・和昌は現在別居中で、娘の小学校受験が終わったら離婚することになっていた。そんなある日、娘の瑞穂がプールで溺れ、意識不明の状態に陥ってしまう。回復の見込みがないと診断され、深く眠り続ける娘を前に、薫子と和昌はある決断を下すが、そのことが次第に運命の歯車を狂わせていく。
人魚の眠る家 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想



8位「栞」

(C)映画「栞」製作委員会

解説

大分県を舞台に、理学療法士の青年が様々な境遇の患者たちや周囲の人々と向き合いながら成長していく姿を描いた人間ドラマ。理学療法士として献身的に患者のサポートに取り組んでいる真面目な青年・高野雅哉。ある日、彼が働く病院に、疎遠になっていた父・稔が入院してくる。徐々に弱っていく父の姿を目の当たりにする一方で、担当している患者の病状が悪化するなど、理学療法士として出来ることに限界を感じ無力感に苛まれる雅哉。そんな折、ラグビーの試合中に怪我をした患者を新たに担当することになった雅哉は、その患者の懸命な姿に心を動かされ、仕事への情熱を取り戻していく。主人公・雅哉役に三浦貴大。自身も理学療法士の経歴を持つ榊原有佑監督がオリジナルストーリーで描く。
栞 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想



7位「オー・ルーシー!

(C)Oh Lucy,LLC

解説

第67回カンヌ国際映画祭シネフォンダシオン部門(学生部門)で上映された平柳敦子監督による桃井かおり主演の同名短編映画を、寺島しのぶを主演に迎え、平柳監督自身が長編作品として再映画化。近い将来やってくる「退職」と、いずれ訪れる「死」をただ待つだけの毎日を送る43歳の独身OL節子。ひょんなことから通うことになった英会話教室の授業で節子は、教室内では金髪のカツラをかぶり「ルーシー」というキャラになりきることを強いられた。アメリカ人講師ジョンによるこの風変わりな授業によって節子の眠っていた感情が解き放たれ、節子はジョンに恋をする。そんな幸せな時間も長くは続かず、ジョンは節子の姪の美花ともに日本を去ってしまう。主人公の節子を寺島が演じ、南果歩忽那汐里役所広司らが出演するほか、「パール・ハーバー」「ブラックホーク・ダウン」のジョシュ・ハートネットが参加。
オー・ルーシー! : 作品情報 - 映画.comより引用

感想



6位「孤狼の血

(C)2018「孤狼の血」製作委員会

解説

広島の架空都市・呉原を舞台に描き、「警察小説×『仁義なき戦い』」と評された柚月裕子の同名小説を役所広司松坂桃李江口洋介らの出演で映画化。「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」の白石和彌監督がメガホンをとった。昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島・呉原で地場の暴力団・尾谷組と新たに進出してきた広島の巨大組織・五十子会系の加古村組の抗争がくすぶり始める中、加古村組関連の金融会社社員が失踪する。所轄署に配属となった新人刑事・日岡秀一は、暴力団との癒着を噂されるベテラン刑事・大上章吾とともに事件の捜査にあたるが、この失踪事件を契機に尾谷組と加古村組の抗争が激化していく。ベテランのマル暴刑事・大上役を役所、日岡刑事役を松坂、尾谷組の若頭役を江口が演じるほか、真木よう子中村獅童ピエール瀧竹野内豊石橋蓮司ら豪華キャスト陣が脇を固める。
孤狼の血 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想


5位「8年越しの花嫁 奇跡の実話」

(C)2017映画「8年越しの花嫁」製作委員会

解説

YouTube動画をきっかけに話題となり、「8年越しの花嫁 キミの目が覚めたなら」のタイトルで書籍化もされた実話を、佐藤健&土屋太鳳の主演で映画化。結婚を約束し幸せの絶頂にいた20代のカップル・尚志と麻衣。しかし結婚式の3カ月前、麻衣が原因不明の病に倒れ昏睡状態に陥ってしまう。尚志はそれから毎朝、出勤前に病院に通って麻衣の回復を祈り続ける。数年後、麻衣は少しずつ意識を取り戻すが、記憶障害により尚志に関する記憶を失っていた。2人の思い出の場所に連れて行っても麻衣は尚志を思い出せず、尚志は自分の存在が麻衣の負担になっているのではと考え別れを決意するが……。「64 ロクヨン」の瀬々敬久監督がメガホンをとり、「いま、会いにゆきます」の岡田惠和が脚本を担当。
8年越しの花嫁 奇跡の実話 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想


4位「ちはやふる 結び」

(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀講談社

解説

末次由紀の大ヒットコミックを広瀬すず主演で実写映画化した「ちはやふる 上の句」「ちはやふる 下の句」の続編。瑞沢高校競技かるた部の1年生・綾瀬千早がクイーン・若宮詩暢と壮絶な戦いを繰り広げた全国大会から2年が経った。3年生になった千早たちは個性派揃いの新入生たちに振り回されながらも、高校生活最後の全国大会に向けて動き出す。一方、藤岡東高校に通う新は全国大会で千早たちと戦うため、かるた部創設に奔走していた。そんな中、瑞沢かるた部で思いがけないトラブルが起こる。広瀬すず野村周平新田真剣佑ら前作のキャストやスタッフが再結集するほか、新たなキャストとして、瑞沢かるた部の新入生・花野菫役をNHK連続テレビ小説あまちゃん」の優希美青、筑波秋博役を「ミックス。」の佐野勇人、映画オリジナルキャラクターとなる千早のライバル・我妻伊織役を「3月のライオン」の清原果耶、史上最強の名人・周防久志役を「斉木楠雄のΨ難」の賀来賢人がそれぞれ演じる。
ちはやふる 結び : 作品情報 - 映画.comより引用

感想




ベスト3

ここからは邦画ベスト3です。


3位「勝手にふるえてろ

(C)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会

解説

芥川賞作家・綿矢りさによる同名小説の映画化で、恋愛経験のない主人公のOLが2つの恋に悩み暴走する様を、松岡茉優の映画初主演で描くコメディ。OLのヨシカは同期の「ニ」からの突然の告白に「人生で初めて告られた!」とテンションがあがるが、「ニ」との関係にいまいち乗り切れず、中学時代から同級生の「イチ」への思いもいまだに引きずり続けていた。一方的な脳内の片思いとリアルな恋愛の同時進行に、恋愛ド素人のヨシカは「私には彼氏が2人いる」と彼女なりに頭を悩ませていた。そんな中で「一目でいいから、今のイチに会って前のめりに死んでいこう」という奇妙な動機から、ありえない嘘をついて同窓会を計画。やがてヨシカとイチの再会の日が訪れるが……。監督は「でーれーガールズ」の大九明子。2017年・第30回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され、観客賞を受賞した。
勝手にふるえてろ : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編

感想



2位「斬、」

(C)SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

解説

「野火」「六月の蛇」の塚本晋也監督が、池松壮亮蒼井優を迎えて描いた自身初の時代劇。250年にわたって続いてきた平和が、開国か否かで大きく揺れ動いた江戸時代末期。江戸近郊の農村を舞台に、時代の波に翻弄される浪人の男と周囲の人々の姿を通し、生と死の問題に迫る。文武両道で才気あふれる主人公の浪人を池松、隣人である農家の娘を蒼井が演じ、「野火」の中村達也、オーディションで抜擢された新人・前田隆成らが共演。「沈黙 サイレンス」など俳優としても活躍する塚本監督自身も出演する。2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。
斬、 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編

感想



1位「犬猿

(C)2018「犬猿」製作委員会

解説

「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔が4年ぶりにオリジナル脚本でメガホンをとり、見た目も性格も正反対な兄弟と姉妹を主人公に描いた人間ドラマ。印刷会社の営業マンとして働く真面目な青年・金山和成は、乱暴でトラブルばかり起こす兄・卓司の存在を恐れていた。そんな和成に思いを寄せる幾野由利亜は、容姿は悪いが仕事ができ、家業の印刷工場をテキパキと切り盛りしている。一方、由利亜の妹・真子は美人だけど要領が悪く、印刷工場を手伝いながら芸能活動に励んでいる。そんな相性の悪い2組の兄弟姉妹が、それまで互いに対して抱えてきた複雑な感情をついに爆発させ……。和成役を「東京喰種 トーキョーグール」の窪田正孝、卓司役を「百円の恋」の新井浩文、由利亜役をお笑いコンビ「ニッチェ」の江上敬子、真子役を「闇金ウシジマくん Part3」の筧美和子がそれぞれ演じる。
犬猿 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編

感想



終わりに

もし、ご覧になられていない作品が御座いましたら是非。

ちなみに、今年の劇場鑑賞ベスト10はこちらになります。


いくつか劇場鑑賞を逃して悔しい思いをした作品はあれど、特に観る予定もなくフラッとその時に観た映画が素晴らしかった、なんてこともありまして…やはり先入観や固定概念は捨てて先ずは観てみることが重要なのかなと思う一年でした。


来年も自分にとって素晴らしいと思える作品に出会えることを。
そして、皆さんにとっての傑作を見つけられることを願っています。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。
改めまして、今年最後のご挨拶として。

時節柄、何かとご多忙のことと存じますが、皆様くれぐれもご自愛ください。
良いお年を!

受け継がれる悪夢(「ヘレディタリー/継承」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
久しぶりの更新となってしまい、すみません。


今回はホラー好きの間でも好評な「ヘレディタリー/継承」について少し語っています。

最近ご無沙汰でしたが、当管理人はホラー映画が大好物です。
もうこれは無理してでも観たい!という勢いだけで観た映画ですが、大満足。
TOHOの1ヶ月フリーパスを使ってタダで観ちゃったもんだからお得感がハンパないです(笑)

というわけで、久しぶりにブログに書きたいと思える映画となり、鑑賞後の興奮覚めやらぬままに書き殴った次第です。


この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。
鑑賞後にお読みいただけたら嬉しいです。



作品概要


原題:Hereditary
製作年:2018年
製作国:アメリカ
配給:ファントム・フィルム
上映時間:127分
映倫区分:PG12


・解説

家長である祖母の死をきっかけに、さまざまな恐怖に見舞われる一家を描いたホラー。祖母エレンが亡くなったグラハム家。過去のある出来事により、母に対して愛憎交じりの感情を持ってた娘のアニーも、夫、2人の子どもたちとともに淡々と葬儀を執り行った。祖母が亡くなった喪失感を乗り越えようとするグラハム家に奇妙な出来事が頻発。最悪な事態に陥った一家は修復不能なまでに崩壊してしまうが、亡くなったエレンの遺品が収められた箱に「私を憎まないで」と書かれたメモが挟まれていた。「シックス・センス」「リトル・ミス・サンシャイン」のトニ・コレットがアニー役を演じるほか、夫役をガブリエル・バーン、息子役をアレックス・ウルフ、娘役をミリー・シャピロが演じる。監督、脚本は本作で長編監督デビューを果たしたアリ・アスター。
ヘレディタリー 継承 : 作品情報 - 映画.comより引用


