小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

西部劇のアンチテーゼ(「ゴールデン・リバー」ネタバレあり考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は先日観てきました「ゴールデン・リバー」について語っています。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Sisters Brothers
製作年:2018年
製作国:アメリカ・フランス・ルーマニア・スペイン合作
配給:ギャガ
上映時間:120分
映倫区分:PG12


解説

ディーパンの闘い」「君と歩く世界」「真夜中のピアニスト」などで知られるフランスの名匠ジャック・オーディアール監督が初めて手がけた英語劇で、ジョン・C・ライリーホアキン・フェニックスジェイク・ギレンホールリズ・アーメッドという豪華キャストを迎えて描いた西部劇サスペンス。2018年・第75回ベネチア国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞した。ゴールドラッシュに沸く1851年、最強と呼ばれる殺し屋兄弟の兄イーライと弟チャーリーは、政府からの内密の依頼を受けて、黄金を探す化学式を発見したという化学者を追うことになる。政府との連絡係を務める男とともに化学者を追う兄弟だったが、ともに黄金に魅せられた男たちは、成り行きから手を組むことに。しかし、本来は組むはずのなかった4人が行動をともにしたことから、それぞれの思惑が交錯し、疑惑や友情などさまざまな感情が入り乱れていく。
ゴールデン・リバー : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編




ゴールドラッシュ


1851年、ゴールドラッシュに湧くアメリカで金の採掘で夢を追う男達の物語。

ゴールドラッシュ(英語: gold rush)とは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することである。特に、1848年ごろにアメリカ合衆国のカリフォルニアで起きたカリフォルニア・ゴールドラッシュを指す。
ゴールドラッシュ - Wikipediaより引用


長い年月を経ても変化しない金の性質は神秘性を産み、不老不死との関連としても研究された。
金を生み出す錬金術、不老不死を目的とされた賢者の石。

このように切っても切れない人の欲との関係を露わにしてきました。





さて、本題に入りますが
ウォームが使用した"預言者の薬"とは一体何なのか?


金は、標準酸化還元電位に基くイオン化傾向は全金属中で最小であり、反応性が低い。
要約すると、金属の中でも非常に化学反応しにくい物質なんです。

劇中では薬剤を川に混ぜると、水中の金が化学反応を起こし輝いて見える。



金の製錬のひとつに、"青化法"といったシアン化合物(有毒物質)を使用する方法があります。
恐らくはこれです。

青化法(せいかほう)とは、金を水溶性の錯体に変化させることによって、低品位の金鉱石から金を浸出させる湿式製錬技術である。シアン化法とも言う他、開発者の名を取ってマッカーサー・フォレスト法(MacArthur-Forrest process)とも呼ばれる。
青化法 - Wikipediaより引用


シアン化合物水溶液(シアン化合物を溶かした川の水)に金を溶かすことで浮かび上がらせ回収する方法です。



シアン化合物とは、推理小説などで殺人を犯す際の薬物として使用される青酸カリなどが挙げられます。
青酸カリとはシアン化カリウムの通称で、経口致死量は成人の場合150〜300mgと推定され、水に溶けやすい。
遷移金属と反応して水に可溶なシアノ錯塩を形成する性質を持ち、この反応により銀や銅の錆落としに使用することができます。

僕の好きな漫画「名探偵コナン」でも何度か登場し、十円玉をピカピカにするシーンも演出されています。



経口致死とは別に、皮膚から吸収することによっても中毒を起こします。
今作「ゴールデン・リバー」で"預言者の薬"を浴びたチャーリー、モリス、ウォームの皮膚が焼け爛れたのも、細胞死を招いたものと考えられる。

