小羊の悲鳴は止まない

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魂の孤独と世界への扉(「はちどり」ネタバレ考察)

目次




初めに

どうも、レクです。
どうもどうも。
今回はTwitterの映画垢で話題だけでなく、実際に映画館でもほぼ満席の韓国映画『はちどり』について語っています。


えー本来は大阪アジアン映画祭2020で3月頃に観られるチャンスがあったものの生憎チケットが完売で見逃し、一般上映も関東圏より数ヶ月遅れということもあり、上半期では観れなかった悔しさとともに4〜5か月の僕の想いを乗せた映画でもあるのです(笑)

ということで、観るのが遅くなってしまったこともあってある程度の考察が出回ってしまっていると思いますので、僕なりの視点とあまり考察されていない部分についてまとめてみました。

最後までお読みいただけると幸いです。



※この記事はネタバレを含みます、未鑑賞の方はご注意ください。




作品概要

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原題︰House of Hummingbird
製作年︰2018年
製作国︰韓国・アメリカ合作
配給︰アニモプロデュース
上映時間︰138分
映倫区分︰PG12


解説

1990年代の韓国を舞台に、思春期の少女の揺れ動く思いや家族との関わりを繊細に描いた人間ドラマ。本作が初長編となるキム・ボラ監督が、自身の少女時代の体験をもとに描き、世界各地の映画祭で数々の賞を受賞した。94年、空前の経済成長を迎えた韓国。14歳の少女ウニは、両親や姉兄とソウルの集合団地で暮らしている。学校になじめない彼女は、別の学校に通う親友と悪さをしたり、男子生徒や後輩の女子とデートをしたりして過ごしていた。小さな餅屋を切り盛りする両親は、子どもたちの心の動きと向き合う余裕がなく、兄はそんな両親の目を盗んでウニに暴力を振るう。ウニは自分に無関心な大人たちに囲まれ、孤独な思いを抱えていた。ある日、ウニが通う漢文塾に、不思議な雰囲気の女性教師ヨンジがやって来る。自分の話に耳を傾けてくれる彼女に、ウニは心を開いていくが……。
はちどり : 作品情報 - 映画.comより引用





社会情勢

1994年が舞台の今作『はちどり』。
この1994年という時代背景こそがこの物語のテーマを上手く機能させ、14才の主人公ウニの視点を介して、当時の韓国の社会情勢を描いているんですよね。


この物語の数年前、1988年開催のソウルオリンピックを終えて韓国の経済は安定期に入っていました。
1992年には、ソビエト連邦が崩壊。
朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は消滅し、金泳三政権は文民政権と呼ばれることになった。

また、韓国映画の民主化三部作と言われる『タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜』、『1987、ある闘いの真実』、『工作 黒金星と呼ばれた男』でも描かれたように経済成長と民主化を達成した"漢江の奇跡"の時代でもあります。






そうです、この時代の韓国は軍事政権時代の旧体制でもあった社会主義という体制が大きく揺らぎ、民主化という新体制と経済成長期の社会構造との板挟み状態にあった時代なんです。

韓国社会と思春期真っ只中にあるウニの不安定な心情が重なって描かれているという見方もできます。



そんな社会情勢と思春期の不安定さを加速させるように、劇中でも流れた1994年の朝鮮民主主義人民共和国の首相、金日成主席の逝去のニュース。
そして、1994年10月21日に起きた聖水大橋の崩落事故。

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事故当日の落橋現場

1977年4月に着工し2年後の1979年10月に完成した。ところが、わずか15年後の1994年10月21日に橋の中央部分がおよそ50メートルにわたって突然崩壊し、通行中の乗用車や漢星運輸(朝鮮語版)所属の16番市内バスなどが巻き込まれ32人が死亡し17人が重軽傷を負った。

聖水大橋 - Wikipediaより引用


この出来事は、1981年生まれのキム・ボラ監督自身も子供時代に体験したものでもあり、韓国の未来に対する不安感を煽る出来事でもあるんです。

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김보라 (영화 감독) - 위키백과, 우리 모두의 백과사전より引用



