小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

正義を貫くトリプルフェイス(「名探偵コナン ゼロの執行人」ネタバレなし)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「名探偵コナン ゼロの執行人」について語りたいと思います。

映画「ゼロの執行人」のネタバレはありませんが、名探偵コナンの原作コミックス及び前作までの劇場版名探偵コナンのネタバレは含みます。
未読、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:110分


解説

青山剛昌原作の人気アニメ「名探偵コナン」の劇場版22作目。サミット会場を狙った大規模爆破事件を発端に、コナンと公安警察が衝突するストーリーが展開し、劇場版20作目「名探偵コナン 純黒の悪夢(ナイトメア)」に続き、謎の男・安室透がメインキャラクターとして登場する。東京で開かれるサミットの会場となる東京湾の巨大施設「エッジ・オブ・オーシャン」で、大規模爆破事件が発生。事件の裏には、全国の公安警察を操る警察庁の秘密組織・通称「ゼロ」に所属する安室透の影があった。サミット当日ではなく事前に起こされた爆破事件と、安室の行動に違和感を抱くコナン。そんな折、爆破事件の現場から毛利小五郎のものと一致する指紋が発見され……。監督は前作まで計7作の劇場版「コナン」を手がけた静野孔文から、新たに「モブサイコ100」「デス・パレード」の立川護にバトンタッチ。
名探偵コナン ゼロの執行人 : 場面カット - 映画.comより引用


予告編





トリプルフェイスの男

まず初めに、今作「ゼロの執行人」のメインキャラクターでもある安室透について書いていきます。



・安室透

29歳の独身。右利き。
名前の由来は、『機動戦士ガンダム』の登場人物であるアムロ・レイとその担当声優である古谷徹



・一つ目の顔【私立探偵 安室透】

初登場は原作コミックス75巻 第667話「ウエディング・イブ」。

毛利小五郎を麻酔銃で眠らせ、推理するコナンの姿に気づくほど洞察力と観察力に優れている。
毛利探偵事務所と同じビルのある事務所下の喫茶ポアロで働きながら、毛利小五郎の弟子入りする形でコナンと接点を持つ。
アニメ版では料理も得意。



・二つ目の顔【黒の組織 バーボン】

原作コミックス78巻 第701話「漆黒の特急(ミステリートレイン)」。

黒の組織ではバーボンというコードネームを与えられ、探り屋として活動している。
愛車は白のマツダRX-7
劇場版名探偵コナン第20作目『純黒の悪夢(ナイトメア)』でも、今作『ゼロの執行人』でも、そのドライブテクニックを見せる。



・三つ目の顔【公安警察 降谷零】

原作コミックス85巻 第779話「緋色」編。

本名、降谷零。
黒の組織に潜入している公安警察官。
警察庁警備局警備企画課(通称ゼロ)所属。
頭が良く、洞察力に優れる他、公安警察独自の高い情報力を誇る。
警察学校在籍時の成績は常にトップの優等生。



・他キャラクターの繋がり

元警視庁捜査一課刑事の伊達航(高木刑事の教育係)とはその時の同期で、長らく音信不通でありながらも、互いを気にかける友人同士。
また、殉職した元警視庁捜査一課刑事にして爆発物処理班に所属していた経歴も持つ松田陣平(佐藤警部補の元恋人)とも警察学校時代の友人で、彼に爆弾解体の方法を教えられている。

生前の宮野厚司、エレーナ、明美とも面識があり、シェリー(灰原哀:本名宮野志保)の家族とも何かしら接点がある。

黒の組織のボスとベルモットとの間に"重大な関係"がある事実を突き止めており、この"重大な関係"を組織内に知られるとベルモットにとっては不都合な事態となってしまうことから、このことをネタに彼女に対して個人的な取引を何度か行っている。

FBI捜査官の赤井秀一(ライ)とは黒の組織への潜入捜査中からのライバル関係にある。
「あれ程の男なら(スコッチに)自決させない道をいくらでも選択出来ただろう」として赤井の実力を認めてもいたが、同僚であったスコッチが死亡する一因となった赤井やFBIのことを憎んでいる。



トリプルフェイスであり、警察組織、FBI、黒の組織など幅広い顔と情報網を持つ。
赤井秀一曰く「敵に回したくない男の一人」と評される。



ゼロの執行人

本作「ゼロの執行人」のゼロとは
警察庁警備局警備企画課の通称。

公安警察としての安室透(降谷零)の姿が描かれる今作は安室透ファンには堪らない作品になっているのではないでしょうか。


前作までの劇場版名探偵コナン作品の中でチェックしておくべきは『純黒の悪夢(ナイトメア』だけで十分でしょう。

ただ、本作の強みはコナンを知らなくても単純に警察組織を扱った作品としても楽しめる点です。

"善"と"悪"の境界線、安室透の自分の正義を執行する物語となっています。



一方で、話の内容は小難しく、子供向けではないと思います。
従来の劇場版名探偵コナンは子供も大人も楽しめる使用でしたが、今作「ゼロの執行人」は大人向けと言えます。

主人公はコナンなので、いつものキック力増強シューズとボールを蹴るシーンもあるのですが、あくまでも安室透をメインに描かれています。



また、あらすじと予告編から
事件現場からは毛利小五郎のもの一致する指紋が発見され、逮捕されてしまう。

アニメ「容疑者・毛利小五郎(前編/後編)」も観ておくと楽しめるかもしれませんね(笑)



名探偵コナン」に求めるもの

ここからは「名探偵コナン」に対する個人的な意見です。


原作「名探偵コナン」では新一と蘭、平次と和葉、小五郎と妃、警視庁…様々なラブコメが描かれています。

青山剛昌先生がラブコメ大好きなので、やりたいだけ感はありますが、「名探偵コナン」は様々な事件を絡めつつ黒の組織との対峙の中にラブコメを描いた作品。

ミステリー漫画として売り出している以上、本筋は黒ずくめの組織との対峙、事件解決と推理がメインなのは仕方ないのですが

自分は「名探偵コナン」はラブコメありき、むしろラブコメのない「名探偵コナン」は「名探偵コナン」ではないと思ってます。

はっきり言って極論ですが、そこに自分は「名探偵コナン」の魅力を感じるのです。



新一はAPTX4869という黒の組織が開発した新種の薬を投与され、幼児化してしまった。


江戸川コナンとして事件解決していく中で、新一がコナンとして生きいていくという現状は新一と蘭のラブコメは平行線のままなんですよ。

しかし、原作や映画でも何度かコナンから新一の姿に戻ったり、声だけでも蘭の傍に寄り添う。
本来進展しないはずのラブコメが進展していく様、お互いの気持ちを素直に言えないもどかしさが最大の魅力だと思っています。

今作「ゼロの執行人」でも、コナンは蘭のために行動します。
そこに感動を覚え、ハラハラドキドキさせられるのです。


また、自分が好きなキャラクターでもある平次と和葉。
この二人のラブコメも新一と蘭同様にもどかしさがドキドキさせてくれるんですよね。


個人的劇場版名探偵コナンベスト3
①「から紅の恋歌
②「迷宮の十字路」
③「ベイカー街の亡霊」

①②は平次と和葉を描いた作品です。
勿論、新一と蘭のラブコメも進展していく。
ブコメあっての「名探偵コナン」なのです。



では、今作「ゼロの執行人」はどうだったのか?
正直、ラブコメ要素は少なめです。


故に自分の好みとしてはそこまで評価していませんが、作品の出来としては申し分ないと思います。

純粋にこの映画を観るなら楽しめるでしょう。



終わりに

主題歌を担当されたのは福山雅治さん。
【零-ZERO-】

こちらも、コナンと安室透、「ゼロの執行人」を意識した歌詞になっています。


毎年恒例!
劇場ED後の映像で次回作の予告がありますので、最後まで席を立たないことをお勧めします!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2018 青山剛昌名探偵コナン製作委員会

弁論術で魅せる肉体のコミュニケーション(映画「娼年」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は先日鑑賞した「娼年」について語っています。

昼間から下ネタ全開の記事を投稿することをお許しください(笑)
この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:ファントム・フィルム
上映時間:119分
映倫区分:R18+


解説

「娼夫」として生きる男を主人公に性の極限を描いた石田衣良の同名小説を、2015年に上演した舞台版が大きな反響を呼んだ監督・三浦大輔×主演・松坂桃李のコンビで映画化。大学での生活も退屈し、バイトに明け暮れ無気力な毎日を送っているリョウ。ホストクラブで働く中学の同級生シンヤがリョウのバイト先のバーに連れてきたホストクラブの客、御堂静香。彼女は秘密の会員制ボーイズクラブ「パッション」のオーナーで、恋愛や女性に興味がないというリョウに「情熱の試験」を受けさせ、リョウは静香の店で働くこととなる。「娼夫」という仕事に最初は戸惑うリョウだったが、女性たちひとりひとりが秘めている欲望の奥深さに気づき、そこにやりがいを見つけていく。リョウは彼を買った女性たちの欲望を引き出し、そして彼女たちは自分自身を解放していった。
娼年 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編




パイドロス

先ずはTwitterの投稿から。




こちらでも記載したように、「娼年」と「パイドロス」の関係性について考えていきます。

なんだかパイドロスって、いやらしい言葉に聞こえてきませんか?


パイドロス(古希: Φαῖδρος、英: Phaedrus)
プラトンの中期対話篇の1つであり、そこに登場する人物の名称。副題は「美について」。

前半は「恋」(エロース)についての3つの挿入話にその記述の大部分が割かれ、対話の大部分は後半に展開される。
表面的な議題としては、「恋」と「弁論術」が出てくるが、最終的にそれらは「哲学(者)」という隠れた主題に回収・統合されることになる。

パイドロス - Wikipediaより引用



パイドロス」はソクラテスパイドロスと出くわす場面から話が始まるんですよ。
恋(エロース)の話について2人はイリソス川に入って川沿いを歩き、プラタナスの木陰に腰を下ろし、語らい合う。
その語らい合いと2人がそこを立ち去るまでが描かれています。


パイドロス」は弁論術として描かれ、この作品は「娼年」での領のセックスに反映するものです。

では、弁論術とは何か?
アリストテレスによって書かれた著作があります。
その中の説得に着目してみましょう。

三種の説得手段

本書では、説得のあり方について、以下の3つの側面から考察されている。

logos(ロゴス、言論) - 理屈による説得
pathos(パトス、感情)- 聞き手の感情への訴えかけによる説得
ethos(エートス、人柄)- 話し手の人柄による説得
上記した通り、アリストテレスはこの3つの内、logos(言論)を中心に据え、最も多くの記述を費やしているが、pathos(感情)やethos(人柄)の側面についても、それなりの記述を費やし、説明している。

弁論術 (アリストテレス) - Wikipediaより引用


恋愛映画、特に性描写を写す映画にとって、セックスは重要なコミュニケーションのひとつでもあるが、愛情の可視化として描かれることが多い気がします。
それはあくまでも男と女の関係性を深める為の手段であり、過程でもあり、愛の再確認でもある。



一方で、本作「娼年」におけるセックスは弁論術として見せるものです。

肉体を交えるコミュニケーションが会話や対話として描かれているんですよ。

言論、感情、人柄、この三種の説得手段を併せ持つセックス。
ここに単なる肉体のコミュニケーションに留まらない心理描写が生まれるわけです。

それがあるからこそ、セックスシーン以外のシーンでもその心理描写が活きてくるわけですね。



人と人との関係性を築くには、先ず会話をしなければ始まりません。
劇中も冒頭からベッドシーンで幕を開けますよね?

これは「娼年」がセックスについて語る映画であることを観客に明示しているんです。





また、この作品は性欲の淵に見える甘美な人間の多様性をも見事に演出しています。

己が性欲を満たすために、対価を払う女性たち。
女性の性への欲望を可視化し、その欲を受け止める娼夫。
どちらが欠けても成り立たないこの関係性もまた、性描写をまるで対話のように映し出す。



放尿を見られることに快楽をおぼえる女性。

特殊なシチュエーションでしか興奮しない夫婦。

出産後セックスレスの主婦。

手を触れるだけで絶頂できるご年配。


セックスという枠に留まらない彼女らの欲望の形は人間の多様性を描くとともに、性欲や羞恥心までも赤裸々に語っているかのようだ。

それに加えて、様々な女性たちのセックスを美として描きながらも女性が抱く欲望や心に負った傷をも優しく包み込む姿は、娼夫という汚れたイメージをも美として描き出しているようです。


本作、舞台「娼年」からも主演を引き継いだ松坂桃李さんの努力と覚悟、決意の現れともとれる。
体を張った演技は素直に賞賛できます。



心身の成長

さてさて、ここまでは真面目にこの作品「娼年」について語ってきました。

ここからは超個人的視点から見た「娼年」の批評になります。
※「娼年」を貶すものではなく、あくまでも批評であると共に、下ネタ全開なので閲覧の際はご注意ください






















松坂と共演の女性キャストたちが体当たりでセックスシーンに挑んでおり、松坂本人も「映画『娼年』で、7、8年分の濡れ場をやった感じです」と語るほどだ。
松坂と三浦は舞台版『娼年』でもタッグを組んでおり、その濡れ場経験から松坂は『彼女がその名を知らない鳥たち』で白石和彌監督やキャスト陣から濡れ場の“先生”と呼ばれていたという。そのことについて松坂は、「濡れ場のプロフェッショナルとして、副業を見つけたかな(笑)。濡れ場監督とか。出演するのではなく、アクション監督のように監修が必要なところで呼ばれるみたいな。殺陣師? いや、濡れ場師!!」と振り返る。

松坂桃李、R18映画『娼年』セックスシーンについて明かす 「7、8年分の濡れ場をやった感じです」(リアルサウンド) - Yahoo!ニュースより引用


それを踏まえた上でこの作品を観て思ったこと。

エロ坂桃李のセックス下手すぎだろwww

松坂桃李さんのファンの方、すみません。

これだけはどうしても言いたかったんです!
あースッキリ!!



勿論、領は『女性はつまらない』『セックスなんて手順が決まった面倒な運動』と語ったように、冒頭はセックスは作業と言わんばかりの単調なセックスしかしない大学生として描かれています。

しかし、「娼年」は娼夫という仕事を通して、領がセックスの腕前と共に精神的にも成長していく物語なんですよ!
つまり、冒頭に比べて終盤のエロ坂桃李のセックスは上手くないといけないんです。



咲良との二度の試験的なセックス
これは領が娼夫としても精神的にも成長した証として描かれなければいけなかったもの

それにしては精神的にも成長したはずのセックス(会話)が下手。
キスの仕方、愛撫、挿入に体位、どれをとってもぎこちなく雑である。


他のセックスにも勿論言えることなんですが、この二度目の試験的なセックスは何とかならなかったのかと。
各々のセックスシーン(放尿シーン含む)は大袈裟な演技も相俟って全て爆笑してしまいました。



体を張って撮影に望んだのは重々承知しています。
なので、冒頭でもその点に関しては賞賛しています。
しかし、もう少し官能的なセックスがあると期待していた分、この点に関しては非常に不満が募る。



また、別視点からどこが自分にとって下手なセックスに見えてしまったのかを考えてみました。
その結果、エロ坂桃李の演技ではなく、演出に難があったのか?と。

娼年」は舞台としても実写化されているわけですが、例えば舞台の場合、目の前でセックスシーンの一部始終を見せられるわけです。
座席から舞台への一定の距離、同視線で見続けることが出来るわけです。
そこにはリアリティと共にその空気感も伝わってくることでしょう。

一方、映画は観客の視線はカメラワークによるもの。
観客視点を担うカメラが這うように口元や繋がる体、臀部の痙攣までを映し出す。
そして俯瞰的に見せる映像が状況を映し出す。

舞台とは違い、その空気感が感じられなかった点が"官能的"なものではなく、アダルトビデオの企画モノを観ているような"笑い"を齎してしまったのではないだろうかと推測できる。



一番笑ったのは西岡イク馬さんの射精ですね。
あのシーンは面白すぎる。

ケツは和太鼓

とは言っても笑いながら勃起はしてましたよ?

え?わざわざ言わなくてもいい?
失礼しました(笑)


ただ保身ではなく、セックスという描きにくいコミュニケーションをスクリーンに描いた試みは評価したいです。




ちなみに自分が最も興奮したセックスは、領が娼夫デビューしたお客さんとの激しいセックスでしたね。

あの日見たフェ〇で喘ぐ男性を僕達はまだ知らない。



皆さんはどのセックスが一番興奮しましたか?

フォロワーさんにお伺いしたところ、同級生とのセックスだという答えが返ってきました。

様々な感情が入り乱れていたということで…分かります、分かりますよ?

ただ、娼夫を汚らわしい仕事だと蔑んだ挙句、愛故に結局自分でそこに足を踏み入れた粗暴さ。
そしてそんな相手をも受け入れちゃう領くんの人の良さに興奮どころの話ではなくなっちゃったんですよね。

あと、現体位から別体位へと移る過程が雑でしたね(笑)


このセックスは冒頭から語る「娼年」のテーマ性やストーリーとしては最も適合したシーンではあるんですよ。

領への想いを寄せながらも実らぬ恋、それをセックスという会話で愛の再確認をしたわけで、改めて領のことが好きだと感じるも娼夫としての領を受け入れることができない自分への葛藤。

心理描写としても素晴らしいものがありましたよ。





二度目の試験的なセックスについても書いておきましょうか。
皆さんはこの二度目の咲良とのセックスシーンをどう捉えましたか?


個人的見解では、自分の母親に対する(性的な愛も含む)感情を静香さんに抱いた領が咲良と交わることで、静香と間接的に行ったセックスだと思います。

「母親に褒めてもらいたい。」
そう思ったことは一度はあるはず。

好意は熱烈な愛情に変わり、やがて盲信的な忠誠心を築く。

そう、娼夫としての成長を見せることで静香に認めてもらうこと。
そして母親に対する愛情をぶつけた間接的なセックスだったのだろうと思うわけです。



領自身、交わってきたお客さんに母親像を重ねていたようにも見えました。
このシーンなんかは正にそうですよね。

だからこそ、相手の気持ちを汲み取り癒すことが出来たと。
そんな年上に囲まれる生活の中で、最もその母親像を重ね心惹かれた人物が静香でした。

静香の口から語られた真相、それは静香自身も娼婦だったこと。
そして領の母親も娼婦だったということ。

雇用と労働という関係は静香と領を繋ぐもの。
娼婦の職業は母親と領を繋げるもの。

このシーンは娼夫という職業、セックスを通して静香に抱いた感情、母と子の繋がりを明確にした場面だと感じざるを得ないんですよ。



終わりに

最後にこれだけは言いたい。

総じて前戯が足りんのじゃ!!!

手に触れるだけで昇天できるくらいの芸を身につけないといけませんね、修行します。

・・・ふぅ。



というわけで(?)
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)石田衣良集英社 2017映画「娼年」製作委員会

大人の御伽噺(「ゆれる人魚」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「ゆれる人魚」について語っています。

少し間が空いてしまって、バタバタしましたが何とか書ききれました。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Lure
製作年:2015年
製作国:ポーランド
配給:コピアポア・フィルム
上映時間:92分
映倫区分:R15+


解説

共産主義下にあった1980年代のポーランドを舞台に、肉食人魚姉妹の少女から大人への成長物語を野性的に描いたホラーファンタジー。海から陸上へとあがってきた人魚の姉妹がたどりついた先はワルシャワの80年代風ナイトクラブだった。野性的な魅力を放つ美少女の2人は一夜にしてスターとなるが、姉妹の1人がハンサムなミュージシャンに恋をしたことから、姉妹の関係がおかしくなっていく。やがて2人は限界に達し、残虐な行為へと駆り立てられていく。監督は本作が長編デビュー作となるポーランドの女性監督アグニェシュカ・スモチンスカ。「第10回したまちコメディ映画祭 in 台東」(2017年9月15~18日)の特別招待作品として上映。
ゆれる人魚 : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編




ゆれる人魚

人魚や半魚人と聞いて思い描く映画はありますか?


