小羊の悲鳴は止まない

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大人の御伽噺(「ゆれる人魚」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「ゆれる人魚」について語っています。

少し間が空いてしまって、バタバタしましたが何とか書ききれました。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Lure
製作年:2015年
製作国:ポーランド
配給:コピアポア・フィルム
上映時間:92分
映倫区分:R15+


解説

共産主義下にあった1980年代のポーランドを舞台に、肉食人魚姉妹の少女から大人への成長物語を野性的に描いたホラーファンタジー。海から陸上へとあがってきた人魚の姉妹がたどりついた先はワルシャワの80年代風ナイトクラブだった。野性的な魅力を放つ美少女の2人は一夜にしてスターとなるが、姉妹の1人がハンサムなミュージシャンに恋をしたことから、姉妹の関係がおかしくなっていく。やがて2人は限界に達し、残虐な行為へと駆り立てられていく。監督は本作が長編デビュー作となるポーランドの女性監督アグニェシュカ・スモチンスカ。「第10回したまちコメディ映画祭 in 台東」(2017年9月15~18日)の特別招待作品として上映。
ゆれる人魚 : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編




ゆれる人魚

人魚や半魚人と聞いて思い描く映画はありますか?


セバスチャン・グティエレス監督「人喰い人魚伝説」
ロン・ハワード監督「スプラッシュ」
チャウ・シンチー監督「人魚姫」
クォン・オグァン監督「フィッシュマンの涙」
宮崎駿監督「崖の上のポニョ
湯浅政明監督「夜明け告げるルーのうた
ロン・クレメンツ監督/ジョン・マスカー監督「リトル・マーメイド」

そして
ギレルモ・デル・トロ監督「シェイプ・オブ・ウォーター


これらの中でも「ゆれる人魚」は珍しい映画となっています。
えー、まずは人魚について掘り下げていきましょう。

人魚

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる人魚(マーメイド)の絵画(1900年)

英語ではマーフォーク (merfolk) と言い、特に若い女性の人魚はマーメイド (mermaid) または男性の場合はマーマン (merman) と呼ばれる。マー (mer-) は、単語では mere となり、いずれもラテン語の mare(海)に由来する。
ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)である。今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16–17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている。

人魚 - Wikipediaより引用


パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉」でも人魚について語られていました。

作中で、宣教師が人魚に対して
『君はノアの方舟に乗れなかった幻の生き物ではない』
というセリフがあります。

ノアの方舟とは、神は地上に増えた人々の堕落(墜落)を見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げる。
そこで神はノア一族に洪水にも耐えれる船のつくり方を教え、そしてノア一族とすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。
つまり、神に選ばれた人間と種を保つ為の動植物のみが乗る事を許されたのです。
そして、船に乗れなかった動物の一種が人魚だったという説があります。


一方で、人魚はノア一族との説もあります。


人魚伝説の元は、今から6、7千年前にバビロニアで崇拝されたオアンネス(Oannes)と謂う海神が始めではないかとされています。コルサバードで出土した彫刻に下半身が魚の男神像が視つかった。オアンネスは海を支配し、バビロニアの港町では航海安全の神として崇められたと謂います。日中は王として陸上に、夜は海に帰る神として信じられていた。オアンネスにはダンキナ(Damkina)と云う妃がいて、6人の子が居た。後のノアの大洪水のノア一家はオアンネスだとも謂われているのです。ノアの大洪水の絵に人魚が描かれるのは、此の伝承に依っています。
人魚伝説 | あ や し い 書 簡 箋より引用


特に西洋では、美しい人魚の歌声が船を難破させる伝説が有名で、ギリシア神話にも"海の魔物"として知られる伝説の半人半魚の人喰い、セイレーンが登場します。


紀元前330年頃のセイレーン像。アテネ国立考古学博物館

セイレーン
上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされるが後世には魚の姿をしているとされた。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑されて挙げ句セイレーンに喰い殺された船人たちの骨は、島に山をなしたという。

セイレーン - Wikipediaより引用


セイレーンの伝説のように人魚は大抵の文学作品で不吉な象徴とされています。

また、アンデルセンの童話『人魚姫』から叶わぬ恋や報われない愛として描かれることが多い。



今作「ゆれる人魚」もアンデルセン童話『人魚姫』をモチーフに作られた映画です。


Vilhelm Pedersen 画「人魚姫」

人間に強い興味を持った人魚は祖母に人間についていろいろ質問したところ、300年生きられる自分たちと違い人間は短命だが、死ねば泡となって消える自分たちと違い人間は魂というものを持っていて天国に行くというので、それを手に入れるにはどうしたらいいのかと尋ねると「人間が自分たちを愛して結婚してくれれば可能」だが「全く異形の人間が人魚たちを愛することはないだろう」とほぼ不可能だと告げられる。

そこで人魚姫は海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰う。その時に「王子に愛を貰うことが出来なければ、姫は海の泡となって消えてしまう。」と警告を受ける。更に人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも言われたが、それでも人魚姫の意思は変わらず薬を飲んだ。人間の姿で倒れている人魚姫を見つけた王子が声をかけるが、人魚姫は声が出ない。その後、王子と一緒に宮殿で暮らせるようになった人魚姫であったが、魔女に言われたとおりに歩くたびに足は激痛が走るうえ、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話せず、王子は人魚姫が命の恩人だと気づかない。

