小羊の悲鳴は止まない

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形而上学の視点から見る非現実世界(「未来のミライ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「未来のミライ」について語っています。
久しぶりの考察記事となってます。

この記事はネタバレを含みますので
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:98分
映倫区分:G


・解説

バケモノの子」「おおかみこどもの雨と雪」の細田守監督が手がけるオリジナルの長編劇場用アニメーション。甘えん坊の4歳の男児くんちゃんと、未来からやってきた成長した妹ミライの2人が繰り広げる不思議な冒険を通して、さまざまな家族の愛のかたちを描く。とある都会の片隅。小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳のくんちゃんは、生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、戸惑いの日々を過ごしていた。そんな彼の前にある時、学生の姿をした少女が現れる。彼女は、未来からやってきた妹ミライだった。ミライに導かれ、時を越えた冒険に出たくんちゃんは、かつて王子だったという謎の男や幼い頃の母、青年時代の曽祖父など、不思議な出会いを果たしていく。これがアニメ声優初挑戦の上白石萌歌がくんちゃん、細田作品は3度目となる黒木華がミライの声を担当。両親役に星野源麻生久美子、祖父母役に宮崎美子役所広司
未来のミライ : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編





矛盾点

鑑賞後、端的に言って混乱しました。

なぜなら作品内の設定を自ら崩した脚本となっているから。
整合性のないストーリー展開となっているため、自分の中で想像した過程と結果というレールを大きく脱線してしまったんです。

これは明らかに制作側の作為的なもの。と判断せざるを得ない。
つまりは、何か理由があるんです。

その点について考えていこうと思っています。



・現在

まず、冒頭のファンタジー要素。

樫の木が生えた庭で、くんちゃんは変な男に話しかけられます。
この変な男は飼ってるペットのゆっこ。

衝撃的な描写として、その擬人化ゆっこに生えた尻尾を引っこ抜いただけでなく、くんちゃんは自分のア〇ルにそれを突っ込んで犬になってしまうんです!

そして、更に分からないのが、その尻尾を付けたくんちゃんをお父さんやお母さんがゆっこと呼ぶんです。
つまりは、お父さんやお母さんからはくんちゃんはゆっこに見えていることになります。

時間軸としては現在の時間経過そのもの。


ファンタジーの導入部としては力で押し切る展開…と思いきや、その後の展開で庭での不思議体験にファンタジー色は薄まり、SF色が強まるんですね。
後半に差し掛かるにつれて益々自分の中でこの冒頭のファンタジー導入部は必要だったのか?とさえ思ってしまう。(※ここについては後述しています。)



・未来から現在へ

次に、くんちゃんが未来のミライと出会うシーン。

ここでも違和感がずっと残ったままなんですよね。
右手の痣は恐らく4歳児のくんちゃんが未来から来たミライをミライだと判断するための設定でしょう。
庭で起こる不思議体験も、既にゆっこの擬人化を経ているのですんなり(?)受け入れられる。

問題は擬人化ゆっこを見ても未来のミライは動じないこと。
あくまでも冒頭での不思議体験はくんちゃん自身のもののはず。
未来のミライが知るはずがないんです。


もうひとつ言及するなら、未来から来たミライが過去に干渉することの危険性。
くんちゃんは分からないとして、未来のミライが自分本位に過去改変することへの違和感。

冒頭のファンタジー体験とこの未来のミライ体験、これをくんちゃんの脳内妄想として仮定した時に、雛人形の片付けという物理的干渉がどうしても納得いかない。

この二点から、ひとつの道筋が見えてきました。(※こちらについても後述しています。)

そして、同じ時間軸に同じ人物が同時に存在できない設定。
ここも後半パートでその設定を崩しています。(※こちらも後述しています。)



・現在から過去へ


次に、お母さんの幼少期と曾祖父さんに会うシーン。

過去へと飛んだくんちゃん。
泣いている少女(お母さんの幼少期)と出会います。
部屋を散らかし放題にし、お母さんのお母さん(お婆ちゃん)に叱られるお母さん(幼少期)を自分に重ねるような展開ですね。

実際に時間軸を移動したとして、過去の自分の母親に会うことはかなり危険です。
一方で、過去への干渉は現在の物理干渉は起こっておらず、くんちゃんの脳内妄想として仮定することもできます。


次に、自転車に乗ることを挫折したくんちゃんは再び過去へと飛びます。
すみません、ここで少し睡魔がきてしまいウトウトしてました。
なので、観てはいましたが事実と異なることが記載されていた場合はご指摘の方をお願いします。

そこで出会った青年はくんちゃんと馬に乗り、バイクに乗り、前を向くことを教えてくれました。
くんちゃんはこの青年をお父さんだと思い込むんですね。

しかし、実際は曾祖父さん。
4歳児のくんちゃんは曾祖父さんの顔を認識出来てなかったのか、若い頃の曾祖父さんだから気付かなかったのか。
現在へと戻ってきたくんちゃんはアルバムの写真で曾祖父さんだと認識します。

