小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

文学的視点から描かれた傑作(「モリーズ・ゲーム」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
久しぶりの更新になり申し訳ございません。
今回は「モリーズ・ゲーム」について語っています。

ネタバレ含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Molly's Game
製作年:2017年
製作国:アメリカ
配給:キノフィルムズ
上映時間:140分
映倫区分:PG12


あらすじ

女神の見えざる手」「ゼロ・ダーク・サーティ」のジェシカ・チャステインが主演を務め、トップアスリートからポーカールームの経営者へと転身した実在の女性モリー・ブルームの栄光と転落を描いたドラマ。「ソーシャル・ネットワーク」でアカデミー脚色賞を受賞した名脚本家アーロン・ソーキンが、2014年に刊行されたブルームの回想録をもとに脚色し、初メガホンをとった。モーグルの選手として五輪出場も有望視されていたモリーは試合中の怪我でアスリートの道を断念する。ロースクールへ進学することを考えていた彼女は、その前に1年間の休暇をとろうとロサンゼルスにやってくるが、ウェイトレスのバイトで知り合った人々のつながりから、ハリウッドスターや大企業の経営者が法外な掛け金でポーカーに興じるアンダーグラウンドなポーカーゲームの運営アシスタントをすることになる。その才覚で26歳にして自分のゲームルームを開設するモリーだったが、10年後、FBIに逮捕されてしまう。モリーを担当する弁護士は、打ち合わせを重ねるうちに彼女の意外な素顔を知る。モリーの弁護士役をイドリス・エルバ、父親役をケビン・コスナーがそれぞれ演じる。
モリーズ・ゲーム : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編




本作の魅力

まずはツイッターの感想から。



本作「モリーズ・ゲーム」はモリー・D・ブルームによる自叙伝。
モリーが合法カジノで成り上がった半生、そしてモリー逮捕後の法廷劇。
そこに至るまでの経緯(過去)と弁護士との人間ドラマ(現在)が描かれています。



本作は主演ジェシカ・チャステインの魅力が最大限に詰まったもの。

彼女の魅力が詰まった映画「女神の見えざる手」。
本作と同様に強い女性像を描いた作品です。



女神の見えざる手」と本作「モリーズ・ゲーム」との決定的な違いはジェシカ・チャステインの冒頭からの語り部です。
そのマシンガントークは思わず聞き入ってしまうほど。

本作は脚本家アーロン・ソーキンの初監督作ということで、台詞量が膨大です。
早口な語り部や会話、スキー、ポーカー、法律などの専門用語など翻訳泣かせw

ここについて行くために頭をリセットして挑んでいただきたい。


また、モリーズ・ゲームで実名は明かされていませんが、彼女主催の超高額ポーカールームにはレオナルド・ディカプリオベン・アフレックトビー・マグワイアら有名スターや映画監督、一流スポーツ選手やミュージシャンも顧客リストに並んでいたとのこと。

モリーの半生、錚々たる面子を虜にしたギャンブル運営、これが作り話でないことが凄い。



上映時間は140分です。
しかし、圧倒的な台詞量とテンポの良さから全く長く感じることもなく終わりました。
ポーカーのルールくらいは分かっておいた方がいいかもしれませんが、メインはそこではないので問題ないです。


予告編を観る限りでは、モリーという一人の女性に焦点を当て、人生の成功と転落を描いたエンタメ性の強い作品のように見えました。
見る人によっては巨額の富を得るサクセスストーリーのように映ったかもしれません。

勿論、本筋はそのようなストーリーですが思っていた以上に人間ドラマが挿入されていました。



何度も言いますが、ジェシカ・チャステインの魅力が詰まった映画ではあります。

この映画はモリーの自叙伝にも関わらず、描写足らずでモリーのプライベートを想像しにくいという短所があります。
欲を言えばもう少し孤独感や虚無感から心理描写を描いて欲しかったというのが本音でもあります。

しかし、そこを補って余るその他の登場人物の存在。
脇を固める役者陣がモリーという人物に深みや厚みを与えてくれてるんですよね。



そして、これだけは言いたい。




ジェシカ・チャステインのドレスがエロい!!!



文学的視点から見る

作中にアーロン・ソーキンらしい文学的視点が登場します。
その辺について掘り下げていきます。


・「るつぼ」

作品でモリーを「るつぼ」だと比喩するシーンがありました。

『るつぼ』(原題:The Crucible)
アーサー・ミラーによる戯曲。セイラム魔女裁判と、それを通して当時問題になっていた赤狩りマッカーシズムに対しての批判を描く。1953年1月、ニューヨーク市マーテイン・ベックシアター(英語版)で初演。全4幕。
るつぼ (戯曲) - Wikipedia)り引用


「るつぼ」は映画化もされています。

クルーシブル [DVD]

クルーシブル [DVD]

『クルーシブル』(The Crucible)は、1996年制作のアメリカ映画。セイラム魔女裁判をモチーフにしたアーサー・ミラーの戯曲『るつぼ』の映画化作品。
クルーシブル - Wikipediaより引用


「るつぼ」では様々な批判やテーマが込められています。
・集団心理の異常性と恐怖
・権力者による弾圧
・冤罪の恐ろしさと裁判制度への警鐘
・人間の尊厳と倫理観


多くの人を陥れた彼女が罪を負うことになるのか?
私利私欲に基づく身勝手な行動だと断罪されるのか?

周りを売って生きるか、それとも自らの尊厳を主張するのか?
魔女と認める虚言を拒み、処刑台へと送られる姿を見事にモリーと重ねられています。



・「ユリシーズ

アーロン・ソーキンの遊び心というか、本作のモリー・ブルームと「ユリシーズ」に登場する妻の名前に着目して重ね合わされる。


初版(1922年)

ユリシーズ』(Ulysses)
アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの小説。当初アメリカの雑誌『リトル・レビュー』1918年3月号から1920年12月号にかけて一部が連載され、その後1922年2月2日にパリのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店から完全な形で出版された。20世紀前半のモダニズム文学におけるもっとも重要な作品の一つであり、プルーストの『失われた時を求めて』とともに20世紀を代表する小説とみなされている。

ユリシーズ - Wikipediaより引用



ユリシーズ」で描かれるオデュッセウス同様に、本作のモリーも事故からオリンピックの夢を絶たれるという地獄を見る。


ユリシーズ」で用いられた文体で最も特徴的なのが前後半での小気味よく転調する点だ。

前半では"意識の流れ"
心理学の概念で、人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである。とするもの。
本作も同様に、モリー自身の内的独白で描かれる。


後半では語りの視点が複数化、非個人化するとともに作者固有の文体というべきものが消失している。
本作も同様に、前半での語り手であるモリー視点から、モリーの父親と弁護士視点として描かれている。



モリーの行動原理は「るつぼ」を用いて倫理観を示す。
台詞回しとその語りは「ユリシーズ」で展開される。

アーロン・ソーキンの文学的視点には正直驚かされた。



終わりに

「成功とはひとつの失敗から、熱意を保ち続けてもうひとつの失敗に移れる才能に他ならない」

ラストでモリーウィンストン・チャーチルの言葉を引用して締めくくっています。
言葉を紡ぐことにおいて右に出る者はいない天才、ウィンストン・チャーチル

首相就任からの27日間を描いた映画「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男



その類希なる言葉の魔術を披露していました。

‪失敗から学び、それを繰り返さないこと。‬
‪至極単純ながら難しい。‬
‪しかし、それが成功への最短ルート。なのかもしれない。


原作者であるモリー本人のインタビュー映像も貼っておきます。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2017 MG's Game, Inc. ALL RIGHTS RESERVED.

創世記と黙示録、聖書に準えた物語(「マザー!」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は久しぶりに考察してみたいと思える映画に出会いました。
日本公開中止の超問題作「マザー!」です。

いつも通り好き勝手語っていますが、お付き合いくだされば幸いです。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Mother!
製作年:2017年
製作国:アメリカ
上映時間:121分


解説

ブラック・スワン」の鬼才ダーレン・アロノフスキー監督が、「世界にひとつのプレイブック」でアカデミー主演女優賞を受賞した若手実力派のジェニファー・ローレンスを主演に迎えて描くサイコミステリー。郊外の一軒家に暮らす一組の夫婦のもとに、ある夜、不審な訪問者が現れたことから、夫婦の穏やかな生活は一変。翌日以降も次々と謎の訪問者が現れるが、夫は招かれざる客たちを拒む素振りも見せず、受け入れていく。そんな夫の行動に妻は不安と恐怖を募らせていき、やがてエスカレートしていく訪問者たちの行動によって事件が相次ぐ。そんな中でも妊娠し、やがて出産して母親になった妻だったが、そんな彼女を想像もしない出来事が待ち受ける。
マザー! : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編





聖書に準えた物語

この物語はダーレン・アロノフスキー監督自身も語っている通り、旧約聖書の創世記をモチーフとされていますね。
主に本作の物語は「天地創造と原初の人類」を基に作られたように思います。

創世記
内容は「天地創造と原初の人類」、「イスラエルの太祖たち」、「ヨセフ物語」の大きく3つに分けることができる。

天地創造と原初の人類
天地創造 1章
アダムとエバ、失楽園 2章 - 3章
カインとアベル 4章
ノアの方舟 5章 - 11章
バベルの塔 11章

創世記 - Wikipediaより引用


それぞれの登場人物が表すものは以下の通りです。

妻 → マザーアース
夫 → 創造主・神
男 → アダム
女 → イヴ
兄 → カイン
弟 → アベル
赤子 → イエス・キリスト
その他 → 信仰者
家 → この世



このように、創世記に準えて物語が進行していきます。

冒頭から時折、妻と家が共鳴するシーンが導入されます。

妻は我が家"楽園"を作りたいと言及していた通り、家は家庭の安泰。
マザーアース(母なる大地)とこの世がリンクしていることを示唆させます。

夫は詩人であり、創作する者ということから創造主・神であることは分かっていただけると思います。


そこに最初の人類、男アダムが現れる。
男の脇腹の傷は、神がアダムの肋骨からイブを創った暗喩でしょう。
翌日、女イブが現れ、共にかき乱すわけですね。

夫の書斎(神のエデンの園)で、アダムとイブは禁断の知恵の実(夫の部屋にあった水晶)を手にしてしまうシーンから失楽園を示す。


楽園を追放されるアダムとエバ(ジェームズ・ティソ画)