・予告編




悪夢の元凶

まずはTwitterに上げた感想から。




まず、ラストに明かされた元凶、悪魔ペイモンについて語らなければなりません。


『ゴエティア』に記載されているパイモンのシジル

パイモンまたはペイモン(Paymon, Paimon)は、ヨーロッパの伝承あるいは悪魔学に登場する悪魔の1体。悪魔や精霊に関して記述した文献や、魔術に関して記したグリモワールと呼ばれる書物などにその名が見られる。

現れる際には、王冠を被り女性の顔をした男性の姿を取り、ひとこぶ駱駝に駕しているとされる。
召喚者に地位を与え、人々を召喚者の意思に従わせる力も持つ。

パイモン - Wikipediaより引用



グラハム家はこの悪魔によって絶望の悪夢を体験することになります。

祖母エレンのペンダントにもこのペイモンのシジルがデザインされていたことから察することができます。



冒頭で妹のチャーリーが鳩の首を切断し、絵を描いていたシーンを思い出してください。
その絵には鳩の生首に王冠が描かれています。
この時点で既に悪魔ペイモンの影響を受けていることが分かります。

その他の不可解な行動も。


チャーリーはケーキを食べて呼吸困難に陥り、病院へと運ばれる途中で電柱に頭部をぶつけて死亡しました。
恐らくチョコレートケーキにナッツが入っていた為にアナフィラキシーショックを起こしたと考えられます。


ここから少し余談に入ります。
クリスマスツリーはキリスト教以前の異教時代で魔除けとして常緑樹を家の内外に飾ったという習慣が起源です。
クリスマスツリーの装飾にもそれぞれ意味があり、例えばリンゴはアダムとイヴを想起させ、楽園の木を。
ナッツは神の計り知れぬ御心を表します。

また、リンゴやナッツは古代ケルト人にとってとても重要な果実です。
寒くて長い冬を乗り越えるにはナッツやドングリは保存食として最適なものであり、中でもヘーゼルナッツは神聖なものとして崇められていました。
言語学的にリンゴを意味するポーモーナという果実と果樹を司る女神と古代ケルト人にとって大事な果実を結びついていったという話もあります。

ナッツには魔除けの力があり、ただのアレルギーだとは思いますが、ペイモンが避けていたということも考えられるのではないでしょうか。



またアニーの話から、祖母エレンから息子であるピーターを遠ざけたとあります。
その理由はアニーの兄チャールズ。
彼は16歳で自殺しており、彼の遺書には「母が自分の中に何かを入れようとした」とされています。
この時にはペイモンはエレンを使ってチャールズを我が肉体として使おうとしていたことが分かります。

ピーターの代わりにチャーリーがエレンに関わることで、そしてエレンが亡くなったことでペイモンの魔の手がチャーリーへと継承されたことになります。

チャーリーはエレンが「男の子なら良かった」と語っていたことも話します。
チャーリーとは本来、男の子に付ける名前であり、このことからもエレンがペイモンの召喚に強い拘りがあったことを窺い知ることができます。


つまり、エレンの死後、チャーリーへ。
チャーリーの死後、アニーへ。
最終的にアニーを使って、ピーターをペイモンの宿主としてラストシークエンスへ。
という流れだと考えられますね。



ペイモンは"女性の顔をした男性の姿"
肉体はピーター、顔は家族のうちの女性の誰かでないといけないんですね。
従って、祖母、母、妹と一族の女性全員が首を落として亡くなる必要があったのです。


"召喚者に地位を与え、人々を召喚者の意思に従わせる力も持つ。"
とあるように、召喚とは例の降霊術、従わせる力とはラストシーンで神を崇めるように取り囲む人々を指します。
ジョーンが「降霊術は家族一緒に」と注意喚起したことも、ピーターを降霊術に参加させてピーターを召喚者とさせる為だと考えられます。



と、Twitterの感想でも書いたように
ラストを知ってしまえばラストにつながるプロットは至極単純なんです。

そこに家族の在り方や状況、精神状態などを重ねることで単純ではない恐怖が演出されてるんですよ。



音と光の演出

悪魔ペイモンとラストシークエンスについては簡単にまとめました。
ここからは細かな演出について着目していきたいと思います。


まず印象的なものが"音"です。
そうです、チャーリーの「コッ」という舌鳴らしです。
非常に不快感の募る不気味な音ですよね。

鑑賞後に家に帰って、突然後ろから、暗い部屋の隅から、「コッ」と聞こえてきたらチビること間違いなしです(笑)


チャーリーは赤子の頃から泣かない子だったそうで、生まれた時にも鳴き声をあげなかったとあります。
仮にそれが意味のある台詞と捉えるなら、チャーリーは生まれながらにペイモンに操作されていた可能性が高い。
チャーリー=ペイモンとした場合、"女性の顔をした男性の姿"が当てはまらないので、あくまでもペイモンに唆されている生贄のようなものだと思って間違いないでしょう。

元々音を発さない子供だったとしたら、舌鳴らしはペイモンに唆されてからの癖ではないかと考えられる。
劇中でも舌鳴らしを初めて行ったのは祖母エレンの葬式だったように思います。



では本来、舌を鳴らすとはどのような状況で行うのでしょうか?

1軽蔑・不満の気持ちを表す動作。「不服そうに―・す」
2賛美する気持ちを表す動作。特に、おいしい物を食べて、満足した気持ちを表す動作。「ごちそうに―・す」
舌を鳴らすとは - コトバンクより引用


相反する二つの意味があります。
つまりはペイモンの感情や心情の現れではないかと。

また、ペイモンの名前の由来はヘブライ語の"POMN"(「チリンチリン」という音)だそうで、ヘブライ語では音節はすべて子音で始まり「コッ」(k)という音も子音です。



次に印象的なのが"光"の演出ですね。

光の演出が可視化されたのは恐らく降霊術後。
皆さんもお分かりだと思いますが、ジョーンに教えて貰った降霊術は地獄の門を開くこと。
チャーリーではなくペイモンの召喚だったというわけですね。

ということはジョーンもまたエレン同様に悪魔崇拝によりペイモンに唆されていたということになります。
アニーが二度目に彼女の家を訪れた際の部屋の中の儀式、学校でピーターに声をかける姿などからも察することが出来ます。



ここで斬新なのが、悪魔であるペイモンを光として見せたことです。
分かりやすい描写はピーターが窓から転落した際に光が体へと取り込まれるシーン。
ここでペイモンがピーターに完全に憑依したことが明確に啓示されています。


一般的なイメージとして、悪魔といえば闇を連想すると思います。
実はですね、ペイモンは悪魔でありながら、天使の一面も併せ持つんですよ。

イギリスで発見されたグリモワール『ゴエティア』によると、パイモンは序列9番の地獄の王である。一部は天使からなり一部は能天使からなる200の軍を率いており、ルシファーに対して他の王よりも忠実とされる。彼自身は主天使の地位にあったという。

イギリスの文筆家・政治家レジナルド・スコットが記した『妖術の開示(原題:The Discoverie of Witchcraft)』1655年版では、パイモン、バティン、バルマを呼び出し、その恩恵を受ける方法が書かれている。この書によれば、パイモンは空の軍勢に属し、座天使の位階の16位にあるという。Corban およびマルバスの配下にあるという。

パイモン - Wikipediaより引用

主天使とは神学に基づく天使のヒエラルキーにおいて、第四位に数えられる天使の総称。
座天使とは神学に基づく天使のヒエラルキーにおいて、第三位に数えられる上級天使の総称。


また、ペイモンを智天使とされる文献もあります。

『悪魔の偽王国』(あくまのぎおうこく、あくまのにせおうこく、Pseudomonarchia Daemonum)はヨハン・ヴァイヤーの主著『悪魔による眩惑について』(De praestigiis daemonum)の1577年の第五版に付された補遺である。原題は「デーモン(悪霊)の偽君主国」の意であり、地獄の悪霊たちを神聖ローマ帝国の封建体制を思わせる位階秩序をもつものとして記述している。
悪魔の偽王国 - Wikipediaより引用



このようにペイモンは悪魔でありながら、一部天使であるという光と闇の二面性があるんですよね。
"闇"とは対称的なもの"光"を悪魔として演出したアリ・アスター監督のこのセンスが素晴らしい。


そう、この映画の最大の魅力がこの演出力にあると思います。
ストーリー自体はそこまで目新しいものでもなく、ラストも衝撃と言えば衝撃で後味の悪さもあるのですが、ホラー映画を見慣れた方ならばそこまで驚きはないと思います。

それよりもホラー映画としての散りばめられた伏線と回収、恐怖心の煽り方、家族の精神面の描き方、これらの演出力が他のホラー映画作品と比べても一線を画していると感じました。



もう一度言います。

アリ・アスター監督のセンスが素晴らしい。

これが長編初監督作品というから驚きだ。



タイトルの意味

さて、ここで改めて考えてみましょう。
タイトル「ヘレディタリー/継承」とはどういうことなのか。

原題『Hereditary』
直訳すると「遺伝的な」「代々の」「親譲りの」となります。

このタイトルとラストに向けたプロットからも、祖母であるエレンの悪魔崇拝によるペイモンの継承。



もうひとつが、遺伝的な脳の病気ではないか?です。

父は重度の鬱病で餓死。
兄は統合失調症で自殺。
エレンは解離性同一性障害。
そしてアニー自身も夢遊病。


ここでもう一つの解釈として
劇中のオカルト的な現象は遺伝的な脳の病気が引き起こした精神の崩壊が見せた幻覚ではないか説です。


アニーの仕事でもあるミニチュアの製作。
冒頭でそのミニチュアの家にカメラが寄っていって物語が始まりました。

そう、我々が観ていた劇中でのオカルト体験は全てアニーがミニチュアの家の中で想像した架空の出来事ではないだろうか。


祖母の死、娘の死、夫の死、これらは全て現実に起こったこと。
チャーリーの死をきっかけに、アニーの精神が壊れてエレンの幽霊を見るなどの幻覚に囚われる。


ピーターは妹を過失事故とはいえ殺してしまい、そのショックや責任感、罪悪感から幻覚を。
夫スティーブもそんなアニーやピーターに囲まれて精神的ストレスに。
精神安定剤を飲んでる描写からも精神的に病んでいたことは明らかです。



主軸はエレンが始めた悪魔崇拝が家族崩壊へ繋がるというものであり、その脚色されたオカルト的な演出は精神異常からくる幻覚。
そして、家族にトラウマを持つアニーが悪魔崇拝を通して擬似家族による集団を形成することである種の救済措置として機能している
というのも考えられるのではないだろうか。



