小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

批判ではなく是非を問う(「新聞記者」ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
上半期の締めはですね、色々と物議を醸し出しそうな題材を扱った映画『新聞記者』になります。

この記事はネタバレを含みます、ご注意ください。
尚、この記事はあくまでも個人的な見解、解釈の上で意見を述べているだけであることを御容赦いただいた上でお読みくださればと思います。



作品概要


製作年:2019年
製作国:日本
配給:スターサンズ、イオンエンターテイメント
上映時間:113分
映倫区分:G


解説

「怪しい彼女」などで知られる韓国の演技派女優シム・ウンギョンと松坂桃李がダブル主演を務める社会派サスペンス。東京新聞記者・望月衣塑子の同名ベストセラーを原案に、若き新聞記者とエリート官僚の対峙と葛藤をオリジナルストーリーで描き出す。東都新聞の記者・吉岡エリカのもとに、医療系大学新設計画に関する極秘情報が匿名FAXで届く。日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育ち、強い思いを秘めて日本の新聞社で働く彼女は、真相を突き止めるべく調査に乗り出す。一方、内閣情報調査室の官僚・杉原は、現政権に不都合なニュースをコントロールする任務に葛藤していた。そんなある日、杉原は尊敬するかつての上司・神崎と久々に再会するが、神崎はその数日後に投身自殺をしてしまう。真実に迫ろうともがく吉岡と、政権の暗部に気づき選択を迫られる杉原。そんな2人の人生が交差し、ある事実が明らかになる。監督は「デイアンドナイト」の藤井道人。
新聞記者 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



政治批判映画

まずはTwitterに上げた感想から。



藤井道人監督の前作『デイアンドナイト』も傑作でしたが、今作『新聞記者』も傑作でしたね。

内容どうこうというよりも、藤井監督の撮る映画が好きなのかもしれない。
映画監督としての熱意はあるのだろう。
しかし、物事を如何に冷静に見ているか、真摯に向き合っているか、が窺える。

エリート官僚と若き新聞記者の葛藤、そしてラストシーンは圧巻の一言。
今後の邦画を変えるかもしれないとさえ思わせてくれる高水準な力作と言えます。


まず、本題に入る前に昨今と似たような題材を扱った映画と比較するとわかりやすい。

例えば、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』
スピルバーグ監督が手掛けた傑作なのですが、内容は今作『新聞記者』にも近しいものがある。
政治批判と同調圧力に屈しない決意と葛藤。
しかし、こちらは実話の基、エンタメへと昇華した社会派娯楽作品なんですよ。

今年公開の映画『記者たち〜衝撃と畏怖の真実〜』
ロブ・ライナーが手掛けた作品。
『新聞記者』同様にジャーナリストに焦点を当てながら政治批判として描いたもの。
こちらも実話を基に描かれているのですが、王道社会派ドラマからのアプローチでした。

『記者たち』と同時期に上映されていた同じ題材を扱った『バイス』
ブッシュ政権下で国民の愛国心を利用し、国民を手玉に取った副大統領チェイニーの過ちをエンタメで描き切った作品。

また、トランプ政権を批判した『華氏119』
マイケル・ムーア監督によるドキュメンタリー。
米国だけには留まらない、我々国民ひとりひとりに向けたメッセージ。

このように米国では政権批判をテーマにした作品が当たり前のように製作されている。
ただ日本で、それも現政権をテーマにした映画は他になかったと思います。

それ故に、この映画が注目され、そして今後の邦画を変えてくれるかもしれない力作であることは間違いない。
現政権と情報社会、現代の日本に警鐘を鳴らすように、この映画を作り上げた藤井道人監督と制作スタッフに敬意を表したいと思います。



対比的な構図

主演の2人の演技が非常に良かったですね。
この新聞記者とエリート官僚の対比と邂逅、そして利害の一致と決裂、常に葛藤しジャーナリズムと正義の下で揺れ動く2人の人物が描かれていました。



吉岡エリカ記者を演じたシム・ウンギョンさん。

シム・ウンギョン(심은경、1994年5月31日 - )は、韓国の女優、タレント、元子役。ソウル特別市出身。血液型はB型。
シム・ウンギョン - Wikipediaより引用

シム・ウンギョンさんと言えば『新 感染 -ファイナル・エクスプレス』の初の感染者役として記憶に新しい。



吉岡という人物は、日本人の父と韓国人の母を持つハーフで、更にアメリカで育った帰国子女という強めのアイデンティティをが少し強いキャラクターです。
しかし、そのアイデンティティと何故記者になったのか?が劇中のストーリーの流れで自然に見えてくるんですよ。
冷静に見える一方で、葬式で遺族に対する記者の質問に憤りを感じたように、自分と似た境遇を目の当たりにすると感情的になってしまう人間味の溢れる一面もあり、この両方のバランスが非常に難しかったと思います。
そこを上手くカバー出来たのも彼女の演技力あってのこと。
カタコトな部分もその人物設定を自然と絡ませてリアリティを引き出しています。



次に、杉原拓海を演じた松坂桃李さん。

松坂 桃李(まつざか とおり、1988年10月17日 - )は、日本の俳優、モデル。左利き。
「桃李」という名前は、中国の歴史家司馬遷の『史記』に書かれた言葉「桃李不言下自成蹊(とうりものいわざれども、したおのづからこみちをなす)」と、中国の故事「桜梅桃李」の2つに由来する。前者は「徳のある誰からも慕われる人」になって欲しいという父の願いから、後者は「自分らしさを大切に」という母の願いから名づけられた。読みがなは両親のこだわりで「とおり」。
松坂桃李 - Wikipediaより引用

最近なら『孤狼の血』で素晴らしい演技を見せてくれましたが、『ユリゴコロ』『彼女がその名を知らない鳥たち』やなんと言っても『娼年』のように体当たりな役どころまでも受ける幅の広さが魅力的。

と場違いのリンクを張ってすみません(笑)
これくらい演技の幅が広いと言いたい。


杉原という人物は、所謂エリート官僚。
内閣情報調査室に勤め、情報操作という仕事に疑問を持ちつつも、愛する妻子のために任務を全うする。
エリート官僚と言えば、物事に動じず落ち着いた、それでいてお堅いイメージを持っていたのですが、この杉原は感情や思考が激しく揺れ動くんです。
その分、松坂桃李さんは杉原を演じるにあたって幅広い演技力を要求されるわけです。
端的に彼は若手俳優の中でも頭一つ抜きん出てます。
己が持つ正義、それを行使できない家庭事情。
子供が出来たことで守るものができた。
この大きな存在が、同調圧力に屈することを選択させる。
ラストカットのあの感情を捨て、心が死んだ感じ…死んだ魚のような目はなかなか出来るようなものじゃありませんよ(笑)





また、杉原の上司である神崎の自殺のシーンについても語っておきたい。

空撮は、まるで人が死ぬその姿までも監視されているかのように映し出される。
劇中では、主に吉岡と杉原を対比的な構図で描くカメラ割りが印象的ですが、神崎の自殺のシーンでも杉原との対比的な構図を見せる。

あの地面に積もった落ち葉は相手に届かない言の葉のメタファーではないだろうか。

自殺する直前に杉原に掛けた電話。
杉原の呼びかけに答えない神崎。
神崎が送った手紙。
ひとつひとつが相手にちゃんと届かずに途絶えていた。


ラストシーンでの吉岡と杉原の対面でもそうだ。
その国会前の落ち葉もまるで届かない言の葉として風に煽られかき消される。
言の葉というのは相手に届いてこそ意味が伝わるものなのだと突きつけられる。
これはジャーナリズムにも通ずるものであり、その言の葉は真実でなければならない。


ラストシーンで吉岡の電話、杉原に届かない着信。
そして杉原のタメにタメてからの口ずさむ謝罪の言葉は、声にならず耳には届かなかったがきっと吉岡には届いている。


それは杉原にとって真実から出た言葉だからだろう。
権力に屈すること、大切な家族を優先したこと、置かれた環境での葛藤や苦悩、その心情がこれでもかと込められていました。



個人的感想

さて、ここからは本題に入っていこう。
まず、実際に観て率直な感想が「サスペンスとして本格的だな。」でした。


大学新設計画に関する調査、極秘情報が記された匿名のファックス。
吉岡が調査を進めた結果、内閣府の神崎という人物が浮上してくるが、その矢先、神崎は自殺してしまう。
神崎の死に疑問を抱き、その調査の過程で内閣情報調査室のエリート官僚、杉原と邂逅する。


このように、東京新聞の望月衣塑子記者をモデルにした権力と戦う女性記者を主人公に、フィクションとして描かれる現政権の不祥事、"モリカケ問題"から着想を得たであろうポリティカルな部分が大枠なのですが、社会派ドラマという枠組みの中で見せるサスペンスが次第に現実との境界線を霞ませる。

その上で、しっかりと主役2人の人物描写とその背景を描き、正義と悪、国と家族、仕事と家庭、立場や事情を利用する国家権力の闇を炙り出すことにも成功している。



また、内調と記者とのやり取りに政治家があまり絡んでこないことが民主主義と言えど、報道の自由、国民の知る権利において我々国民が知らないことの方が多いのだと言及しているようで、かえってリアリティのあるものとなっていると考えている。

しかし、ここを勘違いしてはならない。
今回扱われた題材は非常にデリケートなもの。
単純な見方をしてしまえば単なるプロパガンダ映画となってしまう。
藤井道人監督はインタビューにて、こうも語っています。

「タイトルは『新聞記者』ですけど、記者を賛美するだけの映画にするつもりはありませんでした。描き方によってはプロパガンダとなる可能性もあり、政治意識の強くなかった僕は、そういう方向性に躊躇があったのです。

ですから望月さんから話をたっぷり聞き、それと同じくらい官僚の人たちを取材しようと考えました。『僕はこういう映画を撮りますが、新聞記者が内閣をぶっとばす映画にはしたくない。だから力を貸してください』とアプローチし、政府が情報操作しているという報道について、また、どういう思いで国に向き合っているかなどを聞いていったのです。首相官邸前の警察官にも取材した結果、映画ではデモ隊を見つめる若い警察官の視点も入れてあります。
(中略)
記者たちには、国を是正するために権力の番人として監視する責務がある。一方で官僚の人々からは、この国の安泰を維持するために日夜努力しているのに、あることないこと書かれて批判されるという不満も聞きました。両サイドに『大義』があるんです。たがいに相入れない善悪の境界みたいなものがあり、そうした部分を、映画では松坂さんが演じる杉原の葛藤で描こうとしました」

内閣×マスコミを、日本映画でここまで描ききった勇気、客観性…。『新聞記者』藤井道人監督インタビュー(斉藤博昭) - 個人 - Yahoo!ニュースより引用


政府が"悪"、メディアが"善"という構図はあくまでもエンタメであり、内調が国を維持するための仕事や大義は"必要悪"なのか?

勿論、フィクションであるが故の原作者の思考は見え隠れする。

望月 衣塑子(もちづき いそこ、1975年 - )は、中日新聞社の社員。2018年10月現在、東京本社社会部記者。
『新聞記者』 角川書店〈角川新書〉、2017年10月12日。

望月衣塑子 - Wikipediaより引用


実際、原案者の望月記者が劇中にも登場している。
この映画から得られる情報は中立的に受け入れたい。



Twitterにも書きましたが
行き過ぎた正義は正義ではなくなるんです。
真実と事実は異なるものなんです。

これは国家を守るという名目で情報操作をする政府側にも、事実を歪めて報道するメディア側にも言えること。

劇中のセリフにもありました。
「真実かどうかはお前が決めるんじゃない。国民だ。」
情報操作された誤った情報を信じた時点で、ねじ曲げられた真実は事実となるんです。

つまり、しっかりと掘り下げていくと単純に政府が"悪"、メディアが"善"としたプロパガンダな構図ではないのです。


この映画のラストシークエンスは、エンタメ映画として楽しませながらも、真実を追求し報道するジャーナリズムの在り方を世の中に突きつけると同時に、"誰よりも自分を信じ疑え"という若手新聞記者の父からのメッセージを真に伝え、単なるフィクションとして笑って済ませられないものとなっているんです。


キャッチコピー
"この映画を、信じられるかーー?"

兎に角、今は情報社会になっているからこそ、SNS等色々取り入れやすい環境の中で流れてくる情報のファクトチェック、その真偽を自分の目でしっかりと持つということが大事なんです。


そう、この映画が伝えたいことは
批判ではなく、是非を問うこと。

批判というものは一方通行なんです。
現代社会において、ヒエラルキー、パワハラ、トップダウン、同調圧力、様々な抑圧があり言葉を飲む、言葉を濁す事の方が多いのかもしれない。
そんな社会を批判するだけで変えていけるのだろうか?
決してこれは綺麗事ではなく、もし、社会を変えられるとするのなら、批判ではなく是非を問うことではないだろうか?

是非を問うこと、この映画の内容を鵜呑みにせず、善悪を判断するリテラシーを持つことが大切であるというメッセージすら感じる。


だからこそ、だからこそ、この映画を観てほしい。
この映画を観て思うこと、感じることは人それぞれだ。
まずは観ることに意味があると思います。



終わりに

ということで、今回もダラダラと話してきましたが、あくまでも個人的な見解であることを念頭に置いた上で御容赦ください。

正直なところ、米国のように実名での批判や直接的な描写はなく踏み込みきれなかった部分は多々感じます。
しかし、この映画が作られ、そして上映された意義を今後の邦画はどう活かしていくのか?
そういう意味でもこの映画の存在価値は高い。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2019「新聞記者」フィルムパートナーズ

建築と殺人は芸術となり得るのか?(「ハウス・ジャック・ビルト」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は待望のラース・フォン・トリアー監督最新作「ハウス・ジャック・ビルト」について語っています。

この記事にはネタバレが含まれます。
未鑑賞の方はご注意ください。

尚、今回はいつものように深堀りしていくガチガチの考察ではなく、自分の記憶を整理する為にもつらつらと書き綴るダラダラの考察になります。



作品概要


原題:The House That Jack Built
製作年:2018年
製作国:デンマーク・フランス・ドイツ・スウェーデン合作
配給:クロックワークス
上映時間:152分
映倫区分:R18+


解説

ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ニンフォマニアック」の鬼才ラース・フォン・トリアーが、理性と狂気をあわせ持つシリアルキラーの内なる葛藤と欲望を過激描写の連続で描いたサイコスリラー。1970年代、ワシントン州。建築家を夢見るハンサムな独身の技師ジャックは、ある出来事をきっかけに、アートを創作するかのように殺人を繰り返すように。そんな彼が「ジャックの家」を建てるまでの12年間の軌跡を、5つのエピソードを通して描き出す。殺人鬼ジャックを「クラッシュ」のマット・ディロン、第1の被害者を「キル・ビル」のユマ・サーマン、謎の男バージを「ベルリン・天使の詩」のブルーノ・ガンツがそれぞれ演じる。カンヌ国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門で上映された際はあまりの過激さに賛否両論を巻き起こし、アメリカでは修正版のみ正式上映が許可されるなど物議を醸した。日本では無修正完全ノーカット版をR18+指定で上映。
ハウス・ジャック・ビルト : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



物語の本筋

まずはTwitterの感想から。




いやー、おバカ映画でしたね!
なんなんですかね、この超絶大傑作は(笑)

まず
ラース・フォン・トリアー監督は鬱描写を使わなくてもちゃんと映画が撮れるんじゃないか!
あんた、鬱病完治したんか!」
が鑑賞後の率直な感想でした(笑)

褒めてます、めちゃくちゃ褒めてますよ!



今作の主人公ジャックは強迫性障害を持っていました。
強迫性障害といっても、強迫観念と強迫行為の2つの症状があるんですよね。

強迫観念とは、頭から離れない考え、その内容が不合理だとわかっていても頭から追い払うことができない。
一方、強迫行為とは、強迫観念から生じた不安にかきたてられて行う行為のことで、無意味とわかっていても止められない。

簡単に言えばかっぱえびせんのようなものです。
止められない止まらないです。
これが日常生活に支障をきたすとOCD(強迫性障害)という病気と診断されます。


第1の出来事、車の修理を頼まれたジャックが助手席に乗った女性をジャッキで殴打して殺害します。

元々殺人衝動があったのか、それとも感情的となった突発的なものなのか。
いずれにせよ、この殺害がきっかけでその衝動を抑えられなくなっていく。
しかし、ユマ・サーマンが早々にリタイヤは笑わせてもらいました。



第2の出来事で、ジャックは保険屋を装って家屋に侵入し女性を扼殺後に胸部を刺した後始末で、早く現場から離れなければならないのに取り憑かれたかのように血痕を何度も流し、清掃する。

これは確認行為にあたるもの。
身近にあるものとしては、例えば外出した際にふと「家の戸締まりをちゃんとしたかな?」や「ガスの元栓は閉めたかな?」など思うことがありますよね?
その不安が抑えきれなくなって指差し確認や何度も触って確認する行為になります。

確認行為によりなかなか現場から離れられないジャックのもとに現れた警官とのやり取りをくぐり抜け、死体を引きずって自宅まで帰る。

この死体を引きずった血の跡を突然降り出した豪雨が洗い流してくれる。
神が守ってくれていると思い込むんです。



第3の出来事ではライフル銃と散弾銃の話から狩るものと狩られらるものの関係性を猟犬と血痕、虎と羊に喩えて語られる。

小銃一般を指し、ライフル(英:Rifle)あるいはライフル銃と呼ぶこともある。
近代から現代にかけて、主に歩兵一個人が携行する最も基本的な武器(歩兵銃)として使用されている。近距離から遠距離まで、広い範囲の射撃をこなせる万能性を持つ。
小銃 - Wikipediaより引用

散弾銃(さんだんじゅう)またはショットガン(Shotgun)は、多数の小さい弾丸を散開発射する大口径の大型銃。
散弾銃は、近距離で使用される大型携行銃で、弾丸の種類によっても特性が変わるが、散弾は概ね50m以内で最大の威力を発揮する。
散弾銃 - Wikipediaより引用


両方とも狩猟用の装薬銃ですが、前者は主に鹿や猪、熊などの大物を仕留める際に、後者は動きの早い鳥などを仕留める際に使用される。

ここで儀式行為が更に顕著に現れる。
巻狩りの"最後の侮辱"である。
並べられた遺体と大量のカラスの死骸。

2014年のゲッティンゲン大学の研究チームによって行われた実験によれば、少なくとも一部のカラスは欲求を我慢することができるとのこと。
つまりこの儀式で並べられたカラスはジャック自身の欲求に抗う自制心への反抗とも取れます。



第4の出来事では、ひとりの女性との間に新たな感情が芽生えます。
恋心を抱きながら、恋とは認識せずに乳房を切り取り殺害する。

ここでは相手の持ち物を持ち帰る、シリアルキラーの典型的な行為も見られます。

デニス・レイダー(Dennis Rader 1945年3月9日 - )は、BTKまたはBTK 絞殺魔として知られるアメリカのシリアルキラー。彼はBind(緊縛)、Torture(拷問)、Kill(殺す)の頭文字を取って自分自身で "BTK"と名乗り、1974年から1991年の間にカンザス州ウィチタ近郊で10人を殺害し、逮捕されるまで30年以上にわたって地元民を恐怖に陥れた。
デニス・レイダー - Wikipediaより引用


最も有名なのがBKT絞殺魔デニス・レイダー。
彼の特徴として、被害者の持ち物を記念品として持ち帰ることが挙げられている。
また、2015年にはフロリダの元保安官代理キンバレー・マグガースが各種の状況証拠に基づいて、"BTK絞殺魔"として知られるデニス・レイダー受刑者こそがゾディアックであるという著書を発表しています。

ジャック自身が自覚するしないは別に、その殺人鬼としての裏の顔が完全に定着していることが伺えます。
今作のジャックのように被害者の持ち物ではなく体の一部を記念品として、女性の頭皮を剥がして持ち帰るシリアルキラーを描いた『マニアック』もありますね。

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「男に生まれただけで罪を背負っている。」
「男はいつも犯罪者。」
無茶苦茶な自論で女性の性の象徴でもある乳房を切り取ること。
ここでは実質的な女性としての死を意味する。
とはいえ、流石に人目に触れるおっぱい財布はギャグとしか思えませんが(笑)



第5の出来事ではフルメタル・ジャケット弾ひとつで何人を同時に殺せるか、という実験を試みます。



フルメタルジャケット弾(full metal jacket/被覆鋼弾、完全被甲弾)
貫通性が高い通常の弾丸。弾芯が金属(メタル)の覆い(ジャケット)で覆われているメタルジャケット弾の一つ。ボール(Ball)弾とも呼ばれる。
ほとんどのフルメタルジャケット弾は、弾芯である鉛をギルディング・メタル(真鍮。混合率は銅95%、亜鉛5%)で覆っている。
弾丸 - Wikipediaより引用


なぜこのような仕様になっているかというと、鉛は人体に当たった時に弾体に変形し、衝撃と共に苦痛も与えてしまう。
これがハーグ条約違反となり、硬い金属で鉛の弾丸を覆い、人体に着弾したときに変形しないように加工されています。
苦痛をなるべく与えず殺すこと、言わば人道的なものです。

キューブリック監督作の映画『フルメタル・ジャケット』では、硬い金属で覆って人を殺す弾丸に作り変えたフルメタル・ジャケット弾のように、優しさや思いやりを非人道的扱いによってぶっ壊し、普通の青年たちを殺人マシーンに作り変える軍隊訓練が描かれる。

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人道的な側面から作られたフルメタル・ジャケット弾で第二次世界大戦下でのナチスの非人道的な行為を現代で試みるという嗜虐性、不条理。

ライフルの射程圏内に入れられず開かずの扉を開いた先に待っていたのがヴァージでした。
このシーン、笑いませんでした?
なんなんだよこの登場は!?(笑)


そして、ついにジャックは警察に見つかり、死体で築き上げられた家の穴から地獄へと誘われます。
地獄の底へと着いたジャック。
後述していますが、幼少期の話から草むらは楽園とされ、"捕まりたい欲望"は罪の清算

しかし、世の中そんなに甘くはない。
刈られたのは草ではなく、ジャックの首でした。

めでたしめでたし。



と、一連の流れはこんな感じでしょうか。
自分の記憶を整理する為にも書き出してみました。
間違ってたら教えてください。

さて、ここで本筋の合間に挿入された描写についてどんな意味があったのか、を簡単に考えたいと思います。



物語の補填

この物語は、ジャックとヴァージの会話により上記に記述した本筋のように、大きく5つの出来事として段階的に流れていきます。
その節々ではジャックの行為について、心理的もしくはそのバックグラウンドとして様々な芸術や歴史等が補填として挿入されます。

情報量が多く、まだ一度しか鑑賞していないので全てを拾うことは出来ませんでしたが、ここでは覚えてる範囲で順番に振り返っていきます。



・天才ピアニスト

ジャックが唯一認める天才ピアニスト、グレン・グールド
彼の音楽は芸術だと評価しています。


グレン・ハーバート・グールド(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家。

グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽であった。バッハは当時でももはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影した。

グレン・グールド - Wikipediaより引用


グレン・グールドは音楽だけでなく、エッセイスト、ドキュメンタリー製作者など、多彩な文化人として振舞っています。
特に彼の有名な言葉「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」はジャックにも影響を与えたことだろう。

これは後に第4の出来事で語られる"技師は楽譜、建築家は演奏"としても具体的に取り上げられています。

また、第5の出来事で作られた死体の家、"静力学(建築)と殺人"とも繋がりがあり、ひとつひとつの殺人(驚嘆)と冷凍保存(静寂)の積み重ねが作り出したもの。

ちなみに、静力学は主に建築学構造力学で用いられる力学の分野で、全ての物体にかかる力とトルクの総和が0、つまりは静的状態で働いている全ての力と同じ大きさの逆向きの力がある状態です。
仮想仕事の原理なんですが、詳しく説明すると長くなるので端折ります。



・草むらと隠れんぼ

幼少期に隠れんぼをして遊んでいた頃、あえて見つかりやすい草むらへと隠れること。
劇中では"捕まりたい欲望"として語られていました。
隠れんぼは連続殺人を犯したジャックの逃亡を、草むらで草を刈られる人は追う側、つまり警察を暗喩し、いずれ罰を負うことを可視化したものです。

幼少期にアヒルの子の足を切断するシーンで既にこの時から殺人衝動が芽生えていたとも捉えられることからも、ジャックが自身の行動に罪の意識を持っていたとも取れます。



・写真撮影

殺人衝動とは別にジャックには儀式行為な部分も見受けられます。
儀式行為とは、一連の流れ、ルーティンを行わなければ何か悪い事が起こると思い込む強迫性障害の症状のひとつ。

