悪魔の仕業か神の試練か(「アダムズ・アップル」ネタバレ考察)
目次
初めに
こんばんは、レクと申します。
今回は『アダムズ・アップル』について語っています。
マッツ・ミケルセン大好きなアナス・トマス・イェンセン監督が贈るブラックユーモアに溢れるデンマーク映画です。
この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Adam's Apples
製作年︰2005年
製作国︰デンマーク・ドイツ合作
配給︰アダムズ・アップルLLP
上映時間︰94分
映倫区分︰PG12
解説
「しあわせな孤独」「真夜中のゆりかご」の脚本家アナス・トーマス・イェンセンが監督・脚本を手がけ、「偽りなき者」のマッツ・ミケルセンが出演したヒューマンドラマ。旧約聖書の「ヨブ記」とアダムのリンゴの寓話をモチーフに、草原の教会で繰り広げられる奇妙な人間模様をブラックユーモアたっぷりに描く。仮釈放されたスキンヘッドの男アダムが、更生施設を兼ねた田舎の教会へ送り込まれる。ネオナチ思想に染まっている彼は、指導役の聖職者イバンから目標を問われ「庭のリンゴを収穫してアップルケーキを作る」と適当な返事をする。この教会に集まる人々はどこか変で、聖職者のイバンでさえ過酷な現実から逃避し、神を妄信することで自分を守ろうとしていた。イバンの自己欺瞞を執拗に暴こうとするアダムだったが、そんな彼に奇怪な災いが次々と降りかかる。「未来を生きる君たちへ」のウルリッヒ・トムセンがアダム、ミケルセンがイバンを演じる。
アダムズ・アップル : 作品情報 - 映画.comより引用
総評
まず初めに、Twitterに上げた感想から。
「アダムズ・アップル」観た。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2019年11月23日
旧約聖書のヨブ記を基にした悪魔の試み、神への懐疑及び信仰の妄信を通して、人の勝手な解釈や思い込みが浮き彫りになる。
それが不道徳な耽溺の暗喩でもある禁断の果実と重なり、創世記の失楽園を逆説で描く。
聖書をブラックコメディとして昇華した問題作、面白い。 pic.twitter.com/IKV3w3cnkS
ということで、まずは旧約聖書について少し語っていきます。
旧約聖書は創世記からはじまりマラキ書で終わります。
そしてそれらは大きく3部に分けることができます。
それは《律法》、《書物》、《預言》です。
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記では《律法》、つまり聖書における法律、禁じ事や守り事です。
今作のストーリーの大枠に使われたヨブ記は書物にカテゴライズされ、詩篇と箴言の前にあります。
"ヨブ記"は全42章で構成されている。そのうち1章と2章、そして最終章の一部が散文になっており、他すべてが韻文という特異な構成となっています。
家族も家畜を含む財産にも恵まれたヨブという敬虔な信仰者を通して、神の懐疑と信仰心を語る物語であり、神はヨブのその信仰心を確かめるために様々な試練をお与えになる。
体に悪腫を出したり、サタンを呼んで唆したり。
そんなヨブの姿を見て妻は神を恨んでもいいと諭すも、ヨブは神を冒涜するのは愚かだと切り捨てる。
友人三人も現れ、ヨブを説得する。
それにも反抗するのだが、ついにヨブは罪を犯していない自分に神が試練をお与えになることに疑問を持ち始める。
そこで取ったヨブの行動が"神への申し立て"。
これがヨブ記で初めての神への懐疑である。
悪魔を非難するのではなく、神に絶望する。
そしてすべての人間との交わりを避け、すべてが自分を放っておいてほしいと願う。
これはまさに絶望の精神の行方の暗示というもの。
今作『アダムズ・アップル』では、このヨブがイヴァンに該当する。
ヨブとは違い、家庭や環境に恵まれないイヴァンは神からの試練だと思い込んでそれを半ば自己暗示のように受け入れようとします。
そこに現れたのがアダム。
彼はネオナチであり無神論者、神の存在を否定し現実を突きつける者、ヨブ記におけるサタンや妻の役割を担う。
そして、教会に住むグナーとカリド、教会へやって来たサラはヨブ記における友人3人である。
神の試練と信じて止まないイヴァンに突きつけられたものは、信仰心を揺さぶるものであった。
このようにヨブ記の大枠を借りながら、創世記のエデンの園と失楽園へと回帰する。
謂わば、聖書の逆行なのである。
そう、もう一つの旧約聖書の引用が"創世記"なのです。
アダムとイブ、禁断の果実、失楽園など聖書を全く知らなくても一度は耳にしたことがあるものだと思います。
何かの罪を犯しているから神は試練をお与えになるといったヨブ記におけるテーマを踏襲しつつも、それが不道徳な耽溺のメタファーでもある禁断の果実と重なり、つまりは人間の原罪に触れるものとなっているのだ。
その上で、創世記の失楽園を逆説で描いた今作は聖書をブラックコメディとして昇華した問題作であり、非常に面白い作りとなっています。
聖書の引用
ここからは『アダムズ・アップル』で登場する聖書の引用を解説していきます。
アダムとエバ(アルブレヒト・デューラー画)アダムとエバ(アダムとイブ)は、旧約聖書『創世記』に記された、最初の人間である。天地創造の終わりにヤハウェによって創造されたとされる。
なお、アダム(אָדָם)とはヘブライ語で「土」「人間」の2つの意味を持つ言葉に由来しており、エバはヘブライ語でハヴァ(חַוָּה)といい「生きる者」または「生命」の意味である。
旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には生命の木と知恵の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという。この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。
このように禁断の果実を食べたアダムとイブはエデンの園から追放されたわけだが、今作『アダムズ・アップル』では先述の通り、創世記を逆説に描いている。