終わりに

ということで、端的にめちゃくちゃ好みでした。
「シャイニング」や「ローズマリーの赤ちゃん」などが挙げられていますが、過去の傑作と言われるホラー映画を踏襲しつつ、しっかりと監督の作品として作り上げられた秀作。



そして、アニー役のトニ・コレットの顔芸は一見の価値ありです(笑)



久しぶりに考察をしたので鑑賞後の補足なものになりましたが、楽しかったです。
いつもながら乱文ですみません。

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2018 Hereditary Film Productions, LLC

「生きるとは何か」を深く問いかける(「教誨師」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今日は大杉漣さんプロデュースの「教誨師」を観てきました。

今作は上映時間の大半が拘置所の密室、主に会話劇である為、少し考察を交えつつ、感じたまま、受け取ったままを吐き出していこうと思っております。

どうしても核心に迫る部分についての言及が多くなるためネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
上映時間:114分
映倫区分:G


・解説

2018年2月に急逝した俳優・大杉漣の最後の主演作にして初プロデュース作で、6人の死刑囚と対話する教誨師の男を主人公に描いた人間ドラマ。受刑者の道徳心の育成や心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く教誨師。死刑囚専門の教誨師である牧師・佐伯は、独房で孤独に過ごす死刑囚にとって良き理解者であり、格好の話し相手だ。佐伯は彼らに寄り添いながらも、自分の言葉が本当に届いているのか、そして死刑囚が心安らかに死ねるよう導くのは正しいことなのか苦悩していた。そんな葛藤を通し、佐伯もまた自らの忘れたい過去と向き合うことになる。死刑囚役に光石研烏丸せつこ古舘寛治。「ランニング・オン・エンプティ」の佐向大が監督・脚本を手がけた。
教誨師 : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編




教誨師と死刑囚

先ず、主人公である教誨師と死刑囚についてお話しておかなければなりません。


教誨(きょうかい)とは、第1義には、教えさとすことをいう。同義語として教戒(きょうかい)があるが、こちらは、教え戒めることをいう。両者の違いは「誨(意:知らない者を教えさとす)」と「戒(意:いましめ。さとし)」の違いである。また、これらから転じて第2義には、受刑者に対し、徳性(道徳をわきまえた正しい品性。道徳心。道義心)の育成を目的として教育することをいう。

受刑者に対して教誨・教戒を行う者は、教誨師教戒師(きょうかいし)という。

教誨 - Wikipediaより引用


死刑囚(しけいしゅう)は、死刑の判決が確定した囚人に対する呼称である。死刑が執行されるまでその身柄は刑事施設に拘束される。また死刑は自らの生命と引換に罪を償う生命刑とされることから、執行されるとその称は「元死刑囚」となる[1]。刑事施設法などの日本の法令では死刑確定者と呼ばれる。

21世紀初頭現在、国連総会で採択された自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)の影響もあり、死刑廃止国も多いため死刑囚が現在も存在する国は限られてきている。

死刑囚 - Wikipediaより引用



作中にも語られた通り、EU加盟国は死刑廃止国が条件であり、欧州諸国はベラルーシを除き死刑は廃止されています。

本国における死刑囚に対する刑の執行は法務大臣の命令によらなければならないとされ、法律上は特別な理由のない限り、死刑判決が確定してから6か月以内に死刑が執行されなければならない。

また、作中冒頭でも記載された通り
死刑判決を受けた者(死刑囚)の執行に至るまでの身柄拘束は刑の執行ではないとして、通常刑務所ではなく拘置所に置かれる。



今作は死刑囚と対話する日本の教誨師を主人公としたドラマ映画であり、大杉漣さんが教誨師を演じています。
6人の死刑囚がバラバラに登場し、教誨師である佐伯(大杉漣)が対話をしつつ、各々の死刑囚に合わせて罪の意識に問いかける。
形式上はそうなのだが、単なる死刑囚の救済、そんな綺麗事で終わる話ではないのだ。
教誨師としての葛藤や苦悩。
死刑囚の生きる意味や訴えたいこと。
このふたつに接点を持たせること、人と人が交わる難しさを描く。


なんと言っても序盤から終盤にかけての6人の死刑囚たちの演技、人物描写が素晴らしい。
ひとりひとりに与えられた教誨の時間は短く、出演時間も断片的だ。
それでも一回目の登場から各死刑囚がどのような人物なのかを大まかに把握することが出来る。

勿論、大杉漣さんも主人公ながら聞き役として徹し、素晴らしい演技です。


また、拘置所の静謐に満ちた独特な雰囲気も肌で感じることが出来る。
無音に響き渡る足音、扉の開閉の音、椅子の軋む音、対話、雨音に至るまで、無駄なBGMを排除したからこそ味わえる臨場感。

死刑囚相手という張り詰めた空気感、会話からのみ与えられる情報の少なさに、各死刑囚たちがどのような経緯で殺人を犯し、死刑囚として収監されたのか?
そして死刑執行は6人の中の誰なのか?(予想はつきますが)
その推理サスペンスとしての側面、面白さもある。

そんな観客の推理と並行するように教誨師の佐伯が彼らと対話したことで相手がどのような人間なのかが明らかとなっていく。



登場人物の整理

本題に入る前に6人の死刑囚と教誨師佐伯がどのような人物なのかを当管理人の目線で簡単に紹介したいと思います。

これを踏まえた上で次の考察に入ります。




ストーカー規制法により相手と家族を殺めた鈴木死刑囚
彼はずっと押し黙ったままだったが、佐伯の語りに少しずつ心を開いていく。
鈴木自身、ストーカーだとは気付かず妄想を描いて心の安寧を手にする。




酒好きのヤクザ組長、吉田死刑囚
佐伯と最も親しく映る一方で、佐伯以外には態度が変わる。
悪びれることもなく、他に犯した罪を佐伯に伝える。
刑の執行について人一倍に敏感だった所も印象的だ。




よく喋る関西のオバチャン、野口死刑囚
マシンガントークは観ているこちらも思わず笑ってしまうほどで一見明るい。
しかし、リストカットの跡があったり、虚言癖があったり、自分の話を邪魔されるとキレだす。
精神的に不安定であり、自身の罪の意識よりも周りが周りがと他人のせいにする傾向が見られる。




家族のことを思う気弱で心優しい小川死刑囚
死刑囚たちの中で唯一、犯行についての詳細が明かされた人物。
その経緯には哀れみの感情すら覚えてしまう。
裁判のやり直しを助言する佐伯に対して、諦めを見せる姿に胸が痛くなりました。




ホームレスの進藤死刑囚
字が読み書き出来ず、連帯保証人になっても他人を心配するお人好しのおじいちゃん。
死刑囚の中で最も明確に佐伯に救済された人物でもあると思う。
キリスト教に入りたいと願い、佐伯に字を教えてもらう。




博識で人を見下す高宮死刑囚
この作品で最重要人物である彼は他の死刑囚とは違う。
彼は常に社会をより良いものにしたいという理想を持っています。
一方で話すことは正論ではあるが、屁理屈でもあり、表情や態度に至るまで全てが不快。
佐伯も怖いと表現したように、理性的であるが故の人間らしさが見えない人物。




佐伯
教誨師としての彼は聞き役であり、死刑囚との対話、救済が求められるが、彼自身もその教誨師という立場に苦悩する。
それは過去の出来事があるからだ。
兄が人を殺めていること、その原因が自分にあること。
迷いが決心に変わる瞬間、意外な素顔など牧師ではない彼の姿との対比が実に人間味溢れる。



このように、会話劇にも関わらず、全てが全て説明的にならずに断片的な部分のみを見せることによってその人物の人となりを想像で保管するようになっています。
例えば、こんな酷いことをしたんだから死刑になっても当たり前じゃないか。なんて先入観や固定概念を抜きに、二人の対話から読み取る情報で自分自身が判断する仕様になっている事が素晴らしいんですよ。



さて、ここでこの作品の核心に迫る部分について言及していこうと思います。

・この作品のメッセージとは?
・ラストに残されたメッセージの意味とは?

この2点に絞って考えていきます。



無知の知

・この作品のメッセージとは?

刑の執行対象者は高宮でした。
これは概ね予想のつくものではありましたが、そこに至るまでの過程がこの作品のメッセージそのものなんですよね。



作中の二人の対話について着目します。

佐伯「どんな命でも生きる権利がある、奪われていい命など無い」
高宮「牛や豚は良いのにイルカは殺してはダメな理由は?」
佐伯「イルカは知能が高いから…」
(中略)
高宮「どんな人間でも殺してはいけないと言うのに死刑があるのは?」

この言葉に反論出来ず沈黙してしまう佐伯。
この時の表情はとても印象的だと思います。

このシーンこそがこの作品の核心部分であり
今作は"生と死"、そして"罪とは何か?"がテーマなのは明白で、死刑囚は生きる意味があるのか?という難しい問題を教誨師を通して観客が考えるものとなっています。



教科書通りの牧師の言葉では高宮の心を動かすことは出来ない。
高宮から返ってきた言葉が佐伯の考え方を変えることとなる。

上記にも佐伯は高宮のことを「あなたを知らないことが恐ろしい」と表現しています。
「生きることと死ぬこと」
これも同じで、知らないことは怖いのだと説く。


その根底にあるのは哲学でしばし用いられる
"無知の知"である。

「無知であることを知っていること」が重要であるということ。
要するに「自分が如何にわかっていないかを自覚せよ」ということです。

これは自分自身だけでなく、相手に対してもそう。
無知を自覚することで新しい何かが見えてくる。

佐伯自身も死刑囚たちと対話することで少しずつ人となりを知っていくこととなる。
しかし、「知る」とは「理解すること」ではない。
「空いた穴を一緒に見つめる」と表現されたように、相手が犯した罪、心情の変化に寄り添うことなのです。


その結果、「どうして空いたのか?誰が空けた穴なのか?」などはどうでも良くて「空いた穴を一緒に見つめる」こと、つまり寄り添うことを選んだ佐伯は教誨師としては失格、今までの形を崩した対応を見せ、高宮を変えることとなったわけです。

この対応が「ああ、高宮が死刑の執行対象者なんだな」と気付かされる部分ではあるのですが。


死刑囚との対話を通して、佐伯は「何もできない」という教誨師としての絶望感を抱いたのだと思います。
それでも「自分にできることは何か?」を見つめ直し、彼らに寄り添うことしかないという答えを出したのではないか?

これまで冷静で上から目線だった高宮が執行直前に弱々しく怯えていた姿はしっかりと脳裏に刻まれている。
執行時、黒いマスクを被せられた時に漏らした言葉
「あれ?」
この時、彼は一体何を思ったのだろうか?



キリストの言葉

・ラストに残されたメッセージの意味は?

