小羊の悲鳴は止まない

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心を抉るのは愛か復讐か(「ノクターナル・アニマルズ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
念願の映画「ノクターナル・アニマルズ」を観てきました。

当記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Nocturnal Animals
製作年:2016年
製作国:アメリカ
配給:ビターズ・エンド、パルコ
上映時間:116分
映倫区分:PG12


あらすじ

世界的ファッションデザイナーのトム・フォードが、2009年の「シングルマン」以来7年ぶりに手がけた映画監督第2作。米作家オースティン・ライトが1993年に発表した小説「ミステリ原稿」を映画化したサスペンスドラマで、エイミー・アダムスジェイク・ギレンホールマイケル・シャノンアーロン・テイラー=ジョンソンら豪華キャストが出演。アートディーラーとして成功を収めているものの、夫との関係がうまくいかないスーザン。ある日、そんな彼女のもとに、元夫のエドワードから謎めいた小説の原稿が送られてくる。原稿を読んだスーザンは、そこに書かれた不穏な物語に次第に不安を覚えていくが……。エイミー・アダムスが主人公スーザンに扮し、元夫役をジェイク・ギレンホールが演じる。
ノクターナル・アニマルズ : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



虚構と現実

本作の肝はスーザンの元へと届けられた一冊の小説。
元夫であるエドワードが書き上げ、スーザンへと捧げられたものです。

そこに書かれていた内容は暴力的且つ静寂で淡々としているが故に扇情的なもので、読むものを惹き付ける何かがある。


この話は現実なのか?それとも虚構なのか?
何故このような小説が送られてきたのか?
エドワードの真意は何なのか?

スーザンの現在とエドワードとの過去、それらと重ねるように映し出された小説の映像。
それはスーザンの心を抉り取るように、そして鑑賞者側は小説内容の世界へと吸い寄せられる。



小説の物語は現実と重ねて書き綴られたものだと推測されますよね?
小説の登場人物から一つずつ確認していきます。


・トニー
トニーはエドワードと同じくジェイク・ギレンホールが演じているので、トニー=エドワードです。

エドワードが"弱い"と表現され、揶揄されたことからも弱者の立場であるトニーとエドワードを結びつけているのは確かです。


・妻と娘
レイたちによって死へと追いやられたトニーの妻と娘。
彼女らは堕胎し無惨に殺されたエドワードとの子ですね。

小説と現実が重なる映像は幾つかありますが、妻と娘の死体がスーザンの娘の姿と重なった映像からも子供だと考えられます。

また、赤ちゃんを映し出すスマホ映像でレイが突然現れてスマホを落としてしまうシーン。
レイは殺人犯であり、スーザンを表す。
赤ちゃんが写ったスマホを落として割ってしまったことは堕胎の暗喩でしょう。
壁に飾られた「REVENGE」も明喩として復讐を意味します。


・レイ他2人の実行犯
夜の獣たちである三人。
彼らを比喩するのはスーザンだと考えられます。

過去の話からスーザンはエドワードへ酷い仕打ちをした事実があるので、トニーへの仕打ちを考えると間違いないでしょう。
そして車内でハットンに「堕胎したことは気づかれない」と言われたこともスーザンを意味するレイたちの犯罪行為がバレていないことと繋がります。


・ボビー
警官のボビーは肺癌で余命を余儀なくされながらも、トニーと共に犯人逮捕のために協力します。

ボビーはトニーにとっては希望のようなもの。
つまり現実でいうところのスーザンに対する愛ではないか?
ボビーは死ぬ運命にある。
すなわちそれは愛の終止符を意味する。
そして、ボビーが最後に取った違法行為はトニーの復讐への手助け。
つまり愛が憎しみへと、復讐へと変わったことを仄めかす描写ではないか?



小説でレイたちに対して語られる台詞はどれも復讐を示唆させるもの。
レイたちはスーザンを差すので復讐心剥き出しなのが手に取るようにわかる。

しかし、よくよく考えてみれば冒頭からこの小説が復讐を意味することは明白だったんですよ。

スーザンが小包を開けようとした際に、エドワードが贈った小説で指を切ってしまいましたよね?
この事からもこの小説はスーザンへ向けた攻撃的な凶器なんですよね。



タイトルの意味

映画のタイトル「ノクターナル・アニマルズ
夜の獣たちと訳されています。


夜の獣

エドワードがスーザンを形容してましたよね?
つまり夜行性動物を意味する言葉であり、不眠症のスーザンを指す言葉でもあります。


夜行性動物の代表的なものと言えばフクロウです。

フクロウ
ギリシャ神話において、フクロウは女神アテーナーの象徴であるとされる。知恵の女神アテーナーの象徴であることから転じて知恵の象徴とされることも多い。
一方東洋では、フクロウは成長した雛が母鳥を食べるという言い伝えがあり、転じて「親不孝者」の象徴とされている。



紀元前1世紀の「アンティオコス」と署名された大理石の複製品。

アテーナー
知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。アルテミス、ヘスティアーと同じく処女神である。

ホメーロスは女神を、グラウコーピス・アテーネー(glaukopis Athene)と呼ぶが、この定型修飾称号の「グラウコーピス」は、「輝く瞳を持った者」「灰色・青い瞳を持った者」というのが本来の意味と考えられるが、これを、梟(グラウクス)と関連付け、「梟の貌を持った者」というような解釈も行われていた。
Wikipediaより抜粋引用

まさにスーザンの人物像そのものではないだろうか。



では、何故
単数形のAnimalではなく複数形のAnimals
なのか?

それはスーザンのあらゆる部分を意味しているのではないか?
美しくも醜いその内面は複雑で知的な幾つものを覗かせる。


冒頭のデブのおばさんが踊るシーンからも、上辺だけで判断することの稚拙さを皮肉に語っているように思えます。



ラストの解釈

ラストでは20年ぶりの再会の連絡を取り、待ち合わせするもスーザンの前にエドワードは現れませんでした。
このモヤモヤとする中途半端な終わり方の解釈をしていきます。



一つの解釈として
現実でエドワードはもうこの世にはいない。

小説でトニーが最期に腹を撃って死んだことからも推測できます。


エドワードはこう語っていました。
「失えば二度と戻らない。」

これはエドワードとのを指し示すものであり、またこの世を去ったエドワードを示唆するものでしょう。
なので、あのエドワードが現れないラストが描かれたと思います。

ではスーザンへ返事を送ったのは誰なのか?
あのメールはエドワードに対する申し訳ない気持ちと愛の再確認によって、小説で心を抉り取られたスーザンが見た妄想ではないかと考えました。

虚構である小説が与えた絶望がスーザンの現実に干渉し、心を動かしたのではないか?


そうです、エドワードはスーザンに小説を送り付けたのには理由がある。

自分(エドワード)の才能は優れている。それを見抜けなかったスーザンへの積年の思いと、そんな自分を捨てたスーザンへの単なる復讐ではない。
スーザンに自分への愛を再確認させ、後悔に苛まれる残りの人生を送らせる、絶望させることにあるんだと思います。

もうスーザンはエドワードのことを忘れられない。
しかし、失ったものは二度と戻らないんです。


終わりに

ただ小説を読むだけの話が、ここまでのミステリーに成り得るのか。
小説が現実と記憶を交錯させ、惑わせていく。
自分はとんでもないものを観させられたのかもしれない。

ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。




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