悪魔のささやきが聞こえる(「サタンタンゴ」ネタバレ徹底考察)
目次
初めに
おはようございます、レクと申します。
今回は上映を待ちに待った『サタンタンゴ』について主に神学的観点から考察してます。
ちなみに、僕は京都みなみ会館で1回、出町座のオールナイトで1回、の計2回の鑑賞をしています。
今作『サタンタンゴ』の上映時間にちなんで、当記事の文字数は43800字となっております。
(参考文献、画像、タグなども文字数に含まれます。)
非常に時間を掛けた内容となっているため、今までにない文量となっておりますが、最後までお読みいただけると幸いです。
※この記事はネタバレを含みます、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題:Satantango
製作年:1994年
製作国:ハンガリー・ドイツ・スイス合作
配給:ビターズ・エンド
上映時間:438分
解説
2011年の「ニーチェの馬」を最後に56歳で映画監督からの引退を表明したハンガリーを代表する巨匠タル・ベーラ監督が1994年に発表した作品で、4年の歳月をかけて完成させた7時間18分におよぶ長編大作。ハンガリーのある田舎町。シュミットはクラーネルと組んで村人たちの貯金を持ち逃げする計画を企てていた。その話をシュミットが彼の女房に話しているところを盗み聞きしていたフタキは、自分もその話に乗ることを思いつく。その時、家にやって来た女は「1年半前に死んだはずのイリミアーシュが帰ってきた」と、にわかに信じられないことを口にする。イリミアーシュが帰ってくることを耳にした村人たちは、酒場に集まり議論するが、やがてその場は酒宴となり、いつものように夜が更けていった。そして翌日、女の言葉通りにイリミアーシュが村に帰ってきた。日本では映画祭などでの上映のみだったが、2019年にベルリン国際映画祭フォーラム部門で初披露された「4K デジタル・レストア版」で19年10月に劇場初公開される。
サタンタンゴ : 作品情報 - 映画.comより引用
予告編
キャスト・スタッフ
・キャスト
イリミアーシュ:ヴィーグ・ミハーイ
ペトリナ:ホルヴァート・プチ
フタキ:セーケイ・B・ミクローシュ
クラーネル:デルジ・ヤーノシュ
エシュティケ:ボーク・エリカ
医師:ペーター・ベルリング
・スタッフ
監督・脚本:タル・ベーラ
原作・共同脚本:クラスナホルカイ・ラースロー
編集・共同脚本:フラニツキー・アーグネシュ
撮影監督:メドヴィジ・ガーボル
タル・ベーラ(Tarr Béla [ˈtɒr.ˌbe̝ːlɒ], 1955年7月21日 - )は、ハンガリーの映画監督、脚本家、プロデューサー。
1955年、ハンガリーのバラニャ県の県庁所在地のペーチ市で生まれる。
タル・ベーラ - Wikipediaより引用
主な監督作品
サタンタンゴ Sátántangó (1994)
ヴェルクマイスター・ハーモニー Werckmeister harmóniák (2000)
倫敦から来た男 A londoni férfi (2007)
ニーチェの馬 A torinói ló (2011)
タル・ベーラ監督作品は他に『ニーチェの馬』しか鑑賞していません。
タル・ベーラは『ニーチェの馬』の制作時、「すべてを言い尽くし、これ以上何も言うことはのこされてないのだから、以降映画を作ることはできない。」とクラスナホルカイ・ラースローに言われたと語っています。
今作『サタンタンゴ』では、半年間、大平原を歩き回って撮影場所を探す。
泥のために春と秋だけ行い、準備に7年、撮影に3年の月日を費やした。
そんな彼の言葉「タルコフスキーでは雨は汚れを洗い落とすが、自分の映画では雨は泥をもたらす。」
名言ですよ、これ(笑)
彼の特徴として
繰り返しと複数の視点や時系列を基本構造とし、長回しとモノクロで映し出す技法が取られている。
ジャンルは、スローシネマ(Slow cinema)。
1カットの長回しを多用し、全体の上映時間も長尺の作品のこと。
『サタンタンゴ』はContemplative cinema(瞑想的映画)とも言われているそうです。
クラスナホルカイ・ラースロー(ハンガリー語: Krasznahorkai László [ˈkrɒsnɒhorkaiˌlɑ̈ːsloː]、1954年1月5日 - )は、ハンガリーの小説家。
ベーケーシュ県生まれ。エトヴェシュ・ロラーンド大学卒業。出版社勤務を経て1983年から執筆活動を開始。
クラスナホルカイ・ラースロー - Wikipediaより引用
代表作
サタンタンゴ Sátántangó (1985)
抵抗の憂鬱Melancholy of resistance (1989)
戦争と戦争 War and war (1999)
北は山、南は湖、西は道、東は川 From North a Hill, from South a Lake, from East a road, from West a river (2003)
など。
『抵抗の憂鬱』はタル・ベーラ監督作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の原作で、この作品に登場する扇動者もまた、『サタンタンゴ』のイリミアーシュと同じ役割を担う。
『戦争と戦争』では、トルストイの『戦争と平和』を文字った希望がない物語で、仮想と現実の境界線を濁す作品。
1956年ソ連の支配下にあったハンガリー動乱の時代に調和と美を求めるも叶わぬ終末が描かれている。
『北は山、南は湖、西は道、東は川』では、形式に仕掛けがあり、一章はなくいきなり二章から始まる構成がとられ、不穏な終末論が描かれている。
彼の特徴としては
貧困、抑圧、暴力などから抜け出せない人々の絶望的で出口のない不条理な状況を複数の視点から描く。
畝るように長く続く特異な文体が用いられ、反復と循環、同単語や類義語、比喩をカンマで区切って長文を作り上げている。
寓意、示唆、引用が多く、明確な初めと終わりがないポストモダン小説。
これは、『サタンタンゴ』にも強く反映されている特徴です。
こう見ると、タル・ベーラとクラスナホルカイ・ラースローは非常に相性がいいのでしょう。
『ヴェルクマイスター・ハーモニー』が観たいぞ!!!
日本に数少ないハンガリー語学研究者で、今回の『サタンタンゴ』パンフレットにも寄稿、また本作の原案・脚本を書いたクラスナホルカイ・ラースローが京都に滞在して執筆した小説『From North a Hill, from South a Lake, from East a road, from West a river(北は山、南は湖、西は道、東は川)』の翻訳も手掛けた早稲田みか先生。
早稲田みか(わせだ・みか)
専門はハンガリー語学、現代ハンガリー文学の翻訳にも携わっている。著書に『ハンガリー語の入門改訂版』(コヴァーチ・レナータと共著、白水社)、『図説ブダペスト都市物語』(河出書房新社)、訳書に、エステルハージ・ペーテル『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし――ドナウを下って』(松籟社)、クラスナホルカイ・ラースロー『北は山、南は湖、西は道、東は川』(松籟社)、ジョン・ルカーチ『ブダペストの世紀末』(白水社)などがある。またハンガリー映画『私の20世紀』(イルディコー・エニェディ監督)パンフレットや『サタンタンゴ』パンフレットへの寄稿もある。
★クラスナホルカイ・ラースローは『サタンタンゴ』の原作・脚本(タル・ベーラ監督と共同脚本)
2019/10/22
出町座にて《【出町座映画講座】『サタンタンゴ』京都公開記念トーク vol.2》に参加させていただきました。
主に原作との比較は概ねこの講座から得た知識になります。
小説『サタンタンゴ』
まず、今作のタイトルの意味ですが
『サタン』と『タンゴ』を組み合わせた造語です。
サタンは〈悪魔〉を意味する言葉として一般的に周知されています。
聖書では神に反抗して天国を追われた〈堕天使〉として登場する。
旧約聖書では本来、〈敵対する者〉を表す言葉であったが、のち超自然的存在として神に敵対する者、即ち〈悪魔〉を表す固有名詞となっています。
"ヨブ記"では、人の罪を神に訴え神に敵対する霊的存在。
"創世記"では、蛇となってエバを誘惑し、神の命令に背かせる。
新約聖書では、ユダの心につけ入りイエスを裏切らせ、パウロの伝道を妨害し、人を神から離反させようと唆す存在として幾つも登場する。
タンゴはパンフレットによると
「6歩前に、6歩後ろ」のタンゴのステップに呼応した全12章から構成されるとのこと。
ダンスには詳しくないので、説明は出来ません(笑)
なので、ここは一言で纏めさせてください。
「俺の人生はタンゴだ!」
小説ではエピグラフに
「むしろここで待っていて、会えないほうがまし」
と記されています。
これはイリミアーシュが帰ってくるという噂を聞くも、待つことしか出来ない村人たちの心情を表すもの。
そして、イリミアーシュによって〈荘園〉へと先導され、翻弄される村人たちの様子はカフカの『城』の引用でもある。
『城』(しろ、Das Schloss)は、フランツ・カフカによる未完の長編小説。1922年執筆。とある寒村の城に雇われた測量師Kが、しかしいつまで経っても城の中に入ることができずに翻弄される様子を描いている。
城 (小説) - Wikipediaより引用
また、映画『サタンタンゴ』には多くの動物たちが登場します。
小説には猫と蜘蛛以外登場しないそうです。
動物たちについては、後述の各章の登場シーンで考察していきます。
他にも小説にはない描写が幾つかあります。
・チーズロール
こちらも小説にはない描写だそうで、同じくダンスシーンで顔の上にチーズロールを乗せて右往左往するシュミットの描写も小説にはない描写だそうです(笑)