最も顕著に現れた儀式行為は写真です。
これは殺人と芸術を繋げるという意味合いが強いですが、死体を写真に収めるという行為自体に記念品や験担ぎのような意味合いもある。

こう思うきっかけは上記に記載した"雨の描写"だと思われます。
自身の行動は神に守られているという妄想。
故に写真の撮り直しにも拘って、死体を再び現場に持ち出すという危険を冒してしまう。

また、死体の写真がネガ(反転)として映し出されるのは、後述する"天国と地獄"にも通じる。
光があるから闇が存在する。
もしくは、闇があるから光が存在する。
つまりは、ジャック自身の裏表の顔、殺人鬼と二枚舌な人間性の表裏一体を表しているのではないだろうか。

これは上記に記載したグレン・グールドにも繋がります。
"驚嘆と静寂"という二面性。
また、劇中に語られた街灯の話にも繋がります。
ジャックは自己の不安(強迫性障害)を抑え込むために殺人を犯します。
劇中では強迫性障害の軽減と解放と表現されていました。
表を光、裏を影と考えた場合、街灯の光に照らし出されたところに生まれる影は殺人鬼ジャックとして見ることが出来る。
街灯の真下では最も色濃くなる。
街灯から離れるにつれて影の色は薄くなり、しかし大きく伸びていく。
そして次の街灯の真下で再び影は最も色濃くなる。

その光を驚嘆とするなら、その光の下を目指す道中は静寂であり、繰り返し歩み続けてしまうジャックの殺人衝動と繋がります。



・太陽と月の徴

劇中でも語られた"太陽と月の徴"新約聖書ルカによる福音書21章でも記されています。

21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」


要約するとエルサレムの滅亡からキリストの再臨に至る話がされています。
旧約時代の人々、とくにイスラエルの人々はやがて救い主が来られることを長い間待ち望んできました。
これを"アドベント(到来)"といいます。
これは第5の出来事で現実に(?)登場する異世界への案内人ヴァージのことを指します。

また、日本の彫刻家荻原碌山の名言にもある「愛は芸術なり、相剋は美なり。」
劇中でも愛は芸術とされ、遺体となった子供と震え怯える母親を囲むピクニックは不謹慎ながらユーモアたっぷりでしたね。

まさに狩るものと狩られるもの、シュヴァイス(猟犬)と血痕、虎と羊、命の相剋こそ最高の美であるのだと言わんばかりの。



・ワイン

劇中でブドウを腐らせるものとして、霜、乾燥、貴腐の3つが例に挙げられていました。
これらはワインの格付けによるものです。

大きく5つに格付けされるワインの中で最も上にあるものがプレディカーツヴァインと呼ばれるものです。
そのプレディカーツヴァインも7段階の格付けがされています。

ブドウを霜に晒して自然凍結させ作られたワインはアイスヴァイン。
藁や葦の上で乾燥させ作られたワインはシュトローヴァイン。
そして貴腐菌によって作られたワインをトロッケンベーレンアウスレーゼと言います。

貴腐(きふ)とは、白ワイン用品種のブドウにおいて、果皮がボトリティス・シネレア(Botrytis cinerea[* 1]) という菌(カビ)(灰色かび病も参照)に感染することによって糖度が高まり、芳香を帯びる現象である。 貴腐化したブドウを「貴腐ブドウ(きふぶどう)」と呼び、それを用いて造られた極甘口のワインが「貴腐ワイン」と称される。
貴腐 - Wikipediaより引用


トロッケンベーレンアウスレーゼが3つの中で一番価値があるもの。
敢えて過酷な環境に置くことでブドウの糖度が増し、一級品として価値が出る。

「人の最終的な価値が決まるのは、生前ではなく死後である。」

まさにこれです。

これは家を建てることとも同じと語られました。
一見無関係にも見えるが、これは廃墟価値の理論
建てては壊すを繰り返すジャックの家。
最終的に肉塊(死体)で築き上げられた家(芸術)。
倫理で芸術を殺す。

死体の腐敗も同様に芸術、死後にこそ価値が生まれると信じ込んだ歪んだ倫理観。
建築と殺人は芸術となり得るのか?
これが、ジャックが求め続けた芸術の辿り着いた答えなのです。



ジェリコのラッパ

劇中では戦闘機の威嚇として付けられた不快なサイレンとして語られていました。
実際に、第二次世界大戦でドイツ空軍が有する急降下爆撃機は前線で大きな戦果を挙げており、特に急降下の時に鳴り響く独特のサイレンは"ジェリコのラッパ""悪魔のサイレン"などと呼ばれ、空爆による敵への物理的ダメージとともに敵軍兵士に心理的な威嚇を与える効果があったとされています。


Ju 87 B-2

Ju 87 シュトゥーカ(Junkers Ju 87 Stuka )は、ドイツにおいて第二次世界大戦中に使用された急降下爆撃機である。

愛称の「シュトゥーカ」(Stuka)とは、本来は本機種の固有の愛称ではなく、“急降下爆撃機”を意味するドイツ語の「Sturz KampfFlugzeug」(シュトゥルツカンプフルクツォイク)の略であったが、本機がドイツ軍の用いた急降下爆撃機の代表として扱われたため、この名が用いられるようになった。

Ju 87 (航空機) - Wikipediaより引用


"ジェリコのラッパ"という言葉は旧約聖書の『ヨシュア記』に記載されている"ジェリコの戦い"が基になっています。

ジェリコの戦い(英語:Joshua Fit The Battle Of Jericho)は、旧約聖書に登場する、古代イスラエルモーセの後継者ヨシュア(英名:ジョシュア)によるカナン人の都市ジェリコの攻略を歌った歌である。

ヨシュアジェリコとの戦いを始め、兵士達は手に槍を持って突撃した。ヨシュアはこの戦いは我が手中にあると言い、兵士達に叫べ、角笛(羊の角を使ったトランペット)を吹けと命令した。すると笛と声によってジェリコの城壁は崩れ落ちた、という「ヨシュア記」6章の内容が歌詞となっている。

ジェリコの戦い - Wikipediaより引用


"ジェリコのラッパ"はその笛の音で城壁を崩したとされ、今作においてはジャックの殺人鬼としての生活が崩れる警告とも取れる。



・天国と地獄

第5の出来事でヴァージに導かれるまま、ジャックは地獄へと歩みを進めていく。
死体で築き上げられた家の穴は地獄の門の入口だったのです。

地獄の最下層へと案内されたジャックに対してヴァージは本来は地獄の底の2層上が行き先だと語ったように、地獄は何層にもなっています。
壊れた橋の先は天国へ通じる道。

今作の地獄の世界観は挿入されたダンテの小舟からも、ダンテの『神曲が基になっていることは明らかですね。
ヴァージもこのダンテの『神曲』に登場する人物です。


ダンテの小舟(1822年、ルーヴル美術館所蔵)
"La Barque de Dante"

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ (Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798年4月26日 - 1863年8月13日) は、フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。

ウジェーヌ・ドラクロワ - Wikipediaより引用



また、『神曲』の影響を受けたゲーテの『ファウストでも天国と地獄を行き来する物語が描かれています。

神曲』(しんきょく、伊: La Divina Commedia)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。
地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。

地獄篇 (Inferno)
煉獄篇 (Purgatorio)
天国篇 (Paradiso)
の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。

神曲 - Wikipediaより引用


主に『神曲』における地獄は

・第一圏 辺獄(リンボ)
・第二圏 愛欲者の地獄
・第三圏 貪食者の地獄
・第四圏 貪欲者の地獄
・第五圏 憤怒者の地獄
・第六圏 異端者の地獄
・第七圏 暴力者の地獄
・第八圏 悪意者の地獄
・第九圏 裏切者の地獄


ジャックの行き着く地獄は2層上ということで第七圏。

第七圏 暴力者の地獄 - 他者や自己に対して暴力をふるった者が、暴力の種類に応じて振り分けられる。

・第一の環 隣人に対する暴力 - 隣人の身体、財産を損なった者が、煮えたぎる血の河フレジェトンタに漬けられる。
・第二の環 自己に対する暴力 - 自殺者の森。自ら命を絶った者が、奇怪な樹木と化しアルピエに葉を啄ばまれる。
・第三の環 神と自然と技術に対する暴力 - 神および自然の業を蔑んだ者、男色者に、火の雨が降りかかる(当時のキリスト教徒は同性愛を罪だと考えていた)。

神曲 - Wikipediaより引用


Wikipediaによれば、第一の環ですかね。


また、楽園を表すものとしてヤン・ブリューゲルの『楽園』の絵が挿入されていました。


ヤン・ブリューゲル (子)画
『楽園』(1620年頃)

ヤン・ブリューゲル (子) (Jan Brueghel de Jonge; 1601年9月13日 –1678年9月1日)は、フランドルの画家。ヤン・ブリューゲル (父)の息子である。

ヤン・ブリューゲル (子) - Wikipediaより引用


新約聖書ルカによる福音書では、イエスがともに十字架に架けられた悔い改めた罪人はイエスとともに"paradise"に入ると述べています。
このことからも、天国は楽園的な安息であると考えられています。

今作でジャックは、悔い改めるばかりか散々罪を犯しながらもまだ天国へ行こうと欲望のまま地獄の壁を登ろうとします。

あれだけのことをしておいてまだ助かろうとしとるんかい!!!

と、心の中で笑いながら激しくツッコミを入れました。
まあ、そんな馬鹿野郎が天国に行けるわけもなく(笑)
足元を掬われ、罪人の永遠の滅びの場所ゲヘナへと落ちていきましたとさ。

めでたしめでたし。(2回目)



終わりに

ということでダラダラと書き綴って来ましたが、まとめです。

今作『ハウス・ジャック・ビルト』は連続殺人鬼ジャックの蛮行を5つのエピソードで描き、道徳、倫理からかけ離れた問題作。
かもしれませんが、ある意味で真っ当なトリアー作品のように感じる。
寧ろ、マトモすぎて、冒頭でも語ったように「鬱病完治したのか?」とさえ思ってしまうほどである。

エピソード一つ一つが酷いんですよ、自分を正当化し、都合のいいように解釈し、言い訳をする。
このジャックのバカバカしさがホラーという側面とコメディという側面の二面性、表裏一体感を出している。
トリアーの自虐と見せかけながら、実は我々観客にも突きつける人間の愚かさや醜さを露呈している。

そんな妄想と知的好奇心を刺激して止まない超絶大傑作なのです(個人的意見)。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



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ギリシア神話から読み解く映画「聖なる鹿殺し」ネタバレ考察

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は前回の『ロブスター』に続いてヨルゴス・ランティモス監督作『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』について語っています。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Killing of a Sacred Deer
製作年:2017年
製作国:イギリス・アイルランド合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:121分
映倫区分:PG12


解説

「ロブスター」「籠の中の乙女」のギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモス監督が、幸せな家庭が1人の少年を迎え入れたことで崩壊していく様子を描き、第70回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したサスペンススリラー。郊外の豪邸で暮らす心臓外科医スティーブンは、美しい妻や可愛い子どもたちに囲まれ順風満帆な人生を歩んでいるように見えた。しかし謎の少年マーティンを自宅に招き入れたことをきっかけに、子どもたちが突然歩けなくなったり目から血を流したりと、奇妙な出来事が続発する。やがてスティーブンは、容赦ない選択を迫られ……。ある理由から少年に追い詰められていく主人公スティーブンを「ロブスター」でもランティモス監督と組んだコリン・ファレル、スティーブンの妻を「めぐりあう時間たち」のニコール・キッドマン、謎の少年マーティンを「ダンケルク」のバリー・コーガンがそれぞれ演じる。

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア : 作品情報 - 映画.comより引用



ギリシア神話から読み解く

前作『ロブスター』に続き、今作『聖なる鹿殺し』でもギリシア神話との関係性について考察しています。

前作『ロブスター』の考察はこちらから。


Twitterに上げた感想です。



監督ヨルゴス・ランティモスは『聖なる鹿殺し』の製作にあたってこのように語っています。

「大まかに話すと‘正義’と‘報復’、‘信念’、‘選択’などでしょうか。人生で大きなジレンマに直面すると、何が正しくて何が間違っているのか判断できなくなることですね」
ヨルゴス・ランティモス監督、映画作りの醍醐味語る 『聖なる鹿殺し』特別インタビュー映像|Real Sound|リアルサウンド 映画部より引用


マーティンという人物を中心に作られた物語の中で、ギリシア神話に重なる部分がいくつも見えてくる。
当記事ではそのギリシア神話と個人的見解を中心に考察していますが、その根底には人間の業の深さがあると思います。
こちらの見解に関しても後述しておきます。



さて、まずは前作『ロブスター』同様にギリシア神話を絡めつつ見ていきましょう。



劇中にも語られるギリシア悲劇作家エウリピデス『アウリスのイピゲネイア』。
娘のキムはこの作品の作文で教師から評価を得ていました。

女神アルテミスの怒りを和らげるためにはアガメムノーンは長女イーピゲネイアを生贄にささげなくてはならないと告げられます。
アガメムノーンは苦渋の決断を迫られ、妻のクリュタイムネーストラーに伝令を送って戦に出立する前にギリシア軍兵士のアキレウスとイーピゲネイアを結婚させると言って、娘をアウリスに呼び寄せます。


諸説ありますが
生贄とされたイピゲネイアは鹿と引き換えにアルテミスによって救われた説もあります。

『聖なる鹿殺し』というタイトル。
本作に鹿は登場しません(笑)
このギリシア悲劇を主軸に『聖なる鹿殺し』の全てを読み解ける訳ではありませんが、タイトルとギリシア神話の関連から概ねプロットを理解することは可能です。
 


事の発端はスティーブンがマーティンの父親の心臓の手術に失敗し、死なせてしまったことにある。
物語の中盤で明らかになったのは、スティーブンが酒を飲んだ状態で手術を行ったこと。
つまりマーティンの要求は、自分の父親を殺した報いとして、スティーブンに犠牲を払って貰うというもの。

ヨルゴス・ランティモス監督が語るように、マーティンにとっては"正義の報復"であり、断罪。
スティーブンにとっては、究極の"選択"となる"信念"のぶつかり合いなのだ。



その報復はスティーブンの家族の身に起こる不可解な現象から始まる。

①手足の麻痺
②餓死するまで食事の拒否
③目からの出血
④死亡

の四段階であり、家族のうち誰か1人を犠牲にしなければ家族全員が死んでしまうというもの。

 
マーティンが望むのは、あくまでも自分と同等の苦しみをスティーブンに与えること。
自分以外の家族を失う悲しみや苦しみを味わせることなんですね。



『アウリスのイピゲネイア』でもアガメムノンは「ヘラス人のためにお前を殺さなければならない。」と述べており、娘イピゲネイア自身も「アルテミスが私の身体を望んでいるのであれば捧げます。」と自ら犠牲になることを承諾しています。

このイピゲネイアの台詞と同じような内容をキムが語っていました。
「自分を殺してほしい。家族を愛している。」と。

キムが『アウリスのイピゲネイア』の作文を書いたことにより、影響を受けていることが見受けられる。
つまりはキム自身をその悲劇のヒロインに重ねていたことが考えられます。



しかし、最終的にスティーブンは目隠しのロシアンルーレットで家族一人の生贄を"選択"することを選びます。
結果的にボブが射殺され死んでしまう。
この点に関しても、『アウリスのイピゲネイア』での一説、"イピゲネイアの代わりに鹿が生贄とされた"ことと繋がる。



ここで、ギリシア悲劇から

アガメムノンはスティーブン
その妻クリュタイムネーストラーはアナ
娘イピゲネイアはキム
女神アルテミスはマーティン
そして、犠牲となった聖なる鹿はボブ

という構図が決定付られるわけです。





さて、ここで更に踏み込んだ考察が出来てしまうんですね。
個人的な見解として、この考察が最もしっくりきたものでもあります。

それは『アウリスのイピゲネイア』の後日譚である『オレステイア悲劇三部作』です。
‪『オレステイア悲劇三部作』では『アウリスのイピゲネイア』で描かれた生贄とイピゲネイアの悲劇、そして支配と隷属から復讐の連鎖が紡ぎ描かれます。

『オレステイア悲劇三部作』は『アガメムノーン』、『供養する女たち』、『慈しみの女神たち』の三つの悲劇から構成されています。
その後日譚の内容を簡単に纏めます。
『アガメムノーン』では妻が夫恨んでおり夫殺しを、『供養する女たち』ではアガメムノーンの息子が父の仇討ちとして母を殺し、『慈しみの女神たち』では親殺しを行った息子の罪を問われるが無罪となり、エウメニデスによって慈しみをもって憎しみと復讐の連鎖はついに断ち切られ、ギリシアに調和と安定がもたらされた。


オレステースを責める復讐の三女神 (ウィリアム・アドルフ・ブグロー/絵, 1862)

今作の劇中でも、スティーブンの妻アナは娘キムよりも息子のボブを可愛がっていた描写が幾つか見て取れる。
そんな娘キムは父であるスティーブンよりも母であるアナを嫌っていた描写が幾つかある。
そして、キムはマーティンに恋心を抱いていた。


つまり
聖なる鹿(ボブ)殺しであるスティーブンを恨んだ妻アナが夫を殺し、その夫殺しの仇討ちとして娘キムが親殺しを行う。
その後、キムはマーティンとくっつくのではないか?


これこそが、今作『聖なる鹿殺し』のラストから想像として補完できる物語の終結ではないのだろうか。
そう思える描写が物語の冒頭とラストのシーンに詰め込まれていたように思います。


冒頭、マーティンはスティーブンとの相席でポテトを最後に食べます。
好きなものは最後に残しておくという理由です。
一方、ラストでのキムはどうでしょう。
真っ先にポテトに手を付けていました。

物語でもキムはマーティンと出会って早々にマーティンに思いを寄せます。
このことから好きなものは先に食べるのではないか。
マーティンは"報復"という食事を終え、好きなもの(キム)は最後に食べると…(突然の下ネタ)



マーティンという人物を『アウリスのイピゲネイア』の女神アルテミスとして、そして『オレステイア悲劇三部作』の復讐の女神エリーニュスから慈しみの女神たちエウメニデスとして描かれているのではないか。


色々と考えすぎかもしれませんが、『アウリスのイピゲネイア』の後日譚があるからこそ、『聖なる鹿殺し』の物語があれで終わったとは思えなかったんですよね。



人の業の深さ


ということで、ここからは上記のギリシア神話の考察を踏まえた上で、余談や個人的見解になります。



余談として、関連性は不明だがギリシア悲劇『アウリスのイピゲネイア』と類似した内容のものがキリスト教にもあります。
それは『イサクの燔祭』。


イサクを捧げるアブラハム ローラン・ド・ラ・イール 1650

イサクの燔祭(イサクのはんさい)とは、旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話を指す概念。
神への信仰心を確認するための神に捧げられる至上の犠牲の物語なのですが、イサクの燔祭においても最後には雄羊が屠られる。

キリスト教学においては、子羊はイエス・キリストを指す言葉としてしばしば用いられ、人間の罪に対する贖いとしてイエスが生贄の役割を果たすことを踏まえており、古代ユダヤ教の生贄の習慣にも由来する。


ギリシア悲劇『アウリスのイピゲネイア』においても犠牲となる生贄は娘イピゲネイアであり、生贄の選択は出来ませんでした。
今作では家族3人のうち誰か1人という選択が可能だったわけですが、妻アナの「殺すなら当然子供。私たちならもう1回子供作れる」というセリフが最も恐ろしかったですね。



ギリシア神話においては、鹿は聖なる生き物として扱われており、女神アルテミスの聖獣ケリュネイアの鹿を指すことが多い。
このことからも、タイトル『聖なる鹿殺し』はアルテミスの聖獣ケリュネイアの鹿を生贄として捧げることを指すと考えられる。

また、泉で水浴しているアルテミスの裸身を見てしまったアクタイオーンに怒り、アクタイオーンを鹿に変えたという『変身物語』もあります。




人間の罪に対する贖罪といえばドストエフスキーの『罪と罰』。
主人公ラスコーリニコフはある理念の元に行動します。
それが「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」

スティーブンは医師として多くの患者の命を救っている。
また、マーティンに時計をプレゼントしたりとひとつの罪を償うように善行を重ねる。

ひとつの罪とは酔ったまま手術してマーティンの父親を死なせてしまったこと。
言わば、事故死という形で正当化された殺人なわけです。



"罪の償い"に対して、マーティンはスティーブンに父親殺しの罪と対等の罪を償えば、それ以上の罪は求めてはいなかった。
スティーブンがマーティンを地下室に監禁したシーンから各々の立ち位置を推測することができる。


アナはマーティンの傷の手当をした際に、足の甲にキスをします。
これは隷属関係を示し、アナが既にマーティンの支配下に置かれていることが分かります。
不可解な現象が現れなかったことも、地下室から解放したことも関係していると思われます。

この時、キムも床に這いつくばっており、マーティンの方が立場が上であることを示しています。
その上、キムはマーティンに思いを寄せており、支配下に置くことは容易い。

しかし、ボブだけは椅子に座ったままでマーティンと同じ視線の高さでいます。
「父親がいないとお前が支配者のようだな。」とボブに向けたセリフからもボブだけはマーティンの支配下にはなっていない。



家族がそれぞれスティーブンに訴えかけるセリフからもその家族の立ち位置が見て取れる。

自分の命はいいからお母さんと弟を救って欲しいと語るキム。
スティーブンの好きな黒いドレスに身を纏い服従を誓うアナ。
いずれもスティーブンに対して立場は下なんです。

ボブはどうだったか。
自分の夢は実は心臓外科医になることだと涙ながらに訴えかけるんです。
これはスティーブンに対して対等な立場になることを意味します。


以上のことから、実は家族3人のうち誰か1人という選択が可能ではなかったのではないでしょうか?
予め、ボブが聖なる鹿として犠牲になることが定められていたとも考えられます。



マーティンが拘束された際に、スティーブンの腕に噛み付いたシーンから、スティーブンとの関係性も明らかとなります。
スティーブンに噛み付いた直後、自分の腕にも噛み付き、対等な立場を作る。

これは他の描写でも伺えます。
例えば、スティーブンに時計をプレゼントされれば、その家族にプレゼントを返す。
アナにレモネードを出されれば、スティーブンを家に招待しレモネードを振る舞う。


あくまでも現状で対等の立場を貫くことで、罪の償いをさせず、スティーブン一家を支配下に置き、父親殺しという罪を"正義の断罪"として振り翳して裁くことができるからですね。


「目には目を、歯には歯を」
ハンムラビ法典に記述された有名な言葉ですが、これはあくまでも対等な身分であることが条件です。
また、ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを目的としてはおらず、 過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて復讐の連鎖を断ち切る
つまりは、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めることが本来の趣旨です。



また、マーティンはスティーブンに対して、自分の父のように尊敬し父親のようになってほしいと思っているかのようにも映る。
一方で、マーティンの実の父親の描写は希薄。
キーパーソンであるにも関わらず息子であるマーティンとのエピソードは"パスタを食べる時のフォークの使い方"のみである。
この特徴を「誰だって同じだ」と自ら否定する。

マーティンの中で、父親は既にいないものとして決定づけるものだろう。
だからこそ、家族を失う苦しみを与えること、スティーブンの家族のうちの誰か1人を失ってもらう必要があるという"覚悟"や"信念"にも映る。




マーティンの報復は果たして同等の懲罰なのか?
過剰ではないと言えるのだろうか?

