小羊の悲鳴は止まない

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ギリシア神話から読み解く映画「聖なる鹿殺し」ネタバレ考察

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は前回の『ロブスター』に続いてヨルゴス・ランティモス監督作『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』について語っています。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Killing of a Sacred Deer
製作年:2017年
製作国:イギリス・アイルランド合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:121分
映倫区分:PG12


解説

「ロブスター」「籠の中の乙女」のギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモス監督が、幸せな家庭が1人の少年を迎え入れたことで崩壊していく様子を描き、第70回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞したサスペンススリラー。郊外の豪邸で暮らす心臓外科医スティーブンは、美しい妻や可愛い子どもたちに囲まれ順風満帆な人生を歩んでいるように見えた。しかし謎の少年マーティンを自宅に招き入れたことをきっかけに、子どもたちが突然歩けなくなったり目から血を流したりと、奇妙な出来事が続発する。やがてスティーブンは、容赦ない選択を迫られ……。ある理由から少年に追い詰められていく主人公スティーブンを「ロブスター」でもランティモス監督と組んだコリン・ファレル、スティーブンの妻を「めぐりあう時間たち」のニコール・キッドマン、謎の少年マーティンを「ダンケルク」のバリー・コーガンがそれぞれ演じる。

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア : 作品情報 - 映画.comより引用



ギリシア神話から読み解く

前作『ロブスター』に続き、今作『聖なる鹿殺し』でもギリシア神話との関係性について考察しています。

前作『ロブスター』の考察はこちらから。


Twitterに上げた感想です。



監督ヨルゴス・ランティモスは『聖なる鹿殺し』の製作にあたってこのように語っています。

「大まかに話すと‘正義’と‘報復’、‘信念’、‘選択’などでしょうか。人生で大きなジレンマに直面すると、何が正しくて何が間違っているのか判断できなくなることですね」
ヨルゴス・ランティモス監督、映画作りの醍醐味語る 『聖なる鹿殺し』特別インタビュー映像|Real Sound|リアルサウンド 映画部より引用


マーティンという人物を中心に作られた物語の中で、ギリシア神話に重なる部分がいくつも見えてくる。
当記事ではそのギリシア神話と個人的見解を中心に考察していますが、その根底には人間の業の深さがあると思います。
こちらの見解に関しても後述しておきます。



さて、まずは前作『ロブスター』同様にギリシア神話を絡めつつ見ていきましょう。



劇中にも語られるギリシア悲劇作家エウリピデス『アウリスのイピゲネイア』。
娘のキムはこの作品の作文で教師から評価を得ていました。

ギリシア軍は、トロイアへの出航準備を済ませてボイオーティアのアウリス港で待機していたが、風がぴたりと止んだため果たせずにいた。カルカースに占わせた結果、これは単なる気象異常ではなく、女神アルテミスの意志によるものだと分かる。アガメムノーンが女神の逆鱗に触れたため、女神は風を止めたのである。

カルカースは将軍に、女神の怒りを和らげるためには、アガメムノーンは長女イーピゲネイアを生贄にささげなくてはならないと告げる。アガメムノーンは恐懼したが、浜に集められた兵士たちは鬱屈しており、このままでは反乱が起きる可能性が高まっていたため、決断せざるを得なくなる[要出典]。アガメムノーンは、妻のクリュタイムネーストラーに伝令を送り、戦に出立する前にギリシア軍兵士のアキレウスとイーピゲネイアを結婚させると言って、娘をアウリスに呼び寄せる。

アウリスのイピゲネイア - Wikipediaより引用



生贄とされたイピゲネイアは鹿と引き換えにアルテミスによって救われた説もあります。

『聖なる鹿殺し』というタイトル。
本作に鹿は登場しません(笑)
このギリシア悲劇を主軸に『聖なる鹿殺し』の全てを読み解ける訳ではありませんが、タイトルとギリシア神話の関連から概ねプロットを理解することは可能です。
 