また、川に撒いた薬物で川魚の死骸が浮いていたことからも、"預言者の薬"が水生生物への毒性が非常に強いシアン化合物であると推測される。



つまり、劇中の"預言者の薬"は錬金術ではなく単なる冶金術であり、非現実的な魔法のようなものでもなんでもなく非常に現実的な手法なんです。



西部劇のアンチテーゼ

まずはTwitterに上げた感想から。



ということで、今作は西部劇という形を取りながらも対比的な人物相関図と西部劇のアンチテーゼが劇中に散りばめられています。




シスターズ兄弟の兄イーライと弟チャーリーは正反対の性格。


シスターズ兄弟と真逆の価値観を持つウォームの存在。


ウォームと利害の一致で行動を共にするモリス。



イーライはチャーリーに殺し屋を辞めて一緒に店を出そうと持ちかけました。
結果、口論となったがイーライはこの時点で西部劇からの脱却を図る。
しかし、チャーリーのことが心配でその意向は保留とされる。

イーライがチャーリーを見守る理由はウォームとの会話で明かされますが、父親との確執はモリスとも重なる。
そしてウォームに影響され、協力関係になっていく双方。

このように各々の人物がそれぞれ対比的な立場でありながら、共通する立場を選ぶ



モリスの発言、"弾切れの銃のような人生"
連絡係として仕事をしてきたモリスが、ウォームと出会い理想社会を目指すその時のセリフで語られました。

これは非常に直接的な表現です。
弾切れとは西部劇においては死に直結します。
西部劇として生きてきた自分を殺し、そこに"理想社会"という現状況から逸脱した夢の社会形態を求めるという二重構造となっています。
つまり、この時点でモリスとウォームは西部劇から脱したことが明確に劇中で示される。





次に、喪失したものたち。
劇中で失ったものたちからも西部劇のアンチテーゼが見受けられる。


まずは、イーライの馬。
西部劇には欠かせない足である馬を亡くす。
ここで実質、イーライの西部劇からの事実上の退場を意味する。

西部劇において馬泥棒は即絞首刑と相場は決まっていました。
馬を盗み、用がすめば肉にして食べてしまえば犯人を捜し出すのは困難。
よって馬泥棒は縛り首にし、馬肉の売買を禁止したそうです。
馬を失うことは即ち死を意味するんです。


チャーリーの右腕。
欲に目が眩み、川に預言者の薬を流し込もうとした際に誤って零してしまったチャーリー。
彼は右利きであり、乗馬、銃の発射、弾の装填など、西部劇としての重要な所作に支障をきたしていることから、物理的な西部劇からの強制退場が描かれる。

また、"右腕"には懐刀という意味があります。
絶対的な権力を持っていた提督から殺し屋として評価されていたチャーリーがその立場を失ったことのメタファーでもある。


提督の死。
イーライとチャーリーに司令を送る上官。
彼の死によってシスターズ兄弟が殺し屋である理由がなくなる。

また、金は新約聖書において、東方の三博士からの贈り物のひとつとして知られています。
これは"王権の象徴"とされ、権力を手にする、価値のあるものを意味します。
金を手にすることで、チャーリーは提督の後釜を狙ったという脚本にも沿う。


母親のセリフ。
シスターズ兄弟が帰郷した際に、母親が呟いた言葉「何か無くしたようだね」。
勿論、これはチャーリーの右腕のことであるが、それをわざわざ強調したことから、ダブルミーニングとして殺し屋としての仕事も指す。
つまり、このセリフからも、シスターズ兄弟が西部劇から脱却したことを意味する。

また、西部劇のラストには相応しくない"平和への帰郷"
理想社会を求めたウォームとモリス。
チャーリーの暴力を制止するイーライ。
理想社会を求めたウォームとモリスが平和を掴み取れず、暴力で解決するシスターズ兄弟がそれを制した。



感想

この作品は原題からも察する通り、兄弟愛の物語です。
兄弟愛は西部劇によく使われるモチーフであり、例えば暴力の連鎖、その過程を描くのに活きる設定のひとつ。
「ゴールデン・リバー」では、正にその暴力の連鎖からの脱却、西部劇のアンチテーゼを見事に描き切ったわけですが。


今作の目的は、ウォームが目的とする金の採掘であり、4人の男がそこに収束していく。
中でもイーライの価値観が中心である。
そこに社会主義の前進とも取れるウォームという人物を通して表現され、そのイーライの価値観そのものに変化を齎した。