1981年生まれのキム・ボラ監督は、東国大学映像学科を卒業後、コロンビア大学院で映画を学ぶ。
2011年に監督として製作した短編映画『リコーダーのテスト』が各国の映画祭で映画賞を受賞し、注目を集める。

ちなみに今作『はちどり』はこの短編『リコーダーのテスト』で9歳だった主人公ウニのその後の物語だそうです。

タイトルとなった「はちどり」は世界で最も小さい鳥の1種でありながら、羽根を1秒に80回も羽ばたかせ、蜜を求めて長く飛び続ける鳥。キム監督は、希望、愛、生命力の象徴であるはちどりの姿が、主人公ウニと似ていると語っている。
韓国で異例の大ヒット! 90年代ソウルに生きる少女の青春と痛みを描くベルリン受賞作、4月公開 : 映画ニュース - 映画.comより引用



キム・ボラが映画を撮ったきっかけはアメリカの大学院に留学した時に「また中学校に三年間通う夢」を見たからだそうです。

中学生という時期は揶揄されることが多い。
日本や韓国では"中二病"、アメリカでも"八年生シンドローム"という言葉があり、理想化される一方で揶揄される。
そんな年齢に興味を示しているんです。

この映画を作って自身で追体験し、当時感じた問題と再度向き合った。
同時に、大人になっても同じように過去の問題を抱える人が多いことも知る。

またキム・ボラはこうも語っています。
「個人的なことと普遍的なことをどう見つめ、この時期の韓国社会をどのように捉えるか。
大きな絵を描きつつ、社会と個人を結びつける作品を作りたかったんです。」



ここが反映されたのがまさに聖水大橋の崩壊ですね。

ウニは家や学校で様々な崩壊を経験します。
この個人の精神的な崩壊と橋の物理的な崩壊、個人と社会が映画的に結びつく構造が非常に上手く作られています。



禅語と文学から見る物語

さて、本題に入っていきます。
まずは劇中で語られた禅語から話していきましょう。


・相知満天下知心能幾人

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「相知るは天下に満つるも、心を知るは能く幾人ならん」

「知っている人は何人もいるけれど、心から分かり合える人は多くはいない」
といった意味を持つ言葉で、これは千年も前の宋代の禅僧が詠んだ句だそうです。

恐らくこの言葉は鑑賞された方が誰しも印象に残った言葉のひとつだと思います。



この言葉を知ってから、家族、友達との関係を見つめ直すような出来事が立て続けに起こっていく。

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1990年代を舞台に自分と家族、自分と他人、はたまた今を生きる世界へと広がりを見せていく構造を持つ『はちどり』の物語。
実に現代的な言葉でありながら、この言葉はウニが最も自分を省みた瞬間、そして世界との関係性を感じた瞬間となっている。

14才の少女がそれまで意識しなかった自分と他人(=世界)を見つめ直すきっかけ。
そんな接点こそがこの言葉であり、この言葉を投げかけ、自分の言葉に耳を貸してくれる漢文塾の女性講師ヨンジの存在こそが自分の存在を感じることができる、自分と世界が繋がる実感として描かれているのだ。

それに加えて、恋人や友人に裏切られ、何故そのような言動に至ったのか訳も分からず涙を流す。
そんな苦い経験もまた、観客が自分の過去を振り返ってしまう瞬間なのかもしれません。


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一方で大人になった今、実際には子供の頃に、あの頃に戻りたいと願ったり、あの頃は良かったと美化することはあると思います。
しかし、キム・ボラ監督はインタビューで「子供時代は、耐える事が多くあまり良い思い出はない。」と語っています。

また、ウニだけでなく登場人物たちに自身を投影したと語っています。
ウニは中学生の自分、ヨンジは今の自分自身、そして父や兄は時に利己的となる自分の内在する部分。
ウニのボーイフレンドの優柔不断さ、ウニに好意を寄せる後輩の同性の人に惹かれた軽い気持ち。

