栄華に狂い、破滅と踊る(『サンセット』ネタバレなし考察)
目次
初めに
こんにちは、レクと申します。
今回は第68回カンヌ映画祭コンペティション部門に出品した『サウルの息子』のネメシュ・ラースロー監督最新作『サンセット』について語っています。
この記事にネタバレはございません。
作品概要
原題:Napszallta
製作年:2018年
製作国:ハンガリー・フランス合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:142分
映倫区分:G
解説
長編デビュー作「サウルの息子」がカンヌ国際映画祭グランプリのほか、アカデミー賞やゴールデングローブ賞の外国語映画賞も受賞したネメシュ・ラースローの長編第2作。第1次世界大戦前、ヨーロッパの中心都市だったブダペストの繁栄と闇を描いた。1913年、ブダペスト。イリス・レイテルは、彼女が2歳の時に亡くなった両親が遺した高級帽子店で職人として働くことを夢見て、ハンガリーの首都ブタペストにやってくる。しかし、現在のオーナーであるオスカール・ブリッルはイリスを歓迎することなく追い払ってしまう。そして、この時になって初めて自分に兄がいることを知ったイリスは、ある男が兄カルマンを探していることを知り、イリスもブタペストの町で兄を探し始める。そんな中、ブタペストでは貴族たちへの暴動が発生。その暴動はイリスの兄とその仲間たちによるものだった。2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品。
サンセット : 作品情報 - 映画.comより引用
予告編
時代背景
1913年頃、現代のオーストリア、ハンガリーをはじめチェコ、スロバキア、クロアチア、スロベニア、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの領土を持ったオーストリア=ハンガリー帝国が存在していた。
ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に解体するまで存続した。
帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。
その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」(ツィスライタニエン)と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(トランスライタニエン)に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。
第一次世界大戦勃発前、ヨーロッパ全域の緊迫した情勢の交差点、そして多数の言語と文化や宗教の近代化と廃退が混在する多民族国家でもあり、不穏な空気が入り乱れる時代。
その中心地でもあったブダペスト。
そこにある当時最先端で憧れの職業でもあった高級帽子店を舞台にひとりの女性が翻弄されていく物語。
冒頭から流れるシューベルトの楽曲と美しい日没(サンセット)の街並みはこの後に起こる何かを示唆させる。
フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア皇帝に即位し、ハンガリー国王も兼ねた。
舞台となる高級帽子店レイターに貴賓として迎えるのは皇位継承者フランツ・フェルディナント皇太子とその皇太子妃ゾフィー。
1914年、この2人がセルビア人青年に暗殺され、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告し第一次世界大戦の勃発に繋がった。
これが、サラエボ事件です。
暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付(La Domenica del Corriere)サラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。プリンツィプは、セルビア系秘密結社「黒手組」の一員ダニロ・イリッチ(英語版)によって組織された6人の暗殺者(5人のボスニア系セルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者らの目的は青年ボスニア(英語版)と呼ばれる革命運動と一致していた。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。
高級帽子店を舞台にしたのにも理由がある。
20世紀初頭において帽子は重要なアイテムのひとつでした。
当時はブリムと呼ばれる帽子のつばの部分が大きく、顔を覆うようなボリューム感のあるデザインが流行していました。
劇中で、「帽子はおぞましい物を見ないようにするためにある」と語られるようにつばの広い帽子は劇中の物語の確信に迫る真実を覆い隠すという意味があるのかもしれません。