それでも王子は彼女を可愛がり、歩くのが不自由な彼女のために馬に乗せてあちこちを連れて回ってくれ、また彼女と「おぼれていたところを助けてくれた人」が似ているともいうが、それは浜辺で彼を発見・保護してくれた修道院の女性の事で「彼女は修道院の人だから結婚なんてできないだろう」とややあきらめ気味で「僕を助けてくれた女性は修道院から出て来ないだろうし、どうしても結婚しなければならないとしたら彼女に瓜二つのお前と結婚するよ。」と人魚姫に告げた。

ところがやがて隣国の姫君との縁談が持ち上がるが、その姫君こそ王子が想い続けていた女性だった(修道院へは聖職者としてではなく教養をつけるために入っていた)。見も知らぬ姫君を好きにはなれないと思っていたし、心に抱く想い人とは2度と会えないだろうと諦めていた王子は、予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて姫君をお妃に迎えるのだった。

悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を差し出し、王子の流した血で人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝える。眠っている王子に短剣を構えるが、人魚姫は愛する王子を殺すことと彼の幸福を壊すことが出来ずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えた。

人魚姫 - Wikipediaより抜粋引用

最古の記録として多くの研究家がまず挙げるのが、西暦1世紀ローマの博物学者、大プリニウスの『博物誌』です。
彼は「人魚(マーメイド)の実在を確信する」と記しています。


ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督はアレクサンドラ・ヴァリシェフスカというポーランドの女性画家の作品からインスピレーションを受けたそうです。
そして彼女に描いてもらった人魚の絵は、映画のオープニングの部分で使用されています。

今作の人魚の造形はどこか妖艶であり、どこか生臭く、どこか危険な香りのするリアリティある作りとなっていますよね。


では、一体この映画の何が珍しいのか?

ジャンルを一括りにしないファンタジーともホラーともミュージカルとも取れる、様々な要素を取り入れたもの。

一般的にファンタジーホラーと言われてますが、現実世界が舞台でホラーテイストもごく一部、ミュージカルといっても歌って踊るシーンは然程長くはない。
様々な要素を少しずつ取り入れたこの作品はこの映画はこういうジャンルだといった先入観や固定概念なく楽しめる作品だとも思います。

どの要素に期待するかで評価が別れる作品とも言えるので、ハマるかハマらないかは難しいでしょう。



シェイプ・オブ・ウォーター」でもファンタジー要素を取り入れながらホラーテイストな部分もあり、総じてラブストーリーとして纏めあげていました。

ゆれる人魚」ではある意味、作品の世界観を破綻させる程のミュージカル要素があります。
そこは逆に長所と捉えてますが、総じてダークファンタジーな中、前半ではミュージカル、後半ではホラーという、前後半で雰囲気がガラリと変わる作品です。

そして、ジャンルと同じようにひとつに留まることなく、人魚は好奇心と自制心、本能と理性の狭間で揺れ動きます。



不安定な感情

シェイプ・オブ・ウォーター」では半魚人と人との無形の愛についても語りました。


両作品はバスタブや雨、水といった似たような演出もありますが、「ゆれる人魚」は人魚が人に抱く愛を、「シェイプ・オブ・ウォーター」は人が半魚人に抱く愛を描いています。


題材としては似通った作品のようですが、実に対比的。
御伽噺のような美しく綺麗なイメージとは異なっていて、淀み汚れた暗くジメジメとした空気感。
レトロな雰囲気と相俟って、より人魚の不気味さが際立つ。

そして今作は後者とは違い、アンデルセン童話『人魚姫』のように報われない愛の切ない恋物語として昇華しているんですよね。


上手くいかない恋愛、そんな時どんなことを感じ、どう対処していくのか。
そういった部分に感情移入しやすいのかもしれません。
そんな不安定な感情を間接的表現で映し出すこの作品は女性ならではだと思います。

誰かを愛しすぎるあまりに自己犠牲という行動に出てしまう。
それが初恋となると余計にそうなってしまうのではないだろうか。
この「ゆれる人魚」はそんな自己犠牲を視覚化しているからこそ、愛の深さを知ることが出来る。


この作品は女性視点で描かれたもの。
アグニェシュカ・スモチンスカ監督の語る人魚とは
大人でも子供でもない少女のメタファー
なのです。




そうです、「ゆれる人魚」は「RAW 少女のめざめ」と共通する部分が非常に多いんですよね。


ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督、「RAW 少女のめざめ」のジュリア・デュクルノー監督、共に女性監督が女性視点で一貫して描いているのは少女の大人への成長です。


ゆれる人魚」では大人でも子供でもない少女のメタファーとして。
「RAW 少女のめざめ」では食人行為を性のメタファーとして。
それぞれが少女の思春期の通過儀礼として各々の境遇や葛藤する姿が描かれているのです。

そのアイテムとして、タバコや酒、性行為などが散りばめられています。



愛と憎しみ、これは表裏一体です。
ラストでシルバーが彼を食い殺さなかったことはそれは自分の命を捨て置いてでも彼の幸せを願ったということではないと思います。
怒りや悲しみという感情を超える諦めや絶望をも超越した言葉では表現できない感情だったのではないでしょうか。

感情や欲望、理性との葛藤に悩む妹。
感情や欲望を抑えきれなかった姉。
姉妹の対比としても描かれたシーンも「RAW 少女のめざめ」と共通する部分だと思います。



終わりに

「RAW 少女のめざめ」のジュリア・デュクルノー監督。
ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督。
女性監督による鮮烈なデビュー作。

新たな才能が詰め込まれた両作品、一度は観てもらいたい作品です。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




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