・暴風の中を歩く
1回目、イリミアーシュとペトリナが警察署から村に向かうシーン。
2回目、警察署を出て居酒屋から出た道中に青年シャニが合流し、村へ向かうシーン。
この2つの印象的なシーンはタル・ベーラ監督の圧倒的演出力によるものだったんですね。
映画『サタンタンゴ』前
前半6章では1年半前に死んだとされるイリミアーシュが帰ってくるという噂に翻弄される村人たちそれぞれの視点から描いた1日となっています。
果たして、イリミアーシュは救世主なのか?それとも…。
ということで、まずは前半6章について考えていきます。
今作『サタンタンゴ』は聖書が下敷きとされていると考えています。
故に、いつものようにある物事を掘り下げていくスタイルではなく、今回は各章ごとに神学的、主にキリスト教の観点から考察をしていきたいと思います。
秋の長雨が始まる直前のある10月の朝。
乾いた地面に雨の最初の一粒が落ちて
やがて畦道が泥沼になり町と隔絶される直前に
フタキは鐘の音で目が覚めた。
一番近い礼拝堂は8キロ離れているが
塔は戦争で倒れ、鐘もなくなっていた。
町の音は遠すぎて届くはずがなかった。
・第1章【やつらがやって来るという知らせ】
《概要》
ハンガリー、ある田舎町。
朝方、外の様子を窺うフタキ。
夜を共にしたシュミットの女房は悪夢を見ていたと話す。
「きっと今日 何かが起こる。」帰って来たシュミットはクラーネルと組んで村人たちの貯金を持ち逃げする計画を女房に話して聞かせる。
盗み聞きしていたフタキは自分も話に乗ることを思いついた。家のドアを叩く音がして、やって来た女はにわかには信じがたいことを言う。
1年前に死んだはずのイリミアーシュが帰って来た、と。
窓の外を窺うフタキの後で、シュミット夫人が体を洗うシーンが挿入される。
フタキとシュミット夫人との肉体関係の事後です(笑)
姦淫は聖書においても罪に問われるものとされています。
旧約聖書の"レビ記"には
「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわち隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」
と書かれています。
旧約聖書の"出エジプト記"においても
「あなたは姦淫してはならない。」
とされ、〈姦淫〉に対しては基本的には死罪が言い渡され、その裁きは重い。
"出エジプト記"及び〈モーセの律法〉については7章【イリミアーシュが演説をする】で後述しています。
一方で、新約聖書においての〈姦淫〉に関して矛盾した叙述があります。
"マタイ書"では、十戒に基づき新たに配偶者以外の者への性的関心、および自慰行為が〈地獄に堕ちる罪〉として絶対的に重視されている。
それに対して、"ヨハネ書"では〈姦淫〉に対する寛容が主張されています。
また、ナザレのイエスが"レビ記"及び"申命記"にある律法を否定し、死刑を姦淫より大きな罪と見なしていたと、ヨハネはイエスの言行を挙げて主張しています。
《登場する動物》
・牛
冒頭の長回し。
牛がうろうろのろのろ動き回り、時に交尾をしたりする様子は登場人物たちの行動のメタファーとなっている。
牛や豚は人間が食べられるために神さまがつくってくださったとされ、家畜である牛はイリミアーシュによって搾取される村人たちを連想させる。
聖書にも非常に多く登場する動物でもある牛。
生贄であり、食物であり、時には下僕の意味を持ちます。
・鶏
2章【我々は復活する】にて後述しています。
・第2章【我々は復活する】
《概要》
警察に出向いたイリミアーシュとペトリナは、警視にこれまでの非行を咎められ、何食わぬ顔で言い放つ。
「私たちは警視と同じく法に従っています。」
警視「人は自由が嫌いだ、自由が怖いのだ。」
「君たちには協力する以外の選択肢はない。」警察を出たその足で酒場に入ったイリミアーシュたちは、酒場にいた全員を黙らせると
「全部爆破してやる!
上着か耳の穴に突っ込んでやる。
鼻にダイナマイトを!
皆ぶっ殺してやる。」
と言い放ち店を出た。村に向かう道を歩くイリミアーシュは村人たちの話をしている。
「連中は台所で同じ汚い椅子に座ってるさ。
何が起こったか理解できないんだ。
互いに疑りあい、そして待ってる。
騙されたと思ってるからだ。
主を失った奴隷どもだ。
動物の群れのように後に付いて行くだけだ。」
道中でシャニが合流する。
イリミアーシュが死んだという噂を広めたのは彼だった。
秩序と自由。
〈抑圧と解放〉とも取れる言葉であり、イリミアーシュとペトリナの二人も村人たちを搾取する側でありながら、警察の犬なのです。
警察を出て村に向かう道中でのイリミアーシュたち。
このシーン、無駄にかっこいいんですよね(笑)
〈復活〉はイエス・キリストを連想させます。
『キリストの墓での3人のマリア』(1835, Ludwig Ferdinand Schnorr von Carolsfeld)。4つの福音書は共通して、キリストの処刑後第三日、すなわち日曜日の早朝、女たちが墓をたずねていくと、墓が空になっており、若者(天使)が女達にキリストの復活を告げたことを述べている。
"コリントの信徒への手紙一"において、復活後にキリストと会った人々の名が挙げられています。
それは、ペトロ、十二使徒、500人以上の信者達、主の兄弟ヤコブ、全ての使徒達、最後にパウロである。
ここでいう主をイリミアーシュと考えるなら、ペトリナは復活後に初めて会った使徒ペトロである。
ペトロと鶏は密接な関係があります。
鶏は朝を告げる鳥であることから、いつも目覚めて注意していることの象徴。
ちなみに、風見鶏は風に象徴される聖霊の動きにいつも敏感であるという意味で教会の屋根に立てられている。
最後の晩餐のあと、キリストはペトロに「あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言し、ペトロは「絶対にありえない」と否定するが、翌日キリストが連行され、ペトロがその様子をうかがっていると、周囲から「おまえもキリストの弟子だろう」と詰め寄られると「違う」と否認してしまう。ペトロは再三問われ、3度目に否認した直後、鶏が雄たけびを上げ、その声を聞いてペトロはキリストの予言を思い出し、涙にくれる。この場面は「ペトロの否認」として、レンブラントやカラバッジオ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールをはじめ、幾度となく絵画に描かれている。
ペトロ - Wikipediaより引用
1章【やつらがやって来るという知らせ】では鶏はひと鳴きもしないんですよ。
つまり〈ペトロの否認〉になぞらえるなら、ペトリナはイリミアーシュを否認したことがない。
言い換えれば、ペトリナはイリミアーシュに全幅の信頼を置いていることになります。
・第3章【何かを知ること】
《概要》
古びた部屋。
窓に向かいテーブルと椅子を置いて、双眼鏡で外の様子を窺う医師がいる。
引き出しを開けて、中から何冊もの同じノートの束を取り出した。
その中の一冊に今見た出来事を書き記す。
「フタキはどうやら何かを恐れている。
朝早く怯えたように窓から外を窺っていた。
フタキは死を非常に恐れている。」
そしておもむろにひとりごちた。
「人は皆くたばるんだ。」
棚から取り出したノートにも、そのまた別のノートにも、同じ窓から見た同じ風景のスケッチが描かれている。
「雨も降り始めた。
もう春が来るまで降り止まない。」食事を運んで来たクラーネルの女房はこの務めを辞めたいと言う。
医師は彼女を怒鳴って追い出しノートに書き留めた。
「去年の秋は雨には何の問題もなかった 何か策略を巡らしているに違いない。」酒がなくなり、彼は酒を買うために外へ出る。
大瓶を手にした医師が激しい雨を避けて雨宿りすると、2階には顔見知りの女達が暖をとっていた。
「ちょっと暖まらせてくれ。」
「暖まるだけセンセ?安くしとくわよ昔馴染みだもの。」
医師が夜道を酒場へと急いでいると、店の前で「先生!」と必死な声を出す少女に呼び止められた。
煩わしく払いのけると、少女は走って逃げていく。
後を追うが追いつかなかった。
息切れて遠くを見ると、三人が並んで歩くシルエットが見えた。
その場に倒れた医師は、翌朝バスの車掌ケレメンに助けられ馬車の荷台に横たえられた。
「医師は、すべてを徹底的に観察して記録することにより、この腐敗しつつ永遠に増強する悪魔的体制の奴隷とならずに済むかもしれない、と希望を抱いていた」
と原作小説の一節にあり、ある種の神の視点に近いものとして描かれる。
ここにある奴隷とは2章【我々は復活する】でイリミアーシュたちが会話した内容と一致する。
共産政権であった当時のハンガリーで
書くこと、記録することで後世に伝えるという役割が、細やかな抵抗となっているのだ。
冒頭の医師が双眼鏡で覗くシーンは1章【やつらがやって来るという知らせ】のフタキの姿。
少女に声を掛けられ、医師があしらうシーンは5章【ほころびる】の終盤及び6章【蜘蛛の仕事 その二(悪魔のオッパイ 悪魔のタンゴ)】のダンスシーン。
そして、少女を見つけられず倒れ込む直前に見た三人は村についたイリミアーシュたち。
つまり、 医師がエシュティケを追いかけ倒れ込んだのは6章【蜘蛛の仕事 その二(悪魔のオッパイ 悪魔のタンゴ)】で村人たちが寝静まった頃、翌朝に医師がケレメンに運ばれたのは7章【イリミアーシュが演説をする】の直前の出来事ということになる。
このように前半全6章の他視点と同時系列が、医師による視点のみで描かれています。
また、ここで医師の排泄描写が入るんですね。
おしっこの方ですが。
排泄描写は登場人物にリアリティーを齎すとともに、その画に説得力を持たせるもの。
熱く語ると脱線しまくるので今回はは割愛しますが、この描写で鑑賞している我々に干渉してくるわけですよ。
そうです!
