小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

つ・な・げ・て・み・た・い(「ムカデ人間2」ネタバレ考察)

目次




初めに

おはようございます、レクと申します。
清々しい朝が来ましたね!
そんな朝に相応しい映画の考察をお届けしたいと思います。


今更ながらですね、ついに『ムカデ人間2』の考察記事に着手しようかと思いまして。

というのもですね、ここ最近何故だかTwitterのTLで"ムカデ人間"という文字をよく見るんですよ。
何故でしょうねえ(笑)


というわけで、今回は前作の考察とは違って至って真面目に考察しております。
作品の内容が内容のため、不謹慎な発言、不適切な発言、その他諸々ございます。

それから、当然ながら前作『ムカデ人間』と今作『ムカデ人間2』のネタバレも含まれます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Human Centipede II (Full Sequence)
製作年:2010年
製作国:オランダ・イギリス合作
配給:トランスフォーマー
上映時間:91分
映倫区分:R18+


解説

狂気に満ちた医師が、複数の人間の口と肛門とをつなぎ合わせ“ムカデ人間”をつくろうとする姿を描いたカルトホラー「ムカデ人間」(2009)の続編。ロンドンの地下駐車場で夜間警備員として働く中年男のマーティンは、映画「ムカデ人間」のDVDを繰り返し見ては、自分も“ムカデ人間”をつくりたいという欲望にかきたてられる。マーティンは、駐車場で目をつけた男女を次々と拉致して倉庫に監禁。邪悪な計画を進めていく。過激で残酷な内容に世界各国で上映禁止になり、日本でも度重なる映倫審査の末、R18+指定での上映が決まった問題作。
ムカデ人間2 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



ムカデ人間』の存在意義

さてさて、皆さんお待ちかねの『ムカデ人間2』考察のお時間がやって参りました!

え?誰も待ってない?
そうなんですよ、これって完全なる自己満足の考察記事なんですよね!!!

というわけで、開き直って張り切って書いていきましょう!!!



ムカデ人間』のふざけまくった考察記事をお読みでない方は、『ムカデ人間』の鑑賞を終えた後でこちらをお読みください。



まず初めに『ムカデ人間』の存在意義について語っていきます。



ムカデ人間』の目的は単なる好奇心。













といった可愛らしい(笑)願望から始まるわけです。
そして、『ムカデ人間』の考察にも書いた通り、ムカデ人間は実験段階なんですよね。

つまり、言い換えればムカデ人間はまだ完成していないことになり、それを完成させるのは『ムカデ人間2』の主人公マーティンなのか!?という話です。



今作『ムカデ人間2』は『ムカデ人間』のエンドロールから始まります。
知的障害者であるマーティンは『ムカデ人間』が大好きで大好きで堪らないんですよ。


誰だって偏愛映画ってのはありますよね?
私は『ムカデ人間』がオールタイム・ベストです!

素晴らしいじゃないですか!
なにも変な映画が好きであること、を言っているんじゃないんです。
人と違うものを好きになること、自分が好きだと思える何かがあること、これって素晴らしいことなんですよ。

マーティンにとってはそれが映画『ムカデ人間』だったわけです。




映画は人生を変えてしまうほどの影響があるのか?
正直なところ、僕には分かりません。

しかし、しかしですよ?
考え方、価値観、想像力、思いやり、嗜好。
これらに少なからず影響はあると思っています。

例えば心に残る台詞、目に焼き付いている役者の演技、登場人物の行動、映像表現、監督のメッセージ。
もしかすれば、誰かの救いにも、生きる希望にも、はたまた今作『ムカデ人間2』のように悪影響を受けることになるかもしれません。

マーティンにとってはそれが映画『ムカデ人間』だったわけです。(2回目)



「つ・な・げ・て・み・た・い」というハイター博士の好奇心が刺激したマーティンの好奇心。
今作『ムカデ人間2』では、前作を凌ぐ12人の人間が数珠つなぎにされます。

マーティンの『ムカデ人間』に対する熱い想いが込められた数珠つなぎだと思いませんか!?



"12"という数字の美しさ


さて、本格的な考察に進みます。
今作『ムカデ人間2』では12人が数珠つなぎになりますよね?
この数字はどこから来たのでしょうか?


前作『ムカデ人間』では3人という実験段階での実施でした。
3人は単純に人数が少ないことも理由のひとつですが、個人的な見解では昆虫に準えた形だと思っています(正確にはムカデは昆虫ではない)。
頭部となる人間、胸部となる人間、腹部となる人間。
それぞれに役割を担っていたと考えられます。


今作では12人です。
いきなり数が4倍になりました。
何故4人ではダメだったのでしょうか?
何故10人ではダメだったのでしょうか?



・神学的に見る"12"の数字

新約聖書では、キリストの12人の使徒
ペトロ、(ゼベダイの子)ヤコブヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、(アルファイの子)ヤコブ、タダイ、シモン、イスカリオテのユダ)。

ギリシア神話では、オリンポス山の山頂に住んでいる12神。
ゼウス、へラ、アテナ、アポロンアフロディテ、アレス、アルテミス、デメテル、ヘパイストス、ヘルメス、ヘスティア、ポセイドン。

アメリカやイギリスの陪審員は12人で、これは陪審員制度の起原となった9世紀初頭のフランク王国において12名の陪審員が立てられたことによるとされていますが、キリストの12人の使徒が由来とも言われています。



・数字の表現で見る"12"の数字

以前まではイギリス等では10進法ではなく12進法が使用されていました。
1971年までは英国通貨の1シリングは12ペンス。
現代においてもその名残はあります。

例えば、計量法における1フィートは12インチ。
貴金属や宝石の計量に使用される1トロイポンドは12トロイオンス。
1ダースは12個、 1グロスは12ダース、12グロスを1グレートグロス

英語で11はeleven、12のことはtwelve。
13以上になるとthirteenのように"〜teen"という表現が用いられており、10ではなく12を区切りにしています。
ドイツ語でも11はelf、12はzwölf。
13以上はdreizehnというように"~zehn"という表現になっています。

また、音楽の世界では平均律

平均律(へいきんりつ)は、1オクターヴなどの音程を均等な周波数比で分割した音律。一般には十二平均律を指すことが多い。
平均律 - Wikipediaより引用

ピアノの鍵盤で1オクターブのドからシまでに、白が7個と黒が5個の計12個。

このように"12"という数字は様々な所で見られます。



・『ムカデ人間2』で見る"12"の数字

図形をご覧ください。
前作『ムカデ人間』の3人を基準に考えると、円形に繋いだ時には正三角形となります。

正三角形を2つ重ねれば正六角形が描けます。

更に正三角形を4つ重ねると正十二角形が描けます。

正四角形や正十角形を正確に描くことは難しいですよね?
正三角形を基準にすると正十二角形を簡単に描くことができます。



1年が12ヶ月なのは、暦(月)の動きに関連しています。
これは、月が1年間に地球をほぼ12回転することからきていて、地球から見ていると月の満ち欠けは1年間に12回繰り返されるということになります。

この天体の動きは星座にも関係します。
黄道十二星座(おひつじ座、おうし座、ふたご座、かに座、しし座、おとめ座、てんびん座、さそり座、いて座、やぎ座、みずがめ座うお座)です。

更に方角や時間を示す十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)。


このように、正十二角形は現実世界に使われている円形のひとつの形となるんです。


劇中でもマーティンは12人の数珠つなぎを行う際に円形に並べていました。

マーティンが目指したものは実験段階であった『ムカデ人間』の完成形。
この"12"という数字を使い、実験的ではなく現実的に可視化したわけですね。


その12人目に自分が入る。
自分を含めて初めて完成するムカデ人間
実に美しいではありませんか。

※実際は汚い画です。



ムカデ人間2』で伝えたいこと

ムカデ人間』の考察でも書きましたが
食糞は仏教の六道における餓鬼道。
人道に反するものなんです。

その人道に反する行為を模倣する今作『ムカデ人間2』。
上記に
《もしかすれば、誰かの救いにも、生きる希望にも、はたまた今作『ムカデ人間2』のように悪影響を受けることになるかもしれません。》
と記載しました。


かもしれません。
そうなんです、ラストで今まで散々見させられてきたグロ描写は全て夢でした!というタネ明かしをしますね?
これは、現実と虚構の境界線を明確に線引きした「現実でこんなことをしてはいけませんよ!」といった真面目な説教だけではありません。

ムカデ人間2』は、映画『ムカデ人間』の影響を受けた人間が如何にして変態的素養を得たのか?を見せることで、映画が悪影響を及ぼすのではなく影響を受ける人間が問題なのだという現代社会にも通じる社会派メッセージを残してるんですよ!



犯罪を犯した者が所持する娯楽作品に罪はない。
更に言えば

映画の、フィクションの影響を受けて模倣する、犯罪に手を染めてしまう人間は、映画『ムカデ人間』が大好きで大好きで堪らない『ムカデ人間』を実現しちゃう妄想や夢まで見ちゃう知的障害者のマーティンよりも狂った人間なんだぞ!と我々へ鋭い刃を突きつけるものなんですよ!