佐伯に字を教えられ、脳梗塞か何かの病で倒れた進藤が佐伯に洗礼を受けた後に涙ながらに渡したグラビアアイドルの写真。
ここに書かれていたメッセージは

あなたがたのうち、
だれがわたしに
つみがあると
せめうるのか

これはヨハネ福音書8章46節。
(参考:John / ヨハネによる福音書-8 : 聖書日本語 - 新約聖書)

聖書では、キリストが神の子であることを疑い悪霊に取り憑かれているんだと言う人々に投げかけた言葉です。

この言葉の続きはこうだ。
「わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。
神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである。」

進藤が覚えた平仮名で佐伯に何を伝えたかったのだろうか?
進藤は唯一、明白に救済された死刑囚であり、可能性として罪なき罪の贖い、冤罪だったということも有り得るのではないだろうか?



終わりに

言葉というものは他人に物事を伝えるコミュニケーションにおいて最適な手段で、とても大きな力を持っている。
しかし、この作品のように時にはそのコミュニケーション機能が全く果たせないこと、すれ違うことで蟠りができることだってあります。

教誨師と死刑囚の対話を通して表現された言葉の難しさを受けて、色々自分なりに考えてほしい。


また、大杉漣さんを劇場で拝めてよかったです。
惜しい人を亡くしたと改めて痛感しました。
是非、劇場に足を運んでもらいたい作品です。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)「教誨師」members

現実と虚構の水面下で見えるもの(「アンダー・ザ・シルバーレイク」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今日は楽しみにしていた『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観てきました。

一度鑑賞した後で纏まらないようならもう一度観ようと思ってましたが、一先ず無理矢理にでも纏めてみました。

とは言っても、これだ!という答えが出せた訳ではなく、それこそこの映画に含まれるテーマのひとつでもあるかと思います。
相も変わらず、こじつけて考察していますので、あくまでも個人の解釈であるということを念頭にお読みいただけると幸いです。


この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Under the Silver Lake
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:ギャガ
上映時間:140分
映倫区分:R15+



・解説

「イット・フォローズ」で世界的に注目を集めたデビッド・ロバート・ミッチェル監督が、「ハクソー・リッジ」「沈黙 サイレンス」のアンドリュー・ガーフィールド主演で描いたサスペンススリラー。セレブやアーティストたちが暮らすロサンゼルスの街シルバーレイク。ゲームや都市伝説を愛するオタク青年サムは、隣に住む美女サラに恋をするが、彼女は突然失踪してしまう。サラの行方を捜すうちに、いつしかサムは街の裏側に潜む陰謀に巻き込まれていく。「私たちは誰かに操られているのではないか」という現代人の恐れや好奇心を、幻想的な映像と斬新なアイデアで描き出す。サラ役に「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のライリー・キーオ。
アンダー・ザ・シルバーレイク : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編






本作のテーマ

監督のデビュー作『アメリカン・スリープオーバー』が流れるシーン。
登場する女性が劇中に登場する娼婦として作り替えられているのが印象的である。

「アメリカン・スリープオーバー」2枚組ブルーレイ&DVD [Blu-ray]

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これは表立った舞台に立つ人間の裏の顔を暴くというメッセージのようで、監督自身の作品をネタにする辺りが、この映画にも裏があるんだぞと言わんばかりの挑発的演出にも映る。



劇中で聞こえた懐かしの電子音。
そう、1983年に発売された大人気ゲーム「マリオブラザーズ」のBGMです。

土管に入り、下へと潜っていくマリオはまるでこの先のサムを示唆するようでもある。

下、例えばアンダーグラウンドといったように"下"という言葉には表面下に潜む闇を暫し表す言葉として用いられる。
タイトル、そして劇中にも登場する「シルバーレイクの下」という言葉は物理的な意味ではなく、 我々の住む現実世界の根底を支配している闇、現実と虚構の狭間をテーマに混沌とした深層心理を描いた作品であると思います。


さて、このテーマを基にここで『アンダー・ザ・シルバーレイク』を象徴する都市伝説や陰謀について掘り下げていきましょう。



犬殺し

まずは"犬殺し"から考えていきましょう。

冒頭にも登場したカフェの窓ガラスに書かれた「BEWARE THE DOG KILLER(犬殺しに気をつけろ)」の警告文。
資産家の失踪事件とサムが見た夢、そして彼女の失踪と事件を繋ぐキーワードとなっています。

劇中ではシルバーレイクの都市伝説としても使われる"犬殺し"。
しかし、本来は別の意味があることをご存知でしょうか?



当管理人は三国志が好きなんです。(唐突)


三国志とは魏呉蜀の対立を描いた中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃〜280年頃)の興亡史。
この三国時代の蜀の初代皇帝、劉備は有名ですよね?

彼の先祖に当たる人物、劉邦
項羽と劉邦」でも有名ですが、劉邦は秦の始皇帝の死後、項羽とともに戦い天下を手に入れた漢王朝の初代皇帝です。

その劉邦の沛時代からの配下である樊噲の仕事は"犬殺し(狗屠)"
本作『アンダー・ザ・シルバーレイク』における"犬殺し"とは少し違ったものなんですよね。

この時代、中国で犬は食用でした。
貧しい人々が食料とする為、野良犬として生きてはいけない。
飼い主を失った犬がどんなに惨めか。
その為に産まれた子犬を食料として処理する"狗屠"という職業があったんです。

古代中国では飼い主がいなくなり住む家も失った犬は、すぐ誰かに食べられてしまう運命が待っているという現実。
アンダー・ザ・シルバーレイク』を観ていて劇中のサム自身と重なる部分があるなと考えてました。


また、サラが失踪する前夜にサムが見た夢を思い出してもらいたい。
夜道にサラの飼っていた犬が殺され、彼女の姿をした女性が男性の腸に食らいつく姿。
劇中の"犬殺し"もただ犬だけではなく、人をも、そして食料として屠る者だという明白な描写なんです。


サムが見たサラや女性達が犬のように吠える幻想も、後に出てくるセブンスの娘の台詞「犬を殺せるなら人も殺せる」を連想させるように犬と人の境界線を曖昧にし、"犬殺し"に対するサムの抱いた恐怖心の可視化なのだと思います。
尾行されている(と思い込んでいた)のも恐怖心の表れかと。


劇中の台詞「犬は無条件に愛情をくれる」から考えると"犬"は夢のメタファーとなる。
つまり、"犬殺し"は後に人々をも飲み込んでしまう現実の恐ろしさを指すものと解釈しましたが、作中では畏怖するものの象徴として描かれていますね。



ついでに後半に登場したコヨーテについても記述しておきます。

コヨーテはイヌ科イヌ属に属する哺乳類。


米インディアン(カド族)の昔話コヨーテとお人好しのオポッサム

アメリカインディアンのほとんどの部族が、コヨーテをトリックスターとして崇めている。彼らにとって、大文字で「Coyote」と書くとコヨーテ神の意味を持っている。彼らの伝承で、コヨーテによって人間社会にもたらされたものはタバコ、太陽、死、雷をはじめとして、あらゆるものに及んでいる。
コヨーテ - Wikipediaより引用


劇中でも語られたように、コヨーテは聖なる生き物と称されています。
ここは後ほど少し絡めてお話します。



フクロウのキス

フクロウって、実際にキスするんですね。

ギリシャ神話において、フクロウは女神アテーナーの象徴であるとされる。知恵の女神アテーナーの象徴であることから転じて知恵の象徴とされることも多い。

東洋では、フクロウは成長した雛が母鳥を食べるという言い伝えがあり、転じて「親不孝者」の象徴とされている。
「梟雄」という古くからの言葉も、親殺しを下克上の例えから転じたものに由来する。

フクロウ - Wikipediaより引用


フクロウはかつて、アメリカの先住民に死の象徴として捉えられていたという話もあるみたいです。
アンダー・ザ・シルバーレイク』の都市伝説では街の裏組織にとって都合の悪い者を秘密裏に始末しているというもの。


フクロウは音を立てずに獲物に飛び掛かることから「森の忍者」と称されることがありますが、劇中でも足音を立てずに背後から忍び寄る全裸のフクロウ女が登場しました。

同人作家の自殺の件からも、恐らくはこのフクロウ女は自殺のメタファーであると考えられます。
もしかするとサムもあと一歩で自殺していたのかもしれません。


また、フリーメイソンイルミナティのシンボルもフクロウです。
フクロウがアメリカのドル紙幣に刻まれているというのは劇中にも挙げられています。


イルミナティのシンボル①「フクロウ」より引用。





実際に話として存在する都市伝説を映画という創作物の中で使用する。
こういった演出もまた、この映画のテーマにもある現実と虚構に沿ったものではないでしょうか?




3という数字

次に気になったのが"3"の数字です。
失踪者セブンスは3人の娼婦と焼死したとニュースに流れました。
そのうちの一人がサラだとサムは気付いたわけですが。

サラの持っていた人形も3体。
サラを探してサムが後を追った女性も3人組。
そしてパーティー会場で見たバンド「イエスとドラキュラの花嫁たち」も女性3人。
シューティングスターの娼婦も3人。

特に構図として、人形を除いて全て男性1人に対して女性3人なんですよね。
ある意味、玩具としては男根1に女性3でしたが(笑)



パーティー会場入口付近で女性が「3、3、三位一体」と歌っていたのは覚えてますでしょうか?


1210年頃に描かれた『三位一体の盾』の図式。

三位一体は、キリスト教において「父」と「子(キリスト)」と「聖霊聖神)」が「一体(唯一の神)」であるとする教え。
三位一体 - Wikipediaより引用


カトリック教会では「老人の姿の父、キリスト、火の姿で表される聖霊」の図像も広く用いられている。
正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。

つまり、父はソングライターの老人、子は人気バンドを含むアーティストたち、聖霊は上記にも記載した通り聖なる生き物と称されたコヨーテ。
バンドの曲から暗号を解読し、コヨーテに導かれ、ソングライターと出会う。

そしてポップカルチャーの裏側、闇、アンダーグラウンドな世界も理解するのではなく信じる対象として強調するものと考えられる。
非常に妄信に描き出した宗教的な図式であることがわかる。



敬意と隠喩

アンダー・ザ・シルバーレイク』は言うまでもなく様々な映画作品のオマージュとメタファーが散りばめられていますね。

前から姿を消した美女を追い求める様は『めまい』を。
双眼鏡で覗く様は『裏窓』を彷彿とさせる。


劇中にはヒッチコックの墓も登場し、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督のアルフレッド・ヒッチコックへ対する執着の畏怖とも取れる敬意が感じられる。



サムの白昼夢のような妄想でサラが失踪してから再びプールに姿を表すシーンではサラがマリリン・モンローの遺作『女房は生きていた』と同じポーズをとる。

これは死んだはずの女性が再び目の前に現れるという虚構世界そのもの
サラ自身が持っていた3体の人形のひとつがマリリン・モンローという細かい演出も良い。



メタファーと言えば、サムが大切にしていた雑誌「PLAYBOY」のカバーと後半のシルバーレイク貯水池での演出。

監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルの言葉を借りるなら

いつも水にインスパイアされているんだ。
水辺の光景や音は観客を映画の中に招き込むと思っている。
水は物理的なものでもあるけれど、同時に全てを超越するものでもあるんだ。
アメリカン・スリープオーバー』のパンフレットより引用