忘れかけていた尿意を刺激し、呼び起こしてくるんですよ!!!
と、まあ冗談はこのくらいにしておきますね(笑)
ちなみに、医師が飲んでいたお酒はパーリンカと呼ばれるお酒です。
サボルチの林檎パーリンカ(サボルチのりんごパーリンカ)、サボルチ・アルマパーリンカ(ハンガリー語:Szabolcsi almapálinka)は、鮮明な林檎の味と芳香がする蒸留酒である。出来立ての状態では無色透明、成熟が進むと黄金色となる。
サボルチの林檎パーリンカ - Wikipediaより引用
ハンガリー共和国にはパーリンカ法というものが定められているそうで、パーリンカ法の73条によると、ハンガリーで育てた果実を特殊な醸造技術を用いてハンガリーで発酵・蒸留・熟成・瓶詰めした蒸留酒だけがパーリンカ(Pálinka)と呼べるそうです。
パーリンカ法に従い、サボルチ・アルマパーリンカも規定された地域の醸造所で作り、瓶詰めしなければならず、規定された最低限のアルコール度数は40度。
また、一般的に長時間労働の前や祝日に飲まれるお酒であったようで、民間療法では鎮痛剤、殺菌剤、治療飲料の原料として使用されていたらしい。
『サタンタンゴ』の医師が好むお酒としても説得力のあるものとなっています。
《登場する動物》
・野良犬
旧約聖書の"申命記"では
「道徳的に清くない人たちは犬」
と呼ばれており
"詩篇"では
「パレスチナの犬はインドの野ら犬や不浪人のように野性の汚いものであった」
とされています。
吠え続ける犬の姿は罪を犯した村人たちの叫びとも受け取れる。
・肥大した豚
旧約聖書の"レビ記"では
「獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。
(中略)
豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである」
とされ、豚は食べてはならないといった言及もされています。
肥大した豚はまるで汚れを含んだ悪夢のように膨れ上がる体制を示しているかのようである。
休 憩 (一回目)
・第4章【蜘蛛の仕事 その一】
《概要》
閑散とした酒場に店主と客が一人。
別の客が入って来た。
外は雨が降っている。
「一日中家に座っているわけにはいかない。
それで内側も外側も濡れてしまう。
これはまだいい、内側もの雨が最悪なんだ。」雷が鳴り出すと同時にケレメンが店に入って来てまくし立てる。
「イリミアーシュとペトリナが来る。
イリミアーシュたちはシュテイゲルワルトの家に来たらしい。
無煙火薬の話だったんだそうだ。」
店の裏に行き、耐えきれずに物を蹴散らす店主。
「俺のものはお前らに奪わせないぞ。
ここはぜんぶ俺の物だ!」
店内ではケレメンと女が言い合いになっていた。「預言通りに、ここには嘆きが訪れるわ。」
「『創世記』じゃない、創世はワインなり。」
「読むべきは『創世記』じゃなくて『黙示録』よ。」
「何この匂い。さっきはなかった。」
「蜘蛛の匂いか?」
「違う、この地面よ。」
先客はハリチ。
そこにやって来たケレメンは、居酒屋でイリミアーシュと会い、抱き合った後に話したと話すがこれは真っ赤な嘘である。
その後でケレメンが口論した相手はハリチ夫人。
この酒場でクラーネル夫妻たちを待っている。
その会話では、ハリチ夫人が語った〈ソドムとゴモラ〉という言葉が出てくる。
〈ソドムとゴモラ〉は、旧約聖書の創世記19章に登場する都市で、天によって滅ぼされたとされ、ヤハウェの裁きによる滅びの象徴として用いられています。
旧約聖書では〈ソドムの罪〉と呼ばれるものがあり、主に甚だしい性の乱れが最大の原因とされています。
新約聖書の"ユダの手紙"において
「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。 」
と記載されている。
〈ソドムとゴモラ〉とは、この閉鎖的な田舎町を指す言葉ではないだろうか。
詳しくは、10章【裏からの眺望】に後述しています。
また、この酒場での言い合いは正にこれから起こることを預言しているかのようで恐ろしい。
『ヨハネの黙示録』(ヨハネのもくしろく 古代ギリシア語: Ἀποκάλυψις Ἰωάννου、ラテン語: Apocalypsis Iōannis、英語: Revelation)は、『新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である。
ヨハネの黙示録 - Wikipediaより引用
"黙示録"の17章から18章では
〈大淫婦の裁きとバビロンの滅亡〉
が記されています。
大淫婦とは、女の姿できらびやかな装身具を身につけ、手に金杯を持つ。
大淫婦は殉教者の血を流すが、神のさばきによって滅ぼされる。
旧約聖書の"イザヤ書"では、遊女やその取り持ち女を戒めたり、バビロン捕囚に関連してバビロン王について書かれた記述がみられる。
つまり、1章【やつらがやって来るという知らせ】でフタキと肉体関係にあったシュミット夫人は《大淫婦》にあたり、自らの滅びをここで知ることとなるのだ。
バビロン補囚に関しても、7章【イリミアーシュが演説をする】で記載しています"エレミヤ書"とも話が繋がります。
・第5章【ほころびる】
《概要》
林の中、一画を掘る兄妹。
「カネをよこせ。」
シャニに言われるままにポケットからお金を差し出す妹のエシュティケ。
「カネの木が生えるの?」
「もちろんさ。」
お金を包んだ布を土の中に埋めた。母は男を家に招き入れて、入れないエシュティケ。
家に入れない少女は隣の建物に忍び込み、雨風が辛うじてしのげる板敷きで猫と一緒に、ことの終わりをただひたすら待っている。
「粗相したのね?やってくれたわね。
お前をどうしてやろう?」
逃げる猫を地面に叩きつけ、引きずり回す少女。
「私の方が強いんだ。」
猫いらずを混ぜたミルクの器に強引に猫の頭を押し付け舐めさせる。
猫は少しずつ動かなくなっていった。
猫の亡骸を脇に抱え林に戻るとお金が掘り返されてなくなっていた。
「俺が必要だったから取ったんだよ。」
兄は吐き捨てるように言った。ずぶ濡れで暗い夜道を酒場へと向かうと、店の中ではアコーディオンの伴奏に合わせ大人たちが踊り回っている。
少女が外にいるとも知らず。
やがてやって来た医師を呼び止める。
「先生!」
ぬかるみに足をとられて転倒した医師は
「こん畜生、何なんだ。」
と吐き捨てる。
少女はその場から走り逃げた。歩き続けて辿り着いた廃墟。
上着のポケットから猫いらずを手に取り、口に含む。