アダムは登場人物たちの中でも最も人間らしく、アップルケーキを作るために動く。
イヴァンは聖職者で神しか目に映らない妄信的な信者であり、大きな怪我をしても生きている。
悪魔の試練ではなく神の注意=禁断の果実、アップルケーキとして考えると
禁断の果実(アップルケーキ)を食べたイヴァンとアダムは創世記と同様に神を背く行為を行っていることになる。
つまり、教会は神によって外界から隔離された場所、失楽園。
その教会こそ楽園であると思い込んでいる二人の妄執であり、その楽園に残ったのがイヴァンとアダムなのだ。
そして、その楽園(教会)で新たな仲間(罪を犯した者たち)を受け入れる。
ちなみにタイトル「Adam’s apple」とは英語で"喉仏"を意味する。
アダムが禁断の果実を口にした際、神に見つかったことに驚き喉をつまらせた隆起とされる。
また、ヘブライ語で男の膨れたものを意味する「tappuah haadam」が誤訳されて「tapuah haadam(アダムの林檎)」となった説もある。
また、デンマークには伝統的なケーキがあります。
「Gammeldags æblekage」と呼ばれるもので、昔ながらのアップルケーキという意味を持つそうです。
カラスが初めて聖書に登場したのは創世記です。
創世記 8章1節-12節
「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。
また淵の源と、天の窓とは閉ざされて、天から雨が降らなくなった。
それで水はしだいに地の上から引いて、百五十日の後には水が減り、
箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。
水はしだいに減って、十月になり、十月一日に山々の頂が現れた。
四十日たって、ノアはその造った箱舟の窓を開いて、からすを放ったところ、
からすは地の上から水がかわききるまで、あちらこちらへ飛びまわった。
ノアはまた地のおもてから、水がひいたかどうかを見ようと、彼の所から、はとを放ったが、
はとは足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。水がまだ全地のおもてにあったからである。彼は手を伸べて、これを捕え、箱舟の中の彼のもとに引き入れた。
それから七日待って再びはとを箱舟から放った。
はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。
さらに七日待ってまた、はとを放ったところ、もはや彼のもとには帰ってこなかった。」
神は堕落した人間を地上から一掃するために洪水を起こすことを決心し、ノアには巨大な箱舟を作らせて、ノアとその家族、そして七つがいずつの清い動物と一つがいずつの清くない動物、七つがいずつの鳥を箱舟に乗せる。
その後、ノアは最初にカラスを放ち、次に七日おきに三回にわたって鳩を箱舟から放します。
このように、ノアは最初に鳩ではなくカラスを放っていますが、これはカラスは視力においても知能においても他のほとんどの鳥よりも優れていて、鋭い洞察力を象徴する鳥となっているからだと考えられます。
また、レビ記、申命記において、カラスは他の不浄な動物とともに、食べてはならない生き物とされています。
ルカによる福音書では鳥の中でも特に不浄とされたカラスを引用することで、神の愛がすべての生き物に及ぶことを示し、神の摂理に対する完全な信仰をいっそう強調した教えとなっているんです。
ルカによる福音書 12章24節
「からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。」
よって、今作における林檎の木に群がるカラスたちの駆除は、信仰心への反抗を表しているんですね。
ちなみに数多くの動物が聖書に登場するが、猫は聖書に登場しない。
つまり、この世界に猫は不要であり必然的にこの場で退場させられている。
・イエスの奇跡
劇中でも語られた「水をワインに変える」とはイエスの最初の奇跡です。
ガリラヤのカナでの婚礼にて。
ヨハネによる福音書 2章1節-11節
「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。」
このエピソードをあなたは信じますか?(笑)
そう、今作のテーマです。
敬虔な信者でもあるイヴァンにとってこのような出来事は奇跡なのでしょう。
一方で、無神論者のアダムにとってはどう映ったでしょうか?
馬鹿馬鹿しい、と一蹴しています。
ここが、イヴァンとアダムの違い、更に言えば信仰と妄信の違いなのではないか?というアナス・トマス・イェンセン監督が描いた最も顕著に表された皮肉だと思います。
『ヨハネによる福音書』11章によれば、イエスによっていったん死より甦らされた。ラザロが病気と聞いてベタニアにやってきたイエスと一行は、ラザロが葬られて既に4日経っていることを知る。イエスは、ラザロの死を悲しんで涙を流す。イエスが墓の前に立ち、「ラザロ、出てきなさい」というと、死んだはずのラザロが布にまかれて出てきた。
ラザロ - Wikipediaより引用
その一方で、イエスの奇跡のひとつでもある"ラザロの蘇生"をイヴァンを通して描くところがまた憎い(良い意味で)。
聖書をただ現代社会に映すだけでなく、しっかりと聖書の背景を描いた上で深刻なテーマが扱われることが、この物語が寓話や他人事ではないように思わせてくれる。
また、信仰心という概念を揺さぶることで、罪や苦しみなどかなり重い題材を重く見せない演出がされており、それこそがこの映画の意義ではないでしょうか。
終わりに
人生の道を見失った人たちが集まる教会で、不条理が奇跡のように描かれるこの物語は、衝撃的でありながらちょっぴり感動しちゃう奇想天外さ。
信仰心をブラックジョークとして描きつつも、信じる者は救われるといった信仰の核を突くイカれた映画だ(笑)
ということで、最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。