こちらも同様に、現在への物理干渉がなされてないので、脳内妄想として仮定できます。

いずれにせよ、この過去シーンが最もSFらしい展開となってますね。



さて、この後にもうひと展開あるのですが
一旦、ここでこの現在、未来、過去の3時間軸について整理したいと思います。



矛盾点の整理

まず、鑑賞中に感じたこと。
それは時間軸の移動は全てくんちゃんの脳内妄想ではないのか?です。


上記にも記載した通り、この3時間軸の整合性のない矛盾点は明らかに制作側の作為的なもの。と判断せざるを得ない。

整合性のないもの、とするなら
現在の擬人化ゆっこと犬化という不思議体験。
未来のミライ、過去のお母さんと曾祖父さん。


冒頭の擬人化ゆっこはこれから始まるこれらの不思議体験はファンタジー、脳内妄想ということを指し示すための演出の具現化、可視化ではないだろうか。
よって、その方向性で考えてみると全ての不思議体験はくんちゃんの脳内妄想という結論に至る。



擬人化ゆっこと出会うことで、赤ちゃん返りが治る。
未来のミライと出会うことで、雛人形の片付け。
過去のお母さんと出会うことで、母親への思いやり。
過去の曾祖父さんと出会うことで、自転車に乗れる。


自転車の件を終えた後のお父さんの台詞にもあった通り、子供は突然色んなことができるようになる。
不思議体験と現在のくんちゃんとのリンクはくんちゃんの現在置かれた状況と不思議体験後の自我の芽生えにあると思います。


その点で考えていくと、未来のミライ雛人形を片付けた点。
ここが唯一物理干渉を起こした点であり、最も大きな矛盾点となります。

雛人形の件もくんちゃんが一人で片付けたことになっちゃう。
果たしてそんなことが可能なのだろうか?(笑)

擬人化ゆっこを見ても未来のミライは動じなかった件は、くんちゃんの脳内妄想とするならば納得はできます。
未来のミライにも擬人化ゆっこは犬のゆっことして見えていたとできるからです。


しかし
時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想
とすると、後半パートで更に作品内設定を崩す設定が登場するんですよね。


それが樫の木の存在。
くんちゃんが不思議体験をしたのは家の庭に生えている樫の木が原因でした。
これは作品中でも説明されています。

過去のお母さんのエピソードから、靴に手紙を入れる。
猫好きだったお母さんのペットが犬である理由。
そして、傷ついた鳥とくんちゃん宅の鳥の巣。
過去の時間軸が現在に干渉している。


ということは
時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想→時間軸の移動
結局、振り出しに戻ってしまうんですよ。

でもですよ、時間軸の移動とするなら
擬人化ゆっこの件がまた説明できなくなるんです。
唯一、時間軸を移動してない不思議体験ですからね。


ここが最も混乱した理由です。
単に意味が分からないから混乱したのではないんです。
SF観点から考察すべきか、ファンタジー観点から考察すべきか、分からないから混乱したんです(笑)



矛盾点の結論

はい。
少し長々と行ったり来たりで話してきましたが、ここで自分なりの結論を出したいと思います。


自分が提唱する説は
形而上学的成長譚
です。

何言ってんだよ!ってのはやめてください(笑)
あくまでも個人的考察によるものなので正解を求めている訳ではありません。
自分が納得出来る仮説を説きたいだけです。

形而上学(けいじじょうがく、希: μεταφυσικά、羅: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: métaphysique、独: Metaphysik)
感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。対立する用語は唯物論である。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場や、ヘーゲルマルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと。
形而上学 - Wikipediaより引用



今作は不思議体験を通して得たくんちゃんの成長譚であること、そして家族の絆を描いたもので間違いないと思います。

くんちゃんが不思議体験する際には必ず、喜怒哀楽などの感情の起伏が起点となっています。
嫉妬、怒り、悲しみ、そういったなかなか受け入れられない駄々をこねる状況で不思議体験を経て、現実でくんちゃんがその経験を踏まえて成長を見せる。
自分の成長と共に家族との絆を育む。

大まかに纏めるとこんな感じ。
愛を奪われたくんちゃんが愛を取り戻す、北斗の拳的な話でもありますね(違う)

愛をとりもどせ!!

愛をとりもどせ!!



結局、この話は時間軸の移動なの?それとも脳内妄想なの?というところなんですが
SFファンタジーとするなら両方の要素があってもいいのではないか?
という安直な結論しか導き出せませんでした、すみません(笑)


時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想→時間軸の移動
ではなく
整合性の矛盾→脳内妄想≒時間軸の移動
もしくは
整合性の矛盾→脳内妄想+時間軸の移動


全てはくんちゃんの妄想だと纏めてしまえば簡単な話なんですが
やはり引っかかる雛人形の物理的干渉、そして
物理学に興味があるならまだしも鉄道マニアな4歳の男の子が果たしてこんな壮大な時間軸の移動と設定を妄想可能なのか?
というところで「脳内妄想+時間軸の移動」としています。