セバスチャン・グティエレス監督「人喰い人魚伝説」
ロン・ハワード監督「スプラッシュ」
チャウ・シンチー監督「人魚姫」
クォン・オグァン監督「フィッシュマンの涙」
宮崎駿監督「崖の上のポニョ
湯浅政明監督「夜明け告げるルーのうた
ロン・クレメンツ監督/ジョン・マスカー監督「リトル・マーメイド」

そして
ギレルモ・デル・トロ監督「シェイプ・オブ・ウォーター


これらの中でも「ゆれる人魚」は珍しい映画となっています。
えー、まずは人魚について掘り下げていきましょう。

人魚

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる人魚(マーメイド)の絵画(1900年)

英語ではマーフォーク (merfolk) と言い、特に若い女性の人魚はマーメイド (mermaid) または男性の場合はマーマン (merman) と呼ばれる。マー (mer-) は、単語では mere となり、いずれもラテン語の mare(海)に由来する。
ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)である。今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16–17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている。

人魚 - Wikipediaより引用


パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉」でも人魚について語られていました。

作中で、宣教師が人魚に対して
『君はノアの方舟に乗れなかった幻の生き物ではない』
というセリフがあります。

ノアの方舟とは、神は地上に増えた人々の堕落(墜落)を見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げる。
そこで神はノア一族に洪水にも耐えれる船のつくり方を教え、そしてノア一族とすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。
つまり、神に選ばれた人間と種を保つ為の動植物のみが乗る事を許されたのです。
そして、船に乗れなかった動物の一種が人魚だったという説があります。


一方で、人魚はノア一族との説もあります。


人魚伝説の元は、今から6、7千年前にバビロニアで崇拝されたオアンネス(Oannes)と謂う海神が始めではないかとされています。コルサバードで出土した彫刻に下半身が魚の男神像が視つかった。オアンネスは海を支配し、バビロニアの港町では航海安全の神として崇められたと謂います。日中は王として陸上に、夜は海に帰る神として信じられていた。オアンネスにはダンキナ(Damkina)と云う妃がいて、6人の子が居た。後のノアの大洪水のノア一家はオアンネスだとも謂われているのです。ノアの大洪水の絵に人魚が描かれるのは、此の伝承に依っています。
人魚伝説 | あ や し い 書 簡 箋より引用


特に西洋では、美しい人魚の歌声が船を難破させる伝説が有名で、ギリシア神話にも"海の魔物"として知られる伝説の半人半魚の人喰い、セイレーンが登場します。


紀元前330年頃のセイレーン像。アテネ国立考古学博物館

セイレーン
上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされるが後世には魚の姿をしているとされた。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑されて挙げ句セイレーンに喰い殺された船人たちの骨は、島に山をなしたという。

セイレーン - Wikipediaより引用


セイレーンの伝説のように人魚は大抵の文学作品で不吉な象徴とされています。

また、アンデルセンの童話『人魚姫』から叶わぬ恋や報われない愛として描かれることが多い。



今作「ゆれる人魚」もアンデルセン童話『人魚姫』をモチーフに作られた映画です。


Vilhelm Pedersen 画「人魚姫」

人間に強い興味を持った人魚は祖母に人間についていろいろ質問したところ、300年生きられる自分たちと違い人間は短命だが、死ねば泡となって消える自分たちと違い人間は魂というものを持っていて天国に行くというので、それを手に入れるにはどうしたらいいのかと尋ねると「人間が自分たちを愛して結婚してくれれば可能」だが「全く異形の人間が人魚たちを愛することはないだろう」とほぼ不可能だと告げられる。

そこで人魚姫は海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰う。その時に「王子に愛を貰うことが出来なければ、姫は海の泡となって消えてしまう。」と警告を受ける。更に人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも言われたが、それでも人魚姫の意思は変わらず薬を飲んだ。人間の姿で倒れている人魚姫を見つけた王子が声をかけるが、人魚姫は声が出ない。その後、王子と一緒に宮殿で暮らせるようになった人魚姫であったが、魔女に言われたとおりに歩くたびに足は激痛が走るうえ、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話せず、王子は人魚姫が命の恩人だと気づかない。

それでも王子は彼女を可愛がり、歩くのが不自由な彼女のために馬に乗せてあちこちを連れて回ってくれ、また彼女と「おぼれていたところを助けてくれた人」が似ているともいうが、それは浜辺で彼を発見・保護してくれた修道院の女性の事で「彼女は修道院の人だから結婚なんてできないだろう」とややあきらめ気味で「僕を助けてくれた女性は修道院から出て来ないだろうし、どうしても結婚しなければならないとしたら彼女に瓜二つのお前と結婚するよ。」と人魚姫に告げた。

ところがやがて隣国の姫君との縁談が持ち上がるが、その姫君こそ王子が想い続けていた女性だった(修道院へは聖職者としてではなく教養をつけるために入っていた)。見も知らぬ姫君を好きにはなれないと思っていたし、心に抱く想い人とは2度と会えないだろうと諦めていた王子は、予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて姫君をお妃に迎えるのだった。

悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を差し出し、王子の流した血で人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝える。眠っている王子に短剣を構えるが、人魚姫は愛する王子を殺すことと彼の幸福を壊すことが出来ずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えた。

人魚姫 - Wikipediaより抜粋引用

最古の記録として多くの研究家がまず挙げるのが、西暦1世紀ローマの博物学者、大プリニウスの『博物誌』です。
彼は「人魚(マーメイド)の実在を確信する」と記しています。


ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督はアレクサンドラ・ヴァリシェフスカというポーランドの女性画家の作品からインスピレーションを受けたそうです。
そして彼女に描いてもらった人魚の絵は、映画のオープニングの部分で使用されています。

今作の人魚の造形はどこか妖艶であり、どこか生臭く、どこか危険な香りのするリアリティある作りとなっていますよね。


では、一体この映画の何が珍しいのか?

ジャンルを一括りにしないファンタジーともホラーともミュージカルとも取れる、様々な要素を取り入れたもの。

一般的にファンタジーホラーと言われてますが、現実世界が舞台でホラーテイストもごく一部、ミュージカルといっても歌って踊るシーンは然程長くはない。
様々な要素を少しずつ取り入れたこの作品はこの映画はこういうジャンルだといった先入観や固定概念なく楽しめる作品だとも思います。

どの要素に期待するかで評価が別れる作品とも言えるので、ハマるかハマらないかは難しいでしょう。



シェイプ・オブ・ウォーター」でもファンタジー要素を取り入れながらホラーテイストな部分もあり、総じてラブストーリーとして纏めあげていました。

ゆれる人魚」ではある意味、作品の世界観を破綻させる程のミュージカル要素があります。
そこは逆に長所と捉えてますが、総じてダークファンタジーな中、前半ではミュージカル、後半ではホラーという、前後半で雰囲気がガラリと変わる作品です。

そして、ジャンルと同じようにひとつに留まることなく、人魚は好奇心と自制心、本能と理性の狭間で揺れ動きます。



不安定な感情

シェイプ・オブ・ウォーター」では半魚人と人との無形の愛についても語りました。


両作品はバスタブや雨、水といった似たような演出もありますが、「ゆれる人魚」は人魚が人に抱く愛を、「シェイプ・オブ・ウォーター」は人が半魚人に抱く愛を描いています。


題材としては似通った作品のようですが、実に対比的。
御伽噺のような美しく綺麗なイメージとは異なっていて、淀み汚れた暗くジメジメとした空気感。
レトロな雰囲気と相俟って、より人魚の不気味さが際立つ。

そして今作は後者とは違い、アンデルセン童話『人魚姫』のように報われない愛の切ない恋物語として昇華しているんですよね。


上手くいかない恋愛、そんな時どんなことを感じ、どう対処していくのか。
そういった部分に感情移入しやすいのかもしれません。
そんな不安定な感情を間接的表現で映し出すこの作品は女性ならではだと思います。

誰かを愛しすぎるあまりに自己犠牲という行動に出てしまう。
それが初恋となると余計にそうなってしまうのではないだろうか。
この「ゆれる人魚」はそんな自己犠牲を視覚化しているからこそ、愛の深さを知ることが出来る。


この作品は女性視点で描かれたもの。
アグニェシュカ・スモチンスカ監督の語る人魚とは
大人でも子供でもない少女のメタファー
なのです。




そうです、「ゆれる人魚」は「RAW 少女のめざめ」と共通する部分が非常に多いんですよね。


ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督、「RAW 少女のめざめ」のジュリア・デュクルノー監督、共に女性監督が女性視点で一貫して描いているのは少女の大人への成長です。


ゆれる人魚」では大人でも子供でもない少女のメタファーとして。
「RAW 少女のめざめ」では食人行為を性のメタファーとして。
それぞれが少女の思春期の通過儀礼として各々の境遇や葛藤する姿が描かれているのです。

そのアイテムとして、タバコや酒、性行為などが散りばめられています。



愛と憎しみ、これは表裏一体です。
ラストでシルバーが彼を食い殺さなかったことはそれは自分の命を捨て置いてでも彼の幸せを願ったということではないと思います。
怒りや悲しみという感情を超える諦めや絶望をも超越した言葉では表現できない感情だったのではないでしょうか。

感情や欲望、理性との葛藤に悩む妹。
感情や欲望を抑えきれなかった姉。
姉妹の対比としても描かれたシーンも「RAW 少女のめざめ」と共通する部分だと思います。



終わりに

「RAW 少女のめざめ」のジュリア・デュクルノー監督。
ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督。
女性監督による鮮烈なデビュー作。

新たな才能が詰め込まれた両作品、一度は観てもらいたい作品です。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2015WFDIF, TELEWIZJA POLSKA S.A, PLATIGE IMAGE

短歌と恋、青春と人生(「ちはやふる 結び」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。

鑑賞後、随分経ってしまいましたが今回は「ちはやふる 結び」について語っています。

この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:128分
映倫区分:G


解説

末次由紀の大ヒットコミックを広瀬すず主演で実写映画化した「ちはやふる 上の句」「ちはやふる 下の句」の続編。瑞沢高校競技かるた部の1年生・綾瀬千早がクイーン・若宮詩暢と壮絶な戦いを繰り広げた全国大会から2年が経った。3年生になった千早たちは個性派揃いの新入生たちに振り回されながらも、高校生活最後の全国大会に向けて動き出す。一方、藤岡東高校に通う新は全国大会で千早たちと戦うため、かるた部創設に奔走していた。そんな中、瑞沢かるた部で思いがけないトラブルが起こる。広瀬すず野村周平新田真剣佑ら前作のキャストやスタッフが再結集するほか、新たなキャストとして、瑞沢かるた部の新入生・花野菫役をNHK連続テレビ小説あまちゃん」の優希美青、筑波秋博役を「ミックス。」の佐野勇人、映画オリジナルキャラクターとなる千早のライバル・我妻伊織役を「3月のライオン」の清原果耶、史上最強の名人・周防久志役を「斉木楠雄のΨ難」の賀来賢人がそれぞれ演じる。
ちはやふる 結び : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編





上下の句を結ぶもの

まず、本作の話に入る前に前作と今作の位置づけについて考えていきます。

そもそも上の句、下の句とは何か?



競技かるたの基本ルール

競技かるたの公式大会では、大石天狗堂製のかるた札が用いられ、百人一首の100枚の字札のうち50枚を使用する。

その50枚を裏返した状態でよく混ぜ、25枚ずつ取り、それを自分の陣地(自陣)の畳に、上段、中段、下段の3段に分けて並べる。このとき札を並べる範囲は横87cmまでとなっており、そのとき相手の陣地(敵陣)にも同様に25枚が並べられた状態となる。その後15分間の暗記時間が設けられ、その間に自陣・敵陣の50枚の位置を暗記した後、競技が開始される。15分の暗記時間中の最後の2分間は素振りが認められる。

暗記後は対戦相手、読手の順に礼をしてから競技が始められる。これはかるたは礼に始まって礼に終わるというかるた道の精神によって、定式化されている。競技開始時にはまず百人一首に選定されていない序歌(一般的には王仁の「なにはづの歌」)が詠まれる。これは一旦上の句・下の句が通しで詠まれた後に下の句だけがもう一度繰り返され、そこから百首の詠み札がランダムに詠まれる(場にある字札が下の句であるのに対して、詠まれるのは上の句からである)。

詠まれた歌に対応する字札に相手より先に触れることで、その字札を自身の「取り」とする(以降、字札のことを単に「札」と表記する)。自陣にある札を取った場合、その札を自身の横に置いて自陣から除外する。敵陣にある札を取った場合、自陣にある好きな札を敵陣に送ることで自陣の札が1枚減る。これを「送り札」という。

詠まれた札のある陣と反対の陣の札に誤って触れると「お手つき」となる。相手がお手つきをした場合は、自陣の好きな札を1枚敵陣に送ることができる。一方で詠まれた札のある陣と同じ陣内にある別の札を触ったとしてもお手つきにはならず、また自陣(敵陣)の札に触れた際勢いがついて札が敵陣(自陣)の札を動かした場合も、同様にお手つきにはならない。

詠み札は百首全てが用意されるのに対して、場にある札は半分の50枚のため、詠まれた歌の札が自陣・敵陣どちらにも存在しない場合もあり、これを「空札(からふだ)」という。空札が詠まれているのにも関わらず、自陣または敵陣のいずれかの札に触った場合もお手つきとなる。

また、お手つきには、『ダブル』や『空ダブ』と言われるケースもある。『ダブル』は、敵陣の札が詠まれて、自分がその札を取り、対戦相手がこちらの陣の札を触ったときに成立する。この場合は札を2枚(敵陣取りと相手のお手つきでそれぞれ1枚ずつ)送ることができ、相手と自分で3枚差がつくことになる。 『空ダブ』は、空札のときに、敵陣、自陣をともに触ってしまったときに成立する。この場合、相手から2枚札が自分に送られ、相手と自分で4枚差がつくことになる。ただし、両者ともお手付きをした場合は「共お手(共付き)」と呼ばれ、互いに送り札は行わない。

札を取る手は、1試合を通してどちらか片方の手のみが認められる。試合開始後最初に札を取りに行ったほうの手で最後まで取り続けなくてはならない。

札の配置は競技中に、相手に宣言することで自由に動かすことができる。ただし、頻繁な移動や、一度に大量の札を移動させることは、マナー上好ましくないこととされている。

これらを繰り返し、自陣の25枚の札を先に絶無とした方を勝者とし、競技は終了する。

競技かるた - Wikipediaより引用



かるたには読み札に上の句、取り札に下の句が書かれています。


短歌の他にもよく似たものとして、俳句というものもありますよね?

短歌は上の句である五・七・五に加え下の句七・七で成り立ち、俳句は五・七・五で成り立つ。

このふたつの相違点は句の数だけではありません。
俳句は情景を詠むもの。
短歌は心情を詠むもの。



前々作である「ちはやふる 上の句」では、高校生活と競技かるた部、千早と幼馴染との情景を。
前作の「ちはやふる 下の句」では、千早のクイーンに対する気持ちや太一の微妙な心情を描いた作品だと思います。



一方で今作は、主人公でもある綾瀬千早というよりも千早の幼馴染であり瑞沢高校競技かるた部部長の真島太一の映画だったようにも思う。

勿論、千早やもう一人の幼馴染である綿谷新、クイーン若宮詩暢、今作が初登場の周防久志、瑞沢の他部員や原田先生も絡めつつなのですが。

真島太一は容姿もイケメン、学年トップの学力という一切非の打ち所のない人物。
ただ一点、敵わない相手が新であり、それは競技かるただけでなく千早に対する行動や心情もだ。

そんな彼が部活と受験、そして千早や新に対する想いで葛藤する。
完璧のように見えて完璧ではない。
彼は隠れたところで努力をしているんです。
その部分が今作で深く掘り下げられていたと思います。



千早は競技かるたに関して"感じ"という優れた才能がある。

今回、新たに登場した周防名人(賀来賢人さん)。
彼もまた千早同様に競技かるたに関して"感じ"を持ちつつ、更に一線を超えたずば抜けた才能がある。

太一は自分の持ち合わせていないもの、そして想いを寄せる千早と似通った才を持つ周防名人につく。



前作である上の句と下の句では現在の姿を描いています。
そして今作の結びでは千早、太一、新の原点とそして未来へ繋ぐもの。



1000年前に詠まれた歌が今現在にも語り継がれ詠まれるように、上の句と下の句がひとつになって意味をなすように、ひとつの歌として過去と現在、未来を結びつける。
それがこの作品、ちはやふる結びだと思います。



短歌

主要登場人物を表す短歌を確認しましょう。



・千早

「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 唐紅に 水くくるとは」
在原業平

訳:様々な不思議なことが起こっていたという神代の昔さえも、こんなことは聞いたことがない。
竜田川が(一面に紅葉が浮いていて)真っ赤な紅色に水を絞り染めにしているとは。


「はや」は敏捷、「ぶる」は振る舞いを意味し、「ちはやぶる」で激しい勢いという意味を成す。
ちはやふる 下の句」で千早の「ちはやぶる」描写があったので説明は不要かと。



・太一

「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」
平兼盛

訳:私の恋心は誰にも知られまいと心に決めて耐え忍んできたが、とうとう堪えきれず顔に出てしまったのか。
何か物思いがあるのですかと人が尋ねてくるほどに。


この短歌はしのぶの得意札でもありますね。

太一は受験という精神的に不安定になる時期に恋心で悩み葛藤します。
新入部員から、新が千早に告白したことを聞かされるシーンでは、太一の表情はカメラワークから外され、あえて見せない演出となってます。
しかし、この短歌のように顔に出てしまっているのだろうと安易に想像できる。



・新

「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」
壬生忠見

訳:「恋している」という私の噂がもう立ってしまった。
誰にも知られないように、心ひそかに思いはじめたばかりなのに。


「しのぶれど〜」の対となる短歌としても有名。
千早への想い、最終決戦の最後の残り札二枚。
太一と新が対の立場で描かれる。



・周防

「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
小野小町

訳:桜の花の色はむなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。
ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。


これは講義で学生に向けた言葉のようにも見えて、実は太一に向けられた言葉なんですよね。

本来の意味から、悩んでいるうちに時間は経過して取り返しがつかなくなってしまう後悔を詠ったもの。
太一に「君はこんなところで何をしているの?」と言ったこの言葉は太一の背中を大きく押すこととなる。



・千早と太一

「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる」
後徳大寺左大臣

訳:戸外の明け方近い夜空を、ひと声ほととぎすの鳴いた方角を見ると、もうその姿はなく、ただ夜明けの下弦の月だけが残っているのであった。


部室の畳の間から見つかった札の句。

ほととぎすが鳴いた後でそこを見てもその姿はない。
千早の太一がいなくなった後の心情を表現する的確な歌。



また、個人的に千早と太一の二人を結ぶのに相応しい短歌を紹介しておきます(笑)

「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ」
崇徳院

「劇場版名探偵コナン から紅の恋歌

こちらでも主人公の新一(コナン)がヒロインの蘭に対して詠んだ歌です。

訳:川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が二つに分かれる。
しかし、また一つにらなるように、愛しいあの人の今は分かれてもいつかきっと再会しようと思う。

ちはやふる 結び での千早と太一そのものではありませんか?