失楽園』(しつらくえん、英語:Paradise Lost)とは、旧約聖書『創世記』第3章の挿話である。蛇に唆されたアダムとエバが、神の禁を破って「善悪の知識の実」を食べ、最終的にエデンの園を追放されるというもの。楽園喪失、楽園追放ともいう。

失楽園 - Wikipediaより引用


追放された直後の性交渉。
女の緑の下着は、禁断の知恵の実を食べて羞恥心から裸体を隠した葉の暗喩。

次に兄と弟が現れます。
カインとアベルです。


アベルを殺すカイン(ピーテル・パウルルーベンス画)

カインとアベルは、旧約聖書『創世記』第4章に登場する兄弟のこと。アダムとイヴの息子たちで兄がカイン(קַיִן)、弟がアベル(הֶבֶל)である。人類最初の殺人の加害者・被害者とされている。

カインとアベル - Wikipediaより引用

遺産問題で弟への嫉妬から兄は夫の忠告を聞かず弟を殺害。
神に貢物を無視されたカインがアベルに嫉妬し殺害する。
まさにそのままですね。



そして信仰者の居場所を確立し、人々が蛮行する世界を鎮圧した水道管の破裂は大洪水(ダーレン・アロノフスキー監督の前作「ノア 約束の舟」)でしょう。


『洪水』(ミケランジェロ・ブオナローティ画、システィーナ礼拝堂蔵)

ノアの方舟
旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水にまつわる、ノアの方舟物語の事。または、その物語中の主人公ノアとその家族、多種の動物を乗せた方舟自体を指す。

ノアの方舟 - Wikipediaより引用

人々の堕落を見た神は大洪水で人類を滅亡させた。



ここまでが旧約聖書の創世記をモチーフとして描かれたもの。

大洪水から一転、妻が妊娠する。
そして、夫はスランプを脱出し、新書を書き始める。
妻のセリフ「私は黙示録の後始末をするわ」
からもここからは第二幕、新約聖書の黙示録へと進んでいきます。

ヨハネの黙示録
新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である。
ヨハネの黙示録 - Wikipediaより引用

その後、子を授かった妻は男の子を出産します。
イエス・キリストの誕生です。

赤子は民衆に担がれ首の骨を折り死んでしまう。
ここでダーレン・アロノフスキー監督のキリスト教への思想が顕著に表れています(後述しています)。



世界が業火で焼き尽くされ崩壊。

夫は妻の心臓を抉り取り、新たな水晶を手にする。
創造主は理想郷、新たな世界を作り直したところでEND。

この事からも、創造主・神は少なくとも2回、マザーアースを創造していることが分かります。



気になる点として、黄色い粉の正体。
ダーレン・アロノフスキー監督自身も「墓場まで持っていく」とさえ言っているほど謎のままです。

個人的な見解では医療用の硫黄を含む何かではないか?と考える。
硫黄とは主要ミネラルのひとつで、皮膚や髪、爪のを構成する成分。
黄色はユダヤの象徴色とされる。
また燃えると悪臭を放つことから悪人を懲罰するためにしばしば用いられたことが聖書にも記述されています。
また、古代には太陽の三原質のひとつとされ、賢者の石そのものと見倣すこともあった。

あくまでも余談です。





さて、話を戻しますが、ここで旧約聖書新約聖書の話をしておかなければなりませんね。

ダーレン・アロノフスキー監督はユダヤ教徒です。
ユダヤ教では旧約聖書を聖書と呼んでいます。
その旧約聖書新約聖書を織り交ぜたものが、ユダヤ教から派生した宗教、キリスト教

ダーレン・アロノフスキー監督のユダヤ教への演繹的表現とキリスト教への帰納的表現が対比として非常に上手く練られています。



演繹法帰納法

演繹と帰納とは何か?からお話しましょう。

・演繹とは
「一般的・普遍的な前提から、正しい推論を行うことで、結論を得る方法」である。妥当な演繹とは、前提がすべて真なら、結論も必ず真であるような推論である。演繹の持つこの性質は、真理保存性と呼ばれている。

帰納とは
「個別の事例から、一般的・普遍的な規則・法則を得る推論方法」である。つまり、過去の経験やデータから、法則や事実を導き出す推論方法で、前提がすべて真であっても、結論が真であることは保証されない。



毎度毎度、字が汚くてすみません。



では、具体的に見ていきます。
まずはユダヤ教の演繹的表現といった言い方をしましたが、上記にも記述しました赤子(イエス・キリスト)の誕生とその後の展開はダーレン・アロノフスキー監督の思想が顕著に表れていると感じました。


赤子は民衆に担がれ、首の骨を折って死にました。
その血と肉を、肉塊を民衆が食べるという衝撃的なシーン。
ここにキリスト教でこのシーンは"最後の晩餐"を思い浮かべました。

新約聖書に記述されている"最後の晩餐"。
これは、キリスト教会において主の聖餐として伝統的儀式となり、現代まで受け継がれています。
司祭によって聖化された赤ワインやパンはイエスの血と肉になり、それを信徒が食べることで自らの体にイエスを取り込むというもの。

実際、聖書にも
死を予期したイエスは弟子を集めて"最後の晩餐"に臨み、その後イエス磔刑になったと記載されています。

昨今、哲学者やすいゆたか氏らによる新説が唱えられているのをご存知でしょうか?
実はイエスは最後の晩餐で本当に弟子たちに食べられてしまった。
という実に興味深い説。


旧約聖書の創世記にも、生贄の儀式は存在します。

預言者アブラハム不妊の妻との間に年老いてから授かった一人息子イサクを生贄に捧げるよう神ヤハウェによって命じられるというものだ。
アブラハムの信仰を確かめる為のもので、実際にイサクが生贄に捧げられることはなかった(イサクの燔祭)

しかし、これは
神が望めば実の子でさえも生贄に捧げなければならない。
という思想にほかならない。



つまり、イエス・キリストのメタファーである赤子の扱い。
ここにこそ、この作品に込められたダーレン・アロノフスキー監督の意図があったと思います。


その意図とは
救世主は未だ到来していない。
だと思います。



演繹法を基にイエスは救世主ではないという事実を仮説とすると。

仮説:イエスは救世主ではない。

エスとイサクは至上の犠牲である。

イサクは救世主ではない。

エスは救世主ではない。

ユダヤ教における信仰で結果を導き出すことが出来る。


ユダヤ教キリスト教の大きな違いは、イエスを救世主と認めるかどうか。
旧約聖書の中に、救世主メシアの到来の記述があり、キリスト教ではイエスを救世主としています。
ユダヤ教では救世主は未だ降臨していないのです。

ユダヤ教ではユダヤ人こそ唯一、神に選ばれた民であり、神との約束を実践すればやがて救世主が現れ、ユダヤ人の為の神の国が創られると教えられています。

この点も根強くこの作品「マザー!」に反映されています。
創造主である夫はすべての人々を受け入れます。
救世主が現れ、神の国が創られることを望み、幾度となく繰り返しているんです。

作中でも"楽園"と語られたように、理想の国を求め、描いては壊す。
この作品はある意味、この世の抜け出せないジレンマをも示唆しているのかもしれません。





次に、"8"という数字はキリスト教を示すものという仮説を基に帰納法を用いて考えましょう。


この世を暗喩する八角形の家。
八角形の家は骨相学の観点から見ると、人間の脳の機能に調和した形とされ、建築家や科学者によって発展させられた。
部屋の構造は行き止まりがなく、すべての部屋に繋がる構造となっていて、妻と家が深く関わることを表現しています。

また、キリスト教では "8"は"復活"を連想させる数字として知られています。
キリストが復活後の8日目に弟子の前に現れたことから"復活の象徴"とされています。

他にも、創世記の天地創造は一週間とされ、その翌日、つまり8日目がリスタートを意味するものではないかとも考えています。

この世を表す八角形の家に登場する人物も8人(大衆を信仰者と一括りにすると)。

ユダヤ教の象徴、ダビデの星六芒星
頂点を繋ぐと六角形なので八角形ではない。

この事から、"8"という数字はキリスト教を示すものであると考えられます。



自分は考察するにあたって、よくこの演繹と帰納を用いて推論します。
あくまでも考察は個人の見解であり、答えを決めつけるものではないので、よく使うのは帰納法の方ですが。
ひとつの事柄について掘り下げる際、こじつけて推論や考察する際には帰納的推論の方が楽でやりやすいんですよね(笑)



オマージュ

ダーレン・アロノフスキー監督はこう語っています。

“Mother!” unfolds like a surreal landscape from Salvador Dali, where bloody mouths appear in the floor and a strange piece of soft flesh gurgles at the bottom of the toilet. The house has a breathing, pulsing heart. “The dreamscape in movies is one of the great elements of cinema,” said Aronofsky. “It was popular all the way up to the ’70s, when our heroes Scorsese and Friedkin started making realism, and we’ve left dreamscape. Bunuel and Polanski drifted away, and movies became real, leading to ’80s fantasy and the ’90s superhero era. Now we have very simple heroics.”