おいおいおいおい、こんな汚い映画でよくもまあこんなメッセージを残せるな!
最後まで観る人少ないぞ!
というツッコミはご遠慮ください(笑)



終わりに

如何でしたでしょうか?
僕の『ムカデ人間2』に対する熱…ゲフンゲフン。
マーティンの『ムカデ人間』に対する熱い想いとトム・シックス監督の我々に対する熱いメッセージは伝わったでしょうか?(笑)


ということで、前作『ムカデ人間』は軽い気持ちで観られますが、今作『ムカデ人間2』は気合いを入れないと観られないかもしれません。

批判云々は構いません、現実に見るに堪えないという描写も多々あります。
しかし、ただ汚い、グロいだけの映画ではなく、ちゃんとメッセージ性のある映画であることはご理解していただきたいんです。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2011 SIX ENTERTAINMENT

人生は願望だ、意味じゃない(「ジョーカー」ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
公開日初日に観て参りました『ジョーカー』について語っております。

今回はいつもようにそれぞれのテーマのもと掘り下げていく考察記事という形ではなく、僕自身の感じたこと、思ったことを書き綴ろうと思い、記事を書かせていただきました。
この記事の内容はあくまでも一個人の見解です。

興味のある方は最後までお読みいただけると幸いです。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Joker
製作年:2019年
製作国:アメリ
配給:ワーナー・ブラザース映画
上映時間:122分
映倫区分:R15+


解説

バットマン」の悪役として広く知られるジョーカーの誕生秘話を、ホアキン・フェニックス主演&トッド・フィリップス監督で映画化。道化師のメイクを施し、恐るべき狂気で人々を恐怖に陥れる悪のカリスマが、いかにして誕生したのか。原作のDCコミックスにはない映画オリジナルのストーリーで描く。「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。これまでジャック・ニコルソンヒース・レジャー、ジャレット・レトが演じてきたジョーカーを、「ザ・マスター」のホアキン・フェニックスが新たに演じ、名優ロバート・デ・ニーロが共演。「ハングオーバー!」シリーズなどコメディ作品で手腕を発揮してきたトッド・フィリップスがメガホンをとった。第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門に出品され、DCコミックスの映画化作品としては史上初めて、最高賞の金獅子賞を受賞した。
ジョーカー : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



感想

まずはTwitterにも上げた感想から。



「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇。」
「笑いとは即ち、反抗精神である。」

そして、この記事のタイトルの元ネタ
「何のために意味なんか求めるんだ?人生は願望だ、意味じゃない。」

かの有名な喜劇王チャップリンの名言です。


サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。
チャールズ・チャップリン - Wikipediaより引用


これらの人生について語られた言葉は
後になって振り返ってみれば辛い話も笑い話に変えられる。
意味があるから生きるのではない、夢や希望があるから生きていけるのだ。
といった前向きなメッセージでもあります。

また、幼少期から様々な苦労をしたチャップリンにとって「笑いとは即ち、反抗精神である。」とは不幸でも悲観的にならず積極的に笑っていることだったのでしょう。



『ジョーカー』のアーサーも、チャールズ・チャップリンという誰もが知る喜劇王になれたかもしれない。

アーサーは悲劇と喜劇の思考の切り替え、笑いという反抗精神、そこに"願い"ではなく"意味"を求めてしまったんですよ。



コメディアンを夢見た主人公アーサー(ホアキン・フェニックス)。
そして彼の憧れであるコメディアン、マレー(ロバート・デ・ニーロ)。

皆さんが連想するキングオブコメディにもなぞらえられてましたが、この辺りは恐らく皆さんと同じような内容しか語れないので端折ります。
まあ簡単に言えばコメディを相反する形で描かれています。

トラウマや不条理な世界によって心が壊れていく男の姿を描いたタクシードライバー
こちらも同様の理由で端折らせて頂きます。

また、渾身の演技を魅せたホアキン・フェニックス『ザ・マスター』での怪演も彷彿とさせます。


「人生はひとつじゃないから。」

つい先月、京都みなみ会館のオールナイト上映に行ってきまして、35mmフィルムでの『ザ・マスター』の上映がされたんですよね。
この作品自体は二度目の鑑賞でしたが、一度目では感じられなかった"圧倒的"な熱量を感じました。

今作『ジョーカー』においても"圧倒的"と言わざるを得ない。
他にも、『容疑者、ホアキン・フェニックスher/世界でひとつの彼女などホアキンの過去の出演作の集大成とも言える素晴らしい演技を魅せています。

トッド・フィリップス監督もこのように語っていますね。

フィリップス監督は、アーサー/ジョーカー役のフェニックスを「偉大な名優」と語り、「役者のすごさを説明するのは難しい。脚本に従っただけと思うかもしれない。そんなことはまったくなく、ホアキンは脚本を下敷きに、自分のものにして昇華させる」と全幅の信頼を寄せる。
https://eiga.com/news/20191004/8/:title より引用


さて、次に語っておかなければならないこととしては劇中でのバットマンと繋がる描写です。
自分の感想を述べる上でもバットマンの話をする必要があります。
後にバットマンとなるブルース・ウェインも登場し、物語として重なる部分がありましたね。

僕の大好きな監督のひとり、クリストファー・ノーランダークナイトに登場するジョーカー(ヒース・レジャー)と比較されることもしばしばありますが、『ジョーカー』のジョーカー(ホアキン・フェニックス)とは完全に別物です。

今作はDCのキャラクター、ジョーカーを借りたひとりの男の哀しき物語でもあります。



ノーランがバットマンを描くにあたって幾つかのテーマがあると僕は思っています。

ヒーローものにおいて、法は正義の実現のための必要十分条件ではないということ。
だからこそ、法では裁けない、法の外側で正義を行う例外的な人物がヒーローたるものだと。

ダークナイト』のジョーカーは法と犯罪の間にある不均衡な部分、法による服従に抗う者として、一般人から切り離されたヒーローという存在とは真逆の存在なんです。

そもそもこの作品は、元々バットマンを正義と悪の境界線に立たせて現実的に描くことを目的とされていたそうです。


ヒーローという偽りのアイデンティティブルース・ウェインという人物のアイデンティティを覆い隠す真実であるということ。
つまり、バットマンはヒーローとして主にマスクというフィクションで自分の正体を隠している。

一方で、『ダークナイト』ジョーカーはDNAや指紋の記録もなければなんの情報も持たない。
彼は自らの正体を巧みに隠しているのではなく、隠すべきアイデンティティがないことを示して、バットマンとの対比を描いているんです。




ブルースの両親が暴漢によって殺害される描写があります。
これはバットマンにおいても一般的に描かれるブルースのトラウマですね。
『ジョーカー』では、この暴漢はジョーカーによる影響だと明白に言及するものとなっています。

もしかしたら、ブルースが復讐心に駆られて悪に染まった可能性も考えられる。
冒頭でも語ったように、ジョーカーであるアーサーがコメディアンとして善に転じた可能性だってある。

つまり、今作『ジョーカー』においてはバットマンとジョーカーは単純な善悪の二項対立ではないんですね。


ブルース・ウェインバットマンになる。

揺るがない事実さえも"詭弁"として『ジョーカー』では描いているんです。


また、ラストにはアーサーは捕まり精神病棟に移されるシーンが挿入されます。

ジョーカーは悪のカリスマだ。

この当然の流れでもある事実さえも"詭弁"として描いているんです。



現実と虚構、真実と虚偽、善と悪、この世界に存在する物事の曖昧な境界線にこそ、今作のメッセージが隠されていると思います。
『ジョーカー』ではバットマンとジョーカーは対照的であり、写鏡でもあるという善悪の二項対立と境界線をギリギリの危ういラインで描いてるんですよ。



申し上げた通り、『ダークナイト』のジョーカーは自身のアイデンティティを持たない。
つまり、その背景に人間味を感じさせないキャラクターとなっているんですが、今作『ジョーカー』はいち市民がジョーカーとなる。
その背景には育った環境や境遇、笑いものにされ、自身も笑いが止まらない病に悩まされている。

そんな中で唯一の希望がコメディアンになること。
人々の関心を惹くそのコメディアンとしての素質が"ジョーカー"というマスクを被ることで妄信的な信者に支持され、犯罪に同調する者が現れたこと。
これが今まで世間から評価がされず、自身の存在すらも感じなかったアーサーの存在価値、存在意義とリンクし、アーサーが自身の評価だという"勘違い"に拍車をかける。

つまり、"ジョーカー"が支持されることで、そこで初めてアイデンティティのないアーサーが自分が"ジョーカー"だというアイデンティティを自覚したわけである。

「アーサーがジョーカーになった」と鑑賞中に思うかもしれない。
しかし、実際にはその素質を呼び起こされただけなのだ。
ノーラン監督作ダークナイトライジング』でのブルース・ウェインの「誰でもバットマンになれる、マスクを被れば。」という台詞と同様に、『ジョーカー』ではその"勘違い"によって誰にでもジョーカーになれる、誰もがならせてしまう可能性を秘めているんです。



このように、『ジョーカー』はアーサーがジョーカーとなる誕生の物語です。
その"ジョーカー"という人物は、アーサーが自ら悪の階段を登ってジョーカーとなったものではない。
誰かを笑わせるのではなく、誰かに笑われ続けたアーサーという媒体を使って、彼に影響を与えた人々がジョーカーを作り上げたという見方ができる。

よって、この映画は決して犯罪を助長する映画ではない。
「人の心に波及する」この映画は、虐げられる者の畏怖と狂気が描かれているのですが
寧ろ虐げる者、言わば加害者側への糾弾となっているのです。

精神異常者、社会的弱者の危険性。
そんな先入観や固定概念、妄執や誤った認識を卒倒させる"詭弁"。

この映画から僕が受け取ったメッセージは笑い声を上げながら常に我々の背後に潜んでいるのです。



終わりに

ということで、大体言いたいことは言えたと思います。
いつものように考察という形でも良かったのですが、それだとまた長々となっちゃいそうなのでTwitterに上げた感想の詳細という意味で感想とさせていただきました。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

世界は変えられる(「HELLO WORLD」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
やっと原作小説を読み終えたこともあって、今回はアニメ映画「HELLO WORLD」について語っています。

この映画のタイトルが意味すること、そして自分が気になったことを中心に考察しています。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2019年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:98分


解説

人気アニメ「ソードアート・オンライン」シリーズの伊藤智彦監督が、近未来の京都を舞台に描いたオリジナルのSF青春ラブストーリー。2027年、京都。内気な男子高校生・直実の前に、10年後の自分だという人物・ナオミが現れる。ナオミによると、直実はクラスメイトの瑠璃と結ばれるが、その後彼女は事故で命を落としてしまうのだという。直実は瑠璃を救うため、大人になった自分自身とバディを組んで未来を変えようと奔走する。しかしその中で、瑠璃に迫る運命やナオミの真の目的、そしてこの現実世界に隠された秘密を知り……。「君の膵臓をたべたい」の北村匠海が主人公・直実の声で声優に初挑戦。10年後からやって来たナオミの声を松坂桃李、ヒロイン・瑠璃の声を浜辺美波がそれぞれ演じる。「正解するカド」の野崎まどが脚本、「けいおん!」の堀口悠紀子がキャラクターデザインを担当。
HELLO WORLD : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



SF的視点


近未来、京都。
2020年に始動したPluura、京斗大学、京都市三者による共同事業計画【クロニクル京都】。
京都の地理情報をより詳細に、より正確に記録する。
さらに時間的変遷をも追い続け、あらゆる時代のあらゆる情報を記録に残す。
という試み。
その記録データを保存する装置が量子記憶装置"ALLTARE"(アルタラ)です。



