小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

「神と共に 第一章:罪と罰」ネタバレあり感想

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は韓国映画「神と共に 第一章 罪と罰」について語っています。

一言で言うと
泣いたし、めちゃくちゃ面白かった!!!

まだ間に合います。
二部構成なので、興味ある方は今のうちに劇場へGOしちゃってください!



この記事にネタバレを含みます。
未観賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Along with the Gods: The Two Worlds
製作年:2018年
製作国:韓国
配給:ツイン
上映時間:140分
映倫区分:G


解説

韓国の人気ウェブコミックを実写映画化し、世界的ヒットを記録したファンタジーアクション2部作の第1章。人間は死ぬと49日間に7つの地獄の裁判を受けなければならず、すべてを無罪で通った者だけが現世に生まれ変わることができる。ある日、死を迎えた消防士ジャホンの前に、冥界からの使者で地獄の裁判の弁護と護衛を務めるヘウォンメクとドクチュン、カンニムが現れる。生前の善行が認められ、19年ぶりの貴人として転生を確実視されるジャホンだったが、裁判が進むにつれて地獄鬼や怨霊が出現し、冥界が揺らぎはじめる。冥界の使者カンニムを「お嬢さん」のハ・ジョンウ、ヘウォンメクを「アシュラ」のチュ・ジフンが演じるほか、共演にも「猟奇的な彼女」のチャ・テヒョン、「新しき世界」のイ・ジョンジェら豪華キャストが集結。「ミスターGO!」のキム・ヨンファ監督がメガホンを取る。
神と共に 第一章 罪と罰 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



罪と罰

タイトル『神と共に 第一章 罪と罰』からも分かる通り、二部構成という形を取りながらひとつの映画としてしっかりとカタルシスを設け、その上で後編に繋げるというエンタメのお手本です。

また、韓国映画のイメージは例えば猟奇殺人もの、自国の政界的な汚点を描いた社会派ドラマやヒューマンドラマ、ラブロマンスなどをイメージしますが、今作のジャンルはファンタジーアクション。
これが韓国でも大ヒットを巻き起こしたんです。


正直、あまり期待はせずに観たのですが、予想を超えるスケール感に圧倒されました。

『新 感染 ファイナル・エクスプレス』など、昨今の韓国映画の新境地開拓は良い方向に向いてますね。


では、本題に入っていきます。
タイトルにもある『罪と罰』。

罪と罰といえば、ドストエフスキーの『罪と罰』を思い浮かべる。

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)


主人公のラスコーリニコフは"1つの罪は100の善行によって償われる"という理論のもと、過去に火事の中から子供を救ったこともある青年。
しかし、殺人を犯してしまって罪の意識に苛まれる。

この作品は、"罪を犯した人間でも更生することができる"といった希望を見せるメッセージを含意しています。



今作での『罪と罰』は単純に地獄の法廷劇を意味します(笑)
厳密に言えばジャホンがラスコーリニコフと重なる部分はあるのですが、深く考察するまでもないでしょう。

生前の罪を背負い、死後に罰を受ける。
但し、生前に許された罪は死後に処罰されないといった例外はあります。

主人公の消防士ジャホンは生前の善行が認められた"貴人"。
貴人とは、一般的に身分の高い人のことを指す言葉ですが、ここで言う身分は冥界での扱いですね。



人は死を迎えるとどうなるのか?
この世(下界)とあの世(冥界)の世界はあるのか?
今作はそんな死生観を仏教の概念とVFXを用いて壮大なスケールで描いた超大作と言えます。



量子力学の観点から見た死生観は、脳(物質)の次に意識が作られるのではなく、意識から脳(物質)が作られる。
つまり、肉体(物質)が死んでも意識まで消滅する必要はなく、死後(意識)の世界が認められると仮定される。
即ち、死後の世界とは意識の世界ということになる。


冒頭でいきなり人生のクライマックスを迎えた消防士ジャホンが亡くなるシーン。
現場で倒れている自分を見ていましたが、これは量子力学の世界でいう意識。
言わば臨死体験のようなものと考えられます。

‪一旦、肉体の機能が停止した後、奇跡的に息を吹き返した人間がその間に体験する時間。
‪ある臨死体験に基づいた記録によると、死の直後3分間は意識があるとのこと。‬

使者が現れ、下界と冥界を繋ぐ穴に吸い込まれる間は霊体(意識)として下界に存在していたことになる。


ジャホンの弟スホンは、死後に怨恨によって下界に留まる。
これは所謂地縛霊のようなものだと考えられます。

身内が死後に怨恨で下界に介入すると冥界に地獄鬼が現れ時間の流れも早くなるという特殊な設定と、使者は下界に介入できないとしながら下界に介入した際に冥界に影響があったことから、基本的に亡者は下界に介入することは冥界の法律違反とされているようですね。

ただ一つ、下界に介入出来るものが現夢と呼ばれるもの。
亡者が下界の誰かひとりの夢の中に一度だけ姿を表すことができる。
所謂夢枕に立つというやつです。

夢枕に立つことは、何かを伝えるために霊が下界に現れたと考えて良いので、もし枕元に先祖の霊が現れて何も言わずに突っ立ったままだったら、ご用件を訊ねましょう(笑)



死後の世界を描いた映画は結構多いですよね。
例えば、最近日本でも公開された『DESTINY 鎌倉ものがたり』もそうです。


今作で描かれる死後の世界(冥界)は、端的にやりすぎです(笑)

まあ、そこが面白いんですが。
大枠はあらすじ通り法廷劇で小難しい話は一切なく、亡者ジャホンの生前の罪を問われ罰を与えるか否かという裁判がヒューマンドラマの形で描かれていきます。
家族を絡めてトラブルが発生する七つの裁判、そして兎に角、使者のアクションが凄い。

これはドラゴンボールか?
いや、『ジャンパー』だ!(笑)


とはいえ、七つもの裁判をひとつの映画内で行うことは時間の枠的に厳しいものがあり、テンポは早め。
そこがかえって良かったとも思います。
多分、もっと時間を掛けていたら中弛るみしてました。



七つの裁判

韓国映画において、仏教の映画は珍しく、韓国で扱われる宗教はキリスト教が多いと思います。

仏教を扱った映画で思い付くのは『アシュラ』。


キリスト教を扱った映画は多数あるので、個人的に好きな映画を。

シークレット・サンシャイン


『哭声 コクソン』




さて、今作『神と共に 第一章 罪と罰』で扱われる輪廻転生を題材にした死生観、仏説寿生教について記述していきます。

あらすじから簡単に説明をすると

人は死ぬと、49日間に7つの地獄の裁判を受けなくてはならない。
殺人・怠惰・ウソ・不義・裏切り・暴力・天倫
七つの地獄の裁判を無罪で通ったものだけが、現世に生まれ変われる。

というもの。
劇中でジャホンが受けた裁判の順は以下の通り。

火蕩霊道にある変成大王が仕切る"殺人地獄"
三途の川にある初江大王が仕切る"怠惰地獄"
剣樹林にある泰山大王が仕切る"ウソ地獄"
寒氷峡谷にある五官大王が仕切る"不義地獄"
天地鏡にある宋帝大王が仕切る"裏切り地獄"
真空深穴にある秦広大王が仕切る"暴力地獄"
千古砂漠にある閻魔大王が仕切る"天倫地獄"



日本における仏教では六道が一般的ですね。

六道とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。

六道には下記の6つがある。
天道(てんどう、天上道天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう、阿修羅道とも)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
このうち、天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道三悪趣三悪道)という。

六道 - Wikipediaより引用



また、中国における仏教(道教)にも似たような教えがあります。
それが十王です。

十王とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の、いわゆる裁判官的な尊格である。数種の『十王経』類や、恵心僧都源信の『往生要集』に、その詳細が記されている。

人間を初めとするすべての衆生は、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、没後に中陰と呼ばれる存在となり、初七日 - 七七日(四十九日)及び百か日、一周忌、三回忌には、順次十王の裁きを受けることとなる、という信仰である。

没して後、七日ごとにそれぞれ
秦広王(初七日)
初江王(十四日)
宋帝王(二十一日)
五官王(二十八日)
閻魔王(三十五日)
変成王(四十二日)
泰山王(四十九日)
の順番で一回ずつ審理を担当する。
七回の審理で決まらない場合は、追加の審理が三回
平等王(百ヶ日忌)
都市王(一周忌)
五道転輪王(三回忌)
となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質、救済処置である。
もしも地獄道・餓鬼道・畜生道三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。

十王 - Wikipediaより引用



基本的な設定はこちらがモチーフとなっているかと思います。
今作に登場する裁判を収める大王の名前も十王と一致します。

もしかしたら、続編『神と共に 第二章 因と縁』では追加の審理3つが出てくるのかもしれませんね!

ただし、今作では死後の世界は全て地獄であり、生まれ変わる先が六道ではなく地獄道か人間道ということでしょう。
劇中でもちゃんと説明がされているので、地獄のルールについては観ていただければ分かると思います。

十王の裁判の裁きは特に閻魔王の宮殿にある「浄玻璃鏡」に映し出される「生前の善悪」を証拠に推し進められるが、ほかに「この世に残された遺族による追善供養における態度」も「証拠品」とされるという。
十王 - Wikipediaより引用


このように、裁判中に使者が弁論をする際に生前の証拠として見せていた鏡のことも明記されていました。



総評

と、ここまで冥界と七つの裁判について語ってきましたが、ここで総評です。

冒頭でも申した通り
泣いたし、めちゃくちゃ面白かった!!!

確かに冥界の世界観はワクワクします。
しかし、法廷劇が面白いわけではないんです。
なんなら雑なくらいです(笑)

そう、この作品のキモは裁判でも地獄でもなく、それらはすべてが消防士として生前に善行を積んだ主人公ジャホンとその弟スホンを絡めた家族の愛を掘り起こす媒体に過ぎないのです。

スホンは兵役中に一等兵のウォン・ドンヨンの誤射によって倒れる。
死を隠蔽したい上司がドンヨンと共にスホンを森に埋めた際、まだかろうじて生きていたスホンは生きたまま埋めになって殺される。

ジャホンの物語から突如スホンの物語へと移行し、その2つの物語を絡めて最終裁判である"天倫地獄"を迎える。

ファンタジーアクションと謳いながら、ミステリー要素までぶっ込んできたぞ!!!
と評価上がっちゃう。


"天倫地獄"で明らかになったジャホンの生前の罪。
兄弟喧嘩。
15年もの間、実家に帰らなかった理由。

卑怯だよね。ベタだよね。
泣かせようとする演出では普段泣かないんですが、泣いた。
何に泣いたかって、お母さんの我が子を思う気持ちですよ。
親の心子知らずとはよく言ったもので、もうこういうのに滅法弱い。

罪を許され無事ジャホンは生まれ変わることができました。

ハッピーエンド。





で終わりではなく、ジャホンはまだ48人目なんですよね。
そう、49人を生まれ変わらせることで、やっと使者たちは生まれ変わることができるんです。

49人目は最後の功績が認められ(?)貴人となったスホン。
そして、続編となる『神と共に 第二章 因と縁』はついにマ・ドンソクが登場します。


第一章はジャホンの物語。


第二章はカンニムたち使者の物語ということで、非常に楽しみです!



終わりに

ということで(?)
観客を楽しませることに注力した複合型エンターテインメントといったところでしょうか。
まんまとその魅力にハマってしまった。

元々、韓国映画は大好物だったのですが、新たな韓国映画の魅力を知れて「こういうのもアリだな」といった印象。
今後の楽しみが増えましたね。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました!



(C)2019 LOTTE ENTERTAINMENT & DEXTER STUDIOS All Rights Reserved.

静かなる変革と未来への軌跡(「僕たちは希望という名の列車に乗った」感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は5月に絶対観たいと心待ちにしていたドイツ映画
『僕たちは希望という名の列車に乗った』
について語っています。

この記事に明確なネタバレはございません。
最後までお読みいただければ幸いです。



作品概要


原題:Das schweigende Klassenzimmer
製作年:2018年
製作国:ドイツ
配給:アルバトロス・フィルム、クロックワークス
上映時間:111分
映倫区分:PG12


解説

ベルリンの壁建設前夜の東ドイツを舞台に、無意識のうちに政治的タブーを犯してしまった高校生たちに突きつけられる過酷な現実を、実話をもとに映画化した青春ドラマ。1956年、東ドイツの高校に通うテオとクルトは、西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を見る。自由を求めるハンガリー市民に共感した2人は純粋な哀悼の心から、クラスメイトに呼びかけて2分間の黙祷をするが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは社会主義国家への反逆とみなされてしまう。人民教育相から1週間以内に首謀者を明らかにするよう宣告された生徒たちは、仲間を密告してエリートとしての道を歩むのか、信念を貫いて大学進学を諦めるのか、人生を左右する重大な選択を迫られる。監督・脚本は「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男」のラース・クラウメ。
僕たちは希望という名の列車に乗った : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編
https://youtu.be/UE1pZVM52aI



ラース・クラウメ監督

アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』ラース・クラウメ監督が、ベルリンの壁建設5年前の東ドイツで起こった史実を基に作られています。

"たった2分間の黙祷"は、国家を揺るがす大事件に発展するという衝撃の実話を映画化した青春群像劇。


アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』の感想はこちら。



今作『僕たちは希望という名の列車に乗った』と『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』の二作からも、ラース・クラウメ監督が描く映画のメッセージが読み取れる。

ラース・クラウメ監督は映画を通して我々観客に、 ドイツが誇れる人物を、物語をもっと多くの人に知ってもらいたい。
歴史を変えた英雄を、時代の矛盾に苦しんだ者たちの奮闘する姿を伝えたい
のではないか?


アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』にてフリッツ・バウアー本人映像の冒頭の語りはラース・クラウメ監督自身にも大きな影響を与えたのではないだろうか。

「我々ドイツ人にとって、奇跡的な経済復興とゲーテやヴェートーベンを生んだ国であるということは、とっても大きな誇りになっている。
だが、その一方でドイツは、ヒトラーアイヒマン、そしてそのお仲間を生んだ国であるというのも事実である。」
by フリッツ・バウアー





ラース・クラウメ監督は今作の映画化へ動いた理由を明かしています。

「『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』が自分でも予想できないぐらいの成功を収めて、うれしい反面、次へのプレッシャーがそうとうあったことは確か。周囲から期待されるからね(苦笑)。ただ、プロデューサーにはほんとうに自分がいいと思う脚本でないと作れないと宣言していた。

 そんな折、出会ったのがディートリッヒ・ガルスカのノンフィクション『沈黙する教室 1956年東ドイツ-自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語』だったんだけど、恥ずかしながらこんなことがあったなんて知らなかった。

アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』の主人公フリッツ・バウアーはもっともっとドイツ国内で知られていい人物だけど、それなりに知っている人はいる。でも、今回の『僕たちは希望という名の列車に乗った』のエピソードに関しては、ドイツ人でさえほとんどが知らない。ということは世界では全く知られていないということ。確かにベルリンの壁崩壊前後のことはよく描かれいる。ただ、これは壁がまだできる前の話。ここら辺の時代、とりわけ東ドイツ側の状況はほとんど語られていない。これは世界に向けて発信しなければと思ったんだ」

ラース・クラウメ監督が東ドイツを題材にした理由は?|Real Sound|リアルサウンド 映画部より引用


ドイツの人々がなぜ東に残るのか、なぜ西へ逃げるのかが的確且つ簡潔に描かれており、予備知識は不要。
しかし、ベルリンの壁に関する時代背景や当時のドイツの情勢を念頭に観ると更に深みが出ます。

ということで、予備知識として時代背景を簡単に書き足しておきます。
参考までにどうぞ。



時代背景

まず、資本主義と社会主義、その時代背景について簡単に説明します。

資本主義は、営利目的の個人的所有者によって商業や産業が制御されている、経済的・政治的システム。
資本主義 - Wikipediaより引用


簡単に説明すると、資本(お金)を持つ資本家が労働者を雇って利益を得る体制のことで、我が国日本の社会も資本主義にあたります。

資本主義のメリットは競走市場により、経済が発展しやすいこと。
デメリットは格差が広がる恐れがあること。

社会主義は、個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制。
社会主義 - Wikipediaより引用


こちらは、国が国民の給料や財産を管理して、 平等を実現しようとする体制のこと。
つまり、国民を平等にする為に国、政府が一括に管轄する社会。

社会主義のメリットは計画経済を基盤に格差のない平等な社会を目指すもの。
デメリットは経済が停滞しやすく、政治的圧力が強いこと。

あくまでも社会主義共産主義を目指す第一段階であるという言わば理想論です。



最初に"社会主義"を実行したのが当時、地球上で最も面積が大きかった"ソ連"という国です。
1900年頃まで、世界の中心は資本主義でしたが、1922年にスターリンのもとでソ連が成立すると、スターリンソ連社会主義化を進めます。

そして、1945年に第二次世界大戦が終わると、ソ連は周辺国を中心に"社会主義"を広めていきます。


以降、社会主義国家は東ドイツハンガリーポーランドなどの東欧。
中国、北朝鮮の東アジア。
ベトナムカンボジアなどの東南アジア。
イラク、シリアなどの中東。
エチオピアコンゴ共和国などのアフリカ。
キューバの中米。
世界中で社会主義が成立します。

それに危機感を感じたのが、資本主義の象徴であるアメリカ。
この"資本主義アメリカ"と"社会主義ソ連"の対立が、いわゆる"冷戦"です。


しかし、上記に記載した通り社会主義は"経済が停滞しやすい"というデメリットがあり、ソ連は1991年に崩壊します。

"ベルリンの壁"崩壊後の旧東ドイツを描いた映画『希望の灯り』も凄くいい映画でした。
機会があれば是非。



今作の舞台となった1956年は"ベルリン壁"建設前の時代。
壁が建設されたのはこの5年後の1961年です。
東西ドイツに分断されたのは1949年で、まだ国としては新しくて混乱と発展の狭間にあった。

社会主義に重きが置かれ、国民の思考としても社会主義には"希望"を抱いていたのかもしれません。

1950年代終わりの東ドイツの生活水準は西ドイツの25~30%のレベルでしかなかったと言われています。



米ソ冷戦下での旧東ドイツが舞台となると、暗く重苦しい描写を想像するかもしれませんが、物語の導入は軽快。
今作の主人公であるテオとクルトという二人の若者が青春を謳歌している。



テオは労働者階級の生まれ。(上)
クルトは市議会議長の父を持つ。(下)

彼らは大学へ進学するという希望が約束された特進クラス。
社会的地位の異なる二人が同じ立場として国の行く末や社会的立場の苦難を強いられることとなる。
 


クルトのモデルは原作者ディートリッヒ・ガルスカです。
惜しくも2018年にお亡くなりになられたようで、この映画を観ることなくこの世を去られています。

舞台となった街や人物の脚色以外はありのまま描かれているそうで、監督は原作『沈黙する教室 1956年東ドイツ-自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語』を細かく読み解き、ディートリッヒ・ガルスカ本人にも話を聞いた上で脚本を書いたそうです。

沈黙する教室 1956年東ドイツ—自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語

沈黙する教室 1956年東ドイツ—自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語

ディートリッヒ・ガルスカ(著/文)
1939年生まれ。ケルン、ボーフムでドイツ文学、社会学、地理学を学ぶ。
ギムナジウム教師を経て、後はエッセンの市民学校で文化と芸術分野の講師をしていた。
2018年2月28日に本書を原作とした映画『僕たちは希望という名の列車に乗った(Das chweigende Klassenzimmer)』のワールド・プレミアがベルリン映画祭で行われたが、その2ヶ月後の4月18日に病没。



ナチスの傷跡

さて、ここまで今作を絡めつつ、時代背景について語ってきましたが、それを踏まえた上でこの作品が何を我々に残したのか。

ここからは個人的感想をまとめていきます。



ナチス・ドイツが残した傷跡は他国だけではなく、ドイツにもある。
例えば『ヒトラーの忘れもの』のようにナチス政権が残した負の遺産とどのように向き合い、過去を乗り越えていくのかをテーマにした作品が作られている。



今作でもナチス政権が残した負の遺産ナチスの傷跡が根強く残る。

東ドイツスターリンシュタットに通う高校生たちが、西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目にしたことからこの物語は大きく動く。

民衆蜂起でハンガリー市民が多数死亡したこと知った彼らは、学校の教室で哀悼の意を表し黙祷を捧ぐ。

統制がかかっていたこの時代にも、自由を求めて自分の意志を貫く若者たちが東ドイツにもいたという事実。



若者たちの行った"たった2分間の黙祷"。
それに対し、体制を重んじる大人たちが厳しく当たり、権力の行使が行われる。

それは、ソ連支配下社会主義国家(ソ連マルクス主義)であった東ドイツの体制において、ハンガリー動乱社会主義の体制を脅かす"国家への反逆"、"反革命行為"とされる行為だからだ。

今を生きる我々には人権があり、アイデンティティは尊重されるべきものとして守られている。
しかし、当時の大人たちから見ればそれは、"反乱分子"であり、"反革命的"な若者たちとして見なされるのだ。



また、今作で使われた"ゲシュタポ"という言葉に対し、大人たちは激昴し「ナチスと戦った」と反論する。

支配と隷属
かつての独裁国家ナチス武力行使を憎んでいた大人たちが若者たちに対して同じようなことをしているというこの皮肉こそが、根強く残るナチスの傷跡そのものである。



また、社会主義(ソ連マルクス主義)は国が資産を管理することから政治的な抑圧、差別が見られる。

マルクス主義とは、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスによって展開された思想をベースとして確立された社会主義思想体系の一つである。しばしば科学的社会主義とも言われる。

マルクス主義は、資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている。

ソ連型のマルクス主義マルクス・レーニン主義、その後継としてのスターリン主義)に対して、西欧のマルクス主義者は異論や批判的立場を持つ者も少なくなかったが、最初に西欧型のマルクス主義を提示したのは哲学者のルカーチ・ジェルジとカール・コルシュだった。

ルカーチソ連マルクス主義マルクスレーニン主義)に転向したが、ドイツのフランクフルト学派と呼ばれるマルクス主義者たちは、テオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマーを筆頭に、ソ連マルクス主義のような権威主義に対する徹底した批判を展開し、西欧のモダニズムと深く結びついた「批判理論」と呼ばれる新しいマルクス主義を展開し、1960年代の学生運動ポストモダニズムなどの現代思想に対しても深い影響力を見せている。

マルクス主義 - Wikipediaより引用



つまり、マルクス主義による冷戦下での思想の抑圧は、東欧から西欧へ、後世の現代思想にまで影響を与えているほど強大なものであった。


マルクス主義による格差社会の撤廃は、逆に抑圧的な差別意識を含む。
その差別意識は支配階級のイデオロギーが被支配階級に強制されている。

即ち、様々な階級、階層、民族、世代、その他の社会集団が、それぞれの存在条件を維持、あるいは変革するための力として作用するものとしての精神的諸形態。

これは現在の差別意識にも通ずるところがある。
個人の差別意識でも、差別イデオロギーでもなく、社会意識としての差別意識そのものではないだろうか。
どのような状況に置かれているどのような集団がいかにして差別意識を形成し、保持しているのか。
また、その集団に所属している個人は如何にして差別意識を内面化し、集団の差別意識を支えているか。



この作品の凄いところは
その階級社会を撤廃するという平等な社会の確立という聞こえの良い言葉の中に隠された差別意識をしっかりと映像として見せ、差別意識を無意識に植え付けられた体制と社会主義の危うさを浮き彫りにしているところではないだろうか。

無論、そんな大人たちに屈することなく、自分たちで考えて行動に起こした若者たちが輝いて見える。
そんな若者たちへの繊細で力強い想いも素晴らしいのですが。


ここに関してはラース・クラウメ監督の前作『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』の冒頭でも共通する認識がある。

「どんな日であっても必ず昼と夜があるものだが、同様にどんな民族の歴史においても陽の部分と陰の部分がある。
私は信じる。このドイツの若い世代ならきっと出来まいことはないのだと。
過去の歴史と真実を知っても克服出来るはずだ。
だが、若い世代に出来てもこれがその親世代となると実に難しいことなのだ。」
by フリッツ・バウアー


体制のもと、そうであることが"正しい"と刷り込まれた親世代は、簡単には変われない。
だからこそ、それを若い世代に押し付けようと、型に収めようとする。
若い世代は、見るもの全てが新しく、"自由"を選択することが出来る。

ほんの出来心、少しの反抗心、恐らく誰もが抱く感情。
そんな些細な、それでいて悪気のない若者たちの"たった2分間の黙祷"という行為が"政治的反逆"とされ、自らの状況を知り、立ち向かい、自らの進むべき道を短期間で考え、選ばなければならなかった。
そんな彼らの判断が我々に大きな勇気を与えてくれる。

沈黙から離脱することがほとんどできない状況。
その沈黙が家族を守ることであり、友情を繋ぐものでもある。
欺瞞や猜疑心に駆られながらも確かな形を残した彼らの行動。


『僕たちは希望という名の列車に乗った』(Das schweigende Klassenzimmer/THE SILENT REVOLUTION)

彼らの勇気ある行動は、歴史を変えるであろう"静かなる変革"
乗り込んだ列車は彼らにとっての"希望"であり、"新しい未来"の幕開け。

未来は自分自身の手で切り開いていくものなのだから。



終わりに

如何でしたか?