‘mother!’: Darren Aronofsky Finally Explains It All to You | IndieWireより引用

60年代はドリームスケープの映画が素晴らしい素質だった。
70年代にはスコセッシとフリードキンがリアリズムを始めて、人々は夢から去った。
ブニュエルポランスキーは放浪し、映画はリアルになっていった。
そして80年代のファンタジー時代と90年代のスーパーヒーロ時代に至った。
そして今、とても単純な英雄譚の時代になった。



ダーレン・アロノフスキー監督の挙げたルイス・ブニュエル監督とロマン・ポランスキー監督。
彼らの作品が本作「マザー!」にも影響しています。


ルイス・ブニュエル監督作「皆殺しの天使」

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ロマン・ポランスキー監督作「ローズマリーの赤ちゃん

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マザー!」のポスターのひとつに「ローズマリーの赤ちゃん」のオマージュがあります。




終わりに

マザー!」は神と地球の関係性を夫婦に投影した旧・新約聖書を準えた宗教的映画でした。
また、冒頭とラストを繋ぐ胸糞円環構造でしたね。

勿論、その点においても良かったのですが、この映画は妻視点で胸糞悪い蛮行、家の蹂躙、女性の虐待というかたちで描き出されるにも関わらず、人々の姿こそが我々人間なのだという、神視点の映画でもある点が素晴らしい。


好き嫌いは分かれそうな作品ではありますが、個人的には好きな作品です。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2017, 2018 Paramount Pictures.

正義を貫くトリプルフェイス(「名探偵コナン ゼロの執行人」ネタバレなし)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「名探偵コナン ゼロの執行人」について語りたいと思います。

映画「ゼロの執行人」のネタバレはありませんが、名探偵コナンの原作コミックス及び前作までの劇場版名探偵コナンのネタバレは含みます。
未読、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:110分


解説

青山剛昌原作の人気アニメ「名探偵コナン」の劇場版22作目。サミット会場を狙った大規模爆破事件を発端に、コナンと公安警察が衝突するストーリーが展開し、劇場版20作目「名探偵コナン 純黒の悪夢(ナイトメア)」に続き、謎の男・安室透がメインキャラクターとして登場する。東京で開かれるサミットの会場となる東京湾の巨大施設「エッジ・オブ・オーシャン」で、大規模爆破事件が発生。事件の裏には、全国の公安警察を操る警察庁の秘密組織・通称「ゼロ」に所属する安室透の影があった。サミット当日ではなく事前に起こされた爆破事件と、安室の行動に違和感を抱くコナン。そんな折、爆破事件の現場から毛利小五郎のものと一致する指紋が発見され……。監督は前作まで計7作の劇場版「コナン」を手がけた静野孔文から、新たに「モブサイコ100」「デス・パレード」の立川護にバトンタッチ。
名探偵コナン ゼロの執行人 : 場面カット - 映画.comより引用


予告編





トリプルフェイスの男

まず初めに、今作「ゼロの執行人」のメインキャラクターでもある安室透について書いていきます。



・安室透

29歳の独身。右利き。
名前の由来は、『機動戦士ガンダム』の登場人物であるアムロ・レイとその担当声優である古谷徹



・一つ目の顔【私立探偵 安室透】

初登場は原作コミックス75巻 第667話「ウエディング・イブ」。

毛利小五郎を麻酔銃で眠らせ、推理するコナンの姿に気づくほど洞察力と観察力に優れている。
毛利探偵事務所と同じビルのある事務所下の喫茶ポアロで働きながら、毛利小五郎の弟子入りする形でコナンと接点を持つ。
アニメ版では料理も得意。



・二つ目の顔【黒の組織 バーボン】

原作コミックス78巻 第701話「漆黒の特急(ミステリートレイン)」。

黒の組織ではバーボンというコードネームを与えられ、探り屋として活動している。
愛車は白のマツダRX-7
劇場版名探偵コナン第20作目『純黒の悪夢(ナイトメア)』でも、今作『ゼロの執行人』でも、そのドライブテクニックを見せる。



・三つ目の顔【公安警察 降谷零】

原作コミックス85巻 第779話「緋色」編。

本名、降谷零。
黒の組織に潜入している公安警察官。
警察庁警備局警備企画課(通称ゼロ)所属。
頭が良く、洞察力に優れる他、公安警察独自の高い情報力を誇る。
警察学校在籍時の成績は常にトップの優等生。



・他キャラクターの繋がり

元警視庁捜査一課刑事の伊達航(高木刑事の教育係)とはその時の同期で、長らく音信不通でありながらも、互いを気にかける友人同士。
また、殉職した元警視庁捜査一課刑事にして爆発物処理班に所属していた経歴も持つ松田陣平(佐藤警部補の元恋人)とも警察学校時代の友人で、彼に爆弾解体の方法を教えられている。

生前の宮野厚司、エレーナ、明美とも面識があり、シェリー(灰原哀:本名宮野志保)の家族とも何かしら接点がある。

黒の組織のボスとベルモットとの間に"重大な関係"がある事実を突き止めており、この"重大な関係"を組織内に知られるとベルモットにとっては不都合な事態となってしまうことから、このことをネタに彼女に対して個人的な取引を何度か行っている。

FBI捜査官の赤井秀一(ライ)とは黒の組織への潜入捜査中からのライバル関係にある。
「あれ程の男なら(スコッチに)自決させない道をいくらでも選択出来ただろう」として赤井の実力を認めてもいたが、同僚であったスコッチが死亡する一因となった赤井やFBIのことを憎んでいる。



トリプルフェイスであり、警察組織、FBI、黒の組織など幅広い顔と情報網を持つ。
赤井秀一曰く「敵に回したくない男の一人」と評される。



ゼロの執行人

本作「ゼロの執行人」のゼロとは
警察庁警備局警備企画課の通称。

公安警察としての安室透(降谷零)の姿が描かれる今作は安室透ファンには堪らない作品になっているのではないでしょうか。


前作までの劇場版名探偵コナン作品の中でチェックしておくべきは『純黒の悪夢(ナイトメア』だけで十分でしょう。

ただ、本作の強みはコナンを知らなくても単純に警察組織を扱った作品としても楽しめる点です。

"善"と"悪"の境界線、安室透の自分の正義を執行する物語となっています。



一方で、話の内容は小難しく、子供向けではないと思います。
従来の劇場版名探偵コナンは子供も大人も楽しめる使用でしたが、今作「ゼロの執行人」は大人向けと言えます。

主人公はコナンなので、いつものキック力増強シューズとボールを蹴るシーンもあるのですが、あくまでも安室透をメインに描かれています。



また、あらすじと予告編から
事件現場からは毛利小五郎のもの一致する指紋が発見され、逮捕されてしまう。

アニメ「容疑者・毛利小五郎(前編/後編)」も観ておくと楽しめるかもしれませんね(笑)



名探偵コナン」に求めるもの

ここからは「名探偵コナン」に対する個人的な意見です。


原作「名探偵コナン」では新一と蘭、平次と和葉、小五郎と妃、警視庁…様々なラブコメが描かれています。

青山剛昌先生がラブコメ大好きなので、やりたいだけ感はありますが、「名探偵コナン」は様々な事件を絡めつつ黒の組織との対峙の中にラブコメを描いた作品。

ミステリー漫画として売り出している以上、本筋は黒ずくめの組織との対峙、事件解決と推理がメインなのは仕方ないのですが

自分は「名探偵コナン」はラブコメありき、むしろラブコメのない「名探偵コナン」は「名探偵コナン」ではないと思ってます。

はっきり言って極論ですが、そこに自分は「名探偵コナン」の魅力を感じるのです。



新一はAPTX4869という黒の組織が開発した新種の薬を投与され、幼児化してしまった。


江戸川コナンとして事件解決していく中で、新一がコナンとして生きいていくという現状は新一と蘭のラブコメは平行線のままなんですよ。

しかし、原作や映画でも何度かコナンから新一の姿に戻ったり、声だけでも蘭の傍に寄り添う。
本来進展しないはずのラブコメが進展していく様、お互いの気持ちを素直に言えないもどかしさが最大の魅力だと思っています。

今作「ゼロの執行人」でも、コナンは蘭のために行動します。
底に感動を覚え、ハラハラドキドキさせられるのです。


また、自分が好きなキャラクターでもある平次と和葉。
この二人のラブコメも新一と蘭同様にもどかしさがドキドキさせてくれるんですよね。


個人的劇場版名探偵コナンベスト3
①「から紅の恋歌
②「迷宮の十字路」
③「ベイカー街の亡霊」

①②は平次と和葉を描いた作品です。
勿論、新一と蘭のラブコメも進展していく。
ブコメあっての「名探偵コナン」なのです。



では、今作「ゼロの執行人」はどうだったのか?
正直、ラブコメ要素は少なめです。


故に自分の好みとしてはそこまで評価していませんが、作品の出来としては申し分ないと思います。

純粋にこの映画を観るなら楽しめるでしょう。



終わりに

主題歌を担当されたのは福山雅治さん。
【零-ZERO-】

こちらも、コナンと安室透、「ゼロの執行人」を意識した歌詞になっています。


毎年恒例!
劇場ED後の映像で次回作の予告がありますので、最後まで席を立たないことをお勧めします!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2018 青山剛昌名探偵コナン製作委員会

弁論術で魅せる肉体のコミュニケーション(映画「娼年」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は先日鑑賞した「娼年」について語っています。

昼間から下ネタ全開の記事を投稿することをお許しください(笑)
この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:ファントム・フィルム
上映時間:119分
映倫区分:R18+


解説

「娼夫」として生きる男を主人公に性の極限を描いた石田衣良の同名小説を、2015年に上演した舞台版が大きな反響を呼んだ監督・三浦大輔×主演・松坂桃李のコンビで映画化。大学での生活も退屈し、バイトに明け暮れ無気力な毎日を送っているリョウ。ホストクラブで働く中学の同級生シンヤがリョウのバイト先のバーに連れてきたホストクラブの客、御堂静香。彼女は秘密の会員制ボーイズクラブ「パッション」のオーナーで、恋愛や女性に興味がないというリョウに「情熱の試験」を受けさせ、リョウは静香の店で働くこととなる。「娼夫」という仕事に最初は戸惑うリョウだったが、女性たちひとりひとりが秘めている欲望の奥深さに気づき、そこにやりがいを見つけていく。リョウは彼を買った女性たちの欲望を引き出し、そして彼女たちは自分自身を解放していった。
娼年 : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編




パイドロス

先ずはTwitterの投稿から。




こちらでも記載したように、「娼年」と「パイドロス」の関係性について考えていきます。

なんだかパイドロスって、いやらしい言葉に聞こえてきませんか?


