小羊の悲鳴は止まない

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愛と喪失の物語(「シェイプ・オブ・ウォーター」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は話題にもなっている「シェイプ・オブ・ウォーター」です。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Shape of Water
製作年:2017年
製作国:アメリカ
配給:20世紀フォックス映画
上映時間:124分
映倫区分:R15+


解説

パンズ・ラビリンス」のギレルモ・デル・トロが監督・脚本・製作を手がけ、2017年・第74回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したファンタジーラブストーリー。1962年、冷戦下のアメリカ。政府の極秘研究所で清掃員として働く女性イライザは、研究所内に密かに運び込まれた不思議な生き物を目撃する。イライザはアマゾンで神のように崇拝されていたという“彼”にすっかり心を奪われ、こっそり会いに行くように。幼少期のトラウマで声が出せないイライザだったが、“彼”とのコミュニケーションに言葉は不要で、2人は少しずつ心を通わせていく。そんな矢先、イライザは“彼”が実験の犠牲になることを知る。「ブルージャスミン」のサリー・ホーキンスがイライザ役で主演を務め、イライザを支える友人役に「ドリーム」のオクタビア・スペンサーと「扉をたたく人」のリチャード・ジェンキンス、イライザと“彼”を追い詰める軍人ストリックランド役に「マン・オブ・スティール」のマイケル・シャノン
シェイプ・オブ・ウォーター : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編




愛と水

恐らく、「シェイプ・オブ・ウォーター」をご覧になられた方は、なんて切ない愛の物語なんだ!と思ったでしょう。

別に批判するつもりはなく、まさにその通りだと思います。



Twitterにも挙げた通り、自分もその感想に辿り着きました。



冒頭の映画「砂漠の女王」「恋愛候補生」
これは紛れもなくイライザを比喩しています。

実際に「砂漠の女王」という映画があります。
ルツ記を基にしたこの作品は、モアブ国でいけにえとなるはずだった少女ルツが、ユダヤ国の青年マーロンと出会い、そして捕らえられたマーロンを助け出す話なんですが、本作と共通する部分が感じられます。

「恋愛候補生」は観ていないのでわかりませんが(笑)


また愛を水と喩えるなら、「砂漠の女王」は水のない砂漠、愛を知らない女性を指す。
つまり「恋愛候補生」なのです。


ただ、愛と水と表現すると官能的な響きになっちゃいますね(笑)



Twitterで、水は清らかで美しいと表現しました。
愛とは美しいものなのです。
しかし、時には汚れるものでもあります。
愛故に嫉妬や猜疑心、束縛、性欲、様々な汚れも存在する。

どうやら、私の心は汚れてしまっているようです。



決められた行為のように、決められた時間でゆで卵を作る間に自慰行為をしていたイライザが、半魚人と出逢ってからその自慰行為の描写が見られない。
これはイライザが半魚人を異性として見始めたこと、そして性欲がそちらに向いたことも意味していると思います。

また、イライザが半魚人に恋をしてしまった経緯もしっかりと描かれていました。



ひとつの要因は共通点


共に川から拾われ、卵と音楽が好きで言葉が話せない。
イライザは少しずつ半魚人に惹かれていく。
そして、イライザの首には魚のエラのような傷があることからも、半魚人もイライザを自己投影していたのかもしれません。


もうひとつの要因は吊り橋効果

聞いたことがあると思いますが、吊り橋のように恐怖心を抱いた時、その心臓の鼓動が恋をした時の鼓動だと錯覚し、恋に落ちるという昔から使われる手です(笑)

さあ、片想いの男子は遊園地デートでジェットコースターに乗るんだ!

イライザは初対面で異型の半魚人に畏れを抱いていました。
しかし、畏れと好奇心というドキドキから半魚人に恋(勘違い)をしてしまったのです。





ミュージカルシーンでもイライザの心模様が表現されていましたね。

美女と野獣」を皮肉に意識しています。

デル・トロ監督自身、実際に実写化に着手しかけたものの、降板していましたね。

彼はこうも語っています。
「僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ? だから僕は半魚人を野獣のままにした。モンスターだからいいんだよ。」と。

ごもっともです(笑)





自宅のバスルームで初めて愛を交わしたシーン。
バスに乗るイライザの横で雨水の水滴が2つ交わる描写が入りましたが、これは性行為を指す。
つまり、水は愛を意味することを決定づけるシーンなんですよね。


バスルームを水で満たし、抱き合う様はまるで愛に包まれるかのように


水を愛とするなら、愛の中で生きるなんて事も言えるだろうが、海とは勿論海水のこと。
真水の比重は1、つまり1ccあたり1.000g。
海水の比重は1.025なので1ccあたり1.025g。
ラストで海の中へと沈んでいく様子は、より深い愛に包まれたと解釈しても良いだろう。