言葉の力

周防名人、そして原田先生の太一への言葉がなかなか印象的だった。

原田先生のいう手触り。

青春というものは見えないもの。
青春が終わった後には何が残るのか?
手触りは残る。

そう。理由はどうあれ、かるたを通して得たもの、その感覚は残るんです。
そこに残ったものが青春なのではないでしょうか。



太一は新が千早に告白したことを知る。
太一の心は揺れ動きます。
そこで出会ったのが周防久志だ。

上記の短歌でも記述しましたが、周防名人の「花の色は〜」で学生達にマイクで語るシーン。
作中ではなく原作の台詞を引用します。

「僕は器用でしたので 予備校に行かずとも東大にはいれましたが 青春ぽい日々はなくて…… まあ 君たちのこともザマァ(笑)と思いますよね」

「でも ある日 気がついたんです 『青春』という文字の中に『月日』があったこと とたんに青春が惜しくなりました 自分の中に青春を探し始めました」

「言葉には 力が確かにあることを 忘れないでいてください」

第141首「かるたを好きじゃないのに」より


この台詞が自分の心にもズシンと響いた。
自分にとっての青春ってなんだったかな?って。
青春だと感じられるほど自分は青春を満喫したのかって。



周防はかるたが好きではない。
自分のやれること、自分を生かすことが出来る場所が競技かるたの世界だったんです。
周防は青春ではなく人生をかるたに懸けていました。

「こんなところで何をしているの?」

太一にとってこの周防の言葉は心を突き動かすものだったでしょう。
太一自身もかるたを好きで始めたというよりも、千早に近づきたいという想いから始めたのかもしれない。
かるた部を作ったのも千早の為。
そこで出会った肉まんくんや机くん、かなちゃん、かるたではなく彼らといることが好きだったんです。

しかし一方で、きっかけはどうあれ、かるたに触れることでかるたを好きになっていく自分にも気付き始めていたのではないだろうか?

だから走る。
千早の為に、仲間たちの為に。


太一が周防名人と出会ったことで気付かされたこと。
それは聞こえる音と聞く音の間に線を引いていること。
聞く音の外側、一線を超えた先の音を聞く。

これは競技かるたにおける読み手の発する音の前に聞こえる音、決まり字の先を行く決まり字。

しかし、その本質はそこではない。
その"感じ"という才能を持つ千早ならまだしも、太一にはその才能がない。


その一線とは、太一の気持ちの中にある自分に言い聞かせている声と本音の一線を示しているのではないだろうか。

欠点を埋めてくれるのが仲間であり、他人に強さを与えることが本当の強さだと気付かされる。
彼らは個々で成り立つ存在ではなく、チームとしてひとつの存在なのだから。



この作品は競技かるたという世界で単純に全国優勝を手にする話ではない。
各々が競技かるたを通して精神的に成長していく。
青春スポコン映画に留まらない人生の成長譚なんですよ。



青春が惜しくなる。

この歳になりましたが、今もどこかで青春を探してるんですよ。
だからこそ、このちはやふる結びのような青春映画が心にに響くんです。

原作ではまだ完結していない作品を3部作でまとめあげたこと。
そして結びで締めくくられたこと。
この点だけ見ても秀逸としか言えない。
シリーズ最高傑作でした。


ありがとうございました!!!



終わりに

実写化映画の中でもトップクラス。

そしてこれだけは言っておきたい。

「すずより、アリス」

…すみません、これは好みの問題なのですみません(笑)


ですが、昨年の「三度目の殺人」から、広瀬すずさんの演技にも幅が出たように思います。

ちはやふる」での役どころ、ヒロイン的なポジションも抑えつつ、「三度目の殺人」のようなシリアスな演技にも磨きを掛けていってもらいたいですね。
今後も期待している女優さんのひとりとして注目しています。



主題歌「無限未来」(Perfume)

中毒性のある主題歌にも注目です!



また、原作の方は少女向けコミックなので、個人的には絵柄的に少々難ありですが、読んでみたくなったのも事実。

機会があれば読んでみようかと思います。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀講談社

機械を超えた存在【人工知能】は人か?神か?(「エクス・マキナ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は「エクス・マキナ」について真面目に考察しています。

「エクス・マキナ」は2016年劇場鑑賞ベスト1であると同時に、自分のオールタイム・ベストにも入る大好きな作品です。

何故今まで深く言及してこなかったのか?
それは自分の言葉で語れる作品ではないからです。
鑑賞後、何とも言えない余韻と形容し難い気持ちになりました。
この度、ある程度の時間を設け、改めて考察してみようという試みでもあります。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Ex Machina
製作年:2015年
製作国:イギリス
配給:パルコ
上映時間:108分
映倫区分:R15+


解説

「28日後...」「わたしを離さないで」の脚本家として知られるアレックス・ガーランドが映画初監督を務め、美しい女性の姿をもった人工知能とプログラマーの心理戦を描いたSFスリラー。第88回アカデミー賞で脚本賞と視覚効果賞にノミネートされ、視覚効果賞を受賞した。世界最大手の検索エンジンで知られるブルーブック社でプログラマーとして働くケイレブは、滅多に人前に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に滞在するチャンスを得る。しかし、人里離れた別荘を訪ねてみると、そこで待っていたのは女性型ロボットのエヴァだった。ケイレブはそこで、エヴァに搭載されるという人工知能の不可思議な実験に協力することになるが……。「スター・ウォーズ フォースの覚醒」「レヴェナント 蘇えりし者」のドーナル・グリーソンが主人公ケイレブを演じ、「リリーのすべて」のアリシア・ビカンダーが美しい女性型ロボットのエヴァに扮した。グリーソンと同じく「スター・ウォーズ フォースの覚醒」に出演したオスカー・アイザックがネイサン役を務めている。
エクス・マキナ : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編



3つの伏線

ラストシークエンスへと繋がる3つの大きな伏線が見事としか言えないんです。


①チューリング・テスト

"壁を取っ払う"
人間関係で言うなら警戒心を捨てて打ち解け合うこと。
ケイレブとエヴァの間には常に物理的な壁(ガラス)がありますが、本作における"壁"とは即ち物理的な壁であるガラスを挟んで人とA.I.の距離感を表しています。


ケイレブが会話(チューリング・テスト)で得た印象として「鏡の世界にいるようだ」と答えています。
これはケイレブがA.I.であるエヴァを"人間(正しくは人の心を持つ存在)"として見始めていることを示唆するものでしょう。


その壁が取っ払われた時、先程述べた「鏡の世界」のように人間であるケイレブと人工知能であるエヴァの立場は逆になります。
エヴァは人間のように自由を手にし、ケイレブは人工知能のように閉鎖された空間に取り残される。

冒頭からラストへと繋がるこの展開が素晴らしい。



②エヴァの年齢

エヴァは初回のチューリング・テストでケイレブから年齢を聞かれて「1」と答えたこと。

人間は1年の歳月を過ごせば1歳を迎える。
機械に寿命はなく、歳を取ることはない。
デジタル、二進数の世界では「0」か「1」かでしか表されません。
つまり、エヴァは唯一無二の存在、他の人工知能とは違う特別な存在、オンリー「1」であるということをも示唆させる。


ここでもラストシークエンスへ繋がる伏線が効いている。

「愛さない」か「愛する」か。
当然、デジタルの世界では「0」か「1」しかありません。
上手くミスリードされるんですよね、恰もケイレブとエヴァの禁断の愛が育まれていくかのように描かれています。


そしてもうひとつの可能性、「愛してるフリ」。
この三つ目の選択肢は女性ならではの手であり、エヴァの性別の必要性を問う重要なポイントでもあります。
男性は恐怖すら覚える演出ではないでしょうか。



③エヴァの性別

チューリング・テストを重ねる毎にケイレブはエヴァに惹かれていく。


初めは友情から、互いを知ること。
「お友達からお付き合いお願いします」的なノリ(笑)
エヴァのソフトウェアは検索エンジンであり、ケイレブの好みや嗜好は全て知られている。

外に出たらどこへ行きたいか?の問に対し、エヴァは大きな街の人が大勢いる交差点を見てみたいと言う。
デートに行くなら…とエヴァは女性的な恥じらいとも取れる仕草で服を選び、ケイレブを焦らし目の前に現れる。


そんなエヴァに惑わされるケイレブはネイサンに性別の必要性を問う。

生き物に性別が必要なのは生殖があるから。
性別があるから交流をする。
人工知能であるエヴァにも性器が設けられているが生殖機能はない。
ケイレブは生殖本能ではなく、性別があるからこそエヴァに惹かれるのだ。


これもまたラストシークエンスへと繋がる。
なぜラストシークエンスでケイレブはエヴァを大人しく待っていたのか?
恥じらいながら服を着る姿は、ラストシークエンスで肌と白いドレスを纏ったエヴァがケイレブを待たせるための伏線となっています。

つまり、人工知能が女性であるが故の行動であり、これは"エヴァがケイレブを誑かして脱出を試みる"というネイサンの目論見通りの結果だったというわけです。



「人の心」の複雑さ

作中にも登場する人工知能の脳の造形は宇宙を模したもの。
人の心もこれと同様に掴み切れない宇宙のようなものなのなのかもしれない。


人の心を持ちながら人として扱われなかったエヴァ。
人の心を持った人ではない存在とは何なのか?
人の心を持たない人は人とは呼べないのか?
一体、何を以て人と呼べるのか?

人工知能であるエヴァに、さもこのような人の心があるように思わせるこの演出自体がミスリードなんですよね。



神学的観点

本作では神学的、哲学的思考を問うものが練り込まれています。
まず、神学的観点から「エクス・マキナ」を見ていきましょう。



・キリスト教から見た『エクス・マキナ』

ケイレブの試験期間は一週間。
これはケイレブとエヴァの名前からもキリストにおける創世記を示唆させる。

神は6日間で天地と生物、そして神の姿を模した人間(アダム)を創り、7日目に休息をとる。
アダム(Adam)から創られたイブ(Eve)は、禁断の果実を食べて楽園を追放される。


作中でいう神とは人工知能を作り出したネイサン。
そのネイサンはケイレブの好みからエヴァを創った。
禁断の果実を食べたアダムとイヴが裸を隠したように、エヴァも自身の裸(機械部分)を隠していく。
楽園とは実験施設のことで、追放は即ち解放を意味する。

エヴァだけが施設から出たことから、エヴァ(Ava)はアダム(Adam)とイブ(Eve)の造語でしょう。

ケイレブはカレブを指し、約束の地を目指し神に忠誠を誓う者。
ネイサンはナサニエルを指し、神の贈り物(natan "彼は与える" + el "神")から"神"を取り除いた言葉が語源だと考えると、創造主"神"ではなく単なる創造者に過ぎないということ。



・ギリシア神話の神のプロメテウス


Nicolas-Sébastien Adam 作 プロメーテウス像 1762年 (ルーブル美術館蔵)

プロメーテウス(古代ギリシャ語: Προμηθεύς、Promētheús [ pro.mɛː.tʰeú̯s])は、ギリシア神話に登場する男神で、ティーターンの一柱である。イーアペトスの子で、アトラース、メノイティオス、エピメーテウスと兄弟、デウカリオーンの父。
ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を創造したとも言われる。
日本語では長音を省略してプロメテウスと表記されることもある。ヘルメースと並んでギリシア神話におけるトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。

名前の意味
ギリシア語で"pro"(先に、前に)+"mētheus"(考える者)と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。同様に、弟のエピメーテウスは"epi"(後に)+"mētheus"に分解でき、対比的な命名をされている。
他にも、"Promē"(促進する、昇進させる)+"theus / theos"(神)と解釈すると、人類に神の火を与えた事で「神に昇進させた者」との説も有る。

プロメーテウス - Wikipediaより引用


プロメテウスはネイサンの求める理想像であり、皮肉的に人は神には決してなれないことを示唆させるものです。



哲学的観点

続いて、哲学的観点から「エクス・マキナ」を見ていきましょう。


・言語設定は決定論ではなく確率論

「言葉は生まれたときから持っている」説は"現代言語学の父"ノーム・チョムスキーによる生成文法で唱えられています。

チョムスキーの提唱する生成文法とは、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」という仮説を基にした言語学の一派である。その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説を唱え、言語を人間の生物学的な器官と捉えた。初期の理論である変形生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。
ノーム・チョムスキー - Wikipediaより引用

言葉が通じないように設定されていたキョウコが時折ネイサンとケイレブの話に耳を傾けるような素振りを見せたり、エヴァとの会話でキョウコがネイサンにナイフを突き刺した件はまさにこの説を裏付けるものではないでしょうか?



・会社名「ブルーブック」

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの講義録から。

青色本は1933-34年に口述されたテキストであり、後に言語ゲームとして知られることになる概念が先駆的に導入されているという点で、1932年以降のウィトゲンシュタイン哲学の画期をなすとされている。記号の操作として思考を考察するという後期の著作では取り組まれていないテーマが含まれているが、それを可能にする確固とした言語規則という中期の考え方は認められない。ここにみられる言語学的分析という手法は、その後日常言語の哲学として結実した。
青色本・茶色本 - Wikipediaより引用

つまり、ブルーブックとは日常言語の哲学、ケイレブとエヴァのチューリング・テストに繋がり、ネイサンがケイレブを選んだ理由に結びつく。



・ジャクソン・ポロックの絵

生まれ持った性質と環境で人間も機械と同じようにプログラムされているのか?
ポロックの絵はアクション・ペインティングと呼ばれるものです。

彼は単にキャンバスに絵具を叩きつけているように見えるが、意識的に絵具のたれる位置や量をコントロールしている。「地」と「図」が均質となったその絵画は「オール・オーヴァー」と呼ばれ、他の抽象表現主義の画家たち(ニューマン、ロスコら)とも共通している。批評家のハロルド・ローゼンバーグは絵画は作品というより描画行為の軌跡になっていると評し、デ・クーニングらとともに「アクション・ペインティング」の代表的な画家であるとした。
ジャクソン・ポロック - Wikipediaより引用

アクション・ペインティング(Action painting)、もしくはジェスチュラル・ペインティング(gestural abstraction 、身振りによる抽象絵画)とは、顔料を紙やキャンバスに注意深く塗るかわりに、垂らしたり飛び散らせたり汚しつけたりするような絵画の様式である。できた作品は、具体的な対象を描いたというより、絵を描くという行動(アクション)それ自体が強調されたものになる。
アクション・ペインティング - Wikipediaより引用

ここで重要なのは自動的に行動することではなく、自動的でない行動をすることで人間らしさを描いたもの。

呼吸する。話をする。恋をする。
機械でも人間と同じように意識せず行動し、感情を持つことが出来るのか?


エヴァの絵を思い出してもらいたい。
黒い直線の集合体、対象物を決めて描く、など意識した絵ばかりである。

作中に出てきたポロックの絵とエヴァの描く絵の対比によって、エヴァが人の心を持たない機械であることを強く印象付けられています。



・思考実験「モノクロの部屋のメアリー」

メアリーの部屋
メアリーの部屋は1982年に哲学者フランク・ジャクソンによって提出された思考実験である。思考実験の内容は以下の通りである。


白黒の部屋で生まれ育ったメアリーという女性がいる。
メアリーはこの部屋から一歩も外に出た事がない。
つまりメアリーは生まれてこのかた 色というものを一度も見たことがない。


メアリーは白黒の本を読んで様々なことを覚え
白黒のテレビを通して世界中の出来事を学んでいる。


メアリーは視覚の神経生理学について世界一線レベルの専門知識を持っている。
光の特性、眼球の構造、網膜の仕組み、視神経や視覚野のつながり、どういう時に人が「赤い」という言葉を使うのか、「青い」という言葉を使うのか、など
メアリーは視覚に関する物理的事実をすべて知っている。


さて、彼女がこの白黒の部屋から解放されたらいったいどうなるだろうか。
生まれて初めて色を見たメアリーは
何か新しいことを学ぶだろうか?
仮にメアリーが何か新しい事を知るとしたら、定義よりそれは物理的な事実ではない。
その場合 唯物論(物理主義)は偽である。

メアリーの部屋 - Wikipediaより引用

モノクロの部屋から外の世界へと出たメアリーは色彩を目にした時、どう感じるか?
コンピュータと人間の心との違いを示すための思考実験。
ここで言うコンピュータはモノクロの部屋にいるメアリーで、人間は外に出たメアリー。
この話もラストに繋がってしまう。

閉鎖的空間に閉じ込められたケイレブと大自然に出たエヴァ。
人間であるケイレブが部屋に、人工知能であるエヴァが外の世界へ解き放たれることを皮肉的に描かれています。



・原爆の父の言葉

原爆の父とはジュリアス・ロバート・オッペンハイマーのこと。

オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。
ロバート・オッペンハイマー - Wikipediaより引用

ユダヤ系アメリカ人の物理学者である彼の残した言葉
「科学者は罪を知った。」
これはまさにネイサンを指す言葉であり、
「原子力は生と死の両面を持った神である。」
これはエヴァを指す言葉である。

ネイサンがエヴァという破壊者を創り出してしまったことを意味しています。



タイトルから見た「エクス・マキナ」

この作品には作中でも時折"神"という言葉が使われる。
タイトル「エクス・マキナ」。
言うまでもなくこれは「デウス・エクス・マキナ」から取られたものです。

デウス・エクス・マキナ(Deus ex machina, Deus ex māchinā)とは演出技法の一つであり、ラテン語で「機械仕掛けから出てくる神」を意味する。一般には「機械仕掛けの神」と表現される。「デウス・エクス・マキーナ」などの表記もみられるが、ラテン語としては誤りで、より忠実に発音転写するならば「デウス・エクス・マーキナー」となる。
デウス・エクス・マキナ - Wikipediaより引用

デウス・エクス・マキナは、演劇の終盤に絶対的存在(神)を登場させることで物語の混乱を一気に収束させる手法を指す。
「デウス・エクス・マキナ」より"デウス(神)"のいない存在という意味で「エクス・マキナ」。


人工知能から見る人の心は混乱であり、それを支配(収束)するのは神ではなく私(エヴァ自身)だということを示唆させるものだと解釈してます。


ラストにエヴァは交差点で人間観察をしていました。
エヴァはケイレブに「一時交差しては離れていく、人生の断面が垣間見える。」と交差点に行きたい理由を話していましたが、まさにエヴァとケイレブの関係のようでいて恐ろしい。

また、宇宙を模した脳は新たな知識を得て成長していきます。
エヴァが人間としてではなく、あくまでも人工知能として生まれ変わった瞬間。
すべてを成し終え、祝福を得た7日目は創世記で神の休息の日でもある。
ここから世界は動き始める。
そう、この出来事はエヴァの今後の人生の一端、単なる始まりでしかないことを意味しているのではないでしょうか?



終わりに

まだまだ考察する余地はあるので、徹底考察とまではいきませんが思うところはほぼほぼ書けたような気がします。

人工知能を題材とした映画は多々あれど、ひとつひとつの描写や伏線、神学的且つ哲学的観点、ここまで完成度の高い映画は現段階ではないと思っています。



アリシア・ヴィキャンデル - Wikipediaより

エクス・マキナ [Blu-ray]

エクス・マキナ [Blu-ray]

  • 発売日: 2017/06/21
  • メディア: Blu-ray

今後とも「エクス・マキナ」を、そしてアリシア・ヴィキャンデルさんを愛していきます!