ドイツ映画のイメージは、戦争、ナチスホロコースト、東西統一というものがありますが
今作は知られていない歴史のひとつ、新たな一面を掘り起こした作品であり、歴史的社会派ドラマとしてだけでなく、青春群像劇としても楽しめる作品と言える。

今作は個人的に文句なしに2019年劇場鑑賞暫定ベストです。
今まで観てきたドイツ映画の中でもトップクラスの出来ではないでしょうか。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)Studiocanal GmbH Julia Terjung

『アベンジャーズ/エンドゲーム』ネタバレあり考察

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
ついに天皇陛下の譲位により新元号となりました。
元号「令和」でも当管理人及び当ブログをよろしくお願いいたします。

さて、今回はですね、MCUラソンを経てやっと観てきた『アベンジャーズ/エンドゲーム』について語っています。

この記事にはネタバレが含まれます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Avengers: Endgame
製作年:2019年
製作国:アメリ
配給:ディズニー
上映時間:182分
上映方式:2D/3D


解説

アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソー、ハルクといったマーベルコミックが生んだヒーローたちが同一の世界観で活躍する「マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)」の中核となるシリーズで、各ヒーロー映画の登場人物たちが豪華共演するメガヒット作「アベンジャーズ」の第4作。前作「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」で、宇宙最強の敵サノスに立ち向かうも、ヒーローたちを含めた全人類の半分を一瞬で消し去られてしまうという敗北を喫したアベンジャーズが、残されたメンバーたちで再結集し、サノスを倒して世界や仲間を救うため、史上最大の戦いに挑む姿を描く。「インフィニティ・ウォー」では姿を見せなかったホークアイアントマンといったヒーローも登場し、新たにキャプテン・マーベルも参戦。監督は前作に引き続き、アンソニージョー・ルッソ兄弟が務めた。
アベンジャーズ エンドゲーム : 作品情報 - 映画.comより引用




総評

まずはいつもと順番が違うのですが、総評から書かせていただきます。

自分の好きなジャンルでした!
所謂SFタイムトラベルものですね。
それだけでも面白いのに、そこに11年間のMCUの歴史、キャラのドラマを乗せてくる。

過去作の本編のさり気ないセリフの一言一言やエンドクレジット、文字通り一本の線に繋がる感じが、エンドゲーム単品ではなく11年のMCU全作品でひとつの映画なんだって思わせてくれる。



自分が敢えて不満点を挙げるとするなら、各々のキャラの扱いにムラが大きいのとキャロル(キャプテン・マーベル)の雑さ。

キャロルの強さは『キャプテン・マーベル』でも描かれたように桁外れなので、あの処理は仕方ないのかもしれませんが、やはり何かしらの手は打つべきだったと思います。

キャロルだけでなく、もう少し他のキャラにも焦点を当てるべきかとも思いました。
フェイズ3の締めが『アベンジャーズ/エンドゲーム』(以下EG)ならまだしも、次作に『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』が控えてるとなると、ピーター(スパイダーマン)とトニー(アイアンマン)のやり取りはもう少し必要だった気がします。

なんにせよ、初期メンバーと数人がいれば成り立つストーリー構成はスマートだけど完全燃焼はせずといった感じです。



しかし二部作構成とは言えど、『EG』を観ると『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(以下IW)を再評価せざるを得ない。

個人的に『IW』初見の印象として、あくまでも自分の中での主人公はヒーローであるアベンジャーズであり、そのヒーローたちがサノスに倒されていく姿、そして絶望で終わらせ『EG』で希望を匂わせる展開にカタルシスを覚えなかったんですよね。
二部作構成による中途半端な終わり方だとさえ思えました。

しかし、『EG』を観て改めて『IW』はサノス視点で見るとサノスなりの正義を貫き、世界の人口を無作為に半分にし、サノス曰く世界を救ったと言える。
一つの作品として成り立っているんです。


つまりは『EG』でソーに首を跳ねられたサノス(IW)は正義を全うしたただのおじいちゃん(笑)
過去から未来へとタイムトラベルしてきたサノス(EG)こそ絶対悪なのではないか?と思えたんです。



サノス(IW)によって人口が半分になった世界で、悲しみに打ちひしがれ前を向くこと、立ち上がることさえできない人々がいる。


(これは劇中にてスティーブ(キャプテン・アメリカ)のセミナーでも映し出されてます)

そんな人たちを救うべく、消された人たちを復活させようと奮闘するアベンジャーズ
トニーとスティーブの和解。
その再結成し生き残ったアベンジャーズに立ちはだかる壁が過去から来たサノス(EG)という構図が堪らない。


同じ目的を持った二人のサノスだけど、『EG』序盤でのあのサノス(IW)の姿を見ると慈悲の感情が湧いてくる不思議。
それもネビュラとの親子の絆が垣間見れたから、なんですが。



『シビル・ウォー』や『IW』では、正義と正義(主観)でぶつかり合いました。

生き残った者達はアベンジャーズは"過去を知る者"として未来を変えることを選びます。
サノス(EG)は最終的に一度世界を無に返し、"過去を知らない生き物達だけの世界"を作り上げようとします。

今作『EG』ではよくありがちな設定ではありますが、ここでしっかりと善と悪に分かれたわけです。



キーパーソン①

『EG』におけるキーパーソンは主に二人だと思います。
勿論、各々のキャラクターは必要であり、それぞれにドラマが用意されていたので必要ないというわけではありません。
あくまでも『EG』におけるキーパーソン、ストーリーテリングとして重要な人物を挙げています。



キーパーソンの一人目は『アントマン&ワスプ』で量子世界に閉じ込められていたスコット(アントマン)


アントマン&ワスプ』のラスト、例のバンに搭載された量子トンネルからの生還である。
現実世界では5年が経過していたにも関わらず、量子世界にいたスコットの体感は"5時間程度"。

アベンジャーズの本部を訪れたスコットは、量子トンネルで過去に戻れば破壊される前のインフィニティ・ストーンが手に入る。
そうすれば消えてしまった人々を元に戻せると提案する。

これが今作『EG』のメインストーリーとなります。



アントマン&ワスプ』のエンドクレジットにて、ジャネットが「量子世界には"時間の渦"がある」みたいなことを言っていました。
この"時間の渦"こそが、タイムトラベルの方法なのです。
ジャネットが「"時間の渦"に触れるな」と言っていたのは、『EG』への大きな伏線であったと考えられます。


ということで、MCUにおけるタイムトラベルとはどのような理論が用いられているのか、個人的に考えてみました。




通常、タイムトラベルを行うにあたって使われる理論も幾つか存在します。


・「ブラックホール理論」

ブラックホール中性子星の場合よりさらに質量が大きい恒星が寿命を迎えた後に生成されると考えられる天体であり、近年ではその姿が捕えられたと話題にもなりましたね。

ブラックホールはその強大な重力で光すら吸い込み、絶対に逃すことはない。
その表側にある領域"事象の地平面(イベント・ホライゾン)"を超えた先の密度無限大になる一点"特異点"では既存の物理法則が適用できない。
つまり、その周りではタイムトラベルが可能な時空構造を実現する可能性がある。

"アインシュタイン方程式"では星の成長から宇宙の死まであらゆる重力関連現象を規定する重要な式で、その解の中に"過去に戻るループ"を許容するものが存在することが数学者クルト・ゲーデルによって示されている。
ほとんどの物理学者は現実世界では起こりえないと否定しているが、物体はある軌道をめぐって過去の同じ地点に戻ってくるという現象を起こす過去へのタイムトラベルと考えられる。



・「光速理論」

こちらの説は一番有名なタイムトラベルの方法だろう。

移動速度が光の速度に近づくと、"アインシュタイン特殊相対性理論"に基づき時間がゆっくり進むようになる。
これを"ローレンツ収縮"と呼ぶ。
光速に達することができれば、内部での時間は停止し、光速を超えた場合、時間は過去に向かって逆行すると考えられる。

多くのSF作品においてこの時間の遅れが"ウラシマ効果"と呼ばれるものです。
宇宙船で高速移動した乗員が地球に戻ると、数十年の時が経過しているといった未来へのタイムトラベルである。

これは今作『EG』におけるスコットの経験談と近いものがありますね。
アントマン&ワスプ』はエンドクレジットから時系列では『IW』の前、もしくは同時期と考えられる。
そこから『EG』の5年間を5時間程度の体感時間で未来へとタイムトラベルしたことになります。
実際にスコットが光速度で移動したわけではありませんが。



・「タオキン理論」

上記の「光速理論」の応用。
仮に光速度を超える粒子が存在するとするなら、特殊相対性理論に基づき質量が逆行し"虚数"という存在が仮定される。
この虚数粒子を"タキオン"と呼びます。
もし、タキオンが存在し、利用できるとするならば、時間を逆行するため過去への通信が可能性である。

厳密には全くの別物なのですが、『EG』の劇中ではネビュラのデータ(記憶)がこれに近いのかもしれません。
未来のネビュラ(IW)は過去のネビュラ(EGで登場する)と記憶媒体で共有しています。
言い換えるなら過去への通信が可能となったとも言える。
※詳しくは後述。



・「ワームホール理論」

時空構造の位相幾何学の応用で、ある時空二箇所を繋ぐ"時空の虫食い穴"の存在が想定されており、これを"ワームホール"という。
これを用いれば、時間や空間を瞬間移動する"ワープ"が実現する可能性があるという考え。

理論物理学者キップ・ソーンはこのワームホールの出入り口を光の速度に近い速度で移動させることで過去と現代を接続することができるといった説を唱えています(上記に記述した「光速理論」に基づく)。



・「宇宙ひも理論」

こちらもSF作品でしばしば用いられる理論。
物理学者リチャード・ゴットが唱えています。

宇宙ひもとは無限の長さを持つ素粒子ほどのひび割れのことで宇宙誕生の際に生じる特殊な領域を指す。
要約すれば、宇宙と宇宙の隙間であり、そこには"時間"が存在せず、時空が歪んでいるためワープのように一瞬で長距離を飛び越えたように見える。
仮に2本の宇宙ひもを用意することができれば、この超光速移動によって過去へ戻ることができると考えられています。





今作『EG』で用いられた主な理論は恐らく単純なものです。
それは「特殊相対性理論」と「量子力学」。

特殊相対性理論では、動いている物体を外から見ると、物体内で経過している時間が、外の時間の流れとは異なる。
例えば、宇宙船が速度を上げ光速に近い速度になっても、宇宙船内の観測者は船内の時間の流れには変化がない。
ところが、宇宙船外の観測者には宇宙船内の時間の流れが遅くなるように見える。
同時に、重力場も時間の流れを変え、強重力場における時間の流れはその場にいる観測者にとっては変化がないが、外から見ると限りなく遅くなる。

量子力学における時間の概念は、マクロの宇宙に適用される相対性理論とは異なる。
量子世界の時間には、過去と未来を区別しないという特徴があり、時間の逆行も可能。
時間とは観測者や時計や座標系が定義するものであり、固有の物理量ではないということですね。



キーパーソン②

もう一人のキーパーソンは上記に記載した『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に登場するネビュラ


"MCUにおけるタイムトラベルの理論"は上記で記述しました。
ネビュラが何故キーパーソンなのかに入る前にはまず、"MCUにおけるタイムトラベルのルール"について確認しなければなりません。

スコットとローディ(ウォーマシン)との会話では所謂タイムトラベル系の映画が幾つか挙げられました。
「『ターミネーター』や『スター・トレック』、『ある日どこかで』、『ビルとテッドの大冒険』・・・『ダイ・ハード』は違う。」



ブルース・バナー(ハルク)とローディの会話では、タイムトラベルについて重要な台詞が語られています。

ローディが「サノスが赤ちゃんの時に殺しちゃうのはダメなの?」といった不適切な質問をした時、ブルースがは「過去へ戻って歴史を変えたとしても、自分たちが生きた歴史は変わらない。もし過去へ旅をすると、その過去が未来になってしまう。元の現在が過去になってしまう。新しくできた未来はその過去となってしまった現在で変えられない。」と説明をしています。

これをわかりやすく図にしてみました。
※字が汚くて申し訳ございません(笑)




過去へ戻って歴史を変えても意味が無いと知ったアベンジャーズのメンバーは別の解決方法を探ります。
インフィニティ・ストーンを集めて、もう一度消えた人たちを取り戻そう。

過去は変えられない。
だけど未来なら変えられる。

これはスティーブが前に進むとセミナーで話していたこととも繋がる。

ただ、サノスによって全てのインフィニティ・ストーンを破壊されて無くなってしまっているんですね。
なので、サノスが手に入れる前の時間軸に遡り、インフィニティ・ストーンを全てを手にしてしまおうというもの。




インフィニティ・ストーンとタイムパラドックスについてはブルースとエンシェント・ワンの会話でわかりやすく説明されています。

エンシェント・ワンは枝分かれの説明をしつつ、タイム・ストーンを渡すことを一度は拒みます。
インフィニティ・ストーンを持ち去ると、インフィニティ・ストーンがない世界線へ分岐する。
ブルースが借りた時間に戻って一瞬も消えてなかったようにすると約束する。
その作戦も生存してできることだとタイムストーンが戻ってこない危険性があると引き続き拒まれました。
『IW』でドクター・ストレンジがサノスに無条件でタイムストーンを渡したことを知り、最終的にタイムストーンをアベンジャーズに託します。

ストレンジの行動には何か意味がある=ストレンジの言う1/1400万605の勝率ですね。



つまり、過去に戻るだけではその世界線は分岐せず、過去は未来となり、現在は過去となる。
インフィニティ・ストーン絡みの過去改変は世界線を分岐させるということ。

MCUの世界でいうと『ドクター・ストレンジ』でモルドがストレンジに「時を無闇に操作しようとすると、タイムラインに新しい枝が生まれてしまい、空間パラドクスが生じたりタイムループが生まれてしまう危険がある」と注意喚起しています。
この段階でタイムストーンを使用し、過去への介入をすると世界線の枝分かれするという設定は決まってたということになりますね。





一度起こってしまった現在の世界線の歴史はそのままで、新しい世界線に枝分かれする。
枝分かれし、今と異なった歴史は救われるかもしれないけれど、我々のいる歴史は変わらない。
これは漫画『DRAGONBALL』と同じ原理です。

DRAGON BALL 全42巻・全巻セット (ジャンプコミックス)

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その作品内でもこの事象が生じています。
ドラゴンボール超の設定は考慮していません。

ただ単に人造人間編を語りたいだけなんですが(笑)
知らない方はなんのことかわからないと思うので、端折っていただいても構いません。

ベジータの息子であるトランクスは未来からタイムマシンに乗って悟空たちのいる時間軸へとタイムトラベルしてきます。


アニメ「Dragon Ball Z」より


しかし、実際はトランクスだけがタイムトラベルしてたわけじゃないんですよね。
そうです。人造人間編でのラスボス的存在、セルです。


漫画『DRAGONBALL』より



簡単に図にして纏めました。
汚い字で申し訳ございません(笑)

ト…トランクス
悟…悟空たちZ戦士
人…人造人間17、18号
セ…セル

世界線A…悟空たちの現在。
世界線B…トランクスのいた未来。
世界線C…セルのいた未来。

  1. 世界線Bの悟空Bは心臓病で死亡。Z戦士も戦死。
  2. 世界線BからトランクスBが世界線Aへと来る。
  3. その一年前、世界線Cで人造人間17、18号Cを倒したトランクスCを倒し、タイムマシンを奪ってセルCが世界線Aに来ていた。
  4. 世界線AのセルAは未熟な段階で処分される。
  5. 世界線Aの人造人間17、18号AはセルCに吸収され、完全体となったセルCは悟空Aたちによって倒される。(悟空は死亡)
  6. セルCから解放された人造人間17、18号Aが善化。
  7. 世界線Aで修行したトランクスBが未来(世界線Bの10年後)へ戻って、世界線Bの人造人間17、18号BとセルBを倒す。


この世界線のセルを倒しても、別の世界線のセルは消えない。
ここも『EG』と共通する点です。

仮に我々が過去へ戻れるとして、その過去が同じ世界線だとすれば、過去の自分を殺せば当然、今生きている自分も消えることになります。
これが『ターミネーター』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の理論です。
この理論ではタイムパラドックスが起こる、所謂"親殺し"や"自分殺し"です。

ブルースとスコットの会話から、「タイムトラベル系の傑作はでたらめなの?」という内容が話されていました。
バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムトラベルは、"自分の両親が結婚しなければ、自分は産まれて来ない。
すなわち本人の存在そのものが消えてしまう"という仕組みなんですが、これは"自分自身を殺すことも同じ"です。

ネビュラは劇中で、"過去から来た自分殺し"を行います。
過去と言っても上記に説明した通り別世界線の自分。
過去の自分自身を殺したにも関わらず、現在のネビュラは存在している。



また、『EG』の劇中でネビュラのデータ(記憶)は時を超えます(上記に記載したもの)。

未来のネビュラ(IW)は過去のネビュラ(EGで登場する)とデータ(記憶)を共有しています。
ネビュラ(IW)のデータ(記憶)がネビュラ(EG)のデータに干渉したのは、未来から過去へと時間軸を移動したことにより未来のデータが逆行、二人同時に存在するネビュラのデータ自体も同期(過去のネビュラのデータを上書き)したものと考えられます。



MCUにおけるタイムトラベルに関して
ネビュラはタイムパラドックス、そしてインフィニティ・ストーンを持ち帰ると世界線は分岐し、各世界線はそれぞれ独立したものであるということを可視化する形で体現したキャラクターなのです。



修正

これらの世界線の分岐が生まれないように最終的にスティーブが各インフィニティ・ストーンを元の時間軸に戻しにいきます。
正確にはアベンジャーズが回収する直前の時間軸。
これはタイムパラドックスを避ける措置ですね。
要するに過去へ行ってインフィニティ・ストーンを盗んだこと自体をなかったことにするため。

インフィニティ・ストーンを戻すことで、世界線の分岐をなくす。
つまりは分岐してインフィニティ・ストーンがなくなった世界線そのものを消し去り、インフィニティ・ストーンが存在する時間軸(今いる世界線と同じ歴史)へ修正する。


ここでひとつの疑問として、過去を変えられないのに何故、スティーブはおじいちゃんとして戻ってきたのか?

個人的見解として、トニーがスティーブに話した通り、"自分の人生を生きた"のだろう。
ではどの世界線を生きたのか?

