小羊の悲鳴は止まない

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沈黙は愛か罪か(『沈黙のパレード』ネタバレ考察)

目次




初めに

どうも、レクです。
今回は待望の「ガリレオ」シリーズ最新作『沈黙のパレード』について語っております。

原作を読み終えるまでは考察ブログを書けないなあと思ってたら、書き終わるまでに少し時間が空いてしまいました。



※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年︰2022年
製作国︰日本
配給︰東宝
上映時間︰130分
映倫区分︰G


解説

東野圭吾のベストセラー小説を原作に、福山雅治演じる天才物理学者・湯川学が難事件を鮮やかに解決していく姿を描く大ヒット作「ガリレオ」シリーズの劇場版第3作。
数年前から行方不明になっていた女子高生が、遺体となって発見された。警視庁捜査一課の刑事・内海によると事件の容疑者は、湯川の大学時代の同期でもある刑事・草薙がかつて担当した少女殺害事件の容疑者で、無罪となった男だった。男は今回も黙秘を貫いて証拠不十分で釈放され、女子高生が住んでいた町に戻って来る。憎悪の空気が町全体を覆う中、夏祭りのパレード当日、さらなる事件が起こる。
キャストには内海役の柴咲コウ、草薙役の北村一輝らおなじみのメンバーが集結。前2作に続いて西谷弘が監督、福田靖が脚本を手がけた。
沈黙のパレード : 作品情報 - 映画.comより引用




キャスト


映画『沈黙のパレード』公式サイト

湯川学(福山雅治)
内海薫(柴咲コウ)
草薙俊平(北村一輝)

並木祐太郎(飯尾和樹)
並木真智子(戸田菜穂)
並木佐織(川床明日香)
並木夏美(出口夏希)

戸島修作(田口浩正)
新倉直紀(椎名桔平)
新倉留美(檀れい)
高垣智也(岡山天音)
宮沢麻耶(吉田羊)

蓮沼寛一(村上淳)
増村栄治(酒向芳)




感想

本作『沈黙のパレード』は「ガリレオ」シリーズの劇場版第3作目ということですが、何を隠そう私レクのオールタイムベストにはその劇場版第1作目『容疑者Xの献身』が入っています。



劇場版第1作目『容疑者Xの献身』も、劇場版第2作目『真夏の方程式』においても、そして本作である劇場版第3作目『沈黙のパレード』にしても、殺人において"愛か罪か"が問われるものとなっております。


Twitterに上げた感想はこちら。



この感想を更に詳しく掘り下げていきます。




考察

さて、早速本題に入っていきましょうか。

今回は、この事件を追うことで見えてくる対比構造が創り出す複雑なパズルについて、原作との相違、個人的な意見を交えつつ考察していこうと思います。



事件の概要としましては

突然行方不明になった町の人気娘・佐織が、数年後に遺体となって発見される。
容疑者はかつて草薙俊平刑事が担当した少女殺害事件で無罪となった蓮沼貫一。
しかし、今回の佐織の事件も証拠不十分で処分保留のまま釈放されてしまう。
更に蓮沼が遺族たちの前に現れたことで町の空気が変わっていく。

そんな中、かつて佐織の歌で町中を熱狂させたパレードの日がやってきた。
パレード当日、起こった復讐劇は誰がどのような手口で成し遂げたのか?





・単独犯と共犯

自白至上主義の日本警察が生み出した黙秘の怪物と殺人事件の自首。

刑事を父親に持つ蓮沼は、自白させたことを自慢気に語る父親の話をよく聞かされていました。
よって、自白が起訴に繋がる→自白しないことで罪に問われない という心臓に毛が生えたような…いや、原作の言葉を借りるなら毛ではなく針金ですか。
そんな日本警察の悪しき風習が生み出した現代のモンスター。
沈黙とは当初、蓮沼のことだとミスリードされる。


しかし、パレード当日、蓮沼が遺体となって発見されました。
蓮沼は本当の意味で沈黙することになりました。

死因は窒息死。
ただ、絞殺や扼殺されたような外傷はなく、溢血点が少ないなどの不審な点から大学教授となった湯川学が捜査に加わる。

溢血点とは、毛細血管の破綻によって生じるアズキ大以下の小出血。
窒息死の診断上、重要な症状とされていて
毛細血管内圧の上昇、低酸素あるいは無酸素状態による毛細血管壁の透過性の亢進などが成因と考えられます。


