人生は願望だ、意味じゃない(「ジョーカー」ネタバレ感想)
目次
初めに
こんにちは、レクと申します。
公開日初日に観て参りました『ジョーカー』について語っております。
今回はいつもようにそれぞれのテーマのもと掘り下げていく考察記事という形ではなく、僕自身の感じたこと、思ったことを書き綴ろうと思い、記事を書かせていただきました。
この記事の内容はあくまでも一個人の見解です。
興味のある方は最後までお読みいただけると幸いです。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題:Joker
製作年:2019年
製作国:アメリカ
配給:ワーナー・ブラザース映画
上映時間:122分
映倫区分:R15+
解説
「バットマン」の悪役として広く知られるジョーカーの誕生秘話を、ホアキン・フェニックス主演&トッド・フィリップス監督で映画化。道化師のメイクを施し、恐るべき狂気で人々を恐怖に陥れる悪のカリスマが、いかにして誕生したのか。原作のDCコミックスにはない映画オリジナルのストーリーで描く。「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。これまでジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレット・レトが演じてきたジョーカーを、「ザ・マスター」のホアキン・フェニックスが新たに演じ、名優ロバート・デ・ニーロが共演。「ハングオーバー!」シリーズなどコメディ作品で手腕を発揮してきたトッド・フィリップスがメガホンをとった。第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、DCコミックスの映画化作品としては史上初めて、最高賞の金獅子賞を受賞した。
ジョーカー : 作品情報 - 映画.comより引用
予告編
感想
まずはTwitterにも上げた感想から。
「ジョーカー」観た。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2019年10月4日
"人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇"
アメコミと現実の倒錯、煮え滾る鬱積と憐憫が伝染する善悪の二項対立と境界線。
不条理な世界が人の心へと波及する普遍的な痛み、その妄執を卒倒させる詭弁は正に道化。
笑いとは即ち反抗精神。#ジョーカー衝撃 pic.twitter.com/dUDfdx5PNM
「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇。」
「笑いとは即ち、反抗精神である。」
そして、この記事のタイトルの元ネタ
「何のために意味なんか求めるんだ?人生は願望だ、意味じゃない。」
サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。
チャールズ・チャップリン - Wikipediaより引用
これらの人生について語られた言葉は
後になって振り返ってみれば辛い話も笑い話に変えられる。
意味があるから生きるのではない、夢や希望があるから生きていけるのだ。
といった前向きなメッセージでもあります。
また、幼少期から様々な苦労をしたチャップリンにとって「笑いとは即ち、反抗精神である。」とは不幸でも悲観的にならず積極的に笑っていることだったのでしょう。
『ジョーカー』のアーサーも、チャールズ・チャップリンという誰もが知る喜劇王になれたかもしれない。
アーサーは悲劇と喜劇の思考の切り替え、笑いという反抗精神、そこに"願い"ではなく"意味"を求めてしまったんですよ。
コメディアンを夢見た主人公アーサー(ホアキン・フェニックス)。
そして彼の憧れであるコメディアン、マレー(ロバート・デ・ニーロ)。
皆さんが連想する『キングオブコメディ』にもなぞらえられてましたが、この辺りは恐らく皆さんと同じような内容しか語れないので端折ります。
まあ簡単に言えばコメディを相反する形で描かれています。
トラウマや不条理な世界によって心が壊れていく男の姿を描いた『タクシードライバー』。
こちらも同様の理由で端折らせて頂きます。
また、渾身の演技を魅せたホアキン・フェニックスは『ザ・マスター』での怪演も彷彿とさせます。
「ザ・マスター」観た。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2019年9月7日
教団の支配者、奇妙な師弟関係、そして処世の会得。
"マスター"が含意する複数の言葉が心を支配し、自分が何者なのかを問う。
人は虚偽が作り上げた信頼であっても、自分を受け入れてくれる相手に縋るもの。
誰にも縛られない生き方はできるのか?