例えば、元の世界線をα、アベンジャーズがインフィニティ・ストーンを手にするために過去へ戻り分岐したインフィニティ・ストーンがない世界線をβとしよう。

ティーブが仮に世界線αと分岐した世界線βよりも更に過去へ戻ったまま70年余りを過ごしたとすると、世界線αにはスティーブとキャプテン・アメリカ、同じ人物が2人存在することになる。
ここまでは問題はないのですが、問題は盾の存在だ。

ハワードの作った盾は一つであり、それはスティーブがキャプテン・アメリカとしてサノスと戦った際に破損している。
同じ世界線αだと仮定すると、スティーブが盾を持ち帰ったところで、その後の歴史は盾なしキャプテン・アメリカが存在することになる。
※ここはソーのムジョルニアと同じで、わざわざスティーブがインフィニティ・ストーンと共にムジョルニアを元に戻した意味と繋がる。



以下、ここで考えられること。

インフィニティ・ストーン6個目、最後の返却はトニーとスティーブがインフィニティ・ストーンを持ち出した時間軸よりも少し前の時間軸。
つまり世界線βに分岐するよりも過去、世界線αと共通する過去だ。
時代で言うと、第二次大戦後、スティーブが氷漬けになり消息が絶たれた時間軸。

そこからスティーブは自分の人生を生きる。
インフィニティ・ストーンを持ち去った時間軸に差し掛かった際、一旦はインフィニティ・ストーンを戻さずに一度世界線βでキャプテン・アメリカの盾を手にする。
(世界線βにもキャプテン・アメリカは存在するので二人のスティーブが同時に存在することになる。)

そしてスティーブは盾を持ったままもう一度インフィニティ・ストーンを持ち去った時間軸の直前へと移動し、改めてインフィニティ・ストーンを返却し、世界線をαに戻して元の時間軸(現代)へと帰還する。


盾を持ったおじいちゃんスティーブがインフィニティ・ストーンを返却した説です(笑)



こうすることで、世界線βの盾のないキャプテン・アメリカの歴史は消える。
同時に、映画『アベンジャーズ』の時間軸でトニーとスコットが失敗し、ロキがインフィニティ・ストーンを持ち去った事実(仮に世界線γとする)も消える。

盾を手に入ることが可能で、尚且つ世界線αには盾が二つ存在することになり、世界線αから分岐した世界線β、更に世界線αから分岐した世界線γの存在も消えることになる。

世界線βが消えても、そこにあった盾の存在は消えない。
これは『EG』劇中でのガモーラに該当する。
ガモーラは実際、世界線αではサノスの手によって死亡している(『IW』にて)。

『EG』ではソウルストーンを手にするためにナターシャ(ブラック・ウィドウ)が犠牲となったためにガモーラは生存。
サノスらと共に未来へとタイムトラベルしてきた。
ティーブが過去へ戻ってソウルストーンを返却し、世界線βが消失して世界線αへと修正されてもガモーラの存在が消えていないと仮定するなら、盾も同様に存在し続けることが可能である。



次にピム粒子について、タイムトラベルする回数分しか用意されてなかったと仮定した場合、数が足りないだろうという指摘もあるだろうが、スティーブが1950年代にタイムトラベルしたとするなら、そこで改めて手に入れた可能性も考えられる。

しかし、『EG』劇中で『アベンジャーズ』の時間軸にてトニーとスコットの失敗により手詰まりとなった際、トニーとスティーブが更に過去へとタイムトラベルしたシーン。
ここでスティーブはピム粒子を手にするのだが、通常自身とトニーの分二つだけでよいピム粒子を四つ持ち帰っている。
これはこのことを想定した描写ではないのだろうか?と疑ってしまう。


以上が、盾の矛盾と世界線の矛盾を解決させる唯一の説、おじいちゃんスティーブがインフィニティ・ストーンを返却した説です(笑)



終わりに

少々強引に話を勧めましたが、自分で仮説を提唱しておきながらツッコミどころ満載です。
あくまでも自論ですので御容赦願います。

様々な解釈ができる所も楽しみ方のひとつだと思っているので、自分はこう考えているということを書き記させていただきました。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2019 MARVEL


‪イ・チャンドン監督3作品(「バーニング 劇場版」「ペパーミント・キャンディー」「オアシス」感想)‬

目次




初めに

おはようございます、レクと申します。
今回は『バーニング 劇場版』のイ・チャンドン監督が手掛けた素晴らしい傑作、『ペパーミント・キャンディー』と『オアシス』について他の韓国映画も混じえながら語っています。

この記事にネタバレはありません。



バーニング 劇場版


(C)2018 PinehouseFilm Co., Ltd. All Rights Reserved

原題:Burning
製作年:2018年
製作国:韓国
配給:ツイン
上映時間:148分
映倫区分:PG12


解説

シークレット・サンシャイン」「オアシス」で知られる名匠イ・チャンドンの8年ぶり監督作で、村上春樹が1983年に発表した短編小説「納屋を焼く」を原作に、物語を大胆にアレンジして描いたミステリードラマ。アルバイトで生計を立てる小説家志望の青年ジョンスは、幼なじみの女性ヘミと偶然再会し、彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれる。旅行から戻ったヘミは、アフリカで知り合ったという謎めいた金持ちの男ベンをジョンスに紹介する。ある日、ベンはヘミと一緒にジョンスの自宅を訪れ、「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」という秘密を打ち明ける。そして、その日を境にヘミが忽然と姿を消してしまう。ヘミに強く惹かれていたジュンスは、必死で彼女の行方を捜すが……。「ベテラン」のユ・アインが主演を務め、ベンをテレビシリーズ「ウォーキング・デッド」のスティーブン・ユァン、ヘミをオーディションで選ばれた新人女優チョン・ジョンソがそれぞれ演じた。第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、国際批評家連盟賞を受賞。
バーニング 劇場版 : 作品情報 - 映画.comより引用



村上春樹原作、そしてイ・チャンドン監督8年ぶりの新作ということで話題を呼んだ今作。

自分も今年の2月に『バーニング 劇場版』を観てきました。
村上春樹の短編小説原作『納屋を焼く』を踏襲するようなメタファーの演出とラストの改変が光るイ・チャンドン監督最新作です。


ネタバレありの感想はこちら。


正直なところ、「バーニング 劇場版」は好きか嫌いかと言えばそこまで好みではありません。
しかし、鑑賞後数日経っても何故か余韻が消えないんですよ。
後からじわじわくる自分にとって不思議な映画です。



『バーニング 劇場版』を観るまではイ・チャンドン監督作は『シークレット・サンシャイン』しか観ていませんでした。



改めて、イ・チャンドン監督はすげぇな…と感心した次第であります。



そして4月、『オアシス』と『ペパーミント・キャンディー』のイ・チャンドン二本立てという素晴らしい組み合わせで鑑賞して参りました!

フォロワーさんが腰を抜かすほどの作品、どれほどのものかと、ハードルは上げ過ぎす気軽にいつもの感じで観てきましたが…



2作とも素晴らしかった!



『オアシス』は
オールタイム・ベストを更新しました!!!


ひっさしぶりですね、こんな超絶大傑作はっ!!!
その後に観た『ペパーミント・キャンディー』も傑作なんですが、その傑作が霞んでしまうほどの超絶大傑作!

というわけで、まず『ペパーミント・キャンディー』から語っていきます。



ペパーミント・キャンディー


EAST FILM&NHK

原題:Peppermint Candy
製作年:1999年
製作国:韓国・日本合作
配給:ツイン
日本初公開:2000年10月21日
上映時間:130分


解説

韓国現代史を背景に1人の男性の20年間を描き、韓国のアカデミー賞である大鐘賞映画祭で作品賞など主要5部門に輝いた人間ドラマ。「オアシス」「シークレット・サンシャイン」のイ・チャンドン監督が1999年に手がけた長編第2作。99年、春。仕事も家族も失い絶望の淵にいるキム・ヨンホは、旧友たちとのピクニックに場違いなスーツ姿で現れる。そこは、20年前に初恋の女性スニムと訪れた場所だった。線路の上に立ったヨンホが向かってくる電車に向かって「帰りたい!」と叫ぶと、彼の人生が巻き戻されていく。自ら崩壊させた妻ホンジャとの生活、惹かれ合いながらも結ばれなかったスニムへの愛、兵士として遭遇した光州事件。そしてヨンホの記憶の旅は、人生が最も美しく純粋だった20年前にたどり着く。2019年3月、イ・チャンドン監督の「バーニング 劇場版」公開にあわせて、4Kレストア・デジタルリマスター版が日本初公開。
ペパーミント・キャンディー : 作品情報 - 映画.comより引用



“韓国のアカデミー賞”5部門制覇。
アッバス・キアロスタミ監督が「本当に素晴らしい映画を観た!」と絶賛し、韓国のアカデミー賞である大鐘賞5部門を独占した監督2作目となる伝説の傑作『ペパーミント・キャンディー』。

まずはTwitterの感想から。



絶望し、発狂しながら自殺を試みた主人公キム・ヨンホ。
彼の人生は如何にして壊されたのか?
線路を人生のメタファーとして、巻き戻すように彼の人生を振り返っていく回顧録

壮絶。
心に留まるというよりも、時間を置く事にじわじわとくるこの感覚は正に『バーニング 劇場版』のようで、それでいてインパクトの強い作品です。


時系列は1999年から1979年へ、過去へと遡っていっていく回顧録にも関わらず、見方を変えればキム・ヨンホが愛を取り戻していく人生譚にも映る。

作中に幾度となく語られる"人生は美しい"という台詞。
果たして、人生とは美しいものなのだろうか?





なんと言っても、ソル・ギョングの演技。
彼の演技力には脱帽です。


特にソル・ギョングの演技が目立っていたというわけではないのですが、犯人の行動の監視を専門とする特殊犯罪課を描いた『監視者たち』でも良い役どころを演じ、上手い立ち回りを見せています。


今年公開の『22年目の記憶』。
秘密裏に行われようとしていた初の南北首脳会談を背景に翻弄されていく男を描いたこちらの作品。
体格の違う金日成の影武者を演じきったその姿は正に金日成そのもの。
舌を巻くほどの高い演技力を見せつけられました。
恐らく、ソル・ギョングは韓国俳優の中でもトップクラス。

『22年目の記憶』は『ペパーミント・キャンディー』で韓国政府、国家によって人生を狂わされた男を演じ切った経験、積み重ねてきた俳優人生の全てが詰まっていました。

イ・チャンドン監督の采配の素晴らしさも当然なのですが『ペパーミント・キャンディー』がソル・ギョングの演技の原点ではないかと思う程である。



少し逸れますが、南北の緊迫状態をエンタメとして描き切った『鋼鉄の雨』も必見。
Netflixオリジナル作品です。


また、『ペパーミント・キャンディー』でも描かれた韓国政府の黒歴史光州事件
その目撃者としてタクシー運転手視点で描かれた『タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜』。


そして、その後に起こった民主化闘争の裏側を描いた『1987、ある闘いの真実』。
こちらでもソル・ギョングは良い演技をしているんですよ。


このように、韓国映画は自国の汚点を時代背景としてしっかりと描きつつ、そこにドラマ性を持たせることに非常に長けています。

ペパーミント・キャンディー』ではその時代背景は深く描かず、あくまでも人生を壊された、時代に翻弄されるひとりの男のドラマを見事に描き切っているんです。




オアシス


(C)2002 Cineclick Asia All Rights Reserved.

原題:Oasis
製作年:2002年
製作国:韓国
配給:ツイン
日本初公開:2004年2月7日
上映時間:133分


解説

ペパーミント・キャンディー」のイ・チャンドン監督が、社会に適応できない青年と脳性麻痺の女性の愛の行方を描き、第59回ベネチア国際映画祭で監督賞などを受賞した恋愛ドラマ。ひき逃げ死亡事故で服役し刑務所から出たばかりの青年ジョンドゥは、家族の元へ戻るが迷惑がられてしまう。ある日、被害者家族のアパートを訪れた彼は、寂しげな部屋にひとり取り残された被害者の娘コンジュと出会う。重度の脳性麻痺を持つ彼女は、部屋の中で空想の世界に生きていた。互いに惹かれ合い、純粋な愛を育んでいくジョンドゥとコンジュだったが……。「ペパーミント・キャンディー」でも共演したソル・ギョングムン・ソリがジョンドゥとコンジュをそれぞれ演じた。2019年3月、イ・チャンドン監督の「バーニング 劇場版」公開にあわせて、HDデジタルリマスター版が日本初公開。
オアシス : 作品情報 - 映画.comより引用



第59回ヴェネツィア国際映画祭で最優秀監督賞、新人俳優賞(ムン・ソリ)、国際批評家連盟賞を受賞した、極限の純愛を描いた傑作『オアシス』。

こちらもTwitterの感想から。




前科持ちという偏見、障害者という偏見。
周りから見る目は無意識にも意識的にもそれを物語り、そんな中で2人が作り出す2人だけの世界が美しく描き出される。
互いが互いのことだけを理解できればそれでいい。

言葉にしなければ伝わらないこと。
言葉にすることで強まる意志。
言葉を交わすことで得られる共感。

逆に
‪言葉にしなくても伝わること。‬
言葉にしちゃうと安っぽく見えること。
言葉を交わさずとも感じる共鳴。

"愛"を伝えるために言の葉が紡ぎ出すものの大切さを。
そして"愛"を伝えるのに言の葉として表せない感情を。


ちょっと鑑賞後は「何も言えねえ」放心状態で座席から立つのもやっと。
偏見の意識を揺さぶり、表面上に見えるものだけでなく共感しにくい題材に感情移入させ、心の奥底にある何かを揺さぶるように魂を震わせ、我々の心をも飲み込んでしまう圧倒的演技力とそれを昇華させる圧倒的説得力。



もう一度言います。

オールタイム・ベストを更新しました!

ペパーミント・キャンディー』よりも個人的には『オアシス』の方が好みです。
鑑賞したあの日からずっと心に留まり続けています。



上記に韓国映画は自国の汚点を時代背景としてしっかりと描きつつ、そこにドラマ性を持たせることに非常に長けていると語りました。
同時に、障害者を扱った映画や性的虐待を描いた映画も多数作られています。


母なる証明』では殺人の容疑で逮捕された知的障害を持つ息子を持つ母親の行き過ぎた愛情と狂気を。


『7番房の奇跡』では冤罪で死刑判決を受けた知的障害の父親と娘の家族愛を。
この作品は韓国映画ベスト5に入る超絶大傑作です。


『それだけが、僕の世界』では落ちぶれた元ボクサーの兄とサヴァン症候群の天才的なピアノの腕を持つ弟の兄弟愛を。


『トガニ 幼き瞳の告発』では性的虐待を受けた障害を持つ子供の告発を。


などなど、救いのない暗く重い作品から心温まる愛の物語まで幅広い。



昨年公開の『殺人者の記憶法』でもソル・ギョングの抜群の演技力に魅せられました。
障害とは少し違うのですが、アルツハイマーを発症した元殺人犯が娘のために奮闘する家族愛を描いた作品です。


また、『オアシス』でソル・ギョングと甲乙つけ難い抜群の演技力を魅せたムン・ソリ
ペパーミント・キャンディー』でも良い役をされてたんですが…もう『オアシス』での演技は圧倒的。

ムン・ソリの出演作、全然観ていないので今後は追いかけていこうと思いましたね。

いい加減、パク・チャヌク監督作「お嬢さん」を観なければ…(笑)



終わりに

なお、2019年は『ペパー ミント・キャンディー』が製作20周年、『オアシス』が日本公開15周年と記念すべき年です。
レンタルにもありますので、是非イ・チャンドンの世界を堪能してみてください。



最後に個人的な願いを置いておきますね(笑)

イ・チャンドン監督作の円盤はどれもDVDが廃盤であったり、ブルーレイ化されてません。
どうか!どうか!
イ・チャンドン監督作のブルーレイBOXの発売を!!!

3万までなら出します、すぐ買います!!!
トリロジーとしてこの3作品だけの収録でも構いません!!!



というわけで完全に自己満足な記事になってしまいましたが、これからも韓国映画を、そしてイ・チャンドン監督及びソル・ギョングムン・ソリの出演作を追いかけていこうと思っております。

最後までお付き合いくださった方、ありがとうございました。




【追記】

3作ブルーレイ発売歓喜!!!

ということで、予約して発売日当日にゲットしました!
ありがとう、イ・チャンドン


自分の"正しさ"を押し付ける危うさ(「ある少年の告白」感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回はジョエル・エドガートンの監督二作目「ある少年の告白」についてネタバレなしで語っています。

最後までお読みいただけると幸いです。



作品概要


原題:Boy Erased
製作年 :2018年
製作国:アメリカ
配給:ビターズ・エンド、パルコ
上映時間:115分
映倫区分:PG12


解説

俳優ジョエル・エドガートンが「ザ・ギフト」に続いて手がけた監督第2作で、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」などの若手実力派俳優ルーカス・ヘッジズを主演に迎え、2016年に発表され全米で大きな反響を呼んだ実話をもとに描いた人間ドラマ。アメリカの田舎町で暮らす大学生のジャレッドは、牧師の父と母のひとり息子として何不自由なく育ってきた。そんなある日、彼はある出来事をきっかけに、自分は男性のことが好きだと気づく。両親は息子の告白を受け止めきれず、同性愛を「治す」という転向療法への参加を勧めるが、ジャレッドがそこで目にした口外禁止のプログラム内容は驚くべきものだった。自身を偽って生きることを強いる施設に疑問と憤りを感じた彼は、ある行動を起こす。ジャレッドの両親役をラッセル・クロウとニコール・キッドマンが演じるほか、映画監督・俳優としてカリスマ的人気を誇るグザビエ・ドラン、シンガーソングライターのトロイ・シバン、「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のフリーらが共演。
ある少年の告白 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



監督とキャスト

ジョエル・エドガートン監督二作目となる今作「ある少年の告白」。
前作「ギフト」でその才を開花させ、次回監督作を楽しみにしていました。




本作でも監督兼キャストとしてこの作品を支えています。

ジョエル・エドガートン出演作で有名なのはなんでしょう?
トム・ハーディと共演した「ウォーリアー」やジョニー・デップ主演「ブラック・スキャンダル」、ジェニファー・ローレンス主演「レッド・スパロー」などでしょうか?



今作はなんと言ってもキャストが良い。


牧師の父ラッセル・クロウとその妻ニコール・キッドマン。

ラッセル・クロウは自分の中でずっとパパ顔。
「パパが遺した物語」や「スリーデイズ」など良き父親から「グラディエーター」のようなむさ苦しい男、「ビューティフル・マインド」のような繊細な役や「レ・ミゼラブル」のような憎まれ役まで卓越した演技力を持つ好きな俳優のひとりです。

ニコール・キッドマンは「アザーズ」や「LION ライオン 25年目のただいま」など、最近では「アクアマン」でも美しい母親役を演じていますね。
自分が人生で初めて観たR-18指定映画が「アイズ ワイド シャット」でして…ってこの話はいいか(笑)



そしてその息子、主人公ジャレッド役のルーカス・ヘッジズ。

ルーカス・ヘッジズは良い役者になりましたね。
地味なのですが、個人的に彼の表情で語る演技が好きなんですよ。
自分のオールタイム・ベストでもある「マンチェスター・バイ・ザ・シー」でも素晴らしい演技を披露されています。


ジョエル・エドガートン自身も、前作「ギフト」で描いた心理的狂気を今作「ある少年の告白」でも遺憾無く発揮しています。

独特で不穏な空気が出せたのも、これら豪華キャスト陣の演技があってのこと。
ご馳走様です!という感じです。



本題

さて、早速本題に入っていきます。
あらすじ通り、今作は同性愛を矯正する施設の闇に迫る事実に基づく物語。


宗教の盲信。
信仰は自由であり、当然ながら他者に押し付けるものではない。

では、牧師の息子として生まれたら?

信仰心とは別に親子関係や世間体が絡んでくる。
だからこそ厄介なものであり、最も身近な存在である家族ですら抑圧的になったり、強迫観念に駆られた狂気的な存在となり得るのだ。


キリスト教の影響を受けた欧米諸国では伝統的に、同性愛は聖書において指弾される性的逸脱であり、宗教上の罪(sin)としてきた。一方、近年の欧米諸国においては、同性愛も異性愛と同様に生まれつきの性的指向であり、不当な扱いをされるべきではないとの認識が広まっている。ただ、欧米諸国においても同性愛に対して、宗教的観点、道徳、倫理を主張する立場から問題とする意見も有力である。

同性愛の容認傾向が広まっている現状に対する積極的肯定と非難、およびその間に位置づけられる様々な見解がキリスト教の中にある。 旧約聖書では創造神ヤハウェは、男と女が結ばれるべきだと命令している。

キリスト教と同性愛 - Wikipediaより引用



私自身、無神論者であり、そんなバカな話はないと思っていますが、宗教的観点、道徳、倫理を主張する立場から問題とする意見もあることが事実です。

だからこそ、今作「ある少年の告白」は今観ておく映画ではないでしょうか。

ここで、勘違いされないように言及しておきますが本来、聖書は"同性愛の傾向を持っていること"が罪だとは述べていません。
禁じられているように見える聖句は、あくまでその"行為"を禁じているのであって、"傾向"を持っていること自体が罪だという教えではないのです。



驚くべきことに、この施設では同性愛はドラッグ、ギャンブル依存、アルコール依存、精神疾患、ギャング、家庭内暴力などと並べられる"自分の罪"として扱われます。

同性愛は神に反する行為であり、行動の原理を断ち切り我々の身を神に戻す、と。

確かに、聖書によれば、神を信じる人々に対して明確な倫理基準が設けられており、その中には偶像礼拝や淫行や盗みなどと合わせて、同性愛行為を禁じているような箇所もあります。



それは旧約聖書の律法でも明記されています。

〈レビ記〉18章22節
あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。

〈レビ記〉20章13節
男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。

主にレビ記には同性愛、近親相姦、獣姦などを禁じるものが多い。



しかし、一般的な感覚から見ても淫行や盗みなどが罪であることは受け入れやすいのに対し、"同性愛の行為"については、その"傾向"を持つ人々にとって、受け入れがたい問題となるのです。

性的嗜好は生まれ持った性質であり、本人が意図せずにそのような"傾向"を持っている人たちに、その"行為"は"罪"だと押さえつけることこそが"罪"だと思いませんか?



その"罪"の意識を懺悔する"心の精算"。
同性愛の行為が罪だということを前提に、同性愛を"治す"その思想がエスカレートし、"同性愛であることが過ちである"といった矯正へと発展しています。

聖書を盾に主張を正当化して洗脳させる。
異常なまでの狂気が空気感としてひしひしと伝わり、恐怖と不条理さを痛烈にぶつけてくるんです。





ここからは個人の見解として

性愛とは一対一の誠実な人格的関係の中でのみ、真実の喜びを成就するもの。
つまりは、異性愛であろうと同性愛であろうとこの関係に他者が介入すること自体が受け入れがたい話である。


旧約聖書の性の考え方を現代に置き換えると、そこには齟齬が生じる。

例えば、オナニーという言葉の起源になったオナンという人物は、精液を膣外射精して
彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された(創世記38章10節)
とある。

子孫繁栄のためにならない性行為は、すべて違法行為という考え方がその根底にあり、そこと同性愛を結びつけること自体、ナンセンスではないだろうか。


また、同性愛者による結婚に関しても問題が生じる。
創世記の記述に基づいて、結婚は一対一の男女にのみ許された制度とするならば、これは同性愛の排除を目的とした記述ではなく、異性愛を不可侵の規範とするには根拠が薄弱である。

ノアが方舟の後、生き残った生き物に対して神は新しい時代の契約として「子を生んで多くなるように」と伝えました。
この命令は男女の結婚を前提としたものです。

モーセの律法やパウロの手紙などでも男女の結婚、男が一人の妻を持つことが前提とされ、男女の結婚に関する秩序は一貫して神から出ていることが分かります。


生殖に結びつかない性行為の是非は語るまでもなく、性の享受は権利ではなく自由の特権であり、誰もが持つ基本的人権の尊重。
自然の理を否定する人間の偏見の恐ろしさと自分を否定される人間の苦しみ。
同性愛の問題に現代のキリスト教がどのような対応を示したとしても、真摯に受け止める姿勢です。



終わりに

今作「ある少年の告白」を観終わって、少し思いの丈をぶちまけたくなったので衝動的に思い立って書き出しました。

自分の意見が全て正しいとは思っていません。
しかし、同性愛否定論者の主張が正しいとも思っていません。
自分が"正しい"と思う主張を他者に押し付けることの危うさをこの映画が切実に訴えています。
正直なところ、双方が納得する答えを出すのは難しいでしょう。

だからこそ、「ある少年の告白」を観て感じることを思いのままぶちまけて欲しいのです。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2018 UNERASED FILM, INC.

