小羊の悲鳴は止まない

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傲慢と自惚れと勇気(『最後の決闘裁判』ネタバレ考察)

目次




初めに

どうも、レクです。
2021/10/15公開作品は観たい作品が多くて大変です(笑)
その中でも期待していた作品の一つ、『最後の決闘裁判』について今回は語っております。

※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要

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原題:The Last Duel
製作年:2021年
製作国:アメリカ
配給:ディズニー
上映時間:153分
映倫区分:PG12


解説

巨匠リドリー・スコット監督が、アカデミー脚本賞受賞作「グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち」以来のタッグとなるマット・デイモンとベン・アフレックによる脚本を映画化した歴史ミステリー。1386年、百年戦争さなかの中世フランスを舞台に、実際に執り行われたフランス史上最後の「決闘裁判」を基にした物語を描く。騎士カルージュの妻マルグリットが、夫の旧友ル・グリに乱暴されたと訴えるが、目撃者もおらず、ル・グリは無実を主張。真実の行方は、カルージュとル・グリによる生死を懸けた「決闘裁判」に委ねられる。勝者は正義と栄光を手に入れ、敗者は罪人として死罪になる。そして、もし夫が負ければ、マルグリットも偽証の罪で火あぶりの刑を受けることになる。人々はカルージュとル・グリ、どちらが裁かれるべきかをめぐり真っ二つに分かれる。「キリング・イヴ Killing Eve」でエミー主演女優賞を受賞したジョディ・カマーが、女性が声を上げることのできなかった時代に立ち上がり、裁判で闘うことを決意する女性マルグリットに扮したほか、カルージュをマット・デイモン、ル・グリをアダム・ドライバー、カルージュとル・グリの運命を揺さぶる主君ピエール伯をベン・アフレックがそれぞれ演じた。
最後の決闘裁判 : 作品情報 - 映画.comより引用





感想

端的な感想は
「めちゃくちゃおもろいやないかーい!!!」
でした。

ちなみに、この物語が面白いと言ってしまうと語弊があるので、この映画の構成が面白いと言っておきますね。


リドリー・スコット監督作品は『グラディエーター』などの歴史スペクタクル超大作が好きなのですが、本作『最後の決闘裁判』では歴史的な背景を生かしたミステリードラマ。
三幕構成でありながら、黒澤明監督の代表作『羅生門』の構成と同様にそれぞれの視点から物語を繋ぎ合わせる妙。

これは2021年の年間ベストのマストではないでしょうか。



考察

本作『最後の決闘裁判』は、14世紀末のフランスで実際に行われたフランス史上最後の決闘裁判を題材にしています。

強姦にあった女性の夫が加害者を訴え、証拠不十分ということから被害者の夫と加害者の一騎打ちの決闘で判決を下すという流れが縦軸。




一章
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マット・デイモン演じるジャン・ド・カルージュ。
彼の主観による物語が展開される。

ここで描かれるのは、ジャンという男が友人ル・グリと最後の決闘裁判を行うことになった理由と、ジャン本人の理念。

良き夫であると信じ、また王のために騎士として成果を上げる。
理想と自分を重ねて男らしい主人公という印象を残す。

三章まで見ればジャンの印象はすっかり変わってしまうのだけれど、妻に対する態度、ル・グリに対する嫉妬や真っ当な評価がされないと苛立つ傲慢さなど自分自身を美化しているように映る。



二章
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アダム・ドライバー演じるジャック・ル・グリ。
彼の主観による物語が展開される。

ここで描かれるのは、友人ジャンとの確執、そしてマルグリットへの愛。

二章の序盤では一章で見たジャンの思い描くル・グリよりも少し嫌な奴の印象は和らぐが、運命的な出会いかのように勘違いするストーカー気質と強姦を両想いの情交だと言うヤバさも同時に見せられる。
そこを補完するようにマルグリットとの視線の交差を自分の都合の良いように解釈しているのが、三章にて明かされる。

