小羊の悲鳴は止まない

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宗教的制約と自由意志(「ロニートとエスティ 彼女たちの選択」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は先日鑑賞してきました「ロニートとエスティ 彼女たちの選択」について書いていきます。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題︰Disobedience
製作年︰2017年
製作国︰イギリス
配給︰ファントム・フィルム
上映時間︰114分
映倫区分︰PG12


解説

「ナチュラルウーマン」で第90回アカデミー外国語映画賞を受賞したチリのセバスティアン・レリオ監督が、「ナイロビの蜂」のレイチェル・ワイズ&「きみに読む物語」のレイチェル・マクアダムスをダブル主演に描く恋愛映画。イギリスの女性作家ナオミ・オルダーマンの自伝的デビュー作をもとに、厳格なユダヤ・コミュニティで育った女性2人の赦されざる愛を描く。超正統派ユダヤ・コミュニティで生まれ育ったロニートとエスティは互いにひかれ合うが、コミュニティの掟は2人の関係を許さなかった。やがてロニートはユダヤ教指導者の父と信仰を捨てて故郷を去り、残されたエスティは幼なじみと結婚してユダヤ社会で生きることに。時が経ち、父の死をきっかけにロニートが帰郷し、2人は再会を果たす。心の奥に封印してきた熱い思いが溢れ、信仰と愛の間で葛藤する2人は、本当の自分を取り戻すため、ある決断をする。
ロニートとエスティ 彼女たちの選択 : 作品情報 - 映画.comより引用




Wレイチェルの魅力



街を出てカメラマンとして生きる主人公ロニートを演じるのはレイチェル・ワイズ。



そして、街に残り結婚し妻として生きるもう一人の主人公エスティを演じるのはレイチェル・マクアダムス。

Wレイチェル主演で描かれる三角関係。


エスティとドヴィッドの決められた日に行う夫婦の営み。
ロニートとエスティの愛し合うが故の濃厚な濡れ場シーン。
この対比がすごい。



特に
レイチェルとレイチェルが互いの下半身を弄り合ったり!
レイチェルがレイチェルの唾液を飲んだり!
と少々過激な描写も挿入され、体を張った演技が見られます(笑)



Wレイチェルの美しさしか際立たない完全なる俺得シーンの連発。



物語自体は淡々としており、のめり込めなければ退屈に感じる部分もあるだろう。
しかし、この物語を神学的に紐解けばその淡々とした物語の背景にある微細な心境の変化がWレイチェルの表情や細かな所作によって演じ分けられている事が分かるんです!

もう画面に釘付けですよ!



モーセ五書

この物語でキーとなる宗教知識がこの〈モーセ五書〉です。
他にも〈トーラ〉〈律法〉〈ペンタチューク〉とも呼ばれています。


〈モーセ五書〉とは旧約聖書の最初の5つの書。

創世記「בראשית」(ヘブライ語の原題は「初めに」の意味)
出エジプト記「שמות」(ヘブライ語の原題は「名」の意味)
レビ記「ויקרא」(ヘブライ語の原題は「神は呼ばれた」の意味)
民数記「במדבר」(ヘブライ語の原題は「荒れ野に」の意味)
申命記「דברים」(ヘブライ語の原題は「言葉」の意味)
モーセ五書 - Wikipediaより引用

内容は〈創世記〉がモーセ以前、〈出エジプト記〉以下はモーセを中心に、天地創造からモーセの死までを含む壮大な歴史文学として神より与えられたイスラエルの〈律法〉が述べられています。

またユダヤ教では、それらのタイトルを繋いで
「初めに荒野で呼ばれた名は言葉」
という意味を成すと考えられています。



聖書においてこの言葉から連想できる一節があります。

それは〈マタイによる福音書〉3章3節
預言者イザヤによって、
「荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』」
と言われたのは、この人のことである。

この預言者イザヤとは旧約聖書〈イザヤ書〉40章3節の引用です。
呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。

呼びかける者はヨハネのことを指し、自分より少し後に訪れる救世主メシアのために準備しています。
「荒野」とは罪人の世の中を意味しており、「備え」とは人々に悔い改め神に向き直るよう説いていたことです。


では、「言葉」とは何を指すのか?