雌雄を決する三位一体バトルミステリー(「劇場版名探偵コナン 紺青の拳」ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は「名探偵コナン 紺青の拳」について語りたいと思います。

映画「紺青の拳」の事件の核心(犯人や手口等)には触れていませんが、物語に関するネタバレ、名探偵コナンの原作コミックス、及び前作までの劇場版名探偵コナンのネタバレは含みます。

未読、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2019年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:110分


解説

大ヒットアニメシリーズ「名探偵コナン」の劇場版23作目。劇場版シリーズでは初めての海外となるシンガポールを舞台に、伝説の宝石をめぐる謎と事件が巻き起こる。コナン宿命のライバルでもある「月下の奇術師」こと怪盗キッドと、これが劇場版初登場となる空手家・京極真が物語のキーパーソンとなる。19世紀末に海賊船とともにシンガポールの海底に沈んだとされるブルーサファイア「紺青の拳」を、現地の富豪が回収しようとした矢先、マリーナベイ・サンズで殺人事件が発生。その現場には、怪盗キッドの血塗られた予告状が残されていた。同じころ、シンガポールで開催される空手トーナメントを観戦するため、毛利蘭と鈴木園子が現地を訪れていた。パスポートをもっていないコナンは日本で留守番のはずだったが、彼を利用しようとするキッドの手により強制的にシンガポールに連れてこられてしまう。キッドは、ある邸宅の地下倉庫にブルーサファイアが眠っているという情報をつかむが……。
名探偵コナン 紺青の拳(フィスト) : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



蹴撃の貴公子

400戦無敗"蹴撃の貴公子"と称される杯戸高校空手部主将、京極真。


原作初登場は「園子のアブない夏物語」
ある事件で犯人に狙われた園子を助けたことから二人の関係が始まります。

「バレンタインの真実」では発射されたライフルの弾丸を避けるという人間離れした身体能力も披露します。
他にも「園子の赤いハンカチ」で園子のピンチに駆けつけるなど、園子にとってヒーロー的存在でもあるんですよ。
真面目が故に園子の露出の多い服装を注意したり、一途が故に連勝記録を止めてでも何日も園子を待っていたり、天然な所も。


「容疑者か京極真」では園子と蘭のクラスメートで截拳道の使い手の世良真純と初対面します。

怪盗キッドvs.京極真」では園子の思惑、そして嫉妬させようと園子の心を盗んだと茶化す怪盗キッドに敵意剥き出しの京極真が描かれます。
鈴木財閥の相談役、鈴木次郎吉が京極真のことを"世界最強の防犯システム"と称しました。

京極真と怪盗キッドがライバル関係になったのはこの回からなんです。



怪盗1412号

怪盗キッドとは、名探偵コナンの原作者である青山剛昌先生が描く作品「まじっく快斗」の主人公。


天才マジシャンであった亡き父、黒羽盗一の死の真相を突き止めるべく、父の後を引き継ぎキッドという怪盗で世間を騒がしています。
彼の目的は父の死の真相と関わりのあるビッグジュエルを探し出し、真実を解き明かすことなんです。
怪盗と呼ばれていますが、所謂義賊。
盗んだものは元の持ち主に返還しています。


正式名称は怪盗1412号。
書きなぐりの"1412"が"KID"に見えたことから怪盗キッドと呼ばれるようになりました。

原作怪盗キッドの驚異空中歩行」では、鈴木財閥が所有するビッグジュエル"大海の奇跡"を狙って怪盗キッドとコナンが初対面します。
その時、園子がキッドに攫われて京極真が助けに来てくれるという妄想を蘭に話しており、怪盗キッドvs.京極真」で実現することに。

また怪盗キッドの瞬間移動魔術」でも鈴木財閥が所有する"紫紅の爪"を使ってキッドへの挑戦状を叩きつける。

怪盗キッドvs.最強金庫」ではキッドからの予告で鈴木財閥が誇る難攻不落の金庫"鉄狸"を披露。
「闇に消えた麒麟の角」「コナンキッドの竜馬お宝攻防戦」「コナンvs.キッド 赤面の人魚」でキッドとコナンは何度も対峙しています。

鈴木次郎吉がコナンのことを"キッドキラー"と呼ぶ所以がここにあります。



今作「紺青の拳」では協力関係にあるコナンとキッドも探偵と怪盗という本来は追う側追われる側の立場。
コナンの好敵手である怪盗キッドの好敵手が京極真という絶妙な三角関係。
というか、怪盗キッドに敵が多いだけなんですが。



今回もキザなセリフを残していきました。

『中身を言い当ててくれよ名探偵。殺人という名の謎めいた拳の中身をな。』



本作を観る前に

ここで、本作を観る前に原作もしくはアニメの「名探偵コナン」で書かれた事件「容疑者か京極真」怪盗キッドvs.京極真」を読んでおくことをオススメします。
京極真が如何に真面目で如何に強いのかが分かります(笑)


ただ本編で怪盗キッドvs.京極真」の映像が少し挿入される程度なので、今作『紺青の拳』単品でも十分楽しめる仕上がりになっています。
無理に観る必要は特に問題はありません。

前作『ゼロの執行人』同様に予備知識さえあれば単品で楽しめる仕様となっており、登場人物と人物相関図さえ頭に入れておけば問題はありません。


さて、前回の記事『ゼロの執行人』でも、Twitterでも何度も語っている自論"名探偵コナン"とは何たるか。が本作には詰め込まれています。



改めて語りましょう。


原作「名探偵コナン」では新一と蘭、平次と和葉、園子と京極、小五郎と妃、高木と佐藤…など様々なラブコメが描かれています(青山剛昌先生がラブコメ大好き)。

極論ですが、自分は「名探偵コナン」はラブコメありき、寧ろラブコメのない「名探偵コナン」は「名探偵コナン」ではないと思ってます。

‪APTX4869という黒の組織が開発した新種の薬を投与され、幼児化してしまった工藤新一。‬
江戸川コナンとして事件解決していく中で、新一がコナンとして過ごすという現状は新一と蘭のラブコメは平行線のままということ。
しかし、原作や映画でも何度か新一の姿に戻ったり、声だけでも蘭の傍に寄り添う。

‪ミステリー漫画として売り出している以上、本筋は黒ずくめの組織との対峙、殺人事件の推理がメインなのは仕方ないのですが…時が止まったように、本来は進展しないはずのラブコメが徐々に進展していく様、お互いの気持ちを素直に言えないもどかしさや物理的な障害が最大の魅力だと思っています。



今作ではシンガポールを舞台に鈴木園子と京極真、この二人のラブコメを中心‬に怪盗キッドの好敵手・京極真との三角関係、そして毛利蘭と工藤新一と怪盗キッドの三角関係も絡ませつつ非常に上手い人物相関図を描いています。


また、従来追うはずの立場である探偵・江戸川コナン怪盗キッドに協力するという、言わば"容疑者か怪盗キッド"という構図も見所。


今作は京極真が劇場版初登場なので劇場版の過去作を鑑賞する必要はないのですが、過去作でのキッド出演作もチェックしておくとより今作を楽しめます。

「世紀末の魔術師」

「銀翼の奇術師」

「探偵たちの鎮魂歌」

天空の難破船

「業火の向日葵」




ネタバレ感想

ここからネタバレ感想になるので未鑑賞の方はご注意ください。










さて、上記で鈴木園子と京極真のラブコメと記述しましたが、今回で園子への想いがしっかりと分かる描写がありましたね。

特に、京極真の額に貼られた絆創膏の秘密が。
園子とのプリクラを肌身離さず持ってるだなんて乙女かよと(笑)
400戦無敗の最強の男にこんなことされたら、そりゃあもうギャップに萌えますね!


ギャップと言えば、園子の髪型。
普段はカチューシャなどで前髪を上げたヘアースタイルをしていますが、今回初めて前髪を下ろす園子が拝めます。
端的に可愛すぎます。



と、基本的には園子と京極の恋愛が中心なのですが、結局のところ最後は工藤新一と毛利蘭のラブコメで締まりました。

メインはあくまでも園子と京極ですが、新一と蘭のラブコメは水面下でしっかりと描かれていたんです。
これは自分が今作こそ「名探偵コナン」だと賞賛する一因でもあります。
正直、前作での不完全燃焼から一転、ここまでのラブコメを見せられては、原作ファンとしても非常に嬉しい。


「ホームズの黙示録」でロンドンにて遠回しな告白をした新一、「紅の修学旅行」で蘭が答えを出した。
原作でも正式に付き合ったことになるのですが、キッドはこのことを知らなかったんですよね。


ラストで蘭は新一がキッドの変装だと見破っていました。
『二回も新一に変装して!』の台詞。
これは過去作天空の難破船のことです。
蘭は新一がキッドの変装だと見破ったのも、新一がしないようなことをキッドがしたから。
今回のきっかけは父である毛利小五郎のことを『おっちゃん』と呼んだから。

これ、めちゃくちゃ些細な日常の一片であって、二人の仲だからこそ気付けることなんですよね。
コナン自体も気付かなかったほどに。


それまでの新一と蘭のツーショットや言動、全てをしっかりと観察した上で確信したからこそのあのラストなのです。

蘭がどれだけ新一のことを考えているのか、どれだけ新一のことが好きなのか。が分かる素晴らしい描写なんです。

これ、コナン(新一)からすればめちゃくちゃ嬉しくないですか!?
自分なら嬉しい。。。

怪盗キッドvs.京極真」でも、園子に変装したキッドを京極真が見破ります。
京極が見破った理由はアレでしたが(笑)



キッドが間に入り、愛の再確認が出来る。
それを可視化する演出が最高of最高なんですよ!!!


もう一度言います。
今作はラブコメがしっかりと盛り込まれた"これぞ名探偵コナン"だと思います。



怪盗キッド出演作の劇場版名探偵コナンはミステリーというよりもアクションに重きが置かれ、いつもの名探偵コナン以上に視覚的に楽しめると思います。

欲を言えば、怪盗キッドと京極真の直接対決をもっと見たかった気もしますが、敵対する関係が協力関係になるという構図は好みでしたね。



今作の監督を務められた永岡智佳さん。
劇場版名探偵コナン初の女性監督ということもあって、ラブコメ要素に関して申し分無し。
また、キャラクタームービーとしても最高で、怪盗キッド、京極真のファンにとっては最高でしょう。



終わりに

コナン(新一)とキッドは今までにも貸し借りのある仲で、利害の一致で今回も協力関係にあったわけですが、新一と蘭の間を良い感じで怪盗キッドが取り巻いてくれました(笑)

現在の最新巻96巻でも別の事件ですが怪盗キッドと京極真が登場しています。
また前作「ゼロの執行人」のメインキャラクター、安室透も登場し、各々の登場人物が文字通り一本に繋がる展開に…!

同時に新一と蘭、平次と和葉、警視庁の千葉と三池など恋愛要素も徐々に進展。

96巻にして依然として飽きることなく、更に楽しみにさせてくれる「名探偵コナン」を今後も応援していきます!



そして、「紺青の拳」のエンドクレジットで恒例の次回作の触り映像が流れましたね!

次回作はどうやら赤井秀一についての映画のようです。
原作の黒ずくめの組織とのエピソードを準えつつ、前作「ゼロの執行人」の続編的な作品になりそうです。

2020年も劇場版名探偵コナンが楽しみです!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2019 青山剛昌名探偵コナン製作委員会

栄華に狂い、破滅と踊る(『サンセット』ネタバレなし考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は第68回カンヌ映画祭コンペティション部門に出品した『サウルの息子』のネメシュ・ラースロー監督最新作『サンセット』について語っています。

この記事にネタバレはございません。



作品概要


原題:Napszallta
製作年:2018年
製作国:ハンガリー・フランス合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:142分
映倫区分:G

解説

長編デビュー作「サウルの息子」がカンヌ国際映画祭グランプリのほか、アカデミー賞ゴールデングローブ賞外国語映画賞も受賞したネメシュ・ラースローの長編第2作。第1次世界大戦前、ヨーロッパの中心都市だったブダペストの繁栄と闇を描いた。1913年、ブダペスト。イリス・レイテルは、彼女が2歳の時に亡くなった両親が遺した高級帽子店で職人として働くことを夢見て、ハンガリーの首都ブタペストにやってくる。しかし、現在のオーナーであるオスカール・ブリッルはイリスを歓迎することなく追い払ってしまう。そして、この時になって初めて自分に兄がいることを知ったイリスは、ある男が兄カルマンを探していることを知り、イリスもブタペストの町で兄を探し始める。そんな中、ブタペストでは貴族たちへの暴動が発生。その暴動はイリスの兄とその仲間たちによるものだった。2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品。
サンセット : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



時代背景

1913年頃、現代のオーストリアハンガリーをはじめチェコスロバキアクロアチアスロベニアルーマニアボスニア・ヘルツェゴビナの領土を持ったオーストリア=ハンガリー帝国が存在していた。

ハプスブルク家ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に解体するまで存続した。

帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。
その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」(ツィスライタニエン)と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(トランスライタニエン)に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。

オーストリア=ハンガリー帝国 - Wikipediaより引用


第一次世界大戦勃発前、ヨーロッパ全域の緊迫した情勢の交差点、そして多数の言語と文化や宗教の近代化と廃退が混在する多民族国家でもあり、不穏な空気が入り乱れる時代。
その中心地でもあったブダペスト
そこにある当時最先端で憧れの職業でもあった高級帽子店を舞台にひとりの女性が翻弄されていく物語。

冒頭から流れるシューベルトの楽曲と美しい日没(サンセット)の街並みはこの後に起こる何かを示唆させる。



フランツ・ヨーゼフ1世オーストリア皇帝に即位し、ハンガリー国王も兼ねた。
舞台となる高級帽子店レイターに貴賓として迎えるのは皇位継承者フランツ・フェルディナント皇太子とその皇太子妃ゾフィー
1914年、この2人がセルビア人青年に暗殺され、オーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国に宣戦布告し第一次世界大戦の勃発に繋がった。

これが、サラエボ事件です。


暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付(La Domenica del Corriere)

サラエボ事件サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア出身のボスニアセルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。プリンツィプは、セルビア系秘密結社「黒手組」の一員ダニロ・イリッチ(英語版)によって組織された6人の暗殺者(5人のボスニアセルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者らの目的は青年ボスニア(英語版)と呼ばれる革命運動と一致していた。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。

サラエボ事件 - Wikipediaより引用




高級帽子店を舞台にしたのにも理由がある。
20世紀初頭において帽子は重要なアイテムのひとつでした。
当時はブリムと呼ばれる帽子のつばの部分が大きく、顔を覆うようなボリューム感のあるデザインが流行していました。

劇中で、「帽子はおぞましい物を見ないようにするためにある」と語られるようにつばの広い帽子は劇中の物語の確信に迫る真実を覆い隠すという意味があるのかもしれません。


女性解放運動などの社会的な方面、医学的な側面からもコルセットは廃れ、様々なファッションが模索される時代でもあります。
コルセットを必要としないファッションに合わせるように帽子のデザインもコンパクトなものが流行するようになる。

このように自由な女性のファッションという流行の変化が、時代の変化のメタファーとして盛り込まれています。



ネメシュ監督の手腕

さて、冒頭でも記述しましたネメシュ・ラースロー監督。
彼自身、ハンガリーブダペスト出身で、彼の初の長編作となるサウルの息子では手腕を見せつけられました。



サウルの息子』ではアウシュヴィッツを舞台に第二次世界大戦を描く。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、ハンガリーユダヤ人のサウルは同じユダヤ人の死体処理係(ゾンダーコマンド)として働く。
強烈なテーマと独自のカメラワークは彼の名を世界に広めることとなる。



長編二作目となる今作『サンセット』では第一次世界大戦に至る前の歴史と時代の陰りを見事に描き切っています。

サウルの息子』同様に執拗以上にカメラは主人公イリスの後方を追い、彼女を映しながらその世界を体感させる。

常に先を見据えたような、そして彼女の困惑と真実を知りたいという視点が我々観客の視点とリンクした時、初めてこの作品は完成する。



正直なところ、直接的な表現や明白な意図、得られる情報が少ないまま物語は進んでいき、置いてけぼりになる可能性が高い、非常に不親切な手法。

これは2019年公開の『ウトヤ島、7月22日』の疑似体験型ドキュメンタリーを観た時の不安感やモヤモヤ感に近い。



ウトヤ島、7月22日』において、観客がその場に居るような体感型を取り入れながら物語に一切介入しないモキュメンタリーとしての"視点の矛盾"が生じる。
つまりは"存在しないはずのカメラマンの存在"だ。

今作『サンセット』では引きの映像も織り交ぜ、あくまでも俯瞰的にその世界を見つめる客観的視点とした上で、体感型としても臨場感を味わうことが出来る。
それが"視点の矛盾"を回避しているんです。



ひとりの女性に焦点を当て、時代に翻弄され、世界に迷い、自分を見誤り、何を見て何を体験したのか?
ピントをわざと外したり、暗闇ではっきりと映さない芯を掴ませない映像、その全容を明かさず世界の片鱗を覗かせるように映し出される。


ネメシュ・ラースロー監督は

この作品は全編35mmフィルムで撮影されています。映画という表現とテクノロジーの関係についてどのようにお考えですか?
私にとって現在の映画とテレビの標準化は疑わしく、すでに証明し尽くされ文脈に当てはめられつくした方法に頼るのではなく、イメージや物語を現す新しい方法を探そうと依然として決心し続けています。つまりは、リスクを犯さなければならないという意味です。

今日、観客が映画から得る経験は、だんだん不満足なものになり、観る者の想像の旅を無視し、より簡単に理解できる産業化された表現に堕ちてしまったように感じます。いまの映画に満足している人にとっては、私の『サンセット』の監督方法は、簡単には受け入れ難かったかもしれません。しかし、私は映画が持っている大いなる可能性と観客を結び付けたいのです。

(オフィシャル・インタビューより)


と語るように、受け入れ難いリスクを承知の上でこの手法をとっているのです。



観客に"気づき"を与え、観客が想像力を膨らませる。
観客に委ね、観客を信じ、時には謎は謎のまま明白な答えを掲示しないこと。

ここの徹底ぶりは監督の意図であり、腕があっての演出であろう。



まとめ

ブダペストにある高級帽子店を舞台に、ヨーロッパの歴史の自滅、時代の変化をファッションの流行の変化に準えながら、兄探しというミステリードラマで描かれる主人公イリスの視点と我々観客の視点が同化した時、困惑とともに絶大なる疲労と余韻を齎す。



映画を通して歴史を推理する。

この楽しみに気付いたのは学生を終えて"勉強"という枠から解放されてからだ。
特にわたくしはホロコースト映画、ナチ映画が好みで、フィクションか否かは関係ない。
そこに在った事実をどう見せるのか?が重要だと思っています。


専門書なら兎も角、映画という"娯楽"から学ぶ"史実"はもっと演出に"自由"があってもいいのではないか?

史実とはあくまでも史料によって導き出された結論のひとつに過ぎない。
言わば"原作"のようなもの。
その窮屈な枠から解放され、その他の史料、諸説を繋ぎ合わせて新たな仮説を立てることの面白さ。

映画を通して歴史を推理するとは、ミステリー小説におけるハウダニットホワイダニットのように、"どのように"、"何故その行為に至ったのか"、散りばめられた手掛かりから結論を紡ぐように推理していく行為に似ています。


観客の想像力を信じたネメシュ・ラースロー監督のリスクを承知で謎を謎のままで残す新たな映画の見方。
観客に委ねる手法と独自のカメラワークはその腕を確かなものにしたと思います。



終わりに

如何でしたか?
上記にも書いたように非常に不親切で難解な内容ではあるのですが、映画の答え(感じること)は自分で持てばいいんです。

ネメシュ・ラースロー監督の次回作にも期待します!




(C) Laokoon Filmgroup - Playtime Production 2018

運ばれるもの(『運び屋』ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は3月8日に全国公開された『運び屋』について(とは言ってもいつものような掘り下げた考察ではなく、イーストウッドの過去作を交えながら)語っています。

待ちに待ったイーストウッド監督最新作。
そして『人生の特等席』から7年振りの主演、自身の監督作では『グラン・トリノ』から10年振りということで、ずっと楽しみにしていました!


