小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

自分の"正しさ"を押し付ける危うさ(「ある少年の告白」感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回はジョエル・エドガートンの監督二作目「ある少年の告白」についてネタバレなしで語っています。

最後までお読みいただけると幸いです。



作品概要


原題:Boy Erased
製作年 :2018年
製作国:アメリカ
配給:ビターズ・エンド、パルコ
上映時間:115分
映倫区分:PG12


解説

俳優ジョエル・エドガートンが「ザ・ギフト」に続いて手がけた監督第2作で、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」などの若手実力派俳優ルーカス・ヘッジズを主演に迎え、2016年に発表され全米で大きな反響を呼んだ実話をもとに描いた人間ドラマ。アメリカの田舎町で暮らす大学生のジャレッドは、牧師の父と母のひとり息子として何不自由なく育ってきた。そんなある日、彼はある出来事をきっかけに、自分は男性のことが好きだと気づく。両親は息子の告白を受け止めきれず、同性愛を「治す」という転向療法への参加を勧めるが、ジャレッドがそこで目にした口外禁止のプログラム内容は驚くべきものだった。自身を偽って生きることを強いる施設に疑問と憤りを感じた彼は、ある行動を起こす。ジャレッドの両親役をラッセル・クロウとニコール・キッドマンが演じるほか、映画監督・俳優としてカリスマ的人気を誇るグザビエ・ドラン、シンガーソングライターのトロイ・シバン、「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のフリーらが共演。
ある少年の告白 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



監督とキャスト

ジョエル・エドガートン監督二作目となる今作「ある少年の告白」。
前作「ギフト」でその才を開花させ、次回監督作を楽しみにしていました。




本作でも監督兼キャストとしてこの作品を支えています。

ジョエル・エドガートン出演作で有名なのはなんでしょう?
トム・ハーディと共演した「ウォーリアー」やジョニー・デップ主演「ブラック・スキャンダル」、ジェニファー・ローレンス主演「レッド・スパロー」などでしょうか?



今作はなんと言ってもキャストが良い。


牧師の父ラッセル・クロウとその妻ニコール・キッドマン。

ラッセル・クロウは自分の中でずっとパパ顔。
「パパが遺した物語」や「スリーデイズ」など良き父親から「グラディエーター」のようなむさ苦しい男、「ビューティフル・マインド」のような繊細な役や「レ・ミゼラブル」のような憎まれ役まで卓越した演技力を持つ好きな俳優のひとりです。

ニコール・キッドマンは「アザーズ」や「LION ライオン 25年目のただいま」など、最近では「アクアマン」でも美しい母親役を演じていますね。
自分が人生で初めて観たR-18指定映画が「アイズ ワイド シャット」でして…ってこの話はいいか(笑)



そしてその息子、主人公ジャレッド役のルーカス・ヘッジズ。

ルーカス・ヘッジズは良い役者になりましたね。
地味なのですが、個人的に彼の表情で語る演技が好きなんですよ。
自分のオールタイム・ベストでもある「マンチェスター・バイ・ザ・シー」でも素晴らしい演技を披露されています。


ジョエル・エドガートン自身も、前作「ギフト」で描いた心理的狂気を今作「ある少年の告白」でも遺憾無く発揮しています。

独特で不穏な空気が出せたのも、これら豪華キャスト陣の演技があってのこと。
ご馳走様です!という感じです。



本題

さて、早速本題に入っていきます。
あらすじ通り、今作は同性愛を矯正する施設の闇に迫る事実に基づく物語。


宗教の盲信。
信仰は自由であり、当然ながら他者に押し付けるものではない。

では、牧師の息子として生まれたら?

信仰心とは別に親子関係や世間体が絡んでくる。
だからこそ厄介なものであり、最も身近な存在である家族ですら抑圧的になったり、強迫観念に駆られた狂気的な存在となり得るのだ。


キリスト教の影響を受けた欧米諸国では伝統的に、同性愛は聖書において指弾される性的逸脱であり、宗教上の罪(sin)としてきた。一方、近年の欧米諸国においては、同性愛も異性愛と同様に生まれつきの性的指向であり、不当な扱いをされるべきではないとの認識が広まっている。ただ、欧米諸国においても同性愛に対して、宗教的観点、道徳、倫理を主張する立場から問題とする意見も有力である。