猫をそっと抱き寄せ横たわった。
目を閉じて、再び目覚めることがないように。
心の中は平穏だった。
物事の相関を理解して微笑んだ。
不安になる理由はない。
天使が迎えに来るのが分かった。
と言う自分が猫好きなので、見るに耐えない光景ではありましたが、少女の抱いたやり場のない負の感情と圧倒的演技で惹き込まれました。
前半全6章を少女エシュティケの視点で描いたこの5章が個人的に一番惹き込まれた章でもあります。
兄にお金を取られ、母からは見放され、大人たちは踊り狂い自分の存在に気づいてくれない。
そして、医師に悪態をつかれる。
つまりは、神からも見放されたのだ。
大人たちの無慈悲さ、この世界に絶望した少女は何かを悟ったように静かに瞳を閉じる。
聖書において考えてみても、自殺者は驚くほど少ない。
サウル、アヒトフェル、ジムリ、そしてイスカリオテのユダの実質4人だけなんです。
また、"出エジプト記"の〈モーセの律法〉でも、主であるイエス・キリストですらも、自殺を明確には禁じていません。
しかし、聖書には自殺は良くないことである。とした言葉は幾つかあります。
例えば
"エレミヤ書"の
「なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥に終わるのか。」
"ヨナ書"の
「太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱りはて、自分の死を願って言った。『私は生きているより死んだほうがましだ。』」
など、「生まれてこなければよかった」や「死にたい」といったネガティブな発言は多く見受けられる。
聖書にはいずれも尊敬される人物の発言であり、罪人が死を望むということがない。
真っ当な人間こそ苦しみを吐露するというのが、聖書の特徴なんです。
罪を犯した村人たちの中で、唯一真っ当に生きていた人間がこの少女エシュティケだったんですよ。
その少女をこのように変えてしまった悪魔的な体制、悪しき環境、絶望を問題提起としています。
ちなみに、兄であるシャニに騙されたエシュティケが信じていた金のなる木。
勿論そんなものはありませんが、観葉植物にカネノナルキという品種が存在します。
カネノナルキ(金のなる木、学名: Crassula ovata)は、ベンケイソウ科クラッスラ属の多肉植物。
英語では dollar plant といい、葉が硬貨に似ているのが名前の由来である。栽培業者が五円硬貨の穴を頂芽に通して固定し、若枝が硬貨の穴を通ったまま成長するようにして硬貨がなったように見せかけ、一種の縁起物的な販売方法をとったため、「金のなる木」や「成金草」の園芸名で俗称されることが多くなった。
カネノナルキ - Wikipediaより引用
嘘をつく時、相手を信じさせるためにはほんの少し真実を混ぜるといいと聞いたことがあります。
シャニはこの植物の存在を知っていて、エシュティケに話したのかもしれません。
どうでもいい余談ですが、エシュティケという名前の意味についても考えてみます。
劇中でもエシュティケを〈花大根〉だと揶揄する描写が10章【裏からの眺望】のシュミットとクラーネルの会話の中で挿入されます。
ハナダイコン(花大根、学名Hesperis matronalis)は、アブラナ科の植物の一種。シベリアから西アジア・ヨーロッパにかけてが原産地で、欧米では、最も伝統のある園芸植物とされている。属名はギリシャ語で「夕方」の意味。同属植物は20種あまりある。学名の種名"matronalis"はラテン語で「婦人の」の意味だが、これは古代ローマの婦人の祭日マトロナリア(3月1日)の頃から咲き始めるためという。
旧暦の元日に当たる3月1日のマトロナリア(Matronalia)祭は、ローマ神話で結婚や出産を司る女神ユノの大祭。
この日女性たちは奴隷に食事を与え男性からの贈物を受けたとされる。
ユノは添え名で崇拝されており、
紀元前345年に建設されたユーノー・モネータの神殿では後に貨幣の鋳造が行われた。
そのため、彼女の称号は貨幣の意となり英語moneyなどの語源となったそうです。
貧困層であるエシュティケにとってはこれ以上ない皮肉ですね。
ついでに、猫の殺害及びエシュティケの自殺に使われた〈猫いらず〉についても書いておきます。
殺鼠剤の一種。主成分として黄リン8%を含むほか,グリセリン,ぶどう糖などが混合され,酸化鉄で赤褐色に着色されている。ネズミの好む餌に含ませて使用する。
猫いらず(ねこいらず)とは - コトバンクより引用
〈猫いらず〉とは、猫が不要なくらい効果のあるネズミ駆除の薬という意味です。
本来、ネズミに使用する薬を猫に与えるという皮肉。
昔は黄燐マッチというものがありまして
有毒で自然発火しやすいため、1922年に世界的に生産禁止になっています。
黄燐以外にも亜砒酸(ヒ素)を主成分とした殺鼠剤もあります。
燐には中毒症状があり、非常に毒性が強い。
急性の場合は麻痺様症状や胃腸症状を起して急死します。
成人の致死量が20~100ミリグラムとされており、エシュティケのような幼い子供なら、手のひらいっぱいでなくとも死に至る危険性があります。
《登場する動物》
・猫
この章で最も印象的であり、唯一の暴力シーンでもある猫の虐待描写。
恐らくタル・ベーラ監督はこの虐待そのものではなく、虐げられた者が更なる弱者を虐げるといった終わりのない絶望的な支配体系の本質を描きたかったのだろう。
イリミアーシュ自身も警察からの支配下にあり、そのイリミアーシュに搾取される村人たち、その下に少女エシュティケ、更にその下に飼い猫といった縦社会が見える。
ちなみに、動物の猫は"エレミヤ書"以外の聖書には登場しません。
正確には、猫はエジプトの王を指す言葉です。
聖書では、"出エジプト記"においてエジプトを〈奴隷の家〉と表現しています。
イスラエルの人たちにとって、エジプトは自分たち先祖を奴隷にしていた国であると認識しているからなんですね。
では、なぜ"エレミヤ書"には猫の表記がされたのか?
エレミヤはバビロン捕囚の後、エルサレムに残った人々と共にエジプトに脱出します。
これが"出エジプト記"ですね。
そして、エレミヤは脱出した先のエジプトから預言を記した手紙を送っています。
つまり、旧約外典のエレミヤの手紙はエレミヤがエジプトに移った後のことなので、猫が登場してもおかしくないという解釈になります。
・第6章【蜘蛛の仕事 その二(悪魔のオッパイ 悪魔のタンゴ)】
《概要》
酒場にエシュティケの母が娘を探しに来た。
「娘見かけなかった?