というわけで、最後までお目通しいただけたら幸いです。



この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Mule
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:ワーナー・ブラザース映画
上映時間:116分
映倫区分:G


解説

巨匠クリント・イーストウッドが自身の監督作では10年ぶりに銀幕復帰を果たして主演を務め、87歳の老人がひとりで大量のコカインを運んでいたという実際の報道記事をもとに、長年にわたり麻薬の運び屋をしていた孤独な老人の姿を描いたドラマ。家族をないがしろに仕事一筋で生きてきたアール・ストーンだったが、いまは金もなく、孤独な90歳の老人になっていた。商売に失敗して自宅も差し押さえられて途方に暮れていたとき、車の運転さえすればいいという仕事を持ちかけられたアールは、簡単な仕事だと思って依頼を引き受けたが、実はその仕事は、メキシコの麻薬カルテルの「運び屋」だった。脚本は「グラン・トリノ」のニック・シェンクイーストウッドは「人生の特等席」以来6年ぶり、自身の監督作では「グラン・トリノ」以来10年ぶりに俳優として出演も果たした。共演は、アールを追い込んでいく麻薬捜査官役で「アメリカン・スナイパー」のブラッドリー・クーパーのほか、ローレンス・フィッシュバーンアンディ・ガルシアら実力派が集結。イーストウッドの実娘アリソン・イーストウッドも出演している。
運び屋 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編




前置き

まず、前置きとして、クリント・イーストウッドの映画について語っていきたいのですが、ちょっと長いのである程度焦点を絞って語ろうと思います。




これはTwitterに上げたイーストウッド監督作ベスト10です。
多少前後入れ替わりはあるかもしれませんが、大体こんな感じです。

ご覧の通り、自分は概ねイーストウッド監督作はゼロ年代以降に好みが偏ります。


まあここに『運び屋』(19年)が入るんですが。



ミスティック・リバー』(03年)
ミリオンダラー・ベイビー』(04年)
チェンジリング』(08年)

といったゼロ年代の作品は明確なテーマを基に人の心の影を、心を抉るような骨太ドラマを描いた作品が多い。
映画的には正統派、分かりやすく、そして心に留まる、それ故に傑作なのです。



また、21世紀以降の作品はイーストウッド監督にとっても転機であったと思います。

硫黄島からの手紙』(06年)
父親たちの星条旗』(06年)

から、イーストウッドは実話を基に数々の作品を残しています。

インビクタス/負けざる者たち』(09年)では、黒人初の南アフリカ大統領ネルソン・マンデラを。
J・エドガー』(11年)では、FBI長官ジョン・エドガー・フーバーを。
ジャージー・ボーイズ』(14年)では、伝説のグループ、ザ・フォーシーズンズを。


そして
アメリカン・スナイパー』(14年)
ハドソン川の奇跡』(16年)
15時17分、パリ行き』(18年)

戦争の恐怖、航空機事故、銃乱射事件。
それらの実話を基に、ヒロイズムと奇跡を描いています。


実際にあった出来事は観客がどれだけその知識が共有されているか、がひとつの問題。
当然、その出来事には様々な要因やその背景があり、それを劇中でどの程度、どの分量で上手く見せられるのか、教えられるのかが重要であると考えています。

その点、イーストウッド監督は良い意味での割り切り、潔さがあるんです。
劇中で見せる部分は見せる。
端折る部分は切る、もしくは淡々とあっさり流してしまう。
そして訴えたいこと、残したいメッセージを的確に伝えてくる。
つまり、裏を返せば、"イーストウッド監督が見せる映像には全て意味がある"ということ。

ここがわたくし個人の好みと合致するが故にクリント・イーストウッドが最高峰の映画監督と称する所以です。


過去の作品に遡って見てみると、イーストウッドのその映画がイーストウッド自身の人生と重なる部分が多い。

例えば、ガントレット』(77年)、『許されざる者』(92年)、『ブラッド・ワーク』(02年)など出演、監督作の多数に見られる死と再生。
敬虔なキリスト教徒でもあるイーストウッドの"イエス・キリストの復活"とも受け取れる。

更に踏み込んだ話をするならば、監督作ではないにしろ一昨年に『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(17年)としてリメイクされた『白い肌の異常な夜』(71年)や、『タイトロープ』(84年)などで女性に虐げられる姿も晒け出す。

イーストウッド初監督作の恐怖のメロディ』(71年)を鑑賞された方なら御察しだと思いますが、イーストウッドはプライベートでも女好きで有名で、プレイボーイそのもの(笑)
ブラッド・ワーク』等でお爺ちゃんになってもラブシーンを撮るなど、割とこの手のセクシャリティがなんの躊躇いもなく盛り込まれている作品も多い。


こうした何気ない描写ひとつひとつも、後から見てみれば意味を持つ。
これもイーストウッドの映画人生の楽しみ方ではないでしょうか。



さて、冒頭でも語りましたが、そんな長期に渡るイーストウッドの映画人生の中でも、21世紀以降のイーストウッド監督作はガラリと毛色が変わった"転機"なんです。

そのきっかけがこの作品。

許されざる者』(92年)



グラン・トリノ』(08年)


この二作を繋ぐものは、クリント・イーストウッドの自己投影、集大成だということ。


グラン・トリノ』と今作『運び屋』を観る前に、ある程度過去のイーストウッド出演作及び監督作を観ておくことをオススメします。



許されざる者では、これまで悪党を殺しまくってきたガンマンが「もう暴力の時代じゃない」と銃を置く物語。
イーストウッドの俳優時代を支えた西部劇を否定するような構成は夕陽のガンマン』(65年)などを経た俳優イーストウッドの精神的遺作なのだ。

そしてグラン・トリノは、『許されざる者』から監督イーストウッドとしての新境地開拓してきた自身の映画の答え、集大成であるとともにダーティハリー』(71年)などの現代劇からの脱却、更なる挑戦である。


では、今作『運び屋』(19年)とはイーストウッドにとって一体どのような立ち位置による作品なのだろうか。



本題

前置きが長くなりましたが、ここからが本題です(笑)

『運び屋』は2014年6月にニューヨーク・タイムズ・マガジンに掲載された『シナロア・カルテルの90歳の運び屋』に着想を得て作られています。

今作の主人公アールは、デイリリーというユリの一種の栽培で有名な人物であり、一度に13億円相当のドラッグを運んだレオ・シャープという実在の人物がモデルです。



主にイーストウッド監督作には形骸的な家族をテーマとする作品が作られている。

グラン・トリノ』に関してもそうだ。
妻を亡くし、息子とは不仲。
そんな中で隣に越してきた少年と"擬似家族"のような関係を築いていく。


今作でも『グラン・トリノ』と同様に不仲な家族を描きつつ、麻薬組織の一員として彼らとの関係を築いていく。
まるで家族との関係性の代わりのように。

故にこの劇中の言葉が胸に響く。



"時間がすべて"。


今まで生きてきた90年という歳月の中で、デイリリーの栽培、仕事を優先し家族を蔑ろにした結果、その失った時間を金で埋め合わせようとする姿。
そして、時間はお金で買えないという普遍的なテーマから、時間が家族との愛を育むものとして、気付かせてくれのが皮肉にも妻の病であること。
それらの人生をデイリリーという花に準え落とし込んだイーストウッドの自己投影。


劇中にも語られますが、デイリリーは1日に数時間しか花を咲かせない。
その注目されるひと時のために人生を捧げ、有名になり、賞を貰うアール。

イーストウッド自身も、俳優、監督として数々の賞を貰い脚光を浴びる一方で家庭問題を抱えていた。
前置きでも語ったセクシャリティな部分はしっかりと今作にも反映されています。



イーストウッド自身、こう語っています。

俳優として60余年のキャリアを誇るイーストウッドは「若い時はたくさん役を演じ、なかには社会的価値のあるものも、アクション満載の娯楽作品だけのこともある。いろいろな機会がある。でもある段階に達したら、少し自分に負荷を課す作品を探すことも必要だ。言えなかったことが言えるような作品を選ぶこともね」と作品選びの重要性を説く。
さらに、「学ぶことに年齢は関係ない。年を取っても学べる。そうしながら、人に教えることもできる」と本作で描かれるテーマについて触れ、「私はいつも異なるタイプの物語に興味がある。西部劇でも、現代劇でも、どんな作品でも、私はずっと新しいもの、脳を刺激するものを探そうとしてきたし、この作品もそうだ」と創作のポリシーを明かす。
イーストウッド「学ぶことに年齢は関係ない」 創作のポリシー語るインタビュー映像 : 映画ニュース - 映画.comより引用



イーストウッド自身が師と仰ぐドン・シーゲル監督。
ドン・シーゲルイリノイ州出身ということで、イーストウッドドン・シーゲルを目指すように劇中でもテキサス州からイリノイ州に向かうアールの姿が描かれています。(考えすぎかもしれませんが)。

『白い肌の異常な夜』(71年)ダーティハリー』(71年)など俳優イーストウッドとして育ててもらったことはお金では買えない有意義な時間。
次はイーストウッドブラッドリー・クーパーに与えたいと思ったのかもしれない。

『アリー/スター誕生』(18年)でも、当初はイーストウッドが監督を務める予定でした。
クーパーが監督を務め、レディー・ガガを起用したことに苦言を呈しながらも、完成度の高さに前言撤回するなど、師弟愛を感じさせる。


『運び屋』劇中でも、追われるアールとその背を追うベイツという構図がまさにそれ。
ブラッドリー・クーパー演じる麻薬取締局の捜査官ベイツに声を掛けるイーストウッド演じるアール。
この師弟コンビの会話シーンが最も印象的だ。

90歳という年齢だからこそ、思ったことを口にしただけであってもその会話ひとつひとつの言葉にも重みが含まれる。
役だけでなく、監督としてまるでイーストウッドからクーパーへ意志や想いが運ばれていくような…そう想って観ると、ますます映画人生の教えのようにも見えてくるんですよ。


『運び屋』はイーストウッドの"集大成"ではなく、あくまでそれは『グラン・トリノ』。
『運び屋』はその集大成『グラン・トリノ』を経て、次に進んだイーストウッドの"映画人生の継受"。
映画におけるアールが自身の投影ではなく、映画『運び屋』そのものが自身の映画人生の投影なんだと思います。

許されざる者』、『グラン・トリノ』を経て、イーストウッドが、今作で我々に訴えるメッセージはイーストウッドにとって"映画は人生そのもの"であるということ。

『運び屋』はまさにイーストウッドの人生観、映画人生を示したもの、そしてそんな人生を次世代へ継受する作品なのです。



イーストウッドにとっての映画とは、仕事ではなく家族と過ごすような愛を育む時間であると今になって気付かされた。

何に時間を使うのか。
時間は有限であり不可逆的だからこそ、その使い方次第で価値のあるものにも、無価値なものにもなり得るということ。

これは映画業界へ遺したものであり、師弟関係にあるクーパーへの遺産でもある。



また、ラストの裁判のシーンにイーストウッドの意志が強く反映されているように思う。

逮捕、起訴され、弁護士の弁論中にアールは自ら「自業自得」「有罪」という言葉を発する。
これは素直に受け取ると、アール自身の人生への最終宣告、つまり身柄を拘束されその引導を渡す相手がベイツであることから、やはりイーストウッドからクーパーへの継受なのだろう。

その上で「老いたりしない」と語り、ラストにデイリリーを栽培する姿は「イーストウッド監督としてもまだやっていくぞ」という意気込みなのだろうか。

「年を取っても学べる。そうしながら、人に教えることもできる」
と語るイーストウッドのこれからに注目だ。



終わりに

結局、本題より前置きの方が長くなってしまいましたが、如何でしたでしょうか?

自分で書きながら、イーストウッド出演作、監督作をまた改めて観直していきたいと思いました(笑)

何れにせよ、改めて今後もクリント・イーストウッド監督作及びブラッドリー・クーパー監督作を観ていきたい。
そう思える充実した最高のひと時でした。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC


人間の本質とは(『岬の兄妹』ネタバレなし感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。

またまた久しぶりの更新になって申し訳ございません。
今回はポン・ジュノ監督が傑作と認めた片山慎三初長編監督作『岬の兄妹』について、ネタバレなしで語っています。

最後までお付き合いいただけると幸いです。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:プレシディオ
上映時間:89分
映倫区分:R15+



解説

ポン・ジュノ監督作品や山下敦弘監督作品などで助監督を務めた片山慎三の初長編監督作。ある港町で自閉症の妹・真理子とふたり暮らしをしている良夫。仕事を解雇されて生活に困った良夫は真理子に売春をさせて生計を立てようとする。良夫は金銭のために男に妹の身体を斡旋する行為に罪の意識を感じながらも、これまで知ることがなかった妹の本当の喜びや悲しみに触れることで、複雑な心境にいたる。そんな中、妹の心と体には少しずつ変化が起き始め……。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭の国内コンペティション長編部門で優秀作品賞と観客賞を受賞。
岬の兄妹 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編



貧困がテーマの映画

『母なる証明』のポン・ジュノ監督作品や『マイ・バック・ページ』の山下敦弘監督作品などで助監督を務めた片山慎三の初長編監督作であり、個人的にこの二人の監督の共通するテーマは人間の本質だと思います。
今作『岬の兄妹』を鑑賞し、片山慎三監督も少なからずこれらの影響は受けているように思いました。

普段何気なく平穏な生活を送るにあたって、我々が目にも留めないであろう貧困層、障害者の抱える問題。



昨今、日本映画では貧困に焦点を当てた作品が多数作られています。

例えば、2017年公開の個人的邦画ベストにも入った白石和彌監督作『彼女がその名を知らない鳥たち』。


所謂貧乏生活の中でも愛の多様性を訴えた作品。
愛とは見返りを求めず、ただ純粋に与えるもの。
これは恋人だけでなく家族にも通ずるものがあります。
イヤミスと言われていますが、個人的には純愛そのもの。
共感出来ない愛、それは当人たちの間で育まれたひとつの愛の形だからです。



そして、2018年公開の是枝裕和監督作『万引き家族』。


こちらも貧乏生活の中で、血の繋がらないひとつの家族としての在り方を描いた作品。
生きるために犯罪を犯す。
その犯罪が共有する秘密、擬似家族としての絆を育んでいく皮肉。
不可視である家族愛というものを主観的に、そして現実の厳しさを客観的に見せたこの作品は心に複雑な想いを残しました。



日本映画以外にもアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作『ビューティフル』や、ケン・ローチ監督作『わたしは、ダニエル・ブレイク』、ダニス・タノヴィッチ監督作『鉄くず拾いの物語』など、貧困をテーマに鑑賞後に心に重くのしかかるも家族愛を描いた作品も多数あります。



ここで疑問に思うのが、貧困とは生活だけの問題なのだろうか?ということ。
確かに金銭面での貧困は目に見えるものです。
『万引き家族』のように居場所のない人達が社会的弱者となること。

そんな貧困を問題提起とし、人と人の絆を描いたこの作品、個人的評価はイマイチな理由がその更に一歩先に踏み込んで欲しかったという点に尽きる。


今作『岬の兄妹』のように兄の良夫は正しく貧困であることは目に見えています。
しかし、妹の真理子のように一人で出歩くことすらままならない自閉症などの精神疾患を抱えた人たちは生活が潤っていたとしても満足なのでしょうか?

"貧困な発想"などと表現されるように、貧困には目に見えない精神的な部分も示されるのではないか?


そう、今作『岬の兄妹』では金銭面での貧困だけでなく、障害者としての社会的弱者の貧困をも描き出した『万引き家族』では描ききれなかった、生きる為ならなんでもするという更に一歩踏み込んだ現実の生々しさや厳しさから人間の本質を炙り出した衝撃作なんです。



社会的弱者から見た視点

上記でも挙げさせていただいた『万引き家族』でも生活苦を脱却するために犯罪が正当化されるような演出がなされています。
勿論、犯罪は犯すべきものではないのですが、それを主観で見ることで劇中で正当化しているんです。


今作『岬の兄妹』でも身的障害を持つ兄がリストラに逢い、罪の意識を抱きながら生活苦から無許可の売春斡旋を行う。
犯罪に手を染めながら、知的障害の妹真理子の姿に喜びを得て、そして生を性で繋ぐこの生活から逃れられなくなっていきます。

そこには社会的弱者から見た主観が入る。
苦肉の策とでも言おうか、その選択肢しかなかったのです。
そうするしか生きる道はなかったのです。

真理子の視点から見ても、自閉症ということもあり、善悪の判断は出来ません。
言い方は悪いですが、そこにつけ込んだ良夫の罪はあるでしょう。
そんな行動も、美味そうに飯を食う姿、快楽、そして潤っていく生活に犯罪行為や倫理観が正当化されてしまっている怖さ。


決して共感出来るものではない。

自制が効かず自分から性を求める真理子の姿は痛ましいものがある。
あくまでも客観的に、第三者から見れば明らかな異常。
これは良夫の親友でもある警察官・肇の視点でも示されます。

この社会的弱者と我々との視点の齟齬が鮮明に描かれています。



障害者と健常者の視点

この作品はあらすじにあるように、貧困による生活苦から金銭のために妹の身体を商品とする売春斡旋に手を出してしまう。

そんな重いテーマの中、妹の真理子の台詞から笑いを誘うようなブラックユーモアな演出が幾つもされている。

これは例えば某番組での運動神経悪い芸人を笑いものにするように、或いは外国人のカタコトな日本語を嘲笑うように。
我々が普段何気なく目にするバラエティ番組などでの無自覚な偏見に気づかせるものでないのか?

何不自由のない平穏な生活を送る我々が、客観的に社会的弱者を、自分よりも劣る対象を見て揶揄したり嘲笑うこと。

片山慎三監督はこのブラックユーモアを見せることで、健常者が無意識に持つ障害者への差別や偏見を伝えたいのではないのか?

この疑問は鑑賞後にも、今も尚、自分の心に留まり続けています。



終わりに

第71回カンヌ国際映画祭で、最高賞のパルムドールを受賞。
第91回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。
第42回日本アカデミー賞最優秀作品賞を含む8部門で最優秀賞を受賞。
現在も劇場での上映がされており、話題性も高い『万引き家族』を敢えて引き合いとして挙げさせていただきました。

勿論、共通する部分は多いのですが、『岬の兄妹』は上記で述べたように更に一歩踏み込んだ現実の厳しさを見せられます。
生々しい性描写など、美化されていない人間の本質を顕著に描き切っています。


小規模上映が勿体無いと思えるほどの力作であり、衝撃作。
映画館で鑑賞することをオススメいたします。

人間の本質とは何か?
是非、その目で確かめてください。


最後までお目通しいただいた方、ありがとうございました。



(C)SHINZO KATAYAMA

魔女の存在と意思(「サスペリア(2018)」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。

公開日初日に鑑賞してきました1月25日公開の『サスペリア(2018)』について語っています。

今回もいつもながら、こじつけと自論で展開しております。
興味のある方は最後までお付き合い頂けたら幸いです。

この記事はオリジナル版、リメイク版ともにネタバレを含みます。
ご注意ください。




作品概要


原題:Suspiria
製作年:2018年
製作国:イタリア・アメリカ合作
配給:ギャガ
上映時間:152分
映倫区分:R15+


・解説

映画史に名を刻むダリオ・アルジェントの傑作ホラーを、「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督が大胆にアレンジし、オリジナル版とは異なる視点から新たに描いた。1977年、ベルリンの世界的舞踊団「マルコス・ダンス・カンパニー」に入団するため、米ボストンからやってきたスージー・バニヨンは、オーディションでカリスマ振付師マダム・ブランの目に留まり、すぐに大きな役を得る。しかし、マダム直々のレッスンを受ける彼女の周囲では不可解な出来事が続発し、ダンサーたちが次々と謎の失踪を遂げていく。一方、患者だった若きダンサーが姿をくらまし、その行方を捜していた心理療法士のクレンペラー博士が、舞踊団の闇に近づいていくが……。「フィフティ・シェイズ」シリーズのダコタ・ジョンソンほか、ティルダ・スウィントンクロエ・グレース・モレッツら豪華女優陣が共演。イギリスの世界的ロックバンド「レディオヘッド」のトム・ヨークが映画音楽を初めて担当した。撮影はグァダニーノ監督の前作「君の名前で僕を呼んで」に続き、「ブンミおじさんの森」などで知られるタイ出身のサヨムプー・ムックディープロム。

サスペリア : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編






オリジナル版『サスペリア(1977)』

今回、『サスペリア(1977)』のリメイクということで、正直なところ期待と不安、フィフティーフィフティーだったわけですよ。



君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督に決定!と初めて聞いた時には
「おいおいおいおい!」
と。


いや、監督がどうこうというよりも、リメイクするのかという方に驚きが。
リメイクすることは、古い映画への認知、古参新参共に楽しめるという点では賛成なんですがね。



何を隠そう、当管理人レクはですね…
サスペリア大好きマン!!!
なんですよ(笑)



キャッチコピー
「決してひとりでは見ないでください」
インパクトを与えた作品でもあります。



特別ダリオ・アルジェント監督のファンというわけでもないのですが、魔女三部作の中でもそりゃあもう『サスペリア(1977)』は至高です。

続編の『インフェルノ』、『サスペリア・テルザ 最後の魔女』はまあ置いておいて、『サスペリア(1977)』はずっと色褪せない傑作だと思ってます。



ということで『サスペリア(1977)』から語らなければ本作の話には入れないので、少し前置きが長くなりますが語ります、すみません。
語りたいだけなので、オリジナル版の話なんか要らないんだよという方は飛ばしていただいて結構です(笑)

正直な話、リメイクと言いつつオリジナル版の鑑賞は必須ではありません。

なぜなら、オリジナル版『サスペリア(1977)』とは異なる視点から描いたものとのことで、基本的に予備知識がなくてもひとつの作品としてしっかりと成り立っています。

むしろ、過去の有名作を40年以上経った今リメイクするということについて、改変は大正解だと思います。
同じストーリーを準えるだけではオリジナル版を鑑賞した方にとっては面白味に欠けちゃいますからね。


しかし、しかしですよ?
オリジナルを観ていれば「おっ!」となる箇所は幾つかあります。
そして、この魔女三部作の一作目『サスペリア』においては特に魔女の存在をしっかりと把握することで見えてくるものがあるんじゃないかと思っております。





Twitterの"1日1本オススメ映画"というタグでも『サスペリア(1977)』をオススメしています。



もしオリジナル版をご鑑賞なさるならこちら、HDリマスター パーフェクト・コレクションがオススメです!


ここで記載したダリオ・アルジェント魔女三部作の魔女とは何か?という話をしておきましょうか。
一応、リメイク版でも言及はされますが、魔女三部作ではより詳しく言及されています。


魔女三部作では一作目『サスペリア(1977)』に登場する魔女の正体は続編『インフェルノ』、『サスペリア・テルザ 最後の魔女』で明かされることになります。




要約すると

サスペリア(1977)』に登場した三姉妹の魔女の1人"溜息の母(『インフェルノ』では嘆きの母)"。
続いて『インフェルノ』に登場した魔女"暗黒の母(『インフェルノ』では暗闇の母)"。
サスペリア・テルザ 最後の魔女』では魔女"涙の母"。

インフェルノ』にて。
近所の骨董屋で"3人の母"という本を見つけます。
その本の著者はバレリという人物で、数世紀前の建築家。
その"3人の母"(魔女)のためにそれぞれフライブルク、ローマ、ニューヨークで家を建てたことが明かされる。

サスペリア・テルザ 最後の魔女』にて。
1000年以上前に3人の姉妹が黒海の近くで姿を現し、世界中を放浪して行く先々の村や町で死や破壊、混沌をもたらした。
やがて3人は安住の地を求め溜息の母はフライブルクに、暗黒の母はニューヨークに、涙の母はローマにそれぞれが移り住んだとされる。

サスペリア(1977)』の舞台がドイツ。
インフェルノ』の舞台がアメリカ。
サスペリア・テルザ 最後の魔女』の舞台がイタリアというわけです。




さて、ここからは魔女について少し話を進めましょう。
魔女の正体について魔女三部作から得た情報を元に独自に探っていきます。


ここで言う"3人の母"とは、クトゥルフ神話ニャルラトホテプ(Nyarlathotep)の産み落とした百万の恵まれたもののうちの三体。

マーテル・ススピリオルム(Mater Suspiriorum, 嘆息の聖母)、マーテル・テネブラルム(Mater Tenebrarum, 闇の聖母)、マーテル・ラクリマルム(Mater Lachrymarum, 涙の聖母)。


H・Pラヴクラフトの作品『魔女の家の夢』で「黒い男」として現れたナイアーラトテップ

ナイアーラトテップ (Nyarlathotep) は、クトゥルフ神話などに登場する架空の神。日本語では他にナイアーラソテップ、ナイアルラトホテップニャルラトホテプ、ニャルラトテップなどとも表記される。

ナイアーラトテップ - Wikipediaより引用



この嘆きの聖母たちは、ギリシア神話におけるゴルゴン三姉妹のモデルとも言われています。

また、1839年歴史学者フランツ・ヨーゼフ・モーネが唱えた説によると、魔女宗教とはかつて黒海沿岸にいたゲルマン人ヘカテー崇拝と接したことで生まれた地下宗教であるとのこと。


ヘカテーウィリアム・ブレイク/画、1795年)

ヘカテー古代ギリシャ語: Ἑκάτη, Hekátē)は、ギリシア神話の女神である。
ヘカテー」は、古代ギリシア語で太陽神アポローンの別名であるヘカトス(Ἑκατός, Hekatós「遠くにまで力の及ぶ者」、または「遠くへ矢を射る者」。陽光の比喩)の女性形であるとも、古代ギリシア語で「意思」を意味するとも言われている。

「死の女神」、「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「ラミアーの母」、「死者達の王女」、「無敵の女王」等の別名で呼ばれた。


3面3体の姿をしたヘカテーの像(キアラモンティ美術館所蔵)

中世においては魔術の女神として魔女と関連付けられた。
また、シェイクスピアによって書かれた戯曲『マクベス』に登場するヘカテーは、マクベスに予言を行った3人の魔女たちの支配者として描かれている。

過去、現在、未来という時の三相を表している。

ヘカテー - Wikipediaより引用


このことからも3人の魔女の基となったのはクトゥルフ神話の3人の魔女、死の女神と称されるヘカテーの混合の宗教、悪魔崇拝であろうと考えられます。



当時はアーティスティックでショッキングな前衛的なホラー映画。
女性の身に降りかかる畏怖や狂気を孕んだ夢か現実かも分からないような恐怖体験。
美しい死体に刺激的な色彩、そして何よりも
「わけがわからない」んです。


イタリアンホラーによくある事なんですが、とっ散らかってて全てを理解なんて出来ないんですよね。

伏線か?と思ったら回収されずにそのままであったり、構えれば構えるほどこの映画の不可解さに取り込まれていく感覚…そうなんです、簡単にリメイクしても納得のいく作品が出来るような代物ではない作品なんですよ(笑)

ここがリメイクと聞いて不安になった大きな要因。


あくまでこれはオリジナル版の情報から抜き取ったものに過ぎません。
オリジナル版を既に鑑賞されている方は、このオリジナル版をどう解釈するかによってリメイク版の解釈、また評価も変わってくるのではないでしょうか?