大枠は勿論西部劇であるが、そこに脱西部劇的要素を盛り込むことで、西部劇であって西部劇ではない異色の一風変わった物語へと昇華している



この映画は安易に非暴力を謳うものではなく、従来の西部劇で描いてきた暴力の連鎖からの脱却、つまりは変化を起こすこと。
その変化が齎す"平和への帰郷"を掬い上げる術が"暴力"に頼ったものというのも意義深い。


金欲、暴力、権力に家族の確執など、現代に通ずる問題も描かれており、ラストは新たな人生の始まりを匂わすような希望を見させてくれる。

錬金術というまやかし、金欲に溺れ、代償を払いながらも、彼らは金に相当する価値のあるモノを手に入れたのだろう。



終わりに

邦題のせいもあって一般的にあまり評価は芳しくないようですが、個人的には兄弟のロードムービーとして楽しめた作品でしたね。


なんと言っても豪華キャストが良い。
ジョン・C・ライリーホアキン・フェニックスジェイク・ギレンホールリズ・アーメッド
なかなか見られる共演ではないので、その点に関しても必見ですね。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




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「神と共に 第二章:因と縁」ネタバレあり感想

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は下半期映画鑑賞初日ということで、ずっと楽しみに待っていた「神と共に 第二章:因と縁」を観てきました。

いやー。
面白かった!!!

ということで、ダラダラと思ったことを書き綴ってます。



この記事は前編「神と共に 第一章:罪と罰」及び後編である今作のネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Along with the Gods: The Last 49 Days
製作年:2018年
製作国:韓国
配給:ツイン
上映時間:141分
映倫区分:G


解説

韓国の人気ウェブコミックを実写映画化し、世界的ヒットを記録したファンタジーアクション2部作の第2章。1000年間で48人の死者を転生させた冥界の使者ヘウォンメクとドクチュン、カンニムは、あと1人を転生させれば自分たちも新しい生を得ることができる。カンニムは怨霊だったジャホンの弟スホンを、最後の裁判を受ける貴人に決める。本来なら怨霊は消滅させなければならないが、閻魔大王はある条件と引き換えにカンニムの提案を受け入れる。その条件は、ソンジュ神に守られて冥界からの使者をことごとく追い払ってしまう老人チュンサムを冥界に連れてくること。下界に降りた彼らは、ソンジュ神から驚くべき真実を知らされる。カンニムを「お嬢さん」のハ・ジョンウ、ヘウォンメクを「アシュラ」のチュ・ジフンが演じる。共演に「新感染 ファイナル・エクスプレス」のマ・ドンソク、「新しき世界」のイ・ジョンジェ。「ミスターGO!」のキム・ヨンファ監督がメガホンを取る。
神と共に 第二章 因と縁 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



因と縁

こちらが前作のネタバレ感想記事になります。


今作も本編上映前に丁寧にも前作のおさらいが流れます。



さて、早速本題に入っていきますが
今作のサブタイトルは"因と縁"

まさにその通りでした。
前作は、この物語の始まりに過ぎなかった。
今作こそが、この物語の本編であり、終わりだったのです。

今作は前作に比べアクションは少なめ。
その人物描写に特化し、前作とは異なった色を放つ。



前作の主人公キム・ジャホンの弟キム・スホン。
彼の無念の死の秘密は前作で下界を調査したカンニムしか知りません。
前作のラストでスホンは"貴人"に認定されます。

物語の大筋はスホンを生まれ変わらせ、千年で累計49人の生まれ変わりを達成した使者3人が生まれ変わることができる。というもの。

今回の裁判は7つではなく、スホンが過失致死によるものではなく無念の死であることを証明し、貴人として生まれ変わらせる裁判。
つまり、そのスホンの死に関わる裁判しか行われません。
怨霊になった不義の罪と同僚を襲った暴力の罪。

天倫地獄の閻魔大王が出したこの裁判を行う条件が、スホンの裁判が終わる49日以内に下界で使者を尽く追い払うソンジュ(屋敷神)に守られている寿命を迎えてたホ・チュンサムを冥界に連れてくること。


そうです、前作のエンドクレジットでも流れた
我らがマ・ドンソクの登場です!