戻ってきたらひっぱたいてやる。」店の裏では酔ったフタキと世話を焼く店主。
「ここはもうダメだ。
本当の危険は下からやってくる。
人はあるとき静寂が急に怖くなって動かなくなる。
安全を求めて隅にうずくまる。」
酔ったフタキの言葉に店主は激昂する。
「いつかは秩序が訪れる。
この国にも秩序が!」雨に打たれながら店内を覗き込むエシュティケをよそに、酒場の客たちは踊り狂う。
「タンゴはいかが?」
シュミットの妻をハリチ校長が誘う。
「俺の人生はタンゴだ!母は海で、父は大地で…」
再び歌い出したケレメン。一夜の狂宴を思いのままに過ごした村人たちが寝静まった頃、アコーディオンの調べに乗って酒場の蜘蛛達は最後の攻撃を始めた。
グラスやカップに蜘蛛の巣をかけていった。
隠れ場所に潜んで、あらゆる動きや気配がすぐ分かるように。
まあそれは嘘なんですが、観ている間はいつまででも見ていられそうな気にはなります。
ということで、2回目の『サタンタンゴ』鑑賞時に測ってみたんですが
一度目のダンスは約10分。
二度目のダンス(タンゴ)は約8分。
彼らは18分間も踊り狂ってるんですよ(笑)
酒場の外では中の様子を覗き込むエシュティケの姿が。
そして、ダンスの途中では医師が酒場の前までやってくる。
フタキをはじめ村人たち、医師、エシュティケと前半全6章がすべて一つに収束する。
ここまでがイリミアーシュが帰って来る前夜の出来事です。
《登場する動物》
・蜘蛛
蜘蛛は原作小説と映画との両方に登場しますが、それぞれ大きく異なった描写となっています。
小説では
「蜘蛛は酒場に救っていて駆除しても何度も巣を張る。
しかし、誰も蜘蛛の姿を見たことがない。」
とされ、イリミアーシュの正体を掴みきれていない村人たちと重ね合わせている。
一方、映画の6章では
"一夜の狂宴を思いのままに過ごした村人たちが寝静まった頃、アコーディオンの調べに乗って酒場の蜘蛛達は最後の攻撃を始めた。グラスやカップに蜘蛛の巣をかけていった。"
というシーンが挿入されています。
隠れ場所に潜んであらゆる動きや気配がすぐ分かるように張られた蜘蛛の巣。
これに絡め取られ動けない様子は村人たちの現状を表しているのですが、同時に蜘蛛はスパイのモチーフとして描いています。
また、蜘蛛は旧約聖書にも3回ほど登場します。
正しくは蜘蛛の巣ですが。
旧約聖書の"ヨブ記"では
「その頼むところは断たれ、その寄るところは、くもの巣のようだ。」
「彼の建てる家は、くもの巣のようであり、番人の造る小屋のようである。」
いずれも、蜘蛛の巣はすぐに切れてしまうことから、当てにならない、安定的ではないことの比喩である。
そしてもう一つ、旧約聖書の"イザヤ書"では
「彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死ぬ。卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。」
とある。
その続きはこうです。
「その織る物は着物とならない。その造る物をもって身をおおうことができない。彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。
彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。
彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。」
これは神に従わない人々の行いが述べられているのですが
自分の罪を告白した人達を救うための報復であり、自分の罪を告白しない人は決して報われないというもの。
つまり
神であるイリミアーシュに従わない罪を犯した村人たちはいつまでも蹂躙され続ける立場にあるということ。
ある種の預言であり、注意喚起でもある。
これは次の7章【イリミアーシュが演説をする】に繋がります。
休 憩 (二回目)
映画『サタンタンゴ』後
さて、前半全6章を経てついにイリミアーシュが帰ってきた。
ここからは後半全6章について考えていきます。
・第7章【イリミアーシュが演説する】
《概要》
エシュティケの遺体を村人たちが囲んでいる。
「私は非常に悲しい。
私も困惑し、どうしていいか分かりませんが気を取り直しましょう。」
イリミアーシュがゆっくりと話し出した。
「なぜこんな悲劇が起こってしまったのか、大人たちが騒いでる間に無垢な少女は一晩中雨に打たれて何を思ったか。」
「今ここは災厄が見舞っており最終審判が下されようとしているのです。
皆さんの計画は失敗し、夢は粉砕されるのです。
わたしは皆さんを助けに来たのです。
根本的な解決法が必要です。
生活を保証し、零落した人々をまとめるような見本農場を作ることにしたのです。」
イリミアーシュの演説を聞いた村人たちは持ち寄った大金を預け、夢の荘園計画に乗り出した。
イリミアーシュは旧約聖書の"エレミヤ書"に登場する〈預言者エレミア〉のハンガリー語名です。
映画『サタンタンゴ』は秋の長雨が始まる直前のある10月の朝から始まります。
"エレミヤ書"も冬になる前、ちょうどこの時期から始まります。
"エレミヤ書"の内容を要約すると
「ユダ王国がバビロン捕囚という破局に向かって進んでいた動乱の時代に神のことばを語ることがエレミヤに定められた召しである。」
と記したもの。
エレミヤは〈涙の預言者〉と言われるほどに、悲しみを体験した預言者でもあります。
一方で、今作のイリミアーシュは詐欺師。
村人たちを巧みな話術で騙し、金銭を巻き上げ、村人たちを情報提供者として各地にスパイとして送り込む。
そんな彼も、組織に利用され、村に送り込まれたスパイに過ぎない。
この負の連鎖が今作『サタンタンゴ』の円環する物語とも重なり、先の見えない絶望の中でどう行動するのか?を問いかけている。
『サタンタンゴ』の舞台であるハンガリーの貧しい田舎町、イリミアーシュもこの村の出身である。
エレミヤの出生地はエルサレムから北東約5キロの距離にあるアナトテという寒村です。
寒村とは寒い村の意味ではなく、貧しく寂しい村という意味。
彼はやがてエルサレムにいる多くの人々に神の言葉を語ります。
ちなみに、"エレミヤ書"は"エゼキエル書"とは異なり、年代順に記述されていません。
今作『サタンタンゴ』のように時系列順ではないところも共通点のひとつではないでしょうか。
"エレミヤ書"第4章3節
「主はユダの人々とエルサレムに住む人々にこう言われる、「あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな。」
"エレミヤ書"第4章4節
「ユダの人々とエルサレムに住む人々よ、あなたがたは自ら割礼を行って、主に属するものとなり、自分の心の前の皮を取り去れ。さもないと、あなたがたの悪しき行いのためにわたしの怒りが火のように発して燃え、これを消す者はない。」
この〈新田〉はイリミアーシュが演説した〈荘園〉、つまり農場のことを指し、預言者エレミヤ同様に村人へ預言をしていきます。
「耕地を開拓すること」と「心の割礼を受け、包皮を取り除くこと」は同義。
換言するならば、神の前でへりくだることを意味しています。
でなければ、主の憤りが火のように燃え上がり、誰もその火を消すことが出来ないと警告されています。
このように、イリミアーシュも村人たちに罪悪感を植え付けると同時に不安を煽り、従うように警告しているんです。
葬儀に集まったら村人たちの中で、エシュティケは疎外されていた唯一の無実。
誰かが疎外されないために、みんなが安心して暮らせる荘園(農園)を。
このイリミアーシュの演説こそ、悪魔のささやきなんです。
モーセの十戒
ユダヤ教聖書(キリスト教旧約聖書)の「出エジプト記」には、簡約すると次の項目が示されている。
1. 主が唯一の神であること
2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
4. 安息日を守ること
5. 父母を敬うこと
6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
7. 姦淫をしてはいけないこと
8. 盗んではいけないこと
9. 隣人について偽証してはいけないこと
10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと
1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。
モーセの十戒 - Wikipediaより引用
特に5~10までの6つの戒めは『サタンタンゴ』における村人たちの罪と合致する。
・父母を敬うこと
5章【ほころびる】のエシュティケと母親の関係。
・殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
2章【我々は復活する】のイリミアーシュの爆破予告。
3章【何かを知ること】のエシュティケをあしらった医者。
5章【ほころびる】のエシュティケの死を招いた村人たち。
・姦淫をしてはいけないこと
1章【やつらがやって来るという知らせ】のフタキとシュミット夫人の肉体関係。
5章【ほころびる】のハリチとエシュティケ母との肉体関係。
8章【正面からの眺望】のイリアミーシュとシュミット夫人との肉体関係。
・盗んではいけないこと
1章【やつらがやって来るという知らせ】で村人たちの貯金を盗んだクラーネルとシュミット。
7章【イリミアーシュが演説をする】でエシュティケの死を前に村人たちから財産を奪うイリミアーシュ。
・隣人について偽証してはいけないこと
2章【我々は復活する】で明かされるシャニという青年が「イリミアーシュが死んだ」と広めた噂。
7章【イリミアーシュが演説をする】以降のイリミアーシュの発言。
・隣人の財産をむさぼってはいけないこと
1章【やつらがやって来るという知らせ】で二人で持ち逃げする計画を立てていたシュミットとクラーネル、そこに乗っかったフタキ。
7章【イリミアーシュが演説をする】でのイリミアーシュの演説。
そうなんです、罪悪感を刺激しているイリミアーシュ本人こそ、一番の罪人でありクソ野郎なんです(笑)
《登場する動物》
・ハエ
他にも1章【やつらがやって来るという知らせ】や2章【我々は復活する】、4章【蜘蛛の仕事 その一】にも登場しますが、最も意味を持つのがこの7章【イリミアーシュが演説をする】でイリミアーシュを取り巻くように飛び回るハエです。
聖書におけるハエとは主に悪魔であるベルセブブを指します。
7つの大罪では〈暴食〉を司る悪魔ですね。
ベルゼブブ (Beelzebub) はキリスト教における悪魔の一人。旧約聖書『列王記』に登場する、ペリシテ人の町であるエクロンの神バアル・ゼブルが前身とされる。新約聖書『マタイ福音書』などではベルゼブル (Beelzebul) の名であらわれる。
かつては〈魂を支配するもの〉とも呼ばれ、旧約聖書と新約聖書の両方に登場する悪魔。
村人たちの心(魂)を掌握し、支配したイリミアーシュはまさに悪魔です。
また、ハエに関してはベルゼブブ以外の記述もあります。
旧約聖書の"伝道の書"ではこう記載されています。
「死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くし、少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。」
時間を掛けて調合した高価な香油。
一匹のハエが飛び込んできて、香油の中に落ちて死にました。
すると大切にしていた香油から異臭がして、発酵。
香油の価値は無くなってしまいました。
たった一匹のハエのせいで。
ここで言うハエはイリミアーシュ、香油を調合した者は村人たち、香油は村人たちの金という構図で見ることができます。
本来は、「人の愚痴はたった一言でも、その人の品性や名誉を損ねる。」、口は災いのもとという意味なのですが。
他にも、旧約聖書の"イザヤ書"では
「その日、主はエジプトの川々の源にいる、はえを招き、アッスリヤの地にいる蜂を呼ばれる。」
とある。
似たような意味ではありますが
エジプトの川の果てから飛んで来るハエは有毒性であり、ラクダをも死なせる。
といったもの。
こちらも、ハエはイリミアーシュ、ラクダは村人たちといった構図で重なります。
・第8章【正面からの眺望】
《概要》
酒場の前でイリミアーシュが高らかに宣言する。
「皆さんの情熱と信頼は私にも情熱と信頼をもたらします。
明朝6時にアルマーシ荘園集合です。
さあ未来へ出発です。
皆さんは、この瞬間から自由なのです。」
行動を共にしない店主は「くたばっちまえ!」と、罵声を吐く。来るべき未来に備え、家具を壊して荷造りし、雨の中を歩き続けた一行は、がらんどうのアルマーシ荘園の屋敷に辿り着く。
五棟はあるような大きな建物に感動する彼ら。その夜、フクロウが一羽、興奮冷めやらぬ村人たちの声を聞いている。
「言っただろう、夢を捨てちゃいけないって。
最後まで希望を持つんだ。
さもなければどうなってた?想像できるか?