事の発端はスティーブンがマーティンの父親の心臓の手術に失敗し、死なせてしまったことにある。
物語の中盤で明らかになったのは、スティーブンが酒を飲んだ状態で手術を行ったこと。
つまりマーティンの要求は、自分の父親を殺した報いとして、スティーブンに犠牲を払って貰うというもの。

ヨルゴス・ランティモス監督が語るように、マーティンにとっては"正義の報復"であり、断罪。
ティーブンにとっては、究極の"選択"となる"信念"のぶつかり合いなのだ。



その報復はスティーブンの家族の身に起こる不可解な現象から始まる。

①手足の麻痺
②餓死するまで食事の拒否
③目からの出血
④死亡

の四段階であり、家族のうち誰か1人を犠牲にしなければ家族全員が死んでしまうというもの。

 
マーティンが望むのは、あくまでも自分と同等の苦しみをスティーブンに与えること。
自分以外の家族を失う悲しみや苦しみを味わせることなんですね。



『アウリスのイピゲネイア』でもアガメムノンは「ヘラス人のためにお前を殺さなければならない。」と述べており、娘イピゲネイア自身も「アルテミスが私の身体を望んでいるのであれば捧げます。」と自ら犠牲になることを承諾しています。

このイピゲネイアの台詞と同じような内容をキムが語っていました。
「自分を殺してほしい。家族を愛している。」と。

キムが『アウリスのイピゲネイア』の作文を書いたことにより、影響を受けていることが見受けられる。
つまりはキム自身をその悲劇のヒロインに重ねていたことが考えられます。



しかし、最終的にスティーブンは目隠しのロシアンルーレットで家族一人の生贄を"選択"することを選びます。
結果的にボブが射殺され死んでしまう。
この点に関しても、『アウリスのイピゲネイア』での一説、"イピゲネイアの代わりに鹿が生贄とされた"ことと繋がる。



ここで、ギリシア悲劇から

アガメムノンはスティーブン
その妻クリュタイムネーストラーはアナ
娘イピゲネイアはキム
女神アルテミスはマーティン
そして、犠牲となった聖なる鹿はボブ

という構図が決定付られるわけです。





さて、ここで更に踏み込んだ考察が出来てしまうんですね。
個人的な見解として、この考察が最もしっくりきたものでもあります。

それは『アウリスのイピゲネイア』の後日譚である『オレステイア悲劇三部作』です。


‪『オレステイア悲劇三部作』では『アウリスのイピゲネイア』で描かれた生贄とイピゲネイアの悲劇、そして支配と隷属から復讐の連鎖が紡ぎ描かれます。‬

『オレステイア』(希: Ὀρέστεια, 英: Oresteia)は、古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロスの書いた、トロイア戦争におけるギリシア側総大将アガメムノーン一族についての悲劇作品三部作。
オレステイア - Wikipediaより引用


『オレステイア悲劇三部作』は『アガメムノーン』、『供養する女たち』、『慈しみの女神たち』の三つの悲劇から構成される。

その後日譚の内容を簡単に纏めます。
『アガメムノーン』では妻が夫恨んでおり夫殺しを、『供養する女たち』ではアガメムノーンの息子が父の仇討ちとして母を殺し、『慈しみの女神たち』では親殺しを行った息子の罪を問われるが無罪となり、エウメニデスによって慈しみをもって憎しみと復讐の連鎖はついに断ち切られ、ギリシアに調和と安定がもたらされた。


オレステースを責める復讐の三女神 (ウィリアム・アドルフ・ブグロー/絵, 1862)

エリーニュス(古代ギリシャ語: Ἐρινύς, Erīnys)は、ギリシア神話に登場する復讐の女神たちである。
エリーニュスたちは恐るべき女神であり、本当の名前を出すことははばかられるため、エウメニデス(慈しみの女神たち)と呼ばれる。

エリーニュス - Wikipediaより引用

今作の劇中でも、スティーブンの妻アナは娘キムよりも息子のボブを可愛がっていた描写が幾つか見て取れる。
そんな娘キムは父であるスティーブンよりも母であるアナを嫌っていた描写が幾つかある。
そして、キムはマーティンに恋心を抱いていた。


つまり
聖なる鹿(ボブ)殺しであるスティーブンを恨んだ妻アナが夫を殺し、その夫殺しの仇討ちとして娘キムが親殺しを行う。
その後、キムはマーティンとくっつくのではないか?