その中でもウニとヨンジに一番愛情を感じ、物語の軸として機能している。



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このような監督の自己投影が、そして子供を社会的弱者として見せることで、我々観客が子供の頃に一度は経験したであろう"大人からの理不尽な抑制"とリンクして感情移入もしくは共感してしまうのだろう。





それから、韓国では家父長制がほとんどであり、家庭内で男性優位として描かれることが多い。
それは家庭だけでなく社会の体制であることは言うまでもない。
近年ではフェミニズム運動も果敢に行われており、転機にあることは間違いないでしょう。


そんな男性優位の家庭内でウニが頼れるのは同じ女性である母親の存在。
しかし、劇中で母の姿を見かけて何度も叫ぶも声が届かないといった描写が登場しますよね?

これはウニ自身が「自分は家族から愛されていない」といった不安に駆られていることを意味しているのではないでしょうか。


同時に、母親自身もウニの声が聞こえていない。
つまり家庭から外に出た時には母親ではなくひとりの女性であるというメッセージもあると思う。
決して娘を愛していないわけではない。
それでも自分の時間というものを大切にしたいのが人間というもの。

これこそ、母親が自分と世界を切り離した瞬間であり、自分と世界を繋げようとしているウニとの対比としても描かれている。


ウニが万引きで捕まり、店長がウニの父親に電話した際の父親の対応もまた「気にかけてもらえてない」といったウニの不安が募る。
兄からの暴力についても、両親からの叱咤ではない点がそうだろう。
対照的に父親に正面から叱られる姉の姿が、よりウニの家庭内での疎外感を際立たせている。

これらの不安はすべてが冒頭シーンに繋がる構成の凄さ。
むしろ、この映画『はちどり』の冒頭シーンこそがこの映画のすべて。



"何度呼びかけても反応がない=自分を見てくれていない"
そんな子供たちの孤独の反復が、"自分と他人(=世界)を分断する扉"として表現されているんですね。




一方で、男性たちが不意に泣き出すシーンも印象的で。

ウニの耳の下に出来たしこりの診察で病院に付き添った父親の涙。
聖水大橋の崩落後、食卓を囲む際に流した兄の涙。

これらは家父長制、男性優位である家庭で男性が弱さを吐露する瞬間なのだろう。



そう。
心から分かり合える人はいますか?

他人はおろか、たとえ家族であってもその真意は汲み取れないということなのです。
これもまた、自分と世界との分断を表しています。





・クヌルプの生涯の三つの物語

劇中で主人公ウニが手に取る書物『クヌルプ』。
ドイツの抒情詩人ヘルマン・ヘッセの作品です。

クヌルプ(新潮文庫)

クヌルプ(新潮文庫)



『クヌルプの生涯の三つの物語』は『早春』、『クヌルプの思い出』、『最期』の三部構成からなるクヌルプの漂白の人生が綴られたもの。

何故、ウニはこの書物を手に取ったのか?
それにはまず『クヌルプ』について触れなければならない。





【早春】

定職に就かない流浪の人、クヌルプが病気になり、慰安の場を求めて皮なめし師の家で暮らす。
その隣家に丁稚奉公に来ている娘とのエピソードが描かれる。
また、親方の細君に恋心さえ抱かせる。

『はちどり』との共通点として
主人公が病を患うこと。
恋をする相手がいること。
そして、他の人物から好意を抱かれること。
『はちどり』のウニにとっての慰安の場所は漢文教室であり、『クヌルプ』の娘にあたるのが漢文教室のヨンジ。


ここでクヌルプの信仰に対する言葉ある。

「何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。
そういうことはめいめい自分で考え出すほかないんだ。
本から学ぶことはできない。
これがぼくの意見だ。
聖書は古い。
昔のひとは、今日のひとがよく知っていることをいろいろとまだ知らなかったのだ。
だが、だからこそ聖書には美しいことりっぱなことがたくさん書いてある。
ほんとのことだってじつにたくさんある。」
『クヌルプ』より引用