「トゥームレイダー ファースト・ミッション」のコレジャナイ感は置いといて(笑)


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)Universal Pictures

命の輝きと愛を描く(「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」ネタバレ無し感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」について書いています。

えー今日はですね、あまり好きではない映画館(そこでしか上映してない)で観たんですが、昼間に行ったからかまだ客質はマシでしたね。
その分、この映画に集中して観ることが出来ました(笑)

この記事はネタバレはありません。



作品概要


原題:Maudie
製作年:2016年
製作国:カナダ・アイルランド合作
配給:松竹
上映時間:116分
映倫区分:G


解説

カナダの女性画家モード・ルイスと彼女の夫の半生を、「ブルージャスミン」のサリー・ホーキンスと「6才のボクが、大人になるまで。」のイーサン・ホークの共演で描いた人間ドラマ。カナダ東部の小さな町で叔母と暮らすモードは、買い物中に見かけた家政婦募集の広告を貼り出したエベレットに興味を抱き、彼が暮らす町外れの小屋に押しかける。子どもの頃から重度のリウマチを患っているモード。孤児院育ちで学もないエベレット。そんな2人の同居生活はトラブルの連続だったが、はみ出し者の2人は互いを認め合い、結婚する。そしてある時、魚の行商を営むエベレットの顧客であるサンドラが2人の家を訪れる。モードが部屋の壁に描いたニワトリの絵を見て、モードの絵の才能を見抜いたサンドラは、絵の制作を依頼。やがてモードの絵は評判を呼び、アメリカのニクソン大統領から依頼が来るまでになるが……。監督はドラマ「荊の城」を手がけたアシュリング・ウォルシュ。
しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編





実在した画家モード

この映画の存在を知るまで、正直モード・ルイスという画家がおられることを知りませんでした。
日本で取り上げられたことも少ないようで、日本人には馴染みのない画家なのかもしれません。


『しあわせの絵の具』サリー・ホーキンスのインタビュー - YouTubeより

モード・ルイス(Maud Lewis1903年-1970年)
カナダのフォーク・アートの画家である。田舎の風景、動物、草花をモチーフに、明るい色彩とシンプルなタッチで温かみと幸福感のある絵を描いた。カナダで愛された画家の一人である。

ほとんどの絵のサイズは小さく 20cm×25cmである。41cm×51cmの絵が3枚だけ確認されている。
茶ツボ、ティーポット、ちり取り、クッキーシート、薪ストーブなど家庭内のほとんどの物品、扉、雨戸、外壁、壁紙。家のあらゆるものがモードのキャンパスだった。家全体(内部の物品を含めた)がモードの作品である。

モチーフは自分の住む田舎の風景、動物、草花、蝶など。
絵画手法は、先ず輪郭を描き、絵の具のチューブから直接キャンパスに描いた。色を混ぜることは無かった。原色が多く使われるが、バランスの良い配色がされている。遠近法が用いられることはあるが、影は描かれない。素朴で明晰な画面。動物はユーモラスに描かれる。
美術の専門家の高い評価を受けることが少ない絵画である。それでも、モードの絵は見る人にとって明るく楽しい絵であり、それはモードが描く事に対して感じた楽しさと喜びが漏れ伝わる故であろう。

モード・ルイス - Wikipediaより引用


モードの抱えていたのはリウマチという病です。


関節リウマチの影響を示した図

関節リウマチ(かんせつリウマチ、rheumatoid arthritis:RA)
自己の免疫が主に手足の関節を侵し、これにより関節痛、関節の変形が生じる代表的な膠原病の1つで、炎症性自己免疫疾患である。
四肢のみならず、脊椎、血管、心臓、肺、皮膚、筋肉といった全身臓器にも病変が及ぶこともある。

発症のメカニズムは未解明であるが、生活習慣と遺伝的要因や感染症などによる免疫系の働きが関与していることを示唆する研究が多くある。
喫煙が関節リウマチと関連していることが予測されている。(シトルリン酸と喫煙の遺伝学的データの報告)

関節リウマチ - Wikipediaより引用



先日行われたアカデミー賞授賞式。
シェイプ・オブ・ウォーターが4冠ということで、主演女優賞ノミネートのサリー・ホーキンスの演技が光る。

そんな彼女が演じたモード・ルイス。
こちらは「シェイプ・オブ・ウォーター」とはまた違った障害を持つ女性なのですが、その自然体の演技と表情、細かな所作のひとつに至るまで全てが素晴らしい。


また、モードの夫エベレット役にイーサン・ホーク
彼もまたいい空気感を出すんですよ。

不器用でツンデレな漁師(笑)
そして、プライドと本音に葛藤しながらも少しずつモードに惹かれ、大切に想う優しさを見せる。



総評

窓から見える景色。静かに移り変わる季節。
そんな情景を切り取るように部屋や紙に描かれる色鮮やかな草花や動物たち。
その絵を見る人に命の尊さとその輝きを、そして絵を描くことの楽しさを伝える。




自分の居場所を求めるモードと、自分の居場所に閉じ込もるエベレット。
時にはぶつかり合い、葛藤しながらも次第に同調していく。
互いが互いを刺激するように、二人も時の流れとともに変化していく。

まるで真っ白なキャンパスから絵を描きあげていくように、モードとエベレットの二人の関係も少しずつ、しかし確実に夫婦の形となっていく。



この作品はモードだけでも、エベレットだけでも成り立たない。
あくまでも"夫婦"の愛を描いた作品だ。
よって、どちらのキャラクターにも偏ることない演出、二人のバランスが重要となってくる。

その点においても、サリーとイーサンの二人の演技は完璧と言えますね。
自然体であり、絶妙な空気感を持つ二人だからこそなのですが。


派手な描写や目に見える大きな変化はない。
どちらかと言えば退屈でごく平凡な日常が映る。

しかし、この状況と心理描写の変遷の繊細さが、心を響かせ優しく包み込む。



なんていい映画なんだ。

そう思わせる魅力が詰まっています。
そう、これは「パターソン」を観終わった後の感情に近しい。



終わりに

Wikipediaによると、エベレットはモードが亡くなった後、晩年絵を描いていたそうですね。

邦題の「しあわせの絵の具」
色どり豊かな絵の具は二人の人生を彩った夫婦を繋ぐ絆なのかもしれません。

どのシーンを切り取っても好きという感情を抱いてしまう。
こんな愛おしい一作に出会えて幸せです。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2016 Small Shack Productions Inc. / Painted House Films Inc. / Parallel Films (Maudie) Ltd.

愛と喪失の物語(「シェイプ・オブ・ウォーター」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は話題にもなっている「シェイプ・オブ・ウォーター」です。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Shape of Water
製作年:2017年
製作国:アメリカ
配給:20世紀フォックス映画
上映時間:124分
映倫区分:R15+


解説

パンズ・ラビリンス」のギレルモ・デル・トロが監督・脚本・製作を手がけ、2017年・第74回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したファンタジーラブストーリー。1962年、冷戦下のアメリカ。政府の極秘研究所で清掃員として働く女性イライザは、研究所内に密かに運び込まれた不思議な生き物を目撃する。イライザはアマゾンで神のように崇拝されていたという“彼”にすっかり心を奪われ、こっそり会いに行くように。幼少期のトラウマで声が出せないイライザだったが、“彼”とのコミュニケーションに言葉は不要で、2人は少しずつ心を通わせていく。そんな矢先、イライザは“彼”が実験の犠牲になることを知る。「ブルージャスミン」のサリー・ホーキンスがイライザ役で主演を務め、イライザを支える友人役に「ドリーム」のオクタビア・スペンサーと「扉をたたく人」のリチャード・ジェンキンス、イライザと“彼”を追い詰める軍人ストリックランド役に「マン・オブ・スティール」のマイケル・シャノン
シェイプ・オブ・ウォーター : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編




愛と水

恐らく、「シェイプ・オブ・ウォーター」をご覧になられた方は、なんて切ない愛の物語なんだ!と思ったでしょう。

別に批判するつもりはなく、まさにその通りだと思います。



Twitterにも挙げた通り、自分もその感想に辿り着きました。



冒頭の映画「砂漠の女王」「恋愛候補生」
これは紛れもなくイライザを比喩しています。

実際に「砂漠の女王」という映画があります。
ルツ記を基にしたこの作品は、モアブ国でいけにえとなるはずだった少女ルツが、ユダヤ国の青年マーロンと出会い、そして捕らえられたマーロンを助け出す話なんですが、本作と共通する部分が感じられます。

「恋愛候補生」は観ていないのでわかりませんが(笑)


また愛を水と喩えるなら、「砂漠の女王」は水のない砂漠、愛を知らない女性を指す。
つまり「恋愛候補生」なのです。


ただ、愛と水と表現すると官能的な響きになっちゃいますね(笑)



Twitterで、水は清らかで美しいと表現しました。
愛とは美しいものなのです。
しかし、時には汚れるものでもあります。
愛故に嫉妬や猜疑心、束縛、性欲、様々な汚れも存在する。

どうやら、私の心は汚れてしまっているようです。



決められた行為のように、決められた時間でゆで卵を作る間に自慰行為をしていたイライザが、半魚人と出逢ってからその自慰行為の描写が見られない。
これはイライザが半魚人を異性として見始めたこと、そして性欲がそちらに向いたことも意味していると思います。

また、イライザが半魚人に恋をしてしまった経緯もしっかりと描かれていました。



ひとつの要因は共通点


共に川から拾われ、卵と音楽が好きで言葉が話せない。
イライザは少しずつ半魚人に惹かれていく。
そして、イライザの首には魚のエラのような傷があることからも、半魚人もイライザを自己投影していたのかもしれません。


もうひとつの要因は吊り橋効果

聞いたことがあると思いますが、吊り橋のように恐怖心を抱いた時、その心臓の鼓動が恋をした時の鼓動だと錯覚し、恋に落ちるという昔から使われる手です(笑)

さあ、片想いの男子は遊園地デートでジェットコースターに乗るんだ!

イライザは初対面で異型の半魚人に畏れを抱いていました。
しかし、畏れと好奇心というドキドキから半魚人に恋(勘違い)をしてしまったのです。





ミュージカルシーンでもイライザの心模様が表現されていましたね。

美女と野獣」を皮肉に意識しています。

デル・トロ監督自身、実際に実写化に着手しかけたものの、降板していましたね。

彼はこうも語っています。
「僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ? だから僕は半魚人を野獣のままにした。モンスターだからいいんだよ。」と。

ごもっともです(笑)





自宅のバスルームで初めて愛を交わしたシーン。
バスに乗るイライザの横で雨水の水滴が2つ交わる描写が入りましたが、これは性行為を指す。
つまり、水は愛を意味することを決定づけるシーンなんですよね。


バスルームを水で満たし、抱き合う様はまるで愛に包まれるかのように


水を愛とするなら、愛の中で生きるなんて事も言えるだろうが、海とは勿論海水のこと。
真水の比重は1、つまり1ccあたり1.000g。
海水の比重は1.025なので1ccあたり1.025g。
ラストで海の中へと沈んでいく様子は、より深い愛に包まれたと解釈しても良いだろう。


水を愛と比喩する一方で、雨水、浴槽の水、海水。淡水から汽水、汽水から海水へと水の比重を増やすことでイライザと半魚人の愛の変遷、重さや深さを明確に表していると思う。



愛も水も形のないもの。
しかし、型にハマればどんな形にもなれる。
たとえ種族が違っても、そこに愛は形作れるのだと。



ギレルモ・デル・トロ監督自らもその事について語っています。

デル・トロ監督は「男女の愛やロマンチックな愛、友情、仕事や科学に対する愛。または、誰かのために何かを行う(献身的・自己犠牲的な)愛。“愛”というのはさまざまな形を持っている。水も同じだよね。決まった形がなく、色々な形になる。僕は、“愛”と“水”は同じだと思っているんだ。(本作では)愛の可能性について探りたかったんだよ」と慈しむようなまなざしで語る。監督の思いは本作のタイトルにも反映されており、「シェイプ・オブ・ウォーター(水の形)」は、人物ごとに姿を変える「愛そのもの」を示している。
本作は水中で眠るイライザをとらえた幻想的なシーンから始まり、その後も「2分ごと、3分ごとに水が何らかの形で出ているんだ。水を飲むとか、涙を流すとか、雨が降るとか、卵をゆでるとかね。常にそれは意識していたよ」と監督が語る通り、水、つまり愛のメタファーが随所に登場。見る者に愛の流動的なイメージを強く印象付ける。
【デル・トロ監督インタビュー:前編】「シェイプ・オブ・ウォーター」のタイトルに込めた真意 : 映画ニュース - 映画.comより引用




人魚と半魚人

この作品に登場する半魚人。
皆さんがイメージされる半魚人でしたか?
そもそも、人魚と半魚人の違いって何でしょう?

人魚

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる人魚(マーメイド)の絵画(1900年)

英語ではマーフォーク (merfolk) と言い、特に若い女性の人魚はマーメイド (mermaid) または男性の場合はマーマン (merman) と呼ばれる。マー (mer-) は、単語では mere となり、いずれもラテン語の mare(海)に由来する。
ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)である。今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16–17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている。
人魚 - Wikipediaより引用


半魚人

海の司教。1531年にバルト海にて捕獲とある。

半魚人(はんぎょじん)とは、ヒトと魚類の中間的な身体をもつ、伝説の生物。
二腕二脚だが、鱗やエラを持つなどの特徴があることから水棲人(すいせいじん)とも呼ばれ、英語ではマーマン(Merman)と称されることが多い。なお、上半身が人間、下半身が魚の姿(脚が無い)のものは人魚と呼ぶのが普通である。
アマゾン川に生息するといわれる(?)、上半身が魚、下半身が人間という形態のものは魚人と呼ばれる。
近年の創作作品の中では、「手足にヒレや水かきがあり、全身がうろこで覆われ、頭部が魚のもので、言葉を話す人間のような生物」といった形態が、ステレオ的に用いられている。
半魚人 - Wikipediaより引用



ここまでは恐らく一般的なイメージでしょう。
では、本作における半魚人の正体とは一体なんなのでしょうか?


ストリックランドとゼルダの会話を思い出してほしいのですが、二度ほどサムソン、ペリシテ人という会話がされます。

ダゴン

ダゴン(英: Dagon、ヘブライ語: דָּגוֹן [dagon])は、古代フェニキアの神。マリとテルカに神殿が発見されている。聖書によって古代パレスチナにおいてペリシテ人が信奉していたことが知られる。

旧約聖書サムエル記上第5章に記述された内容によれば、ペリシテ人イスラエルと戦い、勝利して契約の箱を奪ったとき、アシトドのダゴンの神殿にこれを奉納した。翌朝、ダゴンの神像は破壊され、ペリシテ人は疫病に悩まされたため、ペリシテ人は賠償をつけて契約の箱をイスラエルに返したとされる。破壊された神像は頭と両手が切り離されて魚のような体の部分だけが残っていたという。また、旧約聖書士師記16章には、サムソンを捕えたペリシテ人は、ダゴンに生贄を捧げ、ダゴンの神殿でサムソンを見せ物にした。しかし、サムソンは力を取り戻し、中心の2本の柱を引き倒すことで神殿を崩落させ、3000人のペリシテ人とともに死んだ事が書かれている。



クトゥルフ神話ダゴン

クトゥルフ神話ダゴンが取り入れられたのはハワード・フィリップス・ラヴクラフトが著作の小説「インスマウスの影」で半魚人である「深きものども」あるいは「インスマウス人」によって組織された邪悪な教団をダゴン密教団と呼び、ダゴンを神としていたところからである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ダゴンtitle:より引用





ラヴクラフトの小説「インマウスの影」でも青白く蛙にも似た容貌の半魚人が登場し、主人公の祖母の名前がイライザである。

きっと、イライザという名前もここから取られたのではないでしょうか?




少なからずデル・トロもこのラヴクラフトクトゥルフ神話の影響を受けていると思われます。
本作でも半魚人を神だとした会話がありました。

つまり、本作における半魚人とはダゴンのことを指すのではないだろうか。


またイライザは人魚姫と同じく声が出せないという設定にも、半魚人がイライザに自己投影したことを裏付けます。



本当に純愛なのか?

これが言いたいがために、今まで散々愛だの何だのと語ってきました(笑)


この作品は果たして本当に純愛なのか?


なぜ自分がそのような考察に至ったか。
それはこの作品の始まりと終わりからも、語り部として描かれていたのはイライザの良き理解者でもあったジャイルズ。
この作品はあくまでもそのジャイルズから見た視点で描かれている。

つまり、異型との美しい愛の物語は真実ではない可能性もあるのではないかと思うわけです。

いや、"真実ではない"は語弊がありますね。
ジャイルズの創作の可能性もあるのではないか。

自分の性格がひねくれてるからだと思うので、ここから先は暖かい目で見てやってください。



まず冒頭で「愛と喪失の物語」と語られています。
ここで何か引っかかりませんでしたか?
自分は少なくとも引っかかった人間です。


愛とは勿論、イライザが半魚人へ抱いた感情を指します。
では喪失とは何か?


普通に考えればイライザのことでしょう。
良き理解者であった彼から見た喪失はイライザのほかなりません。

またストリックランド初めアメリカ側からすれば、半魚人のことでしょう。



しかし、この物語は愛をテーマとしたもの。
例えば、第三者から見た「イライザと半魚人の愛」を語るとするなら、わざわざ「愛と喪失」と語るでしょうか?

イライザにとっては胸中の半魚人と共にハッピーエンド。
喪失という言葉を使わず、「愛の物語」として語ればいいもの。


ジャイルズ視点だからこそ、「愛と喪失の物語」であり、それは彼が描く絵のように創作物、逸話、寓話として描かれた彼の理想、夢物語なのかもしれません。



ここでラストシークエンスに半魚人との別れの予定日の前日、9日のカレンダー裏に書いてあった言葉です。

「人生は失敗の積み重ねに過ぎない」

一見、敵であるストリックランドへの皮肉とも取れる言葉ですが、これはイライザにも当てはまるのではないか?

ラストで半魚人にキスをされたイライザは首の傷が魚のエラのように変化し、水中でも呼吸ができるようになった。
つまりは、イライザは人ではなくなったのだ。
半魚人の本能的行動が招いた結果とも取れてしまう。


そう、これは実際、決して純愛などではなく、半魚人と出逢った運命、そしてその後の行動全てが失敗の積み重ねであるとする運命論的物語なのではないだろうか?



愛を手に入れた。
これ以上、幸せなことはない。
そう見せかけながらも人としての人生を失い、海の底へと沈んでいく…。


仮に半魚人がダゴンだとするなら、旧支配者クトゥルフに仕える従者として位置づけられ、クトゥルフ神話で邪神と教えられる彼にハッピーエンドは有り得るのだろうか?