ヘウォンメクとの超高速バトル…何を見せられているんだ?(笑)


ソンジュはヘウォンメクとドクチュンの2人を冥界に連れてきた使者
つまり、千年前には既に使者であり、大先輩。
ヘウォンメクとドクチュンの過去を知る人物。

マ・ドンソクがおじいちゃんの孫ヒョンドンを守るために現身してるってだけでも可愛くて笑っちゃうのに、一番笑ったのが人糞を触ると力が抜ける設定。
顔が濡れて力が出ないアン〇ンマンかよ(笑)


ソンジュとの邂逅で、使者たちの過去の秘密が次々と明かされていきます。



千年前

スホンの死の秘密は前作で描かれており、下界の出来事は千年前の出来事を想起させるきっかけとなっています。
従って、メインストーリーでもある千年前の出来事を中心に確認していきます。



時は千年前に遡る。
使者たちの生前は"高麗"の時代。

高麗(こうらい、ハングル:고려;[koɾjʌ]、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。
高麗 - Wikipediaより引用


高麗時代、契丹と高麗は対立。
933年、契丹の高麗侵攻は、当時中国大陸の北部を支配していた契丹によって5度にわたり行われた今の朝鮮半島にあった高麗王朝への侵攻のことです。
1010年、契丹は再び高麗へ侵攻し、開城を占領。
撤退した契丹は高麗と1019年に講和を結び平穏な状態に戻り、高麗は契丹朝貢する。

また、江東6州と呼ばれる場所は元々、女真族の居住地でした。
契丹の高麗侵攻により高麗は宋とは断交し、契丹朝貢することになる。
高麗と契丹の間に女真がいるのが障害だと、江東6州を高麗の領土とすることを認めてもらい、高麗はこの地域に住んでいた女真を征服して城を築きました。



ここからは冥界の使者3人の過去を辿ります。

カンニムの出来事
ヘウォンメクとドクチュンの出来事



使者カンニムは高麗の大将軍。


使者ヘウォンメクも高麗の最高の武将。

つまり、カンニムとヘウォンメクは同じ国の武将だったわけですね。
通りで武術に長けており、強いわけです。




ヘウォンメクは山猫の毛皮を首に巻き、女真族から白い山猫と恐れられていた。
高麗の騎馬兵に襲われた村で子供を守った女真族がドクチュン。
親のいない子供たちの親代わりとして隠れ家で暮らす。

カンニム父はカン・ムンジク女真征伐隊長。
敵国である契丹軍にも慈悲を持ち、誰からも尊敬される存在であった。

ムンジクは人道主義、カンニムは原理主義
ここで小さな親子の確執が生まれる。

カンニムの弟は契丹族の少年で、慈悲深いムンジクはその少年を養子に迎え入れた。
弟を可愛がり指導する父に嫉妬する。

ここは下界のヒョンドンを養子に入れるか否かの話から想起させるのですが、史実でも契丹が高麗の兵士になったという話はあります。



ある日、ドクチュンは虎に襲われたところをヘウォンメクに助けられる。
女真族の子供たちを匿う隠れ家へ案内する。

ここのヘウォンメクがかっこよすぎて、もうね。
なんなの!?ってなりましたよね。

女真族との最終決戦。
先鋒を兄であるカンニムではなく弟にすると父が弟に伝える。
カンニムは勝ち戦だが犠牲が出ると先鋒を外され、父親に裏切られた気になってしまう。

二度と南方へ来るなと注意喚起されたドクチュンだが、子供の具合が悪くなり薬草を採りに南方へ行ったところをヘウォンメクに再び助けられる。
ヘウォンメクを北方の辺境の地へ追いやった上官の名前はミロン。

ここで現代のドクチュンが自分の両親は白い山猫(ヘウォンメク)に殺されたことを知る。
この時の2人のギクシャク…まるで倦怠期を迎えたカップルじゃあないかッ!!!