上記で記述した通り、ラスト後の物語の想像としての補完は『オレステイア悲劇三部作』からも復讐の連鎖を生む形となっている。
そして、その復讐の女神たちも説得され慈しみの心を持てば物事は収束し、調和と安定がもたらされる。

今作は、人の業の深さ、人ひとりの命の重さを訴えるものであるように思います。



終わりに

今回もダラダラと語ってしまいましたが、『聖なる鹿殺し』はかなり自分好みの映画でしたね。

ヨルゴス・ランティモス監督がギリシャ人ということもあり、彼の作品にギリシア神話とは切っても切れないものだと思います。
あくまでもひとつの見解として考察していますが、ギリシア神話に結び付けずとも今作『聖なる鹿殺し』は『ロブスター』よりも単純なプロットであり、見易く分かりやすいと思います。

ギリシア神話は日本人にとって馴染みのないもの。
だからこそ、興味を持つことで今後の彼の作品に深みが出ると思います。
『女王陛下のお気に入り』は彼の作品の中では初ということもあり、ギリシア神話を絡めての考察はしていません。
が、ギリシア神話に纏わる物語が何か隠されているのではないか?と思ってしまうほどヨルゴス・ランティモスという監督に興味が持てました。



次回鑑賞作は『籠の中の乙女』になると思います。
また考察したくなればブログに書き起すこととします。

【追記】

『籠の中の乙女』鑑賞しました。
考察ブログはこちら。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited


ギリシア神話から読み解く映画「ロブスター」ネタバレ考察

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は『ロブスター』について語っています。
久しぶりに新作ではない映画の考察記事になります。

この記事はネタバレを含みます。
ご注意ください。



作品概要


原題:The Lobster
製作年:2015年
製作国:アイルランド・イギリス・ギリシャ・フランス・オランダ・アメリカ合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:118分
映倫区分:R15+


解説

アカデミー外国語映画賞ノミネート作「籠の中の乙女」で注目を集めたギリシャのヨルゴス・ランティモス監督が、コリン・ファレル、レイチェル・ワイズら豪華キャストを迎えて手がけた、自身初の英語作品。2015年・第68回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞。独身者は身柄を確保されてホテルに送り込まれ、そこで45日以内にパートナーを見つけなければ、動物に変えられて森に放たれるという近未来。独り身のデビッドもホテルへと送られるが、そこで狂気の日常を目の当たりにし、ほどなくして独り者たちが隠れ住む森へと逃げ出す。デビッドはそこで恋に落ちるが、それは独り者たちのルールに違反する行為だった。
ロブスター : 作品情報 - 映画.comより引用




ギリシア神話から読み解く

まずはTwitterにあげた感想から。



ということで、自分が感じたギリシア神話との共通点についてサクッと語っていきます。



テイレシアースは盲目の予言者として知られるが、盲目となった理由は諸説あります。

一説では、テイレシアースがキュレーネー山中で交尾している蛇を殺したことで女性になってしまう。
9年もの間、女性として暮らした後、再び交尾している蛇を見つけて殺すと男性の姿に戻ります。

ある日、ゼウスとヘーラーが、男女の性感の差について言い争いになったとき、両性を経験しているテイレシアースの意見を求める。
テイレシアースは「快感を10倍に分けており、男を1とすれば、女はその9倍快感が大きい」と答え、ヘーラーは怒ってテイレシアースを盲目にします。
ゼウスはその代償に、テイレシアースに予言の力と長寿を与えました。



本作『ロブスター』の動物に変えられるというシュールな設定もこのギリシア神話の"変身物語"からの着想を得たのではないかという個人的見解です。

この"変身物語"でテイレシアースは蛇の交尾を見つけ、殺したことで女性となってしまった。
そして、再び同じ行動をして男性に戻った
ことから、物語冒頭のバイ・セクシャルに繋がる。
主人公デビッドがテイレシアースに準えられた事を示すものではないのか?と考えたわけです。


また、盲目の代償として予言の力と長寿を与えた。
予言の力についてだが、テイレシアースがナルキッソスを占って「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と予言する場面がある。
ナルキッソスは動物ではなく水仙という花に変えられてしまうのだが、ナルキッソスはナルシストの語源であり、自分自身を知るとは人を愛すること、今作では盲目の女性を愛する自分の姿。
愛を知らなければロブスターとなり長寿を得ることになる。
この物語の大筋とナルキッソスを占ったテイレシアースの予言の共通点です。



"オイディプース王の悲劇"に出てくる、かの有名なスピンクスの謎かけ。


オイディプスとスフィンクス

テーバイの地に向かったオイディプース。
そこではスピンクス(スフィンクス)という怪物に悩まされていました。
「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」

テーバイに来たオイディプースはこの謎を解き、スピンクスに言います。
「答えは人間である。何となれば人間は幼年期には四つ足で歩き、青年期には二本足で歩き、老いては杖をついて三つ足で歩くからである」


余談ですが、もうひとつの解釈として
スピンクスの謎かけの答えは「オイディプース」であるとも言われています。
初めは立派な人間(二つ足)
母と交わるという獣の行いを犯し(四つ足)
最後は盲目となって杖をついて(三つ足)
つまり、朝・昼・夜という時系列は、青年期・壮年期・老年期となるということ。
この解釈は蜷川幸雄演出の『オイディプス王』(2002年、野村萬斎主演)でも演じられています。


これも彼らの行動と一致する。
人間として生きていく道を選んだ二人。
厳密には近親相姦ではないが、森での禁じられた行為(異性間交遊)として描かれていると思ってもらえれば。



ちなみに、テイレシアースとオイディプースの共通点でもあるテーバイについても言及しておきます。

テーバイは、ギリシャ神話で重要な役割を果たす土地。
神話によれば、テーバイの創建者はカドモスで、父を殺し母を妻としたオイディプースの悲劇の舞台です。

オイディプースには2人の男子と2人の女子がいました。
オイディプースの2人の男子は王位をめぐって争い、テーバイ攻めをする。
その攻略に失敗し、反逆者として埋葬が禁止された。

今作に当てはめるなら、テーバイは例のホテルを指し、逃亡した独身者は反逆者を指す。
誰も埋めてはくれない、自分の墓を掘れという設定は反逆者は埋葬が禁止されたことに基づくと考えられる。



愛とは何か?

あくまでもギリシア神話はこの物語の大筋の話を準えるだけであって、その根底にあるメッセージはTwitterの感想にも記述した通り、"愛とは何か?"なんですよ。


ホテルのルールとして45日以内にパートナーを見つけなければ動物になる。
極端な話、好きでもない異性に好かれる為に偽りの共通点を探すわけです。
その嘘に綻びが出ればカップルにはなれず動物となってしまう。

だから、それが嫌で独身者のままであろうとする逃亡者が森へと逃げ出す。

面白いのが、その逃亡者たちレジスタンスを麻酔銃で眠らせて捉えれば、一人あたり一日のホテル滞在期間が延長されるというもの。

ホテル滞在者は動物にされまいと必死であり、独身者は格好の餌食。
つまり、まだ動物になっていない逃亡者は既に動物のように狩られる立場にあるということです。

ホテルでも規則に縛られ、レジスタンスでも規則に縛られる。
いずれにしても待っていたのがファシズムの抑圧なわけです。



ここで、レジスタンス側としてデビッドは近視の女性と恋に落ちて逃避行するわけですが、もっと早くに出会っていれば…といった人の運命論的観点が皮肉が見え隠れする。


デビッドが思いを寄せる女性に近づいた男に必要以上に近視かどうか迫るシーンでも、近視であることが二人の共通点、運命の相手である条件、運命の出会いであると信じていたから。


そんな近視の女性はレジスタンスのリーダーに騙されて失明する。
近視ではなくなった女性との共通点がなくなったデビッドが取った行動がラストシーンです。

ラストで足の不自由な男が鼻血の偽装を行ったように、彼も盲目となったか否かについては、個人的見解では否であると考えています。

様々な解釈が出来る故、盲目を選んだ視点もあり。
盲目になることを選んだと解釈するなら、盲目の預言者であるテイレシアースに繋がり、盲目の人が杖をついて歩く姿からオイディプースの三本足(この物語の終盤を指す)にも繋がる解釈が可能です。

エンドロールに流れる波の音からも、彼は盲目となるという決断が出来ず、ロブスターになった説の方が濃厚ですね。
エンドロールに入る間際の彼を待ち続ける彼女の長回しからもそれは推測できる。



「せめて生まれ代わることができるのなら、人間なんて厭だ。しかし、牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。どうしても生まれ代わらなければならないのなら、私は貝になりたい。なぜなら、深い海の底の岩にへばりついている貝は、何の心配もない。兵隊にとられることもない。」

元陸軍中尉・加藤哲太郎の獄中手記『狂える戦犯死刑囚』の遺書部分をもとに創作されたドラマ『私は貝になりたい』。
その遺書の一文です。

これと似たような内容の詩があります。

I should have been a pair of ragged claws
Scuttling across the floors of silent seas.
(カニかなんかの一対のボロ爪になって、しいんとした海の底を急いで渡ってたほうがよかったね。)
The Love Song of J. Alfred Prufrock by T. S. Eliotより引用


『The Love Song of J. Alfred Prufrock』
J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌というトマス・スターンズ エリオットの処女詩集。


まさに今作でのデビッドの想いそのもの。
愛から逃れるために、人間ではいたくなくなった。
ロブスター(カニ)のように海の底で静かに生きようと。

デビッドは盲目になることを避け、視力の代わりに彼女の愛を失ったのでしょうか。



終わりに

ということで、簡単にギリシア神話から見た『ロブスター』の考察と補足をしましたが、様々な解釈が出来る面白い映画でしたね。


久しぶりに旧作映画で考察したいと思える作品に出会いました。
ヨルゴス・ランティモス監督作、実は『女王陛下のお気に入り』が初鑑賞作であり、『ロブスター』は彼の作品の二作目なんです。



『聖なる鹿殺し』は劇場鑑賞を逃してしまって、まだ鑑賞出来ていません。
また機会がありましたら、ブログに起こすかもしれません。

その際は、よろしくお願いします(笑)





【追記】

『聖なる鹿殺し』、『籠の中の乙女』鑑賞しました。
考察ブログはこちらから。





最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2015 Element Pictures, Scarlet Films, Faliro House Productions SA, Haut et Court, Lemming Film,
The British Film Institute, Channel Four Television Corporation.



現代社会に切り込む聖書(「幸福なラザロ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は『幸福なラザロ』について語っています。

この映画を深く語ろうとすればネタバレを避けることはできません。
したがって、この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Lazzaro felice
製作年:2018年
製作国:イタリア
配給:キノフィルムズ
上映時間:127分
映倫区分:G


解説

カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作「夏をゆく人々」などで世界から注目されるイタリアの女性監督アリーチェ・ロルバケルが、死からよみがえったとされる聖人ラザロと同じ名を持ち、何も望まず、目立たず、シンプルに生きる、無垢な魂を抱いたひとりの青年の姿を描いたドラマ。「夏をゆく人々」に続き、2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、脚本賞を受賞した。20世紀後半、社会と隔絶したイタリア中部の小さな村で、純朴な青年ラザロと村人たちは領主の侯爵夫人から小作制度の廃止も知らされず、昔のままタダ働きをさせられていた。ところが夫人の息子タンクレディが起こした誘拐騒ぎを発端に、夫人の搾取の実態が村人たちに知られることとなる。これをきっかけに村人たちは外の世界へと出て行くのだが、ラザロだけは村に留まり……。
幸福なラザロ : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



時代背景

今作『幸福なラザロ』は20世紀後半のイタリア中部にある小さな村が舞台。

貧しい生活の中で働き者の純朴なラザロと村人たちは、小作制度の廃止を隠蔽する侯爵夫人に騙され、社会から隔離された生活を強いられていました。
ある日、侯爵夫人の息子タンクレディ狂言誘拐騒ぎを起こし、この事件をきっかけに村人たちは外の世界に出ていく。



このあらすじは監督アリーチェ・ロルバケル自身が"小説より奇"な事実から着想を得たと語っています。

「何よりもイタリアで80年代にやっと中世――労働を奴隷制度と見なす考え方が終わったことで生まれた大きな可能性について語りたかったの。それは政治の力で労働が人類にとって重要なものであることを再認識するチャンスだったから。ところが奴隷制を続ける選択がなされた。肌の色が変わり、出身地も変わって、以前の農民たちとは違うけれど、奴隷であることに変わりはない」
カンヌ脚本賞「幸福なラザロ」A・ロルバケル、インスピレーションの源は“小説より奇な”事実 : 映画ニュース - 映画.comより引用


イタリアでは、1964年から1982年という18年もの時間をかけて廃止になったメッザドリアという小作人制度がありました。
メッザ(半分)という言葉からも分かる通り地主に収穫の半分を納めるというものです。

小作制度(こさくせいど)とは、農民が生産手段としての土地をもたず、その土地の所有者や占有者から土地の使用権を得て農作物の生産に従事する制度。小作制度は土地の性格あるいは所有権や占有権の性格の差異によって多様な様相をもつ。
小作制度 - Wikipediaより引用


1982年に封建的な小作制度が廃止されても尚、労働環境は改善されず、搾取も隷属状態も改善されない。
それどころか、貧困問題は一層過酷になっている。
農民たちは自由を手に入れたが、特権階級は搾取のターゲットを貧しい外国人たちに変え、更に搾り取ろうとしていました。



これは嘘のようで本当にあった出来事。
容赦のない現実の不条理を描き出すため、アリーチェ監督が選んだ主人公がラザロなのです。

目を見張るほどの善人であり、純粋故に人を疑うことを知らない。
扱き使われる村人のためでも、自己中心的な侯爵夫人の息子のためでも、望みを聞いて回る。
隷属関係にある下僕のようにも、はたまた人々を助ける聖人のようにも映る。
そんなラザロの姿が静かに淡々と、それでいて清く淑やかに慎ましく物語を引っ張っていく。



第一部

ラザロくんは二度死ぬ!



いきなり核心をつくネタバレをぶち込みました。

そう、ラザロくんは劇中で二度死んじゃうんです。
あらすじに書かれたストーリーは第一部に過ぎません。
一度目の死からの復活で物語は第二部へと入ります。

色々あってラザロくんは一度死んでから、時を経て再び目覚めるんですよね。



まず、ラザロくんは新約聖書に聖人ラザロがモデルなのは言うまでもないですね。


ラザリ(ラザロ)の復活のイコン(15世紀ロシア)

ラザロはユダヤ人の男性で、イエスの友人。日本ハリストス正教会ではラザリと転写される。ユダヤ名エリエゼルがギリシア語化した名と推測される。

正教会非カルケドン派カトリック教会・聖公会で聖人。記念日は6月21日。エルサレム郊外のベタニアに暮らし、マリアとマルタの弟で共にイエスと親しかった。イエスは彼らの家を訪れている(『ルカによる福音書』10:38-42)。

また『ヨハネによる福音書』11章によれば、イエスによっていったん死より甦らされた。ラザロが病気と聞いてベタニアにやってきたイエスと一行は、ラザロが葬られてすでに4日経っていることを知る。イエスは、ラザロの死を悲しんで涙を流す。イエスが墓の前に立ち、「ラザロ、出てきなさい」というと、死んだはずのラザロが布にまかれて出てきた。このラザロの蘇生を見た人々はイエスを信じ、ユダヤ人の指導者たちはいかにしてイエスを殺すか計画しはじめた。カイアファと他の大祭司はラザロも殺そうと相談した。(ヨハネ12:10)

ラザロ - Wikipediaより引用


ラザロ蘇生の奇跡は、人類の罪をキリストが贖罪し、生に立ち返らせることの予兆とされています。

このラザロ蘇生はメタファーやメッセージ性として多くの文学に用いられています。
例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』でも、主人公である殺人犯ラスコールニコフが自白を決意する際にラザロの死と復活について娼婦ソーニャに請うて朗読させる場面があります。


また、ラザロという言葉は医学用語としても用いられます。

ラザロ徴候(ラザロちょうこう、英語: Lazarus sign, Lazarus phenomenon)は脳死とされる患者が自発的に手や足を動かす動作のことである。1984年にA・H・ロッパーによって脳神経科学誌の『Neurology』に報告され、ラザロ徴候と名づけられた。名前は新約聖書でイエスによってよみがえったとされるユダヤ人のラザロに由来する。
ラザロ徴候 - Wikipediaより引用


ラザロ徴候を題材としたSFホラー映画も作られていますね。



ちなみに、新約聖書旧約聖書に対して、新しい契約という意味がある27の文書からなるキリストの正典です。

旧約聖書ユダヤ教の正典であり、モーゼとの契約について記されたもの。
新約聖書はキリストの誕生後の神の啓示を記したもの。
マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書でイエスの行動と説教を伝え、ペテロ・パウロなどの活動を伝える「使徒行伝」があり、パウロの手紙といわれる13の書簡が続く。
最後に「ヨハネの黙示録」ではローマ帝国の迫害下にある信者に対し、忍耐と希望を呼びかけ、終末での神の審判への期待を記している。



劇中の冒頭で、村人たちが宴を繰り広げている夜、一人で鶏小屋の見張りをするラザロの姿がひとつ。
侯爵夫人に搾取される村人たちからも搾取されるラザロくんという構図は言わば食物連鎖の底辺に位置する。

もうひとつは高熱に魘された夜
村人たちはラザロの頭をご利益があるかのように順番に撫でていく。
足元もおぼつかない様子で高所から転落する一度目の死は、侯爵夫人と村人の隷属関係の崩壊を意味し、小作人たちは救済される。





ここで、劇中に一貫して登場する"狼"について考えていきます。

小作人たちにとって、家畜は財産のようなものです。
そんな大切な家畜、主に羊や鶏を殺すものとして狼は恐れられている存在。
隔離された社会の外部からやってきてその集落を撹乱させる存在です。

羊や鶏を見張るラザロは村人からも搾取される立場。
しかし、そんなラザロこそがその集落を守り、支える役割を担っていたのだろう。



小作人である村人たちを搾取する側の立場であるタンクレディと搾取される側のラザロが兄弟という形で友好的な関係を築き、"狼の遠吠え"を真似たシーン。
これは集落が内部から崩れることを予兆するもの。

結果、デ・ルーナ侯爵夫人を頂点とする食物連鎖は、タンクレディ狂言誘拐によって崩壊することとなった。



新約聖書には"羊の皮をかぶった狼"という言葉が登場します。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。(新約聖書 マタイの福音書 7章 15節)

意味としては「親切そうにふるまっていながら、内心ではよからぬことを考えている人物」となります。
ちなみに"羊"という動物は聖書の中では、象徴的な意味を持つ動物。
それは時にイエス・キリストを象徴する時もあれば、人間を象徴することもあります。

つまり"羊の皮をかぶった狼"とは侯爵夫人やニコラのように小作人を搾取する側を指す。
村人たちが侯爵夫人のことを"毒ヘビ"と表現していたこの言葉がそれと同等の意味を持つ。

新約聖書にてパウロが毒蛇に噛まれる話がありますが、旧約聖書から一貫して毒蛇は悪の象徴であると考えられます。

旧約聖書においても創世記3章にて、蛇はアダムとエバをそそのかし、神様が食べてはいけないと言われていた木の実を食べさせてしまいます。
これが人間の罪の始まりでした。

村人にとって、侯爵夫人は悪の存在というわけです。



少し話が逸れましたが、狼の話に戻します。
ラザロくんの一度目の死から、再び目覚めたシーンで、狼がラザロの匂いを嗅いでいました。

狼は善人の匂いを嗅ぎ分けられるのか?



イタリアオオカミという品種がいるのはご存知でしょうか?


メスはオスに比べて1割ほど小さい。 オスの平均体重は、24~40kg、体長100~140cmで体毛は黒や灰色、茶色をしている。

イタリアオオカミは、1800年代半ばまでは、シチリア島を含め、イタリア半島の広範囲に及んでいたが、 1940年代にはシチリア島から姿を消した。 1960年から1970年の間に400頭以上のイタリアオオカミが殺害された。

イタリアオオカミ - Wikipediaより引用


劇中に登場した狼もイタリアオオカミです。
狼はイタリアにとって象徴的な動物なんですね。

ラザロには両親はいません。
いつ、どこで生まれたのかも知りません。
狼と育った可能性も。
そして一度目の死で、狼がローマの魂を運んできた、とも考えられます。

ローマに伝わる伝説にも、狼に育てられた双子の話があり、ローマの街には狼の銅像も建っています。
狼に育てられた双子ロムルスとレムスは羊飼い夫婦ファウストゥルスとラレンティアに発見され、二人のもとでたくましい青年に成長し、羊飼いをしていたという話もあります。
この兄ロムルスという名前が、後に"ローマ"の名前の由来となったそうです。



第二部

一度目の死からの復活、時を経て目覚めたラザロはひとり過去に取り残されたかのように彷徨い歩く。

第一部ではたばこ農園と自然の風景を中心に、実話に準えたストーリーで村人たちをリアリズムに捉えていました。


時を経て第二部へと入り、舞台が隔離された村から北イタリアの大都市へ転ずると、ラザロの聖人像は一層色濃くなります。


アントニアやタンクレディと再会したラザロが訪れた教会のシーン。
まるで神がラザロを祝福していたかのように、彼が去った後の教会から音楽が逃げてしまいます。
聖歌はラザロを追って空を舞うのです。

その時、ラザロが流した一筋の涙は観ている我々観客の心を浄化するように美しく、清らかで。。。



兄弟と信じ込み、タンクレディとの再会を喜んだのも束の間、ラザロはその裏切りにより悲しみに暮れます。

タンクレディに招待される直前、タンクレディとラザロは再び"狼の遠吠え"をします。
これは二人の関係を崩壊させることを予兆していたのか?

ラザロは尚、兄弟であるタンクレディを救うべく、差し押さえられた財産を取り戻すために銀行へ向かいます。
辛くもタンクレディとの絆でもあった武器"パチンコ"を銃と間違えられ、怒り狂った市民の暴力によってラザロは動かなくなりました。

二度目の死を迎えたラザロの元を離れ、車道を走る狼は、"聖人"ラザロの清き魂を古都ローマへ連れ帰ったのか。





新約聖書にラザロはもう一人登場します。

金持ちとラザロはイエス・キリストのたとえ話(ルカによる福音書16章19~31節)に登場する対照的な人物である。

16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

金持ちとラザロ - Wikipediaより引用


この話に登場するラザロは聖人ラザロとは別人です。

ラザロという名前はヘブル名ではエルアザル(神はわが助け)という意味。
貧しい病人のラザロに対し同情心を持たなかった、ある金持ちの死後の世界での末路について語られる。
そして、イエスが教えを語り、悔い改めを促しても彼らは一向に耳を傾けないだろうと言う意味が込められている。



ラザロの一度目の死からの復活、第一部は"聖人ラザロ"。
そして、復活してからラストの二度目の死までの第二部は"金持ちとラザロ"に登場するラザロとの共通点が非常に多いんです。



終わりに

第一部では過去に実際にあった事実を基に"聖人"ラザロの復活を。
そして第二部では第一部で描いた小作制度が残す傷跡、現代社会を見据える"聖人"視点で映しながら、貧困層が抱える問題を描いた寓話、いや聖書である。


独特な世界観や空気感、それを押し付けがましくなく、すっと心に染み渡るように優しく、そして心の澱を掬ってくれるように慎ましく現代の"聖人"を作り上げたアリーチェ・ロルバケル監督の手腕を見せつけられました。
過去作を観ると共に、新作を追いかけていこうと思いましたね。

ということで『幸福なラザロ』、なんとも言えない余韻に包まれる素晴らしい映画でした。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

「神と共に 第一章:罪と罰」ネタバレあり感想

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は韓国映画「神と共に 第一章 罪と罰」について語っています。

一言で言うと
泣いたし、めちゃくちゃ面白かった!!!

まだ間に合います。
二部構成なので、興味ある方は今のうちに劇場へGOしちゃってください!



