「生きるとは何か」を深く問いかける(「教誨師」ネタバレ考察)
目次
初めに
こんにちは、レクと申します。
今日は大杉漣さんプロデュースの「教誨師」を観てきました。
今作は上映時間の大半が拘置所の密室、主に会話劇である為、少し考察を交えつつ、感じたまま、受け取ったままを吐き出していこうと思っております。
どうしても核心に迫る部分についての言及が多くなるためネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
製作年:2018年
製作国:日本
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
上映時間:114分
映倫区分:G
・解説
2018年2月に急逝した俳優・大杉漣の最後の主演作にして初プロデュース作で、6人の死刑囚と対話する教誨師の男を主人公に描いた人間ドラマ。受刑者の道徳心の育成や心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く教誨師。死刑囚専門の教誨師である牧師・佐伯は、独房で孤独に過ごす死刑囚にとって良き理解者であり、格好の話し相手だ。佐伯は彼らに寄り添いながらも、自分の言葉が本当に届いているのか、そして死刑囚が心安らかに死ねるよう導くのは正しいことなのか苦悩していた。そんな葛藤を通し、佐伯もまた自らの忘れたい過去と向き合うことになる。死刑囚役に光石研、烏丸せつこ、古舘寛治。「ランニング・オン・エンプティ」の佐向大が監督・脚本を手がけた。
教誨師 : 作品情報 - 映画.comより引用
・予告編
教誨師と死刑囚
先ず、主人公である教誨師と死刑囚についてお話しておかなければなりません。
教誨(きょうかい)とは、第1義には、教えさとすことをいう。同義語として教戒(きょうかい)があるが、こちらは、教え戒めることをいう。両者の違いは「誨(意:知らない者を教えさとす)」と「戒(意:いましめ。さとし)」の違いである。また、これらから転じて第2義には、受刑者に対し、徳性(道徳をわきまえた正しい品性。道徳心。道義心)の育成を目的として教育することをいう。
受刑者に対して教誨・教戒を行う者は、教誨師・教戒師(きょうかいし)という。
教誨 - Wikipediaより引用
死刑囚(しけいしゅう)は、死刑の判決が確定した囚人に対する呼称である。死刑が執行されるまでその身柄は刑事施設に拘束される。また死刑は自らの生命と引換に罪を償う生命刑とされることから、執行されるとその称は「元死刑囚」となる[1]。刑事施設法などの日本の法令では死刑確定者と呼ばれる。
21世紀初頭現在、国連総会で採択された自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)の影響もあり、死刑廃止国も多いため死刑囚が現在も存在する国は限られてきている。
死刑囚 - Wikipediaより引用
作中にも語られた通り、EU加盟国は死刑廃止国が条件であり、欧州諸国はベラルーシを除き死刑は廃止されています。
本国における死刑囚に対する刑の執行は法務大臣の命令によらなければならないとされ、法律上は特別な理由のない限り、死刑判決が確定してから6か月以内に死刑が執行されなければならない。
また、作中冒頭でも記載された通り
死刑判決を受けた者(死刑囚)の執行に至るまでの身柄拘束は刑の執行ではないとして、通常刑務所ではなく拘置所に置かれる。
今作は死刑囚と対話する日本の教誨師を主人公としたドラマ映画であり、大杉漣さんが教誨師を演じています。
6人の死刑囚がバラバラに登場し、教誨師である佐伯(大杉漣)が対話をしつつ、各々の死刑囚に合わせて罪の意識に問いかける。
形式上はそうなのだが、単なる死刑囚の救済、そんな綺麗事で終わる話ではないのだ。
教誨師としての葛藤や苦悩。
死刑囚の生きる意味や訴えたいこと。
このふたつに接点を持たせること、人と人が交わる難しさを描く。
なんと言っても序盤から終盤にかけての6人の死刑囚たちの演技、人物描写が素晴らしい。
ひとりひとりに与えられた教誨の時間は短く、出演時間も断片的だ。
それでも一回目の登場から各死刑囚がどのような人物なのかを大まかに把握することが出来る。
勿論、大杉漣さんも主人公ながら聞き役として徹し、素晴らしい演技です。
また、拘置所の静謐に満ちた独特な雰囲気も肌で感じることが出来る。
無音に響き渡る足音、扉の開閉の音、椅子の軋む音、対話、雨音に至るまで、無駄なBGMを排除したからこそ味わえる臨場感。
死刑囚相手という張り詰めた空気感、会話からのみ与えられる情報の少なさに、各死刑囚たちがどのような経緯で殺人を犯し、死刑囚として収監されたのか?