輝く未来が待ってる。」
寝入った村人たちはそれぞれ悪夢にうなされた。
イリミアーシュについて行かなかった酒場の亭主の罵声。
その最中に「ジプシーに取られるよりまし」と家具を破壊する村人たち。
このシーンはもう村へは戻ってこないという意思表示、もしくは二度と村には戻ってこれないといった未来を示すものとも取れるが、その背景にはハンガリーの歴史が関わっている。
かつてのハンガリー王国はオスマントルコ帝国の侵攻を食い止めてきた。
故に今も尚、ハンガリーではジプシーへの人種差別が残っています。
ジプシーに関してはこちらの書籍を。
これまでの10年、ヨーロッパ各地や北アフリカ、トルコなどを歩いて著者が出会ったジプシー社会の現状を綴った一冊で、アラブに住むジプシーを実際に訪ねていった日本人の貴重な体験談でもある。
ジプシーのことを知るための一冊ではなく、ジプシーの存在を知るための一冊として興味のある方は読んでみると世界観は広がります。
- 作者: 関口義人
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また、7章【イリミアーシュが演説をする】で記述した"出エジプト記"は旧約聖書の二番目の書であり、"創世記"の後に記されている。
内容としては、モーセが虐げられていたイスラエル人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれています。
村人たちを引き連れて荘園へと向かうイリミアーシュ一行は正にこれ。
しかし、"出エジプト記"のような希望はなく、むしろ"黙示録"に向かって歩みを進めているようにも見える。
これは4章【蜘蛛の仕事 その一】で話された「読むべきは創世記ではなく黙示録」と繋がります。
荘園に着いた一行はその夜、それぞれ悪夢にうなされていました。
・ハリチは背中の曲がった男に襲われる。
かの有名なアーサー・コナン・ドイル著作、シャーロック・ホームズシリーズの一作『背中の曲がった男』。
シャーロック・ホームズやその小説内の登場人物はたびたび聖句を引用しています。
この短編小説『背中の曲がった男』も、旧約聖書の"サムエル記"のダビデのスキャンダルが怪死の真相を解く鍵になっています。
・校長はゲイだと白衣の看護師にバレて恥じる。
旧約聖書では創造神ヤハウェは、男と女が結ばれるべきだと命令している。
このことから一部では〈宗教上の罪〉とされています。
近年の欧米諸国においては、同性愛も異性愛と同様に生まれつきの性的指向であるとの認識が広まっています。
・シュミットは地震で足元が崩れ沼に沈む。
旧約聖書の"詩篇"
「私を泥沼から救い出し沈まないようにしてください。私を憎む者どもから大水の底から救い出してください。」
と記載されているように、救いがないことを示すもの。
・ハリチ夫人はシュミット夫人の背中を数珠で洗って怒られる。
数珠とはキリスト教でいう珠を糸で繋げたロザリオのこと。
本来、祈りのために使用するロザリオで怒りを買う。
「カインは、ささげた犠牲が神様に喜ばれなかった時、『非常な怒りに燃え』ました。怒りをどんどん募らせ、弟を殺してしまいました。」
旧約聖書の"創世記"で、聖書で初めて殺人の罪を犯した《カインとアベル》の動機もまた、怒りの感情である。
・クラーネル夫人は家が火事になる。
・クラーネルは家の中で落ち着いて食事し、動かない。
新約聖書の"テモテへの手紙一"
「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」
タロットカードの絵札《塔》は、落雷によって王冠が開き、塔は炎に包まれ人が転落している。
マルセイユ版ではこれを神の家と言い、《火事の家(La Maison de Feu)》が《神の家(La Maison Dieu)》と誤記されたとも言われています。
・シュミット夫人は鳥になって空を飛び、夫に嘆き虫を食べる。
旧約聖書の"エレミヤ書"
「いつまで、この地は嘆き、どの畑の野菜も枯れていてよいでしょうか。この地に住む者の悪によって、獣と鳥は滅びうせます。人々は言いました、『彼はわれわれの終りを見ることはない』と。」
既に荒れたユダの地で彼らの悪い仕業のために、主が土地を荒らすという懲らしめを与えています。
つまりは、滅び失せる鳥となったシュミット夫人も神の裁きを受けることとなる。
・フタキは肩をナイフで刺される。
旧約聖書の"申命記"に
「主はまた、あなたを打って、気を狂わせ、盲目にし、精神を錯乱させられる。」
と神の戒めに従わないときには障害を持つというとんでもない罰があります。
脚の不自由なフタキにとって手が不自由となることはさらなる罪を背負うことと同意。
《登場する動物》
・梟
旧約聖書の"ゼパニヤ書"で
「ふくろうはその窓で鳴き、烏は敷居で鳴く」
といった記述があります。
これはイスラエルの敵国であるアッシリアの首都ニネベの様子を記したもので
「私だけは特別だ。」といった人間の驕りに対する注意喚起がされた一節でもあります。
イリミアーシュはじめ村人たちは選ばれたのではなく、特別な存在でもない。
言い換えれば、誰もがイリミアーシュの立場にも村人たちのようにもなり得るということ。
・第9章【天国に行く?悪夢にうなされる?】
《概要》
「兄貴恐ろしくて漏らしそうだ。
これをどう乗り切る?また神がかったのか?」
ペトリナは自分たちのやっていることに怯えている。
「俺達の時代が到来したんだ。
イリミアーシュ版全国蜘蛛の巣網。」
村人たちをうまく口車に乗せたイリミアーシュは揚々と話した。シュテイゲルワルトの店に向かう途中、何頭もの馬が群れをなして街の広場を駆け回る光景を目の当たりにした3人。
店に着くと警視に報告書を書く。
「永遠とは一過性であるものとは比較できないので永遠なのである。
我々の行為さ永遠において正当な処罰を受けることができるのだ。」
武器商人パーイェルを呼んで
「早急に大量の爆薬が必要だ。」
と伝えるイリミアーシュ。
今後のことを尋ねられると
「私は民衆解放者ではない。
全てがなぜ悲惨なのかを研究している研究者だ。」
イリミアーシュは武器商人パーイェルを呼んで「早急に大量の爆薬が必要だ」と伝えます。
クラスナホルカイ・ラースロー原作『抵抗の憂鬱』(タル・ベーラ監督作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』)で、町を破壊した暴徒の扇動者と重なるように、イリミアーシュも町を破壊するつもりだったことが予想できます。
また、会話の内容から
「永遠とは一過性であるものとは比較できないので永遠なのである。
我々の行為は永遠において正当な処罰を受けることができるのだ。」
正論ぶってますが、これ、とんでもない暴論ですよね。
一過性である詐欺行為では、自分たちは無期懲役刑や死罪には値しないって言ってるようなもんじゃないですか(笑)
人は誰しもが終わりが来ることを知っています。
終わりとは即ち〈死ぬこと〉です。
しかし、人は死んだらどうなるのか?という問いに対しての回答は漠然としています。
死後は無の世界であるといった見解もある中、その根拠となるものはありません。
この物語のように、人は自分の望む世界を信じたがる生き物なんです。
死後の世界は無ではなく、明確に2つの世界があると聖書では告げられています。
この9章のタイトル【天国に行く?悪夢にうなされる?】は聖書でいうところの〈天国と地獄〉。
それが綴られているのが"ヨハネの黙示録"です。
黙示録については4章【蜘蛛の仕事 その一】でも語られましたね。
新約聖書の"ヨハネの黙示録"21章によれば〈天国〉は以下の通りです。
「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」
この
「死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」
は即ち生からの解放、即ち無ではない死後の世界を意味する。
また、〈地獄〉に関しては同様に新約聖書の"ヨハネの黙示録"20章で次のように記述されています。
「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
聖書における〈地獄〉とは〈火の池〉です。
「イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。」
とされるように、地獄においても救いはあります。
新約聖書の"マタイによる福音書"によれば
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」
とされ、「滅びにいたる門」は〈地獄〉へ通ずる道、「命にいたる門」は〈天国〉へ通ずる道であることがわかる。
今作『サタンタンゴ』の村人たちのように、甘い話は地獄へ通ずる道であるといったことでしょうか。
"ヨハネによる福音書"
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」
イリミアーシュと村人たちの関係は、この聖書に記述されていることと正反対の立ち位置を取った非常に皮肉った内容となっています。
《登場する動物》
・駆け回る馬
平和をもたらすメシア到来の預言として有名な旧約聖書の"ゼカリヤ書"。
〈救世主メシア〉の乗物に相応しい驢馬に対し馬に与えられた役割はその引き立て役であり、劇中で駆け回る馬たちはイリミアーシュが救世主ではないことを示唆させるもの。
また、その場面で馬たちの中心にある噴水は"ゼカリヤ書"に記載される〈清めの泉〉か。
「その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。」
噴水に目もくれず横切るイリミアーシュたちに罪と汚れを清める意思はないということか?