同性愛の容認傾向が広まっている現状に対する積極的肯定と非難、およびその間に位置づけられる様々な見解がキリスト教の中にある。 旧約聖書では創造神ヤハウェは、男と女が結ばれるべきだと命令している。

キリスト教と同性愛 - Wikipediaより引用



私自身、無神論者であり、そんなバカな話はないと思っていますが、宗教的観点、道徳、倫理を主張する立場から問題とする意見もあることが事実です。

だからこそ、今作「ある少年の告白」は今観ておく映画ではないでしょうか。

ここで、勘違いされないように言及しておきますが本来、聖書は"同性愛の傾向を持っていること"が罪だとは述べていません。
禁じられているように見える聖句は、あくまでその"行為"を禁じているのであって、"傾向"を持っていること自体が罪だという教えではないのです。



驚くべきことに、この施設では同性愛はドラッグ、ギャンブル依存、アルコール依存、精神疾患、ギャング、家庭内暴力などと並べられる"自分の罪"として扱われます。

同性愛は神に反する行為であり、行動の原理を断ち切り我々の身を神に戻す、と。

確かに、聖書によれば、神を信じる人々に対して明確な倫理基準が設けられており、その中には偶像礼拝や淫行や盗みなどと合わせて、同性愛行為を禁じているような箇所もあります。



それは旧約聖書の律法でも明記されています。

〈レビ記〉18章22節
あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。

〈レビ記〉20章13節
男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。

主にレビ記には同性愛、近親相姦、獣姦などを禁じるものが多い。



しかし、一般的な感覚から見ても淫行や盗みなどが罪であることは受け入れやすいのに対し、"同性愛の行為"については、その"傾向"を持つ人々にとって、受け入れがたい問題となるのです。

性的嗜好は生まれ持った性質であり、本人が意図せずにそのような"傾向"を持っている人たちに、その"行為"は"罪"だと押さえつけることこそが"罪"だと思いませんか?



その"罪"の意識を懺悔する"心の精算"。
同性愛の行為が罪だということを前提に、同性愛を"治す"その思想がエスカレートし、"同性愛であることが過ちである"といった矯正へと発展しています。

聖書を盾に主張を正当化して洗脳させる。
異常なまでの狂気が空気感としてひしひしと伝わり、恐怖と不条理さを痛烈にぶつけてくるんです。





ここからは個人の見解として

性愛とは一対一の誠実な人格的関係の中でのみ、真実の喜びを成就するもの。
つまりは、異性愛であろうと同性愛であろうとこの関係に他者が介入すること自体が受け入れがたい話である。


旧約聖書の性の考え方を現代に置き換えると、そこには齟齬が生じる。

例えば、オナニーという言葉の起源になったオナンという人物は、精液を膣外射精して
彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された(創世記38章10節)
とある。

子孫繁栄のためにならない性行為は、すべて違法行為という考え方がその根底にあり、そこと同性愛を結びつけること自体、ナンセンスではないだろうか。


また、同性愛者による結婚に関しても問題が生じる。
創世記の記述に基づいて、結婚は一対一の男女にのみ許された制度とするならば、これは同性愛の排除を目的とした記述ではなく、異性愛を不可侵の規範とするには根拠が薄弱である。

ノアが方舟の後、生き残った生き物に対して神は新しい時代の契約として「子を生んで多くなるように」と伝えました。
この命令は男女の結婚を前提としたものです。

モーセの律法やパウロの手紙などでも男女の結婚、男が一人の妻を持つことが前提とされ、男女の結婚に関する秩序は一貫して神から出ていることが分かります。


生殖に結びつかない性行為の是非は語るまでもなく、性の享受は権利ではなく自由の特権であり、誰もが持つ基本的人権の尊重。
自然の理を否定する人間の偏見の恐ろしさと自分を否定される人間の苦しみ。
同性愛の問題に現代のキリスト教がどのような対応を示したとしても、真摯に受け止める姿勢です。



終わりに

今作「ある少年の告白」を観終わって、少し思いの丈をぶちまけたくなったので衝動的に思い立って書き出しました。

自分の意見が全て正しいとは思っていません。
しかし、同性愛否定論者の主張が正しいとも思っていません。
自分が"正しい"と思う主張を他者に押し付けることの危うさをこの映画が切実に訴えています。
正直なところ、双方が納得する答えを出すのは難しいでしょう。

だからこそ、「ある少年の告白」を観て感じることを思いのままぶちまけて欲しいのです。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2018 UNERASED FILM, INC.