これこそが、今作『聖なる鹿殺し』のラストから想像として補完できる物語の終結ではないのだろうか。
そう思える描写が物語の冒頭とラストのシーンに詰め込まれていたように思います。


冒頭、マーティンはスティーブンとの相席でポテトを最後に食べます。
好きなものは最後に残しておくという理由です。
一方、ラストでのキムはどうでしょう。
真っ先にポテトに手を付けていました。

物語でもキムはマーティンと出会って早々にマーティンに思いを寄せます。
このことから好きなものは先に食べるのではないか。
マーティンは"報復"という食事を終え、好きなもの(キム)は最後に食べると…(突然の下ネタ)



マーティンという人物を『アウリスのイピゲネイア』の女神アルテミスとして、そして『オレステイア悲劇三部作』の復讐の女神エリーニュスから慈しみの女神たちエウメニデスとして描かれているのではないか。


色々と考えすぎかもしれませんが、『アウリスのイピゲネイア』の後日譚があるからこそ、『聖なる鹿殺し』の物語があれで終わったとは思えなかったんですよね。



人の業の深さ


ということで、ここからは上記のギリシア神話の考察を踏まえた上で、余談や個人的見解になります。



余談として、関連性は不明だがギリシア悲劇『アウリスのイピゲネイア』と類似した内容のものがキリスト教にもあります。
それは『イサクの燔祭』。


イサクを捧げるアブラハム ローラン・ド・ラ・イール 1650

イサクの燔祭(イサクのはんさい)とは、旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話を指す概念であり、彼の前に立ちはだかった試練の物語である。その試練とは、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられるというものであった。この試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒キリスト教徒、並びにイスラム教徒によって讃えられている。

イサクの燔祭 - Wikipediaより引用

こちらは神への信仰心を確認するための神に捧げられる至上の犠牲の物語なのですが、イサクの燔祭においても最後には雄羊が屠られる。

キリスト教学においては、子羊はイエス・キリストを指す言葉としてしばしば用いられ、人間の罪に対する贖いとしてイエスが生贄の役割を果たすことを踏まえており、古代ユダヤ教の生贄の習慣にも由来する。


ギリシア悲劇『アウリスのイピゲネイア』においても犠牲となる生贄は娘イピゲネイアであり、生贄の選択は出来ませんでした。
今作では家族3人のうち誰か1人という選択が可能だったわけですが、妻アナの「殺すなら当然子供。私たちならもう1回子供作れる」というセリフが最も恐ろしかったですね。



ギリシア神話においては、鹿は聖なる生き物として扱われており、女神アルテミスの聖獣ケリュネイアの鹿を指すことが多い。
このことからも、タイトル『聖なる鹿殺し』はアルテミスの聖獣ケリュネイアの鹿を生贄として捧げることを指すと考えられる。

また、泉で水浴しているアルテミスの裸身を見てしまったアクタイオーンに怒り、アクタイオーンを鹿に変えたという『変身物語』もあります。




人間の罪に対する贖罪といえばドストエフスキーの『罪と罰』。
主人公ラスコーリニコフはある理念の元に行動します。
それが「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」

ティーブンは医師として多くの患者の命を救っている。
また、マーティンに時計をプレゼントしたりとひとつの罪を償うように善行を重ねる。

ひとつの罪とは酔ったまま手術してマーティンの父親を死なせてしまったこと。
言わば、事故死という形で正当化された殺人なわけです。



"罪の償い"に対して、マーティンはスティーブンに父親殺しの罪と対等の罪を償えば、それ以上の罪は求めてはいなかった。
ティーブンがマーティンを地下室に監禁したシーンから各々の立ち位置を推測することができる。


アナはマーティンの傷の手当をした際に、足の甲にキスをします。
これは隷属関係を示し、アナが既にマーティンの支配下に置かれていることが分かります。
不可解な現象が現れなかったことも、地下室から解放したことも関係していると思われます。