この記事にネタバレを含みます。
未観賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Along with the Gods: The Two Worlds
製作年:2018年
製作国:韓国
配給:ツイン
上映時間:140分
映倫区分:G


解説

韓国の人気ウェブコミックを実写映画化し、世界的ヒットを記録したファンタジーアクション2部作の第1章。人間は死ぬと49日間に7つの地獄の裁判を受けなければならず、すべてを無罪で通った者だけが現世に生まれ変わることができる。ある日、死を迎えた消防士ジャホンの前に、冥界からの使者で地獄の裁判の弁護と護衛を務めるヘウォンメクとドクチュン、カンニムが現れる。生前の善行が認められ、19年ぶりの貴人として転生を確実視されるジャホンだったが、裁判が進むにつれて地獄鬼や怨霊が出現し、冥界が揺らぎはじめる。冥界の使者カンニムを「お嬢さん」のハ・ジョンウ、ヘウォンメクを「アシュラ」のチュ・ジフンが演じるほか、共演にも「猟奇的な彼女」のチャ・テヒョン、「新しき世界」のイ・ジョンジェら豪華キャストが集結。「ミスターGO!」のキム・ヨンファ監督がメガホンを取る。
神と共に 第一章 罪と罰 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



罪と罰

タイトル『神と共に 第一章 罪と罰』からも分かる通り、二部構成という形を取りながらひとつの映画としてしっかりとカタルシスを設け、その上で後編に繋げるというエンタメのお手本です。

また、韓国映画のイメージは例えば猟奇殺人もの、自国の政界的な汚点を描いた社会派ドラマやヒューマンドラマ、ラブロマンスなどをイメージしますが、今作のジャンルはファンタジーアクション。
これが韓国でも大ヒットを巻き起こしたんです。


正直、あまり期待はせずに観たのですが、予想を超えるスケール感に圧倒されました。

『新 感染 ファイナル・エクスプレス』など、昨今の韓国映画の新境地開拓は良い方向に向いてますね。


では、本題に入っていきます。
タイトルにもある『罪と罰』。

罪と罰といえば、ドストエフスキーの『罪と罰』を思い浮かべる。

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)


主人公のラスコーリニコフは"1つの罪は100の善行によって償われる"という理論のもと、過去に火事の中から子供を救ったこともある青年。
しかし、殺人を犯してしまって罪の意識に苛まれる。

この作品は、"罪を犯した人間でも更生することができる"といった希望を見せるメッセージを含意しています。



今作での『罪と罰』は単純に地獄の法廷劇を意味します(笑)
厳密に言えばジャホンがラスコーリニコフと重なる部分はあるのですが、深く考察するまでもないでしょう。

生前の罪を背負い、死後に罰を受ける。
但し、生前に許された罪は死後に処罰されないといった例外はあります。

主人公の消防士ジャホンは生前の善行が認められた"貴人"。
貴人とは、一般的に身分の高い人のことを指す言葉ですが、ここで言う身分は冥界での扱いですね。



人は死を迎えるとどうなるのか?
この世(下界)とあの世(冥界)の世界はあるのか?
今作はそんな死生観を仏教の概念とVFXを用いて壮大なスケールで描いた超大作と言えます。



量子力学の観点から見た死生観は、脳(物質)の次に意識が作られるのではなく、意識から脳(物質)が作られる。
つまり、肉体(物質)が死んでも意識まで消滅する必要はなく、死後(意識)の世界が認められると仮定される。
即ち、死後の世界とは意識の世界ということになる。


冒頭でいきなり人生のクライマックスを迎えた消防士ジャホンが亡くなるシーン。
現場で倒れている自分を見ていましたが、これは量子力学の世界でいう意識。
言わば臨死体験のようなものと考えられます。

‪一旦、肉体の機能が停止した後、奇跡的に息を吹き返した人間がその間に体験する時間。
‪ある臨死体験に基づいた記録によると、死の直後3分間は意識があるとのこと。‬

使者が現れ、下界と冥界を繋ぐ穴に吸い込まれる間は霊体(意識)として下界に存在していたことになる。


ジャホンの弟スホンは、死後に怨恨によって下界に留まる。
これは所謂地縛霊のようなものだと考えられます。

身内が死後に怨恨で下界に介入すると冥界に地獄鬼が現れ時間の流れも早くなるという特殊な設定と、使者は下界に介入できないとしながら下界に介入した際に冥界に影響があったことから、基本的に亡者は下界に介入することは冥界の法律違反とされているようですね。

ただ一つ、下界に介入出来るものが現夢と呼ばれるもの。
亡者が下界の誰かひとりの夢の中に一度だけ姿を表すことができる。
所謂夢枕に立つというやつです。

夢枕に立つことは、何かを伝えるために霊が下界に現れたと考えて良いので、もし枕元に先祖の霊が現れて何も言わずに突っ立ったままだったら、ご用件を訊ねましょう(笑)



死後の世界を描いた映画は結構多いですよね。
例えば、最近日本でも公開された『DESTINY 鎌倉ものがたり』もそうです。


今作で描かれる死後の世界(冥界)は、端的にやりすぎです(笑)

まあ、そこが面白いんですが。
大枠はあらすじ通り法廷劇で小難しい話は一切なく、亡者ジャホンの生前の罪を問われ罰を与えるか否かという裁判がヒューマンドラマの形で描かれていきます。
家族を絡めてトラブルが発生する七つの裁判、そして兎に角、使者のアクションが凄い。

これはドラゴンボールか?
いや、『ジャンパー』だ!(笑)


とはいえ、七つもの裁判をひとつの映画内で行うことは時間の枠的に厳しいものがあり、テンポは早め。
そこがかえって良かったとも思います。
多分、もっと時間を掛けていたら中弛るみしてました。



七つの裁判

韓国映画において、仏教の映画は珍しく、韓国で扱われる宗教はキリスト教が多いと思います。

仏教を扱った映画で思い付くのは『アシュラ』。


キリスト教を扱った映画は多数あるので、個人的に好きな映画を。

シークレット・サンシャイン


『哭声 コクソン』




さて、今作『神と共に 第一章 罪と罰』で扱われる輪廻転生を題材にした死生観、仏説寿生教について記述していきます。

あらすじから簡単に説明をすると

人は死ぬと、49日間に7つの地獄の裁判を受けなくてはならない。
殺人・怠惰・ウソ・不義・裏切り・暴力・天倫
七つの地獄の裁判を無罪で通ったものだけが、現世に生まれ変われる。

というもの。
劇中でジャホンが受けた裁判の順は以下の通り。

火蕩霊道にある変成大王が仕切る"殺人地獄"
三途の川にある初江大王が仕切る"怠惰地獄"
剣樹林にある泰山大王が仕切る"ウソ地獄"
寒氷峡谷にある五官大王が仕切る"不義地獄"
天地鏡にある宋帝大王が仕切る"裏切り地獄"
真空深穴にある秦広大王が仕切る"暴力地獄"
千古砂漠にある閻魔大王が仕切る"天倫地獄"



日本における仏教では六道が一般的ですね。

六道とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。

六道には下記の6つがある。
天道(てんどう、天上道天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう、阿修羅道とも)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
このうち、天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道三悪趣三悪道)という。

六道 - Wikipediaより引用



また、中国における仏教(道教)にも似たような教えがあります。
それが十王です。

十王とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の、いわゆる裁判官的な尊格である。数種の『十王経』類や、恵心僧都源信の『往生要集』に、その詳細が記されている。

人間を初めとするすべての衆生は、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、没後に中陰と呼ばれる存在となり、初七日 - 七七日(四十九日)及び百か日、一周忌、三回忌には、順次十王の裁きを受けることとなる、という信仰である。

没して後、七日ごとにそれぞれ
秦広王(初七日)
初江王(十四日)
宋帝王(二十一日)
五官王(二十八日)
閻魔王(三十五日)
変成王(四十二日)
泰山王(四十九日)
の順番で一回ずつ審理を担当する。
七回の審理で決まらない場合は、追加の審理が三回
平等王(百ヶ日忌)
都市王(一周忌)
五道転輪王(三回忌)
となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質、救済処置である。
もしも地獄道・餓鬼道・畜生道三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みとなっている。

十王 - Wikipediaより引用



基本的な設定はこちらがモチーフとなっているかと思います。
今作に登場する裁判を収める大王の名前も十王と一致します。

もしかしたら、続編『神と共に 第二章 因と縁』では追加の審理3つが出てくるのかもしれませんね!

ただし、今作では死後の世界は全て地獄であり、生まれ変わる先が六道ではなく地獄道か人間道ということでしょう。
劇中でもちゃんと説明がされているので、地獄のルールについては観ていただければ分かると思います。

十王の裁判の裁きは特に閻魔王の宮殿にある「浄玻璃鏡」に映し出される「生前の善悪」を証拠に推し進められるが、ほかに「この世に残された遺族による追善供養における態度」も「証拠品」とされるという。
十王 - Wikipediaより引用


このように、裁判中に使者が弁論をする際に生前の証拠として見せていた鏡のことも明記されていました。



総評

と、ここまで冥界と七つの裁判について語ってきましたが、ここで総評です。

冒頭でも申した通り
泣いたし、めちゃくちゃ面白かった!!!

確かに冥界の世界観はワクワクします。
しかし、法廷劇が面白いわけではないんです。
なんなら雑なくらいです(笑)

そう、この作品のキモは裁判でも地獄でもなく、それらはすべてが消防士として生前に善行を積んだ主人公ジャホンとその弟スホンを絡めた家族の愛を掘り起こす媒体に過ぎないのです。

スホンは兵役中に一等兵のウォン・ドンヨンの誤射によって倒れる。
死を隠蔽したい上司がドンヨンと共にスホンを森に埋めた際、まだかろうじて生きていたスホンは生きたまま埋めになって殺される。

ジャホンの物語から突如スホンの物語へと移行し、その2つの物語を絡めて最終裁判である"天倫地獄"を迎える。

ファンタジーアクションと謳いながら、ミステリー要素までぶっ込んできたぞ!!!
と評価上がっちゃう。


"天倫地獄"で明らかになったジャホンの生前の罪。
兄弟喧嘩。
15年もの間、実家に帰らなかった理由。

卑怯だよね。ベタだよね。
泣かせようとする演出では普段泣かないんですが、泣いた。
何に泣いたかって、お母さんの我が子を思う気持ちですよ。
親の心子知らずとはよく言ったもので、もうこういうのに滅法弱い。

罪を許され無事ジャホンは生まれ変わることができました。

ハッピーエンド。





で終わりではなく、ジャホンはまだ48人目なんですよね。
そう、49人を生まれ変わらせることで、やっと使者たちは生まれ変わることができるんです。

49人目は最後の功績が認められ(?)貴人となったスホン。
そして、続編となる『神と共に 第二章 因と縁』はついにマ・ドンソクが登場します。


第一章はジャホンの物語。


第二章はカンニムたち使者の物語ということで、非常に楽しみです!



終わりに

ということで(?)
観客を楽しませることに注力した複合型エンターテインメントといったところでしょうか。
まんまとその魅力にハマってしまった。

元々、韓国映画は大好物だったのですが、新たな韓国映画の魅力を知れて「こういうのもアリだな」といった印象。
今後の楽しみが増えましたね。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました!



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静かなる変革と未来への軌跡(「僕たちは希望という名の列車に乗った」感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は5月に絶対観たいと心待ちにしていたドイツ映画
『僕たちは希望という名の列車に乗った』
について語っています。

この記事に明確なネタバレはございません。
最後までお読みいただければ幸いです。



作品概要


原題:Das schweigende Klassenzimmer
製作年:2018年
製作国:ドイツ
配給:アルバトロス・フィルム、クロックワークス
上映時間:111分
映倫区分:PG12


解説

ベルリンの壁建設前夜の東ドイツを舞台に、無意識のうちに政治的タブーを犯してしまった高校生たちに突きつけられる過酷な現実を、実話をもとに映画化した青春ドラマ。1956年、東ドイツの高校に通うテオとクルトは、西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を見る。自由を求めるハンガリー市民に共感した2人は純粋な哀悼の心から、クラスメイトに呼びかけて2分間の黙祷をするが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは社会主義国家への反逆とみなされてしまう。人民教育相から1週間以内に首謀者を明らかにするよう宣告された生徒たちは、仲間を密告してエリートとしての道を歩むのか、信念を貫いて大学進学を諦めるのか、人生を左右する重大な選択を迫られる。監督・脚本は「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男」のラース・クラウメ。
僕たちは希望という名の列車に乗った : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編
https://youtu.be/UE1pZVM52aI



ラース・クラウメ監督

アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』ラース・クラウメ監督が、ベルリンの壁建設5年前の東ドイツで起こった史実を基に作られています。

"たった2分間の黙祷"は、国家を揺るがす大事件に発展するという衝撃の実話を映画化した青春群像劇。


アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』の感想はこちら。



今作『僕たちは希望という名の列車に乗った』と『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』の二作からも、ラース・クラウメ監督が描く映画のメッセージが読み取れる。

ラース・クラウメ監督は映画を通して我々観客に、 ドイツが誇れる人物を、物語をもっと多くの人に知ってもらいたい。
歴史を変えた英雄を、時代の矛盾に苦しんだ者たちの奮闘する姿を伝えたい
のではないか?


アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』にてフリッツ・バウアー本人映像の冒頭の語りはラース・クラウメ監督自身にも大きな影響を与えたのではないだろうか。

「我々ドイツ人にとって、奇跡的な経済復興とゲーテやヴェートーベンを生んだ国であるということは、とっても大きな誇りになっている。
だが、その一方でドイツは、ヒトラーアイヒマン、そしてそのお仲間を生んだ国であるというのも事実である。」
by フリッツ・バウアー





ラース・クラウメ監督は今作の映画化へ動いた理由を明かしています。

「『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』が自分でも予想できないぐらいの成功を収めて、うれしい反面、次へのプレッシャーがそうとうあったことは確か。周囲から期待されるからね(苦笑)。ただ、プロデューサーにはほんとうに自分がいいと思う脚本でないと作れないと宣言していた。

 そんな折、出会ったのがディートリッヒ・ガルスカのノンフィクション『沈黙する教室 1956年東ドイツ-自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語』だったんだけど、恥ずかしながらこんなことがあったなんて知らなかった。

アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』の主人公フリッツ・バウアーはもっともっとドイツ国内で知られていい人物だけど、それなりに知っている人はいる。でも、今回の『僕たちは希望という名の列車に乗った』のエピソードに関しては、ドイツ人でさえほとんどが知らない。ということは世界では全く知られていないということ。確かにベルリンの壁崩壊前後のことはよく描かれいる。ただ、これは壁がまだできる前の話。ここら辺の時代、とりわけ東ドイツ側の状況はほとんど語られていない。これは世界に向けて発信しなければと思ったんだ」

ラース・クラウメ監督が東ドイツを題材にした理由は?|Real Sound|リアルサウンド 映画部より引用


ドイツの人々がなぜ東に残るのか、なぜ西へ逃げるのかが的確且つ簡潔に描かれており、予備知識は不要。
しかし、ベルリンの壁に関する時代背景や当時のドイツの情勢を念頭に観ると更に深みが出ます。

ということで、予備知識として時代背景を簡単に書き足しておきます。
参考までにどうぞ。



時代背景

まず、資本主義と社会主義、その時代背景について簡単に説明します。

資本主義は、営利目的の個人的所有者によって商業や産業が制御されている、経済的・政治的システム。
資本主義 - Wikipediaより引用


簡単に説明すると、資本(お金)を持つ資本家が労働者を雇って利益を得る体制のことで、我が国日本の社会も資本主義にあたります。

資本主義のメリットは競走市場により、経済が発展しやすいこと。
デメリットは格差が広がる恐れがあること。

社会主義は、個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制。
社会主義 - Wikipediaより引用


こちらは、国が国民の給料や財産を管理して、 平等を実現しようとする体制のこと。
つまり、国民を平等にする為に国、政府が一括に管轄する社会。

社会主義のメリットは計画経済を基盤に格差のない平等な社会を目指すもの。
デメリットは経済が停滞しやすく、政治的圧力が強いこと。

あくまでも社会主義共産主義を目指す第一段階であるという言わば理想論です。



最初に"社会主義"を実行したのが当時、地球上で最も面積が大きかった"ソ連"という国です。
1900年頃まで、世界の中心は資本主義でしたが、1922年にスターリンのもとでソ連が成立すると、スターリンソ連社会主義化を進めます。

そして、1945年に第二次世界大戦が終わると、ソ連は周辺国を中心に"社会主義"を広めていきます。


以降、社会主義国家は東ドイツハンガリーポーランドなどの東欧。
中国、北朝鮮の東アジア。
ベトナムカンボジアなどの東南アジア。
イラク、シリアなどの中東。
エチオピアコンゴ共和国などのアフリカ。
キューバの中米。
世界中で社会主義が成立します。

それに危機感を感じたのが、資本主義の象徴であるアメリカ。
この"資本主義アメリカ"と"社会主義ソ連"の対立が、いわゆる"冷戦"です。


しかし、上記に記載した通り社会主義は"経済が停滞しやすい"というデメリットがあり、ソ連は1991年に崩壊します。

"ベルリンの壁"崩壊後の旧東ドイツを描いた映画『希望の灯り』も凄くいい映画でした。
機会があれば是非。



今作の舞台となった1956年は"ベルリン壁"建設前の時代。
壁が建設されたのはこの5年後の1961年です。
東西ドイツに分断されたのは1949年で、まだ国としては新しくて混乱と発展の狭間にあった。

社会主義に重きが置かれ、国民の思考としても社会主義には"希望"を抱いていたのかもしれません。

1950年代終わりの東ドイツの生活水準は西ドイツの25~30%のレベルでしかなかったと言われています。



米ソ冷戦下での旧東ドイツが舞台となると、暗く重苦しい描写を想像するかもしれませんが、物語の導入は軽快。
今作の主人公であるテオとクルトという二人の若者が青春を謳歌している。



テオは労働者階級の生まれ。(上)
クルトは市議会議長の父を持つ。(下)

彼らは大学へ進学するという希望が約束された特進クラス。
社会的地位の異なる二人が同じ立場として国の行く末や社会的立場の苦難を強いられることとなる。
 


クルトのモデルは原作者ディートリッヒ・ガルスカです。
惜しくも2018年にお亡くなりになられたようで、この映画を観ることなくこの世を去られています。

舞台となった街や人物の脚色以外はありのまま描かれているそうで、監督は原作『沈黙する教室 1956年東ドイツ-自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語』を細かく読み解き、ディートリッヒ・ガルスカ本人にも話を聞いた上で脚本を書いたそうです。

沈黙する教室 1956年東ドイツ—自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語

沈黙する教室 1956年東ドイツ—自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語

ディートリッヒ・ガルスカ(著/文)
1939年生まれ。ケルン、ボーフムでドイツ文学、社会学、地理学を学ぶ。
ギムナジウム教師を経て、後はエッセンの市民学校で文化と芸術分野の講師をしていた。
2018年2月28日に本書を原作とした映画『僕たちは希望という名の列車に乗った(Das chweigende Klassenzimmer)』のワールド・プレミアがベルリン映画祭で行われたが、その2ヶ月後の4月18日に病没。



ナチスの傷跡

さて、ここまで今作を絡めつつ、時代背景について語ってきましたが、それを踏まえた上でこの作品が何を我々に残したのか。

ここからは個人的感想をまとめていきます。



ナチス・ドイツが残した傷跡は他国だけではなく、ドイツにもある。
例えば『ヒトラーの忘れもの』のようにナチス政権が残した負の遺産とどのように向き合い、過去を乗り越えていくのかをテーマにした作品が作られている。



今作でもナチス政権が残した負の遺産ナチスの傷跡が根強く残る。

東ドイツスターリンシュタットに通う高校生たちが、西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目にしたことからこの物語は大きく動く。

民衆蜂起でハンガリー市民が多数死亡したこと知った彼らは、学校の教室で哀悼の意を表し黙祷を捧ぐ。

統制がかかっていたこの時代にも、自由を求めて自分の意志を貫く若者たちが東ドイツにもいたという事実。



若者たちの行った"たった2分間の黙祷"。
それに対し、体制を重んじる大人たちが厳しく当たり、権力の行使が行われる。

それは、ソ連支配下社会主義国家(ソ連マルクス主義)であった東ドイツの体制において、ハンガリー動乱社会主義の体制を脅かす"国家への反逆"、"反革命行為"とされる行為だからだ。

今を生きる我々には人権があり、アイデンティティは尊重されるべきものとして守られている。
しかし、当時の大人たちから見ればそれは、"反乱分子"であり、"反革命的"な若者たちとして見なされるのだ。



また、今作で使われた"ゲシュタポ"という言葉に対し、大人たちは激昴し「ナチスと戦った」と反論する。

支配と隷属
かつての独裁国家ナチス武力行使を憎んでいた大人たちが若者たちに対して同じようなことをしているというこの皮肉こそが、根強く残るナチスの傷跡そのものである。



また、社会主義(ソ連マルクス主義)は国が資産を管理することから政治的な抑圧、差別が見られる。

マルクス主義とは、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスによって展開された思想をベースとして確立された社会主義思想体系の一つである。しばしば科学的社会主義とも言われる。

マルクス主義は、資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている。

ソ連型のマルクス主義マルクス・レーニン主義、その後継としてのスターリン主義)に対して、西欧のマルクス主義者は異論や批判的立場を持つ者も少なくなかったが、最初に西欧型のマルクス主義を提示したのは哲学者のルカーチ・ジェルジとカール・コルシュだった。

ルカーチソ連マルクス主義マルクスレーニン主義)に転向したが、ドイツのフランクフルト学派と呼ばれるマルクス主義者たちは、テオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマーを筆頭に、ソ連マルクス主義のような権威主義に対する徹底した批判を展開し、西欧のモダニズムと深く結びついた「批判理論」と呼ばれる新しいマルクス主義を展開し、1960年代の学生運動ポストモダニズムなどの現代思想に対しても深い影響力を見せている。

マルクス主義 - Wikipediaより引用



つまり、マルクス主義による冷戦下での思想の抑圧は、東欧から西欧へ、後世の現代思想にまで影響を与えているほど強大なものであった。


マルクス主義による格差社会の撤廃は、逆に抑圧的な差別意識を含む。
その差別意識は支配階級のイデオロギーが被支配階級に強制されている。

即ち、様々な階級、階層、民族、世代、その他の社会集団が、それぞれの存在条件を維持、あるいは変革するための力として作用するものとしての精神的諸形態。

これは現在の差別意識にも通ずるところがある。
個人の差別意識でも、差別イデオロギーでもなく、社会意識としての差別意識そのものではないだろうか。
どのような状況に置かれているどのような集団がいかにして差別意識を形成し、保持しているのか。
また、その集団に所属している個人は如何にして差別意識を内面化し、集団の差別意識を支えているか。



この作品の凄いところは
その階級社会を撤廃するという平等な社会の確立という聞こえの良い言葉の中に隠された差別意識をしっかりと映像として見せ、差別意識を無意識に植え付けられた体制と社会主義の危うさを浮き彫りにしているところではないだろうか。

無論、そんな大人たちに屈することなく、自分たちで考えて行動に起こした若者たちが輝いて見える。
そんな若者たちへの繊細で力強い想いも素晴らしいのですが。


ここに関してはラース・クラウメ監督の前作『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』の冒頭でも共通する認識がある。

「どんな日であっても必ず昼と夜があるものだが、同様にどんな民族の歴史においても陽の部分と陰の部分がある。
私は信じる。このドイツの若い世代ならきっと出来まいことはないのだと。
過去の歴史と真実を知っても克服出来るはずだ。
だが、若い世代に出来てもこれがその親世代となると実に難しいことなのだ。」
by フリッツ・バウアー


体制のもと、そうであることが"正しい"と刷り込まれた親世代は、簡単には変われない。
だからこそ、それを若い世代に押し付けようと、型に収めようとする。
若い世代は、見るもの全てが新しく、"自由"を選択することが出来る。

ほんの出来心、少しの反抗心、恐らく誰もが抱く感情。
そんな些細な、それでいて悪気のない若者たちの"たった2分間の黙祷"という行為が"政治的反逆"とされ、自らの状況を知り、立ち向かい、自らの進むべき道を短期間で考え、選ばなければならなかった。
そんな彼らの判断が我々に大きな勇気を与えてくれる。

沈黙から離脱することがほとんどできない状況。
その沈黙が家族を守ることであり、友情を繋ぐものでもある。
欺瞞や猜疑心に駆られながらも確かな形を残した彼らの行動。


『僕たちは希望という名の列車に乗った』(Das schweigende Klassenzimmer/THE SILENT REVOLUTION)

彼らの勇気ある行動は、歴史を変えるであろう"静かなる変革"
乗り込んだ列車は彼らにとっての"希望"であり、"新しい未来"の幕開け。

未来は自分自身の手で切り開いていくものなのだから。



終わりに

如何でしたか?