また、そのひとつの理由が
この作品における時間軸の移動はすべて過去に遡るもの。

そして、くんちゃんが現在の出来事をリンクして時間軸の移動、不思議体験を脳内妄想したと考えると、現実世界と非現実世界での繋がりが見えてきたんです。



・擬人化ゆっこの愚痴を聞く(くんちゃんの脳内妄想)
→赤ちゃん返りが治る



雛人形を片付ける(未来のミライの時間軸移動)
→おもちゃを片付けない



・現実世界でミライの顔にお菓子を乗せるイタズラをする
→非現実世界で魚の群れに襲われる


→非現実世界でお母さん(幼少期)が叱られて泣く(くんちゃんの時間軸移動)
→現実世界でお母さんが泣いている



・現実世界で自転車に乗れない
→非現実世界で馬やバイクに乗る(くんちゃんの時間軸移動)
→現実世界で自転車に乗れる



・くんちゃんの迷子(くんちゃんとミライの時間軸移動)
→くんちゃんがミライを妹として認める



そうです、3時間軸からもうひと展開あったくんちゃんの迷子シーンで判明したのですが

くんちゃん宅の樫の木は図書館のようなものでインデックスが出来ており、家系の過去、現在、未来の3時間軸全ての出来事がカードのような形になって収められている。
インデックスの中は球体状になっており、そこには系統樹が張り巡らせ枝分かれするような形で記録が残されているという。

そこから行きたい場所を見つけるのは困難という未来のミライの台詞。

ここで仮説が立てられますね。


くんちゃんの迷い込んだ場所(ここを俯瞰的世界とします)。
くんちゃんの描写では、とある駅の待合室でした。
未来のミライは時間軸の移動で現在へと来ている。
そして、この3時間軸に関わる俯瞰的世界にも未来のミライが登場していることから


ミライもくんちゃんと同じように、未来での樫の木による不思議体験者なのではないだろうか?


ということ。
索引の使い方をくんちゃんに教えていたのも頷ける。
とするなら、雛人形の物理的干渉も説明できます。
また、擬人化ゆっこを見ても動じなかったことも説明ができます。
時間軸を移動して、既に知っていたからです。


ここで前半パートと後半パートの矛盾点、雛人形を片付ける際に説明された同じ時間軸に同じ人物は同時に存在できない。という設定も
俯瞰的世界、つまりどの時間軸でもない世界では過去と現在と未来が混在しているのではないか?と推測できます。

したがって、俯瞰的世界では
現在のくんちゃんと待合室にいた未来のくんちゃん。
が同時に存在できたのではないか?



これらの不思議体験を何らかの実体として認めると仮定しよう。
(ゆっこの尻尾でくんちゃんがゆっこに見えた件、未来のミライが物理的に干渉した件などを考慮し)

これは広い意味で、様相実在論と呼べるのではないか?

非現実世界は現実に存在しない。
とするなら、この主張は様相形而上学的には否である。
裏を返せばすべての実体は現実に存在するものということが言える。
つまりは、哲学的理論(ここで言う不思議体験)に使われる実体もすべて現実に存在する。と言えるのではないか。


現実世界と非現実世界の区別はどこか?
例えば、「此処」と「此処以外の場所」の区別や
「現在」と「現在ではない時間軸」の概念と類似すると思う。

「此処」と発した時点での場所を「此処」と定義するなら、「現在」と発した時間が「現在」なわけで、非現実世界を現実だと認識したのならば現実世界であり、現実世界での現実としての認識と区別されることはない。
つまりは非現実世界も形而上学的には特別なものということにはならない。

無数の不思議体験は論理空間を探索する知的旅行である。



かなり極論なのは承知の上で述べてます。
こうしないと纏まらなかったんです。

締まりが悪いなあ。。。



総評

考察してきた矛盾点が気になって気になって感想どころではなかったので、改めて感想を。


SFファンタジーとする一方で、しっかりとうざいくらいに子供目線で描かれている点も評価できる。
また、作品内容だけでなくアニメ作画としても素晴らしい。
息を吹きかけて曇る窓ガラスとそれを拭う手の跡。
人型であるくんちゃんの犬化モーション。
泳ぐ魚や駅の描写まで。

恐らく、自分が考察してきたような理論的なものではなく、「考えるのではなく感じろ」映画だったのは間違いないだろう。
ただ、ファンタジー導入部が機能しきれず後半になるにつれてSF色が強まったことは勿体無い気もします。

そもそも、細田守監督が壮大なファンタジーを描けるとは思っていなかったので、不思議体験が家の中で、それも庭という限られたミニマム空間でしか起こっていないことは英断としか思えない。

よって脚本の粗さはあるものの、時間跳躍によって紡がれる家族という共同体を冷たくも温かく描き出したことが素晴らしく、また過去へしか遡っていない設定は未来は自分で切り開いていくものだというメッセージにも取れる。



終わりに

なんだかグダグダと語り出したら止まらなくなってきて、長々と失礼しました。
結局答えはビシッと出せず抽象的になりましたが、疲れたのでこの辺でやめておきます。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



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