当初、秘密の小窓(扉の隙間)からヘリウムガスを注入し、室内の酸素濃度を下げるという仮説が持ち上がる。

これは死刑執行に見立てたもので、日本は絞首刑。
アメリカでは電気椅子、薬殺刑、ガス室を使っていた州もある。
絞首刑(窒息死)とガス室の要素を掛け合わせた復讐方法ということでしょう。
また、蓮沼に恐怖を与えるための密室トリックとも考えられます。


「蓮沼がヘリウムガスを吸って高い声を上げながら苦しみ悶えて死ぬとなったら、沈黙とは真逆の何て滑稽な殺害方法なんだろう…」

なんて僕のユーモア性が滲み出た思考を垂れ流していたら、結局使われたものは液体窒素でした(笑)



ちなみに、本作『沈黙のパレード』では流石に言及されることはありませんでしたが、原作では実にユーモアの効いたやり取りがあるんですよ。

それがパレードの演目の曲などの著作権について。
例えばディ◯ニーのアラ◯ンやアル◯スの少女ハ◯ジなど。
菊野市の出し物としては著作権フリーのものを使用するこだわりがあると語られていました。

殺人事件が明らかになったが、犯人を取り押さえられない。
著作権に抵触するのは明らかだが、パレード演目を取り締まれない。

この犯罪に対するグレーゾーンに関してもジワジワと効いてきます。



パレード当日の蓮沼殺害の経緯としましては

パレードでロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』をモチーフに菊野市は演目を行いました。
楽曲は新倉直紀作曲のものを使用。
加工食品を扱う会社トジマ屋フーズ社長である戸島修作が液体窒素を用意し、新倉直紀がパレードに使われた金塊の箱に詰め、菊野市の演目によってゴール地点まで運び、それを高垣智也が蓮沼の家の前まで運んで並木祐太郎がその液体窒素を手に蓮沼を自白させるという計画でした。


単独犯ではなく町人ぐるみの共犯ということで捜査が難航するわけですね。
所謂『オリエント急行殺人事件』と似た手口です。
町人たちは沈黙を貫きます。

この沈黙は、並木佐織に対する愛なのか、それとも蓮沼殺害の罪なのか。

ここではじめて、タイトル『沈黙のパレード』の意味を我々は知ることになるんですね。


しかし、計画は崩れます。
並木家が経営する「なみきや」にパレードの最中に来ていた女性客が突然の腹痛を訴えて病院に付き添うというトラブルが起きる。
戸島は中止を提案するが、新倉が祐太郎の代わりを務めると申し出て蓮沼が佐織殺害の自供をしたことを聞いて殺害。
その後、新倉は警察に出頭します。


その前に、高垣や戸島の事情聴取もされていましたが、高垣が取り調べの圧力に負けて本音を吐いてしまうシーンも実はかなり重要なんです。

というのも、原作では高垣には当初から追い詰められたら本当の事を話していいと戸島に言われています。
なぜなら、彼の行動は罪に問われるものではないから。

そう、ここが単独犯と共犯の差ですね。
また、警察の取り調べで自白してしまうが町人たちを逮捕できないということは、かつての日本警察の自白至上主義への皮肉にもなりますね。


蓮沼は沈黙を貫いたのに対して、新倉は自白する。
蓮沼が並木佐織を殺害したことを認めたために殺してしまったと。

警察としては自白された以上はそれがたとえ嘘であってもそれを有耶無耶にはできない。
蓮沼と新倉の沈黙と自白の対比が事件を更にややこしくしていきます。

実は更に貫き通された沈黙が…
ともうひとつ展開があるのですが、これ以上言ってしまうと面白くないので伏せておきますね。



新倉の犯行に関しても原作から簡素化された形で劇場版では描かれています。

秘密の小窓(扉の隙間)から液体窒素(当初はヘリウムガス)を部屋に充満させて窒息死させるという湯川の仮説。
液体化させれば体積は20リットルで済み、運び出すことは可能だと。