ヘウォンメクはドクチュンの両親を殺した罪悪感から上官ミロンに嘘の報告をし、隠れ家に軍糧を回し、子供たちが自立できるように軍事訓練を行った。
その事がバレてしまい、国に不義を働いた大罪人として部下のトルボとともに獣のエサに。
ドクチュンに知らせるためヘウォンメクはトルボの死体を引きずり二里離れた隠れ家へ。
白い山猫の襟巻をドクチュンにかけ謝罪するヘウォンメク。
ミロンが隠れ家へやって来てヘウォンメクを殺害。

この時のヘウォンメクとドクチュンが抱き合った時の込み上げる想いと言ったら…ねっ!!!

ソンジュの言葉から、ミロンを逆から読むことに気付いたヘウォンメク。
その名前はカンニム。
予想は付いてたけどハングル語は読めない!(笑)

逃げたと思われたドクチュンがカンニムを刺し、カンニムがドクチュンを殺害。
「なぜ泣いているのだ?悲しくて泣いているのか?」
現れた閻魔大王が尋ねる。
カンニムは息絶え、使者となることとなる。


ヘウォンメクはドクチュンの両親を殺し、ドクチュンはヘウォンメクに命を救われ、カンニムはヘウォンメクとドクチュンを殺した。
千年前の3人の因縁が、今在る使者3人の関係を複雑な気持ちにさせます。

スホンの死の理由が前作からの盛大な伏線であり、前作が始まりに過ぎないという言葉を今作を観て真に理解することが出来る。



今作のスホンの裁判は、実は千年間もの月日を掛けた罪を犯したカンニムの裁判でもあったのです。

自分が殺した青年と少女とともに過ごし、49人を生き返らせて、記憶を消して生まれ変わらせる。
これがカンニムの贖罪、永遠に続くような罪悪感とともに許しを求めることができず千年もの時間を2人と過ごしてきたのです。


また、そこで新たな事実が明かされる。
カンニムの父ムンジクは実は戦死ではなく殺され、その事実を隠蔽されていた。
隠蔽したのはカンニムであり、生きている父を見て見ぬふりして見殺しに。
その理由は、いつも自分より優秀な弟に居場所を、名誉と権力を奪われるから。

生きているスホンを見て見ぬふりし、自分の地位と家庭を優先して生き埋めにしたパク中尉の姿をカンニムは自分自身の姿と重ね合わせていたんですね。
ここでも前作からの大きな伏線が回収される快感である。



そしてエンドクレジット。
天倫地獄の閻魔大王は、実はカンニムの父ムンジクだったのです。

えええええ…!?
と言った驚きは特になかったのですが(笑)

カンニムが死んだ時、閻魔大王が現れて「なぜ泣いているのだ?悲しくて泣いているのか?」と投げかけた意味が分かりましたね。

この時、既に閻魔大王はムンジクで
息子に罪を償わせること。
許しを得るきっかけを与えること。
そんな慈悲の心を持ちながら、自ら裁く立場に身を置くことで息子を見守るため。

カンニムの記憶は消さず使者となることを勧め、ソンジュによって冥界に連れてこられたヘウォンメクとドクチュンの2人の記憶を消してカンニムにつけることを担った。
前作に引き続き親子愛の側面も感じられる。



総評

冒頭に記述した通り
面白かった!!!

アクションは少なめですが前作から引き継ぐファンタジーの世界観とヒューマンドラマの畳み掛け。

とはいえ、下界のおじいちゃんと孫に心は揺さぶられることはなく。
何故なら、千年前の話が目立つから(笑)

そして前作に引き続き、法廷劇は前作同様に雑。




予告でも使われたジュラシックパークの件とかも雑。
スホンの恐怖が具現化される地獄鬼、映像としては迫力あるけど、雑(笑)


そうです、今作のキモはスホンの裁判でも下界の任務でもなく、それらはすべてが使者カンニム及びヘウォンメクが生前に犯した罪を掘り起こす媒体に過ぎないのです。
まさに因縁。



スホンの死と使者3人、下界と冥界、現在と過去を交錯させながら2つの事象が混じり合いひとつに収束していく心地良さ、快感。

今回はこれに尽きる。
そんな上手いこと下界の出来事が千年前の出来事と重なるのか?という野暮な疑問は持つな!感じろ!(?)