ドイツ映画のイメージは、戦争、ナチスホロコースト、東西統一というものがありますが
今作は知られていない歴史のひとつ、新たな一面を掘り起こした作品であり、歴史的社会派ドラマとしてだけでなく、青春群像劇としても楽しめる作品と言える。

今作は個人的に文句なしに2019年劇場鑑賞暫定ベストです。
今まで観てきたドイツ映画の中でもトップクラスの出来ではないでしょうか。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)Studiocanal GmbH Julia Terjung

『アベンジャーズ/エンドゲーム』ネタバレあり考察

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
ついに天皇陛下の譲位により新元号となりました。
元号「令和」でも当管理人及び当ブログをよろしくお願いいたします。

さて、今回はですね、MCUラソンを経てやっと観てきた『アベンジャーズ/エンドゲーム』について語っています。

この記事にはネタバレが含まれます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Avengers: Endgame
製作年:2019年
製作国:アメリ
配給:ディズニー
上映時間:182分
上映方式:2D/3D


解説

アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソー、ハルクといったマーベルコミックが生んだヒーローたちが同一の世界観で活躍する「マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)」の中核となるシリーズで、各ヒーロー映画の登場人物たちが豪華共演するメガヒット作「アベンジャーズ」の第4作。前作「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」で、宇宙最強の敵サノスに立ち向かうも、ヒーローたちを含めた全人類の半分を一瞬で消し去られてしまうという敗北を喫したアベンジャーズが、残されたメンバーたちで再結集し、サノスを倒して世界や仲間を救うため、史上最大の戦いに挑む姿を描く。「インフィニティ・ウォー」では姿を見せなかったホークアイアントマンといったヒーローも登場し、新たにキャプテン・マーベルも参戦。監督は前作に引き続き、アンソニージョー・ルッソ兄弟が務めた。
アベンジャーズ エンドゲーム : 作品情報 - 映画.comより引用




総評

まずはいつもと順番が違うのですが、総評から書かせていただきます。

自分の好きなジャンルでした!
所謂SFタイムトラベルものですね。
それだけでも面白いのに、そこに11年間のMCUの歴史、キャラのドラマを乗せてくる。

過去作の本編のさり気ないセリフの一言一言やエンドクレジット、文字通り一本の線に繋がる感じが、エンドゲーム単品ではなく11年のMCU全作品でひとつの映画なんだって思わせてくれる。



自分が敢えて不満点を挙げるとするなら、各々のキャラの扱いにムラが大きいのとキャロル(キャプテン・マーベル)の雑さ。

キャロルの強さは『キャプテン・マーベル』でも描かれたように桁外れなので、あの処理は仕方ないのかもしれませんが、やはり何かしらの手は打つべきだったと思います。

キャロルだけでなく、もう少し他のキャラにも焦点を当てるべきかとも思いました。
フェイズ3の締めが『アベンジャーズ/エンドゲーム』(以下EG)ならまだしも、次作に『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』が控えてるとなると、ピーター(スパイダーマン)とトニー(アイアンマン)のやり取りはもう少し必要だった気がします。

なんにせよ、初期メンバーと数人がいれば成り立つストーリー構成はスマートだけど完全燃焼はせずといった感じです。



しかし二部作構成とは言えど、『EG』を観ると『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(以下IW)を再評価せざるを得ない。

個人的に『IW』初見の印象として、あくまでも自分の中での主人公はヒーローであるアベンジャーズであり、そのヒーローたちがサノスに倒されていく姿、そして絶望で終わらせ『EG』で希望を匂わせる展開にカタルシスを覚えなかったんですよね。
二部作構成による中途半端な終わり方だとさえ思えました。

しかし、『EG』を観て改めて『IW』はサノス視点で見るとサノスなりの正義を貫き、世界の人口を無作為に半分にし、サノス曰く世界を救ったと言える。
一つの作品として成り立っているんです。


つまりは『EG』でソーに首を跳ねられたサノス(IW)は正義を全うしたただのおじいちゃん(笑)
過去から未来へとタイムトラベルしてきたサノス(EG)こそ絶対悪なのではないか?と思えたんです。



サノス(IW)によって人口が半分になった世界で、悲しみに打ちひしがれ前を向くこと、立ち上がることさえできない人々がいる。


(これは劇中にてスティーブ(キャプテン・アメリカ)のセミナーでも映し出されてます)

そんな人たちを救うべく、消された人たちを復活させようと奮闘するアベンジャーズ
トニーとスティーブの和解。
その再結成し生き残ったアベンジャーズに立ちはだかる壁が過去から来たサノス(EG)という構図が堪らない。


同じ目的を持った二人のサノスだけど、『EG』序盤でのあのサノス(IW)の姿を見ると慈悲の感情が湧いてくる不思議。
それもネビュラとの親子の絆が垣間見れたから、なんですが。



『シビル・ウォー』や『IW』では、正義と正義(主観)でぶつかり合いました。

生き残った者達はアベンジャーズは"過去を知る者"として未来を変えることを選びます。
サノス(EG)は最終的に一度世界を無に返し、"過去を知らない生き物達だけの世界"を作り上げようとします。

今作『EG』ではよくありがちな設定ではありますが、ここでしっかりと善と悪に分かれたわけです。



キーパーソン①

『EG』におけるキーパーソンは主に二人だと思います。
勿論、各々のキャラクターは必要であり、それぞれにドラマが用意されていたので必要ないというわけではありません。
あくまでも『EG』におけるキーパーソン、ストーリーテリングとして重要な人物を挙げています。



キーパーソンの一人目は『アントマン&ワスプ』で量子世界に閉じ込められていたスコット(アントマン)


アントマン&ワスプ』のラスト、例のバンに搭載された量子トンネルからの生還である。
現実世界では5年が経過していたにも関わらず、量子世界にいたスコットの体感は"5時間程度"。

アベンジャーズの本部を訪れたスコットは、量子トンネルで過去に戻れば破壊される前のインフィニティ・ストーンが手に入る。
そうすれば消えてしまった人々を元に戻せると提案する。

これが今作『EG』のメインストーリーとなります。



アントマン&ワスプ』のエンドクレジットにて、ジャネットが「量子世界には"時間の渦"がある」みたいなことを言っていました。
この"時間の渦"こそが、タイムトラベルの方法なのです。
ジャネットが「"時間の渦"に触れるな」と言っていたのは、『EG』への大きな伏線であったと考えられます。


ということで、MCUにおけるタイムトラベルとはどのような理論が用いられているのか、個人的に考えてみました。




通常、タイムトラベルを行うにあたって使われる理論も幾つか存在します。


・「ブラックホール理論」

ブラックホール中性子星の場合よりさらに質量が大きい恒星が寿命を迎えた後に生成されると考えられる天体であり、近年ではその姿が捕えられたと話題にもなりましたね。

ブラックホールはその強大な重力で光すら吸い込み、絶対に逃すことはない。
その表側にある領域"事象の地平面(イベント・ホライゾン)"を超えた先の密度無限大になる一点"特異点"では既存の物理法則が適用できない。
つまり、その周りではタイムトラベルが可能な時空構造を実現する可能性がある。

"アインシュタイン方程式"では星の成長から宇宙の死まであらゆる重力関連現象を規定する重要な式で、その解の中に"過去に戻るループ"を許容するものが存在することが数学者クルト・ゲーデルによって示されている。
ほとんどの物理学者は現実世界では起こりえないと否定しているが、物体はある軌道をめぐって過去の同じ地点に戻ってくるという現象を起こす過去へのタイムトラベルと考えられる。



・「光速理論」

こちらの説は一番有名なタイムトラベルの方法だろう。

移動速度が光の速度に近づくと、"アインシュタイン特殊相対性理論"に基づき時間がゆっくり進むようになる。
これを"ローレンツ収縮"と呼ぶ。
光速に達することができれば、内部での時間は停止し、光速を超えた場合、時間は過去に向かって逆行すると考えられる。

多くのSF作品においてこの時間の遅れが"ウラシマ効果"と呼ばれるものです。
宇宙船で高速移動した乗員が地球に戻ると、数十年の時が経過しているといった未来へのタイムトラベルである。

これは今作『EG』におけるスコットの経験談と近いものがありますね。
アントマン&ワスプ』はエンドクレジットから時系列では『IW』の前、もしくは同時期と考えられる。
そこから『EG』の5年間を5時間程度の体感時間で未来へとタイムトラベルしたことになります。
実際にスコットが光速度で移動したわけではありませんが。



・「タオキン理論」

上記の「光速理論」の応用。
仮に光速度を超える粒子が存在するとするなら、特殊相対性理論に基づき質量が逆行し"虚数"という存在が仮定される。
この虚数粒子を"タキオン"と呼びます。
もし、タキオンが存在し、利用できるとするならば、時間を逆行するため過去への通信が可能性である。

厳密には全くの別物なのですが、『EG』の劇中ではネビュラのデータ(記憶)がこれに近いのかもしれません。
未来のネビュラ(IW)は過去のネビュラ(EGで登場する)と記憶媒体で共有しています。
言い換えるなら過去への通信が可能となったとも言える。
※詳しくは後述。



・「ワームホール理論」

時空構造の位相幾何学の応用で、ある時空二箇所を繋ぐ"時空の虫食い穴"の存在が想定されており、これを"ワームホール"という。
これを用いれば、時間や空間を瞬間移動する"ワープ"が実現する可能性があるという考え。

理論物理学者キップ・ソーンはこのワームホールの出入り口を光の速度に近い速度で移動させることで過去と現代を接続することができるといった説を唱えています(上記に記述した「光速理論」に基づく)。



・「宇宙ひも理論」

こちらもSF作品でしばしば用いられる理論。
物理学者リチャード・ゴットが唱えています。

宇宙ひもとは無限の長さを持つ素粒子ほどのひび割れのことで宇宙誕生の際に生じる特殊な領域を指す。
要約すれば、宇宙と宇宙の隙間であり、そこには"時間"が存在せず、時空が歪んでいるためワープのように一瞬で長距離を飛び越えたように見える。
仮に2本の宇宙ひもを用意することができれば、この超光速移動によって過去へ戻ることができると考えられています。





今作『EG』で用いられた主な理論は恐らく単純なものです。
それは「特殊相対性理論」と「量子力学」。

特殊相対性理論では、動いている物体を外から見ると、物体内で経過している時間が、外の時間の流れとは異なる。
例えば、宇宙船が速度を上げ光速に近い速度になっても、宇宙船内の観測者は船内の時間の流れには変化がない。
ところが、宇宙船外の観測者には宇宙船内の時間の流れが遅くなるように見える。
同時に、重力場も時間の流れを変え、強重力場における時間の流れはその場にいる観測者にとっては変化がないが、外から見ると限りなく遅くなる。

量子力学における時間の概念は、マクロの宇宙に適用される相対性理論とは異なる。
量子世界の時間には、過去と未来を区別しないという特徴があり、時間の逆行も可能。
時間とは観測者や時計や座標系が定義するものであり、固有の物理量ではないということですね。



キーパーソン②

もう一人のキーパーソンは上記に記載した『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に登場するネビュラ


"MCUにおけるタイムトラベルの理論"は上記で記述しました。
ネビュラが何故キーパーソンなのかに入る前にはまず、"MCUにおけるタイムトラベルのルール"について確認しなければなりません。

スコットとローディ(ウォーマシン)との会話では所謂タイムトラベル系の映画が幾つか挙げられました。
「『ターミネーター』や『スター・トレック』、『ある日どこかで』、『ビルとテッドの大冒険』・・・『ダイ・ハード』は違う。」



ブルース・バナー(ハルク)とローディの会話では、タイムトラベルについて重要な台詞が語られています。

ローディが「サノスが赤ちゃんの時に殺しちゃうのはダメなの?」といった不適切な質問をした時、ブルースがは「過去へ戻って歴史を変えたとしても、自分たちが生きた歴史は変わらない。もし過去へ旅をすると、その過去が未来になってしまう。元の現在が過去になってしまう。新しくできた未来はその過去となってしまった現在で変えられない。」と説明をしています。

これをわかりやすく図にしてみました。
※字が汚くて申し訳ございません(笑)




過去へ戻って歴史を変えても意味が無いと知ったアベンジャーズのメンバーは別の解決方法を探ります。
インフィニティ・ストーンを集めて、もう一度消えた人たちを取り戻そう。

過去は変えられない。
だけど未来なら変えられる。

これはスティーブが前に進むとセミナーで話していたこととも繋がる。

ただ、サノスによって全てのインフィニティ・ストーンを破壊されて無くなってしまっているんですね。
なので、サノスが手に入れる前の時間軸に遡り、インフィニティ・ストーンを全てを手にしてしまおうというもの。




インフィニティ・ストーンとタイムパラドックスについてはブルースとエンシェント・ワンの会話でわかりやすく説明されています。

エンシェント・ワンは枝分かれの説明をしつつ、タイム・ストーンを渡すことを一度は拒みます。
インフィニティ・ストーンを持ち去ると、インフィニティ・ストーンがない世界線へ分岐する。
ブルースが借りた時間に戻って一瞬も消えてなかったようにすると約束する。
その作戦も生存してできることだとタイムストーンが戻ってこない危険性があると引き続き拒まれました。
『IW』でドクター・ストレンジがサノスに無条件でタイムストーンを渡したことを知り、最終的にタイムストーンをアベンジャーズに託します。

ストレンジの行動には何か意味がある=ストレンジの言う1/1400万605の勝率ですね。



つまり、過去に戻るだけではその世界線は分岐せず、過去は未来となり、現在は過去となる。
インフィニティ・ストーン絡みの過去改変は世界線を分岐させるということ。

MCUの世界でいうと『ドクター・ストレンジ』でモルドがストレンジに「時を無闇に操作しようとすると、タイムラインに新しい枝が生まれてしまい、空間パラドクスが生じたりタイムループが生まれてしまう危険がある」と注意喚起しています。
この段階でタイムストーンを使用し、過去への介入をすると世界線の枝分かれするという設定は決まってたということになりますね。





一度起こってしまった現在の世界線の歴史はそのままで、新しい世界線に枝分かれする。
枝分かれし、今と異なった歴史は救われるかもしれないけれど、我々のいる歴史は変わらない。
これは漫画『DRAGONBALL』と同じ原理です。

DRAGON BALL 全42巻・全巻セット (ジャンプコミックス)

DRAGON BALL 全42巻・全巻セット (ジャンプコミックス)

その作品内でもこの事象が生じています。
ドラゴンボール超の設定は考慮していません。

ただ単に人造人間編を語りたいだけなんですが(笑)
知らない方はなんのことかわからないと思うので、端折っていただいても構いません。

ベジータの息子であるトランクスは未来からタイムマシンに乗って悟空たちのいる時間軸へとタイムトラベルしてきます。


アニメ「Dragon Ball Z」より


しかし、実際はトランクスだけがタイムトラベルしてたわけじゃないんですよね。
そうです。人造人間編でのラスボス的存在、セルです。


漫画『DRAGONBALL』より



簡単に図にして纏めました。
汚い字で申し訳ございません(笑)

ト…トランクス
悟…悟空たちZ戦士
人…人造人間17、18号
セ…セル

世界線A…悟空たちの現在。
世界線B…トランクスのいた未来。
世界線C…セルのいた未来。

  1. 世界線Bの悟空Bは心臓病で死亡。Z戦士も戦死。
  2. 世界線BからトランクスBが世界線Aへと来る。
  3. その一年前、世界線Cで人造人間17、18号Cを倒したトランクスCを倒し、タイムマシンを奪ってセルCが世界線Aに来ていた。
  4. 世界線AのセルAは未熟な段階で処分される。
  5. 世界線Aの人造人間17、18号AはセルCに吸収され、完全体となったセルCは悟空Aたちによって倒される。(悟空は死亡)
  6. セルCから解放された人造人間17、18号Aが善化。
  7. 世界線Aで修行したトランクスBが未来(世界線Bの10年後)へ戻って、世界線Bの人造人間17、18号BとセルBを倒す。


この世界線のセルを倒しても、別の世界線のセルは消えない。
ここも『EG』と共通する点です。

仮に我々が過去へ戻れるとして、その過去が同じ世界線だとすれば、過去の自分を殺せば当然、今生きている自分も消えることになります。
これが『ターミネーター』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の理論です。
この理論ではタイムパラドックスが起こる、所謂"親殺し"や"自分殺し"です。

ブルースとスコットの会話から、「タイムトラベル系の傑作はでたらめなの?」という内容が話されていました。
バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムトラベルは、"自分の両親が結婚しなければ、自分は産まれて来ない。
すなわち本人の存在そのものが消えてしまう"という仕組みなんですが、これは"自分自身を殺すことも同じ"です。

ネビュラは劇中で、"過去から来た自分殺し"を行います。
過去と言っても上記に説明した通り別世界線の自分。
過去の自分自身を殺したにも関わらず、現在のネビュラは存在している。



また、『EG』の劇中でネビュラのデータ(記憶)は時を超えます(上記に記載したもの)。

未来のネビュラ(IW)は過去のネビュラ(EGで登場する)とデータ(記憶)を共有しています。
ネビュラ(IW)のデータ(記憶)がネビュラ(EG)のデータに干渉したのは、未来から過去へと時間軸を移動したことにより未来のデータが逆行、二人同時に存在するネビュラのデータ自体も同期(過去のネビュラのデータを上書き)したものと考えられます。



MCUにおけるタイムトラベルに関して
ネビュラはタイムパラドックス、そしてインフィニティ・ストーンを持ち帰ると世界線は分岐し、各世界線はそれぞれ独立したものであるということを可視化する形で体現したキャラクターなのです。



修正

これらの世界線の分岐が生まれないように最終的にスティーブが各インフィニティ・ストーンを元の時間軸に戻しにいきます。
正確にはアベンジャーズが回収する直前の時間軸。
これはタイムパラドックスを避ける措置ですね。
要するに過去へ行ってインフィニティ・ストーンを盗んだこと自体をなかったことにするため。

インフィニティ・ストーンを戻すことで、世界線の分岐をなくす。
つまりは分岐してインフィニティ・ストーンがなくなった世界線そのものを消し去り、インフィニティ・ストーンが存在する時間軸(今いる世界線と同じ歴史)へ修正する。


ここでひとつの疑問として、過去を変えられないのに何故、スティーブはおじいちゃんとして戻ってきたのか?

個人的見解として、トニーがスティーブに話した通り、"自分の人生を生きた"のだろう。
ではどの世界線を生きたのか?

例えば、元の世界線をα、アベンジャーズがインフィニティ・ストーンを手にするために過去へ戻り分岐したインフィニティ・ストーンがない世界線をβとしよう。

ティーブが仮に世界線αと分岐した世界線βよりも更に過去へ戻ったまま70年余りを過ごしたとすると、世界線αにはスティーブとキャプテン・アメリカ、同じ人物が2人存在することになる。
ここまでは問題はないのですが、問題は盾の存在だ。

ハワードの作った盾は一つであり、それはスティーブがキャプテン・アメリカとしてサノスと戦った際に破損している。
同じ世界線αだと仮定すると、スティーブが盾を持ち帰ったところで、その後の歴史は盾なしキャプテン・アメリカが存在することになる。
※ここはソーのムジョルニアと同じで、わざわざスティーブがインフィニティ・ストーンと共にムジョルニアを元に戻した意味と繋がる。



以下、ここで考えられること。

インフィニティ・ストーン6個目、最後の返却はトニーとスティーブがインフィニティ・ストーンを持ち出した時間軸よりも少し前の時間軸。
つまり世界線βに分岐するよりも過去、世界線αと共通する過去だ。
時代で言うと、第二次大戦後、スティーブが氷漬けになり消息が絶たれた時間軸。

そこからスティーブは自分の人生を生きる。
インフィニティ・ストーンを持ち去った時間軸に差し掛かった際、一旦はインフィニティ・ストーンを戻さずに一度世界線βでキャプテン・アメリカの盾を手にする。
(世界線βにもキャプテン・アメリカは存在するので二人のスティーブが同時に存在することになる。)

そしてスティーブは盾を持ったままもう一度インフィニティ・ストーンを持ち去った時間軸の直前へと移動し、改めてインフィニティ・ストーンを返却し、世界線をαに戻して元の時間軸(現代)へと帰還する。


盾を持ったおじいちゃんスティーブがインフィニティ・ストーンを返却した説です(笑)



こうすることで、世界線βの盾のないキャプテン・アメリカの歴史は消える。
同時に、映画『アベンジャーズ』の時間軸でトニーとスコットが失敗し、ロキがインフィニティ・ストーンを持ち去った事実(仮に世界線γとする)も消える。

盾を手に入ることが可能で、尚且つ世界線αには盾が二つ存在することになり、世界線αから分岐した世界線β、更に世界線αから分岐した世界線γの存在も消えることになる。

世界線βが消えても、そこにあった盾の存在は消えない。
これは『EG』劇中でのガモーラに該当する。
ガモーラは実際、世界線αではサノスの手によって死亡している(『IW』にて)。

『EG』ではソウルストーンを手にするためにナターシャ(ブラック・ウィドウ)が犠牲となったためにガモーラは生存。
サノスらと共に未来へとタイムトラベルしてきた。
ティーブが過去へ戻ってソウルストーンを返却し、世界線βが消失して世界線αへと修正されてもガモーラの存在が消えていないと仮定するなら、盾も同様に存在し続けることが可能である。



次にピム粒子について、タイムトラベルする回数分しか用意されてなかったと仮定した場合、数が足りないだろうという指摘もあるだろうが、スティーブが1950年代にタイムトラベルしたとするなら、そこで改めて手に入れた可能性も考えられる。

しかし、『EG』劇中で『アベンジャーズ』の時間軸にてトニーとスコットの失敗により手詰まりとなった際、トニーとスティーブが更に過去へとタイムトラベルしたシーン。
ここでスティーブはピム粒子を手にするのだが、通常自身とトニーの分二つだけでよいピム粒子を四つ持ち帰っている。
これはこのことを想定した描写ではないのだろうか?と疑ってしまう。


以上が、盾の矛盾と世界線の矛盾を解決させる唯一の説、おじいちゃんスティーブがインフィニティ・ストーンを返却した説です(笑)



終わりに

少々強引に話を勧めましたが、自分で仮説を提唱しておきながらツッコミどころ満載です。
あくまでも自論ですので御容赦願います。

様々な解釈ができる所も楽しみ方のひとつだと思っているので、自分はこう考えているということを書き記させていただきました。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2019 MARVEL


‪イ・チャンドン監督3作品(「バーニング 劇場版」「ペパーミント・キャンディー」「オアシス」感想)‬

目次




初めに

おはようございます、レクと申します。
今回は『バーニング 劇場版』のイ・チャンドン監督が手掛けた素晴らしい傑作、『ペパーミント・キャンディー』と『オアシス』について他の韓国映画も混じえながら語っています。

この記事にネタバレはありません。



バーニング 劇場版


(C)2018 PinehouseFilm Co., Ltd. All Rights Reserved

原題:Burning
製作年:2018年
製作国:韓国
配給:ツイン
上映時間:148分
映倫区分:PG12


解説

シークレット・サンシャイン」「オアシス」で知られる名匠イ・チャンドンの8年ぶり監督作で、村上春樹が1983年に発表した短編小説「納屋を焼く」を原作に、物語を大胆にアレンジして描いたミステリードラマ。アルバイトで生計を立てる小説家志望の青年ジョンスは、幼なじみの女性ヘミと偶然再会し、彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれる。旅行から戻ったヘミは、アフリカで知り合ったという謎めいた金持ちの男ベンをジョンスに紹介する。ある日、ベンはヘミと一緒にジョンスの自宅を訪れ、「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」という秘密を打ち明ける。そして、その日を境にヘミが忽然と姿を消してしまう。ヘミに強く惹かれていたジュンスは、必死で彼女の行方を捜すが……。「ベテラン」のユ・アインが主演を務め、ベンをテレビシリーズ「ウォーキング・デッド」のスティーブン・ユァン、ヘミをオーディションで選ばれた新人女優チョン・ジョンソがそれぞれ演じた。第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、国際批評家連盟賞を受賞。
バーニング 劇場版 : 作品情報 - 映画.comより引用



村上春樹原作、そしてイ・チャンドン監督8年ぶりの新作ということで話題を呼んだ今作。

自分も今年の2月に『バーニング 劇場版』を観てきました。
村上春樹の短編小説原作『納屋を焼く』を踏襲するようなメタファーの演出とラストの改変が光るイ・チャンドン監督最新作です。


ネタバレありの感想はこちら。


正直なところ、「バーニング 劇場版」は好きか嫌いかと言えばそこまで好みではありません。
しかし、鑑賞後数日経っても何故か余韻が消えないんですよ。
後からじわじわくる自分にとって不思議な映画です。



『バーニング 劇場版』を観るまではイ・チャンドン監督作は『シークレット・サンシャイン』しか観ていませんでした。



改めて、イ・チャンドン監督はすげぇな…と感心した次第であります。



そして4月、『オアシス』と『ペパーミント・キャンディー』のイ・チャンドン二本立てという素晴らしい組み合わせで鑑賞して参りました!

フォロワーさんが腰を抜かすほどの作品、どれほどのものかと、ハードルは上げ過ぎす気軽にいつもの感じで観てきましたが…



2作とも素晴らしかった!



『オアシス』は
オールタイム・ベストを更新しました!!!


ひっさしぶりですね、こんな超絶大傑作はっ!!!
その後に観た『ペパーミント・キャンディー』も傑作なんですが、その傑作が霞んでしまうほどの超絶大傑作!