今回、リメイクという名目でそんな名作を、持ち前の丁寧さとセンスで「再構築」したルカ・グァダニーノ監督。
君の名前で僕を呼んで』で知名度、認知度も高くその名を知らしめた監督が作る新しい『サスペリア』。

今作は
ダリオ・アルジェントではなくルカ・グァダニーノの『サスペリア』劇場の開演なんです。



リメイク版『サスペリア(2018)』

さて、ここからはリメイク版『サスペリア(2018)』の話に入っていこうと思います。

先ずなんと言っても目玉はキャスト。



1977年公開のオリジナル版のヒロインを演じたジェシカ・ハーパーが41年の歳月を経て同名タイトル作品に出演!
リメイク版では心理療法クレンペラー博士の妻アンケ役を演じています。

ここで小さな感動が(笑)



公開前に1人3役を演じていることが明かされたティルダ・スウィントン

その中でも特殊メイクで演じた心理療法士クレンペラ―博士が凄い。
ルッツ・エバースドルフ名義で本編クレジットされている82歳の男性。

なんたって、あるカットで股間が露わになるんだもの。




さてさて、オリジナル版『サスペリア(1977)』とリメイク版『サスペリア(2018)』を比較すると、一番に目に見えるのは色調の違い。



サスペリア(1977)』


サスペリア(2018)』



オリジナル版には序盤からの視覚的演出がありますが、リメイク版では序盤は落ち着いた印象。
これは演出にも同じように反映されています。

オリジナル版の方でも話しましたが、『サスペリア』の舞台はドイツ。
リメイク版『サスペリア(2018)』ではオリジナル版と同じ年代でもある1977年当時のドイツの背景を共に描き、何か起こりそうな不穏な空気を演出しています。




少し、当時のドイツがどのような状況であったのか、引用しておきます。

ドイツの秋(ドイツのあき、Deutscher Herbst)は、1977年後半の西ドイツ(当時)で起こった、一連のテロ事件の通称。

ドイツ赤軍(Rote Armee Fraktion、RAF)は、この年の9月にドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤー(Hanns-Martin Schleyer)を誘拐し、10月にはパレスチナ解放人民戦線PFLP)とともにルフトハンザ機をハイジャックした。ハイジャック機には特殊部隊が突入し、RAF幹部は獄中で相次ぎ自殺し、シュライヤーは遺体で発見されるという衝撃的な結末を迎えたこれらの事件は、マスコミで連日連夜大きく報じられた。戦後最大のテロ事件と政治的危機により西ドイツ社会は恐怖に震えた。

ドイツの秋 - Wikipediaより引用

ドイツ赤軍(ドイツせきぐん、ドイツ語: Rote Armee Fraktion, RAF)は、1968年結成のドイツ連邦共和国(西ドイツ)における最も活動的な極左民兵組織、テロリスト集団。バーダー・マインホフ・グルッペ(ドイツ語: Baader-Meinhof-Gruppe)との名称も使用した。ドイツ語名の直訳は「赤軍派」だが、日本では「ドイツ赤軍」または「西ドイツ赤軍」の呼称が一般的である。

1977年の後半にはブリギッテ・モーンハウプトとクリスティアン・クラーを新たな指導者として、相次いで事件を起こし西ドイツを震撼させた。

1977年9月5日には西ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーが誘拐された。1977年10月にはルフトハンザ航空181便ハイジャック事件を起こすが、ソマリアモガディシュに着陸したところを西ドイツ政府によって派遣された特殊部隊GSG-9によって急襲された。結果、ハイジャック犯3名を射殺、1名を逮捕、乗客人質全員を救出され、ハイジャックの失敗を知ったバーダーらは獄中で自殺。10月19日、ドイツ赤軍は誘拐した会長を殺害、遺体はフランスで発見された。

ドイツ赤軍 - Wikipediaより引用


直接的に本筋とは関わりはありませんが、1968年にアンドレアス・バーダー、ウルリケ・マインホフ、グドルン・エンスリンは極左地下組織「バーダー・マインホフ・グルッペ」(後にドイツ赤軍と改称)を結成。

ドイツ赤軍の指導者でもあるウルリケ・マインホフはテロリストの母と称されることもしばしば。
ある意味で魔女のような存在と言えます(こじつけ)。



この不穏な空気が、リメイク版ではテーマ性を盛り立て、良い感じに活きてくるんですよね。

当時のドイツの時代背景と並行して舞踊団で巻き起こる不可解な出来事。
まるでナチズムのように抑圧に苛まれる人々を舞踊団という小さな枠組みの中で投影したように、尚且つ夢か現実かわからないオリジナル版とは違い、よりリアルに生々しく映し出すことで露わとなる救済(ここについては後述しています)。

舞踊団の一員が「マルコス!」と掛け声を上げていたのも、ナチス政権のような抑圧的独裁政権を彷彿とさせます。





ラストシークエンスで地下の真っ赤に染まる部屋。
これはオリジナル版のように刺激的な色彩を見せて来なかったリメイク版が、溜めに溜めた鬱憤を晴らすような破壊力のあるインパクトを与えてくれます。

赤を基調とした映像と同化するように鮮血の紅が混ざり合う芸術性。
目が釘付けになること間違いなし。


魔女達の集会(サバト)については映画『ウィッチ』で語っています。


また、悪魔崇拝は映画『ヘレディタリー/継承』にも通ずるものがあります。







地下での集会サバトに入る直前
弟子達との会食はレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」的な構図。
マダム・ブランとスージーが互いに見合うシーンはこの後、何か大変なことがあるな…と思わせる。

勿論、ここで言うイエスはマザー・マルコスのこと、そしてユダはスージーです。

ちなみに人数も数えましたが、この会食で腰掛けた人数は12人、使徒の数と一致します。


作者レオナルド・ダ・ヴィンチ

『最後の晩餐』(さいごのばんさん、英: The Last Supper伊: L'Ultima Cena)は、キリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の晩餐の情景を描いた絵画。ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景である。

最後の晩餐 (レオナルド) - Wikipediaより引用

そしてサバトで、周りを踊る女性達の中心にあったサラとパトリシアを含む三位一体像

これこそが上記で挙げた3人の母のモデル"ヘカテー"を彷彿とさせ、魔女誕生の儀式、クライマックス感をヒシヒシと感じられる仕様になっています。




オリジナル版のストーリーの大筋を準えてはいますが、ほぼ別物と言ってもいい内容、特に結末が大きく改変されています。

サスペリア(1977)』ではマルコスが嘆きの母という設定でしたが、『サスペリア(2018)』ではなんとスージーが嘆きの母という設定に。

冒頭の
「母はあらゆる者の代わりにはなれるが、何者も母の代わりにはなれない」
という言葉は正にこれ。


マザー・マルコスも、マダム・ブランも、嘆きの母の可能性として候補に挙がっていました。
マルコスを魔女の1人だと思い込んでいた舞踊団のメンバー(と我々観客)。
彼女の器となるダンサーを探し求めていたところ、ついに相応しい人物スージーが現れたぜ!

と思い込ませておいてのコレですよ。
嘆きの母になる者は実は初めから決まっていたということですよ。



そして、先程記述しましたが

まるでナチズムのように抑圧に苛まれる人々を舞踊団という小さな枠組みの中で投影したように、尚且つ夢か現実かわからないオリジナル版とは違い、よりリアルに生々しく映し出すことで露わとなる救済。

スージーはあの地下儀式により3人の母の1人、嘆きの母として新たに誕生しました。

そこで行われたのが望みを叶えること
また、その後にクレンペラ―博士の自宅を訪れ、記憶を消したこと



上記で"3人の母"は"ヘカテー"説を説きましたが、ヘカテーの持つ特徴に「死の女神」と「遠くにまで力の及ぶ者。遠くへ矢を射る者。陽光の比喩。」、また古代ギリシア語で「意思」を意味するとも言われている。

三相は過去、現在、未来を表し、クレンペラー博士の妻アンケの行く末を知っていたのも頷ける。

ラストカットのスージーの微笑みも、きっと未来を見据えたもの。
残りの2人の魔女も復活させてしまうのだろうか…。



ホロコーストで迫害されてきたユダヤ人と魔女狩りで虐げられてきた魔女。
その2つの接点が見えてくる。

望むものに死を、そして苦悩の忘却。
スージー意思で行った抑圧的な環境からの解放と悲哀に満ちた人生からの解放
一見、舞踊団の魔女たちへの復讐、見方によっては虐げられてきた者たちへの救済と受け取れませんか?



「おいおいおいおい!」と。

やりやがったな!と。
僕好みの展開じゃないか!と。

ルカ・グァダニーノ監督、リメイク決定と聞いた時に不安を抱いてごめんなさい!と。



不明瞭で畏怖する対象となる魔女を説明的に丁寧に描いたことで、リメイク版単品でもひとつの作品として成立しています。

オリジナル版『サスペリア(1977)』で描いた"魔女の存在"から、更に踏み込んだ新たな"魔女の存在と解釈"

リメイクの存在意義についても確実のものとしたリメイク版『サスペリア(2018)』。


こりゃあとんでもないものを見せられたと思うわけですよ!



良くも悪くもダリオ・アルジェントルカ・グァダニーノ、2人の監督によってオリジナル版とリメイク版で異なる視点から映画が作られた。という事実が素晴らしい‬!




終わりに

長々と失礼しました。
オリジナル版『サスペリア(1977)』についてはもう少し語ることはあったのですが、だいぶ端折らせていただきました。
あくまでもリメイク版『サスペリア(2018)』に必要な部分のみ記述したつもりです。


少し…いや、かなり独断と偏見を交えながら語ってきた新旧『サスペリア』。
如何でしたか?

芸術性に富んだオリジナル版『サスペリア(1977)』
社会性を取り込んだリメイク版『サスペリア(2018)』
どちらも素晴らしい映画であり、割と好みな内容で安心しました。


とはいえ、今年は1月から凄い作品が出てきますね!
後半に失速しないか心配になってしまう程です(笑)



また不定期に、ブログ案件の映画に出会うまでは書きませんが、今後ともよろしくお願いいたします。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




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歴史を作る全ての女性に対する賛美(「バハールの涙」ネタバレなし感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今年初の更新ということで・・・

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。(遅)

今年も不定期ながら更新していきます。



さて、今日は「バハールの涙」について語っています。

この記事は物語の核心に迫るネタバレはありません。
いつものような考察記事ではなく、前情報として知っておいた方がいい事と当管理人が感じたこと、思ったことをそのまま綴っています。



作品概要


原題:Les filles du soleil
製作年:2018年
製作国:フランス・ベルギー・ジョージア・スイス合作
配給:コムストック・グループ、ツイン
上映時間:111分
映倫区分:G


・解説

「パターソン」のゴルシフテ・ファラハニが、捕虜となった息子の救出のためISと戦うこととなったクルド人女性を演じるドラマ。「青い欲動」のエバ・ウッソン監督が、自らクルド人自治区に入り、女性戦闘員たちの取材にあたって描いた。弁護士のババールは夫と息子と幸せな生活を送っていたが、ある日クルド人自治区の町でISの襲撃を受ける。襲撃により、男性は皆殺しとなり、バハールの息子は人質としてISの手に渡ってしまう。その悲劇から数カ月後、バハールはクルド人女性武装部隊「太陽の女たち」のリーダーとして戦いの最前線にいた。そんなバハールの姿を、同じく小さな娘と離れ、戦地で取材を続ける片眼の戦場記者マチルドの目を通して映し出していく。2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作品。

バハールの涙 : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編




予備知識として

ISはヤズディ教徒を虐殺するためにイラク北部を侵攻。
約50万人のヤズディ教徒が他国へ脱出、逃げ遅れた男性は殺害され、多くの女性と子ども達が拉致された。

この出来事は事実である。


この映画の出来事はそんな悲劇を基に着想を得て作られたもので、エヴァ・ウッソン監督自身も逃げ出してきた女性たちの証言を得るためにクルド人自治区の前線と難民キャンプへ足を運んでいます。



ゴルシフテ・ファラハニが演じた主人公バハールは、監督がそこで出会った彼女たちの証言から作り上げられたもの。

2018年にノーベル平和賞を受賞し、自らも性暴力や虐待の被害者として世界に訴えたシンジャル出身ヤズディ教徒のナーディヤ・ムラードを想起させる。


ナーディーヤ・ムラード・バーシー・ターハー(Nadia Murad Basee Taha)
ヤズィーディー教徒の人権活動家。1993年、イラクのスィンジャール(英語版)近くにあるヤズィーディー教徒のコミュニティ、コジョ村(アラビア語: كوجو)生まれ。ノーベル平和賞候補に名前が挙がり[4][5]、2016年9月16日に人身取引に関する国連親善大使に就任した。

ナーディーヤ・ムラード - Wikipediaより引用


エマニュエル・ベルコが演じた女性記者マチルダのモデルは戦地で片目を失った隻眼のジャーナリストのメリー・コルヴィンと、文豪アーネスト・ヘミングウェイの3番目の妻で従軍記者として1936年から活動したマーサ・ゲルホーンとのことです。

メリー・コルヴィン(Marie Catherine Colvin)
1956年、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランドに生まれる。エール大学を卒業後、UPI通信を経て、1986年にサンデー・タイムズに移籍。レバノン内戦や第1次湾岸戦争チェチェン紛争東ティモール紛争など世界中の戦場や紛争地などの危険な取材を重ねる中、2001年のスリランカ内戦の取材時に左目を失明。その後、心的外傷後ストレス障害PTSD)を負いながらも現場復帰し、その際に付けるようになった黒い眼帯は彼女のトレードマークとなった。

2012年2月22日、シリア内戦が起きていたシリアのホムスにて、反政府勢力側の取材中に政府軍の砲弾を受けて死亡。56歳。
2018年、彼女の生涯を描いた映画『ア・プライベート・ウォー』が制作され、ロザムンド・パイクがコルヴィンを演じた。

メリー・コルヴィン - Wikipediaより引用

『私が愛したヘミングウェイ』(原題:Hemingway & Gellhorn)は、2012年、HBO制作のアメリカ合衆国のテレビ映画。

20世紀のアメリカ合衆国を代表する文豪アーネスト・ヘミングウェイと彼の3番目の妻となった戦時特派員マーサ・ゲルホーン(英語版)との恋愛をスペイン内戦や第二次世界大戦を背景に描いた作品。ヘミングウェイクライヴ・オーウェン、ゲルホーンをニコール・キッドマンが演じた。

私が愛したヘミングウェイ - Wikipediaより引用


女性監督でもあるエヴァ・ウッソンはこの映画を製作し戦場をリアルに描くことにあたって、このように語っています。

シナリオを書いているときから映画の完成までのすべてのプロセスにおいて、さまざまな人たちにアドバイスを求めました。フランス人の戦場ジャーナリストのグザヴィエ・ムンズはそのひとりで、私は1年にわたって彼から話を聞きました。また、クルド人の元兵士のサムからは、武器の種類や扱い方から、兵士たちが夜寝るときに銃をどこに置くかといったことまで、戦場にまつわるすべてを教わりました。
映画の冒頭に3人の戦場ジャーナリストが出てきますが、そのひとりをグザヴィエ自身が演じています。撮影の初日、彼はサムに言いました。「なんだかちょっと胸騒ぎがする。この撮影現場にいるとまるでクルディスタンにいるような気分になってしまう」と。サムは、「君もか。僕はいま、無意識に地雷を探していた」と答えたそうです。実際に戦地にいた彼らがそんなふうに反応したことに私は凄く驚いたと同時に、安堵もしました。現実に即した形で戦場を表現するのにひとまず成功したわけですから。

https://www.vice.com/jp/article/zmaby5/les-filles-du-soleilより引用




感想

捕虜となった女性たち。
"女性という表現が真実ではない"という言葉が包含する重み。

この映画は決して強い女性を描いたものではない。
バハールを中心に何故戦わざるをえない状況に陥ったか、を過去と現在で壮絶に描いている。


人としての尊厳を奪われ、それでも生き抜くために、家族のために戦うことを選択せざるを得なかった女性戦闘員の意志。
真実を伝え続けるべく、観客に代わって戦場の最前線に立ち、数々の悲劇を見てきた女性ジャーナリストの意志。

「バハールの涙」は普遍的なもので、悲劇に抗い戦い続ける母への讃歌、歴史を作る全ての女性に対する賛美、そして我々観客に真実を届ける映画です。



また、淡々とした時間の流れが、緊迫した状況と過酷な環境を克明に表し、息づかいや鼓動にも似た音が不安を煽る演出。

この映画を観ていて、戦場で自分の弱さを感じるのは何故か?ということを理解することが重要であるようにも映る。
何故ならば、弱さを知ることで強くなれる、強くなろうとすることが出来るからだ。

それを表現されたのが、立場は違えど似たような境遇にあった女性ジャーナリストのマチルダと女性戦闘部隊リーダーのバハール。

強さと弱さの両方を表現することがこの映画で最も重要な点だったと思う。



人が信じたいのは夢や希望。悲劇から必死に目を背けたがる。

人は他人に無関心だからこそ、真実を語り訴え続ける必要がある。


人は楽しい夢や未来への希望は何度でも観たいと思うが、真実はワンクリックで消される。

たとえ関心がないわけではなくとも、安全な国日本で暮らす我々は、このような悲惨な出来事でさえもニュースで流れる映像くらいしか受け取らない。

だからこそ、こういう映画を観るべきではないのだろうか。
もし、この映画の内包する何かしらのメッセージが伝わったとしたら、それは自由を手にするために悲劇に抗う女性たちが何かを残せたということになるのではないか?

感情移入出来なくてもいい。
共感出来なくてもいい。
お金を払い劇場で観ることに、このような悲劇に目を向けることに意味があると思う。



バハールの流した涙が彼女の抱えた背景を見せる。
是非、劇場で"バハールの涙"の意味を感じてもらいたい。



終わりに

と、ここまで感じたままにダラダラと書き綴ったわけですが、言葉で語るよりも実際に観て感じてほしいというのが本音です。

正直、簡単に纏めたら母への讃歌と女性賛美の映画なんですが、込められた想いに鑑賞後は何も言えない状態でした。
どんな言葉ですら安っぽくなってしまうんじゃないかって。

全てが劇中で語られています。
何度も言いますが、劇場で観て、感じてほしい映画です。
是非、劇場で!




(C)2018 - Maneki Films - Wild Bunch - Arches Films - Gapbusters - 20 Steps Productions - RTBF (Television belge)

2018年劇場鑑賞邦画ベスト10


目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
恐らく、今年最後のブログ更新となりますので、まずは挨拶から。

年の瀬も押し詰まってまいりましたね、皆さんいかがお過ごしでしょうか?
皆様方のお力添えにより今年もブログを続けられましたことを厚く御礼を申し上げます。

来年もマイペースではありますが、更新していきますのでよろしくお願い申し上げます。


では昨年に続き、今年劇場鑑賞した作品の中から邦画に絞ったベスト10をサクッと紹介していきます。



次点5作

まずは残念ながらベスト10に入らなかったけど、これも外せないと思う作品を5作品、ご紹介させていただきます。


教誨師

(C)「教誨師」members

感想


ギャングース

(C)2018「ギャングース」FILM PARTNERS (C)肥谷圭介鈴木大介講談社

感想


四月の永い夢

(C)WIT STUDIO / Tokyo New Cinema

感想


恋は雨上がりのように

(C)2018映画「恋は雨上がりのように」製作委員会 (C)2014 眉月じゅん小学館

感想


愛しのアイリーン

(C)2018「愛しのアイリーン」フィルムパートナーズ(VAP/スターサンズ/朝日新聞社

感想


番外編


ここで、ベスト10に入る前に今年一番笑った映画をご紹介しておきます。
とはいえ残念ながら邦画15位にはランクインせず…(笑)

番外編「娼年

(C)石田衣良集英社 2017映画「娼年」製作委員会

感想




10位〜4位

では本題に入っていきます。
まずは10位から4位まで一気に。

10位「日日是好日

(C)2018「日日是好日」製作委員会

解説

エッセイスト森下典子が約25年にわたり通った茶道教室での日々をつづり人気を集めたエッセイ「日日是好日 『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」を、黒木華主演、樹木希林多部未華子の共演で映画化。「本当にやりたいこと」を見つけられず大学生活を送っていた20歳の典子は、タダモノではないと噂の「武田のおばさん」が茶道教室の先生であることを聞かされる。母からお茶を習うことを勧められた典子は気のない返事をしていたが、お茶を習うことに乗り気になったいとこの美智子に誘われるがまま、流されるように茶道教室に通い出す。見たことも聞いたこともない「決まりごと」だらけのお茶の世界に触れた典子は、それから20数年にわたり武田先生の下に通うこととなり、就職、失恋、大切な人の死などを経験し、お茶や人生における大事なことに気がついていく。主人公の典子役を黒木、いとこの美智子役を多部がそれぞれ演じ、本作公開前の2018年9月に他界した樹木が武田先生役を演じた。監督は「さよなら渓谷」「まほろ駅前多田便利軒」などの大森立嗣。
日日是好日 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想



9位「人魚の眠る家

(C)2018「人魚の眠る家」 製作委員会

解説

人気作家・東野圭吾の同名ベストセラーを映画化し、篠原涼子西島秀俊が夫婦役で映画初共演を果たしたヒューマンミステリー。「明日の記憶」の堤幸彦監督がメガホンをとり、愛する娘の悲劇に直面し、究極の選択を迫られた両親の苦悩を描き出す。2人の子どもを持つ播磨薫子と夫・和昌は現在別居中で、娘の小学校受験が終わったら離婚することになっていた。そんなある日、娘の瑞穂がプールで溺れ、意識不明の状態に陥ってしまう。回復の見込みがないと診断され、深く眠り続ける娘を前に、薫子と和昌はある決断を下すが、そのことが次第に運命の歯車を狂わせていく。
人魚の眠る家 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想



8位「栞」

(C)映画「栞」製作委員会

解説

大分県を舞台に、理学療法士の青年が様々な境遇の患者たちや周囲の人々と向き合いながら成長していく姿を描いた人間ドラマ。理学療法士として献身的に患者のサポートに取り組んでいる真面目な青年・高野雅哉。ある日、彼が働く病院に、疎遠になっていた父・稔が入院してくる。徐々に弱っていく父の姿を目の当たりにする一方で、担当している患者の病状が悪化するなど、理学療法士として出来ることに限界を感じ無力感に苛まれる雅哉。そんな折、ラグビーの試合中に怪我をした患者を新たに担当することになった雅哉は、その患者の懸命な姿に心を動かされ、仕事への情熱を取り戻していく。主人公・雅哉役に三浦貴大。自身も理学療法士の経歴を持つ榊原有佑監督がオリジナルストーリーで描く。
栞 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想



7位「オー・ルーシー!