堅書直実。
2027年、京都に住む内気な高校生。


カタガキナオミ。
10年後の堅書直実だと名乗る男。


一行瑠璃。
堅書直実と同じクラスで同じ図書委員。




カタガキナオミが知る未来では、堅書直実は一行瑠璃と結ばれるが、その後彼女は落雷による事故で命を落としてしまうのだという。



ということで、早速本題に入っていきますが、簡単にこの物語の世界は大きく分けて4つあります。
ここから先の考察はこの4つの世界を中心に掘り下げていっています。


・1つ目の世界は、2027年、物語の主軸である堅書直実がいる世界A
ここでは堅書直実が一行瑠璃と出会い、初デートの宇治川の花火大会前の時間軸(正しくはALLTAREによって記録された過去のデータ)である。

・2つ目の世界は、2037年、リアル世界でもあるカタガキナオミの世界B
ここでは初デートの花火大会で落雷により一行瑠璃が脳死となっている。
ここで、カタガキナオミは一行瑠璃の意識を取り戻すべく、脳死している一行瑠璃の脳に意識データを送り込むことを目的にALLTAREに保管されている過去のデータ(世界A)に自分のアバターを送り込んだ。

・3つ目の世界は、キャッチコピーでもある"この物語はラスト1秒でひっくり返る"世界C
ここでは、実は脳死になっていたのはカタガキナオミであり、一行瑠璃が脳死状態である世界Bはカタガキナオミの意識世界であったことが明かされる。
ラストの月のシーンです。
これは原作小説のエピローグでも綴られています。

・4つ目の世界は、堅書直実が世界Bから一行瑠璃を取り戻した世界A'
京都駅の階段に作った量子トンネルを潜り、量子構造を世界Aに変換(一行瑠璃が年齢を遡る)して新たに再構築したであろう新しい世界("HELLO WORLD")である。



単純に考えれば、現実世界Cでの、カタガキナオミの意識世界Bの中で、ALLTAREによってデータ保存されている世界Aがある(三重構造世界)と仮定できる。

図①


しかし、この物語での4つの世界の構図は実はこうなっているのではないかと考える。

図②


正しくは世界A世界Bが重なり合う部分、繋がり部分もあると思います。

何故、図②のような構図になっているのか?
こう考えるポイントは3つ。


・1つ目は、世界Bカタガキナオミの意識世界前提であること。

意識世界とは言わば夢の中のようなもので、その夢の中のALLTAREによってデータ保存されたデータ世界Aという三重構造ではリアル世界Cから独立した新世界HELLO WORLD(世界A')は作り出せないから。

イメージするなら、映画「インセプション」みたいなもんです。
簡単に言えば夢からは記憶(意識)しか盗めないし、植え付けることしか出来ない。
つまりは、夢は現実にはならない(夢は現実に干渉出来ない)という夢のない話ですね(笑)


現実の世界Cの中に、ALLTAREによってデータ保存された世界Aと、カタガキナオミの意識世界Bが別々で存在し、現実の世界Cの中でデータ世界Aと意識世界B間をカタガキナオミという意識が移動した。
と仮定すれば、その移動はリアルの世界C内で起こったこととして説明できる。

つまり、世界Bの中にある世界Aとすれば、世界Aは夢の中での世界となる(図①)が、
世界Cの中にある世界Aとすることで、世界Aが現実にあった世界の記録という位置付けになる(図②)からだ。



・2つ目は、ALLTAREの存在。
堅書直実のデータ世界Aとカタガキナオミの意識世界Bの双方に存在し、共に修復プログラムの影響をそれぞれ独立して受けていること。

カタガキナオミの意識世界Bの中にある堅書直実のデータ世界Aという構図(図①)であるならば、世界Bで修復プログラムを作動させれば世界Aにも影響が出るはずで、世界Aでの修復プログラムによる修正は不要。



・3つ目は、後述している神学的視点で記載してます。




この映画の上手いところは、世界Aが現実世界だと堅書直実が認識していたこと。
そしてカタガキナオミによって、世界Aはデータに記憶されたものであり世界Bが現実世界だと観客に認識させること。

そして、ラスト1秒にひっくり返させる。
観客が認識していた現実世界(世界B)は実はカタガキナオミの意識世界であり、世界Cというカラス(未来の一行瑠璃)しか知らない現実世界があったこと。

この二重構造と思わせておいてからのどんでん返しの三段オチ、そしてその構造世界から逸脱する新たな世界の創造。
この壮大なSF世界観は想像するだけでも楽しい。



ラストで明かされる真相を少し説明しておくと
全ては直実を治療するための蘇生プログラムだったんです。

宇治川の花火大会での落雷事故で脳死になったのは一行瑠璃ではなく、堅書直実の方だったんですね。

世界Bでカタガキナオミが脳死の一行瑠璃に行った行動のように、世界Cでは一行瑠璃が脳死のカタガキナオミの治療にあたっていた。

ただ、その治療が難航していた理由が、カタガキナオミの精神状態。
原作小説でも「貴方は大切な人のために動いた。貴方の精神は今、ようやく『器』と同調したんです」と語られるように、世界Bでカタガキナオミは堅書直実と出会うことでやっと本来の自分を取り戻した。
世界Bでカタガキナオミが消えていくシーンは、修復システムによる消去でも、堅書直実の手袋の効果でもない。
一行瑠璃のように意識データが世界Cへ転送されたということでしょう。



量子力学的視点

量子力学の観点から見た死生観は、脳(物質)の次に意識が作られるのではなく、意識から脳(物質)が作られる。
つまり、肉体(物質)が死んでも意識まで消滅する必要はなく、死後(意識)の世界が認められると仮定される。
即ち、死後の世界とは意識の世界ということになる



例えば、映画「21グラム」の題材にもなったマサチューセッツ州の医師であったダンカン・マクドゥーガル博士による実験。

6人の末期患者を対象に死の前後の体重の変化を調べ、人間の"魂の重さ"は4分の3オンス、つまり"21グラム"であると結論づけた。
ちなみに同じように15匹の犬を計測した実験も行なっており、犬の場合は人間と違って死後に"21グラム"が失われていないと結論づけられている。

また、十数人の末期患者の死に立会い、実際に死の瞬間を撮影。
博士によれば、死の瞬間の人間の頭部には"星間エーテル"にも似た光が取り巻いている。
この光が肉体から離れていく"21グラム"の魂だという。
ちなみに星間エーテル(interstellar ether)とは中世の物理学の概念である"エーテル理論"に基づく天界を構成する物質で、現代の科学では否定されている。

この"21グラム"がその意識とも考えられるのではないだろうか。



さて、今作において世界AはALLTAREによって保存されたデータであるとカタガキナオミから説明を受ける。

データとはつまり意識であり、故に一行瑠璃の意識データのみが世界Bへと移動したことになる。
(厳密には世界Aの一行瑠璃の意識データが世界Cの一行瑠璃の脳内に収められたことにより脳死から目覚めた。)



ここで設定上、ひとつの矛盾が出てくる。

何故、世界Aに意識データとして存在する堅書直実が世界Bへ実体として移動出来たのか?

世界間を移動することが出来るのは意識データのみであることは、カタガキナオミの繰り返した実験によって明らか。
故に、カタガキナオミは自身の意識をデータ化したアバターとして世界Bから世界Aへと移動している。



手袋(創造手)であっても人体のような複雑な物質は作り出せない。
ここで考えられる仮説が、カタガキナオミとの特訓である。

初めは鉄や銅などの金属、水、紙などの身近な物から始まった生成も、最終的には小型の太陽系を創るまでにその精度を上げていく。



現実、このような実験が行われています。

1951年にカルビンは二酸化炭素と鉄(II)を溶かした水に加速器からのヘリウムイオンを照射したところ、生成物中にギ酸やホルムアルデヒドといった有機物を検出した。
1953年にはミラーがメタン、アンモニア、水素、水の混合気体中で火花放電を行い、酢酸、尿素などに加えてグリシン、アラニンなどのアミノ酸の生成に成功している。
つまり、アミノ酸という生命に直結する有機物であっても無生物的に生成することが可能なのだ。


また、海外ドラマ「ブレイキング・バッド」では
『人体を構成するすべての要素を足しても、0.119958%足りない』と言及されています。

水素(H) 63%
酸素(O) 26%
炭素(C) 9%
窒素(N) 1.25%
カルシウム(Ca) 0.25%
鉄(Fe) 0.00004%
塩素(Cl) 0.2%
硫黄(S) 0.050002%
ナトリウム(Na) 0.04%
リン(P) 0.19%
合計 99.980042%

実際に人体を構成している化学物質は全部で29種類で、「ブレイキング・バッド」で計算したのはわずか10種類。
他の19種類は天文学的に量が少ないものの存在し、全部足すとしっかりと100%になるようです。


小型の太陽系恒星を生成することができればアミノ酸の生成や人体を構成している元素など容易く作り出すことができ、自分自身の肉体を生成することも理論上は可能。



もうひとつの仮説が、一行瑠璃を世界Bから世界Aへと戻す際に行った量子構造の再構築の逆パターン。

修復プログラムによって消去されていく世界Aの中で、堅書直実が飛び込んだ穴。
ここで手袋によって量子構造の再構築をし、世界Bでの肉体を手に入れた説。

原作にこう記述がある。

身体が小さな粒になって、世界と自分の境界が曖昧になった。身体の中を、力が、物が、人が
濁流のように通り過ぎていく。
その流れの果てで。
僕は。
僕と混じり合う。

HELLO WORLD (集英社文庫)

HELLO WORLD (集英社文庫)


これが量子の再構築と考えられる。



また、キャッチコピー「この物語(セカイ)は、ラスト1秒でひっくり返る」。
この物語の構造、量子力学から見ると、意識世界(世界B)での1秒と現実世界(世界C)の1秒は、同じ1秒であっても違う長さである。

「夢の中での5分は現実世界の1時間に相当する」
映画「インセプション」の有名なルールです。

一方で、スイスのバーン大学の研究によると、夢の世界では現実よりも50パーセントも遅く時間が流れていると明らかになったそうです。

諸説ありますが、この映画「HELLO WORLD」鑑賞中のラスト1秒は物語上の1秒ではない。
この不確かな時間感覚はこの映画を紐解くためには必要な感覚だと思います。