この秘密の小窓のことを原作では『ユダの窓』と表現されています。
『ユダの窓』とは、アメリカの本格推理作家ディクスン・カーの代表作で、密室トリックに正面から挑んだ本格推理。
密室にいる人間に何らかの影響を与えることができるという意味合いがあります。

作中によると「監房の扉についておって、看守などが、中の囚人にさとられないようにのぞきこんだり調べたりするための、蓋のついた小さな四角いのぞき窓のこと」

事件発生時、観客は囚人(本作でいうと蓮沼)と同じ視点であり事件の全容は見えない。
しかし、探偵(本作でいうと湯川)の推理によって観客が看守(本作でいうと新倉)と同じ視点を獲得することで、その全容が見えてくる。

この視点の移動、至ってシンプルな構造こそが密室トリックにおいて最も重要なことなんです。



原作ではその後、捜査員が草むらで窒素ボンベを見つけ、そのボンベが入れられていたビニール袋から蓮沼の髪の毛が2本見つかったというもの。

本作『沈黙のパレード』ではヘリウムから液体窒素へと仮説が進み、その中間がバッサリと切られています。


その弊害として、内海と湯川によるこの視点の違いによる意見交換シーンがないということ。
それは刑事と科学者という立場の違い、ないし蓮沼殺害に対する犯人の思惑のヒントが散りばめられていたから。
また、ボンベが見つかったことで捜査が撹乱されるフェイク、且つ「なみきや」の常連客のアリバイ工作にもなっています。

そして、何より内海薫という女性刑事の鋭い視点が冴える場面でもあるんですよね。
これによって事件解決へ、視点が移動することになります。
ここで複雑なパズルのピースを組み立てる湯川の頭の中で「そのピースは過去にしか存在しない」と23年前の本橋優奈ちゃん事件との関係を探ることになっていきます。


劇場版『沈黙のパレード』において、後半のミステリとしての弱さはやはり観客に推理させる伏線と推理を裏切るような展開を取り除いて簡略化されてしまったためでもあると考えられますね。

ただ事件として重要なのは、被害者だけでなくその被害者遺族、及びその周りの人間でさえも被害者になり得るということ。
不幸の連鎖と表現されるように。





・一回性の原則と検察審査会

一回性の原則とは、ひとつの犯罪行為に対して、逮捕・勾留は原則一回のみとするもの。

蓮沼の犯罪行為、本橋優奈ちゃん事件では無罪となっており、並木佐織事件では処分保留に。
つまり、今後決定的な証拠が出てこない限りは蓮沼は逮捕・勾留されることはないということ。


検察審議会とは、処分保留となった加害者及び司法に対する被疑者の最後のあがき。
不服であれば複数回申し出ることも可能です。


法で裁けない犯罪行為に対して、国民が手を下すことは肯定できません。
しかし、明らかに犯人だと思われる加害者を裁けないもどかしさ、被害者の思いというものは理解しようにも当事者でない限りは理解できないと思います。

だからこそ、結果的には「よかったね」で片付いてしまう物語の着地点は色々と勿体無いなあと思ってしまう。
何より、どれだけの悪人であっても蓮沼貫一というひとりの人間の命を奪った罪に問われなかった(直接関与はしていない)共犯者が日々の生活を送る姿に素直に清々しい気持ちになれなかったというか…。
それならば、街全体が罪悪感を抱いたまま、新倉が犯行に至った経緯そのままで突っ走ってほしかった(バレットの件はなくてよい)なんて捻くれた想いまでありました。

が、しかしながら鑑賞後に自身の考えをこうしてまとめていると、やはりアレでよかった…いや、むしろ素晴らしい幕切れなのでは?とさえ思えてきました。


劇場版第1作目『容疑者Xの献身』も、劇場版第2作目『真夏の方程式』も愛と罪、そこには"罪悪感を払拭し罪を償う(背負う)"という裏テーマがあります。

そう、本作『沈黙のパレード』のキーパーソンは間違いなく草薙。
彼が15年前に抱えた罪の意識を、町人たちの普段の生活に戻ったあの姿を見て今やっと漸く贖罪という形で払拭することができるのだから。