というわけで、まず『ペパーミント・キャンディー』から語っていきます。



ペパーミント・キャンディー


EAST FILM&NHK

原題:Peppermint Candy
製作年:1999年
製作国:韓国・日本合作
配給:ツイン
日本初公開:2000年10月21日
上映時間:130分


解説

韓国現代史を背景に1人の男性の20年間を描き、韓国のアカデミー賞である大鐘賞映画祭で作品賞など主要5部門に輝いた人間ドラマ。「オアシス」「シークレット・サンシャイン」のイ・チャンドン監督が1999年に手がけた長編第2作。99年、春。仕事も家族も失い絶望の淵にいるキム・ヨンホは、旧友たちとのピクニックに場違いなスーツ姿で現れる。そこは、20年前に初恋の女性スニムと訪れた場所だった。線路の上に立ったヨンホが向かってくる電車に向かって「帰りたい!」と叫ぶと、彼の人生が巻き戻されていく。自ら崩壊させた妻ホンジャとの生活、惹かれ合いながらも結ばれなかったスニムへの愛、兵士として遭遇した光州事件。そしてヨンホの記憶の旅は、人生が最も美しく純粋だった20年前にたどり着く。2019年3月、イ・チャンドン監督の「バーニング 劇場版」公開にあわせて、4Kレストア・デジタルリマスター版が日本初公開。
ペパーミント・キャンディー : 作品情報 - 映画.comより引用



“韓国のアカデミー賞”5部門制覇。
アッバス・キアロスタミ監督が「本当に素晴らしい映画を観た!」と絶賛し、韓国のアカデミー賞である大鐘賞5部門を独占した監督2作目となる伝説の傑作『ペパーミント・キャンディー』。

まずはTwitterの感想から。



絶望し、発狂しながら自殺を試みた主人公キム・ヨンホ。
彼の人生は如何にして壊されたのか?
線路を人生のメタファーとして、巻き戻すように彼の人生を振り返っていく回顧録

壮絶。
心に留まるというよりも、時間を置く事にじわじわとくるこの感覚は正に『バーニング 劇場版』のようで、それでいてインパクトの強い作品です。


時系列は1999年から1979年へ、過去へと遡っていっていく回顧録にも関わらず、見方を変えればキム・ヨンホが愛を取り戻していく人生譚にも映る。

作中に幾度となく語られる"人生は美しい"という台詞。
果たして、人生とは美しいものなのだろうか?





なんと言っても、ソル・ギョングの演技。
彼の演技力には脱帽です。


特にソル・ギョングの演技が目立っていたというわけではないのですが、犯人の行動の監視を専門とする特殊犯罪課を描いた『監視者たち』でも良い役どころを演じ、上手い立ち回りを見せています。


今年公開の『22年目の記憶』。
秘密裏に行われようとしていた初の南北首脳会談を背景に翻弄されていく男を描いたこちらの作品。
体格の違う金日成の影武者を演じきったその姿は正に金日成そのもの。
舌を巻くほどの高い演技力を見せつけられました。
恐らく、ソル・ギョングは韓国俳優の中でもトップクラス。

『22年目の記憶』は『ペパーミント・キャンディー』で韓国政府、国家によって人生を狂わされた男を演じ切った経験、積み重ねてきた俳優人生の全てが詰まっていました。

イ・チャンドン監督の采配の素晴らしさも当然なのですが『ペパーミント・キャンディー』がソル・ギョングの演技の原点ではないかと思う程である。



少し逸れますが、南北の緊迫状態をエンタメとして描き切った『鋼鉄の雨』も必見。
Netflixオリジナル作品です。


また、『ペパーミント・キャンディー』でも描かれた韓国政府の黒歴史光州事件
その目撃者としてタクシー運転手視点で描かれた『タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜』。


そして、その後に起こった民主化闘争の裏側を描いた『1987、ある闘いの真実』。
こちらでもソル・ギョングは良い演技をしているんですよ。


このように、韓国映画は自国の汚点を時代背景としてしっかりと描きつつ、そこにドラマ性を持たせることに非常に長けています。

ペパーミント・キャンディー』ではその時代背景は深く描かず、あくまでも人生を壊された、時代に翻弄されるひとりの男のドラマを見事に描き切っているんです。




オアシス


(C)2002 Cineclick Asia All Rights Reserved.

原題:Oasis
製作年:2002年
製作国:韓国
配給:ツイン
日本初公開:2004年2月7日
上映時間:133分


解説

ペパーミント・キャンディー」のイ・チャンドン監督が、社会に適応できない青年と脳性麻痺の女性の愛の行方を描き、第59回ベネチア国際映画祭で監督賞などを受賞した恋愛ドラマ。ひき逃げ死亡事故で服役し刑務所から出たばかりの青年ジョンドゥは、家族の元へ戻るが迷惑がられてしまう。ある日、被害者家族のアパートを訪れた彼は、寂しげな部屋にひとり取り残された被害者の娘コンジュと出会う。重度の脳性麻痺を持つ彼女は、部屋の中で空想の世界に生きていた。互いに惹かれ合い、純粋な愛を育んでいくジョンドゥとコンジュだったが……。「ペパーミント・キャンディー」でも共演したソル・ギョングムン・ソリがジョンドゥとコンジュをそれぞれ演じた。2019年3月、イ・チャンドン監督の「バーニング 劇場版」公開にあわせて、HDデジタルリマスター版が日本初公開。
オアシス : 作品情報 - 映画.comより引用



第59回ヴェネツィア国際映画祭で最優秀監督賞、新人俳優賞(ムン・ソリ)、国際批評家連盟賞を受賞した、極限の純愛を描いた傑作『オアシス』。

こちらもTwitterの感想から。




前科持ちという偏見、障害者という偏見。
周りから見る目は無意識にも意識的にもそれを物語り、そんな中で2人が作り出す2人だけの世界が美しく描き出される。
互いが互いのことだけを理解できればそれでいい。

言葉にしなければ伝わらないこと。
言葉にすることで強まる意志。
言葉を交わすことで得られる共感。

逆に
‪言葉にしなくても伝わること。‬
言葉にしちゃうと安っぽく見えること。
言葉を交わさずとも感じる共鳴。

"愛"を伝えるために言の葉が紡ぎ出すものの大切さを。
そして"愛"を伝えるのに言の葉として表せない感情を。


ちょっと鑑賞後は「何も言えねえ」放心状態で座席から立つのもやっと。
偏見の意識を揺さぶり、表面上に見えるものだけでなく共感しにくい題材に感情移入させ、心の奥底にある何かを揺さぶるように魂を震わせ、我々の心をも飲み込んでしまう圧倒的演技力とそれを昇華させる圧倒的説得力。



もう一度言います。

オールタイム・ベストを更新しました!

ペパーミント・キャンディー』よりも個人的には『オアシス』の方が好みです。
鑑賞したあの日からずっと心に留まり続けています。



上記に韓国映画は自国の汚点を時代背景としてしっかりと描きつつ、そこにドラマ性を持たせることに非常に長けていると語りました。
同時に、障害者を扱った映画や性的虐待を描いた映画も多数作られています。


母なる証明』では殺人の容疑で逮捕された知的障害を持つ息子を持つ母親の行き過ぎた愛情と狂気を。


『7番房の奇跡』では冤罪で死刑判決を受けた知的障害の父親と娘の家族愛を。
この作品は韓国映画ベスト5に入る超絶大傑作です。


『それだけが、僕の世界』では落ちぶれた元ボクサーの兄とサヴァン症候群の天才的なピアノの腕を持つ弟の兄弟愛を。


『トガニ 幼き瞳の告発』では性的虐待を受けた障害を持つ子供の告発を。


などなど、救いのない暗く重い作品から心温まる愛の物語まで幅広い。



昨年公開の『殺人者の記憶法』でもソル・ギョングの抜群の演技力に魅せられました。
障害とは少し違うのですが、アルツハイマーを発症した元殺人犯が娘のために奮闘する家族愛を描いた作品です。


また、『オアシス』でソル・ギョングと甲乙つけ難い抜群の演技力を魅せたムン・ソリ
ペパーミント・キャンディー』でも良い役をされてたんですが…もう『オアシス』での演技は圧倒的。

ムン・ソリの出演作、全然観ていないので今後は追いかけていこうと思いましたね。

いい加減、パク・チャヌク監督作「お嬢さん」を観なければ…(笑)



終わりに

なお、2019年は『ペパー ミント・キャンディー』が製作20周年、『オアシス』が日本公開15周年と記念すべき年です。
レンタルにもありますので、是非イ・チャンドンの世界を堪能してみてください。



最後に個人的な願いを置いておきますね(笑)

イ・チャンドン監督作の円盤はどれもDVDが廃盤であったり、ブルーレイ化されてません。
どうか!どうか!
イ・チャンドン監督作のブルーレイBOXの発売を!!!

3万までなら出します、すぐ買います!!!
トリロジーとしてこの3作品だけの収録でも構いません!!!



というわけで完全に自己満足な記事になってしまいましたが、これからも韓国映画を、そしてイ・チャンドン監督及びソル・ギョングムン・ソリの出演作を追いかけていこうと思っております。

最後までお付き合いくださった方、ありがとうございました。




【追記】

3作ブルーレイ発売歓喜!!!

ということで、予約して発売日当日にゲットしました!
ありがとう、イ・チャンドン


自分の"正しさ"を押し付ける危うさ(「ある少年の告白」感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回はジョエル・エドガートンの監督二作目「ある少年の告白」についてネタバレなしで語っています。

最後までお読みいただけると幸いです。



作品概要


原題:Boy Erased
製作年 :2018年
製作国:アメリカ
配給:ビターズ・エンド、パルコ
上映時間:115分
映倫区分:PG12


解説

俳優ジョエル・エドガートンが「ザ・ギフト」に続いて手がけた監督第2作で、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」などの若手実力派俳優ルーカス・ヘッジズを主演に迎え、2016年に発表され全米で大きな反響を呼んだ実話をもとに描いた人間ドラマ。アメリカの田舎町で暮らす大学生のジャレッドは、牧師の父と母のひとり息子として何不自由なく育ってきた。そんなある日、彼はある出来事をきっかけに、自分は男性のことが好きだと気づく。両親は息子の告白を受け止めきれず、同性愛を「治す」という転向療法への参加を勧めるが、ジャレッドがそこで目にした口外禁止のプログラム内容は驚くべきものだった。自身を偽って生きることを強いる施設に疑問と憤りを感じた彼は、ある行動を起こす。ジャレッドの両親役をラッセル・クロウとニコール・キッドマンが演じるほか、映画監督・俳優としてカリスマ的人気を誇るグザビエ・ドラン、シンガーソングライターのトロイ・シバン、「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のフリーらが共演。
ある少年の告白 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



監督とキャスト

ジョエル・エドガートン監督二作目となる今作「ある少年の告白」。
前作「ギフト」でその才を開花させ、次回監督作を楽しみにしていました。




本作でも監督兼キャストとしてこの作品を支えています。

ジョエル・エドガートン出演作で有名なのはなんでしょう?
トム・ハーディと共演した「ウォーリアー」やジョニー・デップ主演「ブラック・スキャンダル」、ジェニファー・ローレンス主演「レッド・スパロー」などでしょうか?



今作はなんと言ってもキャストが良い。


牧師の父ラッセル・クロウとその妻ニコール・キッドマン。

ラッセル・クロウは自分の中でずっとパパ顔。
「パパが遺した物語」や「スリーデイズ」など良き父親から「グラディエーター」のようなむさ苦しい男、「ビューティフル・マインド」のような繊細な役や「レ・ミゼラブル」のような憎まれ役まで卓越した演技力を持つ好きな俳優のひとりです。

ニコール・キッドマンは「アザーズ」や「LION ライオン 25年目のただいま」など、最近では「アクアマン」でも美しい母親役を演じていますね。
自分が人生で初めて観たR-18指定映画が「アイズ ワイド シャット」でして…ってこの話はいいか(笑)



そしてその息子、主人公ジャレッド役のルーカス・ヘッジズ。

ルーカス・ヘッジズは良い役者になりましたね。
地味なのですが、個人的に彼の表情で語る演技が好きなんですよ。
自分のオールタイム・ベストでもある「マンチェスター・バイ・ザ・シー」でも素晴らしい演技を披露されています。


ジョエル・エドガートン自身も、前作「ギフト」で描いた心理的狂気を今作「ある少年の告白」でも遺憾無く発揮しています。

独特で不穏な空気が出せたのも、これら豪華キャスト陣の演技があってのこと。
ご馳走様です!という感じです。



本題

さて、早速本題に入っていきます。
あらすじ通り、今作は同性愛を矯正する施設の闇に迫る事実に基づく物語。


宗教の盲信。
信仰は自由であり、当然ながら他者に押し付けるものではない。

では、牧師の息子として生まれたら?

信仰心とは別に親子関係や世間体が絡んでくる。
だからこそ厄介なものであり、最も身近な存在である家族ですら抑圧的になったり、強迫観念に駆られた狂気的な存在となり得るのだ。


キリスト教の影響を受けた欧米諸国では伝統的に、同性愛は聖書において指弾される性的逸脱であり、宗教上の罪(sin)としてきた。一方、近年の欧米諸国においては、同性愛も異性愛と同様に生まれつきの性的指向であり、不当な扱いをされるべきではないとの認識が広まっている。ただ、欧米諸国においても同性愛に対して、宗教的観点、道徳、倫理を主張する立場から問題とする意見も有力である。

同性愛の容認傾向が広まっている現状に対する積極的肯定と非難、およびその間に位置づけられる様々な見解がキリスト教の中にある。 旧約聖書では創造神ヤハウェは、男と女が結ばれるべきだと命令している。

キリスト教と同性愛 - Wikipediaより引用



私自身、無神論者であり、そんなバカな話はないと思っていますが、宗教的観点、道徳、倫理を主張する立場から問題とする意見もあることが事実です。

だからこそ、今作「ある少年の告白」は今観ておく映画ではないでしょうか。

ここで、勘違いされないように言及しておきますが本来、聖書は"同性愛の傾向を持っていること"が罪だとは述べていません。
禁じられているように見える聖句は、あくまでその"行為"を禁じているのであって、"傾向"を持っていること自体が罪だという教えではないのです。



驚くべきことに、この施設では同性愛はドラッグ、ギャンブル依存、アルコール依存、精神疾患、ギャング、家庭内暴力などと並べられる"自分の罪"として扱われます。

同性愛は神に反する行為であり、行動の原理を断ち切り我々の身を神に戻す、と。

確かに、聖書によれば、神を信じる人々に対して明確な倫理基準が設けられており、その中には偶像礼拝や淫行や盗みなどと合わせて、同性愛行為を禁じているような箇所もあります。



それは旧約聖書の律法でも明記されています。

〈レビ記〉18章22節
あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。

〈レビ記〉20章13節
男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。

主にレビ記には同性愛、近親相姦、獣姦などを禁じるものが多い。



しかし、一般的な感覚から見ても淫行や盗みなどが罪であることは受け入れやすいのに対し、"同性愛の行為"については、その"傾向"を持つ人々にとって、受け入れがたい問題となるのです。

性的嗜好は生まれ持った性質であり、本人が意図せずにそのような"傾向"を持っている人たちに、その"行為"は"罪"だと押さえつけることこそが"罪"だと思いませんか?



その"罪"の意識を懺悔する"心の精算"。
同性愛の行為が罪だということを前提に、同性愛を"治す"その思想がエスカレートし、"同性愛であることが過ちである"といった矯正へと発展しています。

聖書を盾に主張を正当化して洗脳させる。
異常なまでの狂気が空気感としてひしひしと伝わり、恐怖と不条理さを痛烈にぶつけてくるんです。





ここからは個人の見解として

性愛とは一対一の誠実な人格的関係の中でのみ、真実の喜びを成就するもの。
つまりは、異性愛であろうと同性愛であろうとこの関係に他者が介入すること自体が受け入れがたい話である。


旧約聖書の性の考え方を現代に置き換えると、そこには齟齬が生じる。

例えば、オナニーという言葉の起源になったオナンという人物は、精液を膣外射精して
彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された(創世記38章10節)
とある。

子孫繁栄のためにならない性行為は、すべて違法行為という考え方がその根底にあり、そこと同性愛を結びつけること自体、ナンセンスではないだろうか。


また、同性愛者による結婚に関しても問題が生じる。
創世記の記述に基づいて、結婚は一対一の男女にのみ許された制度とするならば、これは同性愛の排除を目的とした記述ではなく、異性愛を不可侵の規範とするには根拠が薄弱である。

ノアが方舟の後、生き残った生き物に対して神は新しい時代の契約として「子を生んで多くなるように」と伝えました。
この命令は男女の結婚を前提としたものです。

モーセの律法やパウロの手紙などでも男女の結婚、男が一人の妻を持つことが前提とされ、男女の結婚に関する秩序は一貫して神から出ていることが分かります。


生殖に結びつかない性行為の是非は語るまでもなく、性の享受は権利ではなく自由の特権であり、誰もが持つ基本的人権の尊重。
自然の理を否定する人間の偏見の恐ろしさと自分を否定される人間の苦しみ。
同性愛の問題に現代のキリスト教がどのような対応を示したとしても、真摯に受け止める姿勢です。



終わりに

今作「ある少年の告白」を観終わって、少し思いの丈をぶちまけたくなったので衝動的に思い立って書き出しました。

自分の意見が全て正しいとは思っていません。
しかし、同性愛否定論者の主張が正しいとも思っていません。
自分が"正しい"と思う主張を他者に押し付けることの危うさをこの映画が切実に訴えています。
正直なところ、双方が納得する答えを出すのは難しいでしょう。

だからこそ、「ある少年の告白」を観て感じることを思いのままぶちまけて欲しいのです。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2018 UNERASED FILM, INC.

雌雄を決する三位一体バトルミステリー(「劇場版名探偵コナン 紺青の拳」ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は「名探偵コナン 紺青の拳」について語りたいと思います。

映画「紺青の拳」の事件の核心(犯人や手口等)には触れていませんが、物語に関するネタバレ、名探偵コナンの原作コミックス、及び前作までの劇場版名探偵コナンのネタバレは含みます。

未読、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2019年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:110分


解説

大ヒットアニメシリーズ「名探偵コナン」の劇場版23作目。劇場版シリーズでは初めての海外となるシンガポールを舞台に、伝説の宝石をめぐる謎と事件が巻き起こる。コナン宿命のライバルでもある「月下の奇術師」こと怪盗キッドと、これが劇場版初登場となる空手家・京極真が物語のキーパーソンとなる。19世紀末に海賊船とともにシンガポールの海底に沈んだとされるブルーサファイア「紺青の拳」を、現地の富豪が回収しようとした矢先、マリーナベイ・サンズで殺人事件が発生。その現場には、怪盗キッドの血塗られた予告状が残されていた。同じころ、シンガポールで開催される空手トーナメントを観戦するため、毛利蘭と鈴木園子が現地を訪れていた。パスポートをもっていないコナンは日本で留守番のはずだったが、彼を利用しようとするキッドの手により強制的にシンガポールに連れてこられてしまう。キッドは、ある邸宅の地下倉庫にブルーサファイアが眠っているという情報をつかむが……。
名探偵コナン 紺青の拳(フィスト) : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



蹴撃の貴公子

400戦無敗"蹴撃の貴公子"と称される杯戸高校空手部主将、京極真。


原作初登場は「園子のアブない夏物語」
ある事件で犯人に狙われた園子を助けたことから二人の関係が始まります。

「バレンタインの真実」では発射されたライフルの弾丸を避けるという人間離れした身体能力も披露します。
他にも「園子の赤いハンカチ」で園子のピンチに駆けつけるなど、園子にとってヒーロー的存在でもあるんですよ。
真面目が故に園子の露出の多い服装を注意したり、一途が故に連勝記録を止めてでも何日も園子を待っていたり、天然な所も。


「容疑者か京極真」では園子と蘭のクラスメートで截拳道の使い手の世良真純と初対面します。

怪盗キッドvs.京極真」では園子の思惑、そして嫉妬させようと園子の心を盗んだと茶化す怪盗キッドに敵意剥き出しの京極真が描かれます。
鈴木財閥の相談役、鈴木次郎吉が京極真のことを"世界最強の防犯システム"と称しました。

京極真と怪盗キッドがライバル関係になったのはこの回からなんです。



怪盗1412号

怪盗キッドとは、名探偵コナンの原作者である青山剛昌先生が描く作品「まじっく快斗」の主人公。


天才マジシャンであった亡き父、黒羽盗一の死の真相を突き止めるべく、父の後を引き継ぎキッドという怪盗で世間を騒がしています。
彼の目的は父の死の真相と関わりのあるビッグジュエルを探し出し、真実を解き明かすことなんです。
怪盗と呼ばれていますが、所謂義賊。
盗んだものは元の持ち主に返還しています。


正式名称は怪盗1412号。
書きなぐりの"1412"が"KID"に見えたことから怪盗キッドと呼ばれるようになりました。

原作怪盗キッドの驚異空中歩行」では、鈴木財閥が所有するビッグジュエル"大海の奇跡"を狙って怪盗キッドとコナンが初対面します。
その時、園子がキッドに攫われて京極真が助けに来てくれるという妄想を蘭に話しており、怪盗キッドvs.京極真」で実現することに。

また怪盗キッドの瞬間移動魔術」でも鈴木財閥が所有する"紫紅の爪"を使ってキッドへの挑戦状を叩きつける。

怪盗キッドvs.最強金庫」ではキッドからの予告で鈴木財閥が誇る難攻不落の金庫"鉄狸"を披露。
「闇に消えた麒麟の角」「コナンキッドの竜馬お宝攻防戦」「コナンvs.キッド 赤面の人魚」でキッドとコナンは何度も対峙しています。

鈴木次郎吉がコナンのことを"キッドキラー"と呼ぶ所以がここにあります。



今作「紺青の拳」では協力関係にあるコナンとキッドも探偵と怪盗という本来は追う側追われる側の立場。
コナンの好敵手である怪盗キッドの好敵手が京極真という絶妙な三角関係。
というか、怪盗キッドに敵が多いだけなんですが。



今回もキザなセリフを残していきました。

『中身を言い当ててくれよ名探偵。殺人という名の謎めいた拳の中身をな。』



本作を観る前に

ここで、本作を観る前に原作もしくはアニメの「名探偵コナン」で書かれた事件「容疑者か京極真」怪盗キッドvs.京極真」を読んでおくことをオススメします。
京極真が如何に真面目で如何に強いのかが分かります(笑)


ただ本編で怪盗キッドvs.京極真」の映像が少し挿入される程度なので、今作『紺青の拳』単品でも十分楽しめる仕上がりになっています。
無理に観る必要は特に問題はありません。

前作『ゼロの執行人』同様に予備知識さえあれば単品で楽しめる仕様となっており、登場人物と人物相関図さえ頭に入れておけば問題はありません。


さて、前回の記事『ゼロの執行人』でも、Twitterでも何度も語っている自論"名探偵コナン"とは何たるか。が本作には詰め込まれています。



改めて語りましょう。


原作「名探偵コナン」では新一と蘭、平次と和葉、園子と京極、小五郎と妃、高木と佐藤…など様々なラブコメが描かれています(青山剛昌先生がラブコメ大好き)。

極論ですが、自分は「名探偵コナン」はラブコメありき、寧ろラブコメのない「名探偵コナン」は「名探偵コナン」ではないと思ってます。

‪APTX4869という黒の組織が開発した新種の薬を投与され、幼児化してしまった工藤新一。‬
江戸川コナンとして事件解決していく中で、新一がコナンとして過ごすという現状は新一と蘭のラブコメは平行線のままということ。
しかし、原作や映画でも何度か新一の姿に戻ったり、声だけでも蘭の傍に寄り添う。

‪ミステリー漫画として売り出している以上、本筋は黒ずくめの組織との対峙、殺人事件の推理がメインなのは仕方ないのですが…時が止まったように、本来は進展しないはずのラブコメが徐々に進展していく様、お互いの気持ちを素直に言えないもどかしさや物理的な障害が最大の魅力だと思っています。



今作ではシンガポールを舞台に鈴木園子と京極真、この二人のラブコメを中心‬に怪盗キッドの好敵手・京極真との三角関係、そして毛利蘭と工藤新一と怪盗キッドの三角関係も絡ませつつ非常に上手い人物相関図を描いています。


また、従来追うはずの立場である探偵・江戸川コナン怪盗キッドに協力するという、言わば"容疑者か怪盗キッド"という構図も見所。


今作は京極真が劇場版初登場なので劇場版の過去作を鑑賞する必要はないのですが、過去作でのキッド出演作もチェックしておくとより今作を楽しめます。

「世紀末の魔術師」

「銀翼の奇術師」

「探偵たちの鎮魂歌」

天空の難破船

「業火の向日葵」




ネタバレ感想

ここからネタバレ感想になるので未鑑賞の方はご注意ください。










さて、上記で鈴木園子と京極真のラブコメと記述しましたが、今回で園子への想いがしっかりと分かる描写がありましたね。

特に、京極真の額に貼られた絆創膏の秘密が。
園子とのプリクラを肌身離さず持ってるだなんて乙女かよと(笑)
400戦無敗の最強の男にこんなことされたら、そりゃあもうギャップに萌えますね!


