小羊の悲鳴は止まない

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真実と事実(「三度目の殺人」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は先日観に行った「三度目の殺人」について話していこうかと思っております。

この先、ネタバレを前提に書いてますので、未鑑賞の方はご注意ください。


あらすじと予告

あらすじ

そして父になる」の是枝裕和監督と福山雅治が再タッグを組み、是枝監督のオリジナル脚本で描いた法廷心理ドラマ。勝つことにこだわる弁護士・重盛は、殺人の前科がある男・三隅の弁護を仕方なく担当することに。解雇された工場の社長を殺害して死体に火をつけた容疑で起訴されている三隅は犯行を自供しており、このままだと死刑は免れない。しかし三隅の動機はいまいち釈然とせず、重盛は面会を重ねるたびに、本当に彼が殺したのか確信が持てなくなっていく。是枝監督作には初参加となる役所広司が殺人犯・三隅役で福山と初共演を果たし、「海街diary」の広瀬すずが物語の鍵を握る被害者の娘役を演じる。
三度目の殺人 : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編





キャスト


重盛(福山雅治)
裁判で勝つためには、真実は二の次と割り切る弁護士。



三隅(役所広司)
得体の知れない不気味な容疑者。



咲江(広瀬すず)
被害者の娘。



他、豪華キャスト



司法制度への糾弾

今作「三度目の殺人」は現行の司法制度に警鐘を鳴らす作品であると同時に罪の重さや不条理さ、矛盾点や疑問点を浮き彫りにする。

司法経済という言葉が出てきましたが、人ひとりの命が懸かっている裁判であってもこのようなことが度々行われている現状。
確かに、自白していた容疑者が一転、供述を翻しても信憑性に欠けます。
しかし、その決断を下すのが裁判であり、内内の問題だけで有耶無耶にすることは非常に恐ろしくもあり、機械的だと思いましたね。

たとえば無実の罪で死刑宣告されたとするなら
死刑判決を下した者は殺人犯ではないのか?



罪の重さと不条理さ

当初、三隅は強殺(強盗殺人)の容疑で捕まっています。
そして自供し、起訴されました。
重盛は死刑を免れるために強殺ではなく怨恨による殺害へとシフトチェンジしていきます。

強盗殺人よりも怨恨による殺人の方が罪が軽くなるのか?
同じく人ひとりを殺害しているのにも関わらず、なぜ罪の重さは変わってしまうのか?

この辺の説明は作中でもされましたが整理しておきたいと思います。

殺人罪(さつじんざい)
人を殺すことによって成立する犯罪である。
他の重罪を伴う殺人 強盗や強姦、放火等の重罪を伴う殺人は、単純な殺人よりも加重されることがある。例えば、日本では強盗犯人が殺人を犯した場合、殺人罪(刑法199条)ではなく、強盗殺人罪(刑法240条)が成立する。また、殺人の故意がない場合も、各種の結果的加重犯の規定が存在し、死亡という事実によって刑が加重される。

強盗致死傷罪(ごうとうちししょうざい)
刑法240条で定められた罪。「強盗が、人を負傷させたときは無期又は六年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。」と規定されている。236条の強盗罪の加重類型である。未遂も処罰される(243条)。

第199条
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

第240条
強盗が、人を負傷させたときは無期又は6年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。

Wikipediaより

同じく人を殺めた罪ですが、そもそも殺人罪と強盗殺人罪は別の罪とされ、処罰も重いようです。

なぜ罪の重さが違うのか?
それは犯罪に至る経緯や心情が関係しています。
金銭目当てなどによる強盗殺人罪は身勝手な犯行だとされ、情状酌量の余地はない。
一方、怨恨などによる殺人罪は殺めるに至った動機等を考慮して刑罰は決められるから。

先程から自分が使っている「罪の重さ」というのはどうやら語弊がありますね。
刑罰の重さ」と言うべきでしょう。

人を殺めた罪の重さというのはどれも同じです。
しかし、刑罰は裁判官、裁判員、弁護士、検察、証人、被告、この事件に関わる様々な人たちの発言と判断により決まってしまいます。

人の命の重さに違いはありますか?
同じ命を奪っても刑が軽くなることがあるというのは何とも不条理だと思いませんか?



三度目の殺人とは


接見室での反射越しに重なる三隅と重盛の構図が印象的でしたね。
これは嘘と真実、欺瞞と啓発の対比を示唆するものだろう。

二転三転する三隅の供述に重盛は苛立ちの感情を露わにするシーンもありました。

しかし、ガラス越しに手を合わせるシーンでは2人の顔が重なります。
三隅は重盛と心を通わせた瞬間だと思われますね。
現に重盛に娘がいることを言い当てています。
なぜそこまで推測できたか?
詳しくはわかりませんが、人の親だからこそわかることもあるんじゃないでしょうか?



終盤、初めは対比として描かれていた2人の心理が重なっていく事が幾つかの描写でわかってくるんです。


三隅の親子の回想シーンに重盛が入り込む

このシーンで幾つか2人の真意がわかってきます。
重盛は離婚前で娘との今後の微妙な関係を三隅と実娘の疎遠な関係と重ねている。
三隅は咲江のことを実の娘の姿と重ねていること。(娘役に広瀬すずを起用)


接見室でガラス越しに重なり合う2人の距離

上記で対比を示唆すると述べた画像と見比べてもらうと一目瞭然だと思いますが、2人の距離はかなり近づいていることがわかります。
これは物理的にではなく、心理的に近づいたことを悟らせる演出だと思います。

また、ガラスを挟んで物理的に近い映像だけではなく、ガラスに移り込む姿を重ね合わせることにより、より2人の心理が近づいていることを物語っているのではないでしょうか?