この時、キムも床に這いつくばっており、マーティンの方が立場が上であることを示しています。
その上、キムはマーティンに思いを寄せており、支配下に置くことは容易い。

しかし、ボブだけは椅子に座ったままでマーティンと同じ視線の高さでいます。
「父親がいないとお前が支配者のようだな。」とボブに向けたセリフからもボブだけはマーティンの支配下にはなっていない。



家族がそれぞれスティーブンに訴えかけるセリフからもその家族の立ち位置が見て取れる。

自分の命はいいからお母さんと弟を救って欲しいと語るキム。
ティーブンの好きな黒いドレスに身を纏い服従を誓うアナ。
いずれもスティーブンに対して立場は下なんです。

ボブはどうだったか。
自分の夢は実は心臓外科医になることだと涙ながらに訴えかけるんです。
これはスティーブンに対して対等な立場になることを意味します。


以上のことから、実は家族3人のうち誰か1人という選択が可能ではなかったのではないでしょうか?
予め、ボブが聖なる鹿として犠牲になることが定められていたとも考えられます。



マーティンが拘束された際に、スティーブンの腕に噛み付いたシーンから、スティーブンとの関係性も明らかとなります。
ティーブンに噛み付いた直後、自分の腕にも噛み付き、対等な立場を作る。

これは他の描写でも伺えます。
例えば、スティーブンに時計をプレゼントされれば、その家族にプレゼントを返す。
アナにレモネードを出されれば、スティーブンを家に招待しレモネードを振る舞う。


あくまでも現状で対等の立場を貫くことで、罪の償いをさせず、スティーブン一家を支配下に置き、父親殺しという罪を"正義の断罪"として振り翳して裁くことができるからですね。


「目には目を、歯には歯を」
ハンムラビ法典に記述された有名な言葉ですが、これはあくまでも対等な身分であることが条件です。
また、ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを目的としてはおらず、 過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて復讐の連鎖を断ち切る
つまりは、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めることが本来の趣旨です。



また、マーティンはスティーブンに対して、自分の父のように尊敬し父親のようになってほしいと思っているかのようにも映る。
一方で、マーティンの実の父親の描写は希薄。
キーパーソンであるにも関わらず息子であるマーティンとのエピソードは"パスタを食べる時のフォークの使い方"のみである。
この特徴を「誰だって同じだ」と自ら否定する。

マーティンの中で、父親は既にいないものとして決定づけるものだろう。
だからこそ、家族を失う苦しみを与えること、スティーブンの家族のうちの誰か1人を失ってもらう必要があるという"覚悟"や"信念"にも映る。




マーティンの報復は果たして同等の懲罰なのか?
過剰ではないと言えるのだろうか?

上記で記述した通り、ラスト後の物語の想像としての補完は『オレステイア悲劇三部作』からも復讐の連鎖を生む形となっている。
そして、その復讐の女神たちも説得され慈しみの心を持てば物事は収束し、調和と安定がもたらされる。

今作は、人の業の深さ、人ひとりの命の重さを訴えるものであるように思います。



終わりに

今回もダラダラと語ってしまいましたが、『聖なる鹿殺し』はかなり自分好みの映画でしたね。

ヨルゴス・ランティモス監督がギリシャ人ということもあり、彼の作品にギリシア神話とは切っても切れないものだと思います。
あくまでもひとつの見解として考察していますが、ギリシア神話に結び付けずとも今作『聖なる鹿殺し』は『ロブスター』よりも単純なプロットであり、見易く分かりやすいと思います。

ギリシア神話は日本人にとって馴染みのないもの。
だからこそ、興味を持つことで今後の彼の作品に深みが出ると思います。
女王陛下のお気に入り』は彼の作品の中では初ということもあり、ギリシア神話を絡めての考察はしていません。
が、ギリシア神話に纏わる物語が何か隠されているのではないか?と思ってしまうほどヨルゴス・ランティモスという監督に興味が持てました。

次回鑑賞作は『籠の中の乙女』になると思います。
また考察したくなればブログに書き起すこととします。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




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