・愛と罪

着目したいのは、劇場版第1作目『容疑者Xの献身』との関係性です。
最後に、これを語っておかなければこの物語を深くは理解できないと思います。

少しだけ『容疑者Xの献身』の内容にも触れていますので、ご注意ください。


本作、劇場版第3作目『沈黙のパレード』は湯川学と内海薫のコンビで序盤から動いていきます。
しかし、原作では内海と湯川の再会は中盤以降。
「血も涙もない」で内海と言い争った喫茶店の再会シーンも原作では草薙俊平と湯川のやり取りとなっていて、いつも警察の捜査に無関心、非協力的な湯川が草薙の友人として捜査に協力する流れとなっています。

原作では、草薙に聞いた「なみきや」の話から、湯川はそこの常連客となります。
これも警察の捜査には興味のない湯川が、草薙という友人関係にあるからこそ、自ら動いたとも取れます。


更に、警察側、蓮沼貫一、菊野市の各登場人物にスポットを当て、その人物像、バックグラウンドを描くことで人物相関図を肉付けしています。

この点が冒頭の疾走感の良い編集、メリットとして受け取ることもできますし、回想で一瞬で流れてしまって町人の想いのようなものがあまり観客に伝わらない映像化する上での時間制限のデメリットでもあります。

ただ、原作のようにだらだら流されても映像的に持たない。



町人や草薙よりも出番を増やして、内海がヒロインの立ち位置として進行するというTVドラマシリーズの呪縛を良い意味でも悪い意味でも演出面でメリットとして本作は捉えています。

そのひとつが内海と湯川の出会いのシーン。
シャボン玉を興味深く眺める湯川を微笑ましく内海が見つめる。
TVドラマシリーズを観ている方には「ガリレオのあのコンビが帰ってきた!」と思わせる安心感がハンパない。

これは「ガリレオ」2クール目及び劇場版第2作目『真夏の方程式』で柴咲コウから吉高由里子へとバトンタッチしたあのガッカリさを埋めてくれるものでもある。

また、内海と湯川の掛け合い、やり取りや捜査中に見せる視点の違い、これまで湯川とコンビを組んできた内海という人物だからこそのあのユーモアな空気感がしっかり生きていたと思います。


何度も言うようですが、あくまで『沈黙のパレード』のキーパーソンは草薙俊平。
警察や司法の在り方、善悪の境界線、愛や罪とは何か。
被害者への想いと自身の責任を一身に背負う。

もうひとりのキーパーソンは殺人事件の容疑者であり、復讐劇の被害者でもある蓮沼貫一。
警官を父に持ち黙秘を貫き通す、自白至上主義であった当時の日本警察が生み出したモンスター。


その蓮沼貫一の手によって殺された(であろう)被害者・並木佐織。
「ガリレオ」シリーズを通して福山雅治さんが楽曲を手掛けていますが、本作『沈黙のパレード』の主題歌『ヒトツボシ』。

「舟は かなしみの海を漕ぐ」
なんて歌詞もありますが、並木佐織への想いから漕ぎだした舟は沈黙のパレードで宝島を目指す。

『ヒトツボシ』の歌詞は並木佐織への鎮魂歌だと公言されています。



それが流れるエンディングで劇場版第1作目『容疑者Xの献身』の映像が流れただけでちょっとウルッときましたね。
真実を追究する科学者として、そして真実を知った親友として、あの湯川の姿がとても印象に残ります。



このように、原作とTVドラマシリーズである「ガリレオ」の双方を加味した上で、草薙の親友としての湯川学という人物像へフューチャーした形で本作『沈黙のパレード』は舵を切ったことがよくわかります。

上記の蓮沼殺害のトリックでも語りましたが事件を簡略化しドラマ性を追求したことで、ミステリとしての裏切りは弱いが情感を揺さぶるには十分な材料が揃っています。
上記にも書きましたが、湯川と草薙の関係で見ればとても良い終わり方だったと思います。