今作同様に、彼の過去作『イット・フォローズ』でも血に染まりゆくプールの描写がありましたが


澱みないものが穢れていく様、そして形のないものの変容性、シルバーレイクという水面下から虚構が現実を飲み込んでいく様を描き出している。



サムの母親から送られてきた『第七天国』のVHSにあるジャネット・ゲイナーの「うつむかないで、上を向いて」という台詞。
これは
シルバーレイクの下へと足を踏み入れたサムが形のない答えを探して現実と虚構の狭間で現実を、上を向く展開、構図を端的に表現したものとなっている。


また、"犬殺し"と"フクロウ"の二点から少しずつ見えてくるものがあるんですよ。
それが、サムの見た妄想が現実世界でも見え始めること。

犬殺しでは単なる悪夢だったが、フクロウでは虚構が現実に干渉している。
つまりはサム自身の現実逃避の進行の現れ。
何が現実で何が虚構か分からなくなる、作り上げた妄想が真実を曇らせ、その世界観に引きずり込まれる。
デヴィッド・リンチ監督作『マルホランド・ドライブ』に近いものもあるのだろう。

マルホランド・ドライブ [Blu-ray]

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ただ、『マルホランド・ドライブ』と違うところは、サムの妄想から物語が始まっていること。
カート・コバーンは絶望して自分の命を絶っているが、サムは命ではなく(恐らくは音楽の)夢を絶ったと考えられる。

そんな彼を妄信させたのが隣人のサラ。
彼女と出会うことで、サムの現実逃避に拍車が掛かる。
「イエスとドラキュラの花嫁たち」の曲「回る歯」のように。

サムが目にしたものを妄想として現実世界で見せたのも、この映画のテーマである現実と虚構の狭間を可視化する為だと分かる。



総評

ポップカルチャーへの熱量と情報量の多さ。
現実と虚構の狭間で我々観客が掻き立てられる探究心は、まるで暗号を探す主人公と重なるように混沌とした深層心理、ネオ・ノワールの世界へと嵌っていく。

作中に散りばめられたオマージュやメタファー、その伏線をしっかりと回収しつつ芸術的に魅せるデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の才能と腕に惚れてしまった。
過去作『イット・フォローズ』は性と死というテーマの元、愛や青春を交えた希望を主軸に描かれていました。
今作『アンダー・ザ・シルバーレイク』ではその希望を見出すまでの絶望、もがき苦しむ現実逃避が主軸のように思います。

きっとあの排泄物を映した意味の無いシーンにも何か理由があるのでしょう。
便器の中が現実世界を表してて、現実はクソだとでも言いたいのだろうか?

この映画は答えを出すものではなく、探すものだと思う。
理解するよりも信じること、考えるより感じるもの。
それでもこの難解さはどうしても考えたくなる。
何が正解で何が間違いかは分からない。
だからこそ、自分の中でその答えを探し続けていく。
そういうものだと思いました。



終わりに

うーん、上手く纏まらなくてすみません(笑)
もしかしたらもう一度鑑賞しに行くかもしれないし、DVDが発売したら必ず観返します。

その時にまた、追記するかもしれませんが、この辺で許してください。



この手の映画考察は楽しいですね!
ぼちぼち更新も頑張りますので暖かい目で今後も見てやってください。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2017 Under the LL Sea, LLC


アメリカンホラーのお手本(「クワイエット・プレイス」ネタバレ感想)

目次


初めに

こんばんは、レクと申します。

えー、暫く更新が滞っておりまして、申し訳ございません。
今回は久しぶりにブログを書きたい!となった作品「クワイエット・プレイス」について(?)語ってます。




原題:A Quiet Place
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:東和ピクチャーズ
上映時間:90分
映倫区分:G



今回はいつものような感想や考察ではない内容となってますので、あらすじ等は省かせていただきます。
久しぶりの更新で面倒臭いとかではない(笑)

ネタバレ有りなので、未鑑賞の方はご注意ください。


ホラーの観点

先ずはTwitterの感想から。



よくTSUTAYAなどのレンタルショップでは大まかにホラー映画と分類されていますが、ホラー映画は更に小分類化できるんですよね。
個人的な観点から製作国各国の特徴を挙げてみます。



日本はじめじめと湿った雰囲気の心霊オカルトものが多い。
リングや呪怨などが代表的な作品ですね。

リング

リング

呪怨 劇場版

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タイや台湾などアジア映画はJホラーの影響を大きく受けた作品が多数見受けられます。

the EYE (アイ) デラックス版 [DVD]

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心霊写真 [DVD]

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韓国では猟奇殺人もののサスペンス調のものが多い印象ですが、エクソシストもの、心霊オカルトものも多数あり、近年ではゾンビものと幅広いジャンルが楽しめます。

箪笥 [DVD]

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フレンチホラーといえばスプラッターが代名詞ですね。

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屋敷女 [DVD]

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北欧ホラーは美しい情景と物悲しいストーリーが印象的。

などなど、挙げればキリがないので早速本題に入ります。

Twitter投稿のリプにも記載しましたが、自分が思うアメリカ的ホラー演出といえば音で驚かせることがテンプレであり、今作の静謐を要するシチュエーションにおいては最も効果的な手法である。



上記に挙げた映画は全てハリウッドリメイクされています。
※「屋敷女」は2018年に日本公開「インサイド」。
※「新感染」は現在進行中。

ザ・リング(字幕版)

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ゲスト (字幕版)

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では、ハリウッドリメイクされたらオリジナルと比べてどうなるのか?
これもあくまでも個人的な観点での主張です。

ストーリーは家族愛へ特化。
モンスターパニック化。
精神的恐怖から視覚的恐怖に。

全てとは言いませんが、良くも悪くもこのパターンに収まるところが多い気がします。



では、今作「クワイエット・プレイス」はどうなのか?





めちゃくちゃアメリカ的!!!



まあそりゃそうですよね。
製作国がアメリカなんですから(笑)



むしろアメリカ的ホラーのお手本!!!




家族愛、モンスターパニック、そのアメリカ的な王道な作りが音を立ててはいけないという単なるアイデアひとつで突き詰めた映画でなく、あくまでもホラー映画として観客を楽しませることを突き詰めたかのようで好感が持てるんですよ。

音を立ててはいけないという精神的な緊迫感と音を立てるとモンスターに襲われるという視覚的な恐怖のバランスが秀逸であり、アメリカ的ホラーの要素を存分に活かした作品だと思います。

個人的には精神的な恐怖が好みではあるが、今作においてはアメリカ的な演出、視覚的な恐怖への満足度が大きい。


観客を楽しませる

さて、では今作がどう観客を楽しませることを突き詰めた映画なのかについて語らねばなりません。

皆さんは、自分を楽しませてくれる映画とはどのような映画だと思いますか?



自分はですね、その世界観に没入させてくれる映画です。

勿論、その世界観に入れなくても素晴らしい作品はたくさんあります。


しかし
鑑賞中に作品中の何かに心を捉えられている状態、鑑賞後に現実に引き戻される尚且つ心に留まり続ける感覚を味わえるもの。

それこそが自分が
「映画を楽しめた」
と感じる大きな要因の一つです。



今作「クワイエット・プレイス」はその観客との一体化という点においてある種のアトラクションのような臨場感を味わえるのです。


まず、退廃した閉鎖的な街並み。
やはり登場人物たちが置かれた状況というものに我々は敏感です。
それはその映画の世界観に入り込もうとするが故。

例えば某ファンタジー映画では魔法学校が舞台であったり、某SF映画では宇宙船で惑星に降り立ったり。
ホラー映画においても、その置かれた状況や街並みというものは非常に重要なものとなってきます。

似たような街並みでパッと思いついた映画がこれです。


廃墟と化した封鎖された異世界のような街で、鳴り響くサイレンを合図に闇と共にクリーチャーが襲いかかる。
映画「サイレントヒル」はゲームが原作のホラー映画であり、その世界観を最も忠実に再現した作品の一つであると思っています。

そうです、世界観に没入することでその恐怖心や登場人物の心情を我々はより密に感じることができるのです。


他の要因として、得体の知れない何かに襲われる恐怖。
例えば、本日一緒に観てきた「MEG ザ・モンスター」はメガロドンという巨大サメに襲われる映画。
アナコンダ」は蛇、「ジュラシックパーク」は恐竜、と明確に何に襲われるのかが分かっている状態です。

今作のように地球上に存在しない得体の知れない何かに襲われる恐怖は上記のように正体の分かっているモンスターに襲われるのとは比較にならないと思います。

近いものを上げるとするなら

ザ・グリード [DVD]

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ミスト (字幕版)

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この辺りでしょうか?





次にその世界観を肌で感じてもらうこと。
冒頭始まって数秒で
「あ、音立てたら即死」というキャッチコピーが脳内に過ぎり、物音を立てるどころか息付く暇さえ無くしてしまう。

裏を返せば
劇場で物音を立ててしまうと周りのお客様からの袋叩きにあって即死
するということです。

というのは冗談ですが、それくらいのマナーの質が求められる、音を立ててはいけないとより一層張り詰めた空気が劇場内を包み込んでしまう。

こんな映画、今までありましたか!?




はい、「ドント・ブリーズ」!!!

ありました(笑)
とはいえ、盲目で聴力が発達した相手という共通点はありますが対人間。
今作のモンスターとは迫力が違います。

冒頭の息子の死がここでもいいアクセントになっているんですよね。
得体の知れないモンスターへの恐怖心とトラウマを早期に観客へと植え付ける。


また、その伏線が妻の妊娠と出産、夫の我が子を守りたいという想いへと繋がっていく。

そうなんです。
上記にも書きましたが
単なるアイデアひとつで突き詰めた映画ではなく、しっかりと盛り上がりポイントへの伏線を敷いた計算され尽くした物語となっているんです。

色々とツッコミどころは満載でしたがそれはご愛嬌(笑)


エミリー・ブラントの魅力

と、今作とホラー映画について語ってきましたが、今作を語るにあたってこの話題は絶対に外せないだろう。


※鼻をほじってるわけではありません。

そう、なんと言ってもエミリー・ブラントの可愛さが僕の中で爆発したのだ。



ここから先、少々変態発言がありますのでご注意ください。










先ず、ここ!
マタニティエミリーを見れること!

音を立ててはいけないという設定の中での子作り。
無音でセッ〇ス…つまりは喘ぎ声を堪えたということで、それはもう興奮材料でしかない!!!