恋は盲目とも言います。
愛と喪失、結局イライザが自分自身を見失ってしまった結果とも取れてしまう。
そして半魚人が本当にイライザのことを一人の人間として愛していたのなら、撃たれた傷を癒し、一人海へ帰るのではないか?とさえ考えてしまうのである。



イライザと半魚人との愛は、冒頭から語ったように無形の愛です。

一方で、ジャイルズが語るイライザと半魚人の愛は、絵やこの物語の語りで残したように形あるものは失われる。
有形の愛なのかもしれませんね。



終わりに

いつものようにひとつの事柄、今回は半魚人について掘り下げてみましたが、何ともバッドエンド解釈が出来てしまうというオチ(笑)

自分のひねくれた性格がよく投影されています。

まあバッドエンドも有り得るとして考察は進めましたが、監督の言葉や鑑賞後の印象は純愛でいいと思います。
ただ、こんな見方もできるかな?ってだけの話でした。


作中に出てきたストリックランドが購入したキャデラックも緑に見えるティール色。
この作品のように一見同じ色でも、見る人によってその色は変わるということなのかもしれません。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2017 Twentieth Century Fox

カタストロフィーが齎すリアリティ(映画「犬猿」ネタバレあり考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は楽しみにしていて、やっと観に行けた「犬猿」について綴っています。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東京テアトル
上映時間:103分
映倫区分:G


解説

「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔が4年ぶりにオリジナル脚本でメガホンをとり、見た目も性格も正反対な兄弟と姉妹を主人公に描いた人間ドラマ。印刷会社の営業マンとして働く真面目な青年・金山和成は、乱暴でトラブルばかり起こす兄・卓司の存在を恐れていた。そんな和成に思いを寄せる幾野由利亜は、容姿は悪いが仕事ができ、家業の印刷工場をテキパキと切り盛りしている。一方、由利亜の妹・真子は美人だけど要領が悪く、印刷工場を手伝いながら芸能活動に励んでいる。そんな相性の悪い2組の兄弟姉妹が、それまで互いに対して抱えてきた複雑な感情をついに爆発させ……。和成役を「東京喰種 トーキョーグール」の窪田正孝、卓司役を「百円の恋」の新井浩文、由利亜役をお笑いコンビ「ニッチェ」の江上敬子、真子役を「闇金ウシジマくん Part3」の筧美和子がそれぞれ演じる。
犬猿 : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編



犬猿

タイトルの犬猿とは言わずもがな「犬猿の仲」という慣用句が由来ですね。
どちらが一方的に嫌っている関係ではなく、双方が双方を嫌っている関係を表す言葉です。

この言葉の由来は様々な説がありますが、面白い説が二つあります。



ひとつは"干支"にまつわる話。

元日に行われたレースで上位12位までに入った動物に、交代制で年毎にリーダーを任せるという神様の元への競争。

犬と猿は最初は両者の関係は良好でした。
それも仲良く一緒に出発して向かっていくほどの仲。
しかし、お互いに真剣になって相手に負けまいと一生懸命になっていった結果、途中の丸木橋で我先にと争って一緒に川に落ちてしまい、犬と猿の両者共に神様のところにたどり着くのが遅れてしまったそうです。

それが原因で犬と猿は大喧嘩をしてしまい、神様の元にたどり着いても喧嘩を続けていたというお話です。


犬猿の仲」という言葉の意味は、単に「仲が悪いこと」ではなく、正確には「かつては仲が良かったが仲違いをして悪化した関係」という意味なんです。



もうひとつの面白い説が"戦国時代"にまつわる話。

かつて戦国時代、天下統一を果たした豊臣秀吉は""というあだ名で呼ばれていたことは多くの人がご存知だと思います。
秀吉には前田利家という大親友がいました。
利家の幼名は"犬千代"。
両者は互いに"犬"、"猿"と呼ぶ間柄であったそうです。

二人は共に尾張の出で、昔から「尾張の言葉は汚い」と言うところから、両者の会話が他国人から見ると大喧嘩に見えたそうです。
「仲が悪い」と思い込んでしまい、この言葉が出来たそうです。


この言い伝えからも「仲が良い関係」が周りから見ると「仲が悪い関係」に見えてしまったことを意味します。



兄弟姉妹の決まり文句で「喧嘩するほど仲が良い」なんて言葉もあります。






・・・・・果たしてそうでしょうか?

個人的な話で申し訳ないんですが、自分には一歳半ほど年の離れた妹がいます。
作中では兄弟、姉妹で描かれていましたが、兄妹でも兄弟姉妹に抱く感情って共通してる部分はあると思うんです。

喧嘩している時はマジで消えてほしいとさえ思います。

(笑)



いやはや、私自身もそこそこの年齢になってきて、今でこそ喧嘩自体は無くなりましたが、小さい頃は歳が近いってのもあってよくくだらないことで喧嘩をしたものです。

性別が同じなら更に酷かったことでしょう。

兄や姉、弟や妹。
親や周りから比較されることで抱く劣等感。



"人間は比べたがる生き物だ"
自分がよく言う言葉です。

何かにつけて優位に立ちたがる。
また承認欲求や自己顕示欲を満たすため、優越感を得るために他人の悪口を言ったり蔑みマウントを取りたがる。

この作品はそんな他人ではなく、血の繋がった兄弟姉妹だからこその悩み、葛藤が巧みに練り込まれています。

完璧な人間なんていない。
自分にないものを持っていることは憧れでもあり、嫉妬するもの。
でもその相手が兄弟姉妹だからこそ、強がったり言いたいことを遠慮なく言えたりする。


犬猿」とはそんな兄弟姉妹が持つ特有の感情を的確にリアルに描かれた素晴らしい作品です。



兄弟姉妹は最も身近なライバル

先程、兄弟姉妹が抱く劣等感と記述しました。
本作でもその劣等感による嫉妬や悩みが幾つも描かれています。



そしてそのひとつひとつの演出が本当にリアルすぎるんですよ。


例えば兄弟で言うなら給料、父親の借金返済。
コツコツと真面目に働き生きてきた弟と出所後に会社を興し大金を得る兄。
父親の借金返済を済ませた兄と給料値上げにも素直に喜べない弟。
大金でマッサージチェアを送った兄と安くても気に入られる座椅子を買った弟。


姉妹に関してもそうだ。
姉の好きな人を恋人にした妹。
美人な妹と容姿に自信が無い姉。
頭の良い姉と馬鹿な妹。
家事が出来ていい嫁になると言われる姉と家事もせずにテレビを見る妹。


互いが互いを羨望し、疎ましくも思う。
そして、相手に負けないように強がってみたり、虚勢を張ったり、生きていく上で最も身近なライバルなんですよ!



その対比として描かれたのが弟と妹の遊園地デートです。


互いに互いの兄弟姉妹の悪口を言うんです。
弟は兄をバカにし、妹は姉をバカにする。
でも、妹が兄をバカにすると弟が弁解し、弟が姉をバカにすると妹が弁解する。
何やかんやで嫉妬する一方で自分の兄弟姉妹の良い部分をちゃんと認めている節もあるんですよね。


ここが兄姉が入院し、仲直りする流れに繋がるんです。
互いの良いところを認めること。
それでも悪いところは認めないぞ、と(笑)

この絶妙なバランスの元で兄弟姉妹の関係は成り立ってるんですよね。



あと、兄弟姉妹ってどこか似てる部分もあるんですよ。

例えば、兄弟揃って喫煙、親孝行、借金返済。
姉妹揃ってデート先が同じ遊園地(笑)


それは本人は認めない部分でもあり、周りから見ればふと気付かされる部分でもある。

これも兄弟姉妹ならではの描写ではないでしょうか?



カタストロフィー理論

「好きと嫌い」
同じような言葉で「愛と憎しみ」という言葉があります。

皆さんはこの言葉でどんなイメージをされますか?






自分が真っ先に出たのは"紙一重"でした。
中には"表裏一体"や"対極"なんて言葉が浮かんだ方もおられると思います。

そう、「愛」の裏側には「憎」があり、対極を成しながら表裏一体、紙一重の位置関係にあるものなんです。

このように、相反する感情があることをきっかけに入れ替わること、秩序だった現象の中から不意に発生する無秩序な現象を心理学の分野で「カタストロフィー理論」と呼びます。

カタストロフィーとは"大変動"や"破局"を表す言葉です。



この作品犬猿ではこのカタストロフィー理論が幾つも練り込まれているんです。

そこがすごいリアル!


暴力的な兄が突如優しく思えたり、クソ真面目な弟が実は腹黒く見えたり、不憫な姉が性格までブスに見えたり、いい子だと思ってた妹が最低だったり。

そして物語としては相容れなかった兄弟姉妹が仲直りし、そしてまた睨み合う。


兄と弟、姉と妹、好きと嫌い、愛と憎、これらが対比するように描かれています。

感情の入れ替わりは距離感は勿論のこと、血縁的、遺伝的にも近しい間柄、兄弟姉妹だからこそ起こりやすいのかもしれません。



幼少期と現在とでその心変わりをも描く吉田恵輔監督の上手さがでてましたね。



兄弟姉妹がおられる方には特に心にズシンと来るものがあったと思います。

幾度となく共感し、心を抉られ、頷き、笑える。

そんなリアリティを突き詰めた傑作なので、是非ともより多くの方にご鑑賞いただきたい。



終わりに

窪田正孝さんは俳優として売れて良かったですよ!
演技も良いし、表情も好きです。


新井浩文さんは本当に俳優として凄く好きな役者さんで、初登場シーンからのオーラがハンパないです!


ニッチェ江上を起用したことは素晴らしい。
ハマり役なのは勿論、笑いを取る所も台詞回しも慣れてらっしゃる感じで観ていても違和感なかったです。


にゃんにゃん(?)
ということで、結論として筧美和子は可愛い。



しつこいようですが、兄弟姉妹がおられる方は是非観てください!
そして、一人っ子の方がこの作品を観てどう感じられたのかお聞きしたい!


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2018「犬猿」製作委員会

若者の痛みが凝縮された映画「リバーズ・エッジ」(ネタバレあり考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は今になって突然実写化された「リバーズ・エッジ」について語っています。

Twitterでは散々「リバーズ・エッ〇」なんて原作ネタで遊んでましたが、二階堂ふみさんがちゃんと脱いでたなんて。
おっぱいとお尻、すごいスタイルいいですよね。
体を張った演技に注目です。

そして吉沢亮さんの無機質な演技。
感情の籠っていない淡々とした口調とやられっぷりは仮面ライダーフォーゼのメテオを彷彿とさせます(笑)
ウホッ!いいケツ!って叫びたくなること間違いなし。

その他、俳優陣も良い味出してました。
こずえが原作にかなり近くてびっくりです。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:キノフィルムズ
上映時間:118分
映倫区分:R15+


解説

1993年に雑誌「CUTiE」で連載されていた岡崎京子の同名漫画を、行定勲監督のメガホン、二階堂ふみ吉沢亮の出演で実写映画化。女子高生の若草ハルナは、元恋人の観音崎にいじめられている同級生・山田一郎を助けたことをきっかけに、一郎からある秘密を打ち明けられる。それは河原に放置された人間の死体の存在だった。ハルナの後輩で過食しては吐く行為を繰り返すモデルの吉川こずえも、この死体を愛していた。一方通行の好意を一郎に寄せる田島カンナ、父親の分からない子どもを妊娠する小山ルミら、それぞれの事情を抱えた少年少女たちの不器用でストレートな物語が進行していく。ハルナ役を二階堂、一郎役を吉沢がそれぞれ演じる。
リバーズ・エッジ : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編




若者に向けたメッセージ

初めにTwitterの感想から。




さて、早速本題に入っていきます。


1993~94年に「CUTiE」(宝島社刊)で連載されていた岡崎氏の同名原作は、バブルが弾けた90年代を舞台にリアルなセックス描写を含む愛や暴力、若者たちの欲望や不安、焦燥感を果敢に描いたことで多くのファンを引き付けたことで知られています。


行定勲監督のコメント

行定監督は「ずっと漫画の映画化に抵抗してきた」というが、「岡崎京子さんの名作はあまりにも魅力的でついに手を染めてしまった」と胸中を告白。さらに、「私たちが生きたけがれた青春は今の時代にどれくらい杭を打てるのだろうか? 日々、苦闘しながら撮影しています」とコメントを寄せている。
岡崎京子「リバーズ・エッジ」映画化!二階堂ふみ×吉沢亮が行定勲監督とタッグ : 映画ニュース - 映画.comより引用



自分は概ねこの世代の人間なのですが、時代は違っても日常の無感動や無感覚という若者ならではの孤独感や虚無感は現代の若者たちにも刺さる部分があるのではないでしょうか?

イジメ、LGBTへの差別、暴力、セックス、ドラッグ、摂食障害、ひきこもりなどなど、若者の社会問題、若者の痛みが凝縮された「リバーズ・エッジ」は、性からも死からも離れた童貞や処女たちに送るメッセージなのだ。

だからこそ、今の多くの若い人に観てもらいたい作品でもあります。
決して共感を得る映画ではないですが、心に刺さる部分があるのではないでしょうか?




生を感じる瞬間とは?

突然ですが皆さんは日常生活で"生きている"と実感することってありますか?


自分はやはり、死に直面して助かった時、所謂
九死に一生
というやつですね。


…って、平凡な?と言われるとそれなりに人生経験はしてきていますが、そんな危険なことはありませんよ(笑)

多分、普段何気なく生活を送っていると
仕事→帰宅→風呂→Twitter→寝る→仕事→…
と毎日毎日同じことの繰り返し。

生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか、分からなくなることがあります(病んでません)



世の中は勿論、平和が一番だとは思います。
しかし、世の中で何事も起こらないなんてことはない。
ニュースを見ていてもそう。
悪いニュースは必ず毎日流れています。
良いニュースしか流れない、ネタのない日なんてなかなかありませんよね。

常に平坦であり続けるはずがないんです。

例えば、日常生活で人の死を目の当たりにすることは日常的ではありませんよね?
しかし、その人の死を伝えるニュース自体は我々にとって平坦な日常なんです。
身近でない出来事はほぼほぼ無関心なんですよ。


それはこの物語でも同じで、平坦であり続けるはずがない日常で彼らにとっての平坦な日常を送っている。
そんな物語を、死人同然の若者たちのフィルターを通して見せることで、今の若者たちに生の命を吹き込むバイブルになり得るのではないか?
と思うわけです。



死体との関係性

先ずは河川敷の死体と彼女らの関係性について考えていきます。


ハルナは彼氏でもある観音崎から虐められている山田を助けたことから、"大切な宝物"を見せたいと言われて河原へと連れていかれる。
そこで見たものは白骨化した死体であった。

「これを見ると勇気が出るんだ」と言う山田に絶句するハルナ。
宝物として死体の存在を知る後輩でモデルのこずえが現れ、3人は特別な友情で結ばれる。

死体と彼女らの出会いを要約するとこんな感じですかね。



・ハルナと河川敷の死体

ハルナが初めて死体を見た時
「実感がわかない」と言っています。
恐怖というよりも何か感情のひとつを失っているようにも見えました。

ハルナ自身、授業もサボり気味で毎日タバコを吸いながらボーッと外を眺める毎日。
観音崎と付き合いつつもセックスに対しても非常に淡白です。

"何もリアリティを感じないリアリティ"を抱いた、ある意味、他人に対して死人のようでどこか感情がないようにも見えます。


・山田と河川敷の死体

山田は学校で虐められる一方で、虐める相手を殺してやりたいと思う一面も覗かせます。
一方で彼女のいる山田は実はゲイで、彼の関心は片想いのサッカー部男子。
田島カンナという彼女との疑似恋愛的なデートにも無感情、お金を稼ぐための売春行為も感情が欠落したようにハルナと同じく死人のようでもある。

そんな山田にとって死体とは、注目を浴びない存在。
つまり自分の立場との対比であり、非日常への希望の光であり関心を示すもの。
自分の置かれている日常とは違う世界。
死体のある河川敷は憧れに近い聖域のような場所なんです。

原作では河川敷の死体を見つけた同級生と揉み合いになる場面ですが、実写化では少し改変されており死体は同級生に見つかることはありませんでした。
虐められっ子が怒り狂って襲いかかる様はまさに聖域を犯す輩に立ち向かう、そんなところでしょうか。


・こずえと河川敷の死体

こずえはモデルという顔とは別に過食と吐くという摂食障害の食生活を送る。


同級生に死体が見つかりそうになり、埋めることにした3人。
その時、こずえはハルナにこう質問します。
「ハルナさん、この死体を、初めてアレみた時どう思った?」
ハルナは「…よくわかんない」と答える。

それに対してこずえはこう答えた。
「わたしはね “ザマアミロ”って思った。
世の中みんなキレイぶって、ステキぶって、楽しぶってるけどふざけんじゃねぇよって、ざけんじゃねぇよって。
ざけんじゃねぇよ、いいかげんにしろ。
あたしにも無いけどあんたらにも逃げ道ないぞザマアミロって…なーんて」(原作から)

ここに共感した人いますか?
恐らくいないと思います。

日常生活で本音と建前で不満に思うことはあります。
しかし、死体を見てこんなこと思うでしょうか?

これは"死体を見たから"ではなく、ハルナに対して自分の思いをぶちまけたんです。
ハルナを自分と同じような人間だと、感情に虚無感を抱くハルナなら理解してくれると思ったのでしょう。



・ハルナとこずえと猫の死体

ハルナとこずえの関係は子猫のシーンからも明らかです。


こずえにとってビニール袋に入った子猫の死体は「ミートボールみたい」といった無関心に近いもの。
むしろ「ザマアミロ」の感覚だったのかもしれない。
ハルナも自分と同じ人間だと、この感情を理解してくれると思ったこずえはハルナにも見せる。


そこで初めて感情を露わにし、泣きじゃくるハルナに驚きながら慰めるこずえ。

同じ感情ではなくとも、二人の距離が縮まった瞬間でもありますね。



観音崎とルミ

観音崎とルミの事故の後、河川敷での観音崎とのセックスもハルナは無表情のままでした。
河川敷にあった死体と重なるように描かれたこのセックスは、ハルナが死を連想するものだと位置づけたと考えられます。

観音崎の殺害は未遂に終わりましたが、事件後に発狂したルミは死人のようになってしまう。
ハルナともう一人の友人でルミの見舞いに行くが、ハルナは涙すら流すことはなく、ほとんど無表情のまま。

一連の非日常も、観音崎とのセックスも、ハルナにとっては"何もリアリティを感じない"、やり過ごすしかないのだ。



・山田とカンナの死体

ラストシークエンス。
山田の彼女であったカンナ。
嫉妬からハルナの部屋に火をつけ、自身も焼身飛び降り自殺を謀ります。
このカンナの死体を見た時の山田の笑みは観終わった後も暫く忘れられませんでした。


死んでしまったカンナの方が好きだなんて、山田は河川敷の死体を見つけた時から何も変わっていない。
きっと山田がハルナに河川敷の死体という"大切な宝物"を見せたのも、ハルナに死を感じたからでしょうか?

一方で、生きているハルナも好きだと語る山田。
ここで初めてハルナ自身が"自分は死人同然だ"と自覚するわけです。
なぜなら山田は死体しか好きではないから。
正しくはそっと見守るだけのサッカー部男子を除く(笑)



ハルナへのインタビューでも語られました。
生きていると実感出来るのはどういう時か?の問いに対してハルナは「感じる時」と答えています。

自分が"何も感じない死人"だからこそ、"生きている実感"がわかるのだ。



ウィリアム・ギブスンの詩

この作品のラスト、山田からハルナへひとつの贈り物が手渡されます。
そしてハルナと山田の二人で語るウィリアム・ギブスンの一説。

THIS CITY IN PLAGUE TIME
この街は 悪疫のときにあって
KNEW OUR BRIEF ETERNITY
僕らの短い永遠を知っていた
OUR BRIEF ETERNITY
僕らの短い永遠
OUR LOVE
僕らの愛
OUR LOVE KNEW
僕らの愛は知っていた
THE BLANK WALLS AT STREET LEVEL
街場レヴェルののっぺりした壁を
OUR LOVE KNEW
僕らの愛は知っていた
THE FREQUENCY OF SILENCE
沈黙の周波数を
OUR LOVE KNEW
僕らの愛は知っていた
THE FLAT FIELD
平坦な戦場を
WE BECAME FIELD OPERATORS
僕らは現場担当者になった
WE SOUGHT TO DECODE THE LATTICES
格子を解読しようとした
TO PHASE-SHIFT TO NEW ALIGNMENTS
相転移して新たな配置になるために
TO PATROL THE DEEP FAULTS
深い亀裂をパトロールするために
TO MAP THE FLOW
流れをマップするために
LOOK AT THE LEAVES
落ち葉を見るがいい
HOW THEY CIRCLE IN THE DRY FOUNTAIN
涸れた噴水をめぐること
HOW WE SURVIVE IN THE FLAT FIELD
平坦な戦場で僕らが生き延びることを

ウィリアム・ギブスン『THE BELOVED(VOICES FOR THREE HEADS)』より

「僕らは現場担当者になった」って「WE BECAME FIELD OPERATORS」だから、ここでいう「現場」って「平坦な戦場」のことだったんだ。つまり「平坦な戦場」を自らの活動の舞台として生きる人間になったということ。

最後の4行で「HOW THEY CIRCLE IN THE DRY FOUNTAIN」と「HOW WE SURVIVE IN THE FLAT FIELD」は対を成しているから、「平坦な戦場で僕らが生き延びること」は「干上がった噴水の中で風に吹かれた落ち葉が渦を巻くこと」と同じことなんですね。(←ホントかよ!?)