パイドロス(古希: Φαῖδρος、英: Phaedrus)
プラトンの中期対話篇の1つであり、そこに登場する人物の名称。副題は「美について」。

前半は「恋」(エロース)についての3つの挿入話にその記述の大部分が割かれ、対話の大部分は後半に展開される。
表面的な議題としては、「恋」と「弁論術」が出てくるが、最終的にそれらは「哲学(者)」という隠れた主題に回収・統合されることになる。

パイドロス - Wikipediaより引用



パイドロス」はソクラテスパイドロスと出くわす場面から話が始まるんですよ。
恋(エロース)の話について2人はイリソス川に入って川沿いを歩き、プラタナスの木陰に腰を下ろし、語らい合う。
その語らい合いと2人がそこを立ち去るまでが描かれています。


パイドロス」は弁論術として描かれ、この作品は「娼年」での領のセックスに反映するものです。

では、弁論術とは何か?
アリストテレスによって書かれた著作があります。
その中の説得に着目してみましょう。

三種の説得手段

本書では、説得のあり方について、以下の3つの側面から考察されている。

logos(ロゴス、言論) - 理屈による説得
pathos(パトス、感情)- 聞き手の感情への訴えかけによる説得
ethos(エートス、人柄)- 話し手の人柄による説得
上記した通り、アリストテレスはこの3つの内、logos(言論)を中心に据え、最も多くの記述を費やしているが、pathos(感情)やethos(人柄)の側面についても、それなりの記述を費やし、説明している。

弁論術 (アリストテレス) - Wikipediaより引用


恋愛映画、特に性描写を写す映画にとって、セックスは重要なコミュニケーションのひとつでもあるが、愛情の可視化として描かれることが多い気がします。
それはあくまでも男と女の関係性を深める為の手段であり、過程でもあり、愛の再確認でもある。



一方で、本作「娼年」におけるセックスは弁論術として見せるものです。

肉体を交えるコミュニケーションが会話や対話として描かれているんですよ。

言論、感情、人柄、この三種の説得手段を併せ持つセックス。
ここに単なる肉体のコミュニケーションに留まらない心理描写が生まれるわけです。

それがあるからこそ、セックスシーン以外のシーンでもその心理描写が活きてくるわけですね。



人と人との関係性を築くには、先ず会話をしなければ始まりません。
劇中も冒頭からベッドシーンで幕を開けますよね?

これは「娼年」がセックスについて語る映画であることを観客に明示しているんです。





また、この作品は性欲の淵に見える甘美な人間の多様性をも見事に演出しています。

己が性欲を満たすために、対価を払う女性たち。
女性の性への欲望を可視化し、その欲を受け止める娼夫。
どちらが欠けても成り立たないこの関係性もまた、性描写をまるで対話のように映し出す。



放尿を見られることに快楽をおぼえる女性。

特殊なシチュエーションでしか興奮しない夫婦。

出産後セックスレスの主婦。

手を触れるだけで絶頂できるご年配。


セックスという枠に留まらない彼女らの欲望の形は人間の多様性を描くとともに、性欲や羞恥心までも赤裸々に語っているかのようだ。

それに加えて、様々な女性たちのセックスを美として描きながらも女性が抱く欲望や心に負った傷をも優しく包み込む姿は、娼夫という汚れたイメージをも美として描き出しているようです。


本作、舞台「娼年」からも主演を引き継いだ松坂桃李さんの努力と覚悟、決意の現れともとれる。
体を張った演技は素直に賞賛できます。



心身の成長

さてさて、ここまでは真面目にこの作品「娼年」について語ってきました。

ここからは超個人的視点から見た「娼年」の批評になります。
※「娼年」を貶すものではなく、あくまでも批評であると共に、下ネタ全開なので閲覧の際はご注意ください






















松坂と共演の女性キャストたちが体当たりでセックスシーンに挑んでおり、松坂本人も「映画『娼年』で、7、8年分の濡れ場をやった感じです」と語るほどだ。
松坂と三浦は舞台版『娼年』でもタッグを組んでおり、その濡れ場経験から松坂は『彼女がその名を知らない鳥たち』で白石和彌監督やキャスト陣から濡れ場の“先生”と呼ばれていたという。そのことについて松坂は、「濡れ場のプロフェッショナルとして、副業を見つけたかな(笑)。濡れ場監督とか。出演するのではなく、アクション監督のように監修が必要なところで呼ばれるみたいな。殺陣師? いや、濡れ場師!!」と振り返る。

松坂桃李、R18映画『娼年』セックスシーンについて明かす 「7、8年分の濡れ場をやった感じです」(リアルサウンド) - Yahoo!ニュースより引用


それを踏まえた上でこの作品を観て思ったこと。

エロ坂桃李のセックス下手すぎだろwww

松坂桃李さんのファンの方、すみません。

これだけはどうしても言いたかったんです!
あースッキリ!!



勿論、領は『女性はつまらない』『セックスなんて手順が決まった面倒な運動』と語ったように、冒頭はセックスは作業と言わんばかりの単調なセックスしかしない大学生として描かれています。

しかし、「娼年」は娼夫という仕事を通して、領がセックスの腕前と共に精神的にも成長していく物語なんですよ!
つまり、冒頭に比べて終盤のエロ坂桃李のセックスは上手くないといけないんです。



咲良との二度の試験的なセックス
これは領が娼夫としても精神的にも成長した証として描かれなければいけなかったもの

それにしては精神的にも成長したはずのセックス(会話)が下手。
キスの仕方、愛撫、挿入に体位、どれをとってもぎこちなく雑である。


他のセックスにも勿論言えることなんですが、この二度目の試験的なセックスは何とかならなかったのかと。
各々のセックスシーン(放尿シーン含む)は大袈裟な演技も相俟って全て爆笑してしまいました。



体を張って撮影に望んだのは重々承知しています。
なので、冒頭でもその点に関しては賞賛しています。
しかし、もう少し官能的なセックスがあると期待していた分、この点に関しては非常に不満が募る。



また、別視点からどこが自分にとって下手なセックスに見えてしまったのかを考えてみました。
その結果、エロ坂桃李の演技ではなく、演出に難があったのか?と。

娼年」は舞台としても実写化されているわけですが、例えば舞台の場合、目の前でセックスシーンの一部始終を見せられるわけです。
座席から舞台への一定の距離、同視線で見続けることが出来るわけです。
そこにはリアリティと共にその空気感も伝わってくることでしょう。

一方、映画は観客の視線はカメラワークによるもの。
観客視点を担うカメラが這うように口元や繋がる体、臀部の痙攣までを映し出す。
そして俯瞰的に見せる映像が状況を映し出す。

舞台とは違い、その空気感が感じられなかった点が"官能的"なものではなく、アダルトビデオの企画モノを観ているような"笑い"を齎してしまったのではないだろうかと推測できる。



一番笑ったのは西岡イク馬さんの射精ですね。
あのシーンは面白すぎる。

ケツは和太鼓

とは言っても笑いながら勃起はしてましたよ?

え?わざわざ言わなくてもいい?
失礼しました(笑)


ただ保身ではなく、セックスという描きにくいコミュニケーションをスクリーンに描いた試みは評価したいです。




ちなみに自分が最も興奮したセックスは、領が娼夫デビューしたお客さんとの激しいセックスでしたね。

あの日見たフェ〇で喘ぐ男性を僕達はまだ知らない。



皆さんはどのセックスが一番興奮しましたか?

フォロワーさんにお伺いしたところ、同級生とのセックスだという答えが返ってきました。

様々な感情が入り乱れていたということで…分かります、分かりますよ?

ただ、娼夫を汚らわしい仕事だと蔑んだ挙句、愛故に結局自分でそこに足を踏み入れた粗暴さ。
そしてそんな相手をも受け入れちゃう領くんの人の良さに興奮どころの話ではなくなっちゃったんですよね。

あと、現体位から別体位へと移る過程が雑でしたね(笑)


このセックスは冒頭から語る「娼年」のテーマ性やストーリーとしては最も適合したシーンではあるんですよ。

領への想いを寄せながらも実らぬ恋、それをセックスという会話で愛の再確認をしたわけで、改めて領のことが好きだと感じるも娼夫としての領を受け入れることができない自分への葛藤。

心理描写としても素晴らしいものがありましたよ。





二度目の試験的なセックスについても書いておきましょうか。
皆さんはこの二度目の咲良とのセックスシーンをどう捉えましたか?


個人的見解では、自分の母親に対する(性的な愛も含む)感情を静香さんに抱いた領が咲良と交わることで、静香と間接的に行ったセックスだと思います。

「母親に褒めてもらいたい。」
そう思ったことは一度はあるはず。

好意は熱烈な愛情に変わり、やがて盲信的な忠誠心を築く。

そう、娼夫としての成長を見せることで静香に認めてもらうこと。
そして母親に対する愛情をぶつけた間接的なセックスだったのだろうと思うわけです。



領自身、交わってきたお客さんに母親像を重ねていたようにも見えました。
このシーンなんかは正にそうですよね。

だからこそ、相手の気持ちを汲み取り癒すことが出来たと。
そんな年上に囲まれる生活の中で、最もその母親像を重ね心惹かれた人物が静香でした。

静香の口から語られた真相、それは静香自身も娼婦だったこと。
そして領の母親も娼婦だったということ。

雇用と労働という関係は静香と領を繋ぐもの。
娼婦の職業は母親と領を繋げるもの。

このシーンは娼夫という職業、セックスを通して静香に抱いた感情、母と子の繋がりを明確にした場面だと感じざるを得ないんですよ。



終わりに

最後にこれだけは言いたい。

総じて前戯が足りんのじゃ!!!