人生はひとつじゃないから。 pic.twitter.com/q39giLkdd8
「人生はひとつじゃないから。」
つい先月、京都みなみ会館のオールナイト上映に行ってきまして、35mmフィルムでの『ザ・マスター』の上映がされたんですよね。
この作品自体は二度目の鑑賞でしたが、一度目では感じられなかった"圧倒的"な熱量を感じました。
今作『ジョーカー』においても"圧倒的"と言わざるを得ない。
他にも、『容疑者、ホアキン・フェニックス』や『her/世界でひとつの彼女』などホアキンの過去の出演作の集大成とも言える素晴らしい演技を魅せています。
トッド・フィリップス監督もこのように語っていますね。
フィリップス監督は、アーサー/ジョーカー役のフェニックスを「偉大な名優」と語り、「役者のすごさを説明するのは難しい。脚本に従っただけと思うかもしれない。そんなことはまったくなく、ホアキンは脚本を下敷きに、自分のものにして昇華させる」と全幅の信頼を寄せる。
https://eiga.com/news/20191004/8/:title より引用
さて、次に語っておかなければならないこととしては劇中でのバットマンと繋がる描写です。
自分の感想を述べる上でもバットマンの話をする必要があります。
後にバットマンとなるブルース・ウェインも登場し、物語として重なる部分がありましたね。
僕の大好きな監督のひとり、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』に登場するジョーカー(ヒース・レジャー)と比較されることもしばしばありますが、『ジョーカー』のジョーカー(ホアキン・フェニックス)とは完全に別物です。
今作はDCのキャラクター、ジョーカーを借りたひとりの男の哀しき物語でもあります。
ノーランがバットマンを描くにあたって幾つかのテーマがあると僕は思っています。
ヒーローものにおいて、法は正義の実現のための必要十分条件ではないということ。
だからこそ、法では裁けない、法の外側で正義を行う例外的な人物がヒーローたるものだと。
『ダークナイト』のジョーカーは法と犯罪の間にある不均衡な部分、法による服従に抗う者として、一般人から切り離されたヒーローという存在とは真逆の存在なんです。
そもそもこの作品は、元々バットマンを正義と悪の境界線に立たせて現実的に描くことを目的とされていたそうです。
ヒーローという偽りのアイデンティティはブルース・ウェインという人物のアイデンティティを覆い隠す真実であるということ。
つまり、バットマンはヒーローとして主にマスクというフィクションで自分の正体を隠している。
一方で、『ダークナイト』ジョーカーはDNAや指紋の記録もなければなんの情報も持たない。
彼は自らの正体を巧みに隠しているのではなく、隠すべきアイデンティティがないことを示して、バットマンとの対比を描いているんです。
ブルースの両親が暴漢によって殺害される描写があります。
これはバットマンにおいても一般的に描かれるブルースのトラウマですね。
『ジョーカー』では、この暴漢はジョーカーによる影響だと明白に言及するものとなっています。
もしかしたら、ブルースが復讐心に駆られて悪に染まった可能性も考えられる。
冒頭でも語ったように、ジョーカーであるアーサーがコメディアンとして善に転じた可能性だってある。
つまり、今作『ジョーカー』においてはバットマンとジョーカーは単純な善悪の二項対立ではないんですね。
揺るがない事実さえも"詭弁"として『ジョーカー』では描いているんです。
また、ラストにはアーサーは捕まり精神病棟に移されるシーンが挿入されます。
ジョーカーは悪のカリスマだ。
この当然の流れでもある事実さえも"詭弁"として描いているんです。
現実と虚構、真実と虚偽、善と悪、この世界に存在する物事の曖昧な境界線にこそ、今作のメッセージが隠されていると思います。
『ジョーカー』ではバットマンとジョーカーは対照的であり、写鏡でもあるという善悪の二項対立と境界線をギリギリの危ういラインで描いてるんですよ。
申し上げた通り、『ダークナイト』のジョーカーは自身のアイデンティティを持たない。
つまり、その背景に人間味を感じさせないキャラクターとなっているんですが、今作『ジョーカー』はいち市民がジョーカーとなる。
その背景には育った環境や境遇、笑いものにされ、自身も笑いが止まらない病に悩まされている。
そんな中で唯一の希望がコメディアンになること。
人々の関心を惹くそのコメディアンとしての素質が"ジョーカー"というマスクを被ることで妄信的な信者に支持され、犯罪に同調する者が現れたこと。
これが今まで世間から評価がされず、自身の存在すらも感じなかったアーサーの存在価値、存在意義とリンクし、アーサーが自身の評価だという"勘違い"に拍車をかける。
つまり、"ジョーカー"が支持されることで、そこで初めてアイデンティティのないアーサーが自分が"ジョーカー"だというアイデンティティを自覚したわけである。
「アーサーがジョーカーになった」と鑑賞中に思うかもしれない。
しかし、実際にはその素質を呼び起こされただけなのだ。
ノーラン監督作『ダークナイト・ライジング』でのブルース・ウェインの「誰でもバットマンになれる、マスクを被れば。」という台詞と同様に、『ジョーカー』ではその"勘違い"によって誰にでもジョーカーになれる、誰もがならせてしまう可能性を秘めているんです。
このように、『ジョーカー』はアーサーがジョーカーとなる誕生の物語です。
その"ジョーカー"という人物は、アーサーが自ら悪の階段を登ってジョーカーとなったものではない。
誰かを笑わせるのではなく、誰かに笑われ続けたアーサーという媒体を使って、彼に影響を与えた人々がジョーカーを作り上げたという見方ができる。
よって、この映画は決して犯罪を助長する映画ではない。
「人の心に波及する」この映画は、虐げられる者の畏怖と狂気が描かれているのですが
寧ろ虐げる者、言わば加害者側への糾弾となっているのです。
精神異常者、社会的弱者の危険性。
そんな先入観や固定概念、妄執や誤った認識を卒倒させる"詭弁"。
この映画から僕が受け取ったメッセージは笑い声を上げながら常に我々の背後に潜んでいるのです。
終わりに
ということで、大体言いたいことは言えたと思います。
いつものように考察という形でも良かったのですが、それだとまた長々となっちゃいそうなのでTwitterに上げた感想の詳細という意味で感想とさせていただきました。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました。
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