水を愛と比喩する一方で、雨水、浴槽の水、海水。淡水から汽水、汽水から海水へと水の比重を増やすことでイライザと半魚人の愛の変遷、重さや深さを明確に表していると思う。



愛も水も形のないもの。
しかし、型にハマればどんな形にもなれる。
たとえ種族が違っても、そこに愛は形作れるのだと。



ギレルモ・デル・トロ監督自らもその事について語っています。

デル・トロ監督は「男女の愛やロマンチックな愛、友情、仕事や科学に対する愛。または、誰かのために何かを行う(献身的・自己犠牲的な)愛。“愛”というのはさまざまな形を持っている。水も同じだよね。決まった形がなく、色々な形になる。僕は、“愛”と“水”は同じだと思っているんだ。(本作では)愛の可能性について探りたかったんだよ」と慈しむようなまなざしで語る。監督の思いは本作のタイトルにも反映されており、「シェイプ・オブ・ウォーター(水の形)」は、人物ごとに姿を変える「愛そのもの」を示している。
本作は水中で眠るイライザをとらえた幻想的なシーンから始まり、その後も「2分ごと、3分ごとに水が何らかの形で出ているんだ。水を飲むとか、涙を流すとか、雨が降るとか、卵をゆでるとかね。常にそれは意識していたよ」と監督が語る通り、水、つまり愛のメタファーが随所に登場。見る者に愛の流動的なイメージを強く印象付ける。
【デル・トロ監督インタビュー:前編】「シェイプ・オブ・ウォーター」のタイトルに込めた真意 : 映画ニュース - 映画.comより引用




人魚と半魚人

この作品に登場する半魚人。
皆さんがイメージされる半魚人でしたか?
そもそも、人魚と半魚人の違いって何でしょう?

人魚

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる人魚(マーメイド)の絵画(1900年)

英語ではマーフォーク (merfolk) と言い、特に若い女性の人魚はマーメイド (mermaid) または男性の場合はマーマン (merman) と呼ばれる。マー (mer-) は、単語では mere となり、いずれもラテン語の mare(海)に由来する。
ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)である。今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16–17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている。
人魚 - Wikipediaより引用


半魚人

海の司教。1531年にバルト海にて捕獲とある。

半魚人(はんぎょじん)とは、ヒトと魚類の中間的な身体をもつ、伝説の生物。
二腕二脚だが、鱗やエラを持つなどの特徴があることから水棲人(すいせいじん)とも呼ばれ、英語ではマーマン(Merman)と称されることが多い。なお、上半身が人間、下半身が魚の姿(脚が無い)のものは人魚と呼ぶのが普通である。
アマゾン川に生息するといわれる(?)、上半身が魚、下半身が人間という形態のものは魚人と呼ばれる。
近年の創作作品の中では、「手足にヒレや水かきがあり、全身がうろこで覆われ、頭部が魚のもので、言葉を話す人間のような生物」といった形態が、ステレオ的に用いられている。
半魚人 - Wikipediaより引用



ここまでは恐らく一般的なイメージでしょう。
では、本作における半魚人の正体とは一体なんなのでしょうか?


ストリックランドとゼルダの会話を思い出してほしいのですが、二度ほどサムソン、ペリシテ人という会話がされます。

ダゴン

ダゴン(英: Dagon、ヘブライ語: דָּגוֹן [dagon])は、古代フェニキアの神。マリとテルカに神殿が発見されている。聖書によって古代パレスチナにおいてペリシテ人が信奉していたことが知られる。

旧約聖書サムエル記上第5章に記述された内容によれば、ペリシテ人イスラエルと戦い、勝利して契約の箱を奪ったとき、アシトドのダゴンの神殿にこれを奉納した。翌朝、ダゴンの神像は破壊され、ペリシテ人は疫病に悩まされたため、ペリシテ人は賠償をつけて契約の箱をイスラエルに返したとされる。破壊された神像は頭と両手が切り離されて魚のような体の部分だけが残っていたという。また、旧約聖書士師記16章には、サムソンを捕えたペリシテ人は、ダゴンに生贄を捧げ、ダゴンの神殿でサムソンを見せ物にした。しかし、サムソンは力を取り戻し、中心の2本の柱を引き倒すことで神殿を崩落させ、3000人のペリシテ人とともに死んだ事が書かれている。



クトゥルフ神話ダゴン

クトゥルフ神話ダゴンが取り入れられたのはハワード・フィリップス・ラヴクラフトが著作の小説「インスマウスの影」で半魚人である「深きものども」あるいは「インスマウス人」によって組織された邪悪な教団をダゴン密教団と呼び、ダゴンを神としていたところからである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ダゴンtitle:より引用





ラヴクラフトの小説「インマウスの影」でも青白く蛙にも似た容貌の半魚人が登場し、主人公の祖母の名前がイライザである。

きっと、イライザという名前もここから取られたのではないでしょうか?