また、今作で最大限の魅力を出し切ったヘウォンメク。
過去の自分と過去が消された現在の自分、一人二役でを演じたチュ・ジフン
カンニムを演じたハ・ジョンウ、ドクチュンを演じたキム・ヒャンギと異なるところは、過去と現在でのヘウォンメクのキャラクターにある。


カンニムは、過去の記憶もあり、過去と現在とでキャラクターに差ほど変化はない。
ドクチュンは、ヘウォンメク同様に過去の記憶を失ってはいるがソンジュが語ったようにキャラクターは千年前と変わらない。
一方でヘウォンメクは、記憶を消されて過去と現在で完全に別のキャラクターとなっており、尚且つ実際には同じキャラクターであるという難しい役どころ。


一人二役は同じ俳優が2人の人物を演じること。
全くの別物でありながら元は同じであることと、初めから別物であることとでは少しニュアンスが異なる。
ヘウォンメクとドクチュンは過去の自分、失われた記憶を辿るうちに過去の自分を誇らしく思ったり、カンニムや2人の関係性、心情の変化がより大きく見られる。

特にヘウォンメクは、過去の自分に寄せていくというよりも、失われた部分を補完していくといった演技がさり気ない仕草や表情に表れていたと思います。


前作に比べ今作での分量も圧倒的に増え、これまでのヘウォンメクから更に魅力が増し、同時にチュ・ジフンの評価も上がった。

しかし、こうやって反芻すると、ヘウォンメクとドクチュンも使者になる前、ソンジュに冥界に連れてこられて裁判を受けたのかな?
ヘウォンメクの罪はドクチュンの許しで無罪になったのかな?
など、その人物描写の背景を膨らませて考えてしまいますね。



また、誤射事件を起こしてしまい、不義地獄で証人として召喚されて裁判中に死んでしまったウォン・ドンヨンが"貴人"として冥界にやって来てましたが・・・なんだこの循環は(笑)

やるのか?第三章?
やるなら観るぞ?絶対観るぞ?



終わりに

会者定離
出会った者はやがて別れる。

去者必返
去った者は必ず帰ってくる。

罪は罰として裁かれ、因は縁を結ぶ。
過ちや犯した罪、それをどう受け止めどう償うのか。
前作からの人物相関図が巡り巡って繋がりを持つ因縁を描いた「神と共に 第二章:因と縁」、皆さんは如何でしたか?


毎度ながら纏まりのない読みにくい記事で申し訳ありませんが、自分はある程度思ったことは書けたと思います。

本当に冗談抜きで続編が作られるのであれば、観に行きたいと思います!
ってか作ってくれ!!!
超大作アクションファンタジーとして後世に残してほしい映画です。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




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批判ではなく是非を問う(「新聞記者」ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
上半期の締めはですね、色々と物議を醸し出しそうな題材を扱った映画『新聞記者』になります。

この記事はネタバレを含みます、ご注意ください。
尚、この記事はあくまでも個人的な見解、解釈の上で意見を述べているだけであることを御容赦いただいた上でお読みくださればと思います。



作品概要


製作年:2019年
製作国:日本
配給:スターサンズ、イオンエンターテイメント
上映時間:113分
映倫区分:G


解説

「怪しい彼女」などで知られる韓国の演技派女優シム・ウンギョンと松坂桃李がダブル主演を務める社会派サスペンス。東京新聞記者・望月衣塑子の同名ベストセラーを原案に、若き新聞記者とエリート官僚の対峙と葛藤をオリジナルストーリーで描き出す。東都新聞の記者・吉岡エリカのもとに、医療系大学新設計画に関する極秘情報が匿名FAXで届く。日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育ち、強い思いを秘めて日本の新聞社で働く彼女は、真相を突き止めるべく調査に乗り出す。一方、内閣情報調査室の官僚・杉原は、現政権に不都合なニュースをコントロールする任務に葛藤していた。そんなある日、杉原は尊敬するかつての上司・神崎と久々に再会するが、神崎はその数日後に投身自殺をしてしまう。真実に迫ろうともがく吉岡と、政権の暗部に気づき選択を迫られる杉原。そんな2人の人生が交差し、ある事実が明らかになる。監督は「デイアンドナイト」の藤井道人
新聞記者 : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