すみません、取り乱しました。



子を持つ母親の気持ちは分かりませんが、我が子を守れず死なせてしまったこと。

その分、新たに宿った命を大切にしたい。
そんな気持ちと、今作の設定やシチュエーションに出産シーンは最高潮に盛り上がったシーンではないか?




バスタブにエミリー。

じゃなくて(笑)
出産に伴う痛みに耐えながら、音を立てて襲われるかもしれない恐怖にも耐える。
二重苦で必死に堪えるエミリーの姿には興(自主規制)


出産祝いの花火やでー!!!



もうここは真面目に語るつもりは毛頭ございませぬ。



最も心を奪われたのは、ほっぺを膨らませる仕草。
生憎、画像は見つかりませんでしたが可愛すぎる。

「なんなんだこの可愛さは!」
と上映中に叫び、即死するところでした。

いや、そもそも可愛さに即死だったんですが。

エミリーがほっぺを膨らますシーンの画像をお持ちの方は僕のTwitterへリプお願いします。




僕はエミリーに抱きしめられる家の柱になりたい(錯乱)



・・・あ、もう話すことはありませんよ?


終わりに

ということで、最終的にエミリーへの気持ち悪い愛を書き殴っただけになりましたが、久しぶりにブログ書けて楽しかったです。
ブログを書きたい!という作品は幾つかあったのですが、なかなか手が付けられず…今作「クワイエット・プレイス」を観てよかったと思います。



ということで、「IT/イット "それ"が見えたら、終わり」の考察も置いておきます。


更新は今後も不定期になりますが、何卒よろしくお願いいたします。






(C)2018 Paramount Pictures. All rights reserved.

母親である前にひとりの女性(「タリーと私の秘密の時間」感想考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「タリーと私の秘密の時間」について語っています。

前半はネタバレなし。
後半はネタバレあり。
で書かせていただいてます。



作品概要


原題:Tully
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:キノフィルムズ
上映時間:95分
映倫区分:G


・解説

「JUNO ジュノ」「マイレージ、マイライフ」のジェイソン・ライトマン監督が、「ヤング≒アダルト」でもタッグを組んだシャーリーズ・セロンを再び主演に迎え、3人の子を育てる母親と不思議な魅力をもったベビーシッターの女性との交流や絆を、コミカルかつハートウォーミングに描いたドラマ。仕事に家事に育児にと何でも完璧にこなしてきたマーロだったが、3人目の子どもが生まれて疲れ果ててしまう。そんなマーロのもとに、夜だけのベビーシッターとしてタリーという若い女性がやってくる。自由奔放でイマドキな女子のタリーだったが、仕事は完璧で、悩みも解決してくれ、マーロはそんなタリーと絆を深めることで次第に元の輝きを取り戻していく。タリーは夜明け前には必ず帰ってしまい、自分の身の上を語らないのだが……。セロンがマーロ役を演じ、「ブレードランナー 2049」などで注目されるマッケンジーデイビスがタリーに扮した。脚本を「JUNO ジュノ」「ヤング≒アダルト」のディアブロ・コーディが手がけた。
タリーと私の秘密の時間 : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編





役作りと演出

この作品の素晴らしいところは何と言ってもシャーリーズ・セロンの役作りと演技。
そしてジェイソン・ライトマン監督の演出。
ヤング≒アダルト」でもこの二人はタッグを組んでますね。

ヤング≒アダルト スペシャル・コレクターズ・エディション [Blu-ray]

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今作では少し重い話を優しく包む込むような映像や音楽で演出されています。


台詞ひとつひとつもジョークめいた軽いコメディが散りばめられていて軽快。


セロンは育児に疲れた母親を体現するため体重を約18キロ増加して役に挑んだそうで、前出演作「アトミック・ブロンド」のセロンとは全く体型が違う。
彼女の役作りは「モンスター」で13キロの増量にも驚かされたが、本当に凄い。

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子育てに苦悩するという脚本は「ヤング≒アダルト」も担当したディアブロ・コーディの実体験だそうですね。

物語が生まれたきっかけは、脚本を執筆したディアブロ・コーディ(「JUNO ジュノ」など)の実体験。3人目の子どもを出産した直後、すでに2人の幼い子どもに時間とエネルギーを費やしていたコーディは、夜の10時から翌朝までの夜間ベビーシッターを雇っていた。その際のことを「(シッターは)救世主のように思えたわ」と語っており、今作では「分娩後の気持ちの落ち込み」と「育児に疲弊した母親の現実」、そしてそれを癒す数々のエピソードをつづっている。
“お疲れママ”を助ける“救世主”は誰!? C・セロン主演「タリーと私の秘密の時間」場面写真 : 映画ニュース - 映画.comより引用


で、どの演出が素晴らしいのかと言うとですね…
全てです!と言いたい。

母親の苦悩、父親の無関心さ、子供の自由奔放さ、他人の無関係さ、ベビーシッターの有難み、少しずつ心を開いていく様、家族に笑顔が戻る瞬間。
どのシーンを切り取っても素晴らしいの一言に尽きる。
いや、一言では言い表せない素晴らしさが詰まってます。

正直なところ、自分は子供もいなければ未婚であり、夫婦生活は疎か子育てに対する苦悩も想像でしか出来ません。
そして、子供の頃の記憶なんて曖昧で。
私情ながら家は母子家庭であり、どれだけ母親に迷惑を掛けてきたのか、すべてを分かるのは難しい。


そんな分からないなりにも、この映画のセロンを見ていると育児というものの難しさと苦悩、抱える問題が見えてくる。
それでいて語りすぎない演出が成されているんです。

全てを台詞で説明しなくとも伝わってくる。
それは感情移入とセロンの現実味ある役作り、演技の賜物ではないだろうか。

妊娠によるボディラインの崩れ、目の下のクマ、母乳、ここまでリアルを追求されたらもう出産後の母親にしか見えないでしょう(笑)




さて、ここからはいつも通りひとつの事を掘り下げつつ考察していきたいと思います。

この先はネタバレとなっております。
未鑑賞の方はご注意ください。






夢に見たものとは?

タリーの存在や脚本、これは恐らく他の方も感想などに挙げておられると思うので自分は夢について考察していこうと思っています。

作中で幾つか夢の映像が流れましたよね?
マーロの夢とは一体何を表しているのか?を考えてみました。


夢は大きく分けて二種類。
海の中の映像と現実的な映像。

海の中は終盤の事故で川へと落ちたシーンにも繋がりますが、他にも幾つか意味があると思います。


先ず、海が意味するもの。
夢占いによると

海の夢がおもに象徴するのは以下のようなこと。

・母親・母性
・豊さ
・潜在意識(思考のクセ)
・精神状態や体の状態
・出会い・妊娠など恋愛に関すること

全ての生命の源である海は、私たちに様々な恩恵を与えてくれます。
海水が蒸発して雲になり、雨を降らせれば恵みの雨となる。緑や生物など生命を維持していくために必要なものですよね。
人間の体の中にも海と同じようなものが存在していて、それはお母さんのお腹の中です。
誰もがお母さんのお腹の中にいる事を経験していて、「海に行くと落ち着く」このような感覚を感じたこともあるのではないでしょうか。
このように海は全ての源泉・源と言っても過言ではありません。
ですから、人間が生きていくうえで生じる問題や、嬉しい出来事を幅広く象徴するのが海の夢だと捉えてください。

【夢占い】海の夢!海辺・海岸・波など夢の意味を幅広く解釈 | 夢占いで心模様を洗い出すより引用

海中はお腹の中。
つまり新たに生まれてくる羊水に包まれた胎児のメタファー。
もうひとつは、新たな出会い。生まれてくるミアのこと。
そして、ベビーシッターのタリーとの出会いを示唆させるもの。


では人魚が意味するものとは?
空想上の生き物である人魚は、夢占いでは現実逃避したいという願望を表しているそうです。

人魚が海で泳ぐ夢は、夢占いでは女性らしさの発揮や、母性が高まっていくことを暗示します。人魚が泳ぐ夢は才能の開花や生命力の高まりを意味しますが、海は母性やかさの象徴です。
穏やかで美しい海の中を泳ぐことで、これまで以上に生活が充実してくることが考えられます。また結婚している人がこの夢を見た場合には、妊娠を暗示することもあります。
人魚の夢占いの意味15選|泳ぐ/助ける/死ぬ/食べる/自分/人間になる | Cutyより引用


人魚の夢もまた、母性の高まり、妊娠を暗示しているようです。




次に夢の中で、車中でジョナが二人現れた理由について考えていきます。

夢占いで子供の夢は、「あなたの側面・あなた自身・育むコトやモノ・可能性・不安の種か、可能性の種か?」を意味します。

子供は誰かと血を分けた存在。
夢の中に登場した子供は、実際に子供がいない人が夢を見た場合でも、あなたと血を分けた存在なんです。
ですから、子供の夢は、あなたの側面であって、あなた自身をあらわすこともあります。

また、子供は放っておくことができず、手のかかる存在。
育むべき、「コトやモノ」全般を象徴するものと捉えてください。
愛を育むことを意味するかもしれませんし、自分の魅力や才能かもしれません。あなたがこれから育て培っていくものを暗示する場合があります。

また実際の子供と同じように、育むことによって、その先には可能性が広がることも。子供の夢は可能性を象徴することがあります。
一方で、子供につきまとうものは、不安です。
子供はとても手がかかりますよね、放っておくことはなかなか難しいです。
子供の夢を見た場合は、あなたのなかに絶えずつきまとう不安のようなものを象徴することもあります。

【夢占い】子供の夢17選!自分に子供がいる夢・話す・遊ぶ・抱っこなど | 夢占いで心模様を洗い出すより引用



正直、ジョナはマーロにとって可愛い我が子であると同時に悩みの種でもありました。

これから育て培っていくものを暗示。
絶えずつきまとう不安の象徴。
そして、自分自身。つまりはマーロとタリー、二人の関係を示唆するもの。



母親となったマーロと対比するように演出されていた母親になる前のマーロ(タリー)。
最後の夢に人魚姿のタリーが現れたこと。
このことからも、水中に沈む車内からタリーがマーロを助け出した描写は育児に疲れた母親への精神的な救いを意味していると考えられます。

そして
これらの夢の共通点は母性の高まり、愛を育むこと。
すべては"暖かい家庭を築く"というラストシークエンスへ繋がる。



女性は母親になると我が子の為にと自己犠牲も厭わない状況に陥る。


タリーと私の秘密の時間」とはそんな自分自身と向き合った時間。
そして、ワンオペ育児で追い詰められていたマーロの苦悩からの解放、つまりは夫の育児への理解。
その為に費やした時間なんだと。

何度も言いますが、これらを台詞ではなく演出で分かりやすく魅せたところが本当に素晴らしいんですよ!