神学的視点

キリスト教では創造主である神がこの宇宙を創ったとされる。
しかし、無神論者である僕のいち個人の意見としては人間が神(という存在)を創ったと考えている。

何故このような考えを述べたか、というと
この考え方の構造がこの物語の構造そのものだから、である。

では早速、その解釈を書いていこう。



この考えをこの物語に当てはめると
神→ALLTARE
人間→堅書直実

であり、その神を創ったのが
人間→カタガキナオミ(他プロジェクトチーム)
という構図となる。
※これはあくまでも物語序盤での設定であり、世界A世界B間での話。


ALLTAREの語源は劇中では定かではないが、ALL(全ての)TARE(重量)として考えるなら、中核を担う全世界のデータベースであることの造語だろう。

また、TAREには聖書では(厄介な)雑草好ましくないものという意味を持つ言葉であり、具体的には新約聖書"毒麦"と記述がある。



マタイの福音書13章24節
また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。

マタイの福音書13章25節
人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。

マタイの福音書13章30節
収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。


このマタイの福音書13章の解釈として
"良い種をまく者"は人の子、すなわちイエス・キリストである。
"畑"は世界であり、"良い種"とは御国の子どもたち、すなわち真のキリストの弟子たち。
"毒麦"は悪い者の子どもたち、すなわち偽のキリストの弟子たち。
"収穫"はこの世の終わり、審判の時を意味する。
"刈り手"は黙示録にあるように、終わりの時に世界の審判に携わる御使い。

この"畑"はキャッチコピー"この物語はラスト1秒でひっくり返る"と明かされたカタガキナオミが脳死となったリアル世界Cとするなら、"麦"が堅書直実のいる世界A、"毒麦"が一行瑠璃が脳死となったカタガキナオミの世界Bとも取れる。(図②)


よって、2人が師弟関係であることからも"良い種をまく者"はカタガキナオミ、"良い種"は堅書直実。
堅書直実を利用し、誘導したことから、"悪い種"は世界Aの堅書直実のもとへとやって来た世界Bのカタガキナオミのアバター
"収穫"はALLTARE、"刈り手"は修復システム。

"畑"の中にある"麦"と"毒麦"の区別が付かないのように、リアルの世界Cでデータ化された世界Aとカタガキナオミの意識世界Bの区別ははっきりとは分からない。



2つの世界の融合体である因果律特異点となった一行瑠璃。
そして、その世界と別の世界の2人が同じ世界に存在する因果律特異点となった堅書直実。

この世界Bで重複する2人が紡いだ新しき世界("HELLO WORLD")が、マタイの福音書13章24節の"天国"であり、堅書直実のいたデータ世界Aから分岐し、独立したパラレルワールド(世界A')であると考えられる。

つまりは、過去が改変され、新たな現実が創り出されたことを意味する



従って、この「HELLO WORLD」は旧約聖書でのアダムとイブを模したものでもあると考えられる。
データ社会での神をALLTAREとするなら、堅書直実と一行瑠璃はアダムとイブ。

アダムとイブは神から創られ、禁断の果実に手にするという禁忌を犯した罪で楽園を追放されます。
世界Bでの堅書直実と一行瑠璃は保存されたデータ、つまりALLTAREが創り出した記憶であり、2人は決められた世界を捻じ曲げてデータそのもの(変えられない過去)を変えてしまうという禁忌を犯す。
結果、楽園(世界A)から追放(解放)され、新たな1ページを捲る(世界A')こととなるのです。



さて、ここで映画版ではあまり語られなかった三本足のカラスの存在についても触れておこう。

モデルは八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれる神の使いです。


熊野本宮大社 八咫烏の像

八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において神武東征(じんむとうせい)の際、高皇産霊尊タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス(烏)であり神。一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。

中国神話では三足烏は太陽に棲むといわれる。陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる。中国では前漢時代(紀元前3世紀)から三足烏が書物に登場し、王の墓からの出土品にも描かれている。三脚の特色を持つ三脚巴やその派生の三つ巴は非常に広範に見られる意匠である。

八咫烏 - Wikipediaより引用



原作小説では、カラスの存在について幾つか言及されています。
原作において、このカラスは世界Cの一行瑠璃が世界Bのカタガキナオミを、更には世界Aの堅書直実を助けるために送られたもの。
世界Bから送られたカタガキナオミのアバターのように、世界Cから送られた一行瑠璃のアバターのようなものなのでしょう。
このことからも、この世界が上記に記載している図②の構図であることを意味します。

また三本足が朝昼夕の光を表すことから、一日の終わり、そして新たな一日の幕開けを暗示するものであるとも考えられます。



終わりに

如何でしたでしょうか。
自分で言うのもなんですが、原作を読み終えたということもあって時間が掛かった割には穴だらけの考察になってしまいましたね(笑)

しかし、この映画「HELLO WORLD」は‪既視感のある設定は多く手放しで褒められるものでもはないが、それに伴う考察の余地が広く鑑賞後も楽しめる意欲作。‬
良い映画だったと思います。
所謂"セカイ系SF"って面白いですね!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました!



(C)2019「HELLO WORLD」製作委員会

鏡像と鏡の法則(「アス」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回はジョーダン・ピール監督最新作「アス」について語っております。

※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Us
製作年:2019年
製作国:アメリ
配給:東宝東和
上映時間:116分
映倫区分:R15+


解説

ゲット・アウト」がアカデミー賞にノミネートされ、脚本賞を受賞するなど大きな話題を集めたジョーダン・ピール監督が、自分たちとそっくりの謎の存在と対峙する一家の恐怖を描いたサスペンススリラー。夫のゲイブ、娘のゾーラ、息子のジェイソンとともに夏休みを過ごすため、幼少期に住んでいたカリフォルニア州サンタクルーズの家を訪れたアデレードは、不気味な偶然に見舞われたことで過去のトラウマがフラッシュバックするようになってしまう。そして、家族の身に何か恐ろしいことが起こるという妄想を次第に強めていく彼女の前に、自分たちとそっくりな“わたしたち”が現れ……。「ゲット・アウト」に続き、数々のホラー/スリラー作品を大ヒットさせてきたジェイソン・ブラムが製作。主演には「それでも夜は明ける」でアカデミー助演女優賞を受賞し、「ブラックパンサー」などで活躍するルピタ・ニョンゴを迎えた。
アス : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



ジョーダン・ピール監督

前作「ゲット・アウト」でもその才能の真価を発揮したJ・ピール監督。



彼の作品には、黒人差別やその歴史がテーマとして暗喩されています。
ゲット・アウト」では黒人差別の裏をつく奴隷制度や人身売買がテーマでした。
ゲット・アウト」の記事にも記載していますが、特に潜在意識にある偏見や差別意識に注目して描かれています。

では、今作「アス」ではどのようなテーマが隠されているのか?
ズバリ、奴隷解放宣言からの公民権運動を経たアファーマティブ・アクション

つまり今作のテーマは、表面化する偏見や差別意識です。



民主主義国家を標榜するアメリカは、1862年奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による人種差別が法律で認められ、一部の州では結婚も禁止する人種差別国家でもあった。

アメリカ合衆国は元々先住民族であるネイティブ・アメリカンが住んでいた土地に、ヨーロッパからの植民者が、奴隷貿易によりアフリカからの黒人奴隷が、そしてアジアからの移民が、多様な民族が溶け合って生きる人種のるつぼと呼ばれています。

キング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行った結果、1964年7月にリンドン・ジョンソン大統領の下で公民権法が制定されました。



それでも人種差別が完全に撤廃されたわけではなく、そこで打たれたひとつの対策が黒人優遇政策(アファーマティブ・アクション)です。

しかし、一部の白人は政府に対して黒人優遇は逆差別だ、つまり白人への差別だとして批判している。
また、それが却って裕福な黒人を豊かにし、貧困の黒人を貧しい状況へと追い詰めていると指摘の声もあります。


そう、アファーマティブ・アクションにおいて今作「アス」の物語では、陽の当たる地上の黒人たちが裕福な黒人、陽の当たらない地下の住人たちが貧困の黒人として暗喩されているんですね。

地上の住人たちと地下の住人たちは互いに対称的な立ち位置、言わば鏡像のような構図となっています。
これはアデレードの複製人間であるレッドが語っていた内容からも察することができます。

アデレードが豊かな暮らしを送れば、レッドが貧しい暮らしを強いられる。
裕福な黒人を豊かにし、貧困の黒人を貧しい状況へと追い詰めているというアファーマティブ・アクションの指摘そのものです。


ちなみに、そのテザードが暮らしていた地下へのエレベーターが下向きのものしか用意されていないというのも、貧富の差は埋まらないということを示唆するものだろう。



その地下の住人たち、複製人間であるテザードの代表でもあるレッドのセリフにこうありました。
「私たちはアメリカ人」

そうです、タイトル「Us」は United States とも考えられるのです。

テザードも同じアメリカ人であり、その状況を作ったのもアメリカ人なのだ。
人種差別とその皮肉、これが今作「アス」に込められた思いでもあるように感じました。


これが"Hands Across America"とも繋がります。

1985年に飢餓に苦しむアフリカに救いの手を差し延べようと、全米のトップ・アーチストが一堂に集結し行われた歴史的イベント"We Are The World"の流れを受けて、翌86年にアメリカ行われた"大西洋から太平洋までアメリカを横断して一列に手を繋ぐ"という前代未聞の大チャリティーイベントが"Hands Across America"です。

アデレードが幼少期に着た"スリラー"のマイケル・ジャクソンUSAフォー・アフリカのメンバーとして参加してますね。




「アス」の象徴でもある手を繋ぐ棒人間や、エンドロール直前のラストカットがこの"Hands Across America"です。



これは、陽の当たらない地下の住人たちにも陽の光を、という地下の住人たちの思いの反映。



幼少期に元々地下の住人であったレッドが、地上の住人であったアデレードと入れ替わり、アデレードとして生きてきた。
そして、ラストにそのアデレードとして生きてきたレッドが生き残るという物語は、痛烈にアメリカそのものを批判した皮肉なんですよ。



また、この映画の幕切れは事件の根本的な解決には至っていない。
なんともモヤモヤした気持ちのままで終わりますよね?
これは、白人主義であり、移民の受け入れを拒否する現トランプ政権の批判でもあると思います。



エレミヤ書

何度も登場したので言及するまでもないんですが、今作は聖書のある一節に準えられています。


エレミヤ書11章11節
それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれからのがれることはできない。彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない。