政治批判映画

まずはTwitterに上げた感想から。



藤井道人監督の前作『デイアンドナイト』も傑作でしたが、今作『新聞記者』も傑作でしたね。

内容どうこうというよりも、藤井監督の撮る映画が好きなのかもしれない。
映画監督としての熱意はあるのだろう。
しかし、物事を如何に冷静に見ているか、真摯に向き合っているか、が窺える。

エリート官僚と若き新聞記者の葛藤、そしてラストシーンは圧巻の一言。
今後の邦画を変えるかもしれないとさえ思わせてくれる高水準な力作と言えます。


まず、本題に入る前に昨今と似たような題材を扱った映画と比較するとわかりやすい。

例えば、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書
スピルバーグ監督が手掛けた傑作なのですが、内容は今作『新聞記者』にも近しいものがある。
政治批判と同調圧力に屈しない決意と葛藤。
しかし、こちらは実話の基、エンタメへと昇華した社会派娯楽作品なんですよ。

今年公開の映画『記者たち〜衝撃と畏怖の真実〜』
ロブ・ライナーが手掛けた作品。
『新聞記者』同様にジャーナリストに焦点を当てながら政治批判として描いたもの。
こちらも実話を基に描かれているのですが、王道社会派ドラマからのアプローチでした。

『記者たち』と同時期に上映されていた同じ題材を扱った『バイス
ブッシュ政権下で国民の愛国心を利用し、国民を手玉に取った副大統領チェイニーの過ちをエンタメで描き切った作品。

また、トランプ政権を批判した『華氏119』
マイケル・ムーア監督によるドキュメンタリー。
米国だけには留まらない、我々国民ひとりひとりに向けたメッセージ。

このように米国では政権批判をテーマにした作品が当たり前のように製作されている。
ただ日本で、それも現政権をテーマにした映画は他になかったと思います。

それ故に、この映画が注目され、そして今後の邦画を変えてくれるかもしれない力作であることは間違いない。
現政権と情報社会、現代の日本に警鐘を鳴らすように、この映画を作り上げた藤井道人監督と制作スタッフに敬意を表したいと思います。



対比的な構図

主演の2人の演技が非常に良かったですね。
この新聞記者とエリート官僚の対比と邂逅、そして利害の一致と決裂、常に葛藤しジャーナリズムと正義の下で揺れ動く2人の人物が描かれていました。



吉岡エリカ記者を演じたシム・ウンギョンさん。

シム・ウンギョン(심은경、1994年5月31日 - )は、韓国の女優、タレント、元子役。ソウル特別市出身。血液型はB型。
シム・ウンギョン - Wikipediaより引用

シム・ウンギョンさんと言えば『新 感染 -ファイナル・エクスプレス』の初の感染者役として記憶に新しい。



吉岡という人物は、日本人の父と韓国人の母を持つハーフで、更にアメリカで育った帰国子女という強めのアイデンティティをが少し強いキャラクターです。
しかし、そのアイデンティティと何故記者になったのか?が劇中のストーリーの流れで自然に見えてくるんですよ。
冷静に見える一方で、葬式で遺族に対する記者の質問に憤りを感じたように、自分と似た境遇を目の当たりにすると感情的になってしまう人間味の溢れる一面もあり、この両方のバランスが非常に難しかったと思います。
そこを上手くカバー出来たのも彼女の演技力あってのこと。
カタコトな部分もその人物設定を自然と絡ませてリアリティを引き出しています。



次に、杉原拓海を演じた松坂桃李さん。

松坂 桃李(まつざか とおり、1988年10月17日 - )は、日本の俳優、モデル。左利き。
「桃李」という名前は、中国の歴史家司馬遷の『史記』に書かれた言葉「桃李不言下自成蹊(とうりものいわざれども、したおのづからこみちをなす)」と、中国の故事「桜梅桃李」の2つに由来する。前者は「徳のある誰からも慕われる人」になって欲しいという父の願いから、後者は「自分らしさを大切に」という母の願いから名づけられた。読みがなは両親のこだわりで「とおり」。
松坂桃李 - Wikipediaより引用