「ArT RANDOM 71 Robert Longo」京都書院 - 日々の雑感(tach雑記帳はてなブログ版)より引用


何度も作中で映し出される工場とその工場から排出される汚水。

河の流れのように時には流され、時には逆らいながら畝り淀むこの河の水こそが、平坦な日常であり、彼女らの生と死の狭間を意味する。

行き場を失くした汚水という負の感情が河を濁らせ、留まり、異様な臭いを放つ。
非日常とは突然起こるわけではなく、実は徐々に、だが着実に淀みを積み重ねて、水面下で形作られるものなのではないだろうか?


そんな中、河川敷の死体と出会うことで、その平坦な日常が一気に崩れ、そこで死人同然だった若者たちが生きている実感を得た。

彼女らの生き延びる場所は平坦な戦場、干からびた噴水のように空っぽで殺伐とした景色である。
しかし、そんな若者たちも我々のいう平坦な日常の中を漂いながら、生きていく術を模索していくしかないのです。



エンディングテーマ




岡崎京子と親交のある小沢健二が映画のために書き下ろした楽曲。
小沢にとって初の映画主題歌となる同曲には、ハルナ役の二階堂ふみと山田役の吉沢亮も参加している。

ポップさと奇抜さを交えたこのエンディングテーマ。

二階堂ふみのコメント
まるで、問いかけるように、思い出を語らうように、寄り添うように、明日に向かう曲を聴きました。『リバーズ・エッジ』へと導く小沢さんの唄は、懐かしい新しい、現在進行形の作品だと思います。

吉沢亮のコメント
映画のラストでこの曲が流れて来た時、大切な何かが過ぎ去っていくのをただじっと見守っているような、切なさと温かさが入り混じった感覚に自然と涙が流れました。初めてデモを聴いた時から今日まで、毎日気が付くと頭の中で流れています。

行定勲監督のコメント
映画の終わり方として、何かひとつの時代性の総括がほしいと思っていました。「あの時代はなんだったのか」ということを語るのに、岡崎京子を一番理解している人間はメロウじゃなくて感傷的じゃなくて、ものすごく爽やかなんだと。だからこんなにも力強いんだって。僕たちの予想を軽々と裏切ってくる楽曲をとてもすばらしく思いました。

小沢健二、岡崎京子原作「リバーズ・エッジ」で初の映画主題歌(コメントあり) - 音楽ナタリーより引用

エンディングでこの曲が流れた時、一瞬「あれ?なにこの違和感www」でしたが、気が付くとクセになってました。
変な中毒性がありますね。



終わりに

原作を読んでいたのは随分昔なので記憶が曖昧ですが、実写化は原作に忠実で、その独特の空気感を表現出来ていると思います。
非常にうまく作り込まれているのではないでしようか。

ただ、もうひとつ実写化するにあたって多少の改変があってもよかったのかなあというのも否めませんね。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。






(C)2018映画「リバーズ・エッジ」製作委員会/岡崎京子・宝島社


リバーズ・エッジ

リバーズ・エッジ

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

「殺人者の記憶法」「悪女/AKUJO」と韓国映画について(ネタバレなし感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今日は韓国映画2本立てということで
殺人者の記憶法」「悪女/AKUJO」
を観てきました。

今回はこの2作を絡めた韓国映画について、ネタバレなしで語っていきます。



作品概要


(C)2017 SHOWBOX AND W-PICTURES ALL RIGHTS RESERVED.

原題:Memoir of a Murderer
製作年:2017年
製作国:韓国
配給:ファインフィルムズ
上映時間:118分
映倫区分:G


解説

「監視者たち」「ソウォン 願い」「シルミド SILMIDO」など数々の作品で韓国を代表する名優ソル・ギョングが、アルツハイマーのために記憶があいまいな元連続殺人犯を演じ、「ワン・デイ 悲しみが消えるまで」「パイレーツ」のキム・ナムギル扮する新たな連続殺人犯との対決を描いたミステリーサスペンス。かつて連続殺人を犯した獣医のビョンスは、いまはアルツハイマー病に侵され、記憶がおぼろげになっていく日々を送っていた。あやふやになる記憶への対処のため毎日の出来事を録音する習慣がついていたビョンスは、ある日、偶然出会った男テジュの目つきに、テジュが自分と同じ殺人犯であるという確信を抱く。やがてテジュはビョンスのひとり娘ウンヒのそばをうろつくようになり、ビョンスはひとりでテジュを捕らえようとするのだが……。
殺人者の記憶法 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編






(C)2017 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & APEITDA. All Rights Reserved.

原題:The Villainess
製作年:2017年
製作国:韓国
配給:KADOKAWA
上映時間:124分
映倫区分:R15+


解説

「渇き」のキム・オクビンが女暗殺者を熱演したスタイリッシュアクション。日本で「22年目の告白 私が殺人犯です」としてリメイクされた映画「殺人の告白」で知られるチョン・ビョンギル監督が手がけた。犯罪組織の殺し屋として育てられたスクヒは、いつしか育ての親ジュンサンに恋心を抱き、やがて2人は結婚するが、ジュンサンが敵対組織に殺害される。怒りにかられたスクヒは復讐を果たすが、国家組織に拘束されてしまい、国家の下すミッションを10年間こなせば自由の身になるという条件をのみ、国家直属の暗殺者として第2の人生を歩み始める。やがて、新たな運命の男性と出会い、幸せを誓ったスクヒだったが、結婚式当日に新たなミッションが下され……。
悪女 AKUJO : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編





韓国映画の魅力

この2作は映画情報を知ってから、楽しみにしていた作品です。
何と言っても私、韓国映画好物なんですよね。


個人的な意見ですが、韓国映画の最大の魅力は心理描写の繊細さだと思っています。
また、猟奇殺人ものやアクションなどはバイオレンス描写も素晴らしい。
演出ひとつひとつが丁寧で、妥協していないからこそ成し得る作品なのではないでしょうか?

民主化による検閲の廃止と映画法の廃止によって法的な制限がなくなったことや、韓国経済が潤い財閥がスポンサーになって製作費が増したことなど、裏事情もあるにはあるんですが、高い演技力と中毒性、繰り返し観たくなる魅力があるんですよね。


また、映画「哭声/コクソン」に出演された國村隼さんも韓国映画の魅力について語られています。

國村:実は今回の映画に出る前、韓国映画を観る側だった時に僕自身、その力強い感覚や俳優さんたちのモチベーションが高そうな印象を受けていました。いったい撮影現場はどうなっていて、どうしてこういう作品になるんだろうって興味を抱いていた時にオファーをいただいた。今回参加してひとつ思ったことは、システムの違いもあるでしょうけれど、韓国では撮影現場において監督が絶対的な権力を持っている。すべては監督からのみ発信されて、それゆえに監督はすべての責任を負っているわけです。
(中略)
本当に、エンターテインメントのヒエラルキーでは、おそらく映画が一番高いでしょうね。だから携わっている人たちは高いプライドとモチベーションを持っていて、お客さんがそれを支えている。第一、5,000万人くらいの人口で1,000万人の映画人口がいるわけですから、映画を愛しているんですよ。だから韓国では面白い映画が生まれると、僕は思っています。
國村隼が語る「韓国で面白い映画が生まれる理由」 | AbemaTIMESより抜粋引用


殺人者の記憶法」はバイオレンス描写は少なめで年齢制限もない、この手の韓国映画としては珍しい作品でもありますね。
その代わりと言ってはなんですが、心理描写はずば抜けて凄い。
それもこれも監督の演出と韓国を代表する名優ソル・ギョングの演技力あってのもの。

「悪女/AKUJO」は如何にも韓国映画というバイオレンスさでR15+。
POV視点や、どうやって撮ってるんだろうといった視点の映像が凄まじい臨場感を演出する最新スタイリッシュアクション。
これは役者の演技と監督の拘り、妥協を許さない姿勢です。



雨のシーン

韓国映画のもうひとつの魅力は独特のじめじめとした湿った雰囲気
イメージとして、雨の演出の使い方が非常に上手い。

人物の心理描写と雨の演出との相乗効果で登場人物は一切涙を流していないシーンでも惆悵、慟哭する様を比喩的に表現し、悲嘆さを心に語りかけてくる。


ポン・ジュノ監督作殺人の追憶

© 2003 CJ E&M CORPORATION, All Rights Reserved.

ナ・ホンジン監督作「チェイサー」

(C) 2008 BIG HOUSE / VANTAGE HOLDINGS. All Rights Reserved.

チョン・ビョンギル監督作「殺人の告白」

(C)2012 DASEPO CLUB AND SHOWBOX/MEDIAPLEX ALL RIGHTS RESERVED.

ナ・ホンジン監督作「哭声/コクソン」

© 2016 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.

また、毛色は違いますが
同じアルツハイマーを扱った映画でも雨が演出されています。
イ・ジェハン監督作私の頭の中の消しゴム

(C)2004 CJ Entertainment Inc.& Sidus Pictures Corporation. All rights reserved.



勿論、「殺人者の記憶法」「悪女/AKUJO」でも雨のシーンが使われています。

ウォン・シニョン監督作殺人者の記憶法

(C)2017 SHOWBOX AND W-PICTURES ALL RIGHTS RESERVED.

チョン・ビョンギル監督作「悪女/AKUJO」

(C)2017 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & APEITDA. All Rights Reserved.



自分自身が韓国映画の雨のシーンを意識しすぎてるからかもしれませんが、事件が起こる前兆や事件現場、登場人物の心理的変化の場面で、雨のシーンが多く導入されています。
※主に自分の観た韓国映画での話

もし今後、韓国映画をご覧になられる際には雨のシーンに着目して観てみるのも面白いと思いますよ!



ちなみに、自分が韓国リメイクして欲しい映画No.1は「ミュージアム」ですね。

(C)巴亮介講談社 (C)2016映画「ミュージアム」製作委員会

レーティングを引き上げて、韓国映画ならではのバイオレンスさ、猟奇殺人特有の湿った空気感を最高に演出できると思うんです。

邦画がダメだったわけではないんですが。



第二の人生と対比

殺人者の記憶法」「悪女/AKUJO」
2作の共通点は第二の人生と対比です。

共に"ある過去の出来事"を境に第二の人生を歩むことになります。
そして過去の自分と第二の人生を歩む自分との現状や心情の対比がそれぞれの物語の良いアクセントになってるんですよね。



・「殺人者の記憶法

先ずはTwitterに挙げた感想から。

↑ひとつ誤字があるんですが面倒くさいので直さなかったんですよ(笑)
正しくは「殺人と育児、詩と散文の対比」です。


作中で「殺人は詩、育児は散文」だとあまり深い意味もなく語られます。
しかし、この言葉が忘れられない。
なぜならこの作品を表す言葉として最も適した言葉だからです。


言語の表面的な意味(だけ)ではなく美学的・喚起的な性質を用いて表現される文学の一形式である。

散文
小説や評論のように、5・7・5などの韻律や句法にとらわれずに書かれた文章のことである。

Wikipediaより引用

「殺人は詩」
過去の出来事を表し、習慣として付いてしまった殺人という行為は形を崩すことなく人生に刻まれているもの。
元殺人鬼というこの習慣が過去のトラウマとして作中にも使われる。

「育児は散文」
育児、つまりは親と子の愛を表し、愛の形は常に一定ではなく変化していくもの。
娘を想う気持ちが現実と向き合う事件解決の糸口を明るく照らす。


サスペンスに重きが置かれ、それに並行してアルツハイマーで日々失われていく記憶とそこに起こる事件とを錯綜させる上で、元殺人鬼の心理描写は必須。
アルツハイマーという病に冒され、やりたいこととやらなければならないことが思うようにいかない。
そんなもどかしさ、そしてその事すらも忘れてしまう恐怖を巧みに上手く描いています。


記憶と記録、正気と狂気、現実と虚構、真実と嘘。
アルツハイマーの元殺人鬼だけでなく、我々鑑賞者側も惑わされること間違いなし!



ご覧になられた方はこちらも観たいですよね!


(C)2017 SHOWBOX AND W-PICTURES ALL RIGHTS RESERVED.

韓国を代表する演技派俳優ソル・ギョングの主演で、アルツハイマーにおかされた元殺人犯が、新たに出現した殺人鬼と対峙する姿を描いたサスペンスミステリー「殺人者の記憶法」のストーリーが異なる別バージョン。主人公のアルツハイマーの元連続殺人鬼ビョンスと、新しい殺人鬼テジュの激しい攻防をさらに詳しく描き、周囲を欺き一般社会に溶け込んでいる様子のテジュや、ビョンスから鋭い殺意を感じて疑惑の目を向ける警察官ビョンマン、そして事件の顛末を明らかにしようとする検事といった新しい場面が多数追加されている。
殺人者の記憶法 新しい記憶 : 作品情報 - 映画.comより引用



・「悪女/AKUJO」

Twitterの感想から。

冒頭の7分ノンストップアクションは秒でアガる!
一人称視点と三人称視点の切り替えは素晴らしく、一気に現実から映画の世界へと引き込まれていきます。


チョン・ビョンギル監督もこう語っています。

オープニングならば、何の説明をせずとも違和感を抱かせず、観客に受け止めてもらえると思いました。1番気をつけたのは、スクヒの“1人称”から“3人称”の視点に映像を切り替えるポイントです。映画が始まって『一体誰がこんなすごいバトルをしてるんだ?」と思わせておいて、ある瞬間に視点が切り替わり、スクヒの姿が映し出される。そこで観客が一気に物語に入り込めるようにしました」と背景を明かす。
「悪女」の驚がくアクションはどうやって撮った?監督が舞台裏を解説 : 映画ニュース - 映画.comより引用

まんまと監督の思惑にハメられましたね(笑)


「悪いのは、私か、運命か。」
予告編から暗殺者として育てられた女。
標的は最愛だった男。
一人の女性が突き当たる大きな壁での葛藤。
殺し屋が人として生きる道を選ぶ上で切っても切れない縁、彼女の人生に準えながら描かれるリベンジもの映画です。


暗殺者と標的、愛と復讐、過去と現実。
一人の女性が過去を背負いながらも現実と向き合うその決意を表すような凄まじいアクションは一見の価値アリです!



終わりに

結局、韓国映画が好きだとしか伝えられなかった気もしますが、「殺人者の記憶法」「悪女/AKUJO」
共にオススメできる映画です。

あんまり韓国映画は観ないよって方も、これを機に一度鑑賞してみては如何でしょうか?


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。

脳内を赤く染める中毒映画(「RAW 少女のめざめ」ネタバレ考察)

目次




初めに

どうも、レクと申します。
今回はずーーーっと楽しみにしていた映画「RAW 少女のめざめ」について語りたいだけ語っていきます。
こじつけも多く、好き勝手語っていますが、興味ある方はお付き合いください。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Grave
製作年:2016年
製作国:フランス・ベルギー合作
配給:パルコ
上映時間:98分
映倫区分:R15+


解説

2016年・第69回カンヌ国際映画祭で批評家連盟賞を受賞した、フランス人女性監督ジュリア・デュクルノーの長編デビュー作品。厳格なベジタリアンの獣医一家に育った16歳のジュスティーヌは、両親と姉も通った獣医学校に進学する。見知らぬ土地での寮生活に不安な日々を送る中、ジュスティーヌは上級生からの新入生通過儀礼として、生肉を食べることを強要される。学校になじみたいという思いから家族のルールを破り、人生で初めて肉を口にしたジュスティーヌ。その行為により本性があらわになった彼女は次第に変貌を遂げていく。主人公ジュスティーヌ役をデュクルノー監督の短編「Junior」でデビューしたガランス・マリリエールが演じる。
RAW 少女のめざめ : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編



人間の三大欲求

人間の三大欲求は睡眠欲食欲性欲と言われています。

この作品の特徴として、その三大欲求が誇大表現されているんですよ。


・睡眠欲

冒頭の新人の洗礼では先輩よりも先に眠ることは許されませんでした。
先輩が窓からマットレスを放り投げたことからも、直接的表現として描かれています。
そしてジュスティーヌは初め、睡魔に負けて眠ってしまうんです。


洗礼の儀式として生のウサギの肝を食べ、少しずつ肉食に芽生えていくのですが、その体と心の葛藤として幾つもの睡眠シーンが導入されています。


初めの異変はアレルギーとして体の表面に現れました。
痒みが睡眠を妨げます。
お医者さんから痒み止めの薬を貰って痒みは収まっていきます。


次の睡眠シーンでも、何者かの妨害により眠れず叫んでしまいます。
これは物理的に妨害されているわけではなく、精神的なものでしょう。

そうして睡眠欲を満たせぬまま、物語の終盤に差し掛かるとその葛藤が無くなるんですよね。
ラストのシーンからもジュスティーヌが熟睡していたことがわかります。
これは精神状態の安定でもあるんです。

両極端な睡眠描写を描くことで、心理描写の移り変わりを誇大表現しているんですよ。




・食欲

次に食欲ですが、これは物語の主軸でもありますね。
ベジタリアンだった彼女が洗礼の儀式により少しずつ肉食に目覚めてしまう。

キャッチコピー
「知ってしまった味一一一。」


初めはベジタリアンであった彼女の気持ちとして肉食に恥じらいすらあって、堂々とハンバーグを食べられませんでした。

夜中に眠れず冷蔵庫の生肉に齧り付く。

肉が食べたいけれど食べられなくて髪の毛を食べて戻す日々。


そんな中で姉の指チョンパ事件が起こり、姉の指をもぐもぐしちゃうんです。
もうジェットコースター並の急加速(笑)

ベジタリアンだった彼女がここまで野菜を食べずに肉ばかり貪り食う誇大表現は恐怖すら覚える


また、初めての肉食からアレルギー反応が出たように、変化には常に恐怖が付き纏うもの。
初めての物を口にする時、興味や好奇心の裏側で不安や恐怖を感じるものです。

しかし、味を知り、味覚が慣れ、そこに満足感を覚えてしまったら歯止めは効きません。
犬のクイックが人肉の味を覚えたとされて安楽死させられたように、危険とも隣合わせ。

歯止めが効かなくなった食欲は暴食へと繋がります。
暴食はキリスト教でも七つの大罪の一つとして挙げられるほど、罪深きことなんです。



・性欲

最後に性欲ですが、食欲と性欲は非常に関係性が強いものなんです。
満腹状態、つまり食欲が満たされた状態では性欲が薄れるらしいです。


ジュスティーヌも肉食に目覚めていくと同時に、性にも目覚めていきます。
16歳、思春期の彼女ですからそれは自然なこと。
しかし、その自然なことが異常だとさえ思えてしまうほど誇大表現で描かれています

一方で、逆から見てみると、異常だと思える人食が自然なことである思春期の悩みと同等に、さも当たり前の悩みのように描かれているんです。
この自然さと異常さのバランスというか、食欲と性欲の関係性の描き方が素晴らしいんですよ!