だから重盛は三隅の意を汲んで、三隅の否認を受け入れたのだと思われます。
娘と重ね合わせた咲江を守るために。
裁判であのような発言をさせないために。
そして、三隅自身の意思を尊重するために。
この死刑判決を受けて、三隅は過去二度の殺人と自分自身を殺す三度目の殺人」を見事成し遂げたわけです。



カナリアが意味するものは?


いわゆる炭鉱のカナリアは、炭鉱においてしばしば発生するメタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報として使用された。本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止む。つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられた。
Wikipediaより引用

三隅はアパートでカナリアを殺したという描写がありましたね。
5匹殺して1匹を逃がしています。

理由として三隅自身が命の取捨選択できる立場にあると自負していたからではないかと考えています。
殺人を犯した自分は生きているのに真っ当に生きた妻は亡くなったと重盛に話すシーンもあったと思います。
命の不条理さを訴える一方で、生かすも殺すも誰かの意図として可能なのではないか?と考えたのかもしれません。

なので、タイトル「三度目の殺人」も自分の意思で自分自身を死刑にし、その命を絶つことで達成される
二転三転する供述も、咲江を救うためについた嘘(事実かどうかは定かではない)もまた自分の命を自分で取捨選択できる立場であるということを実証したのではないか。


そして、危険を察知するカナリアは司法制度への声にならない警鐘のメタファーでもあると考えられます。

また逃がした1匹は作中である咲江のメタファーではないか?
法廷を去る際にカナリアを掴むような手つきを咲江に見せていました。
これは圧迫された家庭環境からの解放と裁判で唯一真実を述べようとした咲江を逃がしたカナリアと重ねているのではないかと思われます。



真実と事実は別物?

三度目の殺人」を観終わって、三隅の罪の真相はあの供述通りだと思いましたか?

二転三転する供述に振り回されながらも導き出した答えは美しい話でした。
これが真実かどうか、それは本人にしかわかりません。
ここで問題になってくるのは「他人を救うための自己犠牲は有り得るのか?

少なくとも三隅は咲江を自分の娘と重ねたことは事実でしょう。(だと思いたい)
この関係性を聞いた時、この美しい話とは別の真実が頭を過ぎってしまった…。
見方によって様々な解釈が持てる、実に考えさせられる映画です。


その頭を過ぎったこととはズバリ
三隅と咲江は共犯説。




広瀬すず役所広司が殺害現場で重なる映像。


金糸雀と死体の十文字 埋葬と火葬。


これらの共通点から本当は咲江と三隅が共犯もしくは共謀で殺害し、死体隠蔽をしたのではないか?
それを隠蔽するために三隅は当初、金銭目的で犯行に及んだと供述していたのではないか?

自分の殺人の罪を全て被ってくれた三隅へのせめてもの罪滅ぼしとして、咲江は三隅の罪を軽くする為に性的暴行の発言をすると言い出したのではないか?(もしくは性的暴行が真実で殺害動機である可能性もあり)

んー、有り得なくもないが、頭に過ぎっただけで立証は難しい。
結末を見る限りではこの流れはかなり苦しい(笑)


ただただ疑問に思うことがあるんですが
三隅は命の不条理さを訴えることと死刑判決で自分自身を殺害することを目的としていたと思うんですよ。
となると
誤った死刑判決、無実の人が死刑宣告を受けることが殺人と同等の意味があるという司法へのメッセージと、その命を奪うことの理不尽さや不条理さを伝えたかったのだろうと推測するわけです。

つまり三隅が今回の殺人罪を全て背負い込んで死刑判決を受けたことは誤ちではないのかと思ってしまったわけですよ。


どちらにしても、三隅が咲江を自分の娘の姿と重ね合わせていたことで、法廷での性的暴行の発言を辞めさせるために自分は殺してないと供述を翻した。
結果これが信憑性に欠けるとして死刑に繋がったことは事実であり、また三隅が死刑に処されるという事実は覆すことは出来ません。
真実はどうであり、下された判決は事実なのです。



器の意味について

三隅は自分のことを器だと語りましたが、やるべき事を終えた三隅はもはやただの器になってしまったということでしょうか?
そこに至るまでの過程で、その器は娘と重ねる咲江への愛情で満たされていたのかもしれません。

役所広司さん演じる三隅は見る人によって、善人にも悪人にも、無実の罪に問われている人にも殺人犯にも見えてしまう。
そんな姿に自分はまるで三隅という人間の器に人間性という中身が入れ替えられていたような印象を受けました。

同じ容姿でも、中身が違えば見た目も印象も変わる。

宣伝コピー
「その獣は、にんげんの目をしていました。」

正しくこれでしたね。
どれが真実なのかわからない、この作品そのものを表した言葉なのかもしれません。



終わりに

「誰を裁くのかは誰が決めるのか?」

この台詞にこの作品の全てが詰め込まれていたような気がします。

聖書にも【人を裁くな】とあります。
『人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。』

殺人犯に死刑判決を出した裁判官も殺人犯なのではないか?と言わんばかりの一説ですね。

作中には十字架が多用されています。
殺害現場、カナリアの墓、雪の中の姿勢、十字路…などなど。
自分はキリスト教について詳しくないので省きますが(笑)
この辺りを掘り下げてみても面白いと思いますよ。


モヤモヤした終わり方や鑑賞者側に委ね想像させるこの作品は如何様にも受け取れて面白いですね。
作品内容は決して明るいものではありませんが、少しでも多くの方に観てもらいたい作品です。

ここまでお読みいただいた方、ありがとうございました。




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