それは〈ヨハネによる福音書〉1章1-3節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

神は「言葉」であらゆるものを創造された。
言い換えるなら、「初めに荒野で呼ばれた名は言葉」の「言葉」とは神のことを意味する。


罪人の世の中で名を呼ばれたのは神。
つまり、どのような酷い世界であっても神を崇める信仰心は絶えないということを指すのではないでしょうか。



宗教的制約と自由意志

漸く本題に入っていきます。

ロニートの父ラビは厳格なユダヤ教信者でした。
というよりも、上記の〈モーセ五書〉からも恐らくはこの田舎街自体が閉鎖的で信仰心に厚く、故に偏見や排他的思想の根強い場所であろうことが推測されます。

したがって、いつの時代だよ!といった時代錯誤な演出が多々ありますが、現実このような偏見は未だに残っているのも事実なのです。



ラビは上記で説明した通り、モーセ五書つまり〈律法〉を重んじており、彼が亡くなる前の話は主に〈創世記〉の人間が創造された時の話でした。

これは正しくこの『ロニートとエスティ』の物語の始まりを告げるもの。



〈創世記〉1章26-27節
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

この世には天使と獣と人間が存在する。
天使は神に従順で、獣は本能のまま神に創られた通りの行動を取る。
そして人間は…。

自由意志のもと、唯一選択が可能な思考を持っている生き物である。



人間が創られたのは〈創世記〉でも終わりの第六日目のこと。
天使と獣の中間であるものとして神の姿を模して創られた人間。

これを皮肉ったのがフランスの哲学者ブレーズ・パスカルの『パンセ』の言葉ですね。


ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)は、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家である。
ブレーズ・パスカル - Wikipediaより引用

「人間は天使でもなければ獣でもない。だが不幸なことに、人間は天使のように振る舞おうと欲しながら、まるで獣のように行動する。」
最も有名なものに「人間は考える葦である」があります。


また、イングランドの作家ウィリアム・シェイクスピアはこう残しています。


ウィリアム・シェイクスピア(英語: William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。
ウィリアム・シェイクスピア - Wikipediaより引用

「われわれの人生は織り糸で織られているが、良い糸も悪い糸も混じっている。」



つまり、人間には天使と獣(悪魔)の二面性があるとされる。
自由意志のもと選択の思考が、この善悪を決めるのです。
例えば、「良心に従う」や「魔が差す」など、日常でも使われる言葉にもこの善悪の概念が備わっています。

この善悪の概念こそがこの物語における信仰心と自由意志なのです。



〈創世記〉において男女で結ばれるとされたことが、後に同性愛は聖書に反する事柄だと批判されるようになる。

〈創世記〉2章21-24節
そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。




また、〈創世記〉人間をエデンの園から追放したことは、今作の神は父であるラビだと考えると禁断の実は同性愛、ロニートの家出は失楽園と当てはめることができる。

ラビの葬儀で集まった葬儀前日の安息日での会話がすべての答えです。
ちなみに安息日とは、何もしてはならない日と定められた一日。
〈創世記〉における第七日目が由来。

愛は男女間だけのものなのか?
結婚が正しい選択なのか?
子を産むことだけが幸せなのか?


敬虔なユダヤ教信者であるラビ。
その弟子ドヴィッド。
彼らは共に神を崇める者

そして、ユダヤ教から当時、神の冒涜だとされた同性愛者であるロニートとエスティ。
彼女らは神に背く者


この物語はラビの死を知らされたロニートが、閉鎖的な田舎街へと帰省したことで、ロニートとエスティの過去が徐々に明らかとなっていきます。
一方で、現在のロニートとエスティの苦悩と後悔、これからの未来、希望も見えてくる。


ラビの残した最後の言葉「人間の自由意志」。
ユダヤ教信者が〈律法〉に縛られていることが後々、本当に自由なのか?といった反宗教的思想にも映ります。

ラビは過去にロニートとエスティの関係を目撃し、「神よ、私を殺してくれ」とまで嘆いたと語られます。
それでも尚、信仰を続けたラビ。
そして、父を蔑ろに家を出たロニートの身勝手さは自由意志への批判にも映ります。

このように、ラビとロニートの親子の確執、エスティとドヴィッドの結婚という人物相関図が神を崇める者と神に背く者、信仰と自由意志の善悪として絶妙なバランスで描かれているんです。



そんな中で、ラストシークエンスでドヴィッドが葛藤の末に下した決断とエスティが出した明確な答えこそが、それこそが良心であり、自由意志の尊重であり、本当の意味での信仰心であり、ラビの伝えたかったことなのではないか?


原題『DISOBEDIENCE』とは『不服従』の意味。
信仰心による宗教的制約は果たして服従なのか、自由による選択は不服従なのか?

見方一つでその立場や見解が変わる。
非常にデリケートでアンバランス且つアンビバレントさがその背景にあるように思います。
だからこそ、この映画は各々の登場人物の心情を単なる二元論で片付けておらず、その葛藤や苦悩が本当の自分を明確にし、自由意志の余地を残す傑作たる所以ではないでしょうか。



終わりに

ということで、めちゃくちゃ良かったです!
誰もがこうなって欲しかったという願望をラストシーンにしていないことにこそ、自由意志の尊重が感じられましたね。
Wレイチェルの魅力を最大限に活かし、宗教的観点からLGBTQに向き合った今作は僕の心にしっかりと留まっています。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




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