(C)Oh Lucy,LLC

解説

第67回カンヌ国際映画祭シネフォンダシオン部門(学生部門)で上映された平柳敦子監督による桃井かおり主演の同名短編映画を、寺島しのぶを主演に迎え、平柳監督自身が長編作品として再映画化。近い将来やってくる「退職」と、いずれ訪れる「死」をただ待つだけの毎日を送る43歳の独身OL節子。ひょんなことから通うことになった英会話教室の授業で節子は、教室内では金髪のカツラをかぶり「ルーシー」というキャラになりきることを強いられた。アメリカ人講師ジョンによるこの風変わりな授業によって節子の眠っていた感情が解き放たれ、節子はジョンに恋をする。そんな幸せな時間も長くは続かず、ジョンは節子の姪の美花ともに日本を去ってしまう。主人公の節子を寺島が演じ、南果歩忽那汐里役所広司らが出演するほか、「パール・ハーバー」「ブラックホーク・ダウン」のジョシュ・ハートネットが参加。
オー・ルーシー! : 作品情報 - 映画.comより引用

感想



6位「孤狼の血

(C)2018「孤狼の血」製作委員会

解説

広島の架空都市・呉原を舞台に描き、「警察小説×『仁義なき戦い』」と評された柚月裕子の同名小説を役所広司松坂桃李江口洋介らの出演で映画化。「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」の白石和彌監督がメガホンをとった。昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島・呉原で地場の暴力団・尾谷組と新たに進出してきた広島の巨大組織・五十子会系の加古村組の抗争がくすぶり始める中、加古村組関連の金融会社社員が失踪する。所轄署に配属となった新人刑事・日岡秀一は、暴力団との癒着を噂されるベテラン刑事・大上章吾とともに事件の捜査にあたるが、この失踪事件を契機に尾谷組と加古村組の抗争が激化していく。ベテランのマル暴刑事・大上役を役所、日岡刑事役を松坂、尾谷組の若頭役を江口が演じるほか、真木よう子中村獅童ピエール瀧竹野内豊石橋蓮司ら豪華キャスト陣が脇を固める。
孤狼の血 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想


5位「8年越しの花嫁 奇跡の実話」

(C)2017映画「8年越しの花嫁」製作委員会

解説

YouTube動画をきっかけに話題となり、「8年越しの花嫁 キミの目が覚めたなら」のタイトルで書籍化もされた実話を、佐藤健&土屋太鳳の主演で映画化。結婚を約束し幸せの絶頂にいた20代のカップル・尚志と麻衣。しかし結婚式の3カ月前、麻衣が原因不明の病に倒れ昏睡状態に陥ってしまう。尚志はそれから毎朝、出勤前に病院に通って麻衣の回復を祈り続ける。数年後、麻衣は少しずつ意識を取り戻すが、記憶障害により尚志に関する記憶を失っていた。2人の思い出の場所に連れて行っても麻衣は尚志を思い出せず、尚志は自分の存在が麻衣の負担になっているのではと考え別れを決意するが……。「64 ロクヨン」の瀬々敬久監督がメガホンをとり、「いま、会いにゆきます」の岡田惠和が脚本を担当。
8年越しの花嫁 奇跡の実話 : 作品情報 - 映画.comより引用

感想


4位「ちはやふる 結び」

(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀講談社

解説

末次由紀の大ヒットコミックを広瀬すず主演で実写映画化した「ちはやふる 上の句」「ちはやふる 下の句」の続編。瑞沢高校競技かるた部の1年生・綾瀬千早がクイーン・若宮詩暢と壮絶な戦いを繰り広げた全国大会から2年が経った。3年生になった千早たちは個性派揃いの新入生たちに振り回されながらも、高校生活最後の全国大会に向けて動き出す。一方、藤岡東高校に通う新は全国大会で千早たちと戦うため、かるた部創設に奔走していた。そんな中、瑞沢かるた部で思いがけないトラブルが起こる。広瀬すず野村周平新田真剣佑ら前作のキャストやスタッフが再結集するほか、新たなキャストとして、瑞沢かるた部の新入生・花野菫役をNHK連続テレビ小説あまちゃん」の優希美青、筑波秋博役を「ミックス。」の佐野勇人、映画オリジナルキャラクターとなる千早のライバル・我妻伊織役を「3月のライオン」の清原果耶、史上最強の名人・周防久志役を「斉木楠雄のΨ難」の賀来賢人がそれぞれ演じる。
ちはやふる 結び : 作品情報 - 映画.comより引用

感想




ベスト3

ここからは邦画ベスト3です。


3位「勝手にふるえてろ

(C)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会

解説

芥川賞作家・綿矢りさによる同名小説の映画化で、恋愛経験のない主人公のOLが2つの恋に悩み暴走する様を、松岡茉優の映画初主演で描くコメディ。OLのヨシカは同期の「ニ」からの突然の告白に「人生で初めて告られた!」とテンションがあがるが、「ニ」との関係にいまいち乗り切れず、中学時代から同級生の「イチ」への思いもいまだに引きずり続けていた。一方的な脳内の片思いとリアルな恋愛の同時進行に、恋愛ド素人のヨシカは「私には彼氏が2人いる」と彼女なりに頭を悩ませていた。そんな中で「一目でいいから、今のイチに会って前のめりに死んでいこう」という奇妙な動機から、ありえない嘘をついて同窓会を計画。やがてヨシカとイチの再会の日が訪れるが……。監督は「でーれーガールズ」の大九明子。2017年・第30回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され、観客賞を受賞した。
勝手にふるえてろ : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編

感想



2位「斬、」

(C)SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

解説

「野火」「六月の蛇」の塚本晋也監督が、池松壮亮蒼井優を迎えて描いた自身初の時代劇。250年にわたって続いてきた平和が、開国か否かで大きく揺れ動いた江戸時代末期。江戸近郊の農村を舞台に、時代の波に翻弄される浪人の男と周囲の人々の姿を通し、生と死の問題に迫る。文武両道で才気あふれる主人公の浪人を池松、隣人である農家の娘を蒼井が演じ、「野火」の中村達也、オーディションで抜擢された新人・前田隆成らが共演。「沈黙 サイレンス」など俳優としても活躍する塚本監督自身も出演する。2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。
斬、 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編

感想



1位「犬猿

(C)2018「犬猿」製作委員会

解説

「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔が4年ぶりにオリジナル脚本でメガホンをとり、見た目も性格も正反対な兄弟と姉妹を主人公に描いた人間ドラマ。印刷会社の営業マンとして働く真面目な青年・金山和成は、乱暴でトラブルばかり起こす兄・卓司の存在を恐れていた。そんな和成に思いを寄せる幾野由利亜は、容姿は悪いが仕事ができ、家業の印刷工場をテキパキと切り盛りしている。一方、由利亜の妹・真子は美人だけど要領が悪く、印刷工場を手伝いながら芸能活動に励んでいる。そんな相性の悪い2組の兄弟姉妹が、それまで互いに対して抱えてきた複雑な感情をついに爆発させ……。和成役を「東京喰種 トーキョーグール」の窪田正孝、卓司役を「百円の恋」の新井浩文、由利亜役をお笑いコンビ「ニッチェ」の江上敬子、真子役を「闇金ウシジマくん Part3」の筧美和子がそれぞれ演じる。
犬猿 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編

感想



終わりに

もし、ご覧になられていない作品が御座いましたら是非。

ちなみに、今年の劇場鑑賞ベスト10はこちらになります。


いくつか劇場鑑賞を逃して悔しい思いをした作品はあれど、特に観る予定もなくフラッとその時に観た映画が素晴らしかった、なんてこともありまして…やはり先入観や固定概念は捨てて先ずは観てみることが重要なのかなと思う一年でした。


来年も自分にとって素晴らしいと思える作品に出会えることを。
そして、皆さんにとっての傑作を見つけられることを願っています。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。
改めまして、今年最後のご挨拶として。

時節柄、何かとご多忙のことと存じますが、皆様くれぐれもご自愛ください。
良いお年を!

受け継がれる悪夢(「ヘレディタリー/継承」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
久しぶりの更新となってしまい、すみません。


今回はホラー好きの間でも好評な「ヘレディタリー/継承」について少し語っています。

最近ご無沙汰でしたが、当管理人はホラー映画が大好物です。
もうこれは無理してでも観たい!という勢いだけで観た映画ですが、大満足。
TOHOの1ヶ月フリーパスを使ってタダで観ちゃったもんだからお得感がハンパないです(笑)

というわけで、久しぶりにブログに書きたいと思える映画となり、鑑賞後の興奮覚めやらぬままに書き殴った次第です。


この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。
鑑賞後にお読みいただけたら嬉しいです。



作品概要


原題:Hereditary
製作年:2018年
製作国:アメリカ
配給:ファントム・フィルム
上映時間:127分
映倫区分:PG12


・解説

家長である祖母の死をきっかけに、さまざまな恐怖に見舞われる一家を描いたホラー。祖母エレンが亡くなったグラハム家。過去のある出来事により、母に対して愛憎交じりの感情を持ってた娘のアニーも、夫、2人の子どもたちとともに淡々と葬儀を執り行った。祖母が亡くなった喪失感を乗り越えようとするグラハム家に奇妙な出来事が頻発。最悪な事態に陥った一家は修復不能なまでに崩壊してしまうが、亡くなったエレンの遺品が収められた箱に「私を憎まないで」と書かれたメモが挟まれていた。「シックス・センス」「リトル・ミス・サンシャイン」のトニ・コレットがアニー役を演じるほか、夫役をガブリエル・バーン、息子役をアレックス・ウルフ、娘役をミリー・シャピロが演じる。監督、脚本は本作で長編監督デビューを果たしたアリ・アスター。
ヘレディタリー 継承 : 作品情報 - 映画.comより引用


・予告編




悪夢の元凶

まずはTwitterに上げた感想から。




まず、ラストに明かされた元凶、悪魔ペイモンについて語らなければなりません。


『ゴエティア』に記載されているパイモンのシジル

パイモンまたはペイモン(Paymon, Paimon)は、ヨーロッパの伝承あるいは悪魔学に登場する悪魔の1体。悪魔や精霊に関して記述した文献や、魔術に関して記したグリモワールと呼ばれる書物などにその名が見られる。

現れる際には、王冠を被り女性の顔をした男性の姿を取り、ひとこぶ駱駝に駕しているとされる。
召喚者に地位を与え、人々を召喚者の意思に従わせる力も持つ。

パイモン - Wikipediaより引用



グラハム家はこの悪魔によって絶望の悪夢を体験することになります。

祖母エレンのペンダントにもこのペイモンのシジルがデザインされていたことから察することができます。



冒頭で妹のチャーリーが鳩の首を切断し、絵を描いていたシーンを思い出してください。
その絵には鳩の生首に王冠が描かれています。
この時点で既に悪魔ペイモンの影響を受けていることが分かります。

その他の不可解な行動も。


チャーリーはケーキを食べて呼吸困難に陥り、病院へと運ばれる途中で電柱に頭部をぶつけて死亡しました。
恐らくチョコレートケーキにナッツが入っていた為にアナフィラキシーショックを起こしたと考えられます。


ここから少し余談に入ります。
クリスマスツリーはキリスト教以前の異教時代で魔除けとして常緑樹を家の内外に飾ったという習慣が起源です。
クリスマスツリーの装飾にもそれぞれ意味があり、例えばリンゴはアダムとイヴを想起させ、楽園の木を。
ナッツは神の計り知れぬ御心を表します。

また、リンゴやナッツは古代ケルト人にとってとても重要な果実です。
寒くて長い冬を乗り越えるにはナッツやドングリは保存食として最適なものであり、中でもヘーゼルナッツは神聖なものとして崇められていました。
言語学的にリンゴを意味するポーモーナという果実と果樹を司る女神と古代ケルト人にとって大事な果実を結びついていったという話もあります。

ナッツには魔除けの力があり、ただのアレルギーだとは思いますが、ペイモンが避けていたということも考えられるのではないでしょうか。



またアニーの話から、祖母エレンから息子であるピーターを遠ざけたとあります。
その理由はアニーの兄チャールズ。
彼は16歳で自殺しており、彼の遺書には「母が自分の中に何かを入れようとした」とされています。
この時にはペイモンはエレンを使ってチャールズを我が肉体として使おうとしていたことが分かります。

ピーターの代わりにチャーリーがエレンに関わることで、そしてエレンが亡くなったことでペイモンの魔の手がチャーリーへと継承されたことになります。

チャーリーはエレンが「男の子なら良かった」と語っていたことも話します。
チャーリーとは本来、男の子に付ける名前であり、このことからもエレンがペイモンの召喚に強い拘りがあったことを窺い知ることができます。


つまり、エレンの死後、チャーリーへ。
チャーリーの死後、アニーへ。
最終的にアニーを使って、ピーターをペイモンの宿主としてラストシークエンスへ。
という流れだと考えられますね。



ペイモンは"女性の顔をした男性の姿"
肉体はピーター、顔は家族のうちの女性の誰かでないといけないんですね。
従って、祖母、母、妹と一族の女性全員が首を落として亡くなる必要があったのです。


"召喚者に地位を与え、人々を召喚者の意思に従わせる力も持つ。"
とあるように、召喚とは例の降霊術、従わせる力とはラストシーンで神を崇めるように取り囲む人々を指します。
ジョーンが「降霊術は家族一緒に」と注意喚起したことも、ピーターを降霊術に参加させてピーターを召喚者とさせる為だと考えられます。



と、Twitterの感想でも書いたように
ラストを知ってしまえばラストにつながるプロットは至極単純なんです。

そこに家族の在り方や状況、精神状態などを重ねることで単純ではない恐怖が演出されてるんですよ。



音と光の演出

悪魔ペイモンとラストシークエンスについては簡単にまとめました。
ここからは細かな演出について着目していきたいと思います。


まず印象的なものが"音"です。
そうです、チャーリーの「コッ」という舌鳴らしです。
非常に不快感の募る不気味な音ですよね。

鑑賞後に家に帰って、突然後ろから、暗い部屋の隅から、「コッ」と聞こえてきたらチビること間違いなしです(笑)


チャーリーは赤子の頃から泣かない子だったそうで、生まれた時にも鳴き声をあげなかったとあります。
仮にそれが意味のある台詞と捉えるなら、チャーリーは生まれながらにペイモンに操作されていた可能性が高い。
チャーリー=ペイモンとした場合、"女性の顔をした男性の姿"が当てはまらないので、あくまでもペイモンに唆されている生贄のようなものだと思って間違いないでしょう。

元々音を発さない子供だったとしたら、舌鳴らしはペイモンに唆されてからの癖ではないかと考えられる。
劇中でも舌鳴らしを初めて行ったのは祖母エレンの葬式だったように思います。



では本来、舌を鳴らすとはどのような状況で行うのでしょうか?

1軽蔑・不満の気持ちを表す動作。「不服そうに―・す」
2賛美する気持ちを表す動作。特に、おいしい物を食べて、満足した気持ちを表す動作。「ごちそうに―・す」
舌を鳴らすとは - コトバンクより引用


相反する二つの意味があります。
つまりはペイモンの感情や心情の現れではないかと。

また、ペイモンの名前の由来はヘブライ語の"POMN"(「チリンチリン」という音)だそうで、ヘブライ語では音節はすべて子音で始まり「コッ」(k)という音も子音です。



次に印象的なのが"光"の演出ですね。

光の演出が可視化されたのは恐らく降霊術後。
皆さんもお分かりだと思いますが、ジョーンに教えて貰った降霊術は地獄の門を開くこと。
チャーリーではなくペイモンの召喚だったというわけですね。

ということはジョーンもまたエレン同様に悪魔崇拝によりペイモンに唆されていたということになります。
アニーが二度目に彼女の家を訪れた際の部屋の中の儀式、学校でピーターに声をかける姿などからも察することが出来ます。



ここで斬新なのが、悪魔であるペイモンを光として見せたことです。
分かりやすい描写はピーターが窓から転落した際に光が体へと取り込まれるシーン。
ここでペイモンがピーターに完全に憑依したことが明確に啓示されています。


一般的なイメージとして、悪魔といえば闇を連想すると思います。
実はですね、ペイモンは悪魔でありながら、天使の一面も併せ持つんですよ。

イギリスで発見されたグリモワール『ゴエティア』によると、パイモンは序列9番の地獄の王である。一部は天使からなり一部は能天使からなる200の軍を率いており、ルシファーに対して他の王よりも忠実とされる。彼自身は主天使の地位にあったという。

イギリスの文筆家・政治家レジナルド・スコットが記した『妖術の開示(原題:The Discoverie of Witchcraft)』1655年版では、パイモン、バティン、バルマを呼び出し、その恩恵を受ける方法が書かれている。この書によれば、パイモンは空の軍勢に属し、座天使の位階の16位にあるという。Corban およびマルバスの配下にあるという。

パイモン - Wikipediaより引用

主天使とは神学に基づく天使のヒエラルキーにおいて、第四位に数えられる天使の総称。
座天使とは神学に基づく天使のヒエラルキーにおいて、第三位に数えられる上級天使の総称。


また、ペイモンを智天使とされる文献もあります。

『悪魔の偽王国』(あくまのぎおうこく、あくまのにせおうこく、Pseudomonarchia Daemonum)はヨハン・ヴァイヤーの主著『悪魔による眩惑について』(De praestigiis daemonum)の1577年の第五版に付された補遺である。原題は「デーモン(悪霊)の偽君主国」の意であり、地獄の悪霊たちを神聖ローマ帝国の封建体制を思わせる位階秩序をもつものとして記述している。
悪魔の偽王国 - Wikipediaより引用



このようにペイモンは悪魔でありながら、一部天使であるという光と闇の二面性があるんですよね。
"闇"とは対称的なもの"光"を悪魔として演出したアリ・アスター監督のこのセンスが素晴らしい。


そう、この映画の最大の魅力がこの演出力にあると思います。
ストーリー自体はそこまで目新しいものでもなく、ラストも衝撃と言えば衝撃で後味の悪さもあるのですが、ホラー映画を見慣れた方ならばそこまで驚きはないと思います。

それよりもホラー映画としての散りばめられた伏線と回収、恐怖心の煽り方、家族の精神面の描き方、これらの演出力が他のホラー映画作品と比べても一線を画していると感じました。



もう一度言います。

アリ・アスター監督のセンスが素晴らしい。

これが長編初監督作品というから驚きだ。



タイトルの意味

さて、ここで改めて考えてみましょう。
タイトル「ヘレディタリー/継承」とはどういうことなのか。

原題『Hereditary』
直訳すると「遺伝的な」「代々の」「親譲りの」となります。

このタイトルとラストに向けたプロットからも、祖母であるエレンの悪魔崇拝によるペイモンの継承。



もうひとつが、遺伝的な脳の病気ではないか?です。

父は重度の鬱病で餓死。
兄は統合失調症で自殺。
エレンは解離性同一性障害。
そしてアニー自身も夢遊病。


ここでもう一つの解釈として
劇中のオカルト的な現象は遺伝的な脳の病気が引き起こした精神の崩壊が見せた幻覚ではないか説です。


アニーの仕事でもあるミニチュアの製作。
冒頭でそのミニチュアの家にカメラが寄っていって物語が始まりました。

そう、我々が観ていた劇中でのオカルト体験は全てアニーがミニチュアの家の中で想像した架空の出来事ではないだろうか。


祖母の死、娘の死、夫の死、これらは全て現実に起こったこと。
チャーリーの死をきっかけに、アニーの精神が壊れてエレンの幽霊を見るなどの幻覚に囚われる。


ピーターは妹を過失事故とはいえ殺してしまい、そのショックや責任感、罪悪感から幻覚を。
夫スティーブもそんなアニーやピーターに囲まれて精神的ストレスに。
精神安定剤を飲んでる描写からも精神的に病んでいたことは明らかです。



主軸はエレンが始めた悪魔崇拝が家族崩壊へ繋がるというものであり、その脚色されたオカルト的な演出は精神異常からくる幻覚。
そして、家族にトラウマを持つアニーが悪魔崇拝を通して擬似家族による集団を形成することである種の救済措置として機能している
というのも考えられるのではないだろうか。



終わりに

ということで、端的にめちゃくちゃ好みでした。
「シャイニング」や「ローズマリーの赤ちゃん」などが挙げられていますが、過去の傑作と言われるホラー映画を踏襲しつつ、しっかりと監督の作品として作り上げられた秀作。



そして、アニー役のトニ・コレットの顔芸は一見の価値ありです(笑)



久しぶりに考察をしたので鑑賞後の補足なものになりましたが、楽しかったです。
いつもながら乱文ですみません。

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2018 Hereditary Film Productions, LLC

「生きるとは何か」を深く問いかける(「教誨師」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今日は大杉漣さんプロデュースの「教誨師」を観てきました。

今作は上映時間の大半が拘置所の密室、主に会話劇である為、少し考察を交えつつ、感じたまま、受け取ったままを吐き出していこうと思っております。

どうしても核心に迫る部分についての言及が多くなるためネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
上映時間:114分
映倫区分:G


・解説

2018年2月に急逝した俳優・大杉漣の最後の主演作にして初プロデュース作で、6人の死刑囚と対話する教誨師の男を主人公に描いた人間ドラマ。受刑者の道徳心の育成や心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く教誨師。死刑囚専門の教誨師である牧師・佐伯は、独房で孤独に過ごす死刑囚にとって良き理解者であり、格好の話し相手だ。佐伯は彼らに寄り添いながらも、自分の言葉が本当に届いているのか、そして死刑囚が心安らかに死ねるよう導くのは正しいことなのか苦悩していた。そんな葛藤を通し、佐伯もまた自らの忘れたい過去と向き合うことになる。死刑囚役に光石研烏丸せつこ古舘寛治。「ランニング・オン・エンプティ」の佐向大が監督・脚本を手がけた。
教誨師 : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編