手に触れるだけで昇天できるくらいの芸を身につけないといけませんね、修行します。

・・・ふぅ。



というわけで(?)
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)石田衣良集英社 2017映画「娼年」製作委員会

大人の御伽噺(「ゆれる人魚」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「ゆれる人魚」について語っています。

少し間が空いてしまって、バタバタしましたが何とか書ききれました。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Lure
製作年:2015年
製作国:ポーランド
配給:コピアポア・フィルム
上映時間:92分
映倫区分:R15+


解説

共産主義下にあった1980年代のポーランドを舞台に、肉食人魚姉妹の少女から大人への成長物語を野性的に描いたホラーファンタジー。海から陸上へとあがってきた人魚の姉妹がたどりついた先はワルシャワの80年代風ナイトクラブだった。野性的な魅力を放つ美少女の2人は一夜にしてスターとなるが、姉妹の1人がハンサムなミュージシャンに恋をしたことから、姉妹の関係がおかしくなっていく。やがて2人は限界に達し、残虐な行為へと駆り立てられていく。監督は本作が長編デビュー作となるポーランドの女性監督アグニェシュカ・スモチンスカ。「第10回したまちコメディ映画祭 in 台東」(2017年9月15~18日)の特別招待作品として上映。
ゆれる人魚 : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編




ゆれる人魚

人魚や半魚人と聞いて思い描く映画はありますか?


セバスチャン・グティエレス監督「人喰い人魚伝説」
ロン・ハワード監督「スプラッシュ」
チャウ・シンチー監督「人魚姫」
クォン・オグァン監督「フィッシュマンの涙」
宮崎駿監督「崖の上のポニョ
湯浅政明監督「夜明け告げるルーのうた
ロン・クレメンツ監督/ジョン・マスカー監督「リトル・マーメイド」

そして
ギレルモ・デル・トロ監督「シェイプ・オブ・ウォーター


これらの中でも「ゆれる人魚」は珍しい映画となっています。
えー、まずは人魚について掘り下げていきましょう。

人魚

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる人魚(マーメイド)の絵画(1900年)

英語ではマーフォーク (merfolk) と言い、特に若い女性の人魚はマーメイド (mermaid) または男性の場合はマーマン (merman) と呼ばれる。マー (mer-) は、単語では mere となり、いずれもラテン語の mare(海)に由来する。
ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)である。今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16–17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている。

人魚 - Wikipediaより引用


パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉」でも人魚について語られていました。

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作中で、宣教師が人魚に対して
『君はノアの方舟に乗れなかった幻の生き物ではない』
というセリフがあります。

ノアの方舟とは、神は地上に増えた人々の堕落(墜落)を見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げる。
そこで神はノア一族に洪水にも耐えれる船のつくり方を教え、そしてノア一族とすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。
つまり、神に選ばれた人間と種を保つ為の動植物のみが乗る事を許されたのです。
そして、船に乗れなかった動物の一種が人魚だったという説があります。


一方で、人魚はノア一族との説もあります。


人魚伝説の元は、今から6、7千年前にバビロニアで崇拝されたオアンネス(Oannes)と謂う海神が始めではないかとされています。コルサバードで出土した彫刻に下半身が魚の男神像が視つかった。オアンネスは海を支配し、バビロニアの港町では航海安全の神として崇められたと謂います。日中は王として陸上に、夜は海に帰る神として信じられていた。オアンネスにはダンキナ(Damkina)と云う妃がいて、6人の子が居た。後のノアの大洪水のノア一家はオアンネスだとも謂われているのです。ノアの大洪水の絵に人魚が描かれるのは、此の伝承に依っています。
人魚伝説 | あ や し い 書 簡 箋より引用


特に西洋では、美しい人魚の歌声が船を難破させる伝説が有名で、ギリシア神話にも"海の魔物"として知られる伝説の半人半魚の人喰い、セイレーンが登場します。


紀元前330年頃のセイレーン像。アテネ国立考古学博物館

セイレーン
上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされるが後世には魚の姿をしているとされた。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑されて挙げ句セイレーンに喰い殺された船人たちの骨は、島に山をなしたという。

セイレーン - Wikipediaより引用


セイレーンの伝説のように人魚は大抵の文学作品で不吉な象徴とされています。

また、アンデルセンの童話『人魚姫』から叶わぬ恋や報われない愛として描かれることが多い。



今作「ゆれる人魚」もアンデルセン童話『人魚姫』をモチーフに作られた映画です。


Vilhelm Pedersen 画「人魚姫」

人間に強い興味を持った人魚は祖母に人間についていろいろ質問したところ、300年生きられる自分たちと違い人間は短命だが、死ねば泡となって消える自分たちと違い人間は魂というものを持っていて天国に行くというので、それを手に入れるにはどうしたらいいのかと尋ねると「人間が自分たちを愛して結婚してくれれば可能」だが「全く異形の人間が人魚たちを愛することはないだろう」とほぼ不可能だと告げられる。

そこで人魚姫は海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰う。その時に「王子に愛を貰うことが出来なければ、姫は海の泡となって消えてしまう。」と警告を受ける。更に人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも言われたが、それでも人魚姫の意思は変わらず薬を飲んだ。人間の姿で倒れている人魚姫を見つけた王子が声をかけるが、人魚姫は声が出ない。その後、王子と一緒に宮殿で暮らせるようになった人魚姫であったが、魔女に言われたとおりに歩くたびに足は激痛が走るうえ、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話せず、王子は人魚姫が命の恩人だと気づかない。

それでも王子は彼女を可愛がり、歩くのが不自由な彼女のために馬に乗せてあちこちを連れて回ってくれ、また彼女と「おぼれていたところを助けてくれた人」が似ているともいうが、それは浜辺で彼を発見・保護してくれた修道院の女性の事で「彼女は修道院の人だから結婚なんてできないだろう」とややあきらめ気味で「僕を助けてくれた女性は修道院から出て来ないだろうし、どうしても結婚しなければならないとしたら彼女に瓜二つのお前と結婚するよ。」と人魚姫に告げた。

ところがやがて隣国の姫君との縁談が持ち上がるが、その姫君こそ王子が想い続けていた女性だった(修道院へは聖職者としてではなく教養をつけるために入っていた)。見も知らぬ姫君を好きにはなれないと思っていたし、心に抱く想い人とは2度と会えないだろうと諦めていた王子は、予想だにしなかった想い人が縁談の相手の姫君だと知り、喜んで婚姻を受け入れて姫君をお妃に迎えるのだった。

悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を差し出し、王子の流した血で人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝える。眠っている王子に短剣を構えるが、人魚姫は愛する王子を殺すことと彼の幸福を壊すことが出来ずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えた。

人魚姫 - Wikipediaより抜粋引用

最古の記録として多くの研究家がまず挙げるのが、西暦1世紀ローマの博物学者、大プリニウスの『博物誌』です。
彼は「人魚(マーメイド)の実在を確信する」と記しています。


ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督はアレクサンドラ・ヴァリシェフスカというポーランドの女性画家の作品からインスピレーションを受けたそうです。
そして彼女に描いてもらった人魚の絵は、映画のオープニングの部分で使用されています。

今作の人魚の造形はどこか妖艶であり、どこか生臭く、どこか危険な香りのするリアリティある作りとなっていますよね。


では、一体この映画の何が珍しいのか?

ジャンルを一括りにしないファンタジーともホラーともミュージカルとも取れる、様々な要素を取り入れたもの。

一般的にファンタジーホラーと言われてますが、現実世界が舞台でホラーテイストもごく一部、ミュージカルといっても歌って踊るシーンは然程長くはない。
様々な要素を少しずつ取り入れたこの作品はこの映画はこういうジャンルだといった先入観や固定概念なく楽しめる作品だとも思います。

どの要素に期待するかで評価が別れる作品とも言えるので、ハマるかハマらないかは難しいでしょう。



シェイプ・オブ・ウォーター」でもファンタジー要素を取り入れながらホラーテイストな部分もあり、総じてラブストーリーとして纏めあげていました。

ゆれる人魚」ではある意味、作品の世界観を破綻させる程のミュージカル要素があります。
そこは逆に長所と捉えてますが、総じてダークファンタジーな中、前半ではミュージカル、後半ではホラーという、前後半で雰囲気がガラリと変わる作品です。

そして、ジャンルと同じようにひとつに留まることなく、人魚は好奇心と自制心、本能と理性の狭間で揺れ動きます。



不安定な感情

シェイプ・オブ・ウォーター」では半魚人と人との無形の愛についても語りました。


両作品はバスタブや雨、水といった似たような演出もありますが、「ゆれる人魚」は人魚が人に抱く愛を、「シェイプ・オブ・ウォーター」は人が半魚人に抱く愛を描いています。


題材としては似通った作品のようですが、実に対比的。
御伽噺のような美しく綺麗なイメージとは異なっていて、淀み汚れた暗くジメジメとした空気感。
レトロな雰囲気と相俟って、より人魚の不気味さが際立つ。

そして今作は後者とは違い、アンデルセン童話『人魚姫』のように報われない愛の切ない恋物語として昇華しているんですよね。


上手くいかない恋愛、そんな時どんなことを感じ、どう対処していくのか。
そういった部分に感情移入しやすいのかもしれません。
そんな不安定な感情を間接的表現で映し出すこの両作品は女性ならではだと思います。

誰かを愛しすぎるあまりに自己犠牲という行動に出てしまう。
それが初恋となると余計にそうなってしまうのではないだろうか。
この「ゆれる人魚」はそんな自己犠牲を視覚化しているからこそ、愛の深さを知ることが出来る。


この作品は女性視点で描かれたもの。
アグニェシュカ・スモチンスカ監督の語る人魚とは
大人でも子供でもない少女のメタファー
なのです。




そうです、「ゆれる人魚」は「RAW 少女のめざめ」と共通する部分が非常に多いんですよね。


ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督、「RAW 少女のめざめ」のジュリア・デュクルノー監督、共に女性監督が女性視点で一貫して描いているのは少女の大人への成長です。


ゆれる人魚」では大人でも子供でもない少女のメタファーとして。
「RAW 少女のめざめ」では食人行為を性のメタファーとして。
それぞれが少女の思春期の通過儀礼として各々の境遇や葛藤する姿が描かれているのです。