終わりに

あくまでも独身男性目線でしか見れないので、本当の育児の大変さは分からないのですが、分からないなりに感じたものは多々ありました。


完璧な人間なんていないんです。
完璧な母親を求めちゃいかん。
そして、母親である前に、ひとりの女性なんですよ。

母親視点で描かれた映画のようで、実は世の中の父親に対するメッセージが込められた作品なんですよね。
お互いに足りないところを補い合うのが本来の夫婦、家族の在り方なのだ。

ということで、女性の社会進出が進行している現代で、父親の育児協力も必要だという認識がもっと社会に広まればいいなあと思う作品でした。


お読みくださった方、ありがとうございました。





(C)2017 TULLY PRODUCTIONS.LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

形而上学の視点から見る非現実世界(「未来のミライ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「未来のミライ」について語っています。
久しぶりの考察記事となってます。

この記事はネタバレを含みますので
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:98分
映倫区分:G


・解説

バケモノの子」「おおかみこどもの雨と雪」の細田守監督が手がけるオリジナルの長編劇場用アニメーション。甘えん坊の4歳の男児くんちゃんと、未来からやってきた成長した妹ミライの2人が繰り広げる不思議な冒険を通して、さまざまな家族の愛のかたちを描く。とある都会の片隅。小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳のくんちゃんは、生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、戸惑いの日々を過ごしていた。そんな彼の前にある時、学生の姿をした少女が現れる。彼女は、未来からやってきた妹ミライだった。ミライに導かれ、時を越えた冒険に出たくんちゃんは、かつて王子だったという謎の男や幼い頃の母、青年時代の曽祖父など、不思議な出会いを果たしていく。これがアニメ声優初挑戦の上白石萌歌がくんちゃん、細田作品は3度目となる黒木華がミライの声を担当。両親役に星野源麻生久美子、祖父母役に宮崎美子役所広司
未来のミライ : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編





矛盾点

鑑賞後、端的に言って混乱しました。

なぜなら作品内の設定を自ら崩した脚本となっているから。
整合性のないストーリー展開となっているため、自分の中で想像した過程と結果というレールを大きく脱線してしまったんです。

これは明らかに制作側の作為的なもの。と判断せざるを得ない。
つまりは、何か理由があるんです。

その点について考えていこうと思っています。



・現在

まず、冒頭のファンタジー要素。

樫の木が生えた庭で、くんちゃんは変な男に話しかけられます。
この変な男は飼ってるペットのゆっこ。

衝撃的な描写として、その擬人化ゆっこに生えた尻尾を引っこ抜いただけでなく、くんちゃんは自分のア〇ルにそれを突っ込んで犬になってしまうんです!

そして、更に分からないのが、その尻尾を付けたくんちゃんをお父さんやお母さんがゆっこと呼ぶんです。
つまりは、お父さんやお母さんからはくんちゃんはゆっこに見えていることになります。

時間軸としては現在の時間経過そのもの。


ファンタジーの導入部としては力で押し切る展開…と思いきや、その後の展開で庭での不思議体験にファンタジー色は薄まり、SF色が強まるんですね。
後半に差し掛かるにつれて益々自分の中でこの冒頭のファンタジー導入部は必要だったのか?とさえ思ってしまう。(※ここについては後述しています。)



・未来から現在へ

次に、くんちゃんが未来のミライと出会うシーン。

ここでも違和感がずっと残ったままなんですよね。
右手の痣は恐らく4歳児のくんちゃんが未来から来たミライをミライだと判断するための設定でしょう。
庭で起こる不思議体験も、既にゆっこの擬人化を経ているのですんなり(?)受け入れられる。

問題は擬人化ゆっこを見ても未来のミライは動じないこと。
あくまでも冒頭での不思議体験はくんちゃん自身のもののはず。
未来のミライが知るはずがないんです。


もうひとつ言及するなら、未来から来たミライが過去に干渉することの危険性。
くんちゃんは分からないとして、未来のミライが自分本位に過去改変することへの違和感。

冒頭のファンタジー体験とこの未来のミライ体験、これをくんちゃんの脳内妄想として仮定した時に、雛人形の片付けという物理的干渉がどうしても納得いかない。

この二点から、ひとつの道筋が見えてきました。(※こちらについても後述しています。)

そして、同じ時間軸に同じ人物が同時に存在できない設定。
ここも後半パートでその設定を崩しています。(※こちらも後述しています。)



・現在から過去へ


次に、お母さんの幼少期と曾祖父さんに会うシーン。

過去へと飛んだくんちゃん。
泣いている少女(お母さんの幼少期)と出会います。
部屋を散らかし放題にし、お母さんのお母さん(お婆ちゃん)に叱られるお母さん(幼少期)を自分に重ねるような展開ですね。

実際に時間軸を移動したとして、過去の自分の母親に会うことはかなり危険です。
一方で、過去への干渉は現在の物理干渉は起こっておらず、くんちゃんの脳内妄想として仮定することもできます。


次に、自転車に乗ることを挫折したくんちゃんは再び過去へと飛びます。
すみません、ここで少し睡魔がきてしまいウトウトしてました。
なので、観てはいましたが事実と異なることが記載されていた場合はご指摘の方をお願いします。

そこで出会った青年はくんちゃんと馬に乗り、バイクに乗り、前を向くことを教えてくれました。
くんちゃんはこの青年をお父さんだと思い込むんですね。

しかし、実際は曾祖父さん。
4歳児のくんちゃんは曾祖父さんの顔を認識出来てなかったのか、若い頃の曾祖父さんだから気付かなかったのか。
現在へと戻ってきたくんちゃんはアルバムの写真で曾祖父さんだと認識します。

こちらも同様に、現在への物理干渉がなされてないので、脳内妄想として仮定できます。

いずれにせよ、この過去シーンが最もSFらしい展開となってますね。



さて、この後にもうひと展開あるのですが
一旦、ここでこの現在、未来、過去の3時間軸について整理したいと思います。



矛盾点の整理

まず、鑑賞中に感じたこと。
それは時間軸の移動は全てくんちゃんの脳内妄想ではないのか?です。


上記にも記載した通り、この3時間軸の整合性のない矛盾点は明らかに制作側の作為的なもの。と判断せざるを得ない。

整合性のないもの、とするなら
現在の擬人化ゆっこと犬化という不思議体験。
未来のミライ、過去のお母さんと曾祖父さん。


冒頭の擬人化ゆっこはこれから始まるこれらの不思議体験はファンタジー、脳内妄想ということを指し示すための演出の具現化、可視化ではないだろうか。
よって、その方向性で考えてみると全ての不思議体験はくんちゃんの脳内妄想という結論に至る。



擬人化ゆっこと出会うことで、赤ちゃん返りが治る。
未来のミライと出会うことで、雛人形の片付け。
過去のお母さんと出会うことで、母親への思いやり。
過去の曾祖父さんと出会うことで、自転車に乗れる。


自転車の件を終えた後のお父さんの台詞にもあった通り、子供は突然色んなことができるようになる。
不思議体験と現在のくんちゃんとのリンクはくんちゃんの現在置かれた状況と不思議体験後の自我の芽生えにあると思います。


その点で考えていくと、未来のミライ雛人形を片付けた点。
ここが唯一物理干渉を起こした点であり、最も大きな矛盾点となります。

雛人形の件もくんちゃんが一人で片付けたことになっちゃう。
果たしてそんなことが可能なのだろうか?(笑)

擬人化ゆっこを見ても未来のミライは動じなかった件は、くんちゃんの脳内妄想とするならば納得はできます。
未来のミライにも擬人化ゆっこは犬のゆっことして見えていたとできるからです。


しかし
時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想
とすると、後半パートで更に作品内設定を崩す設定が登場するんですよね。


それが樫の木の存在。
くんちゃんが不思議体験をしたのは家の庭に生えている樫の木が原因でした。
これは作品中でも説明されています。

過去のお母さんのエピソードから、靴に手紙を入れる。
猫好きだったお母さんのペットが犬である理由。
そして、傷ついた鳥とくんちゃん宅の鳥の巣。
過去の時間軸が現在に干渉している。


ということは
時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想→時間軸の移動
結局、振り出しに戻ってしまうんですよ。

でもですよ、時間軸の移動とするなら
擬人化ゆっこの件がまた説明できなくなるんです。
唯一、時間軸を移動してない不思議体験ですからね。


ここが最も混乱した理由です。
単に意味が分からないから混乱したのではないんです。
SF観点から考察すべきか、ファンタジー観点から考察すべきか、分からないから混乱したんです(笑)



矛盾点の結論

はい。
少し長々と行ったり来たりで話してきましたが、ここで自分なりの結論を出したいと思います。


自分が提唱する説は
形而上学的成長譚
です。

何言ってんだよ!ってのはやめてください(笑)
あくまでも個人的考察によるものなので正解を求めている訳ではありません。
自分が納得出来る仮説を説きたいだけです。

形而上学(けいじじょうがく、希: μεταφυσικά、羅: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: métaphysique、独: Metaphysik)
感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。対立する用語は唯物論である。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場や、ヘーゲルマルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと。
形而上学 - Wikipediaより引用



今作は不思議体験を通して得たくんちゃんの成長譚であること、そして家族の絆を描いたもので間違いないと思います。

くんちゃんが不思議体験する際には必ず、喜怒哀楽などの感情の起伏が起点となっています。
嫉妬、怒り、悲しみ、そういったなかなか受け入れられない駄々をこねる状況で不思議体験を経て、現実でくんちゃんがその経験を踏まえて成長を見せる。
自分の成長と共に家族との絆を育む。

大まかに纏めるとこんな感じ。
愛を奪われたくんちゃんが愛を取り戻す、北斗の拳的な話でもありますね(違う)

愛をとりもどせ!!

愛をとりもどせ!!