女性解放運動などの社会的な方面、医学的な側面からもコルセットは廃れ、様々なファッションが模索される時代でもあります。
コルセットを必要としないファッションに合わせるように帽子のデザインもコンパクトなものが流行するようになる。
このように自由な女性のファッションという流行の変化が、時代の変化のメタファーとして盛り込まれています。
ネメシュ監督の手腕
さて、冒頭でも記述しましたネメシュ・ラースロー監督。
彼自身、ハンガリーのブダペスト出身で、彼の初の長編作となる『サウルの息子』では手腕を見せつけられました。
『サウルの息子』ではアウシュヴィッツを舞台に第二次世界大戦を描く。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、ハンガリー系ユダヤ人のサウルは同じユダヤ人の死体処理係(ゾンダーコマンド)として働く。
強烈なテーマと独自のカメラワークは彼の名を世界に広めることとなる。
長編二作目となる今作『サンセット』では第一次世界大戦に至る前の歴史と時代の陰りを見事に描き切っています。
『サウルの息子』同様に執拗以上にカメラは主人公イリスの後方を追い、彼女を映しながらその世界を体感させる。
常に先を見据えたような、そして彼女の困惑と真実を知りたいという視点が我々観客の視点とリンクした時、初めてこの作品は完成する。
正直なところ、直接的な表現や明白な意図、得られる情報が少ないまま物語は進んでいき、置いてけぼりになる可能性が高い、非常に不親切な手法。
これは2019年公開の『ウトヤ島、7月22日』の疑似体験型ドキュメンタリーを観た時の不安感やモヤモヤ感に近い。
『ウトヤ島、7月22日』において、観客がその場に居るような体感型を取り入れながら物語に一切介入しないモキュメンタリーとしての"視点の矛盾"が生じる。
つまりは"存在しないはずのカメラマンの存在"だ。
今作『サンセット』では引きの映像も織り交ぜ、あくまでも俯瞰的にその世界を見つめる客観的視点とした上で、体感型としても臨場感を味わうことが出来る。
それが"視点の矛盾"を回避しているんです。
ひとりの女性に焦点を当て、時代に翻弄され、世界に迷い、自分を見誤り、何を見て何を体験したのか?
ピントをわざと外したり、暗闇ではっきりと映さない芯を掴ませない映像、その全容を明かさず世界の片鱗を覗かせるように映し出される。
ネメシュ・ラースロー監督は
この作品は全編35mmフィルムで撮影されています。映画という表現とテクノロジーの関係についてどのようにお考えですか?
私にとって現在の映画とテレビの標準化は疑わしく、すでに証明し尽くされ文脈に当てはめられつくした方法に頼るのではなく、イメージや物語を現す新しい方法を探そうと依然として決心し続けています。つまりは、リスクを犯さなければならないという意味です。今日、観客が映画から得る経験は、だんだん不満足なものになり、観る者の想像の旅を無視し、より簡単に理解できる産業化された表現に堕ちてしまったように感じます。いまの映画に満足している人にとっては、私の『サンセット』の監督方法は、簡単には受け入れ難かったかもしれません。しかし、私は映画が持っている大いなる可能性と観客を結び付けたいのです。
(オフィシャル・インタビューより)
と語るように、受け入れ難いリスクを承知の上でこの手法をとっているのです。
観客に"気づき"を与え、観客が想像力を膨らませる。
観客に委ね、観客を信じ、時には謎は謎のまま明白な答えを掲示しないこと。
ここの徹底ぶりは監督の意図であり、腕があっての演出であろう。
まとめ
ブダペストにある高級帽子店を舞台に、ヨーロッパの歴史の自滅、時代の変化をファッションの流行の変化に準えながら、兄探しというミステリードラマで描かれる主人公イリスの視点と我々観客の視点が同化した時、困惑とともに絶大なる疲労と余韻を齎す。
映画を通して歴史を推理する。
この楽しみに気付いたのは学生を終えて"勉強"という枠から解放されてからだ。
特にわたくしはホロコースト映画、ナチ映画が好みで、フィクションか否かは関係ない。
そこに在った事実をどう見せるのか?が重要だと思っています。
専門書なら兎も角、映画という"娯楽"から学ぶ"史実"はもっと演出に"自由"があってもいいのではないか?
史実とはあくまでも史料によって導き出された結論のひとつに過ぎない。
言わば"原作"のようなもの。
その窮屈な枠から解放され、その他の史料、諸説を繋ぎ合わせて新たな仮説を立てることの面白さ。
映画を通して歴史を推理するとは、ミステリー小説におけるハウダニットやホワイダニットのように、"どのように"、"何故その行為に至ったのか"、散りばめられた手掛かりから結論を紡ぐように推理していく行為に似ています。
観客の想像力を信じたネメシュ・ラースロー監督のリスクを承知で謎を謎のままで残す新たな映画の見方。
観客に委ねる手法と独自のカメラワークはその腕を確かなものにしたと思います。