少なからずデル・トロもこのラヴクラフトクトゥルフ神話の影響を受けていると思われます。
本作でも半魚人を神だとした会話がありました。

つまり、本作における半魚人とはダゴンのことを指すのではないだろうか。


またイライザは人魚姫と同じく声が出せないという設定にも、半魚人がイライザに自己投影したことを裏付けます。



本当に純愛なのか?

これが言いたいがために、今まで散々愛だの何だのと語ってきました(笑)


この作品は果たして本当に純愛なのか?


なぜ自分がそのような考察に至ったか。
それはこの作品の始まりと終わりからも、語り部として描かれていたのはイライザの良き理解者でもあったジャイルズ。
この作品はあくまでもそのジャイルズから見た視点で描かれている。

つまり、異型との美しい愛の物語は真実ではない可能性もあるのではないかと思うわけです。

いや、"真実ではない"は語弊がありますね。
ジャイルズの創作の可能性もあるのではないか。

自分の性格がひねくれてるからだと思うので、ここから先は暖かい目で見てやってください。



まず冒頭で「愛と喪失の物語」と語られています。
ここで何か引っかかりませんでしたか?
自分は少なくとも引っかかった人間です。


愛とは勿論、イライザが半魚人へ抱いた感情を指します。
では喪失とは何か?


普通に考えればイライザのことでしょう。
良き理解者であった彼から見た喪失はイライザのほかなりません。

またストリックランド初めアメリカ側からすれば、半魚人のことでしょう。



しかし、この物語は愛をテーマとしたもの。
例えば、第三者から見た「イライザと半魚人の愛」を語るとするなら、わざわざ「愛と喪失」と語るでしょうか?

イライザにとっては胸中の半魚人と共にハッピーエンド。
喪失という言葉を使わず、「愛の物語」として語ればいいもの。


ジャイルズ視点だからこそ、「愛と喪失の物語」であり、それは彼が描く絵のように創作物、逸話、寓話として描かれた彼の理想、夢物語なのかもしれません。



ここでラストシークエンスに半魚人との別れの予定日の前日、9日のカレンダー裏に書いてあった言葉です。

「人生は失敗の積み重ねに過ぎない」

一見、敵であるストリックランドへの皮肉とも取れる言葉ですが、これはイライザにも当てはまるのではないか?

ラストで半魚人にキスをされたイライザは首の傷が魚のエラのように変化し、水中でも呼吸ができるようになった。
つまりは、イライザは人ではなくなったのだ。
半魚人の本能的行動が招いた結果とも取れてしまう。


そう、これは実際、決して純愛などではなく、半魚人と出逢った運命、そしてその後の行動全てが失敗の積み重ねであるとする運命論的物語なのではないだろうか?



愛を手に入れた。
これ以上、幸せなことはない。
そう見せかけながらも人としての人生を失い、海の底へと沈んでいく…。


仮に半魚人がダゴンだとするなら、旧支配者クトゥルフに仕える従者として位置づけられ、クトゥルフ神話で邪神と教えられる彼にハッピーエンドは有り得るのだろうか?

恋は盲目とも言います。
愛と喪失、結局イライザが自分自身を見失ってしまった結果とも取れてしまう。
そして半魚人が本当にイライザのことを一人の人間として愛していたのなら、撃たれた傷を癒し、一人海へ帰るのではないか?とさえ考えてしまうのである。



イライザと半魚人との愛は、冒頭から語ったように無形の愛です。

一方で、ジャイルズが語るイライザと半魚人の愛は、絵やこの物語の語りで残したように形あるものは失われる。
有形の愛なのかもしれませんね。



終わりに

いつものようにひとつの事柄、今回は半魚人について掘り下げてみましたが、何ともバッドエンド解釈が出来てしまうというオチ(笑)

自分のひねくれた性格がよく投影されています。

まあバッドエンドも有り得るとして考察は進めましたが、監督の言葉や鑑賞後の印象は純愛でいいと思います。
ただ、こんな見方もできるかな?ってだけの話でした。


作中に出てきたストリックランドが購入したキャデラックも緑に見えるティール色。
この作品のように一見同じ色でも、見る人によってその色は変わるということなのかもしれません。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2017 Twentieth Century Fox