遊園地でプラカードを持って立っていた不気味な男。
そのプラカードに書かれていた文字がこの"エレミヤ書11章11節"
彼は初の犠牲者でもあります。



ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂天井画のエレミア。

エレミヤは旧約聖書の『エレミヤ書』に登場する古代ユダヤ預言者
旧約聖書のうち『エレミヤ書』と並んで、『哀歌』もエレミヤの作とされている。『エレミヤ書』は『イザヤ書』『エゼキエル書』とならんで3大預言書のひとつとされ、旧約時代の預言者のなかでも、重要視される人物の一人である。

エレミヤ - Wikipediaより引用


"エレミヤ書"は、神ヤハウェに従わないイスラエル国民がバビロンによって滅ぼされる事をエレミヤが預言する内容。
イスラエル国民にとっては望ましい話ではなかったため、エレミヤは酷い仕打ちを受け、最終的にはエルサレムの宮殿は焼かれて民はバビロンへ捕囚にされる。



聖書の中でも11章11節のこの一節はとんでもない内容の言葉なんです。

祈りを聞かないという断言は、実はすぐ後14節にも出てきます。
エレミヤ書においては祈りを聞かないという内容が何回か登場するんですよね。

私たちは、すべての祈りを神である主が聞いてくださると思っています。
祈りの答えがないときでも、主が聞いておられないと感じることがあっても、ただ私たちが考える方法のように主がお応えになっていないだけで祈りはすばらしい神の子どもの特権です。

※自分は無神論者です(笑)


しかし、祈りは聞かれないことがあります。
それは「主の言われる事を全く聞かない人の祈りは聞かない」という原則があるからです。

これ、ご存知でしたか?
正確には、"主の言われる事を聞かない"とは罪を犯した者たちの言葉という意味を持ちます。
まさに現実主義と言いますか、等価交換制度なんですよ、神への祈りって(笑)

赦しを請うことと祈りを捧げることはキッパリと割り切っているんですよ。



例えば、箴言1章28節にこうあります。
「そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。」
"ことごとく侮る"とは、謀反、陰謀、故意の罪のことです。

また、イザヤ書1章15節では「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。 」
"手が血まみれ"、つまり流血の罪ということです。

そして新約聖書マタイの福音書7章22節では「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
やはりここでも"不法をなす"ことが、彼らの叫びを聞かない理由としています。



罪を犯した者とは、テザードを地下に閉じ込めた地上の住人たちのこと。
彼らがどれだけ神に祈ろうとも、その祈りは決して届かない。
エレミヤをアデレード、バビロンをレッドに置き換え、制裁を下すのは私たち(Us)であり、彼女らの武器が左右対称なハサミであることも興味深い。



次に、印象的なのがウサギの存在です。



「ウィッチ」にも記載していますが、聖書によるとウサギは穢れたものとされています。

レビ記11章6節
「野うさぎ、これは反芻するけれどもひづめが割れていないから、あなたがたには穢れたものである。」

つまり、食べてはいけない生き物なんですね。
しかし一方で、イースターという祭りではウサギは聖なる生き物として扱われます。
ウサギは1年に何度も出産することから生命と関わりがあるとされ、豊穣のシンボルとされています。

この善悪の二面性はこの作品のテーマとも一致するのではないでしょうか。



鏡の持つ二つの意味

何度も劇中に登場する鏡の演出
これは自分と自分の分身であるテザードの二重性や二面性を表すものですが、そこには対称性や対照性の意味合いも含まれます。

冒頭でも記載した通り、地上の住人たちが裕福な暮らしをすれば地下の住人たちは貧困の暮らしを強いられる。


アデレードは家族に対して言葉で支持をしたり、主導権を握るシーンが多く映されていたが、ビーチでは"無口"だと言ったり昔の出来事を話せずにいる。
一方で、アデレードのテザードであるレッドは言葉を上手く発することが出来ないがよく喋る。
夫ゲイブは子供の使う汚い言葉を指摘する非暴力主義の優しい夫。
そのテザードであるアブラハムは非常に暴力的。
娘ゾーラは走ることが得意であるにも関わらずビーチでは座り込むし、車の運転をしたがる。
テザードであるアンブラは足の速さに絶対的な自信を持っている。




襲撃された時の立ち位置が左右対称なのもこの対照性を強調しており、テザードを自分の鏡像として見せているんです。

その自分の分身でもあるテザードを殺して生き延びようとする自分自身の姿は、過去に社会で"自分"を押し殺して生き延びようとする黒人の姿そのものではないだろうか。



地上の住人たちとテザードたちは地表を境に鏡像のように行動を取っていました。
地上と地下の境界線である地表が鏡の役割を担っていたことになります。
他のテザードたちは地上へ出て、内面的な対照性は見られるものの、その行動の対称性を無くしている。

一方で、息子ジェイソンとプルートとの関係に注目したい。
確かに、ジェイソンはお面が好きなのに顔を隠さないし、火のつかないマジック用ライターで遊ぶ。
テザードであるプルートはマスクで顔を覆い隠し、火を好む。といった内面的な対照性は見られます。
が、同時に唯一行動における対称性も見られること。



何故ジェイソンとプルートだけが対称性を失わなかったのか?

考えられることは、2人は未だに鏡を通して向き合っているから。
鏡の前に立った時、離れれば離れるほど、鏡に映った自分自身も離れていきます。
近づけば鏡の中の自分自身も近づきます。
これは当たり前のことなんですが、他の家族は鏡から離れて見えないところまで移動(地上に出る)してしまったために、行動の対称性を失った。
しかし、ジェイソンはプルートと鏡を挟んで近い立ち位置にいたので未だに鏡の前に居るように行動での対称性の関係が持続していた?
もしくは、ある共通点から互いに引き合って鏡の前から離れられていなかった?

例えば火のつかないマジック用ライターにしても、ジェイソンは本当は火への興味があり、そこを自制心で押さえ込んでいたとしたら?
だからこそ、マジックでライターごと消えたように見せてその欲求を隠しているのでは?
本来は対照的であるはずが、プルートの"火を好む"というジェイソンとの共通点が写し鏡のように2人の感情を同化し、2人の距離を近づけたとも考えられます。



ジェイソンがマスクを被ること = プルートと同化すること
こう考えると、ラスト前のジェイソンの気持ちも見えてくるんですよね。

母親であるアデレードが実はテザードのレッドであるという秘密を隠すことに同意した。
これは自身もテザードの血を引くという立場を理解したとも受け取れる。
だから車内でマスクを被って顔を隠し、母親を見つめていたのではないだろうか。

一方で、ジェイソンだけがその真実に気付いている、もしくは知ってしまったことが非常に重要であり
これは裕福な人間が貧困の人間たちを見て見ぬふりをする、貧困問題から目を背けていることを暗示していると思われます。



ところで、"鏡の法則"をご存知でしょうか?
私たちの人生は、私たちの心の中を映し出す鏡であるという法則です。
つまり、自分の人生に起こる問題の原因は、すべて自分自身の中にあるという考え方ですね。

例えば、鏡を見た時に髪が乱れていたとします。
鏡の中に手を突っ込んで髪を直すことはできませんよね?
髪を直すには、自分自身の髪を直すしかないんです。
しかし現実には、鏡の中の髪を直そうと必死に頑張る人が多い。

つまり、現状を打開するためには自分が変わらなければならない
自分が変わらなければならない…そうなんです、(相手と)自分が(入れ)替わるしかない
という歪んだ恐ろしい考え方も見えてきます。

これは自身の内面に潜んだアデレード(レッド)の暴力性を表面化しているんです。
言い換えれば、アデレードとレッドは写し鏡のようなものと言えます。

鏡というものは地上の住人たちとテザードのように対称を意味する一方で、ジェイソンとプルートやアデレードとレッドのように自己投影という意味合いも持つんです。



他の細かな演出では、劇中で時計が11時11分を指していましたが、もうひとつの意味として家族4人の立ち姿も1111の数字を暗喩し、エレミヤ書へ印象付ける演出がされています。



また、友人のキティの娘は双子でシンメトリーを。
キティの名前は"キティ・ジェノヴィーズ事件"から取られたものだとすると面白い。

キティ・ジェノヴィーズ事件(Murder of Kitty Genovese)とは1964年3月13日、アメリカニューヨーク州クイーンズ郡キュー・ガーデン地区で発生した殺人事件である。この地区に住むキティ(Kitty)ことキャスリーン・ジェノヴィーズ(Catherine Genovese)が帰宅途中であるキューガーデン駅の近くで暴漢ウィンストン・モースリー(Winston Moseley)に殺害された。ニューヨーク・タイムズは、彼女は大声で助けを求めたが、近所の住人は誰ひとり警察に通報しなかったと報じた。この事件がきっかけとなり、傍観者効果が提唱された。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キティ・ジェノヴィーズ事件:title より引用

傍観者効果(ぼうかんしゃこうか,英:bystander effect)とは、社会心理学の用語であり、集団心理の一つ。ある事件に対して、自分以外に傍観者がいる時に率先して行動を起こさない心理である。傍観者が多いほど、その効果は高い。
傍観者効果 - Wikipediaより引用


この事件で注目された傍観者効果は、富裕層が貧困層を見て見ぬふりするといった意味合いにも近い気がします。



このように鏡像のような対称性、対照性の見せ方、写し鏡の自己投影、そして至る所で黒人の歴史、格差社会を匂わせる。
こういったメタ的な構造と演出の一貫性はJ・ピールの天才的な感性だと思いますね。



終わりに

余談なのですが、各テザードの名前の由来についても考えてたんですが
夫ゲイブのテザード、アブラハムは聖書の中に登場する信仰の父アブラハム
娘ゾーラのテザード、アンブラは競走馬アンブライドルド
息子ジェイソンのテザード、プルートはディズニーの犬。
辺りでしょうか?

なんかしっくり来ないので考察からは外しました(笑)



今作「アス」は前作「ゲット・アウト」よりも演出力が凄かったですね。
強いて言及しておきたいのが、アデレードとレッドの戦いが終わり、"実はアデレードはレッドでした!"なネタ明かしの映像が流れてラストの車内からHands Across Americaのカットに入りますよね?

あの"実はアデレードはレッドでした!"の映像、要ります!?
正直なところ、それまでの流れやジェイソンの表情で全て察することができるのに、わざわざ映像で見せる必要性はなく、野暮だなあと思いました。
そこはもう少し観客を信じて委ねても良かったんじゃないでしょうか。

とはいえ、J・ピール監督は流石といったところ。
これからも追いかけていこうかと思っております。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました!




(C)2018 Universal Studios All Rights Reserved.