そのアイテムとして、タバコや酒、性行為などが散りばめられています。



愛と憎しみ、これは表裏一体です。
ラストでシルバーが彼を食い殺さなかったことはそれは自分の命を捨て置いてでも彼の幸せを願ったということではないと思います。
怒りや悲しみという感情を超える諦めや絶望をも超越した言葉では表現できない感情だったのではないでしょうか。

感情や欲望、理性との葛藤に悩む妹。
感情や欲望を抑えきれなかった姉。
姉妹の対比としても描かれたシーンも「RAW 少女のめざめ」と共通する部分だと思います。



終わりに

「RAW 少女のめざめ」のジュリア・デュクルノー監督。
ゆれる人魚」のアグニェシュカ・スモチンスカ監督。
女性監督による鮮烈なデビュー作。

新たな才能が詰め込まれた両作品、一度は観てもらいたい作品です。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2015WFDIF, TELEWIZJA POLSKA S.A, PLATIGE IMAGE

短歌と恋、青春と人生(「ちはやふる 結び」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。

鑑賞後、随分経ってしまいましたが今回は「ちはやふる 結び」について語っています。

この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:128分
映倫区分:G


解説

末次由紀の大ヒットコミックを広瀬すず主演で実写映画化した「ちはやふる 上の句」「ちはやふる 下の句」の続編。瑞沢高校競技かるた部の1年生・綾瀬千早がクイーン・若宮詩暢と壮絶な戦いを繰り広げた全国大会から2年が経った。3年生になった千早たちは個性派揃いの新入生たちに振り回されながらも、高校生活最後の全国大会に向けて動き出す。一方、藤岡東高校に通う新は全国大会で千早たちと戦うため、かるた部創設に奔走していた。そんな中、瑞沢かるた部で思いがけないトラブルが起こる。広瀬すず野村周平新田真剣佑ら前作のキャストやスタッフが再結集するほか、新たなキャストとして、瑞沢かるた部の新入生・花野菫役をNHK連続テレビ小説あまちゃん」の優希美青、筑波秋博役を「ミックス。」の佐野勇人、映画オリジナルキャラクターとなる千早のライバル・我妻伊織役を「3月のライオン」の清原果耶、史上最強の名人・周防久志役を「斉木楠雄のΨ難」の賀来賢人がそれぞれ演じる。
ちはやふる 結び : 作品情報 - 映画.comより引用


予告編





上下の句を結ぶもの

まず、本作の話に入る前に前作と今作の位置づけについて考えていきます。

そもそも上の句、下の句とは何か?



競技かるたの基本ルール

競技かるたの公式大会では、大石天狗堂製のかるた札が用いられ、百人一首の100枚の字札のうち50枚を使用する。

その50枚を裏返した状態でよく混ぜ、25枚ずつ取り、それを自分の陣地(自陣)の畳に、上段、中段、下段の3段に分けて並べる。このとき札を並べる範囲は横87cmまでとなっており、そのとき相手の陣地(敵陣)にも同様に25枚が並べられた状態となる。その後15分間の暗記時間が設けられ、その間に自陣・敵陣の50枚の位置を暗記した後、競技が開始される。15分の暗記時間中の最後の2分間は素振りが認められる。

暗記後は対戦相手、読手の順に礼をしてから競技が始められる。これはかるたは礼に始まって礼に終わるというかるた道の精神によって、定式化されている。競技開始時にはまず百人一首に選定されていない序歌(一般的には王仁の「なにはづの歌」)が詠まれる。これは一旦上の句・下の句が通しで詠まれた後に下の句だけがもう一度繰り返され、そこから百首の詠み札がランダムに詠まれる(場にある字札が下の句であるのに対して、詠まれるのは上の句からである)。

詠まれた歌に対応する字札に相手より先に触れることで、その字札を自身の「取り」とする(以降、字札のことを単に「札」と表記する)。自陣にある札を取った場合、その札を自身の横に置いて自陣から除外する。敵陣にある札を取った場合、自陣にある好きな札を敵陣に送ることで自陣の札が1枚減る。これを「送り札」という。

詠まれた札のある陣と反対の陣の札に誤って触れると「お手つき」となる。相手がお手つきをした場合は、自陣の好きな札を1枚敵陣に送ることができる。一方で詠まれた札のある陣と同じ陣内にある別の札を触ったとしてもお手つきにはならず、また自陣(敵陣)の札に触れた際勢いがついて札が敵陣(自陣)の札を動かした場合も、同様にお手つきにはならない。

詠み札は百首全てが用意されるのに対して、場にある札は半分の50枚のため、詠まれた歌の札が自陣・敵陣どちらにも存在しない場合もあり、これを「空札(からふだ)」という。空札が詠まれているのにも関わらず、自陣または敵陣のいずれかの札に触った場合もお手つきとなる。

また、お手つきには、『ダブル』や『空ダブ』と言われるケースもある。『ダブル』は、敵陣の札が詠まれて、自分がその札を取り、対戦相手がこちらの陣の札を触ったときに成立する。この場合は札を2枚(敵陣取りと相手のお手つきでそれぞれ1枚ずつ)送ることができ、相手と自分で3枚差がつくことになる。 『空ダブ』は、空札のときに、敵陣、自陣をともに触ってしまったときに成立する。この場合、相手から2枚札が自分に送られ、相手と自分で4枚差がつくことになる。ただし、両者ともお手付きをした場合は「共お手(共付き)」と呼ばれ、互いに送り札は行わない。

札を取る手は、1試合を通してどちらか片方の手のみが認められる。試合開始後最初に札を取りに行ったほうの手で最後まで取り続けなくてはならない。

札の配置は競技中に、相手に宣言することで自由に動かすことができる。ただし、頻繁な移動や、一度に大量の札を移動させることは、マナー上好ましくないこととされている。

これらを繰り返し、自陣の25枚の札を先に絶無とした方を勝者とし、競技は終了する。

競技かるた - Wikipediaより引用



かるたには読み札に上の句、取り札に下の句が書かれています。


短歌の他にもよく似たものとして、俳句というものもありますよね?

短歌は上の句である五・七・五に加え下の句七・七で成り立ち、俳句は五・七・五で成り立つ。

このふたつの相違点は句の数だけではありません。
俳句は情景を詠むもの。
短歌は心情を詠むもの。



前々作である「ちはやふる 上の句」では、高校生活と競技かるた部、千早と幼馴染との情景を。
前作の「ちはやふる 下の句」では、千早のクイーンに対する気持ちや太一の微妙な心情を描いた作品だと思います。



一方で今作は、主人公でもある綾瀬千早というよりも千早の幼馴染であり瑞沢高校競技かるた部部長の真島太一の映画だったようにも思う。

勿論、千早やもう一人の幼馴染である綿谷新、クイーン若宮詩暢、今作が初登場の周防久志、瑞沢の他部員や原田先生も絡めつつなのですが。

真島太一は容姿もイケメン、学年トップの学力という一切非の打ち所のない人物。
ただ一点、敵わない相手が新であり、それは競技かるただけでなく千早に対する行動や心情もだ。

そんな彼が部活と受験、そして千早や新に対する想いで葛藤する。
完璧のように見えて完璧ではない。
彼は隠れたところで努力をしているんです。
その部分が今作で深く掘り下げられていたと思います。



千早は競技かるたに関して"感じ"という優れた才能がある。

今回、新たに登場した周防名人(賀来賢人さん)。
彼もまた千早同様に競技かるたに関して"感じ"を持ちつつ、更に一線を超えたずば抜けた才能がある。

太一は自分の持ち合わせていないもの、そして想いを寄せる千早と似通った才を持つ周防名人につく。



前作である上の句と下の句では現在の姿を描いています。
そして今作の結びでは千早、太一、新の原点とそして未来へ繋ぐもの。



1000年前に詠まれた歌が今現在にも語り継がれ詠まれるように、上の句と下の句がひとつになって意味をなすように、ひとつの歌として過去と現在、未来を結びつける。
それがこの作品、ちはやふる結びだと思います。



短歌

主要登場人物を表す短歌を確認しましょう。



・千早

「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 唐紅に 水くくるとは」
在原業平

訳:様々な不思議なことが起こっていたという神代の昔さえも、こんなことは聞いたことがない。
竜田川が(一面に紅葉が浮いていて)真っ赤な紅色に水を絞り染めにしているとは。


「はや」は敏捷、「ぶる」は振る舞いを意味し、「ちはやぶる」で激しい勢いという意味を成す。
ちはやふる 下の句」で千早の「ちはやぶる」描写があったので説明は不要かと。



・太一

「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」
平兼盛

訳:私の恋心は誰にも知られまいと心に決めて耐え忍んできたが、とうとう堪えきれず顔に出てしまったのか。
何か物思いがあるのですかと人が尋ねてくるほどに。


この短歌はしのぶの得意札でもありますね。

太一は受験という精神的に不安定になる時期に恋心で悩み葛藤します。
新入部員から、新が千早に告白したことを聞かされるシーンでは、太一の表情はカメラワークから外され、あえて見せない演出となってます。
しかし、この短歌のように顔に出てしまっているのだろうと安易に想像できる。



・新

「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」
壬生忠見

訳:「恋している」という私の噂がもう立ってしまった。
誰にも知られないように、心ひそかに思いはじめたばかりなのに。


「しのぶれど〜」の対となる短歌としても有名。
千早への想い、最終決戦の最後の残り札二枚。
太一と新が対の立場で描かれる。



・周防

「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
小野小町

訳:桜の花の色はむなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。
ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。


これは講義で学生に向けた言葉のようにも見えて、実は太一に向けられた言葉なんですよね。

本来の意味から、悩んでいるうちに時間は経過して取り返しがつかなくなってしまう後悔を詠ったもの。
太一に「君はこんなところで何をしているの?」と言ったこの言葉は太一の背中を大きく押すこととなる。



・千早と太一

「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる」
後徳大寺左大臣

訳:戸外の明け方近い夜空を、ひと声ほととぎすの鳴いた方角を見ると、もうその姿はなく、ただ夜明けの下弦の月だけが残っているのであった。


部室の畳の間から見つかった札の句。

ほととぎすが鳴いた後でそこを見てもその姿はない。
千早の太一がいなくなった後の心情を表現する的確な歌。



また、個人的に千早と太一の二人を結ぶのに相応しい短歌を紹介しておきます(笑)

「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ」
崇徳院

「劇場版名探偵コナン から紅の恋歌

こちらでも主人公の新一(コナン)がヒロインの蘭に対して詠んだ歌です。

訳:川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が二つに分かれる。
しかし、また一つにらなるように、愛しいあの人の今は分かれてもいつかきっと再会しようと思う。

ちはやふる 結び での千早と太一そのものではありませんか?


