小羊の悲鳴は止まない

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‪神の沈黙という声(「沈黙 -サイレンス-」ネタバレ感想)

目次




初めに

どうも、レクです。
皆様、如何お過ごしでしょうか?
私は元気です。

今回はマーティン・スコセッシ監督作『沈黙 -サイレンス-』について語っております。

よろしくお願いいたします。




作品概要


原題︰Silence
製作年︰2016年
製作国︰アメリカ
配給︰KADOKAWA
上映時間︰162分
映倫区分︰PG12



解説

遠藤周作の小説「沈黙」を、「ディパーテッド」「タクシードライバー」の巨匠マーティン・スコセッシが映画化したヒューマンドラマ。キリシタンの弾圧が行われていた江戸初期の日本に渡ってきたポルトガル人宣教師の目を通し、人間にとって大切なものか、人間の弱さとは何かを描き出した。17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したとされる師の真相を確かめるため、日本を目指す若き宣教師のロドリゴとガルペ。2人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという日本人を案内役に、やがて長崎へとたどり着き、厳しい弾圧を受けながら自らの信仰心と向き合っていく。スコセッシが1988年に原作を読んで以来、28年をかけて映画化にこぎつけた念願の企画で、主人公ロドリゴ役を「アメイジング・スパイダーマン」のアンドリュー・ガーフィールドが演じた。そのほか「シンドラーのリスト」のリーアム・ニーソン、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」のアダム・ドライバーらが共演。キチジロー役の窪塚洋介をはじめ、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシといった日本人キャストが出演する。
沈黙 サイレンス : 作品情報 - 映画.comより引用




感想

排他的で閉鎖的な江戸時代、日本の教科書に"踏み絵"という簡単な言葉で記載される禁教令、キリスト教弾圧の時代を背景に、原作者である遠藤周作が弱者救済という確固たる意図を持って書かれた作品。
神の沈黙と信仰心の揺らぎは、思想や信仰の在り方の多様性を肯定する。


上映時間に対して体感時間は短く、それだけこの世界観と重厚な雰囲気に惹き込まれたのだろう。
日本人だからこそ、この作品を観るべきではないでしょうか。

想像させる演出はあくまで想像の上でしか成り立ちません。
言葉や映像でわかりやすく演出してくれるスコセッシ節の技量が活かされる今作はしっかりと丁寧に描くことで事実を事実だと伝えることに重きを置かれていますね。


では以外、ネタバレ感想、考察となります。




考察

『沈黙 -サイレンス-』は冒頭にあったような唯一無二の信仰の押し付けではなく、現代にあった信仰の多様性の在り方を肯定した作品ではないだろうか。


各々の宗教の相違から分裂を生んだ4つの信仰の形。

教えを元に布教活動する者。
異教と化した宗教紛いに縋る者。
教えに対する裏切りと赦しを繰り返す者。
現実を受け入れ棄教した者。

それに対して、人間の苦難に沈黙を続ける神の存在。


沈黙とは、単に"黙っている"だけではなく、"意図として発言しない"ということを表しています。

そこには様々なメッセージが隠されています。
"神の沈黙"は上記で述べた4つの信仰の元では受け取り方に大きな違いが生じると思われる。




・ロドリゴと神

主人公であるロドリゴは「苦難を信徒達に与えるのか?」と現実と理想のズレに絶望し、神の存在を、信仰心の揺らぎを覚えます。

この絶望は踏み絵のシークエンスに繋がり、自分の信仰する西洋的な形(理想)を踏み絵という行為で背き、ある種のカタルシスを覚え、日本のキリスト教の在り方(現実)に向き合ったと解釈しました。
簡単に言えば、自分の描くキリスト像の変化を示しています。

この流れからも、ロドリゴが神の声を聞くシーンはただただ違和感しかありませんでした。
これはロドリゴ自身の内なる声であってもなかなか理解に苦しむ。

スコセッシの悪い癖と言いますか、わかりやすい表現、演出を見せるが故のあからさまな演出。
この作品において、このようなわかりやすい形での神の啓示や救いを見せるべきではなかったと思います(個人的な意見)。


ラストの火葬されるロドリゴの手に見えた十字架。
これは棄教した彼の最後まで貫いた信仰心を表していると思われる。
これはあくまで今まで信じてきたキリスト像ではなく、踏み絵後に描いた日本的キリスト像なのだろう。

このラストの些細なカタルシスが悲壮感や哀愁を齎せてくれる。
実際に、鑑賞した後の余韻は凄まじく、正にロドリゴは神が見えていたかのように哀しくも清々しさで満ち溢れていた。




・キチジローの立ち位置は?