ギャップと言えば、園子の髪型。
普段はカチューシャなどで前髪を上げたヘアースタイルをしていますが、今回初めて前髪を下ろす園子が拝めます。
端的に可愛すぎます。



と、基本的には園子と京極の恋愛が中心なのですが、結局のところ最後は工藤新一と毛利蘭のラブコメで締まりました。

メインはあくまでも園子と京極ですが、新一と蘭のラブコメは水面下でしっかりと描かれていたんです。
これは自分が今作こそ「名探偵コナン」だと賞賛する一因でもあります。
正直、前作での不完全燃焼から一転、ここまでのラブコメを見せられては、原作ファンとしても非常に嬉しい。


「ホームズの黙示録」でロンドンにて遠回しな告白をした新一、「紅の修学旅行」で蘭が答えを出した。
原作でも正式に付き合ったことになるのですが、キッドはこのことを知らなかったんですよね。


ラストで蘭は新一がキッドの変装だと見破っていました。
『二回も新一に変装して!』の台詞。
これは過去作天空の難破船のことです。
蘭は新一がキッドの変装だと見破ったのも、新一がしないようなことをキッドがしたから。
今回のきっかけは父である毛利小五郎のことを『おっちゃん』と呼んだから。

これ、めちゃくちゃ些細な日常の一片であって、二人の仲だからこそ気付けることなんですよね。
コナン自体も気付かなかったほどに。


それまでの新一と蘭のツーショットや言動、全てをしっかりと観察した上で確信したからこそのあのラストなのです。

蘭がどれだけ新一のことを考えているのか、どれだけ新一のことが好きなのか。が分かる素晴らしい描写なんです。

これ、コナン(新一)からすればめちゃくちゃ嬉しくないですか!?
自分なら嬉しい。。。

怪盗キッドvs.京極真」でも、園子に変装したキッドを京極真が見破ります。
京極が見破った理由はアレでしたが(笑)



キッドが間に入り、愛の再確認が出来る。
それを可視化する演出が最高of最高なんですよ!!!


もう一度言います。
今作はラブコメがしっかりと盛り込まれた"これぞ名探偵コナン"だと思います。



怪盗キッド出演作の劇場版名探偵コナンはミステリーというよりもアクションに重きが置かれ、いつもの名探偵コナン以上に視覚的に楽しめると思います。

欲を言えば、怪盗キッドと京極真の直接対決をもっと見たかった気もしますが、敵対する関係が協力関係になるという構図は好みでしたね。



今作の監督を務められた永岡智佳さん。
劇場版名探偵コナン初の女性監督ということもあって、ラブコメ要素に関して申し分無し。
また、キャラクタームービーとしても最高で、怪盗キッド、京極真のファンにとっては最高でしょう。



終わりに

コナン(新一)とキッドは今までにも貸し借りのある仲で、利害の一致で今回も協力関係にあったわけですが、新一と蘭の間を良い感じで怪盗キッドが取り巻いてくれました(笑)

現在の最新巻96巻でも別の事件ですが怪盗キッドと京極真が登場しています。
また前作「ゼロの執行人」のメインキャラクター、安室透も登場し、各々の登場人物が文字通り一本に繋がる展開に…!

同時に新一と蘭、平次と和葉、警視庁の千葉と三池など恋愛要素も徐々に進展。

96巻にして依然として飽きることなく、更に楽しみにさせてくれる「名探偵コナン」を今後も応援していきます!



そして、「紺青の拳」のエンドクレジットで恒例の次回作の触り映像が流れましたね!

次回作はどうやら赤井秀一についての映画のようです。
原作の黒ずくめの組織とのエピソードを準えつつ、前作「ゼロの執行人」の続編的な作品になりそうです。

2020年も劇場版名探偵コナンが楽しみです!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2019 青山剛昌名探偵コナン製作委員会

栄華に狂い、破滅と踊る(『サンセット』ネタバレなし考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は第68回カンヌ映画祭コンペティション部門に出品した『サウルの息子』のネメシュ・ラースロー監督最新作『サンセット』について語っています。

この記事にネタバレはございません。



作品概要


原題:Napszallta
製作年:2018年
製作国:ハンガリー・フランス合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:142分
映倫区分:G

解説

長編デビュー作「サウルの息子」がカンヌ国際映画祭グランプリのほか、アカデミー賞ゴールデングローブ賞外国語映画賞も受賞したネメシュ・ラースローの長編第2作。第1次世界大戦前、ヨーロッパの中心都市だったブダペストの繁栄と闇を描いた。1913年、ブダペスト。イリス・レイテルは、彼女が2歳の時に亡くなった両親が遺した高級帽子店で職人として働くことを夢見て、ハンガリーの首都ブタペストにやってくる。しかし、現在のオーナーであるオスカール・ブリッルはイリスを歓迎することなく追い払ってしまう。そして、この時になって初めて自分に兄がいることを知ったイリスは、ある男が兄カルマンを探していることを知り、イリスもブタペストの町で兄を探し始める。そんな中、ブタペストでは貴族たちへの暴動が発生。その暴動はイリスの兄とその仲間たちによるものだった。2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品。
サンセット : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



時代背景

1913年頃、現代のオーストリアハンガリーをはじめチェコスロバキアクロアチアスロベニアルーマニアボスニア・ヘルツェゴビナの領土を持ったオーストリア=ハンガリー帝国が存在していた。

ハプスブルク家ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に解体するまで存続した。

帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。
その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」(ツィスライタニエン)と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(トランスライタニエン)に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。

オーストリア=ハンガリー帝国 - Wikipediaより引用


第一次世界大戦勃発前、ヨーロッパ全域の緊迫した情勢の交差点、そして多数の言語と文化や宗教の近代化と廃退が混在する多民族国家でもあり、不穏な空気が入り乱れる時代。
その中心地でもあったブダペスト
そこにある当時最先端で憧れの職業でもあった高級帽子店を舞台にひとりの女性が翻弄されていく物語。

冒頭から流れるシューベルトの楽曲と美しい日没(サンセット)の街並みはこの後に起こる何かを示唆させる。



フランツ・ヨーゼフ1世オーストリア皇帝に即位し、ハンガリー国王も兼ねた。
舞台となる高級帽子店レイターに貴賓として迎えるのは皇位継承者フランツ・フェルディナント皇太子とその皇太子妃ゾフィー
1914年、この2人がセルビア人青年に暗殺され、オーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国に宣戦布告し第一次世界大戦の勃発に繋がった。

これが、サラエボ事件です。


暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付(La Domenica del Corriere)

サラエボ事件サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア出身のボスニアセルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。プリンツィプは、セルビア系秘密結社「黒手組」の一員ダニロ・イリッチ(英語版)によって組織された6人の暗殺者(5人のボスニアセルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者らの目的は青年ボスニア(英語版)と呼ばれる革命運動と一致していた。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。

サラエボ事件 - Wikipediaより引用




高級帽子店を舞台にしたのにも理由がある。
20世紀初頭において帽子は重要なアイテムのひとつでした。
当時はブリムと呼ばれる帽子のつばの部分が大きく、顔を覆うようなボリューム感のあるデザインが流行していました。

劇中で、「帽子はおぞましい物を見ないようにするためにある」と語られるようにつばの広い帽子は劇中の物語の確信に迫る真実を覆い隠すという意味があるのかもしれません。


女性解放運動などの社会的な方面、医学的な側面からもコルセットは廃れ、様々なファッションが模索される時代でもあります。
コルセットを必要としないファッションに合わせるように帽子のデザインもコンパクトなものが流行するようになる。

このように自由な女性のファッションという流行の変化が、時代の変化のメタファーとして盛り込まれています。



ネメシュ監督の手腕

さて、冒頭でも記述しましたネメシュ・ラースロー監督。
彼自身、ハンガリーブダペスト出身で、彼の初の長編作となるサウルの息子では手腕を見せつけられました。



サウルの息子』ではアウシュヴィッツを舞台に第二次世界大戦を描く。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、ハンガリーユダヤ人のサウルは同じユダヤ人の死体処理係(ゾンダーコマンド)として働く。
強烈なテーマと独自のカメラワークは彼の名を世界に広めることとなる。



長編二作目となる今作『サンセット』では第一次世界大戦に至る前の歴史と時代の陰りを見事に描き切っています。

サウルの息子』同様に執拗以上にカメラは主人公イリスの後方を追い、彼女を映しながらその世界を体感させる。

常に先を見据えたような、そして彼女の困惑と真実を知りたいという視点が我々観客の視点とリンクした時、初めてこの作品は完成する。



正直なところ、直接的な表現や明白な意図、得られる情報が少ないまま物語は進んでいき、置いてけぼりになる可能性が高い、非常に不親切な手法。

これは2019年公開の『ウトヤ島、7月22日』の疑似体験型ドキュメンタリーを観た時の不安感やモヤモヤ感に近い。



ウトヤ島、7月22日』において、観客がその場に居るような体感型を取り入れながら物語に一切介入しないモキュメンタリーとしての"視点の矛盾"が生じる。
つまりは"存在しないはずのカメラマンの存在"だ。

今作『サンセット』では引きの映像も織り交ぜ、あくまでも俯瞰的にその世界を見つめる客観的視点とした上で、体感型としても臨場感を味わうことが出来る。
それが"視点の矛盾"を回避しているんです。



ひとりの女性に焦点を当て、時代に翻弄され、世界に迷い、自分を見誤り、何を見て何を体験したのか?
ピントをわざと外したり、暗闇ではっきりと映さない芯を掴ませない映像、その全容を明かさず世界の片鱗を覗かせるように映し出される。


ネメシュ・ラースロー監督は

この作品は全編35mmフィルムで撮影されています。映画という表現とテクノロジーの関係についてどのようにお考えですか?
私にとって現在の映画とテレビの標準化は疑わしく、すでに証明し尽くされ文脈に当てはめられつくした方法に頼るのではなく、イメージや物語を現す新しい方法を探そうと依然として決心し続けています。つまりは、リスクを犯さなければならないという意味です。

今日、観客が映画から得る経験は、だんだん不満足なものになり、観る者の想像の旅を無視し、より簡単に理解できる産業化された表現に堕ちてしまったように感じます。いまの映画に満足している人にとっては、私の『サンセット』の監督方法は、簡単には受け入れ難かったかもしれません。しかし、私は映画が持っている大いなる可能性と観客を結び付けたいのです。

(オフィシャル・インタビューより)


と語るように、受け入れ難いリスクを承知の上でこの手法をとっているのです。



観客に"気づき"を与え、観客が想像力を膨らませる。
観客に委ね、観客を信じ、時には謎は謎のまま明白な答えを掲示しないこと。

ここの徹底ぶりは監督の意図であり、腕があっての演出であろう。



まとめ

ブダペストにある高級帽子店を舞台に、ヨーロッパの歴史の自滅、時代の変化をファッションの流行の変化に準えながら、兄探しというミステリードラマで描かれる主人公イリスの視点と我々観客の視点が同化した時、困惑とともに絶大なる疲労と余韻を齎す。



映画を通して歴史を推理する。

この楽しみに気付いたのは学生を終えて"勉強"という枠から解放されてからだ。
特にわたくしはホロコースト映画、ナチ映画が好みで、フィクションか否かは関係ない。
そこに在った事実をどう見せるのか?が重要だと思っています。


専門書なら兎も角、映画という"娯楽"から学ぶ"史実"はもっと演出に"自由"があってもいいのではないか?

史実とはあくまでも史料によって導き出された結論のひとつに過ぎない。
言わば"原作"のようなもの。
その窮屈な枠から解放され、その他の史料、諸説を繋ぎ合わせて新たな仮説を立てることの面白さ。

映画を通して歴史を推理するとは、ミステリー小説におけるハウダニットホワイダニットのように、"どのように"、"何故その行為に至ったのか"、散りばめられた手掛かりから結論を紡ぐように推理していく行為に似ています。


観客の想像力を信じたネメシュ・ラースロー監督のリスクを承知で謎を謎のままで残す新たな映画の見方。
観客に委ねる手法と独自のカメラワークはその腕を確かなものにしたと思います。



終わりに

如何でしたか?
上記にも書いたように非常に不親切で難解な内容ではあるのですが、映画の答え(感じること)は自分で持てばいいんです。

ネメシュ・ラースロー監督の次回作にも期待します!




(C) Laokoon Filmgroup - Playtime Production 2018

運ばれるもの(『運び屋』ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は3月8日に全国公開された『運び屋』について(とは言ってもいつものような掘り下げた考察ではなく、イーストウッドの過去作を交えながら)語っています。

待ちに待ったイーストウッド監督最新作。
そして『人生の特等席』から7年振りの主演、自身の監督作では『グラン・トリノ』から10年振りということで、ずっと楽しみにしていました!


というわけで、最後までお目通しいただけたら幸いです。



この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Mule
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:ワーナー・ブラザース映画
上映時間:116分
映倫区分:G


解説

巨匠クリント・イーストウッドが自身の監督作では10年ぶりに銀幕復帰を果たして主演を務め、87歳の老人がひとりで大量のコカインを運んでいたという実際の報道記事をもとに、長年にわたり麻薬の運び屋をしていた孤独な老人の姿を描いたドラマ。家族をないがしろに仕事一筋で生きてきたアール・ストーンだったが、いまは金もなく、孤独な90歳の老人になっていた。商売に失敗して自宅も差し押さえられて途方に暮れていたとき、車の運転さえすればいいという仕事を持ちかけられたアールは、簡単な仕事だと思って依頼を引き受けたが、実はその仕事は、メキシコの麻薬カルテルの「運び屋」だった。脚本は「グラン・トリノ」のニック・シェンクイーストウッドは「人生の特等席」以来6年ぶり、自身の監督作では「グラン・トリノ」以来10年ぶりに俳優として出演も果たした。共演は、アールを追い込んでいく麻薬捜査官役で「アメリカン・スナイパー」のブラッドリー・クーパーのほか、ローレンス・フィッシュバーンアンディ・ガルシアら実力派が集結。イーストウッドの実娘アリソン・イーストウッドも出演している。
運び屋 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編




前置き

まず、前置きとして、クリント・イーストウッドの映画について語っていきたいのですが、ちょっと長いのである程度焦点を絞って語ろうと思います。




これはTwitterに上げたイーストウッド監督作ベスト10です。
多少前後入れ替わりはあるかもしれませんが、大体こんな感じです。

ご覧の通り、自分は概ねイーストウッド監督作はゼロ年代以降に好みが偏ります。


まあここに『運び屋』(19年)が入るんですが。



ミスティック・リバー』(03年)
ミリオンダラー・ベイビー』(04年)
チェンジリング』(08年)

といったゼロ年代の作品は明確なテーマを基に人の心の影を、心を抉るような骨太ドラマを描いた作品が多い。
映画的には正統派、分かりやすく、そして心に留まる、それ故に傑作なのです。



また、21世紀以降の作品はイーストウッド監督にとっても転機であったと思います。

硫黄島からの手紙』(06年)
父親たちの星条旗』(06年)

から、イーストウッドは実話を基に数々の作品を残しています。

インビクタス/負けざる者たち』(09年)では、黒人初の南アフリカ大統領ネルソン・マンデラを。
J・エドガー』(11年)では、FBI長官ジョン・エドガー・フーバーを。
ジャージー・ボーイズ』(14年)では、伝説のグループ、ザ・フォーシーズンズを。


そして
アメリカン・スナイパー』(14年)
ハドソン川の奇跡』(16年)
15時17分、パリ行き』(18年)

戦争の恐怖、航空機事故、銃乱射事件。
それらの実話を基に、ヒロイズムと奇跡を描いています。


実際にあった出来事は観客がどれだけその知識が共有されているか、がひとつの問題。
当然、その出来事には様々な要因やその背景があり、それを劇中でどの程度、どの分量で上手く見せられるのか、教えられるのかが重要であると考えています。

その点、イーストウッド監督は良い意味での割り切り、潔さがあるんです。
劇中で見せる部分は見せる。
端折る部分は切る、もしくは淡々とあっさり流してしまう。
そして訴えたいこと、残したいメッセージを的確に伝えてくる。
つまり、裏を返せば、"イーストウッド監督が見せる映像には全て意味がある"ということ。

ここがわたくし個人の好みと合致するが故にクリント・イーストウッドが最高峰の映画監督と称する所以です。


過去の作品に遡って見てみると、イーストウッドのその映画がイーストウッド自身の人生と重なる部分が多い。

例えば、ガントレット』(77年)、『許されざる者』(92年)、『ブラッド・ワーク』(02年)など出演、監督作の多数に見られる死と再生。
敬虔なキリスト教徒でもあるイーストウッドの"イエス・キリストの復活"とも受け取れる。

更に踏み込んだ話をするならば、監督作ではないにしろ一昨年に『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(17年)としてリメイクされた『白い肌の異常な夜』(71年)や、『タイトロープ』(84年)などで女性に虐げられる姿も晒け出す。

イーストウッド初監督作の恐怖のメロディ』(71年)を鑑賞された方なら御察しだと思いますが、イーストウッドはプライベートでも女好きで有名で、プレイボーイそのもの(笑)
ブラッド・ワーク』等でお爺ちゃんになってもラブシーンを撮るなど、割とこの手のセクシャリティがなんの躊躇いもなく盛り込まれている作品も多い。


こうした何気ない描写ひとつひとつも、後から見てみれば意味を持つ。
これもイーストウッドの映画人生の楽しみ方ではないでしょうか。



さて、冒頭でも語りましたが、そんな長期に渡るイーストウッドの映画人生の中でも、21世紀以降のイーストウッド監督作はガラリと毛色が変わった"転機"なんです。

そのきっかけがこの作品。

許されざる者』(92年)



グラン・トリノ』(08年)


この二作を繋ぐものは、クリント・イーストウッドの自己投影、集大成だということ。


グラン・トリノ』と今作『運び屋』を観る前に、ある程度過去のイーストウッド出演作及び監督作を観ておくことをオススメします。



許されざる者では、これまで悪党を殺しまくってきたガンマンが「もう暴力の時代じゃない」と銃を置く物語。
イーストウッドの俳優時代を支えた西部劇を否定するような構成は夕陽のガンマン』(65年)などを経た俳優イーストウッドの精神的遺作なのだ。

そしてグラン・トリノは、『許されざる者』から監督イーストウッドとしての新境地開拓してきた自身の映画の答え、集大成であるとともにダーティハリー』(71年)などの現代劇からの脱却、更なる挑戦である。


では、今作『運び屋』(19年)とはイーストウッドにとって一体どのような立ち位置による作品なのだろうか。



本題

前置きが長くなりましたが、ここからが本題です(笑)

『運び屋』は2014年6月にニューヨーク・タイムズ・マガジンに掲載された『シナロア・カルテルの90歳の運び屋』に着想を得て作られています。

今作の主人公アールは、デイリリーというユリの一種の栽培で有名な人物であり、一度に13億円相当のドラッグを運んだレオ・シャープという実在の人物がモデルです。



主にイーストウッド監督作には形骸的な家族をテーマとする作品が作られている。

グラン・トリノ』に関してもそうだ。
妻を亡くし、息子とは不仲。
そんな中で隣に越してきた少年と"擬似家族"のような関係を築いていく。


今作でも『グラン・トリノ』と同様に不仲な家族を描きつつ、麻薬組織の一員として彼らとの関係を築いていく。
まるで家族との関係性の代わりのように。

故にこの劇中の言葉が胸に響く。



"時間がすべて"。


今まで生きてきた90年という歳月の中で、デイリリーの栽培、仕事を優先し家族を蔑ろにした結果、その失った時間を金で埋め合わせようとする姿。
そして、時間はお金で買えないという普遍的なテーマから、時間が家族との愛を育むものとして、気付かせてくれのが皮肉にも妻の病であること。
それらの人生をデイリリーという花に準え落とし込んだイーストウッドの自己投影。


劇中にも語られますが、デイリリーは1日に数時間しか花を咲かせない。
その注目されるひと時のために人生を捧げ、有名になり、賞を貰うアール。

イーストウッド自身も、俳優、監督として数々の賞を貰い脚光を浴びる一方で家庭問題を抱えていた。
前置きでも語ったセクシャリティな部分はしっかりと今作にも反映されています。



イーストウッド自身、こう語っています。

俳優として60余年のキャリアを誇るイーストウッドは「若い時はたくさん役を演じ、なかには社会的価値のあるものも、アクション満載の娯楽作品だけのこともある。いろいろな機会がある。でもある段階に達したら、少し自分に負荷を課す作品を探すことも必要だ。言えなかったことが言えるような作品を選ぶこともね」と作品選びの重要性を説く。
さらに、「学ぶことに年齢は関係ない。年を取っても学べる。そうしながら、人に教えることもできる」と本作で描かれるテーマについて触れ、「私はいつも異なるタイプの物語に興味がある。西部劇でも、現代劇でも、どんな作品でも、私はずっと新しいもの、脳を刺激するものを探そうとしてきたし、この作品もそうだ」と創作のポリシーを明かす。
イーストウッド「学ぶことに年齢は関係ない」 創作のポリシー語るインタビュー映像 : 映画ニュース - 映画.comより引用



イーストウッド自身が師と仰ぐドン・シーゲル監督。
ドン・シーゲルイリノイ州出身ということで、イーストウッドドン・シーゲルを目指すように劇中でもテキサス州からイリノイ州に向かうアールの姿が描かれています。(考えすぎかもしれませんが)。

『白い肌の異常な夜』(71年)ダーティハリー』(71年)など俳優イーストウッドとして育ててもらったことはお金では買えない有意義な時間。
次はイーストウッドブラッドリー・クーパーに与えたいと思ったのかもしれない。

『アリー/スター誕生』(18年)でも、当初はイーストウッドが監督を務める予定でした。
クーパーが監督を務め、レディー・ガガを起用したことに苦言を呈しながらも、完成度の高さに前言撤回するなど、師弟愛を感じさせる。


『運び屋』劇中でも、追われるアールとその背を追うベイツという構図がまさにそれ。
ブラッドリー・クーパー演じる麻薬取締局の捜査官ベイツに声を掛けるイーストウッド演じるアール。
この師弟コンビの会話シーンが最も印象的だ。

90歳という年齢だからこそ、思ったことを口にしただけであってもその会話ひとつひとつの言葉にも重みが含まれる。
役だけでなく、監督としてまるでイーストウッドからクーパーへ意志や想いが運ばれていくような…そう想って観ると、ますます映画人生の教えのようにも見えてくるんですよ。


『運び屋』はイーストウッドの"集大成"ではなく、あくまでそれは『グラン・トリノ』。
『運び屋』はその集大成『グラン・トリノ』を経て、次に進んだイーストウッドの"映画人生の継受"。
映画におけるアールが自身の投影ではなく、映画『運び屋』そのものが自身の映画人生の投影なんだと思います。

許されざる者』、『グラン・トリノ』を経て、イーストウッドが、今作で我々に訴えるメッセージはイーストウッドにとって"映画は人生そのもの"であるということ。

『運び屋』はまさにイーストウッドの人生観、映画人生を示したもの、そしてそんな人生を次世代へ継受する作品なのです。



イーストウッドにとっての映画とは、仕事ではなく家族と過ごすような愛を育む時間であると今になって気付かされた。

何に時間を使うのか。
時間は有限であり不可逆的だからこそ、その使い方次第で価値のあるものにも、無価値なものにもなり得るということ。

これは映画業界へ遺したものであり、師弟関係にあるクーパーへの遺産でもある。



また、ラストの裁判のシーンにイーストウッドの意志が強く反映されているように思う。

逮捕、起訴され、弁護士の弁論中にアールは自ら「自業自得」「有罪」という言葉を発する。
これは素直に受け取ると、アール自身の人生への最終宣告、つまり身柄を拘束されその引導を渡す相手がベイツであることから、やはりイーストウッドからクーパーへの継受なのだろう。

その上で「老いたりしない」と語り、ラストにデイリリーを栽培する姿は「イーストウッド監督としてもまだやっていくぞ」という意気込みなのだろうか。

「年を取っても学べる。そうしながら、人に教えることもできる」
と語るイーストウッドのこれからに注目だ。



終わりに

結局、本題より前置きの方が長くなってしまいましたが、如何でしたでしょうか?