犬の目に映る社会の縮図(「ドッグマン」ネタバレあり感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
久しぶりの更新ですみません。
映画は観ていたのですが、なかなか記事にしようという気になれずにダラダラと過ごしていました(笑)

ということで、今後もマイペースに更新来ていきますので、よろしくお願いいたします。
えー、今回は「ドッグマン」について語っています。
ミニシアター案件にしては結構お客さんも入っていた印象ですね。

※この記事はネタバレを含みます、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Dogman
製作年:2018年
製作国:イタリア・フランス合作
配給:キノフィルムズ
上映時間:103分
映倫区分:PG12


解説

ゴモラ」などで知られるイタリアの鬼才マッテオ・ガローネ監督が、1980年代にイタリアで起こった実在の殺人事件をモチーフに描いた不条理ドラマ。イタリアのさびれた海辺の町。娘と犬を愛する温厚で小心者の男マルチェロは、「ドッグマン」という犬のトリミングサロンを経営している。気のおけない仲間たちと食事やサッカーを楽しむマルチェロだったが、その一方で暴力的な友人シモーネに利用され、従属的な関係から抜け出せずにいた。そんなある日、シモーネから持ちかけられた儲け話を断りきれず片棒を担ぐ羽目になったマルチェロは、その代償として仲間たちの信用とサロンの顧客を失ってしまう。娘とも自由に会えなくなったマルチェロは、平穏だった日常を取り戻すべくある行動に出る。主演のマルチェロ・フォンテが第71回カンヌ国際映画祭で主演男優賞を獲得したほか、イタリア版アカデミー賞と言われるダビッド・ディ・ドナテッロ賞で作品賞・監督賞など9部門を受賞した。
ドッグマン : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



ドッグマン

ナポリで実際にあった出来事を基に犯罪社会の実相をドキュメンタリータッチに描いた『ゴモラ』で注目を集めたマッテオ・ガローネ監督が今回手掛けたのも実話ベースの『ドッグマン』。


マッテオ・ガローネ(Matteo Garrone, 1968年10月15日 - )は、イタリアの映画監督、映画プロデューサー、脚本家である。

ゴモラ』により、ヨーロッパ映画賞ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞した。
2012年には『リアリティー』が第65回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映され、2度目となる審査員特別グランプリ受賞を果たした。

マッテオ・ガローネ - Wikipediaより引用



平穏に暮らしていた犬を愛する男が、なぜ殺人を犯さなければいけなかったのか?
その命題に誰にでも起こりそうな人間関係を当て、その人間関係の中での葛藤や不満、不信感が彼を絶望の淵に立たせています。

この映画はノンフィクションでもドキュメンタリーでもなく、現実に起きた陰湿な事件から着想を得た不条理な物語を社会の縮図として魅せる寓話である。


トリマーの観点から見た物語

ペットの躾は大きく2つに分けることができます。
それは課題行動問題行動

課題行動とは、人間と生活を共にする上でどうしても必要となる行動のことです。
例えば、お手やお座り、食事等による待てなど。

問題行動とは、飼い主が犬にやってほしくない行動のことです。
例えば、無駄吠えや噛み癖など。

こちらの問題行動が厄介なのは、習慣づいてしまった容認できない問題のある行動なので、修正が難しいこと。



犬という生き物は人に従順な生き物であり、愛情を持って接すればそれだけ愛を持って応えてくれる。
冒頭で、トリミングサロン『ドッグマン』を営む主人公マルチェロが今にも噛みつきそうな獰猛な犬に対して諦めず愛情を持って接すると犬もそれに応えています。
これは人と人との関係でも言えることで。
実際、飼い犬に吠えられたり、噛みつかれたりと全然言うことを聞かない状態も見受けられますが、これは犬が人間よりも上だという上下関係の認識と言われています。

この物語の主軸が問題行動を持つ相手をどう落ち着かせるか、"躾の話"だということが見て取れる。
この"躾"が物語の効果的な仕組みとなっているんです。



所謂「俺のモノは俺のモノ、お前のモノも俺のモノ」といったジャイアニズム精神を持つシモーネの暴力的支配であり、マルチェロはそのお零れを貰う立場。
しかし、その対価は真っ当なものではなく、マルチェロは周りに被害が及ばないようにシモーネに従う。
またマルチェロ自身もシモーネからのお零れに悪い気がしていない。
そんな2人の関係には愛はなく、いつ破綻してもおかしくないアンバランスさを含む。

『ドッグマン』におけるマルチェロとその友人シモーネの関係はその曖昧な上下関係にあり、搾取する側とされる側の服属的な関係はある種の共依存と損得勘定が窺える。
つまり、犬を愛するマルチェロがまるで飼い主に尻尾を振る飼い犬のように描かれているんです。



ある晩、強盗に入った家でシモーネに冷凍庫に入れられた犬を救うシーンでもマルチェロは犬に対する愛情を見せる。
凍った犬同様にシモーネの心も解きほぐせるものではなく、外部との関係を上下関係、隷属関係でしか見ていないシモーネの心は固く閉ざされたまま。
言葉の通じるはずの人間が言葉の通じない犬よりも厄介であることを示す。


搾取され続ける日々の中で、大きな転機がやってくる。
犬が飼い主に噛みつく瞬間だ。
『ドッグマン』の隣に店を構える金の交換所にシモーネが強盗に入る。
ここで、マルチェロはシモーネを庇い一年の投獄。
出所後、豪華なバイクに乗るシモーネの姿を見たマルチェロは見返りのない搾取に苛立ちを隠せないでいる。


娘との旅行のシーンを見てもそうだ。
娘を愛するマルチェロが海中での息苦しさのあまり娘の手を離してひとり海面へと上がる描写は、そんな閉塞的な立場にある心理描写を的確に表現している。



警察も友人も頼れないマルチェロが取った行動は冒頭でのトリミングサロンでの出来事と重なる。
狂犬シモーネを麻薬という餌で釣り、手なずけようとすること。

そう、ここで凶暴な犬であるシモーネを躾けるマルチェロという冒頭の2人の関係とは逆の構図となるわけです。

どんな犬でも手なずけコンテストで入賞するほどの腕を持つマルチェロのトリマーという職業との対比が面白い。



犬の観点から見た物語

この物語を終始見ていたのはマルチェロの飼い犬たち。

犬は嗅覚、聴覚ともに人間より敏感な器官を持っていますが、実は人間より視力は低いと言われています。
犬の目に映っている世界は、私たち人間が見ている世界と全く別物なんです。

犬の視力は平均して0.2~0.3程度。
一方で、犬は狩りをしてきた生き物なので広い視野を持っています。
人間が見渡せる視野が180度なのに対し、犬の視野は250~270度と広範囲の視野を見渡すことができ、優れた動体視力を持っているので静止している物体よりも動きのある物体を捉えることが得意です。
また、犬はもともと夜行性の動物なので暗闇の中での認識力は高く、人間の約5倍は見えていると言われています。



そんな飼い犬たちの目に映るシモーネに飼われる犬のようなマルチェロの姿はどう見えたのだろうか。
トリミングサロン『ドッグマン』でシモーネを檻に入れ、縛り上げ、復讐を遂げたマルチェロの姿はどこか動物虐待問題を仄めかしているようにも見える。


周りの友人の信頼を損ないシモーネをも失ったマルチェロは、家畜が野生化するという共同生活からの逸脱、人間でいうところの同調圧力や仲間意識から離れる孤立の選択であり、動物的退化の皮肉を示す。
現に、犬は分子系統学的研究では1万5千年以上前にオオカミから分化したと推定されているように、マルチェロもシモーネに飼われる犬から野生の一匹狼へと状況が変化している。

加えて言うと、マルチェロの人生は他人事ではない社会の縮図として不条理に描き出しており、それを終始眺めていたのが飼い犬たちであるという第三者目線での人間たちの滑稽さも浮き彫りとなる。



どれだけ暴力で支配できても、幸せは手に入らない。
そして、暴力で解決しようとしても、幸せは手に入らない。
生き残ったものが勝者で、暴力に屈する弱者が負け犬であるとする価値観が根強い中、その価値観に縛られない逆説的な応援と皮肉
弱い犬ほどよく吠える、負け犬の遠吠えという意味を改めて突きつけるものだ。



終わりに

よく感想に挙げられている"ジャイアンのび太"もしくは"ジャイアンスネ夫"的な構図ではありますが、それはあくまでも触りだけです。

小さな町での人間関係、トリマーという職業、人間と犬、それらを巧みに扱った小さな世界を垣間見た気がしますね。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。


(C)2018 Archimede srl - Le Pacte sas

西部劇のアンチテーゼ(「ゴールデン・リバー」ネタバレあり考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は先日観てきました「ゴールデン・リバー」について語っています。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Sisters Brothers
製作年:2018年
製作国:アメリカ・フランス・ルーマニア・スペイン合作
配給:ギャガ
上映時間:120分
映倫区分:PG12


解説

ディーパンの闘い」「君と歩く世界」「真夜中のピアニスト」などで知られるフランスの名匠ジャック・オーディアール監督が初めて手がけた英語劇で、ジョン・C・ライリーホアキン・フェニックスジェイク・ギレンホールリズ・アーメッドという豪華キャストを迎えて描いた西部劇サスペンス。2018年・第75回ベネチア国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞した。ゴールドラッシュに沸く1851年、最強と呼ばれる殺し屋兄弟の兄イーライと弟チャーリーは、政府からの内密の依頼を受けて、黄金を探す化学式を発見したという化学者を追うことになる。政府との連絡係を務める男とともに化学者を追う兄弟だったが、ともに黄金に魅せられた男たちは、成り行きから手を組むことに。しかし、本来は組むはずのなかった4人が行動をともにしたことから、それぞれの思惑が交錯し、疑惑や友情などさまざまな感情が入り乱れていく。
ゴールデン・リバー : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編




ゴールドラッシュ


1851年、ゴールドラッシュに湧くアメリカで金の採掘で夢を追う男達の物語。

ゴールドラッシュ(英語: gold rush)とは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することである。特に、1848年ごろにアメリカ合衆国のカリフォルニアで起きたカリフォルニア・ゴールドラッシュを指す。
ゴールドラッシュ - Wikipediaより引用


長い年月を経ても変化しない金の性質は神秘性を産み、不老不死との関連としても研究された。
金を生み出す錬金術、不老不死を目的とされた賢者の石。

このように切っても切れない人の欲との関係を露わにしてきました。





さて、本題に入りますが
ウォームが使用した"預言者の薬"とは一体何なのか?