姦淫の罪を犯したことを認め、赦しを乞う一方で強姦の罪を認めない身勝手さも。
恐らく、ル・グリ自身「相手は本気で嫌がっていない」と思い込んでいて、マルグリットは訴えないと踏んでいたのだろう。
ピエール伯という巨大な後ろ盾があることも含めて。



三章
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ジョディ・カマー演じるマルグリット・ド・カルージュ。
彼女の主観による物語が展開される。

ここで描かれるのは、マルグリットが夫であるジャンとの間で子宝に恵まれなかった苦悩、ル・グリに対する本当の想いと強姦の真実。
そしてオープニングと繋ぐ、一章から三章までを集約した"最後の決闘裁判"。

一章では良い夫のように描かれたジャンが妻目線によって傲慢さ極まりない姿で見せられる。
二章ではル・グリ視点故に思わせぶりのようにも映ったマルグリットの真意と強姦での悲痛な叫びが…。


勿論、強姦シーンはキツいものがあるが、強姦された事実を夫に打ち明けるシーンやセカンドレイプの尋問シーンがまたキツい。
鑑賞後にも、目に涙を浮かべる彼女の表情が脳裏から離れない。

そこで着目したいのが
三章だけわざわざテロップに「真実」という文字が強調されて出たこと。

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このポスターでも「真実」という文字が強調されています。


つまり、一章のジャン主観による真実、二章のル・グリ主観の真実、そしてジャンの妻マルグリットの視点もまた真実であり、それは一章と二章を見てきた我々だけが知る唯一の"真実"でもあるんです。

二章でも強姦されたことは最早明白。
更に加えて、馬の交尾シーンを生々しく描いたことも、マルグリットが強姦されたことを強調するもの。
そこに疑念を持つことが、女性を搾取した男どもや、あの決闘裁判における民衆たちの視点とリンクする構図は見事。

また、現代にも通ずる男側の女性に対する抑圧。
ル・グリが秘密にしろと言ったように、女性側の恥ずかしさや夫への罪悪感、背徳感につけ込む汚いやり方。
役と演者は別というのを前提に話しますが、アダム・ドライバーのことが嫌いになりそうなくらい。
セカンドレイプへの描写も辱めから目を背けずその延長線上にあるものとして挿入することで、より強姦に対する罪の意識とその周りの目というものを際立たせているように思う。

この畳み掛けるように積み重ねた嫌悪が、マルグリットの抱える感情の重さを表現しています。





改めて纏めますが

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一章では理想を掲げる自分本位で傲慢な夫ジャンの主観。
二章では情念に駆られる自惚れの男ル・グリの主観。

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そして、三章では男どもに翻弄され搾取される女性が勇気ある行動を起こすマルグリットの主観であり、同時にこの物語の真実を暴き出す諦観
即ち、被害者当人と加害者や被害者の関係者、及び当事者ではない第三者との相違を可視化しているんです。



それぞれの話の食い違いは然程なく、それでいて物語の結末で驚きの真実が明かされるような派手さもない。
同じようなシーンや同じ物語を3人の視点で振り返るだけ。

なのに、全然飽きず、めちゃくちゃ面白い。
この面白さの理由はそれぞれの考えや思い込み、そうであるという揺るがない感情などを下敷きとして、彼らの主観で描かれるから。

男どもが如何に自分本位に視点を歪めていたのかがわかりますね。

三幕を比較し些細なシーンの違いを見つけることで、彼らがその時にどう感じているのか、どう見えているのか、どう振る舞っているのか、見えないものが見えてくる。



短評でも黒澤明監督作品『羅生門』と同様の構成と記載しましたが、正確には黒澤明が『藪の中』を組み込んで再構築した『羅生門』で、原作者である芥川龍之介の『羅生門』とは異なる。
構成自体は原作『藪の中』と同じ。