結局、この話は時間軸の移動なの?それとも脳内妄想なの?というところなんですが
SFファンタジーとするなら両方の要素があってもいいのではないか?
という安直な結論しか導き出せませんでした、すみません(笑)


時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想→時間軸の移動
ではなく
整合性の矛盾→脳内妄想≒時間軸の移動
もしくは
整合性の矛盾→脳内妄想+時間軸の移動


全てはくんちゃんの妄想だと纏めてしまえば簡単な話なんですが
やはり引っかかる雛人形の物理的干渉、そして
物理学に興味があるならまだしも鉄道マニアな4歳の男の子が果たしてこんな壮大な時間軸の移動と設定を妄想可能なのか?
というところで「脳内妄想+時間軸の移動」としています。


また、そのひとつの理由が
この作品における時間軸の移動はすべて過去に遡るもの。

そして、くんちゃんが現在の出来事をリンクして時間軸の移動、不思議体験を脳内妄想したと考えると、現実世界と非現実世界での繋がりが見えてきたんです。



・擬人化ゆっこの愚痴を聞く(くんちゃんの脳内妄想)
→赤ちゃん返りが治る



雛人形を片付ける(未来のミライの時間軸移動)
→おもちゃを片付けない



・現実世界でミライの顔にお菓子を乗せるイタズラをする
→非現実世界で魚の群れに襲われる


→非現実世界でお母さん(幼少期)が叱られて泣く(くんちゃんの時間軸移動)
→現実世界でお母さんが泣いている



・現実世界で自転車に乗れない
→非現実世界で馬やバイクに乗る(くんちゃんの時間軸移動)
→現実世界で自転車に乗れる



・くんちゃんの迷子(くんちゃんとミライの時間軸移動)
→くんちゃんがミライを妹として認める



そうです、3時間軸からもうひと展開あったくんちゃんの迷子シーンで判明したのですが

くんちゃん宅の樫の木は図書館のようなものでインデックスが出来ており、家系の過去、現在、未来の3時間軸全ての出来事がカードのような形になって収められている。
インデックスの中は球体状になっており、そこには系統樹が張り巡らせ枝分かれするような形で記録が残されているという。

そこから行きたい場所を見つけるのは困難という未来のミライの台詞。

ここで仮説が立てられますね。


くんちゃんの迷い込んだ場所(ここを俯瞰的世界とします)。
くんちゃんの描写では、とある駅の待合室でした。
未来のミライは時間軸の移動で現在へと来ている。
そして、この3時間軸に関わる俯瞰的世界にも未来のミライが登場していることから


ミライもくんちゃんと同じように、未来での樫の木による不思議体験者なのではないだろうか?


ということ。
索引の使い方をくんちゃんに教えていたのも頷ける。
とするなら、雛人形の物理的干渉も説明できます。
また、擬人化ゆっこを見ても動じなかったことも説明ができます。
時間軸を移動して、既に知っていたからです。


ここで前半パートと後半パートの矛盾点、雛人形を片付ける際に説明された同じ時間軸に同じ人物は同時に存在できない。という設定も
俯瞰的世界、つまりどの時間軸でもない世界では過去と現在と未来が混在しているのではないか?と推測できます。

したがって、俯瞰的世界では
現在のくんちゃんと待合室にいた未来のくんちゃん。
が同時に存在できたのではないか?



これらの不思議体験を何らかの実体として認めると仮定しよう。
(ゆっこの尻尾でくんちゃんがゆっこに見えた件、未来のミライが物理的に干渉した件などを考慮し)

これは広い意味で、様相実在論と呼べるのではないか?

非現実世界は現実に存在しない。
とするなら、この主張は様相形而上学的には否である。
裏を返せばすべての実体は現実に存在するものということが言える。
つまりは、哲学的理論(ここで言う不思議体験)に使われる実体もすべて現実に存在する。と言えるのではないか。


現実世界と非現実世界の区別はどこか?
例えば、「此処」と「此処以外の場所」の区別や
「現在」と「現在ではない時間軸」の概念と類似すると思う。

「此処」と発した時点での場所を「此処」と定義するなら、「現在」と発した時間が「現在」なわけで、非現実世界を現実だと認識したのならば現実世界であり、現実世界での現実としての認識と区別されることはない。
つまりは非現実世界も形而上学的には特別なものということにはならない。

無数の不思議体験は論理空間を探索する知的旅行である。



かなり極論なのは承知の上で述べてます。
こうしないと纏まらなかったんです。

締まりが悪いなあ。。。



総評

考察してきた矛盾点が気になって気になって感想どころではなかったので、改めて感想を。


SFファンタジーとする一方で、しっかりとうざいくらいに子供目線で描かれている点も評価できる。
また、作品内容だけでなくアニメ作画としても素晴らしい。
息を吹きかけて曇る窓ガラスとそれを拭う手の跡。
人型であるくんちゃんの犬化モーション。
泳ぐ魚や駅の描写まで。

恐らく、自分が考察してきたような理論的なものではなく、「考えるのではなく感じろ」映画だったのは間違いないだろう。
ただ、ファンタジー導入部が機能しきれず後半になるにつれてSF色が強まったことは勿体無い気もします。

そもそも、細田守監督が壮大なファンタジーを描けるとは思っていなかったので、不思議体験が家の中で、それも庭という限られたミニマム空間でしか起こっていないことは英断としか思えない。

よって脚本の粗さはあるものの、時間跳躍によって紡がれる家族という共同体を冷たくも温かく描き出したことが素晴らしく、また過去へしか遡っていない設定は未来は自分で切り開いていくものだというメッセージにも取れる。



終わりに

なんだかグダグダと語り出したら止まらなくなってきて、長々と失礼しました。
結局答えはビシッと出せず抽象的になりましたが、疲れたのでこの辺でやめておきます。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2018 スタジオ地図

この森で、天使はバスを降りた(ネタバレ感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は映画「この森で、天使はバスを降りた」について語っています。
フォロワーさんからのオススメ映画を観た第三弾になります(笑)

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Spitfire Grill
製作年:1996年
製作国:アメリ
配給:東宝東和
上映時間:116分


・解説

さびれた町にやって来たよそ者の少女が、しだいに人々の傷ついた心を癒していく様を描くヒューマンドラマ。監督・脚本はテレビシリーズ『探偵レミントン・スティール』で知られるリー・デイヴィッド・ズロートフで、彼の劇映画デビュー作。製作は「ボブ・ロバーツ」のフォレスト・マーレー、製作総指揮はウォレン・G・スティット、撮影は「Dr.ギグルス」のロブ・ドレイパー、音楽は「アポロ13」のジェームズ・ホーナー、美術は「ユージュアル・サスペクツ」のハワード・カミングス、編集は「フォー・ルームス」のマージー・グッドスピード、衣裳は「ユージュアル・サスペクツ」のルイーズ・ミンゲンバック。主演は「蒼い記憶」のアリソン・エリオット。共演は「キルトに綴る愛」のエレン・バースティン、「クラッシュ」のマルシア・ゲイ・ハーデンほか。96年サンダンス映画祭観客賞受賞。
この森で、天使はバスを降りた : 作品情報 - 映画.comより引用



・トレーラー






調和からの脱却

自然に囲まれた閉鎖的な小さな村。
そこにバスから降り立つ一人の素朴な女性。


変化を求めない調和、現状維持の傾向は、いい意味で平凡であり平和なのだろう。
一方で、排他的な視線で外部を受け入れようとはしない偏見が見られるんですよね。

そこで、力で押し切り何かを変えようとする強引な演出がないところもこの映画の魅力のひとつ。


彼女が服役していた罪は殺人罪
刑期を終えた彼女はその罪からも逃れられずにいる。
食堂スピットファイアを営むハナもまた、自責の念に囚われている。

この二人と食堂を取り巻くように物語は展開されていくわけだが、ひとつのアイデアが現状を一変させる。



作文コンテスト。
100ドルの応募金で作文を作り、優勝者にはこの食堂を譲るというもの。
自然に囲まれる田舎の食堂だからこそ価値があり、パーシー同様に新たな地で人生をやり直したいと願う人は多数いるのだ。

この寄せられる一つ一つの文が、それを読む村中の人達の表情が和やかで心温まる。



パーシーのアイデアを受け入れたことは、それまで調和を求めた村全体に変化を齎せた。
自分が変わろうとするパーシーには人を変える力がある。

ハナも少しずつパーシーを受け入れるようになっていく。
怪我をきっかけに少しずつパーシーを頼るようになっていくのだ。


ハナの甥ネイハムの妻であるシェルビーもまた、パーシーと出逢ったことで少しずつ変わっていく。

最もそれが表れたシーンが、シェルビーが夫ネイハムに逆らうシーンだ。
それまでは夫の言いなりで閉鎖的な村同様に調和を求めていた。
ハナのお金が盗まれた時、シェルビーはパーシーを疑うなら離婚すると言ったのだ。

これはパーシーによって変わりゆく村のメタファーとして描かれていると思う。


こうだと決め込んでしまうとそれ以上にはならない。
変化することは恐怖もある。
そして変化するためには勇気がいる。
変わるきっかけを作ってくれたのがパーシーであり、変えることができたのは彼女ら自身なのだ。



見えないものの恐怖

傷が深ければ、治るのもそれに比例して苦しいのか?


‪人間が持つ内包的な善悪、犯罪に至る経緯や心情の変化、憎悪や嫉妬、猜疑心や欺瞞、そういった負の感情というものは、築かれつつあった関係を一瞬で崩れさせる。‬

しかし、周りの目を気にするような消したい過去、例えばパーシーのように罪を犯して刑務所に入っていた過去があったとしても、その経験を後の人生に活かすことも出来るんだ。
つまりは生かすも殺すも自分次第であり、自分がどう立ち振舞って行くかが重要だということ。



何よりも怖いのが、分かっているつもり、知っているつもりで相手を決めつけてしまうことだろう。
潜在的にある偏見や差別の目、自分のフィルターを通して見た姿と相手の本心、真意との乖離や齟齬。


「彼女のことを知ってるつもりでした。」
ネイハムのこの言葉が全ての懺悔と罪の意識を物語っている。

そう、「何も知らなかった。」んです。
思い込みは時に良からぬ方向へと進んでいってしまう。
信じることとそう思い込むことは違うんです。


そして、さらに言うならば、大切なものは失って初めて気付かされるということ。

手の届かない場所、もう会えない場所へ旅立った。
その時になって人々は与えられた小さな物事の大きさに気付かされる。



交わる接点

我が子を失った母親と我が子を亡くした母親。
境遇は違うし、互いの気持ちを理解し合うことは出来ない。
それでも我が子に対する愛情という点においては共通するものがある。


人は決して相手の気持ちを全て理解することなんて出来ない。
それでも、相手の気持ちを察することは出来る。


気持ちに乖離があっても接点を持つことは出来るんです。

だからハナの息子であるイーライに、パーシーは産まれてくるはずだった子どもと同じジョニー・Bと名付け、命を賭けて助けようとしたのだろう。
意図するものではなく、無意識に。本能的に。


自分は我が子に会えなかった。
しかし、ハナとイーライを会わせることが出来た。
これは紛れもなくパーシーの立ち振る舞いの結果である。



作文コンテストの優勝者はクレアという女性。

子を身篭った時に応募されたもので、応募金は100ドルに満たない。
しかし、息子のこれからの人生のチャンスを与えてあげようといった内容には、我が子への愛情、そしてこれから先の未来を見据えた希望が見える。
ハナはその希望に託したのだと思えるのです。


拍手でクレアを迎え入れる村人たちとその笑顔は当初の排他的な村の印象はない。

そう、これは決して爽やかなハッピーエンドでもなければ悲劇的なバッドエンドでもない。
今、ここから始まる物語なのです。



終わりに

この作品を観て分かる邦題の素晴らしさ。
単にタイトルを見ただけでは分からないこの作品の良さがこの放題に詰め込まれている。

何このセンス!
邦題が良すぎてブログ記事のタイトル何も浮かばんかった(笑)

扱うテーマは重いものの、ラストは荒んだ心に静謐を齎してくれるような、そんな映画でした。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



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