金は、標準酸化還元電位に基くイオン化傾向は全金属中で最小であり、反応性が低い。
要約すると、金属の中でも非常に化学反応しにくい物質なんです。

劇中では薬剤を川に混ぜると、水中の金が化学反応を起こし輝いて見える。



金の製錬のひとつに、"青化法"といったシアン化合物(有毒物質)を使用する方法があります。
恐らくはこれです。

青化法(せいかほう)とは、金を水溶性の錯体に変化させることによって、低品位の金鉱石から金を浸出させる湿式製錬技術である。シアン化法とも言う他、開発者の名を取ってマッカーサー・フォレスト法(MacArthur-Forrest process)とも呼ばれる。
青化法 - Wikipediaより引用


シアン化合物水溶液(シアン化合物を溶かした川の水)に金を溶かすことで浮かび上がらせ回収する方法です。



シアン化合物とは、推理小説などで殺人を犯す際の薬物として使用される青酸カリなどが挙げられます。
青酸カリとはシアン化カリウムの通称で、経口致死量は成人の場合150〜300mgと推定され、水に溶けやすい。
遷移金属と反応して水に可溶なシアノ錯塩を形成する性質を持ち、この反応により銀や銅の錆落としに使用することができます。

僕の好きな漫画「名探偵コナン」でも何度か登場し、十円玉をピカピカにするシーンも演出されています。



経口致死とは別に、皮膚から吸収することによっても中毒を起こします。
今作「ゴールデン・リバー」で"預言者の薬"を浴びたチャーリー、モリス、ウォームの皮膚が焼け爛れたのも、細胞死を招いたものと考えられる。

また、川に撒いた薬物で川魚の死骸が浮いていたことからも、"預言者の薬"が水生生物への毒性が非常に強いシアン化合物であると推測される。



つまり、劇中の"預言者の薬"は錬金術ではなく単なる冶金術であり、非現実的な魔法のようなものでもなんでもなく非常に現実的な手法なんです。



西部劇のアンチテーゼ

まずはTwitterに上げた感想から。



ということで、今作は西部劇という形を取りながらも対比的な人物相関図と西部劇のアンチテーゼが劇中に散りばめられています。




シスターズ兄弟の兄イーライと弟チャーリーは正反対の性格。


シスターズ兄弟と真逆の価値観を持つウォームの存在。


ウォームと利害の一致で行動を共にするモリス。



イーライはチャーリーに殺し屋を辞めて一緒に店を出そうと持ちかけました。
結果、口論となったがイーライはこの時点で西部劇からの脱却を図る。
しかし、チャーリーのことが心配でその意向は保留とされる。

イーライがチャーリーを見守る理由はウォームとの会話で明かされますが、父親との確執はモリスとも重なる。
そしてウォームに影響され、協力関係になっていく双方。

このように各々の人物がそれぞれ対比的な立場でありながら、共通する立場を選ぶ



モリスの発言、"弾切れの銃のような人生"
連絡係として仕事をしてきたモリスが、ウォームと出会い理想社会を目指すその時のセリフで語られました。

これは非常に直接的な表現です。
弾切れとは西部劇においては死に直結します。
西部劇として生きてきた自分を殺し、そこに"理想社会"という現状況から逸脱した夢の社会形態を求めるという二重構造となっています。
つまり、この時点でモリスとウォームは西部劇から脱したことが明確に劇中で示される。





次に、喪失したものたち。
劇中で失ったものたちからも西部劇のアンチテーゼが見受けられる。


まずは、イーライの馬。
西部劇には欠かせない足である馬を亡くす。
ここで実質、イーライの西部劇からの事実上の退場を意味する。

西部劇において馬泥棒は即絞首刑と相場は決まっていました。
馬を盗み、用がすめば肉にして食べてしまえば犯人を捜し出すのは困難。
よって馬泥棒は縛り首にし、馬肉の売買を禁止したそうです。
馬を失うことは即ち死を意味するんです。


チャーリーの右腕。
欲に目が眩み、川に預言者の薬を流し込もうとした際に誤って零してしまったチャーリー。
彼は右利きであり、乗馬、銃の発射、弾の装填など、西部劇としての重要な所作に支障をきたしていることから、物理的な西部劇からの強制退場が描かれる。

また、"右腕"には懐刀という意味があります。
絶対的な権力を持っていた提督から殺し屋として評価されていたチャーリーがその立場を失ったことのメタファーでもある。


提督の死。
イーライとチャーリーに司令を送る上官。
彼の死によってシスターズ兄弟が殺し屋である理由がなくなる。

また、金は新約聖書において、東方の三博士からの贈り物のひとつとして知られています。
これは"王権の象徴"とされ、権力を手にする、価値のあるものを意味します。
金を手にすることで、チャーリーは提督の後釜を狙ったという脚本にも沿う。


母親のセリフ。
シスターズ兄弟が帰郷した際に、母親が呟いた言葉「何か無くしたようだね」。
勿論、これはチャーリーの右腕のことであるが、それをわざわざ強調したことから、ダブルミーニングとして殺し屋としての仕事も指す。
つまり、このセリフからも、シスターズ兄弟が西部劇から脱却したことを意味する。

また、西部劇のラストには相応しくない"平和への帰郷"
理想社会を求めたウォームとモリス。
チャーリーの暴力を制止するイーライ。
理想社会を求めたウォームとモリスが平和を掴み取れず、暴力で解決するシスターズ兄弟がそれを制した。



感想

この作品は原題からも察する通り、兄弟愛の物語です。
兄弟愛は西部劇によく使われるモチーフであり、例えば暴力の連鎖、その過程を描くのに活きる設定のひとつ。
「ゴールデン・リバー」では、正にその暴力の連鎖からの脱却、西部劇のアンチテーゼを見事に描き切ったわけですが。


今作の目的は、ウォームが目的とする金の採掘であり、4人の男がそこに収束していく。
中でもイーライの価値観が中心である。
そこに社会主義の前進とも取れるウォームという人物を通して表現され、そのイーライの価値観そのものに変化を齎した。

大枠は勿論西部劇であるが、そこに脱西部劇的要素を盛り込むことで、西部劇であって西部劇ではない異色の一風変わった物語へと昇華している



この映画は安易に非暴力を謳うものではなく、従来の西部劇で描いてきた暴力の連鎖からの脱却、つまりは変化を起こすこと。
その変化が齎す"平和への帰郷"を掬い上げる術が"暴力"に頼ったものというのも意義深い。


金欲、暴力、権力に家族の確執など、現代に通ずる問題も描かれており、ラストは新たな人生の始まりを匂わすような希望を見させてくれる。

錬金術というまやかし、金欲に溺れ、代償を払いながらも、彼らは金に相当する価値のあるモノを手に入れたのだろう。



終わりに

邦題のせいもあって一般的にあまり評価は芳しくないようですが、個人的には兄弟のロードムービーとして楽しめた作品でしたね。


なんと言っても豪華キャストが良い。
ジョン・C・ライリーホアキン・フェニックスジェイク・ギレンホールリズ・アーメッド
なかなか見られる共演ではないので、その点に関しても必見ですね。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2018 Annapurna Productions, LLC. and Why Not Productions. All Rights Reserved.

「神と共に 第二章:因と縁」ネタバレあり感想

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は下半期映画鑑賞初日ということで、ずっと楽しみに待っていた「神と共に 第二章:因と縁」を観てきました。

いやー。
面白かった!!!

ということで、ダラダラと思ったことを書き綴ってます。



この記事は前編「神と共に 第一章:罪と罰」及び後編である今作のネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Along with the Gods: The Last 49 Days
製作年:2018年
製作国:韓国
配給:ツイン
上映時間:141分
映倫区分:G


解説

韓国の人気ウェブコミックを実写映画化し、世界的ヒットを記録したファンタジーアクション2部作の第2章。1000年間で48人の死者を転生させた冥界の使者ヘウォンメクとドクチュン、カンニムは、あと1人を転生させれば自分たちも新しい生を得ることができる。カンニムは怨霊だったジャホンの弟スホンを、最後の裁判を受ける貴人に決める。本来なら怨霊は消滅させなければならないが、閻魔大王はある条件と引き換えにカンニムの提案を受け入れる。その条件は、ソンジュ神に守られて冥界からの使者をことごとく追い払ってしまう老人チュンサムを冥界に連れてくること。下界に降りた彼らは、ソンジュ神から驚くべき真実を知らされる。カンニムを「お嬢さん」のハ・ジョンウ、ヘウォンメクを「アシュラ」のチュ・ジフンが演じる。共演に「新感染 ファイナル・エクスプレス」のマ・ドンソク、「新しき世界」のイ・ジョンジェ。「ミスターGO!」のキム・ヨンファ監督がメガホンを取る。
神と共に 第二章 因と縁 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



因と縁

こちらが前作のネタバレ感想記事になります。


今作も本編上映前に丁寧にも前作のおさらいが流れます。



さて、早速本題に入っていきますが
今作のサブタイトルは"因と縁"

まさにその通りでした。
前作は、この物語の始まりに過ぎなかった。
今作こそが、この物語の本編であり、終わりだったのです。

今作は前作に比べアクションは少なめ。
その人物描写に特化し、前作とは異なった色を放つ。



前作の主人公キム・ジャホンの弟キム・スホン。
彼の無念の死の秘密は前作で下界を調査したカンニムしか知りません。
前作のラストでスホンは"貴人"に認定されます。

物語の大筋はスホンを生まれ変わらせ、千年で累計49人の生まれ変わりを達成した使者3人が生まれ変わることができる。というもの。

今回の裁判は7つではなく、スホンが過失致死によるものではなく無念の死であることを証明し、貴人として生まれ変わらせる裁判。
つまり、そのスホンの死に関わる裁判しか行われません。
怨霊になった不義の罪と同僚を襲った暴力の罪。

天倫地獄の閻魔大王が出したこの裁判を行う条件が、スホンの裁判が終わる49日以内に下界で使者を尽く追い払うソンジュ(屋敷神)に守られている寿命を迎えてたホ・チュンサムを冥界に連れてくること。


そうです、前作のエンドクレジットでも流れた
我らがマ・ドンソクの登場です!