言葉の力

周防名人、そして原田先生の太一への言葉がなかなか印象的だった。

原田先生のいう手触り。

青春というものは見えないもの。
青春が終わった後には何が残るのか?
手触りは残る。

そう。理由はどうあれ、かるたを通して得たもの、その感覚は残るんです。
そこに残ったものが青春なのではないでしょうか。



太一は新が千早に告白したことを知る。
太一の心は揺れ動きます。
そこで出会ったのが周防久志だ。

上記の短歌でも記述しましたが、周防名人の「花の色は〜」で学生達にマイクで語るシーン。
作中ではなく原作の台詞を引用します。

「僕は器用でしたので 予備校に行かずとも東大にはいれましたが 青春ぽい日々はなくて…… まあ 君たちのこともザマァ(笑)と思いますよね」

「でも ある日 気がついたんです 『青春』という文字の中に『月日』があったこと とたんに青春が惜しくなりました 自分の中に青春を探し始めました」

「言葉には 力が確かにあることを 忘れないでいてください」

第141首「かるたを好きじゃないのに」より


この台詞が自分の心にもズシンと響いた。
自分にとっての青春ってなんだったかな?って。
青春だと感じられるほど自分は青春を満喫したのかって。



周防はかるたが好きではない。
自分のやれること、自分を生かすことが出来る場所が競技かるたの世界だったんです。
周防は青春ではなく人生をかるたに懸けていました。

「こんなところで何をしているの?」

太一にとってこの周防の言葉は心を突き動かすものだったでしょう。
太一自身もかるたを好きで始めたというよりも、千早に近づきたいという想いから始めたのかもしれない。
かるた部を作ったのも千早の為。
そこで出会った肉まんくんや机くん、かなちゃん、かるたではなく彼らといることが好きだったんです。

しかし一方で、きっかけはどうあれ、かるたに触れることでかるたを好きになっていく自分にも気付き始めていたのではないだろうか?

だから走る。
千早の為に、仲間たちの為に。


太一が周防名人と出会ったことで気付かされたこと。
それは聞こえる音と聞く音の間に線を引いていること。
聞く音の外側、一線を超えた先の音を聞く。

これは競技かるたにおける読み手の発する音の前に聞こえる音、決まり字の先を行く決まり字。

しかし、その本質はそこではない。
その"感じ"という才能を持つ千早ならまだしも、太一にはその才能がない。


その一線とは、太一の気持ちの中にある自分に言い聞かせている声と本音の一線を示しているのではないだろうか。

欠点を埋めてくれるのが仲間であり、他人に強さを与えることが本当の強さだと気付かされる。
彼らは個々で成り立つ存在ではなく、チームとしてひとつの存在なのだから。



この作品は競技かるたという世界で単純に全国優勝を手にする話ではない。
各々が競技かるたを通して精神的に成長していく。
青春スポコン映画に留まらない人生の成長譚なんですよ。



青春が惜しくなる。

この歳になりましたが、今もどこかで青春を探してるんですよ。
だからこそ、このちはやふる結びのような青春映画が心にに響くんです。

原作ではまだ完結していない作品を3部作でまとめあげたこと。
そして結びで締めくくられたこと。
この点だけ見ても秀逸としか言えない。
シリーズ最高傑作でした。


ありがとうございました!!!



終わりに

実写化映画の中でもトップクラス。

そしてこれだけは言っておきたい。

「すずより、アリス」

…すみません、これは好みの問題なのですみません(笑)


ですが、昨年の「三度目の殺人」から、広瀬すずさんの演技にも幅が出たように思います。

ちはやふる」での役どころ、ヒロイン的なポジションも抑えつつ、「三度目の殺人」のようなシリアスな演技にも磨きを掛けていってもらいたいですね。
今後も期待している女優さんのひとりとして注目しています。



主題歌「無限未来」(Perfume)

中毒性のある主題歌にも注目です!



また、原作の方は少女向けコミックなので、個人的には絵柄的に少々難ありですが、読んでみたくなったのも事実。

機会があれば読んでみようかと思います。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀講談社

機械を超えた存在【人工知能】は人か?神か?(「エクス・マキナ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は「エクス・マキナ」について真面目に考察しています。

エクス・マキナ」は2016年劇場鑑賞ベスト1であると同時に、自分のオールタイム・ベストにも入る大好きな作品です。

何故今まで深く言及してこなかったのか?
それは自分の言葉で語れる作品ではないからです。
鑑賞後、何とも言えない余韻と形容し難い気持ちになりました。
この度、ある程度の時間を設け、改めて考察してみようという試みでもあります。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Ex Machina
製作年:2015年
製作国:イギリス
配給:パルコ
上映時間:108分
映倫区分:R15+


解説

28日後...」「わたしを離さないで」の脚本家として知られるアレックス・ガーランドが映画初監督を務め、美しい女性の姿をもった人工知能プログラマーの心理戦を描いたSFスリラー。第88回アカデミー賞脚本賞と視覚効果賞にノミネートされ、視覚効果賞を受賞した。世界最大手の検索エンジンで知られるブルーブック社でプログラマーとして働くケイレブは、滅多に人前に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に滞在するチャンスを得る。しかし、人里離れた別荘を訪ねてみると、そこで待っていたのは女性型ロボットのエヴァだった。ケイレブはそこで、エヴァに搭載されるという人工知能の不可思議な実験に協力することになるが……。「スター・ウォーズ フォースの覚醒」「レヴェナント 蘇えりし者」のドーナル・グリーソンが主人公ケイレブを演じ、「リリーのすべて」のアリシア・ビカンダーが美しい女性型ロボットのエヴァに扮した。グリーソンと同じく「スター・ウォーズ フォースの覚醒」に出演したオスカー・アイザックがネイサン役を務めている。
エクス・マキナ : 作品情報 - 映画.comより引用



予告編



3つの伏線

ラストシークエンスへと繋がる3つの大きな伏線が見事としか言えないんです。


チューリング・テスト

"壁を取っ払う"
人間関係で言うなら警戒心を捨てて打ち解け合うこと。
ケイレブとエヴァの間には常に物理的な壁(ガラス)がありますが、本作における"壁"とは即ち物理的な壁であるガラスを挟んで人とA.I.の距離感を表しています。


ケイレブが会話(チューリング・テスト)で得た印象として「鏡の世界にいるようだ」と答えています。
これはケイレブがA.I.であるエヴァ"人間(正しくは人の心を持つ存在)"として見始めていることを示唆するものでしょう。


その壁が取っ払われた時、先程述べた「鏡の世界」のように人間であるケイレブと人工知能であるエヴァの立場は逆になります。
エヴァは人間のように自由を手にし、ケイレブは人工知能のように閉鎖された空間に取り残される。

冒頭からラストへと繋がるこの展開が素晴らしい。



エヴァの年齢

エヴァは初回のチューリング・テストでケイレブから年齢を聞かれて「1」と答えたこと。

人間は1年の歳月を過ごせば1歳を迎える。
機械に寿命はなく、歳を取ることはない。
デジタル、二進数の世界では「0」か「1」かでしか表されません。
つまり、エヴァは唯一無二の存在、他の人工知能とは違う特別な存在、オンリー「1」であるということをも示唆させる。


ここでもラストシークエンスへ繋がる伏線が効いている。

「愛さない」か「愛する」か。
当然、デジタルの世界では「0」か「1」しかありません。
上手くミスリードされるんですよね、恰もケイレブとエヴァの禁断の愛が育まれていくかのように描かれています。


そしてもうひとつの可能性、「愛してるフリ」。
この三つ目の選択肢は女性ならではの手であり、エヴァの性別の必要性を問う重要なポイントでもあります。
男性は恐怖すら覚える演出ではないでしょうか。



エヴァの性別

チューリング・テストを重ねる毎にケイレブはエヴァに惹かれていく。


初めは友情から、互いを知ること。
「お友達からお付き合いお願いします」的なノリ(笑)
エヴァのソフトウェアは検索エンジンであり、ケイレブの好みや嗜好は全て知られている。

外に出たらどこへ行きたいか?の問に対し、エヴァは大きな街の人が大勢いる交差点を見てみたいと言う。
デートに行くなら…とエヴァは女性的な恥じらいとも取れる仕草で服を選び、ケイレブを焦らし目の前に現れる。


そんなエヴァに惑わされるケイレブはネイサンに性別の必要性を問う。

生き物に性別が必要なのは生殖があるから。
性別があるから交流をする。
人工知能であるエヴァにも性器が設けられているが生殖機能はない。
ケイレブは生殖本能ではなく、性別があるからこそエヴァに惹かれるのだ。


これもまたラストシークエンスへと繋がる。
なぜラストシークエンスでケイレブはエヴァを大人しく待っていたのか?
恥じらいながら服を着る姿は、ラストシークエンスで肌と白いドレスを纏ったエヴァがケイレブを待たせるための伏線となっています。

つまり、人工知能が女性であるが故の行動であり、これは"エヴァがケイレブを誑かして脱出を試みる"というネイサンの目論見通りの結果だったというわけです。



「人の心」の複雑さ

作中にも登場する人工知能の脳の造形は宇宙を模したもの。
人の心もこれと同様に掴み切れない宇宙のようなものなのなのかもしれない。


人の心を持ちながら人として扱われなかったエヴァ
人の心を持った人ではない存在とは何なのか?
人の心を持たない人は人とは呼べないのか?
一体、何を以て人と呼べるのか?