・第10章【裏からの眺望】
《概要》
アルマーシ荘園で朝を迎えた一行。
約束の時間になっても現れないイリミアーシュに騙されたのでは、と苛立つ村人たち。
遅れて現れたイリミアーシュは村人たちに告げた。
「荘園計画を無期延期しなければなりません。
一部に不信を抱かれたのです。
暫くの間我々が県内に散らばり、我々がここに戻って計画を実現するのを、あの連中かや問題に感じないまで待ちましょう。
皆さんは忠誠と献身と慎重が欠かせない。
偉大なじぎょうを実現するために選ばれた者だからです。」疑心暗鬼になりながらも、イリミアーシュを信じてついて行く一行。
雨晒しの車の荷台に乗せられ着いた先で、今後こ住処と仕事、気持ち程度の資金が各自に渡された。
「私達のためにここまでしていただいて」
「礼には及びません。」
フタキだけは悪い足を引き摺ってイリミアーシュから離れて行った。
アルマーシ荘園に着いた村人8人は明朝、約束の時間になっても現れないイリミアーシュに騙されたのではないかと苛立ち、揉め事を起こす。
ここで4章【蜘蛛仕事 その一】のある言葉を思い出してほしい。
そう、ハリチ夫人の言葉〈ソドムとゴモラ〉です。
主に"創世記"の19章、〈ソドムとゴモラ〉の滅亡がこの10章【裏からの眺望】に大きく関係しています。
ヤハウェの使い(天使)二人がソドムにあるロトの家へ訪れ、ロトは使いたちをもてなした。やがてソドムの男たちがロトの家を囲み、「なぶりものにしてやるから」と言って使いたちを出すよう騒いだ。ロトは二人の使いたちを守るべく、かわりに自分の二人の処女の娘達を差し出そうとした。使いたちは、ヤハウェの使いとして町を滅ぼしに来たことをロトに明かし、狼狽するロトに妻と娘とともに逃げるよう促し、町外れへ連れ出した。ロトがツォアルという町に避難すると、ヤハウェはソドムとゴモラを滅ぼした。ロトの妻は禁を犯して後ろを振り向き、塩の柱に変えられた。ヤハウェはアブラハムに配慮して、ロトを救い出した。
ソドムとゴモラ - Wikipediaより引用
〈ヤハウェ〉とは聖書における唯一神。
つまり、この物語の中では2章【我々は復活する】に登場した〈警視=法〉である。
二人の使いはイリミアーシュとペトリナ。
そしてソドムに住むロトはフタキを指すと考えられる。
そして、シュミットとクラーネルがイリミアーシュを疑っていた時に唯一庇ったのがフタキであり、その二人になぶりもの(暴力を振るわれている)にされている。
また、フタキは最初からイリミアーシュのことを「牛糞から城だって作れる大魔術師だ」と初めから信じていなかった。
町を滅ぼしに来たことをイリミアーシュに打ち明けられたのではなく、自ずとフタキ自身が悟っていたのだ。
負の連鎖が今作『サタンタンゴ』の円環する物語とも重なり、先の見えない絶望の中でどう行動するのか?を問いかけている。
この絶望の円環、偽の預言者からの救済。
そこから抜け出した唯一の人物がフタキです。
言い換えるなら、自分の道を唯一切り開いた人物、つまりは自由を手にしたかもしれない…という希望である。
8章【正面からの眺望】ではイリミアーシュを信じて希望を胸に村を去る村人たちを、10章【裏からの眺望】では疑心暗鬼になりながらもイリミアーシュを信じてついて行く。
各章の終わりは正面では悪夢にうなされ、裏ではフタキが希望を見せた。
つまり、この8章【正面からの眺望】と10章【裏からの眺望】はタイトル通り、対になっていることがわかる。
ではイリミアーシュはどうか?
彼は村へのスパイと村人たちを騙すこと、すべてが一貫しています。
この8章【正面からの眺望】と10章【裏からの眺望】の間で画かれる9章【天国に行く?悪夢にうなされる?】でのイリミアーシュの本音。
「イリミアーシュ版全国蜘蛛の巣網」。
6章【蜘蛛の仕事 その二(悪魔のオッパイ 悪魔のタンゴ)】で、「一夜の狂宴を思いのままに過ごした村人たちが寝静まった頃、アコーディオンの調べに乗って酒場の蜘蛛たちは最後の攻撃を始めた。グラスやカップに蜘蛛の巣をかけていった。隠れ場所に潜んで、あらゆる動きや気配が分かるように。」のこれと繋がります。
・第11章【悩みと仕事ばかり】
《概要》
イリミアーシュから報告書を受け取った警官。
「私の誠意を示すためにご指示の報告をいたします。」
村人たちの特徴を事細かに、蔑み嘲笑う汚い言葉で書き連ねられた報告書を、言い回しを変えながらタイプライターで清書していく二人。
一日が終わろうとしていた。
「じゃあな。」と一人の警官。
「いい日だったな。」ともう一人が付け加える。
幾度となく描写される暴風の中を歩く無駄にかっこいいイリミアーシュ一行。
村人たちの情報を届けるべく警察署に向かう。
このシーンはもう言葉遊びというか、イリミアーシュの汚い言葉を警官が清書していくだけなんですが、割と警官の言葉も汚いんです(笑)
ここで村人たちから搾取する側のイリミアーシュも、警察に搾取されるだけの存在であることが明白になるわけですが、終盤のこの章【悩みと仕事ばかり】で各人物描写を振り返るようなシーンが続くのは作為的でしょうね。
頭の中を整理するという意味ではいいのですが、2回目以降の鑑賞時には既に人物相関図も各々の人物像も頭に入っていて、タイプライターの音をひたすら聞かされるだけの時間でもあるんです(笑)
と、この章だけは特に書くことがないので、少し見方を変えて考察してみました。
2章【我々は復活する】からの警官とイリミアーシュの関係性はスパイとして送り込む側と搾取される側でしたね?
しかし、視点を変えてイリミアーシュを警察のスパイとして見るのではなく、村人たちにとっての預言者、もしくは神の使い、更には主として見たならどうだろうか?
神のお言葉を文字に起こして後世に伝える。
これって〈聖書〉そのものになりませんか!?
言い換えるなら、記録すること、ある種の神の視点でもあった医師からイリミアーシュへのバトンタッチとも取れるんですよ。
これが次の章【輪は閉じる】に繋がると考えると、非常に恐ろしいんです!