ヘウォンメクとの超高速バトル…何を見せられているんだ?(笑)


ソンジュはヘウォンメクとドクチュンの2人を冥界に連れてきた使者
つまり、千年前には既に使者であり、大先輩。
ヘウォンメクとドクチュンの過去を知る人物。

マ・ドンソクがおじいちゃんの孫ヒョンドンを守るために現身してるってだけでも可愛くて笑っちゃうのに、一番笑ったのが人糞を触ると力が抜ける設定。
顔が濡れて力が出ないアン〇ンマンかよ(笑)


ソンジュとの邂逅で、使者たちの過去の秘密が次々と明かされていきます。



千年前

スホンの死の秘密は前作で描かれており、下界の出来事は千年前の出来事を想起させるきっかけとなっています。
従って、メインストーリーでもある千年前の出来事を中心に確認していきます。



時は千年前に遡る。
使者たちの生前は"高麗"の時代。

高麗(こうらい、ハングル:고려;[koɾjʌ]、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。
高麗 - Wikipediaより引用


高麗時代、契丹と高麗は対立。
933年、契丹の高麗侵攻は、当時中国大陸の北部を支配していた契丹によって5度にわたり行われた今の朝鮮半島にあった高麗王朝への侵攻のことです。
1010年、契丹は再び高麗へ侵攻し、開城を占領。
撤退した契丹は高麗と1019年に講和を結び平穏な状態に戻り、高麗は契丹朝貢する。

また、江東6州と呼ばれる場所は元々、女真族の居住地でした。
契丹の高麗侵攻により高麗は宋とは断交し、契丹朝貢することになる。
高麗と契丹の間に女真がいるのが障害だと、江東6州を高麗の領土とすることを認めてもらい、高麗はこの地域に住んでいた女真を征服して城を築きました。



ここからは冥界の使者3人の過去を辿ります。

カンニムの出来事
ヘウォンメクとドクチュンの出来事



使者カンニムは高麗の大将軍。


使者ヘウォンメクも高麗の最高の武将。

つまり、カンニムとヘウォンメクは同じ国の武将だったわけですね。
通りで武術に長けており、強いわけです。




ヘウォンメクは山猫の毛皮を首に巻き、女真族から白い山猫と恐れられていた。
高麗の騎馬兵に襲われた村で子供を守った女真族がドクチュン。
親のいない子供たちの親代わりとして隠れ家で暮らす。

カンニム父はカン・ムンジク女真征伐隊長。
敵国である契丹軍にも慈悲を持ち、誰からも尊敬される存在であった。

ムンジクは人道主義、カンニムは原理主義
ここで小さな親子の確執が生まれる。

カンニムの弟は契丹族の少年で、慈悲深いムンジクはその少年を養子に迎え入れた。
弟を可愛がり指導する父に嫉妬する。

ここは下界のヒョンドンを養子に入れるか否かの話から想起させるのですが、史実でも契丹が高麗の兵士になったという話はあります。



ある日、ドクチュンは虎に襲われたところをヘウォンメクに助けられる。
女真族の子供たちを匿う隠れ家へ案内する。

ここのヘウォンメクがかっこよすぎて、もうね。
なんなの!?ってなりましたよね。

女真族との最終決戦。
先鋒を兄であるカンニムではなく弟にすると父が弟に伝える。
カンニムは勝ち戦だが犠牲が出ると先鋒を外され、父親に裏切られた気になってしまう。

二度と南方へ来るなと注意喚起されたドクチュンだが、子供の具合が悪くなり薬草を採りに南方へ行ったところをヘウォンメクに再び助けられる。
ヘウォンメクを北方の辺境の地へ追いやった上官の名前はミロン。

ここで現代のドクチュンが自分の両親は白い山猫(ヘウォンメク)に殺されたことを知る。
この時の2人のギクシャク…まるで倦怠期を迎えたカップルじゃあないかッ!!!



ヘウォンメクはドクチュンの両親を殺した罪悪感から上官ミロンに嘘の報告をし、隠れ家に軍糧を回し、子供たちが自立できるように軍事訓練を行った。
その事がバレてしまい、国に不義を働いた大罪人として部下のトルボとともに獣のエサに。
ドクチュンに知らせるためヘウォンメクはトルボの死体を引きずり二里離れた隠れ家へ。
白い山猫の襟巻をドクチュンにかけ謝罪するヘウォンメク。
ミロンが隠れ家へやって来てヘウォンメクを殺害。

この時のヘウォンメクとドクチュンが抱き合った時の込み上げる想いと言ったら…ねっ!!!

ソンジュの言葉から、ミロンを逆から読むことに気付いたヘウォンメク。
その名前はカンニム。
予想は付いてたけどハングル語は読めない!(笑)

逃げたと思われたドクチュンがカンニムを刺し、カンニムがドクチュンを殺害。
「なぜ泣いているのだ?悲しくて泣いているのか?」
現れた閻魔大王が尋ねる。
カンニムは息絶え、使者となることとなる。


ヘウォンメクはドクチュンの両親を殺し、ドクチュンはヘウォンメクに命を救われ、カンニムはヘウォンメクとドクチュンを殺した。
千年前の3人の因縁が、今在る使者3人の関係を複雑な気持ちにさせます。

スホンの死の理由が前作からの盛大な伏線であり、前作が始まりに過ぎないという言葉を今作を観て真に理解することが出来る。



今作のスホンの裁判は、実は千年間もの月日を掛けた罪を犯したカンニムの裁判でもあったのです。

自分が殺した青年と少女とともに過ごし、49人を生き返らせて、記憶を消して生まれ変わらせる。
これがカンニムの贖罪、永遠に続くような罪悪感とともに許しを求めることができず千年もの時間を2人と過ごしてきたのです。


また、そこで新たな事実が明かされる。
カンニムの父ムンジクは実は戦死ではなく殺され、その事実を隠蔽されていた。
隠蔽したのはカンニムであり、生きている父を見て見ぬふりして見殺しに。
その理由は、いつも自分より優秀な弟に居場所を、名誉と権力を奪われるから。

生きているスホンを見て見ぬふりし、自分の地位と家庭を優先して生き埋めにしたパク中尉の姿をカンニムは自分自身の姿と重ね合わせていたんですね。
ここでも前作からの大きな伏線が回収される快感である。



そしてエンドクレジット。
天倫地獄の閻魔大王は、実はカンニムの父ムンジクだったのです。

えええええ…!?
と言った驚きは特になかったのですが(笑)

カンニムが死んだ時、閻魔大王が現れて「なぜ泣いているのだ?悲しくて泣いているのか?」と投げかけた意味が分かりましたね。

この時、既に閻魔大王はムンジクで
息子に罪を償わせること。
許しを得るきっかけを与えること。
そんな慈悲の心を持ちながら、自ら裁く立場に身を置くことで息子を見守るため。

カンニムの記憶は消さず使者となることを勧め、ソンジュによって冥界に連れてこられたヘウォンメクとドクチュンの2人の記憶を消してカンニムにつけることを担った。
前作に引き続き親子愛の側面も感じられる。



総評

冒頭に記述した通り
面白かった!!!

アクションは少なめですが前作から引き継ぐファンタジーの世界観とヒューマンドラマの畳み掛け。

とはいえ、下界のおじいちゃんと孫に心は揺さぶられることはなく。
何故なら、千年前の話が目立つから(笑)

そして前作に引き続き、法廷劇は前作同様に雑。




予告でも使われたジュラシックパークの件とかも雑。
スホンの恐怖が具現化される地獄鬼、映像としては迫力あるけど、雑(笑)


そうです、今作のキモはスホンの裁判でも下界の任務でもなく、それらはすべてが使者カンニム及びヘウォンメクが生前に犯した罪を掘り起こす媒体に過ぎないのです。
まさに因縁。



スホンの死と使者3人、下界と冥界、現在と過去を交錯させながら2つの事象が混じり合いひとつに収束していく心地良さ、快感。

今回はこれに尽きる。
そんな上手いこと下界の出来事が千年前の出来事と重なるのか?という野暮な疑問は持つな!感じろ!(?)



また、今作で最大限の魅力を出し切ったヘウォンメク。
過去の自分と過去が消された現在の自分、一人二役でを演じたチュ・ジフン
カンニムを演じたハ・ジョンウ、ドクチュンを演じたキム・ヒャンギと異なるところは、過去と現在でのヘウォンメクのキャラクターにある。


カンニムは、過去の記憶もあり、過去と現在とでキャラクターに差ほど変化はない。
ドクチュンは、ヘウォンメク同様に過去の記憶を失ってはいるがソンジュが語ったようにキャラクターは千年前と変わらない。
一方でヘウォンメクは、記憶を消されて過去と現在で完全に別のキャラクターとなっており、尚且つ実際には同じキャラクターであるという難しい役どころ。


一人二役は同じ俳優が2人の人物を演じること。
全くの別物でありながら元は同じであることと、初めから別物であることとでは少しニュアンスが異なる。
ヘウォンメクとドクチュンは過去の自分、失われた記憶を辿るうちに過去の自分を誇らしく思ったり、カンニムや2人の関係性、心情の変化がより大きく見られる。

特にヘウォンメクは、過去の自分に寄せていくというよりも、失われた部分を補完していくといった演技がさり気ない仕草や表情に表れていたと思います。


前作に比べ今作での分量も圧倒的に増え、これまでのヘウォンメクから更に魅力が増し、同時にチュ・ジフンの評価も上がった。

しかし、こうやって反芻すると、ヘウォンメクとドクチュンも使者になる前、ソンジュに冥界に連れてこられて裁判を受けたのかな?
ヘウォンメクの罪はドクチュンの許しで無罪になったのかな?
など、その人物描写の背景を膨らませて考えてしまいますね。



また、誤射事件を起こしてしまい、不義地獄で証人として召喚されて裁判中に死んでしまったウォン・ドンヨンが"貴人"として冥界にやって来てましたが・・・なんだこの循環は(笑)

やるのか?第三章?
やるなら観るぞ?絶対観るぞ?



終わりに

会者定離
出会った者はやがて別れる。

去者必返
去った者は必ず帰ってくる。

罪は罰として裁かれ、因は縁を結ぶ。
過ちや犯した罪、それをどう受け止めどう償うのか。
前作からの人物相関図が巡り巡って繋がりを持つ因縁を描いた「神と共に 第二章:因と縁」、皆さんは如何でしたか?


毎度ながら纏まりのない読みにくい記事で申し訳ありませんが、自分はある程度思ったことは書けたと思います。

本当に冗談抜きで続編が作られるのであれば、観に行きたいと思います!
ってか作ってくれ!!!
超大作アクションファンタジーとして後世に残してほしい映画です。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




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