ある意味でこれは真理だと思う。
人生とは知り得ないからこそ美化することもあれば核心を突くこともある。
それを他者から学ぶのではなく、自分で考え出すことで見えてくるのではないだろうか。


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『はちどり』のウニにとって、世界はまだまだ知らないことばかり。
他の家庭がよく見えたり、ヨンジという存在が憧れであったり。
それらを通して自分を省みるからこそ見えてくるものがあるのだ。



【クヌルプの思い出】

二章は主にクヌルプと友人の会話。
そこで語られるクヌルプの台詞がとても印象深い。

「人間はめいめい自分の魂を持っている。
それをほかの魂と混ぜることはできない。
ふたりの人間は寄りあい、互いに話しあい、寄り添いあっていることはできる。
しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれの場所に根をおろしている。
どの魂も他の魂のところに行くことはできない。
行くのには根から離れなければならない。
それこそ出来ない相談だ。
花は互いにいっしょになりたいから、においと種を送り出す。
しかし、種がしかるべき所に行くようにするために、花は何をすることもできない。
それは風のすることだ。
風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする」
『クヌルプ』より引用


とても詩的な台詞なのですが、要約すると人間の魂は孤独であるということ。


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これは『はちどり』においても共通する点であり、恋人や親友、好意を寄せてくれる相手に裏切られ、よりを戻したり戻さなかったり。
寄り添いあうことはできても、混ざり合うことはない。
ウニの心情も孤独な世界に閉じ込められたままなんです。

また、孤独であることを理解した上で自由に生きるためにはどうしたらいいのか?と世界に視野を広げているのです。
まさに今作『はちどり』のテーマと合致するんですよね。



【最期】

病に冒され死期を悟ったクヌルプが生まれ故郷に戻り、童心に帰って自身の気持ちを確認する旅が描かれる。
また、神と会話し、後悔の念を捨て去ってこの世を去る。

クヌルプは過去に初恋の女性に裏切られたことがある。
このエピソードがはじめて三章で語られるのですが、それが一章、二章のクヌルプの言動と繋がっていきます。

クヌルプの最期の言葉
「何もかもあるべきどおりです」

過去の裏切りも、病に伏せる今の現状も、すべてを受け入れること。
『はちどり』でもウニは何度も裏切られます。
そして、ヨンジという心の拠り所を失います。
それでもウニは受け入れていかなければなりません。
すべてを受け入れて生きていかなければならない。

これらを経験することによって、彼女の孤独な世界から扉は開かれ、世界が拡がりを見せたのだから。





さて、初めの問いに戻ります。
何故、ウニはこの書物を手に取ったのか?


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それは、『クヌルプの生涯の三つの物語』はキム・ボラ監督と『はちどり』の主人公ウニを繋げるメタ的な演出ではないでしょうか。


つまりこの書物は、 我々観客がこの映画『はちどり』を観て子供の頃を振り返るように、キム・ボラ監督にとって過去の自分を振り返り自己投影して作ったこの映画『はちどり』そのものなんですよね。




終わりに

如何でしたか?

個人の小さな物語は社会及び世界の大きな物語と繋がっています。
その逆も然り。
今作『はちどり』は韓国映画っぽくないと言われていますが、こういった構成は結構韓国映画に多いんですよね。

キム・ボラ監督はエドワード・ヤン監督作『ヤンヤン 夏の思い出』が好きだそうで、韓国映画っぽさがないのはエドワード・ヤンの作り出す世界観に影響を受けているのでしょう。
また、韓国映画監督では僕も大好きなイ・チャンドンが好きだということで、キム・ボラ監督は今後も追いかけていきたい監督の一人となりました。

冒頭で語った『タクシー運転手』の脚本オム・ユナも『マルモイ ことばあつめ』で監督デビューしています。
韓国でも女性監督の台頭は目覚ましいものがありますね。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。