注目した人物キチジロー。
彼はキリストにおけるユダ的な立ち位置なのか?

ユダとは、新約聖書の4つの福音書、使徒行伝に登場するイエスの弟子のうち特に選ばれた12人、いわゆる使徒の一人である。
ユダはイエスに対する信仰心を持たず、信仰告白と忠誠を誓わず沈黙しています。
しかし、一方で"ユダの福音"には、ユダは12使徒の中で最も信仰心が篤く素質があったとされています。

"ユダの福音"はグノーシス主義の考えが強く反映されており、精神と物質を善と悪として対置させるその根本的な思想に基づいて、イエスを捕まえ、悪である肉体から解放させた称賛すべき者としてユダを描いています。
実はキリストとユダとの間には常人には理解し難い信頼関係や愛があったのかもしれません。

キチジローは何度も裏切り、赦しを請い、人の醜さ、弱さを見せます。
この弱さは神を信じる信じないの中で最も人間らしかったとも言えるのではないでしょうか?
ユダはキリストを裏切る際に接吻をします。これは予め伝えておいた合図です。
キチジローも、何度も裏切り(接吻にあたる)神父に赦しを請います。
神父は告解を拒んではならない決まりがあるのを知っているからです。

そして、キリストがユダに言った台詞をロドリゴがキチジローに言わんとする描写。
キリストとユダが仮にも常人には理解し難い愛で繋がっていたとするのならば、ロドリゴがキチジローに対して諭した赦しも頷ける。
この事からもユダのメタファーではないかと推測されます。
ロドリゴの言葉がキチジローの存在意義であり、弱さの肯定に繋がると思います。


『沈黙 -サイレンス-』は遠藤周作が弱者救済という確固たる意図を持って書かれた作品で、彼の弱者への思いを汲み取れる描写ではないだろうか?
そういった意味でも、キチジローは作者自身を映し出す鏡のようなものではないだろうか。




・神の声について

劇場2回目の鑑賞で、無神論者である自分の価値観ではなく、あくまで客観視で見るとまた違った印象を受けました。

上記でも述べたように、1回目の鑑賞では神の啓示があからさまな描写だと指摘しました。
しかし、信仰心の揺らぎを覚え、"神の沈黙"に疑問を持ったロドリゴが本当に神の存在を信じることが出来たという描写の表れなんですね。


ロドリゴの踏み絵のシークエンスから。
彼が踏み絵を行った瞬間の「司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」について自分は仏教(日本における信仰概念)で輪廻転生を暗に意味していたと感じました。

朝が来るとは日の出。つまり、大日で日本における神の御子。
鶏の鳴き声は生まれ変わりを示唆します。
彼の中における信仰の変化ですね。


日本国における仏教の教えに諸行無常という言葉があります。
これは自然とは命あるもの。命あるものは儚くいずれは必ず消えてしまう。というもの。
そして、命あるものは生まれ変わる。輪廻転生です。

「山鳥の ほろほろとなく 声きけば
父かとぞ思う 母かとぞ思う」

行基菩薩の和歌の一句。

山鳥が鳴く声を聞いて、輪廻転生は人間だけでなくもしかすると父か母の生まれ変わりかと思う。という意味です。
これが今作『沈黙 -サイレンス-』では"鶏の鳴き声"にあたるのかなあと。

"山川草木悉皆成仏"という仏教の思想、みな平等で生けとし生きるものが寄り沿い合う"法華経"の世界観、"八百万の神"といわれるような日本の神々の思想が融合され、日本の仏教が形成されています。


このことからも、フェレイラの「自然の内でしか信仰を見出せない」という言葉が頷けます。
作中の自然描写、オープニングとエンドロールに常に流れる自然の音。
まさに核心をついた一言だと思いました。




自分の中でしっくり来たということは是非は兎も角として個人的に『沈黙 -サイレンス-』が語るメッセージを受け取れたということなのではないか?

あくまでもこれは個人的な見解なので答えではありません。
これこそ、まさに宗教の思想と同じではないでしょうか。

如何様にも取れる解釈と思想や信仰の在り方に正解は無いのです。




終わりに

ということで、ダラダラと語ってきましたが
まだちゃんと語っていない好きな映画は沢山あります。

新旧問わずTwitterなどで物足りなくなった時、このような形ではありますが発信させていただこうかなと思いますのでよろしくお願いします。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



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