という、大きな前フリはどうでしょう?(笑)
・第12章【輪は閉じる】
《概要》
医者は家に戻って酒を注いだグラスを一気に飲み干した。
外は雨。
「病院で過ごした13日の間、クラーネル夫人は図々しく我が家に戻っては来なかった。
全ては家を出た時のままだった。
連中の誰も家の中からも出てくる勇気がないようだ。
動かないでいることで、最も怖れているものに捧げているのだということを想像していないのだ。」
ノートに書き記していると遠くの鐘が鳴る音がした。
「どうやら耳が遠くなっているようだ。」
鐘の鳴る礼拝堂に行くと
「トルコ軍が来るぞ。」
と言いながら無心で鐘を叩いている男がいた。「わしは馬鹿だ。
天の鐘の響きを魂の鐘と勘違いしてしまった。」
家に戻った医者は窓に戸板を一枚一枚打ち付けていく。
部屋は少しずつ光を失っていく。光が差し込まなくなった真っ暗な部屋に、医者はノートに書き記す声が聞こえる。
「フタキは鐘の音を聞いて目を覚ました。
一番近い礼拝堂は8キロ離れているが、そこには鐘がなかっただけでなく、戦時中に塔も倒れてしまっていた。」
帰宅した医師。
村人たちと対比するように、家の中だけでなく彼自身の生活も何も変わっていない。
そこで、再び鳴り響く鐘の音。
トルコ軍とは災いの象徴。
これも8章【正面からの眺望】で記載しましたが、オスマントルコ帝国の欧州侵攻を防ぐ役割となっていたハンガリーの歴史の闇が深く関わっています。
オスマン帝国の統治時代、ハンガリーの平和は危ういものであった。ハプスブルク家はムスリムの侵略者から国土を解放する計画を推し進め、また仲介者の協力を得て対抗宗教改革を推進した。オスマン帝国は、1620年、さらに1683年の第二次ウィーン包囲では、オスマン帝国領ハンガリーを拠点として用い、神聖ローマ帝国と新教徒との間の対立を利用しようと試みた。
この頃、ハンガリーでは変化が起こり始めた。広大な国土は人口が希薄で、森林で覆われていた。氾濫原は沼地となっていった。占領者であるトルコ人たちの暮らしも不安定であった。冷酷な新しい主人から小作農が森や湿地へ逃げ、ゲリラ隊ハイドゥー軍(ハンガリー語版)(Hajdú)を結成した。長く連なる国境沿いの砦を維持するため、ハンガリーからの歳入の多くは使い果たされてしまい、結局ハンガリーはオスマン帝国を消耗させることとなった。しかし、経済の一部は繁栄した。広大な未開地域に、南ドイツや北イタリアへと移されるウシを町が飼育した。数年で、輸出されたウシは500,000頭に達した。ワインはボヘミア、モラヴィア方面、オーストリア、ポーランドへ売買された。
勿論、歴史的に見ても現実にトルコ軍が攻めてくるなんてことはない。
戦場を生き抜いた人たちにとってのトラウマの一つ。
そして、この鐘は村の災いを知らせる警鐘なのだ。
今作『サタンタンゴ』における〈悪魔〉とは〈トルコ軍〉であり、それは戦争を招いた人間でもあり、はたまた"蜘蛛の巣"のように獲物を絡めとるイリミアーシュであり、更には人間の心の奥に巣食う負の感情でもあるのだろう。
一方で、今作『サタンタンゴ』の舞台となった1980年台のハンガリーは東欧のスイスとも呼ばれるほどに経済発展を遂げています。
現実的にはそこまで過去を引きずるほど荒れてはいないが、そこに根強く残るハンガリーの闇を投影することでこの作品に魅力が増したとも言える。
また、医師は登場人物の中で唯一、イリミアーシュと出会っていない存在としても特異。
そんな彼までもが、この現実から目を伏せ、時代の負の連鎖に飲み込まれ、人生の幕を閉じることとなる。
この意味は大きい。
直接的な要因がなくとも、その影響を受けて破滅することだってあるのだ。
また、部屋の窓を覆い隠し、傍観者でなくなった医師が暗闇でノートに書き記した言葉は、冒頭の状況と同じ内容。
つまり、この物語は12章のタイトル通り一旦【輪は閉じる】が、1章【やつらがやって来るという知らせ】に繋がる円環構造にもなっています。
まるで絶望に終わりはないといったメッセージを残すように・・・。
これって恐らく〈聖書の円環構造説〉になぞらえられているんですよ!!!
単なる「6歩前に、6歩後ろ」のタンゴのステップだけが円環の意味ではなかったんです!
アウグスティヌスの聖書解釈。
「新約は旧約の中に含まれており、旧約は新約の中で説明されている。」
フィリップ・ド・シャンパーニュによる肖像画。17世紀(1645年頃〜1650年頃)、ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵。アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語: Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)あるいはアウグウティノは、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派で聖人。母モニカも聖人である。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。
具体的に考察するならば
旧約聖書の"詩篇"では
「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。」
という言葉によって始まるのに対して
新約聖書の"マタイによる福音書"に記載されているイエスの十字架の死の場面では
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
という言葉によって終わりを迎えることになります。
今作『サタンタンゴ』における医師がまさにこの構造の核であり、一過性ではなく時間軸を超えた永遠の円環構造。
一つの視点で映し切り、それを傍観できる〈カメラ視点=観客視点〉は聖書を読み解く後世の人間たちの視点であるという時間軸を超えた二重構造。
9章【天国に行く?悪夢にうなされる?】でイリミアーシュが語った「永遠とは一過性であるものとは比較できないので永遠なのである。」という台詞さえもここで活きてくる。
今までを振り返って時系列順に並び替えた時、『サタンタンゴ』では恐らく3章の医師が双眼鏡で覗き込むシーンから物語は始まるんですよね。
あくまで雨が降り出すの時間軸ということで、ある程度は5章【ほころびる】の冒頭シーンと時系列が重なるかもしれませんが。
なぜ今作『サタンタンゴ』が医師の言葉で終わったのか、が漸く理解できた気がします。
聖書におけるイエス・キリストの十字架の死の瞬間こそが終わりと始まりの象徴だからなんですね。
タル・ベーラ監督は天才か!!!
痺れたね、いやー痺れましたよ。
恐らく、ここまで考察を進めてきて一番痺れた瞬間がここです(笑)
感想・総評
『サタンタンゴ』考察は以上となります。
ここからは個人的な感想・総評となります。
原作小説にはない冒頭の牛の長回しシーンで一気にこの『サタンタンゴ』の世界観へと没入させ、また原作小説にはない暴風の迫力のあるシーンではこれから何かが起こりそうといった不穏な空気をスクリーン全体から前面に押し出してくる。
小説では文章から情報を得られるが、映画では台詞よりもむしろ映像から得られる情報の方が多いんです。
これはTwitterにも書いたことなのですが
映画を観るという行為は基本的には客観視だと思うんです。
ただ、感情移入すること。
つまりは主観にどれだけその割合が傾くかでその映画の印象も変わってくる。
僕自身、両方の視点から観たいというちょっと欲張りなところがあって、却って気持ち悪いくらい俯瞰的に観ちゃうことがあるんですよね。
映画を観てる途中で気が付いたんですが、それと似た感覚になったのが今作『サタンタンゴ』のカメラ視点なんですよ。
登場人物の視点でも、鑑賞している自分の視点でもなく、そこから"大きく逸脱した"第三者視点。
聖書を下敷きにした人生の俯瞰、言い換えるならこのカメラが一個体とした傍観者なんです。
一発撮りのような無造作な映像を如何して意味のある映像として見せるか。
それが意味を持たせるような構成になっていること。
タル・ベーラ監督はそれをきっと知っているんだ。
感情は意味のないものに意味を持たせる、ということを。
我々がどう捉えるか、意味を見出すか否かは我々の視点なんだと。
一切の感情移入を許さないその徹底された客観視。
この超俯瞰的視点が秩序と自由、理想や希望、未来への期待、世界への絶望、といった何かしらの感情を抱かせ、それでも歩みを進める人間の生き様を映像から伝える。
鑑賞された方なら感じたと思いますが、今作『サタンタンゴ』が現在も尚、注目されているのはなにも438分という上映時間や150カットという突出した長回しだけではない。
勿論、その記憶に植え付けられるような長回しもその魅力が遺憾なく発揮される圧倒的な特徴の一つではありますが、その映像表現との相乗効果によって様々な視点から同じ時系列を反復して執拗に描き出す人物像、この何層にも重なる類稀な構成も傑作たる所以であると考えられる。
それを踏まえた上で
ひとつの画から何を読み取るのかは鑑賞者に委ねられ、人それぞれ受け取り方が違うのもこの映画『サタンタンゴ』の面白いところ、惹き込まれる魅力だと思います。
今作『サタンタンゴ』は鳴り響く鐘の音のように、いつまでも僕の心の中に留まり続けている。
終わりに
如何でしたか?
長々と語ってきました『サタンタンゴ』。
今回は聖書を下敷きに作られた物語ということで、一貫した神学的考察として書き上げましたが、ものすごく疲れましたね(笑)
殆どがこじつけではありますが、一つ一つの映像に想像を膨らませ、そこに意味を見出すことのできる非常に奥の深い映画となっております。
現時点でまだまだ上映される映画館もあると思いますので、二度と体験できないかもしれない貴重な映画体験を是非劇場で味わってください!
贅沢な時間になること、間違いなしです!
最後までお読みくださった方がどれほどおられるのかわかりませんが、ありがとうございました!