人肉の味を知ってしまい、食事をろくに取らないジュスティーヌは少しずつ痩せていきます。
姉のワンピースがいいアクセントになってますね。

空腹は性欲を爆発させます。


姉のワンピースを纏い、ヒールを履き、赤いリップを付け、少しずつ大人の女性としても目覚めていくんです。
所謂セックスアピール。


また、睡眠欲で書きましたが、先輩が窓から投げ捨てたマットレスを部屋に持ち込もうとするんですよね。
これもあからさまなセックスアピール。


ルームメイトでゲイのアドリアンを男として認識し、アドリアンと親しくする姉にも嫉妬するようになっていきます。


ジュスティーヌとアドリアンのセックスはまさに獣のようなセックス(笑)

いつ噛み付くのかハラハラするくらい。
自分の腕を噛み、なんとか理性を保ちましたが食欲と性欲が入り交じったことを証明するシーンでもあります。



美徳の不幸

この作品は七つの大罪の要素が散りばめられています。


ヒエロニムス・ボスの『七つの大罪と四終』(Table of the Mortal Sins / The Seven Deadly Sins and the Four Last Things)。1485年

七つの大罪
キリスト教の西方教会、おもにカトリック教会における用語。ラテン語や英語での意味は「七つの死に至る罪」だが、「罪」そのものというよりは、人間を罪に導く可能性があると見做されてきた欲望や感情のことを指すもので、日本のカトリック教会では七つの罪源(ななつのざいげん)と訳している。

七つの大罪は、4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコス(英語: Evagrius Ponticus)の著作に八つの「枢要罪」として現れたのが起源である。キリスト教の正典の聖書の中で七つの大罪について直接に言及されてはいない。八つの枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」である。

6世紀後半には、グレゴリウス1世により、八つから七つに改正され、順序も現在の順序に仕上げられる。その後「虚飾」は「傲慢」へ、「憂鬱」は「怠惰」へとそれぞれ一つの大罪となり、「嫉妬」が追加された。そして七つの大罪は「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憤怒」、「怠惰」、「傲慢」、「嫉妬」となった。

Wikipediaより引用


ジュスティーヌは肉食に目覚めてから貪るように食らいつく「暴食」とハンバーグを盗む「強欲」の罪を犯す。
そして同時に「色欲(肉欲)」にとらわれ、姉への「嫉妬」心を抱く。

神童と呼ばれ、その「傲慢」からテストでミスをする。
アレックスや母親に対し「憤怒」し、酒に溺れて「怠惰」に至る。



では何故、ここでキリスト教における七つの大罪を挙げたのか。
それは主人公であるジュスティーヌの由来から関連付けています。


ジュスティーヌあるいは美徳の不幸の挿絵

『美徳の不幸』 (Les Infortunes de la Vertu)
サド侯爵 (Marquis de Sade) が1787年に著した小説である。のちに大幅な加筆修正が施され、『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』 (Justine ou les Malheurs de la Vertu) 、さらに『新ジュスティーヌ』 (Nouvelle Justine) として出版された。『悪徳の栄え』と対を成す作品である。

ジュスティーヌという名前の由来はこの「ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」

ジュスティーヌは幼い頃、姉と修道院で育てられる。
修道院を出たジュスティーヌは、宗教的美徳に忠実であろうとするばかりに幾度も貶められたり辱められ、ついには罪をも被せられる。
しかし、彼女はそれに対して少しずつ悦びに目覚めていくというもの。

この作品は彼女が辛酸の数々を嘗め、"美徳を守ろうとする者には不幸が、悪徳に身を委ねる者には繁栄が訪れる"という皮肉的主題が描かれています。


宗教的美徳に逆らい、数々の辛酸を嘗め、罪を重ねることにより、自我が芽生える。
まさに本作のジュスティーヌの行動そのものなんですよね。



作中に詰め込まれたメタファー

詰め込まれたメタファーの数々。
全て拾いきれませんでしたが、ひとつずつ見ていきます。


・テストでの間違い
→高校生活で道を踏み外すことの暗示。

神童と呼ばれるほどのジュスティーヌが簡単なミスを犯すことから、たった一つのミスで失敗し、やり直しが効かない人生を表しています。



・猿の話題と四つん這い行進
→人と獣の境界線の曖昧さ。

感情と理性の狭間で葛藤する姿を表現しているのでは?



・アレルギーによる痒み
→生まれ変わり。

肉の味を知ってから、その欲は加速していく。
この変貌は身体の皮膚を剥くシーンで直接的表現がされていましたが、成長や生まれ変わりを意味する"脱皮"ではないでしょうか。



・走る馬の挿画
→肉食に目覚めた欲望の加速を表現。

馬自体は草食動物、つまりこの時点ではジュスティーヌもベジタリアンなわけです。
ここで走らされる馬の描写は物語が加速していく様を表しているのではないかと考えました。



・車のクラッシュシーン
→クラクションは欲への目覚めの警告音。

このシーンは冒頭シーンに繋がります。



・犬の死体の挿画
→獣のようなセックス。

七つの大罪で「嫉妬」は悪魔レヴィアタンを指します。
同時に「嫉妬」は動物では犬が挙げられる。
嫉妬という感情からの脱却、初体験に至るという比喩。



・色彩表現
→性欲と食欲が入り交じる様。

青色のペンキと黄色のペンキが混じり合い緑色となる。

青色は落ち着かせる鎮静のイメージがあります。
食欲を抑える色でもあるんですよね。
黄色は警告色、不安感のイメージがあります。
混ざり合うことで緑色となる。
緑色はリラックスのイメージです。
ジュスティーヌの心理状態の変化を表しています。

鎮静、緊張感からリラックスすることにより緩和され、本能的になってしまって相手の唇を噛み切ってしまったのでしょう。



・シャワーシーン
→感情と理性の切り替え。

シャワーシーンも印象的です。
人食を終えた後、理性を取り戻すルーティンのように見えました。

ただ、このペンキシーンからのシャワーシーンだけは歯に詰まる肉片を再び食べるという感情的な部分が描かれています。



人食へのめざめ
→少女の成長のメタファー。

まとめとして、全体的なメタファーは人食を通じて描く少女の思春期と成長の比喩。



歪んだ愛情

直接的に映せないようなシーンが多少ありました。
姉の指がチョンパされるシーンやキスで唇を噛み切るシーン、ラストシーンなんかもそうですね。

あと、下品なシーンも。
牛の肛門に腕突っ込むシーンやブラジリアンワックス(笑)
そして女性の立ちション初めて見ました。

そんな中、姉妹のワイルド過ぎる喧嘩シーンに爆笑でしたよ!
妹の頬肉を噛み千切るとか。
それでも二人の間には歪んだ愛情があるんです。


ジュスティーヌの姉であるアレックスは指を失う事故の際に失神してしまい、目覚めた時に失った指に貪りつく妹の姿を目撃する。
しかし、アレックスはそれを両親に隠し、そして自分もカニバリストだと車の事故のシーンで見せました。
アレックスが妹のその異常とも取れる行動を許したのも、それに対する"理解"があったからです。

それがラストシークエンスに繋がっていくんです。



そのラストシークエンスも秀逸。

ジュスティーヌは自分だけが異常者だと葛藤しつつ人食に目覚めたんだと思いきや、実はアレックスも人食に目覚めてましたってオチ。
アレックスの部屋の洗面台に痒み止めの薬があったことから、姉妹揃って同じ道を歩んでいたんです。

そして、刑務所の面会でガラス越しに二人の顔が重なるシーンからも人食姉妹でした的なオチの演出となっています。

ただ一つ、違ったことはか。
本能と理性の狭間で葛藤するジュスティーヌと本能のまま行動してしまったアレックス。
ここが大きな人生の分かれ目でしたね。



って終わりだと思いきや
実はお母さんからの遺伝でした っていうまさかの二段階オチ!

お母さん、お前もか!って叫びそうになりました(笑)


そして…

お父さんドMかよ!!!

これも全力で叫びそうになりましたね(笑)

お父さんはお母さんと出会うことで、本当の自分に目覚めたってことですか(笑)


相手の嗜好を"理解"すること。
姉が妹の嗜好を理解して許したように、父もまた母の嗜好を理解して許しています。

第三者から見れば歪んだ愛情ですが、この家族にとっての究極の愛なのかもしれません。



越えてはいけない一線を越えたアレックス。
母親の嗜好を受け入れる父親。
二つの前例を目の当たりにしたジュスティーヌが今後歩む人生とは?

自分の嗜好を理解し、その上でどうやって生きていくかは彼女次第だと言うことを最後に残したように思えます。


「RAW」とは
「生の」、「皮のむけた」、「未熟な」、「下品な」
という意味があります。
タイトルそのままですが、原題は全く違ったものなんですよね。

原題『Grave』
意味としては
名詞「墓」
動詞「墓を掘る」
形容詞「重大な」「尤もらしい」
などがありますが、この作品は
「(心や記憶などに)刻み込む」という意味が「尤もらしい」ですね。



終わりに


映画「サスペリア」を彷彿とさせるシーンもありましたね。
学校という閉鎖的空間も共通点ですが、何より非常に色彩の使い方が上手く、この物語も「サスペリア」同様に赤い色が映える。


赤色は興奮や愛情、危険や怒りなどのイメージがあります。
また、食欲を促進させる効果があります。
本作「RAW 少女のめざめ」のカラーとして鮮やかな色彩を楽しめると思います。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました!






(C)2016 Petit Film, Rouge International, FraKas Productions. ALL RIGHTS RESERVED.

バロメッツから読み解く(映画「羊の木」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は楽しみにしていた「羊の木」について好き勝手に語っていこうかと思っております。

最近、邦画祭りです(笑)

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:アスミック・エース
上映時間:126分
映倫区分:G


解説

桐島、部活やめるってよ」の吉田大八監督が錦戸亮を主演に迎え、山上たつひこ原作・いがらしみきお作画の同名コミックを実写映画化したヒューマンミステリー。寂れた港町・魚深にそれぞれ移住して来た6人の男女。彼らの受け入れを担当することになった市役所職員・月末は、これが過疎問題を解決するために町が身元引受人となって元受刑者を受け入れる、国家の極秘プロジェクトだと知る。月末や町の住人、そして6人にもそれぞれの経歴は明かされなかったが、やがて月末は、6人全員が元殺人犯だという事実を知ってしまう。そんな中、港で起きた死亡事故をきっかけに、町の住人たちと6人の運命が交錯しはじめる。月末の同級生・文役に木村文乃、6人の元殺人犯役に北村一輝、優香、市川実日子、水澤紳吾、田中泯松田龍平と実力派キャストが集結。「クヒオ大佐」の香川まさひとが脚本を手がける。
羊の木 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



短評とこの作品の魅力

まずはTwitterの感想から。



この作品の魅力はなんと言ってもキャスト陣の演技力。
Twitterでも書きましたが、元受刑者たちの持つ肌で感じる独特の空気感と違和感が堪らないんですよ。

魚深という田舎町に住む人達は元受刑者であることを知らされていません
一方で、主人公の月末と一部の人間、そして我々観客がそのことを知っています
このバランスと見せ方、演出が素晴らしいんです!


住人は当然知らないので、町の人、一般人と接するように日常の何気ない会話などが描かれています。
しかし、月末と我々は元殺人犯ということが分かっているので、彼らが「何かをやらかすのではないのか?」と偏見のような色眼鏡で見てしまう。

また、月末も我々観客も受け入れを担当した当初は元受刑者で殺人歴のある6人だと知らされていませんでした。
そこで彼らの違和感に一抹の不安を覚えるわけです。
主人公と観客が同じ認識を持つことで、その世界感、物語に没入しやすくなるんですよね。


この序盤のシークエンスがあるからこそ、その後の彼らの言動や取り巻く環境、周りの視線、人間関係などがより一層引き立つ。
そこにこの映画の素晴らしさを感じました。



原作と映画の違い

原作と映画では設定が大きく違うようです。

原作での受け入れ理由は
地方自治体と民間の構成促進事業

映画での受け入れ理由は
仮釈放制度の見直しと地域活性化

仮釈放
収容期間満了前において仮に釈放されること。
刑法28条に「懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる。」と定められている。ここにいう行政官庁とは、法務省所管の地方更生保護委員会であり、本人の資質、生活歴、矯正施設内における生活状況、将来の生活計画、帰住後の環境等を総合的に考慮するとともに、悔悟の情、再犯のおそれ、更生の意欲、社会の感情の4つの事由を総合的に判断し、保護観察に付することが本人の改善更生のために相当であると認められるときに(「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」の31条、32条を参照)、仮釈放を決定する権限が与えられている。実際に仮釈放が許される時期については、有期刑は最近ではほとんどの場合、執行刑期の3分の2以上であり、刑期の半分に満たないで許される者は稀にしかおらず、無期刑は2003年以降、すべての許可例において刑確定後20年以上が経過してからである。
Wikipediaより引用

似たような理由ではありますが、仮釈放制度という法律そのものの見直し、つまり税金対策という設定になっています。


また原作では犯罪履歴のある11名が一定期間で移り住むのに対し、映画では殺人歴のある6名が一度に移り住む設定でした。

この辺りは映画という限られた時間の中での改変なので特に問題はなさそうです。


問題は原作の主人公が月末ではないということ(笑)
原作での主人公はこの物語の舞台となる魚深市の市長、鳥原秀太郎です。

映画では名前すら出てこない(笑)

原作にも月末一という人物は登場するが、仏壇店を営むおっさんで既婚者。
錦戸亮くんとは似ても似つかない(笑)

この辺は集客効果を求めた映画ならではの改変でしょう。

とは言っても、錦戸亮くんの演技はいいんですよね。
さり気ない表情や間のとり方、演技力はもっと評価されてもいいと思います。



羊の木

さて、そろそろ本題へ入っていきます。

タイトルの「羊の木」にはどういう意味があるのでしょうか?

冒頭で使われた一文。

その種子やがて芽吹き
タタールの子羊となる
羊にして植物
その血 蜜のように甘く
その肉 魚のように柔らかく
狼のみ それを貪る

「東タタール旅行記」より

映画『羊の木』 | 2018年2月3日(土)全国ロードショーより引用

一見、この羊と狼の関係性は一般市民と殺人犯のメタファーとも取れます。



当ブログ「小羊の悲鳴は止まない」
ご存知の方も居られるでしょうが、少し書かせていただくと
当管理人レクの大好きな作品羊たちの沈黙

作中のセリフから取ったものです。

ここで言う小羊とは被害者のメタファーであり、本作の立ち位置とは対極しています。



しかし、言うまでもなく本作におけるは元受刑者のことを指します。
市川実日子さん演じる栗本清美が海岸で拾った羊の木の描かれたお皿を見てください。

ここには、羊の木に実る羊が5匹。
そして実らぬままの葉っぱが2枚。

羊の実った木が生まれ変わり、人生のやり直し、とするならこの5匹の羊は松田龍平さん演じる宮腰と北村一輝さん演じる杉山を除く元受刑者5名でしょう。
そして冒頭のは実らぬままの葉っぱ、羊の中に放たれた犯罪者。
つまり本作では宮腰と杉山にあたるわけです。


…あれ?人数が足らないぞ?(笑)

もう一人、元受刑者で魚深という町で平和に暮らしている人がいましたよね?
そうです、福元の職場、理髪店の店長です。

殺人の罪を犯した元受刑者は社会的に弱者なんです。

羊の木に実った羊たちは、生まれ変わり新たな人生を生きることを表していると思います。



この作品「羊の木」はTwitterにも書きましたが、輪廻転生、罪と罰、赦しと贖罪、それらが詰まったものだと思います。

栗本が死んだ動物や魚などを自宅横に埋葬するシーンがいくつかありました。

ラストでそのひとつに芽が出てましたよね?
この事からも羊の木とは命の繋がり、生まれ変わること、輪廻転生の意ではないでしょうか。

罪を犯した者は罪を償った後、生まれ変わることが出来るのか?を問う。

宮腰や杉山のように生まれ変わっても性根は変わらない人もいます。
それと同時に真っ当に生きようと努力する人間もいるのです。



バロメッツという伝説の植物があることをご存知ですか?

バロメッツ

黒海沿岸、中国、モンゴル、ヨーロッパ各地の荒野に分布するといわれた伝説の植物である。この木には、羊の入った実がなると考えられていた。

時期が来ると実をつけ、採取して割れば中から肉と血と骨をつ子羊が収穫できるが、この羊は生きていない。実が熟して割れるまで放置しておくと、「ぅめー」と鳴く生きた羊が顔を出し、茎と繋がったまま、木の周りの草を食べて生き、近くに畑があれば食い散らかしてしまう。周囲の草がなくなると、やがて飢えて、羊は木とともに死ぬ。ある時期のバロメッツの周りには、この死んだ羊が集中して山積みになるので、それを求めて狼や人があつまって来るのだと言う。この羊は蹄まで羊毛なので無駄な所がほとんど無く、その金色の羊毛は重宝された。肉はカニの味がするとされた。

バロメッツ - Wikipediaより引用

この伝説は、ヨーロッパ人の誤解が発端で、バロメッツから採れる羊毛とされた繊維は木綿。
木綿を知らなかった当時のヨーロッパ人は「綿の採れる木」を「ウールを産む木」だと解釈して、この植物の伝説が産まれたとされています。

単純に綿と羊毛が似ていることが由来なのですが、この事からも
可視出来るものと伝え聞いた事の真偽
が核心ではないか?

冒頭でも記述しましたが、伝え聞いた事、先入観は人を色眼鏡で見てしまう。
自分で見たものを信じることの大切さを訴える作品でしょう。



このテーマは本作の偶像崇拝のろろ様にも繋がる部分だと思います。

魚深という田舎町で、皆のろろ様を信じています。
祭りの途中で抜け出した杉山。
直接見てはいけない禁じ事を破った宮腰。
この二人が羊の木の羊として描かれていないのも頷けます。


また、吉田大八監督もこんなことを話していました。
「分からなくても信じる。その方が疑うよりも生きていて楽しい人生を歩めるはずだ」



人は変われるのか?

人間、簡単には変われませんよね。
でも他人を変えるより自分を変える方が楽なんです。
元受刑者で生まれ変われた人は皆、誰かの優しさに触れて自分を変えられたんですよ。
変えたからこそ、あの生活を送ることが出来るんです。

福元は素直に打ち明けることで。
栗本は自分と向き合うことで。
大野は守ってくれる人を見つけたことで。
太田は好きな人が出来たことで。


その中で杉山は中立の立場を上手く演じてました。
変われない自分と馴染めないもどかしさから、普通の暮らしと犯罪の間で揺れ動く凄く人間的な人物だったと思います。

そして、宮腰は唯一変わることが出来なかった犯罪者。
仮釈放制度見直しの難しさ。
そして人生をやり直すことの難しさ。
宮腰自身も魚深で平和に暮らそうと思っていたはずです。
しかし、人を殺めることに対する罪の意識の欠如が大きな障害となってました。



人を殺めたという事実は消えることはありません。
しかし、彼らに必要なのは未来を見ることなんですよ。


エンディング曲「Death Is Not the End」


死は終わりではない。

また芽を出し、生まれ変わることで新たな人生を歩むことが出来るんです。



終わりに

考察としては書くところがなく、端折りましたがやはり書いておこう。
特筆すべきは優香さんの体を張った演技ですよね(笑)



映画「羊の木」オススメ - YouTubeより

いやらしいなと思う


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2018「羊の木」製作委員会 (C)山上たつひこいがらしみきお講談社

宗教や信仰概念を揺るがすフェイク・ドキュメンタリー(映画「オカルト」ネタバレ)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回はTwitterのフォロワーさんからのオススメ
白石晃士監督の「オカルト」について少し語っていこうかと。

経緯の詳細は忘れましたが、自分がフェイク・ドキュメンタリーやPOVが好きだという話の流れからだったと思います(笑)
ホラー映画も好きだということもあるのかなあ?