自分で書きながら、イーストウッド出演作、監督作をまた改めて観直していきたいと思いました(笑)

何れにせよ、改めて今後もクリント・イーストウッド監督作及びブラッドリー・クーパー監督作を観ていきたい。
そう思える充実した最高のひと時でした。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2018 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC


人間の本質とは(『岬の兄妹』ネタバレなし感想)

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初めに

こんばんは、レクと申します。

またまた久しぶりの更新になって申し訳ございません。
今回はポン・ジュノ監督が傑作と認めた片山慎三初長編監督作『岬の兄妹』について、ネタバレなしで語っています。

最後までお付き合いいただけると幸いです。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:プレシディオ
上映時間:89分
映倫区分:R15+



解説

ポン・ジュノ監督作品や山下敦弘監督作品などで助監督を務めた片山慎三の初長編監督作。ある港町で自閉症の妹・真理子とふたり暮らしをしている良夫。仕事を解雇されて生活に困った良夫は真理子に売春をさせて生計を立てようとする。良夫は金銭のために男に妹の身体を斡旋する行為に罪の意識を感じながらも、これまで知ることがなかった妹の本当の喜びや悲しみに触れることで、複雑な心境にいたる。そんな中、妹の心と体には少しずつ変化が起き始め……。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭の国内コンペティション長編部門で優秀作品賞と観客賞を受賞。
岬の兄妹 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編



貧困がテーマの映画

『母なる証明』のポン・ジュノ監督作品や『マイ・バック・ページ』の山下敦弘監督作品などで助監督を務めた片山慎三の初長編監督作であり、個人的にこの二人の監督の共通するテーマは人間の本質だと思います。
今作『岬の兄妹』を鑑賞し、片山慎三監督も少なからずこれらの影響は受けているように思いました。

普段何気なく平穏な生活を送るにあたって、我々が目にも留めないであろう貧困層、障害者の抱える問題。



昨今、日本映画では貧困に焦点を当てた作品が多数作られています。

例えば、2017年公開の個人的邦画ベストにも入った白石和彌監督作『彼女がその名を知らない鳥たち』。


所謂貧乏生活の中でも愛の多様性を訴えた作品。
愛とは見返りを求めず、ただ純粋に与えるもの。
これは恋人だけでなく家族にも通ずるものがあります。
イヤミスと言われていますが、個人的には純愛そのもの。
共感出来ない愛、それは当人たちの間で育まれたひとつの愛の形だからです。



そして、2018年公開の是枝裕和監督作『万引き家族』。


こちらも貧乏生活の中で、血の繋がらないひとつの家族としての在り方を描いた作品。
生きるために犯罪を犯す。
その犯罪が共有する秘密、擬似家族としての絆を育んでいく皮肉。
不可視である家族愛というものを主観的に、そして現実の厳しさを客観的に見せたこの作品は心に複雑な想いを残しました。



日本映画以外にもアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作『ビューティフル』や、ケン・ローチ監督作『わたしは、ダニエル・ブレイク』、ダニス・タノヴィッチ監督作『鉄くず拾いの物語』など、貧困をテーマに鑑賞後に心に重くのしかかるも家族愛を描いた作品も多数あります。



ここで疑問に思うのが、貧困とは生活だけの問題なのだろうか?ということ。
確かに金銭面での貧困は目に見えるものです。
『万引き家族』のように居場所のない人達が社会的弱者となること。

そんな貧困を問題提起とし、人と人の絆を描いたこの作品、個人的評価はイマイチな理由がその更に一歩先に踏み込んで欲しかったという点に尽きる。


今作『岬の兄妹』のように兄の良夫は正しく貧困であることは目に見えています。
しかし、妹の真理子のように一人で出歩くことすらままならない自閉症などの精神疾患を抱えた人たちは生活が潤っていたとしても満足なのでしょうか?

"貧困な発想"などと表現されるように、貧困には目に見えない精神的な部分も示されるのではないか?


そう、今作『岬の兄妹』では金銭面での貧困だけでなく、障害者としての社会的弱者の貧困をも描き出した『万引き家族』では描ききれなかった、生きる為ならなんでもするという更に一歩踏み込んだ現実の生々しさや厳しさから人間の本質を炙り出した衝撃作なんです。



社会的弱者から見た視点

上記でも挙げさせていただいた『万引き家族』でも生活苦を脱却するために犯罪が正当化されるような演出がなされています。
勿論、犯罪は犯すべきものではないのですが、それを主観で見ることで劇中で正当化しているんです。


今作『岬の兄妹』でも身的障害を持つ兄がリストラに逢い、罪の意識を抱きながら生活苦から無許可の売春斡旋を行う。
犯罪に手を染めながら、知的障害の妹真理子の姿に喜びを得て、そして生を性で繋ぐこの生活から逃れられなくなっていきます。

そこには社会的弱者から見た主観が入る。
苦肉の策とでも言おうか、その選択肢しかなかったのです。
そうするしか生きる道はなかったのです。

真理子の視点から見ても、自閉症ということもあり、善悪の判断は出来ません。
言い方は悪いですが、そこにつけ込んだ良夫の罪はあるでしょう。
そんな行動も、美味そうに飯を食う姿、快楽、そして潤っていく生活に犯罪行為や倫理観が正当化されてしまっている怖さ。


決して共感出来るものではない。

自制が効かず自分から性を求める真理子の姿は痛ましいものがある。
あくまでも客観的に、第三者から見れば明らかな異常。
これは良夫の親友でもある警察官・肇の視点でも示されます。

この社会的弱者と我々との視点の齟齬が鮮明に描かれています。



障害者と健常者の視点

この作品はあらすじにあるように、貧困による生活苦から金銭のために妹の身体を商品とする売春斡旋に手を出してしまう。

そんな重いテーマの中、妹の真理子の台詞から笑いを誘うようなブラックユーモアな演出が幾つもされている。

これは例えば某番組での運動神経悪い芸人を笑いものにするように、或いは外国人のカタコトな日本語を嘲笑うように。
我々が普段何気なく目にするバラエティ番組などでの無自覚な偏見に気づかせるものでないのか?

何不自由のない平穏な生活を送る我々が、客観的に社会的弱者を、自分よりも劣る対象を見て揶揄したり嘲笑うこと。

片山慎三監督はこのブラックユーモアを見せることで、健常者が無意識に持つ障害者への差別や偏見を伝えたいのではないのか?

この疑問は鑑賞後にも、今も尚、自分の心に留まり続けています。



終わりに

第71回カンヌ国際映画祭で、最高賞のパルムドールを受賞。
第91回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。
第42回日本アカデミー賞最優秀作品賞を含む8部門で最優秀賞を受賞。
現在も劇場での上映がされており、話題性も高い『万引き家族』を敢えて引き合いとして挙げさせていただきました。

勿論、共通する部分は多いのですが、『岬の兄妹』は上記で述べたように更に一歩踏み込んだ現実の厳しさを見せられます。
生々しい性描写など、美化されていない人間の本質を顕著に描き切っています。


小規模上映が勿体無いと思えるほどの力作であり、衝撃作。
映画館で鑑賞することをオススメいたします。

人間の本質とは何か?
是非、その目で確かめてください。


最後までお目通しいただいた方、ありがとうございました。



(C)SHINZO KATAYAMA

魔女の存在と意思(「サスペリア(2018)」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。

公開日初日に鑑賞してきました1月25日公開の『サスペリア(2018)』について語っています。

今回もいつもながら、こじつけと自論で展開しております。
興味のある方は最後までお付き合い頂けたら幸いです。

この記事はオリジナル版、リメイク版ともにネタバレを含みます。
ご注意ください。




作品概要


原題:Suspiria
製作年:2018年
製作国:イタリア・アメリカ合作
配給:ギャガ
上映時間:152分
映倫区分:R15+


・解説

映画史に名を刻むダリオ・アルジェントの傑作ホラーを、「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督が大胆にアレンジし、オリジナル版とは異なる視点から新たに描いた。1977年、ベルリンの世界的舞踊団「マルコス・ダンス・カンパニー」に入団するため、米ボストンからやってきたスージー・バニヨンは、オーディションでカリスマ振付師マダム・ブランの目に留まり、すぐに大きな役を得る。しかし、マダム直々のレッスンを受ける彼女の周囲では不可解な出来事が続発し、ダンサーたちが次々と謎の失踪を遂げていく。一方、患者だった若きダンサーが姿をくらまし、その行方を捜していた心理療法士のクレンペラー博士が、舞踊団の闇に近づいていくが……。「フィフティ・シェイズ」シリーズのダコタ・ジョンソンほか、ティルダ・スウィントンクロエ・グレース・モレッツら豪華女優陣が共演。イギリスの世界的ロックバンド「レディオヘッド」のトム・ヨークが映画音楽を初めて担当した。撮影はグァダニーノ監督の前作「君の名前で僕を呼んで」に続き、「ブンミおじさんの森」などで知られるタイ出身のサヨムプー・ムックディープロム。

サスペリア : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編






オリジナル版『サスペリア(1977)』

今回、『サスペリア(1977)』のリメイクということで、正直なところ期待と不安、フィフティーフィフティーだったわけですよ。



君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督に決定!と初めて聞いた時には
「おいおいおいおい!」
と。


いや、監督がどうこうというよりも、リメイクするのかという方に驚きが。
リメイクすることは、古い映画への認知、古参新参共に楽しめるという点では賛成なんですがね。



何を隠そう、当管理人レクはですね…
サスペリア大好きマン!!!
なんですよ(笑)



キャッチコピー
「決してひとりでは見ないでください」
インパクトを与えた作品でもあります。



特別ダリオ・アルジェント監督のファンというわけでもないのですが、魔女三部作の中でもそりゃあもう『サスペリア(1977)』は至高です。

続編の『インフェルノ』、『サスペリア・テルザ 最後の魔女』はまあ置いておいて、『サスペリア(1977)』はずっと色褪せない傑作だと思ってます。



ということで『サスペリア(1977)』から語らなければ本作の話には入れないので、少し前置きが長くなりますが語ります、すみません。
語りたいだけなので、オリジナル版の話なんか要らないんだよという方は飛ばしていただいて結構です(笑)

正直な話、リメイクと言いつつオリジナル版の鑑賞は必須ではありません。

なぜなら、オリジナル版『サスペリア(1977)』とは異なる視点から描いたものとのことで、基本的に予備知識がなくてもひとつの作品としてしっかりと成り立っています。

むしろ、過去の有名作を40年以上経った今リメイクするということについて、改変は大正解だと思います。
同じストーリーを準えるだけではオリジナル版を鑑賞した方にとっては面白味に欠けちゃいますからね。


しかし、しかしですよ?
オリジナルを観ていれば「おっ!」となる箇所は幾つかあります。
そして、この魔女三部作の一作目『サスペリア』においては特に魔女の存在をしっかりと把握することで見えてくるものがあるんじゃないかと思っております。





Twitterの"1日1本オススメ映画"というタグでも『サスペリア(1977)』をオススメしています。



もしオリジナル版をご鑑賞なさるならこちら、HDリマスター パーフェクト・コレクションがオススメです!


ここで記載したダリオ・アルジェント魔女三部作の魔女とは何か?という話をしておきましょうか。
一応、リメイク版でも言及はされますが、魔女三部作ではより詳しく言及されています。


魔女三部作では一作目『サスペリア(1977)』に登場する魔女の正体は続編『インフェルノ』、『サスペリア・テルザ 最後の魔女』で明かされることになります。




要約すると

サスペリア(1977)』に登場した三姉妹の魔女の1人"溜息の母(『インフェルノ』では嘆きの母)"。
続いて『インフェルノ』に登場した魔女"暗黒の母(『インフェルノ』では暗闇の母)"。
サスペリア・テルザ 最後の魔女』では魔女"涙の母"。

インフェルノ』にて。
近所の骨董屋で"3人の母"という本を見つけます。
その本の著者はバレリという人物で、数世紀前の建築家。
その"3人の母"(魔女)のためにそれぞれフライブルク、ローマ、ニューヨークで家を建てたことが明かされる。

サスペリア・テルザ 最後の魔女』にて。
1000年以上前に3人の姉妹が黒海の近くで姿を現し、世界中を放浪して行く先々の村や町で死や破壊、混沌をもたらした。
やがて3人は安住の地を求め溜息の母はフライブルクに、暗黒の母はニューヨークに、涙の母はローマにそれぞれが移り住んだとされる。

サスペリア(1977)』の舞台がドイツ。
インフェルノ』の舞台がアメリカ。
サスペリア・テルザ 最後の魔女』の舞台がイタリアというわけです。




さて、ここからは魔女について少し話を進めましょう。
魔女の正体について魔女三部作から得た情報を元に独自に探っていきます。


ここで言う"3人の母"とは、クトゥルフ神話ニャルラトホテプ(Nyarlathotep)の産み落とした百万の恵まれたもののうちの三体。

マーテル・ススピリオルム(Mater Suspiriorum, 嘆息の聖母)、マーテル・テネブラルム(Mater Tenebrarum, 闇の聖母)、マーテル・ラクリマルム(Mater Lachrymarum, 涙の聖母)。


H・Pラヴクラフトの作品『魔女の家の夢』で「黒い男」として現れたナイアーラトテップ

ナイアーラトテップ (Nyarlathotep) は、クトゥルフ神話などに登場する架空の神。日本語では他にナイアーラソテップ、ナイアルラトホテップニャルラトホテプ、ニャルラトテップなどとも表記される。

ナイアーラトテップ - Wikipediaより引用



この嘆きの聖母たちは、ギリシア神話におけるゴルゴン三姉妹のモデルとも言われています。

また、1839年歴史学者フランツ・ヨーゼフ・モーネが唱えた説によると、魔女宗教とはかつて黒海沿岸にいたゲルマン人ヘカテー崇拝と接したことで生まれた地下宗教であるとのこと。


ヘカテーウィリアム・ブレイク/画、1795年)

ヘカテー古代ギリシャ語: Ἑκάτη, Hekátē)は、ギリシア神話の女神である。
ヘカテー」は、古代ギリシア語で太陽神アポローンの別名であるヘカトス(Ἑκατός, Hekatós「遠くにまで力の及ぶ者」、または「遠くへ矢を射る者」。陽光の比喩)の女性形であるとも、古代ギリシア語で「意思」を意味するとも言われている。

「死の女神」、「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「ラミアーの母」、「死者達の王女」、「無敵の女王」等の別名で呼ばれた。


3面3体の姿をしたヘカテーの像(キアラモンティ美術館所蔵)

中世においては魔術の女神として魔女と関連付けられた。
また、シェイクスピアによって書かれた戯曲『マクベス』に登場するヘカテーは、マクベスに予言を行った3人の魔女たちの支配者として描かれている。

過去、現在、未来という時の三相を表している。

ヘカテー - Wikipediaより引用


このことからも3人の魔女の基となったのはクトゥルフ神話の3人の魔女、死の女神と称されるヘカテーの混合の宗教、悪魔崇拝であろうと考えられます。



当時はアーティスティックでショッキングな前衛的なホラー映画。
女性の身に降りかかる畏怖や狂気を孕んだ夢か現実かも分からないような恐怖体験。
美しい死体に刺激的な色彩、そして何よりも
「わけがわからない」んです。


イタリアンホラーによくある事なんですが、とっ散らかってて全てを理解なんて出来ないんですよね。

伏線か?と思ったら回収されずにそのままであったり、構えれば構えるほどこの映画の不可解さに取り込まれていく感覚…そうなんです、簡単にリメイクしても納得のいく作品が出来るような代物ではない作品なんですよ(笑)

ここがリメイクと聞いて不安になった大きな要因。


あくまでこれはオリジナル版の情報から抜き取ったものに過ぎません。
オリジナル版を既に鑑賞されている方は、このオリジナル版をどう解釈するかによってリメイク版の解釈、また評価も変わってくるのではないでしょうか?



今回、リメイクという名目でそんな名作を、持ち前の丁寧さとセンスで「再構築」したルカ・グァダニーノ監督。
君の名前で僕を呼んで』で知名度、認知度も高くその名を知らしめた監督が作る新しい『サスペリア』。

今作は
ダリオ・アルジェントではなくルカ・グァダニーノの『サスペリア』劇場の開演なんです。



リメイク版『サスペリア(2018)』

さて、ここからはリメイク版『サスペリア(2018)』の話に入っていこうと思います。

先ずなんと言っても目玉はキャスト。



1977年公開のオリジナル版のヒロインを演じたジェシカ・ハーパーが41年の歳月を経て同名タイトル作品に出演!
リメイク版では心理療法クレンペラー博士の妻アンケ役を演じています。

ここで小さな感動が(笑)



公開前に1人3役を演じていることが明かされたティルダ・スウィントン

その中でも特殊メイクで演じた心理療法士クレンペラ―博士が凄い。
ルッツ・エバースドルフ名義で本編クレジットされている82歳の男性。

なんたって、あるカットで股間が露わになるんだもの。




さてさて、オリジナル版『サスペリア(1977)』とリメイク版『サスペリア(2018)』を比較すると、一番に目に見えるのは色調の違い。



サスペリア(1977)』


サスペリア(2018)』



オリジナル版には序盤からの視覚的演出がありますが、リメイク版では序盤は落ち着いた印象。
これは演出にも同じように反映されています。

オリジナル版の方でも話しましたが、『サスペリア』の舞台はドイツ。
リメイク版『サスペリア(2018)』ではオリジナル版と同じ年代でもある1977年当時のドイツの背景を共に描き、何か起こりそうな不穏な空気を演出しています。




少し、当時のドイツがどのような状況であったのか、引用しておきます。

ドイツの秋(ドイツのあき、Deutscher Herbst)は、1977年後半の西ドイツ(当時)で起こった、一連のテロ事件の通称。

ドイツ赤軍(Rote Armee Fraktion、RAF)は、この年の9月にドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤー(Hanns-Martin Schleyer)を誘拐し、10月にはパレスチナ解放人民戦線PFLP)とともにルフトハンザ機をハイジャックした。ハイジャック機には特殊部隊が突入し、RAF幹部は獄中で相次ぎ自殺し、シュライヤーは遺体で発見されるという衝撃的な結末を迎えたこれらの事件は、マスコミで連日連夜大きく報じられた。戦後最大のテロ事件と政治的危機により西ドイツ社会は恐怖に震えた。

ドイツの秋 - Wikipediaより引用

ドイツ赤軍(ドイツせきぐん、ドイツ語: Rote Armee Fraktion, RAF)は、1968年結成のドイツ連邦共和国(西ドイツ)における最も活動的な極左民兵組織、テロリスト集団。バーダー・マインホフ・グルッペ(ドイツ語: Baader-Meinhof-Gruppe)との名称も使用した。ドイツ語名の直訳は「赤軍派」だが、日本では「ドイツ赤軍」または「西ドイツ赤軍」の呼称が一般的である。

1977年の後半にはブリギッテ・モーンハウプトとクリスティアン・クラーを新たな指導者として、相次いで事件を起こし西ドイツを震撼させた。

1977年9月5日には西ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーが誘拐された。1977年10月にはルフトハンザ航空181便ハイジャック事件を起こすが、ソマリアモガディシュに着陸したところを西ドイツ政府によって派遣された特殊部隊GSG-9によって急襲された。結果、ハイジャック犯3名を射殺、1名を逮捕、乗客人質全員を救出され、ハイジャックの失敗を知ったバーダーらは獄中で自殺。10月19日、ドイツ赤軍は誘拐した会長を殺害、遺体はフランスで発見された。

ドイツ赤軍 - Wikipediaより引用


直接的に本筋とは関わりはありませんが、1968年にアンドレアス・バーダー、ウルリケ・マインホフ、グドルン・エンスリンは極左地下組織「バーダー・マインホフ・グルッペ」(後にドイツ赤軍と改称)を結成。

ドイツ赤軍の指導者でもあるウルリケ・マインホフはテロリストの母と称されることもしばしば。
ある意味で魔女のような存在と言えます(こじつけ)。



この不穏な空気が、リメイク版ではテーマ性を盛り立て、良い感じに活きてくるんですよね。

当時のドイツの時代背景と並行して舞踊団で巻き起こる不可解な出来事。
まるでナチズムのように抑圧に苛まれる人々を舞踊団という小さな枠組みの中で投影したように、尚且つ夢か現実かわからないオリジナル版とは違い、よりリアルに生々しく映し出すことで露わとなる救済(ここについては後述しています)。

舞踊団の一員が「マルコス!」と掛け声を上げていたのも、ナチス政権のような抑圧的独裁政権を彷彿とさせます。





ラストシークエンスで地下の真っ赤に染まる部屋。
これはオリジナル版のように刺激的な色彩を見せて来なかったリメイク版が、溜めに溜めた鬱憤を晴らすような破壊力のあるインパクトを与えてくれます。

赤を基調とした映像と同化するように鮮血の紅が混ざり合う芸術性。
目が釘付けになること間違いなし。


魔女達の集会(サバト)については映画『ウィッチ』で語っています。


また、悪魔崇拝は映画『ヘレディタリー/継承』にも通ずるものがあります。







地下での集会サバトに入る直前
弟子達との会食はレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」的な構図。
マダム・ブランとスージーが互いに見合うシーンはこの後、何か大変なことがあるな…と思わせる。

勿論、ここで言うイエスはマザー・マルコスのこと、そしてユダはスージーです。

ちなみに人数も数えましたが、この会食で腰掛けた人数は12人、使徒の数と一致します。


作者レオナルド・ダ・ヴィンチ

『最後の晩餐』(さいごのばんさん、英: The Last Supper伊: L'Ultima Cena)は、キリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の晩餐の情景を描いた絵画。ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景である。

最後の晩餐 (レオナルド) - Wikipediaより引用

そしてサバトで、周りを踊る女性達の中心にあったサラとパトリシアを含む三位一体像

これこそが上記で挙げた3人の母のモデル"ヘカテー"を彷彿とさせ、魔女誕生の儀式、クライマックス感をヒシヒシと感じられる仕様になっています。




オリジナル版のストーリーの大筋を準えてはいますが、ほぼ別物と言ってもいい内容、特に結末が大きく改変されています。

サスペリア(1977)』ではマルコスが嘆きの母という設定でしたが、『サスペリア(2018)』ではなんとスージーが嘆きの母という設定に。

冒頭の
「母はあらゆる者の代わりにはなれるが、何者も母の代わりにはなれない」
という言葉は正にこれ。


マザー・マルコスも、マダム・ブランも、嘆きの母の可能性として候補に挙がっていました。
マルコスを魔女の1人だと思い込んでいた舞踊団のメンバー(と我々観客)。
彼女の器となるダンサーを探し求めていたところ、ついに相応しい人物スージーが現れたぜ!

と思い込ませておいてのコレですよ。
嘆きの母になる者は実は初めから決まっていたということですよ。



そして、先程記述しましたが

まるでナチズムのように抑圧に苛まれる人々を舞踊団という小さな枠組みの中で投影したように、尚且つ夢か現実かわからないオリジナル版とは違い、よりリアルに生々しく映し出すことで露わとなる救済。

スージーはあの地下儀式により3人の母の1人、嘆きの母として新たに誕生しました。

そこで行われたのが望みを叶えること
また、その後にクレンペラ―博士の自宅を訪れ、記憶を消したこと



上記で"3人の母"は"ヘカテー"説を説きましたが、ヘカテーの持つ特徴に「死の女神」と「遠くにまで力の及ぶ者。遠くへ矢を射る者。陽光の比喩。」、また古代ギリシア語で「意思」を意味するとも言われている。

三相は過去、現在、未来を表し、クレンペラー博士の妻アンケの行く末を知っていたのも頷ける。

ラストカットのスージーの微笑みも、きっと未来を見据えたもの。
残りの2人の魔女も復活させてしまうのだろうか…。



ホロコーストで迫害されてきたユダヤ人と魔女狩りで虐げられてきた魔女。
その2つの接点が見えてくる。

望むものに死を、そして苦悩の忘却。
スージー意思で行った抑圧的な環境からの解放と悲哀に満ちた人生からの解放
一見、舞踊団の魔女たちへの復讐、見方によっては虐げられてきた者たちへの救済と受け取れませんか?



「おいおいおいおい!」と。

やりやがったな!と。
僕好みの展開じゃないか!と。

ルカ・グァダニーノ監督、リメイク決定と聞いた時に不安を抱いてごめんなさい!と。



不明瞭で畏怖する対象となる魔女を説明的に丁寧に描いたことで、リメイク版単品でもひとつの作品として成立しています。

オリジナル版『サスペリア(1977)』で描いた"魔女の存在"から、更に踏み込んだ新たな"魔女の存在と解釈"

リメイクの存在意義についても確実のものとしたリメイク版『サスペリア(2018)』。


こりゃあとんでもないものを見せられたと思うわけですよ!



良くも悪くもダリオ・アルジェントルカ・グァダニーノ、2人の監督によってオリジナル版とリメイク版で異なる視点から映画が作られた。という事実が素晴らしい‬!




終わりに

長々と失礼しました。
オリジナル版『サスペリア(1977)』についてはもう少し語ることはあったのですが、だいぶ端折らせていただきました。
あくまでもリメイク版『サスペリア(2018)』に必要な部分のみ記述したつもりです。


少し…いや、かなり独断と偏見を交えながら語ってきた新旧『サスペリア』。
如何でしたか?

芸術性に富んだオリジナル版『サスペリア(1977)』
社会性を取り込んだリメイク版『サスペリア(2018)』
どちらも素晴らしい映画であり、割と好みな内容で安心しました。


とはいえ、今年は1月から凄い作品が出てきますね!
後半に失速しないか心配になってしまう程です(笑)



また不定期に、ブログ案件の映画に出会うまでは書きませんが、今後ともよろしくお願いいたします。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




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