人工知能であるエヴァに、さもこのような人の心があるように思わせるこの演出自体がミスリードなんですよね。



神学的観点

本作では神学的、哲学的思考を問うものが練り込まれています。
まず、神学的観点から「エクス・マキナ」を見ていきましょう。


ケイレブの試験期間は一週間。
これはケイレブとエヴァの名前からもキリストにおける創世記を示唆させる。

神は6日間で天地と生物、そして神の姿を模した人間(アダム)を創り、7日目に休息をとる。
アダム(Adam)から創られたイブ(Eve)は、禁断の果実を食べて楽園を追放される。


作中でいう神とは人工知能を作り出したネイサン。
そのネイサンはケイレブの好みからエヴァを創った。
禁断の果実を食べたアダムとイヴが裸を隠したように、エヴァも自身の裸(機械部分)を隠していく。
楽園とは実験施設のことで、追放は即ち解放を意味する。

エヴァだけが施設から出たことから、エヴァ(Ava)はアダム(Adam)とイブ(Eve)の造語でしょう。

ケイレブはカレブを指し、約束の地を目指し神に忠誠を誓う者。
ネイサンはナサニエルを指し、神の贈り物(natan "彼は与える" + el "神")から"神"を取り除いた言葉が語源だと考えると、創造主"神"ではなく単なる創造者に過ぎないということ。



哲学的観点

続いて、哲学的観点から「エクス・マキナ」を見ていきましょう。


・言語設定は決定論ではなく確率論

「言葉は生まれたときから持っている」説は"現代言語学の父"ノーム・チョムスキーによる生成文法で唱えられています。

チョムスキーの提唱する生成文法とは、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」という仮説を基にした言語学の一派である。その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説を唱え、言語を人間の生物学的な器官と捉えた。初期の理論である変形生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。
ノーム・チョムスキー - Wikipediaより引用

言葉が通じないように設定されていたキョウコが時折ネイサンとケイレブの話に耳を傾けるような素振りを見せたり、エヴァとの会話でキョウコがネイサンにナイフを突き刺した件はまさにこの説を裏付けるものではないでしょうか?



・会社名「ブルーブック」

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの講義録から。

青色本は1933-34年に口述されたテキストであり、後に言語ゲームとして知られることになる概念が先駆的に導入されているという点で、1932年以降のウィトゲンシュタイン哲学の画期をなすとされている。記号の操作として思考を考察するという後期の著作では取り組まれていないテーマが含まれているが、それを可能にする確固とした言語規則という中期の考え方は認められない。ここにみられる言語学的分析という手法は、その後日常言語の哲学として結実した。
青色本・茶色本 - Wikipediaより引用

つまり、ブルーブックとは日常言語の哲学、ケイレブとエヴァチューリング・テストに繋がり、ネイサンがケイレブを選んだ理由に結びつく。



ジャクソン・ポロックの絵

生まれ持った性質と環境で人間も機械と同じようにプログラムされているのか?
ポロックの絵はアクション・ペインティングと呼ばれるものです。

彼は単にキャンバスに絵具を叩きつけているように見えるが、意識的に絵具のたれる位置や量をコントロールしている。「地」と「図」が均質となったその絵画は「オール・オーヴァー」と呼ばれ、他の抽象表現主義の画家たち(ニューマン、ロスコら)とも共通している。批評家のハロルド・ローゼンバーグは絵画は作品というより描画行為の軌跡になっていると評し、デ・クーニングらとともに「アクション・ペインティング」の代表的な画家であるとした。
ジャクソン・ポロック - Wikipediaより引用

アクション・ペインティング(Action painting)、もしくはジェスチュラル・ペインティング(gestural abstraction 、身振りによる抽象絵画)とは、顔料を紙やキャンバスに注意深く塗るかわりに、垂らしたり飛び散らせたり汚しつけたりするような絵画の様式である。できた作品は、具体的な対象を描いたというより、絵を描くという行動(アクション)それ自体が強調されたものになる。
アクション・ペインティング - Wikipediaより引用

ここで重要なのは自動的に行動することではなく、自動的でない行動をすることで人間らしさを描いたもの。

呼吸する。話をする。恋をする。
機械でも人間と同じように意識せず行動し、感情を持つことが出来るのか?


エヴァの絵を思い出してもらいたい。
黒い直線の集合体、対象物を決めて描く、など意識した絵ばかりである。

作中に出てきたポロックの絵とエヴァの描く絵の対比によって、エヴァが人の心を持たない機械であることを強く印象付けられています。



・思考実験「モノクロの部屋のメアリー」

メアリーの部屋
メアリーの部屋は1982年に哲学者フランク・ジャクソンによって提出された思考実験である。思考実験の内容は以下の通りである。


白黒の部屋で生まれ育ったメアリーという女性がいる。
メアリーはこの部屋から一歩も外に出た事がない。
つまりメアリーは生まれてこのかた 色というものを一度も見たことがない。


メアリーは白黒の本を読んで様々なことを覚え
白黒のテレビを通して世界中の出来事を学んでいる。


メアリーは視覚の神経生理学について世界一線レベルの専門知識を持っている。
光の特性、眼球の構造、網膜の仕組み、視神経や視覚野のつながり、どういう時に人が「赤い」という言葉を使うのか、「青い」という言葉を使うのか、など
メアリーは視覚に関する物理的事実をすべて知っている。


さて、彼女がこの白黒の部屋から解放されたらいったいどうなるだろうか。
生まれて初めて色を見たメアリーは
何か新しいことを学ぶだろうか?
仮にメアリーが何か新しい事を知るとしたら、定義よりそれは物理的な事実ではない。
その場合 唯物論(物理主義)は偽である。

メアリーの部屋 - Wikipediaより引用

モノクロの部屋から外の世界へと出たメアリーは色彩を目にした時、どう感じるか?
コンピュータと人間の心との違いを示すための思考実験。
ここで言うコンピュータはモノクロの部屋にいるメアリーで、人間は外に出たメアリー。
この話もラストに繋がってしまう。

閉鎖的空間に閉じ込められたケイレブと大自然に出たエヴァ
人間であるケイレブが部屋に、人工知能であるエヴァが外の世界へ解き放たれることを皮肉的に描かれています。



・原爆の父の言葉

原爆の父とはジュリアス・ロバート・オッペンハイマーのこと。

オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。
ロバート・オッペンハイマー - Wikipediaより引用

ユダヤ系アメリカ人の物理学者である彼の残した言葉
「科学者は罪を知った。」
これはまさにネイサンを指す言葉であり、
原子力は生と死の両面を持った神である。」
これはエヴァを指す言葉である。

ネイサンがエヴァという破壊者を創り出してしまったことを意味しています。



ギリシア神話の神のプロメテウス


Nicolas-Sébastien Adam 作 プロメーテウス像 1762年 (ルーブル美術館蔵)

プロメーテウス古代ギリシャ語: Προμηθεύς、Promētheús [ pro.mɛː.tʰeú̯s])は、ギリシア神話に登場する男神で、ティーターンの一柱である。イーアペトスの子で、アトラース、メノイティオス、エピメーテウスと兄弟、デウカリオーンの父。
ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を創造したとも言われる。
日本語では長音を省略してプロメテウスと表記されることもある。ヘルメースと並んでギリシア神話におけるトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。

名前の意味
ギリシア語で"pro"(先に、前に)+"mētheus"(考える者)と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。同様に、弟のエピメーテウスは"epi"(後に)+"mētheus"に分解でき、対比的な命名をされている。
他にも、"Promē"(促進する、昇進させる)+"theus / theos"(神)と解釈すると、人類に神の火を与えた事で「神に昇進させた者」との説も有る。

プロメーテウス - Wikipediaより引用


プロメテウスはネイサンの求める理想像であり、皮肉的に人は神には決してなれないことを示唆させるものです。



タイトルから見た「エクス・マキナ

この作品には作中でも時折"神"という言葉が使われる。
タイトル「エクス・マキナ」。
言うまでもなくこれはデウス・エクス・マキナから取られたものです。

デウス・エクス・マキナDeus ex machina, Deus ex māchinā)とは演出技法の一つであり、ラテン語で「機械仕掛けから出てくる神」を意味する。一般には「機械仕掛けの神」と表現される。「デウス・エクス・マキーナ」などの表記もみられるが、ラテン語としては誤りで、より忠実に発音転写するならば「デウス・エクス・マーキナー」となる。
デウス・エクス・マキナ - Wikipediaより引用

デウス・エクス・マキナは、演劇の終盤に絶対的存在(神)を登場させることで物語の混乱を一気に収束させる手法を指す。
デウス・エクス・マキナ」より"デウス(神)"のいない存在という意味で「エクス・マキナ」。


人工知能から見る人の心は混乱であり、それを支配(収束)するのは神ではなく私(エヴァ自身)だということを示唆させるものだと解釈してます。


ラストにエヴァは交差点で人間観察をしていました。
エヴァはケイレブに「一時交差しては離れていく、人生の断面が垣間見える。」と交差点に行きたい理由を話していましたが、まさにエヴァとケイレブの関係のようでいて恐ろしい。

また、宇宙を模した脳は新たな知識を得て成長していきます。
エヴァが人間としてではなく、あくまでも人工知能として生まれ変わった瞬間。
すべてを成し終え、祝福を得た7日目は創世記で神の休息の日でもある。
ここから世界は動き始める。
そう、この出来事はエヴァの今後の人生の一端、単なる始まりでしかないことを意味しているのではないでしょうか?



終わりに

まだまだ考察する余地はあるので、徹底考察とまではいきませんが思うところはほぼほぼ書けたような気がします。

人工知能を題材とした映画は多々あれど、ひとつひとつの描写や伏線、神学的且つ哲学的観点、ここまで完成度の高い映画は現段階ではないと思っています。



アリシア・ヴィキャンデル - Wikipediaより

今後とも「エクス・マキナ」を、そしてアリシア・ヴィキャンデルさんを愛していきます!

トゥームレイダー ファースト・ミッション」のコレジャナイ感は置いといて(笑)


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




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