この記事はネタバレ含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


©CREATIVE AXA Co.,Ltd. 2009

製作年:2008年
製作国:日本
配給:イメージリングス
上映時間:110分


あらすじ

ノロイ」「口裂け女」などで知られるホラーの鬼才・白石晃士が、オカルト・ドキュメンタリー番組を製作する人々のスリルや恐怖を描いた意欲作。「アカルイミライ」「トウキョウソナタ」の黒沢清監督や漫画家の渡辺ペコなどが特別出演している。3年前にとある観光地で起きた通り魔殺人事件に興味を持った映画監督の白石は、事件の唯一の生存者で現在はネットカフェ難民の青年・江野に取材を敢行する。
オカルト : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編



白石晃士監督作品

まず、「オカルト」を観終わって一言。

「そう来たか。」



白石晃士監督には申し訳ないんですが、彼の作品は片手で数えられるほどしか観たことがないんですよね。

ひとつは「貞子vs伽椰子」
メジャータイトルであり、リングと呪怨が好きな自分向けではある作品です。

ミュージアム 序章」
こちらもミュージアムというメジャータイトルがきっかけです。

つまり、純粋に白石晃士監督の作品が観たいと思って観たのはこの作品が初ではないかと。
「ある優しき殺人者の記録」

そして不能犯
絶賛公開中ではありますが、感想はまだ書いてません(笑)



観ている作品が少ないために、監督の嗜好や傾向と判断材料が無いながらにも、感想を纏めました。
白石晃士監督初心者として暖かい目で見てやってください。



オカルトとは

タイトルにもなるオカルトとは?

オカルト(英語: occult)
秘学・神秘(的なこと)・超自然的なもの。
目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する。
Wikipediaより引用

一般的にイメージするところのオカルトと同じでしょう。
この作品「オカルト」でも、事件の裏側に潜む超常現象と謎の声、オカルティズムが描かれています。

そのオカルト現象をチープだが奇跡と見せること、そしてそれらをモキュメンタリーとして信じ込ませる演出が光る。

またその奇跡を目の当たりにする江野くんを演じる宇野祥平さんが、ダメ男なのにどこか憎めない、独特の雰囲気を醸し出してるんですよね(笑)



早速、確信に触れますが
超常現象や謎の声とは何だったのか?を掘り下げていきましょう。


まず、冒頭で起きた通り魔事件。
二人の女性が殺害され、一人の男性が重傷を負い、犯人は崖から飛び降りるも死体は見つからなかった。

その事件の被害者であり生存者でもある江野くん。
うんこみたいな人生を送ってきた彼が、その事件の後から起こる様々な超常現象により、自分は特別な使命を課されたと感じるようになるんです。
そして、その事件より刻まれた背中の傷。
それとよく似たアザが通り魔事件の犯人にもあったことが分かった。



通り魔事件の犯人(松木)

江野


この象形文字のようなものが御昼山の九頭呂岩で見つかる。


まさかの象形文字解析に特別出演の黒沢清監督(笑)


見つかった岩の左側(松木のアザ)は神託と殺人
右側(江野の傷)は神託と災害(人災も含む)

ここで松木神の啓示により殺人を犯したように、江野も神の啓示により何か罪を犯すのではないか?と白石は推測する。


言わば、超常現象や謎の声は神の存在を示すものとして描かれているわけですね。





さて、ここでいうとは何なのだろうか?

特別出演の黒沢清監督の話に出てきましたね。


天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代)
右がイザナギ、左がイザナミ。二人は天の橋に立っており、矛で混沌をかき混ぜて島(日本)を作っているところ


ヒル(水蛭子、蛭子神蛭子命
日本神話に登場する神。蛭児とも。

古事記』において国産みの際、イザナギ伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神。しかし、子作りの際に女神であるイザナミから先に男神イザナギに声をかけた事が原因で不具の子に生まれたため、葦の舟に入れられオノゴロ島から流されてしまう。
後世の解釈では、水蛭子とあることから水蛭のように手足が異形であったのではないかという推測を生んだ。あるいは、胞状奇胎と呼ばれる形を成さない胎児のことではないかとする医学者もある。

Wikipediaより引用

日本神話におけるイザナギイザナミの国産みの際に生まれた最初の子ヒル


ここで思い出してほしいのが、白石の左足と岩の名前です。
白石の足に九匹の蛭が噛み付いていたこと。
そして岩の名前は九頭呂岩

一見、九にのみ着目してしまうところですが
「御昼山」=「日本神話」
「九頭呂岩」=「クトゥルフ神話
を繋げるものではないだろうか。


白石晃士監督はクトゥルフ神話が好きだというお話も前情報として得ていました。
その辺りを交え、神の正体について考えていきます。



日本神話とクトゥルフ神話

同じ神話でも日本神話とクトゥルフ神話はまるで別のものです。
しかし、ここで関係が全くないとも言いきれないんですよ。
クトゥルフ神話でこの作品のヒルコにより近い神が存在します。

アブホース(英:Abhoth)
クトゥルフ神話に登場する架空の神性。外なる神。

地底の空洞にわだかまる巨大な灰色の水溜まりのような姿をしており、その中からは絶え間なく灰色の塊が形成され、それが這いずりながら親から離れていこうとする。アブホースから延びている無数の触手は、そういった自らの落とし子をつかんで貪り食う行為を絶え間なく続けている。
アブホースは知性を持っており、テレパシーで会話が出来るが、 地上や人間に関しては疎く、興味も持っていないようである。

Wikipediaより引用


・這いずりながら親から離れていこうとする
→まるで捨てられたヒルコのようでもある。

・アブホースから延びている無数の触手
→九匹の蛭もその触手?

・知性を持っており、テレパシーで会話が出来る
→謎の声の正体?

・自らの落とし子をつかんで貪り食う行為を絶え間なく続けている
→人間を誑かし、貪る。


こじつけかもしれませんが、作中に語られた日本神話のヒルコとクトゥルフ神話のアブホースは同一と考えられるのではないでしょうか?



総評

ネカフェ難民を捉えた社会派モキュメンタリーとしての作品の完成度は高い。

悪魔は時として天使の姿で現れ、人を騙すとも言います。
まさにこの作品がそれ。

上記で超常現象や謎の声は神の存在を示すものと記述しました。
奇跡と信じるその現象も神の啓示も全てはだったわけです。

神の啓示から地獄行きの流れは宗教や信仰概念を揺るがし、穏やかに狂気の渦へと引き込まれ、じわじわと後から感じる恐怖と絶望感を体験する

異常な人間は、自分の異常さに気付かないもの。
信じたその奇跡もまた神の啓示として疑わないのだ。

ラストのうんこみたいな終わり方はリアルをフェイク、ノンフィクションをフィクションだと分からせる目覚めの薬、眠眠打破になってますね(笑)


終わりに

久しぶりの旧作記事になりましたが、この作品は観る人を選ぶ作品であることは間違いない。
自分はある程度何でも観れちゃう派なので楽しめましたが、興味のある方は是非。

自分は白石晃士監督の他の作品に興味がわいてきたので、少しずつ鑑賞していきますね(笑)

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

観る映画はどうやって選びますか?

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は映画の感想や考察ではなく、雑談になります。
興味のある方は最後までお付き合いくだされば幸いです。



人生は選択の連続である

人生で追い切れないほどある映画。
そんな数多の映画作品の中からあなたはどうやって観る映画を選びますか?

※ここから先はいち提案であり、批判云々の類ではないことをご理解ください。


レンタルビデオ - Wikipediaより引用

例えば、映画を1本だけ借りようかな?と思い立って、ふらっとレンタルショップへ赴いたとします。
あなたはどうやって無数に陳列された映画の中から1本に絞りますか?

  • 新作コーナーから
  • パッケージとあらすじから
  • 好きなジャンルから
  • 好きな監督作から
  • 好きな俳優が出演してるから


どれもいいと思います。
しかし、これでは自分の殻を破ることは出来ません(笑)
なぜならこれらは必然的に自分の好みに偏ってしまうからです。


別にそれが悪いと言っているわけではないんです。
当然、自分の好みに偏るわけですからそれなりに好きな作品に出会える確率も高いでしょう。

しかし自分はそれでは「あー面白かった」で終わっちゃう作品が多いような気がするんです。
何というか、自分の枠に収めちゃう感じ。


ちなみに、自分の好みの映画はジャンル問わず心理描写がしっかりと描かれているもの。

自分は派手な演出よりも登場人物の心理描写がしっかりと描かれた作品が好みなんです。‬
その作品から自分が感じるもの、心に刺さる何かがどれだけあるか、によってその好みの度合いが決まります。



どうせ観るなら観た後に
「感動して泣きまくった」
「興奮して眠れない」
「どういう意味なのか考えて気がつけば朝になっていた」
「もうこの映画のことが頭から離れない」
「もう一度観たい」

抑えきれんばかりの感情を味わいたくないですか?

ちょっと大袈裟に言いましたが(笑)
少なくとも自分は、自分にとって掛け替えのない作品になるような1本に出逢いたいです。


上記を纏めて"満足感"としますが、その満足感を得るためには自分の枠を超えた作品と出会うことも必要なのではないか?
と思うわけです。



では、どうすればいいのか?
答えは至極単純なことです。

第三者がオススメする映画に触れてみること。

趣味の合う合わないは別として、他人がオススメされている映画を観ることで、自分の枠にとらわれない作品と出会う確率は格段に上がります。

とは言っても、他人がオススメされる映画の中には自分に合わない作品もあるでしょう。
つまらない映画をオススメしやがって!なんて考え方はしないでください(笑)

この作品をオススメされている方はこういう所が好きなんだーなど、いつもと違った視点から映画を観ることが出来るというメリットもあります。



わたくしの体験談で語るとするなら
昨年公開の映画「彼らが本気で編むときは、」

こちらでも記述させていただいてますが、昨年度劇場鑑賞作品、邦画ベスト1です。

この作品は公開当初、自分の選択として劇場鑑賞スルー作品だったんですよね。
レンタル配信されたら観てみようくらいの考えでした。

Twitterのフォロワーさん方のオススメや感想を観て、何気なしに「観てみようかな?」程度に思って観た作品が自分の心を鷲掴みにしたわけです。



これは周りの評価に流されることとは異なります。
あくまでも周りの評価は参考程度に留め、第三者の好きな映画を自分目線で観ることが大切だと思います。


声を大にして言いたい。

自分は他人の評価に流されて評価することが大嫌いです。



ということで
最近、Twitterで「1日1本オススメ映画」タグを再開しました。
そちらで紹介した10本の作品をこちらでも載せておこうかと思います。

未鑑賞の作品があれば、おひとりでも多く自分の好きな作品に触れていただけると嬉しいです。

心に響くものがなければすみません。



オススメ映画10

1.「ボルベール<帰郷>」


2.「21グラム」


3.「ツナグ」


4.エターナル・サンシャイン


5.「マウス・オブ・マッドネス」


6.「新 感染 ファイナル・エクスプレス」


7.A.I.


8.フェノミナン」


9.最高の人生の見つけ方


10.トゥルーマン・ショー




1月劇場鑑賞作品

1月に劇場鑑賞した映画でも素晴らしい作品がありました。


好きな順(1月劇場鑑賞全作品)

  1. 勝手にふるえてろ
  2. 8年越しの花嫁 奇跡の実話
  3. 祈りの幕が下りる時
  4. デトロイト
  5. 嘘を愛する女
  6. キングスマン:ゴールデン・サークル
  7. ジオストーム
  8. DESTINY 鎌倉ものがたり
  9. 悪と仮面のルール



この二作はずば抜けて素晴らしい作品でした。
劇場での上映が終了している地域もあると思いますが、レンタルされてからでも是非観ていただきたい作品です。



企画に乗っかる

去年に話題となったのがこちら。

大手レンタル店TSUTAYAさんで行われた企画。
パッケージを伏せ、その映画の概要のみを記載するという斬新なもの。

これもまた、他人がオススメするワードと同じように文面で興味の惹かれるものがあると思うんですよ。

非常に面白い試みだと思います。
こういった企画に乗っかると、普段自分で選ばないような映画と出逢える機会は増えます。

結果はどうあれ(笑)

この企画の場合、フィルマークスの評価3.7以上の作品に絞られているとのことですが
他人の評価を鵜呑みにするということではなく、TSUTAYAさんの一般的評価の高い映画のオススメという形とも言えるでしょう。



終わりに

と、ここまで映画の選び方について語ってきましたが、ここからは持論です。


時には思い切りの良い選択方法も面白いと思います。
観るからには面白い映画を観たい!
って感覚も分かるんですが(笑)


映画は"感覚"で観るもの。
一部を覗いて。

予告動画やあらすじ、監督や出演などなど…観る前からあれこれ考えるのではなく、選ぶ際にも"直感"でいいと思うんですよね。

自分は予告動画などから得られる情報で勝手にイメージを付け、その先入観や固定概念が評価を左右しちゃうんじゃないか?と思ってる側で、あまり前知識は入れないようにしています。


Twitterの「1日1本オススメ映画」タグは同じ作品でもそれぞれ違った観点から自分の言葉でご紹介されているので、本当にオススメです。

何を観ようか悩んでいる時、参考にしてみるのも一つの手ですよ!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

映画「祈りの幕が下りる時」ネタバレなし

目次




初めに

おはようございます、レクと申します。
今回は昨日鑑賞した「祈りの幕が下りる時」について少しだけ語っています。

『新参者』シリーズ完結ということで、過去作品も含めネタバレはなしです。



作品概要


(C)2018 映画「祈りの幕が下りる時」製作委員会

製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:119分
映倫区分:G


解説

阿部寛主演、東野圭吾原作による「新参者」シリーズの完結編。東野の人気ミステリー「加賀恭一郎シリーズ」第10作の映画化で、2010年に放送された連続ドラマ「新参者」、2本のスペシャルドラマ、映画「麒麟の翼 劇場版・新参者」に続き、阿部が主人公の刑事・加賀恭一郎を演じる。父との確執、母の失踪など、これまで明かされることがなかった加賀自身の謎が明らかとなる。東京都葛飾区小菅のアパートで滋賀県在住の押谷道子の絞殺死体が発見された。アパートの住人も姿を消し、住人と押谷の接点は見つからず、滋賀県在住の押谷が東京で殺された理由もわからず捜査は難航する。捜査を進める中で加賀は、押谷が中学の同級生で演出家の浅居博美をたずねて東京にやってきたことを突き止めるが……。演出家の浅居博美役を松嶋菜々子が演じるほか、山崎努及川光博溝端淳平田中麗奈伊藤蘭小日向文世らが顔をそろえる。監督は「半沢直樹」「下町ロケット」「3年B組金八先生」など数多くのヒットドラマを手がけた福澤克雄
祈りの幕が下りる時 : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編




東野圭吾のミステリー

東野圭吾の作品、すべてを網羅しているわけではありません。
なので、自分が読んだ小説、そして映像化されてきた作品からの印象でしか考えることはできませんが、その辺は目を瞑ってください(笑)


東野圭吾原作で最も好きな作品は
容疑者Xの献身です。

ドラマ「ガリレオ」シリーズの劇場一作目。
個人的には小説は勿論のこと、邦画の中でもベストに入るくらい思い入れもあればミステリーとしての評価もしています。


ずばり言うと
東野圭吾の手掛けるミステリーは"そうせざるを得ない理由"をもの哀しい物語に溶け込ませることが非常にうまいと思うんです。

人の行動の是非を問う、善悪の境界線が曖昧となる絶妙な部分を突いてくるんですよ。
その上で、悲壮感漂う雰囲気が秀逸。

それは本作品でも存分に活かされています。



新参者

さて、早速本題へと入っていきますが、その前に。

「新参者」シリーズの完結ということで、本作祈りの幕が下りる時を観るにあたり、予習(過去作品の鑑賞)は必要か?というお声をいただいたのでこちらでも書かせていただきますね。

答えは、厳密に言えばイエスです。
ある程度このシリーズの小説を読んでいる、もしくは映像化された作品を観ている方は加賀恭一郎という人物像、魅力を分かっていただけるでしょう。
逆に「新参者」シリーズに触れていない方がいきなり本作品本書を観たとして、それが伝わるかどうか分かりません。


勿論、過去作品すべてを観てから本作に臨むのが最も好ましいとは思いますが、最低限押さえておくところとすれば、ドラマ「新参者」映画「麒麟の翼」でしょう。

過去作と本作との事件に直接的な関わりはありませんが、人物相関図として把握すべき部分はあると思います。

前日譚であるスペシャルドラマ「赤い指」「眠りの森」はあくまでも加賀恭一郎という人物の補完という感じなので、本作鑑賞前後どちらで観ても特に問題はないかと。



本作の話に入ります。
まずはTwitterに挙げた感想から。


本作は予告編やキャッチコピーにもあるように
『事件の、は俺。俺なのかー』

加賀恭一郎の身辺が事件に関わってきます。
この点からも、「新参者」シリーズに触れているか否かで大きく印象が変わってくるでしょう。



そもそも、「新参者」シリーズの魅力は加賀恭一郎という人物が解決の糸口を見つけてから畳み掛ける推理劇なんですよね。
そこに垣間見える登場人物たちの人間味ある心理描写がまた素晴らしいんです。

無駄足を踏んででも散り散りになったパズルのピースをひとつひとつ繋いでいく。
その過程で、想像もしなかった真実が浮かび上がる。

これが基本構造なんです。


事件自体はこう言ってはなんですが、ニュースで流れていそうな平凡で地味なもの。
人が亡くなっているのに言い方は悪いですが、ミステリー小説としては地味なんですよ。

そこに加賀恭一郎という人物を充てることで、登場人物たちの心理も明らかとなり、魅力ある一つの作品となり得るんです。



本作も地味な事件と加賀恭一郎の組み合わせで魅力を引き出した作品…にはなるのですが、過去作と違うところは
今まで以上に加賀恭一郎が事件に関わること。
そして事件に無関係な人間の今まで表面立って描かれなかった様々な想いを、事件解決の過程で汲み取ってすくい上げていくことになる。

という点です。


ここが本作最大の魅力であり、個人的にですがシリーズ完結にして最高傑作と言える部分なんです。


あくまでシリーズ完結にして最高傑作です。
裏を返せば、加賀恭一郎なしにこの作品ひとつでどこまで魅力があるのかと言うと難しいのではないかと思うわけです。

親と子の関係性、人生の選択、加賀恭一郎を絡めずとも重く切ない物語に違いはないんですが。

少なくとも自分はシリーズとして最高の終わり方をしたと思っています。



終わりに

主題歌はJUJUさんの「東京」。
親子の愛とすれ違い、本作にも通ずるPVが素晴らしいので、こちらも。


ということで、拙い文面で「新参者」シリーズの魅力が伝わったかどうかは分かりませんが、是非ともドラマ「新参者」と映画「麒麟の翼」を観て劇場へ足を運んでもらいたい。
この観た後にしか味わえない気持ちを味わってもらいたい。

少しでも興味がある方はよろしくお願いします!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。


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