そして死刑執行は6人の中の誰なのか?(予想はつきますが)
その推理サスペンスとしての側面、面白さもある。
そんな観客の推理と並行するように教誨師の佐伯が彼らと対話したことで相手がどのような人間なのかが明らかとなっていく。
登場人物の整理
本題に入る前に6人の死刑囚と教誨師佐伯がどのような人物なのかを当管理人の目線で簡単に紹介したいと思います。
これを踏まえた上で次の考察に入ります。
ストーカー規制法により相手と家族を殺めた鈴木死刑囚
彼はずっと押し黙ったままだったが、佐伯の語りに少しずつ心を開いていく。
鈴木自身、ストーカーだとは気付かず妄想を描いて心の安寧を手にする。
酒好きのヤクザ組長、吉田死刑囚
佐伯と最も親しく映る一方で、佐伯以外には態度が変わる。
悪びれることもなく、他に犯した罪を佐伯に伝える。
刑の執行について人一倍に敏感だった所も印象的だ。
よく喋る関西のオバチャン、野口死刑囚
マシンガントークは観ているこちらも思わず笑ってしまうほどで一見明るい。
しかし、リストカットの跡があったり、虚言癖があったり、自分の話を邪魔されるとキレだす。
精神的に不安定であり、自身の罪の意識よりも周りが周りがと他人のせいにする傾向が見られる。
家族のことを思う気弱で心優しい小川死刑囚
死刑囚たちの中で唯一、犯行についての詳細が明かされた人物。
その経緯には哀れみの感情すら覚えてしまう。
裁判のやり直しを助言する佐伯に対して、諦めを見せる姿に胸が痛くなりました。
ホームレスの進藤死刑囚
字が読み書き出来ず、連帯保証人になっても他人を心配するお人好しのおじいちゃん。
死刑囚の中で最も明確に佐伯に救済された人物でもあると思う。
キリスト教に入りたいと願い、佐伯に字を教えてもらう。
博識で人を見下す高宮死刑囚
この作品で最重要人物である彼は他の死刑囚とは違う。
彼は常に社会をより良いものにしたいという理想を持っています。
一方で話すことは正論ではあるが、屁理屈でもあり、表情や態度に至るまで全てが不快。
佐伯も怖いと表現したように、理性的であるが故の人間らしさが見えない人物。
佐伯
教誨師としての彼は聞き役であり、死刑囚との対話、救済が求められるが、彼自身もその教誨師という立場に苦悩する。
それは過去の出来事があるからだ。
兄が人を殺めていること、その原因が自分にあること。
迷いが決心に変わる瞬間、意外な素顔など牧師ではない彼の姿との対比が実に人間味溢れる。
このように、会話劇にも関わらず、全てが全て説明的にならずに断片的な部分のみを見せることによってその人物の人となりを想像で保管するようになっています。
例えば、こんな酷いことをしたんだから死刑になっても当たり前じゃないか。なんて先入観や固定概念を抜きに、二人の対話から読み取る情報で自分自身が判断する仕様になっている事が素晴らしいんですよ。
さて、ここでこの作品の核心に迫る部分について言及していこうと思います。
・この作品のメッセージとは?
・ラストに残されたメッセージの意味とは?
この2点に絞って考えていきます。
無知の知
・この作品のメッセージとは?
刑の執行対象者は高宮でした。
これは概ね予想のつくものではありましたが、そこに至るまでの過程がこの作品のメッセージそのものなんですよね。
作中の二人の対話について着目します。
佐伯「どんな命でも生きる権利がある、奪われていい命など無い」
高宮「牛や豚は良いのにイルカは殺してはダメな理由は?」
佐伯「イルカは知能が高いから…」
(中略)
高宮「どんな人間でも殺してはいけないと言うのに死刑があるのは?」
この言葉に反論出来ず沈黙してしまう佐伯。
この時の表情はとても印象的だと思います。
このシーンこそがこの作品の核心部分であり
今作は"生と死"、そして"罪とは何か?"がテーマなのは明白で、死刑囚は生きる意味があるのか?という難しい問題を教誨師を通して観客が考えるものとなっています。
教科書通りの牧師の言葉では高宮の心を動かすことは出来ない。
高宮から返ってきた言葉が佐伯の考え方を変えることとなる。
上記にも佐伯は高宮のことを「あなたを知らないことが恐ろしい」と表現しています。
「生きることと死ぬこと」
これも同じで、知らないことは怖いのだと説く。
その根底にあるのは哲学でしばし用いられる
"無知の知"である。
「無知であることを知っていること」が重要であるということ。
要するに「自分が如何にわかっていないかを自覚せよ」ということです。
これは自分自身だけでなく、相手に対してもそう。
無知を自覚することで新しい何かが見えてくる。
佐伯自身も死刑囚たちと対話することで少しずつ人となりを知っていくこととなる。
しかし、「知る」とは「理解すること」ではない。
「空いた穴を一緒に見つめる」と表現されたように、相手が犯した罪、心情の変化に寄り添うことなのです。
その結果、「どうして空いたのか?誰が空けた穴なのか?」などはどうでも良くて「空いた穴を一緒に見つめる」こと、つまり寄り添うことを選んだ佐伯は教誨師としては失格、今までの形を崩した対応を見せ、高宮を変えることとなったわけです。
この対応が「ああ、高宮が死刑の執行対象者なんだな」と気付かされる部分ではあるのですが。
死刑囚との対話を通して、佐伯は「何もできない」という教誨師としての絶望感を抱いたのだと思います。
それでも「自分にできることは何か?」を見つめ直し、彼らに寄り添うことしかないという答えを出したのではないか?
これまで冷静で上から目線だった高宮が執行直前に弱々しく怯えていた姿はしっかりと脳裏に刻まれている。
執行時、黒いマスクを被せられた時に漏らした言葉
「あれ?」
この時、彼は一体何を思ったのだろうか?
キリストの言葉
・ラストに残されたメッセージの意味は?
佐伯に字を教えられ、脳梗塞か何かの病で倒れた進藤が佐伯に洗礼を受けた後に涙ながらに渡したグラビアアイドルの写真。
ここに書かれていたメッセージは
あなたがたのうち、
だれがわたしに
つみがあると
せめうるのか
これはヨハネの福音書8章46節。
(参考:John / ヨハネによる福音書-8 : 聖書日本語 - 新約聖書)
聖書では、キリストが神の子であることを疑い悪霊に取り憑かれているんだと言う人々に投げかけた言葉です。
この言葉の続きはこうだ。
「わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。
神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである。」
進藤が覚えた平仮名で佐伯に何を伝えたかったのだろうか?
進藤は唯一、明白に救済された死刑囚であり、可能性として罪なき罪の贖い、冤罪だったということも有り得るのではないだろうか?