とはいえ、やはりミステリ要素の簡素化から結末のインパクトの弱さは否めない。
ラストに全振りして感情をぶつけてきた『容疑者Xの献身』と、冒頭からじわじわと刺激する本作『沈黙のパレード』ではやはり前者に軍配が上がるというのが個人的評価です。

これは
登場人物の多さも関係していて、『容疑者Xの献身』に比べて『沈黙のパレード』では感情移入する対象の数が多く(または登場人物たちの描き込みが少ないため)、その感情移入する度合いも浅くなってしまったように思う。



そう、この物語は被害者・並木佐織とその遺族、及びその周りの人間たちの愛と罪を加害者・蓮沼貫一との対比構造で描きながら、刑事としての責任を負う草薙の葛藤や苦悩を重ね合わせ、更にはその親友を支える湯川学が決断を迫られるという多重構造になっているんです。

個人的に評価している点は、正にここで。
何度も言いますが、その原作改変によるデメリットをメリットに変換しています。
これまで変人だなんだと言われてきた湯川が一番マトモに見えたのも、人間味を感じられたのも、すべては『容疑者Xの献身』から繋がっている…湯川学という人物にスポットを当てて見るとかなりエモーショナルなわけです。


『容疑者Xの献身』はTVドラマシリーズの人気にあやかった初の劇場版として売り出されています。
そして、湯川学と対等に戦える天才数学者・石神という人物像にフューチャーすることで、友人である湯川の人間性が表面化してくるという形になっていました。

最後の選択も石神の選択ではなく、湯川が仮説と検証を重ねて証明し、真実が暴かれることで情感を揺さぶる形となっています。


湯川は『容疑者Xの献身』の事件によって、理屈では説明できない人の感情というものを理解しようとしました。
石神に関して湯川が「殺人を犯すような人間ではない」と言ったのがそれです。

そして、『沈黙のパレード』では当時の湯川自身と比較して人の感情を理解できてしまうからこそ、湯川は感想と理性の間で板挟みとなり葛藤します。



それは被害者の感情と警察官としての職務の間で揺れる草薙も同様です。

『容疑者Xの献身』に登場する石神同様に、草薙もまた湯川と同じ大学の出身です。
『容疑者Xの献身』では理論でしか考えられなかった湯川が石神を通して人の感情を知り、本作『沈黙のパレード』で草薙が過去の自分のようになっては欲しくないと考えます。

劇中でも湯川は「あの時のようにはしたくない」といった言葉を内海に溢していました。

つまり
『容疑者Xの献身』が在るから『沈黙のパレード』が在ると言っても過言ではない
ということです。



湯川は草薙と友人同士の関係性であり、湯川の推理によって事件解決しますが、最後の選択は草薙に委ねられました。
実はこの場面で湯川が草薙にかける言葉は原作にはないものです。

劇場版としてのこの原作改変は
TVドラマシリーズから劇場版第1作目『容疑者Xの献身』の経験を経て人として成長した湯川学という男が、罪の意識を背負った親友・草薙に向けて出した愛の決断。
主要キャラ側から見ても正しく、過去の劇場版を踏襲した愛と罪の物語なんです。



ちなみに、ほとんど触れてきていませんが、劇場版第2作目『真夏の方程式』は劇場版第1作目『容疑者Xの献身』の二番煎じ、何より道徳的に嫌いなので個人的には評価に値しません。

またTVドラマシリーズ2クール目の劇場版として売り出された作品で、本作『沈黙のパレード』のエンドロールで映像は流れるものの本作との関係性は薄いので特に観なくても問題はないです。

が、湯川が科学者だけでなく人間として他人とコミュニケーションを取る姿は本作『沈黙のパレード』にも繋がる部分ではあると思います。
『真夏の方程式』自体も愛と罪をテーマにした切ない物語であることは確かなので、これを機に未鑑賞の方は観てみるのもいいのではないでしょうか。


終わりに

ということで、『容疑者Xの献身』は越えられなかったがひとつの映画としても、TVドラマシリーズものの延長としても楽しめる作品でした。

個人的には
『容疑者Xの献身』、『沈黙のパレード』、『真夏の方程式』
の順番で好きです。

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2022「沈黙のパレード」製作委員会