『羅生門』とは
ある日の夕暮れ時、主人から暇を出された下人が羅生門の下で雨が止むのを待っていると、女の死体の髪を抜く老婆の姿を見る。
正義感から老婆を押さえつけた下人は、その老婆から生きるためと話を聞かされる。
下人は悪を肯定する心が芽生え、自分も生きるためと老婆の衣服を剥ぎ取って夜の中に駆け去っていく。

『藪の中』とは
平安時代のある藪の中を舞台に、殺人と強姦の2つの事件を巡って4人の目撃者と3人の当事者が告白する。
しかし、それぞれの証言は矛盾していて真相が見えてこない構成になっており、未だ真相は見出されていない。
このことから「真相は藪の中」という慣用句ができたとされている。


『羅生門』の下人と同様に、ル・グリの主張は悪事を正当化することでそれが許されるという言い訳にしか聞こえない。
一方で、この『藪の中』と同様の構成を使ったことへの皮肉がすごいんです。
本作『最後の決闘裁判』では真実は既にそこに在るのだから。


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性被害に対する見方。
たとえ訴えを起こしても、誘ったのではないか?など確証のない理由をもとに訴えそのものを捻じ曲げようとする。
はたまた、冤罪を恐れて聞く耳を持たなかったり、証拠を出せとセカンドレイプが行われてしまう。

真実がたとえ明白であっても、たったひとつの真実しかなくても、異なった視点で事実は違ったものに見えてしまう、真実が歪められてしまうということが如実に語られている気がする。


それから、女性が声を上げても、信じてもらえない、受け入れてもらえないからこそ、女性自らが手を下さなければならなかった往年のリベンジもの。
14世紀末のフランスを舞台とした本作『最後の決闘裁判』では、過去の物語がその現代のリベンジものから一歩先へと踏み込んだ物語となっているのが素晴らしい。

夫は自身の尊厳のために妻を巻き込みながらも、男性が男性とケリをつけるという構図は"女性が声を上げること"の重要性を問うひとつの形ではないかと思う。

なぜなら、納得する結果が出ないから声を上げない。
それでは男性優位の社会で抑圧された義理の母と同じ選択をすることになる。
結果はどうあれ、声を上げても何も変わらないかもしれない世の中(時代)でも、こうして声を上げることで少なからずその状況は変わったのだから。


本作『最後の決闘裁判』は、そんな現代にも通ずる"女性への抑圧"に対するアンチテーゼとなり得るのではないだろうか。



終わりに

さて、ここまで語ってきて最後に後味の悪い話をするのは憚れるのですが
1385年、ジャック・ル・グリが覆面をしてジャン・ド・カルージュの妻に性暴力をはたらいたと訴え、決闘による裁判を申し込んだ。
カルージュ対ル・グリ事件。

後になり、ジャンは覆面をした強姦魔は自分自身であったと告白した衝撃の一説も残っています。
その説によると、決闘裁判の正当性そのものが認められないとして、フランスでの決闘裁判が廃止されたとのこと。

神は正しい者に味方すると考えられており、戦いに勝った方が正義、という考えはフランスではルイ十四世の時代まで適用されていた決闘裁判の根拠にもなっている。ルイ十四世の時代に決闘は廃止されたのは、決闘が正しさを必ずしも保証するものではないことが明らかになったからである。1385年に、ジャン・ドゥ・カルージュは、ジャック・ル・グリが覆面をして自分の妻に乱暴をはたらいたとして決闘による裁判を申し込んだ。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、カルージュの主張が認められた。だが、カルージュは後に強姦したのは自分自身であったと自白しため決闘の正しさが保証されないことが明らかになり、フランスの決闘裁判は廃止された。

山内進『決闘裁判―ヨーロッパ法精神の原風景―』参照


ここまでくると、この物語の全容が"ジャンによる復讐の物語"として成立してしまうんですよね。
ル・グリに嫉妬したジャンが彼に汚名を着せて自らの手で葬り去るためのものだと。

この真実もまた、誰かの視点によって歪められた真実なのかもしれない。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



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