教誨師と死刑囚

先ず、主人公である教誨師と死刑囚についてお話しておかなければなりません。


教誨(きょうかい)とは、第1義には、教えさとすことをいう。同義語として教戒(きょうかい)があるが、こちらは、教え戒めることをいう。両者の違いは「誨(意:知らない者を教えさとす)」と「戒(意:いましめ。さとし)」の違いである。また、これらから転じて第2義には、受刑者に対し、徳性(道徳をわきまえた正しい品性。道徳心。道義心)の育成を目的として教育することをいう。

受刑者に対して教誨・教戒を行う者は、教誨師教戒師(きょうかいし)という。

教誨 - Wikipediaより引用


死刑囚(しけいしゅう)は、死刑の判決が確定した囚人に対する呼称である。死刑が執行されるまでその身柄は刑事施設に拘束される。また死刑は自らの生命と引換に罪を償う生命刑とされることから、執行されるとその称は「元死刑囚」となる[1]。刑事施設法などの日本の法令では死刑確定者と呼ばれる。

21世紀初頭現在、国連総会で採択された自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)の影響もあり、死刑廃止国も多いため死刑囚が現在も存在する国は限られてきている。

死刑囚 - Wikipediaより引用



作中にも語られた通り、EU加盟国は死刑廃止国が条件であり、欧州諸国はベラルーシを除き死刑は廃止されています。

本国における死刑囚に対する刑の執行は法務大臣の命令によらなければならないとされ、法律上は特別な理由のない限り、死刑判決が確定してから6か月以内に死刑が執行されなければならない。

また、作中冒頭でも記載された通り
死刑判決を受けた者(死刑囚)の執行に至るまでの身柄拘束は刑の執行ではないとして、通常刑務所ではなく拘置所に置かれる。



今作は死刑囚と対話する日本の教誨師を主人公としたドラマ映画であり、大杉漣さんが教誨師を演じています。
6人の死刑囚がバラバラに登場し、教誨師である佐伯(大杉漣)が対話をしつつ、各々の死刑囚に合わせて罪の意識に問いかける。
形式上はそうなのだが、単なる死刑囚の救済、そんな綺麗事で終わる話ではないのだ。
教誨師としての葛藤や苦悩。
死刑囚の生きる意味や訴えたいこと。
このふたつに接点を持たせること、人と人が交わる難しさを描く。


なんと言っても序盤から終盤にかけての6人の死刑囚たちの演技、人物描写が素晴らしい。
ひとりひとりに与えられた教誨の時間は短く、出演時間も断片的だ。
それでも一回目の登場から各死刑囚がどのような人物なのかを大まかに把握することが出来る。

勿論、大杉漣さんも主人公ながら聞き役として徹し、素晴らしい演技です。


また、拘置所の静謐に満ちた独特な雰囲気も肌で感じることが出来る。
無音に響き渡る足音、扉の開閉の音、椅子の軋む音、対話、雨音に至るまで、無駄なBGMを排除したからこそ味わえる臨場感。

死刑囚相手という張り詰めた空気感、会話からのみ与えられる情報の少なさに、各死刑囚たちがどのような経緯で殺人を犯し、死刑囚として収監されたのか?
そして死刑執行は6人の中の誰なのか?(予想はつきますが)
その推理サスペンスとしての側面、面白さもある。

そんな観客の推理と並行するように教誨師の佐伯が彼らと対話したことで相手がどのような人間なのかが明らかとなっていく。



登場人物の整理

本題に入る前に6人の死刑囚と教誨師佐伯がどのような人物なのかを当管理人の目線で簡単に紹介したいと思います。

これを踏まえた上で次の考察に入ります。




ストーカー規制法により相手と家族を殺めた鈴木死刑囚
彼はずっと押し黙ったままだったが、佐伯の語りに少しずつ心を開いていく。
鈴木自身、ストーカーだとは気付かず妄想を描いて心の安寧を手にする。




酒好きのヤクザ組長、吉田死刑囚
佐伯と最も親しく映る一方で、佐伯以外には態度が変わる。
悪びれることもなく、他に犯した罪を佐伯に伝える。
刑の執行について人一倍に敏感だった所も印象的だ。




よく喋る関西のオバチャン、野口死刑囚
マシンガントークは観ているこちらも思わず笑ってしまうほどで一見明るい。
しかし、リストカットの跡があったり、虚言癖があったり、自分の話を邪魔されるとキレだす。
精神的に不安定であり、自身の罪の意識よりも周りが周りがと他人のせいにする傾向が見られる。




家族のことを思う気弱で心優しい小川死刑囚
死刑囚たちの中で唯一、犯行についての詳細が明かされた人物。
その経緯には哀れみの感情すら覚えてしまう。
裁判のやり直しを助言する佐伯に対して、諦めを見せる姿に胸が痛くなりました。




ホームレスの進藤死刑囚
字が読み書き出来ず、連帯保証人になっても他人を心配するお人好しのおじいちゃん。
死刑囚の中で最も明確に佐伯に救済された人物でもあると思う。
キリスト教に入りたいと願い、佐伯に字を教えてもらう。




博識で人を見下す高宮死刑囚
この作品で最重要人物である彼は他の死刑囚とは違う。
彼は常に社会をより良いものにしたいという理想を持っています。
一方で話すことは正論ではあるが、屁理屈でもあり、表情や態度に至るまで全てが不快。
佐伯も怖いと表現したように、理性的であるが故の人間らしさが見えない人物。




佐伯
教誨師としての彼は聞き役であり、死刑囚との対話、救済が求められるが、彼自身もその教誨師という立場に苦悩する。
それは過去の出来事があるからだ。
兄が人を殺めていること、その原因が自分にあること。
迷いが決心に変わる瞬間、意外な素顔など牧師ではない彼の姿との対比が実に人間味溢れる。



このように、会話劇にも関わらず、全てが全て説明的にならずに断片的な部分のみを見せることによってその人物の人となりを想像で保管するようになっています。
例えば、こんな酷いことをしたんだから死刑になっても当たり前じゃないか。なんて先入観や固定概念を抜きに、二人の対話から読み取る情報で自分自身が判断する仕様になっている事が素晴らしいんですよ。



さて、ここでこの作品の核心に迫る部分について言及していこうと思います。

・この作品のメッセージとは?
・ラストに残されたメッセージの意味とは?

この2点に絞って考えていきます。



無知の知

・この作品のメッセージとは?

刑の執行対象者は高宮でした。
これは概ね予想のつくものではありましたが、そこに至るまでの過程がこの作品のメッセージそのものなんですよね。



作中の二人の対話について着目します。

佐伯「どんな命でも生きる権利がある、奪われていい命など無い」
高宮「牛や豚は良いのにイルカは殺してはダメな理由は?」
佐伯「イルカは知能が高いから…」
(中略)
高宮「どんな人間でも殺してはいけないと言うのに死刑があるのは?」

この言葉に反論出来ず沈黙してしまう佐伯。
この時の表情はとても印象的だと思います。

このシーンこそがこの作品の核心部分であり
今作は"生と死"、そして"罪とは何か?"がテーマなのは明白で、死刑囚は生きる意味があるのか?という難しい問題を教誨師を通して観客が考えるものとなっています。



教科書通りの牧師の言葉では高宮の心を動かすことは出来ない。
高宮から返ってきた言葉が佐伯の考え方を変えることとなる。

上記にも佐伯は高宮のことを「あなたを知らないことが恐ろしい」と表現しています。
「生きることと死ぬこと」
これも同じで、知らないことは怖いのだと説く。


その根底にあるのは哲学でしばし用いられる
"無知の知"である。

「無知であることを知っていること」が重要であるということ。
要するに「自分が如何にわかっていないかを自覚せよ」ということです。

これは自分自身だけでなく、相手に対してもそう。
無知を自覚することで新しい何かが見えてくる。

佐伯自身も死刑囚たちと対話することで少しずつ人となりを知っていくこととなる。
しかし、「知る」とは「理解すること」ではない。
「空いた穴を一緒に見つめる」と表現されたように、相手が犯した罪、心情の変化に寄り添うことなのです。


その結果、「どうして空いたのか?誰が空けた穴なのか?」などはどうでも良くて「空いた穴を一緒に見つめる」こと、つまり寄り添うことを選んだ佐伯は教誨師としては失格、今までの形を崩した対応を見せ、高宮を変えることとなったわけです。

この対応が「ああ、高宮が死刑の執行対象者なんだな」と気付かされる部分ではあるのですが。


死刑囚との対話を通して、佐伯は「何もできない」という教誨師としての絶望感を抱いたのだと思います。
それでも「自分にできることは何か?」を見つめ直し、彼らに寄り添うことしかないという答えを出したのではないか?

これまで冷静で上から目線だった高宮が執行直前に弱々しく怯えていた姿はしっかりと脳裏に刻まれている。
執行時、黒いマスクを被せられた時に漏らした言葉
「あれ?」
この時、彼は一体何を思ったのだろうか?



キリストの言葉

・ラストに残されたメッセージの意味は?

佐伯に字を教えられ、脳梗塞か何かの病で倒れた進藤が佐伯に洗礼を受けた後に涙ながらに渡したグラビアアイドルの写真。
ここに書かれていたメッセージは

あなたがたのうち、
だれがわたしに
つみがあると
せめうるのか

これはヨハネ福音書8章46節。
(参考:John / ヨハネによる福音書-8 : 聖書日本語 - 新約聖書)

聖書では、キリストが神の子であることを疑い悪霊に取り憑かれているんだと言う人々に投げかけた言葉です。

この言葉の続きはこうだ。
「わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。
神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである。」

進藤が覚えた平仮名で佐伯に何を伝えたかったのだろうか?
進藤は唯一、明白に救済された死刑囚であり、可能性として罪なき罪の贖い、冤罪だったということも有り得るのではないだろうか?



終わりに

言葉というものは他人に物事を伝えるコミュニケーションにおいて最適な手段で、とても大きな力を持っている。
しかし、この作品のように時にはそのコミュニケーション機能が全く果たせないこと、すれ違うことで蟠りができることだってあります。

教誨師と死刑囚の対話を通して表現された言葉の難しさを受けて、色々自分なりに考えてほしい。


また、大杉漣さんを劇場で拝めてよかったです。
惜しい人を亡くしたと改めて痛感しました。
是非、劇場に足を運んでもらいたい作品です。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)「教誨師」members

現実と虚構の水面下で見えるもの(「アンダー・ザ・シルバーレイク」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今日は楽しみにしていた『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観てきました。

一度鑑賞した後で纏まらないようならもう一度観ようと思ってましたが、一先ず無理矢理にでも纏めてみました。

とは言っても、これだ!という答えが出せた訳ではなく、それこそこの映画に含まれるテーマのひとつでもあるかと思います。
相も変わらず、こじつけて考察していますので、あくまでも個人の解釈であるということを念頭にお読みいただけると幸いです。


この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Under the Silver Lake
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:ギャガ
上映時間:140分
映倫区分:R15+



・解説

「イット・フォローズ」で世界的に注目を集めたデビッド・ロバート・ミッチェル監督が、「ハクソー・リッジ」「沈黙 サイレンス」のアンドリュー・ガーフィールド主演で描いたサスペンススリラー。セレブやアーティストたちが暮らすロサンゼルスの街シルバーレイク。ゲームや都市伝説を愛するオタク青年サムは、隣に住む美女サラに恋をするが、彼女は突然失踪してしまう。サラの行方を捜すうちに、いつしかサムは街の裏側に潜む陰謀に巻き込まれていく。「私たちは誰かに操られているのではないか」という現代人の恐れや好奇心を、幻想的な映像と斬新なアイデアで描き出す。サラ役に「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のライリー・キーオ。
アンダー・ザ・シルバーレイク : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編






本作のテーマ

監督のデビュー作『アメリカン・スリープオーバー』が流れるシーン。
登場する女性が劇中に登場する娼婦として作り替えられているのが印象的である。

「アメリカン・スリープオーバー」2枚組ブルーレイ&DVD [Blu-ray]

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これは表立った舞台に立つ人間の裏の顔を暴くというメッセージのようで、監督自身の作品をネタにする辺りが、この映画にも裏があるんだぞと言わんばかりの挑発的演出にも映る。



劇中で聞こえた懐かしの電子音。
そう、1983年に発売された大人気ゲーム「マリオブラザーズ」のBGMです。

土管に入り、下へと潜っていくマリオはまるでこの先のサムを示唆するようでもある。

下、例えばアンダーグラウンドといったように"下"という言葉には表面下に潜む闇を暫し表す言葉として用いられる。
タイトル、そして劇中にも登場する「シルバーレイクの下」という言葉は物理的な意味ではなく、 我々の住む現実世界の根底を支配している闇、現実と虚構の狭間をテーマに混沌とした深層心理を描いた作品であると思います。


さて、このテーマを基にここで『アンダー・ザ・シルバーレイク』を象徴する都市伝説や陰謀について掘り下げていきましょう。



犬殺し

まずは"犬殺し"から考えていきましょう。

冒頭にも登場したカフェの窓ガラスに書かれた「BEWARE THE DOG KILLER(犬殺しに気をつけろ)」の警告文。
資産家の失踪事件とサムが見た夢、そして彼女の失踪と事件を繋ぐキーワードとなっています。

劇中ではシルバーレイクの都市伝説としても使われる"犬殺し"。
しかし、本来は別の意味があることをご存知でしょうか?



当管理人は三国志が好きなんです。(唐突)


三国志とは魏呉蜀の対立を描いた中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃〜280年頃)の興亡史。
この三国時代の蜀の初代皇帝、劉備は有名ですよね?

彼の先祖に当たる人物、劉邦
項羽と劉邦」でも有名ですが、劉邦は秦の始皇帝の死後、項羽とともに戦い天下を手に入れた漢王朝の初代皇帝です。

その劉邦の沛時代からの配下である樊噲の仕事は"犬殺し(狗屠)"
本作『アンダー・ザ・シルバーレイク』における"犬殺し"とは少し違ったものなんですよね。

この時代、中国で犬は食用でした。
貧しい人々が食料とする為、野良犬として生きてはいけない。
飼い主を失った犬がどんなに惨めか。
その為に産まれた子犬を食料として処理する"狗屠"という職業があったんです。

古代中国では飼い主がいなくなり住む家も失った犬は、すぐ誰かに食べられてしまう運命が待っているという現実。
アンダー・ザ・シルバーレイク』を観ていて劇中のサム自身と重なる部分があるなと考えてました。


また、サラが失踪する前夜にサムが見た夢を思い出してもらいたい。
夜道にサラの飼っていた犬が殺され、彼女の姿をした女性が男性の腸に食らいつく姿。
劇中の"犬殺し"もただ犬だけではなく、人をも、そして食料として屠る者だという明白な描写なんです。


サムが見たサラや女性達が犬のように吠える幻想も、後に出てくるセブンスの娘の台詞「犬を殺せるなら人も殺せる」を連想させるように犬と人の境界線を曖昧にし、"犬殺し"に対するサムの抱いた恐怖心の可視化なのだと思います。
尾行されている(と思い込んでいた)のも恐怖心の表れかと。


劇中の台詞「犬は無条件に愛情をくれる」から考えると"犬"は夢のメタファーとなる。
つまり、"犬殺し"は後に人々をも飲み込んでしまう現実の恐ろしさを指すものと解釈しましたが、作中では畏怖するものの象徴として描かれていますね。



ついでに後半に登場したコヨーテについても記述しておきます。

コヨーテはイヌ科イヌ属に属する哺乳類。


米インディアン(カド族)の昔話コヨーテとお人好しのオポッサム

アメリカインディアンのほとんどの部族が、コヨーテをトリックスターとして崇めている。彼らにとって、大文字で「Coyote」と書くとコヨーテ神の意味を持っている。彼らの伝承で、コヨーテによって人間社会にもたらされたものはタバコ、太陽、死、雷をはじめとして、あらゆるものに及んでいる。
コヨーテ - Wikipediaより引用


劇中でも語られたように、コヨーテは聖なる生き物と称されています。
ここは後ほど少し絡めてお話します。



フクロウのキス

フクロウって、実際にキスするんですね。

ギリシャ神話において、フクロウは女神アテーナーの象徴であるとされる。知恵の女神アテーナーの象徴であることから転じて知恵の象徴とされることも多い。

東洋では、フクロウは成長した雛が母鳥を食べるという言い伝えがあり、転じて「親不孝者」の象徴とされている。
「梟雄」という古くからの言葉も、親殺しを下克上の例えから転じたものに由来する。

フクロウ - Wikipediaより引用


フクロウはかつて、アメリカの先住民に死の象徴として捉えられていたという話もあるみたいです。
アンダー・ザ・シルバーレイク』の都市伝説では街の裏組織にとって都合の悪い者を秘密裏に始末しているというもの。


フクロウは音を立てずに獲物に飛び掛かることから「森の忍者」と称されることがありますが、劇中でも足音を立てずに背後から忍び寄る全裸のフクロウ女が登場しました。

同人作家の自殺の件からも、恐らくはこのフクロウ女は自殺のメタファーであると考えられます。
もしかするとサムもあと一歩で自殺していたのかもしれません。


また、フリーメイソンイルミナティのシンボルもフクロウです。
フクロウがアメリカのドル紙幣に刻まれているというのは劇中にも挙げられています。


イルミナティのシンボル①「フクロウ」より引用。





実際に話として存在する都市伝説を映画という創作物の中で使用する。
こういった演出もまた、この映画のテーマにもある現実と虚構に沿ったものではないでしょうか?




3という数字

次に気になったのが"3"の数字です。
失踪者セブンスは3人の娼婦と焼死したとニュースに流れました。
そのうちの一人がサラだとサムは気付いたわけですが。

サラの持っていた人形も3体。
サラを探してサムが後を追った女性も3人組。
そしてパーティー会場で見たバンド「イエスとドラキュラの花嫁たち」も女性3人。
シューティングスターの娼婦も3人。

特に構図として、人形を除いて全て男性1人に対して女性3人なんですよね。
ある意味、玩具としては男根1に女性3でしたが(笑)



パーティー会場入口付近で女性が「3、3、三位一体」と歌っていたのは覚えてますでしょうか?


1210年頃に描かれた『三位一体の盾』の図式。

三位一体は、キリスト教において「父」と「子(キリスト)」と「聖霊聖神)」が「一体(唯一の神)」であるとする教え。
三位一体 - Wikipediaより引用


カトリック教会では「老人の姿の父、キリスト、火の姿で表される聖霊」の図像も広く用いられている。
正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。

つまり、父はソングライターの老人、子は人気バンドを含むアーティストたち、聖霊は上記にも記載した通り聖なる生き物と称されたコヨーテ。
バンドの曲から暗号を解読し、コヨーテに導かれ、ソングライターと出会う。

そしてポップカルチャーの裏側、闇、アンダーグラウンドな世界も理解するのではなく信じる対象として強調するものと考えられる。
非常に妄信に描き出した宗教的な図式であることがわかる。



敬意と隠喩

アンダー・ザ・シルバーレイク』は言うまでもなく様々な映画作品のオマージュとメタファーが散りばめられていますね。

前から姿を消した美女を追い求める様は『めまい』を。
双眼鏡で覗く様は『裏窓』を彷彿とさせる。


劇中にはヒッチコックの墓も登場し、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督のアルフレッド・ヒッチコックへ対する執着の畏怖とも取れる敬意が感じられる。



サムの白昼夢のような妄想でサラが失踪してから再びプールに姿を表すシーンではサラがマリリン・モンローの遺作『女房は生きていた』と同じポーズをとる。

これは死んだはずの女性が再び目の前に現れるという虚構世界そのもの
サラ自身が持っていた3体の人形のひとつがマリリン・モンローという細かい演出も良い。



メタファーと言えば、サムが大切にしていた雑誌「PLAYBOY」のカバーと後半のシルバーレイク貯水池での演出。

監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルの言葉を借りるなら

いつも水にインスパイアされているんだ。
水辺の光景や音は観客を映画の中に招き込むと思っている。
水は物理的なものでもあるけれど、同時に全てを超越するものでもあるんだ。
アメリカン・スリープオーバー』のパンフレットより引用


今作同様に、彼の過去作『イット・フォローズ』でも血に染まりゆくプールの描写がありましたが


澱みないものが穢れていく様、そして形のないものの変容性、シルバーレイクという水面下から虚構が現実を飲み込んでいく様を描き出している。



サムの母親から送られてきた『第七天国』のVHSにあるジャネット・ゲイナーの「うつむかないで、上を向いて」という台詞。
これは
シルバーレイクの下へと足を踏み入れたサムが形のない答えを探して現実と虚構の狭間で現実を、上を向く展開、構図を端的に表現したものとなっている。


また、"犬殺し"と"フクロウ"の二点から少しずつ見えてくるものがあるんですよ。
それが、サムの見た妄想が現実世界でも見え始めること。

犬殺しでは単なる悪夢だったが、フクロウでは虚構が現実に干渉している。
つまりはサム自身の現実逃避の進行の現れ。
何が現実で何が虚構か分からなくなる、作り上げた妄想が真実を曇らせ、その世界観に引きずり込まれる。
デヴィッド・リンチ監督作『マルホランド・ドライブ』に近いものもあるのだろう。

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ただ、『マルホランド・ドライブ』と違うところは、サムの妄想から物語が始まっていること。
カート・コバーンは絶望して自分の命を絶っているが、サムは命ではなく(恐らくは音楽の)夢を絶ったと考えられる。

そんな彼を妄信させたのが隣人のサラ。
彼女と出会うことで、サムの現実逃避に拍車が掛かる。
「イエスとドラキュラの花嫁たち」の曲「回る歯」のように。

サムが目にしたものを妄想として現実世界で見せたのも、この映画のテーマである現実と虚構の狭間を可視化する為だと分かる。



総評

ポップカルチャーへの熱量と情報量の多さ。
現実と虚構の狭間で我々観客が掻き立てられる探究心は、まるで暗号を探す主人公と重なるように混沌とした深層心理、ネオ・ノワールの世界へと嵌っていく。

作中に散りばめられたオマージュやメタファー、その伏線をしっかりと回収しつつ芸術的に魅せるデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の才能と腕に惚れてしまった。
過去作『イット・フォローズ』は性と死というテーマの元、愛や青春を交えた希望を主軸に描かれていました。
今作『アンダー・ザ・シルバーレイク』ではその希望を見出すまでの絶望、もがき苦しむ現実逃避が主軸のように思います。

きっとあの排泄物を映した意味の無いシーンにも何か理由があるのでしょう。
便器の中が現実世界を表してて、現実はクソだとでも言いたいのだろうか?

この映画は答えを出すものではなく、探すものだと思う。
理解するよりも信じること、考えるより感じるもの。
それでもこの難解さはどうしても考えたくなる。
何が正解で何が間違いかは分からない。
だからこそ、自分の中でその答えを探し続けていく。
そういうものだと思いました。



終わりに

うーん、上手く纏まらなくてすみません(笑)
もしかしたらもう一度鑑賞しに行くかもしれないし、DVDが発売したら必ず観返します。

その時にまた、追記するかもしれませんが、この辺で許してください。



この手の映画考察は楽しいですね!
ぼちぼち更新も頑張りますので暖かい目で今後も見てやってください。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



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