最近なら『孤狼の血』で素晴らしい演技を見せてくれましたが、『ユリゴコロ』『彼女がその名を知らない鳥たち』やなんと言っても『娼年』のように体当たりな役どころまでも受ける幅の広さが魅力的。

と場違いのリンクを張ってすみません(笑)
これくらい演技の幅が広いと言いたい。


杉原という人物は、所謂エリート官僚。
内閣情報調査室に勤め、情報操作という仕事に疑問を持ちつつも、愛する妻子のために任務を全うする。
エリート官僚と言えば、物事に動じず落ち着いた、それでいてお堅いイメージを持っていたのですが、この杉原は感情や思考が激しく揺れ動くんです。
その分、松坂桃李さんは杉原を演じるにあたって幅広い演技力を要求されるわけです。
端的に彼は若手俳優の中でも頭一つ抜きん出てます。
己が持つ正義、それを行使できない家庭事情。
子供が出来たことで守るものができた。
この大きな存在が、同調圧力に屈することを選択させる。
ラストカットのあの感情を捨て、心が死んだ感じ…死んだ魚のような目はなかなか出来るようなものじゃありませんよ(笑)





また、杉原の上司である神崎の自殺のシーンについても語っておきたい。

空撮は、まるで人が死ぬその姿までも監視されているかのように映し出される。
劇中では、主に吉岡と杉原を対比的な構図で描くカメラ割りが印象的ですが、神崎の自殺のシーンでも杉原との対比的な構図を見せる。

あの地面に積もった落ち葉は相手に届かない言の葉のメタファーではないだろうか。

自殺する直前に杉原に掛けた電話。
杉原の呼びかけに答えない神崎。
神崎が送った手紙。
ひとつひとつが相手にちゃんと届かずに途絶えていた。


ラストシーンでの吉岡と杉原の対面でもそうだ。
その国会前の落ち葉もまるで届かない言の葉として風に煽られかき消される。
言の葉というのは相手に届いてこそ意味が伝わるものなのだと突きつけられる。
これはジャーナリズムにも通ずるものであり、その言の葉は真実でなければならない。


ラストシーンで吉岡の電話、杉原に届かない着信。
そして杉原のタメにタメてからの口ずさむ謝罪の言葉は、声にならず耳には届かなかったがきっと吉岡には届いている。


それは杉原にとって真実から出た言葉だからだろう。
権力に屈すること、大切な家族を優先したこと、置かれた環境での葛藤や苦悩、その心情がこれでもかと込められていました。



個人的感想

さて、ここからは本題に入っていこう。
まず、実際に観て率直な感想が「サスペンスとして本格的だな。」でした。


大学新設計画に関する調査、極秘情報が記された匿名のファックス。
吉岡が調査を進めた結果、内閣府の神崎という人物が浮上してくるが、その矢先、神崎は自殺してしまう。
神崎の死に疑問を抱き、その調査の過程で内閣情報調査室のエリート官僚、杉原と邂逅する。


このように、東京新聞の望月衣塑子記者をモデルにした権力と戦う女性記者を主人公に、フィクションとして描かれる現政権の不祥事、"モリカケ問題"から着想を得たであろうポリティカルな部分が大枠なのですが、社会派ドラマという枠組みの中で見せるサスペンスが次第に現実との境界線を霞ませる。

その上で、しっかりと主役2人の人物描写とその背景を描き、正義と悪、国と家族、仕事と家庭、立場や事情を利用する国家権力の闇を炙り出すことにも成功している。



また、内調と記者とのやり取りに政治家があまり絡んでこないことが民主主義と言えど、報道の自由、国民の知る権利において我々国民が知らないことの方が多いのだと言及しているようで、かえってリアリティのあるものとなっていると考えている。

しかし、ここを勘違いしてはならない。
今回扱われた題材は非常にデリケートなもの。
単純な見方をしてしまえば単なるプロパガンダ映画となってしまう。
藤井道人監督はインタビューにて、こうも語っています。

「タイトルは『新聞記者』ですけど、記者を賛美するだけの映画にするつもりはありませんでした。描き方によってはプロパガンダとなる可能性もあり、政治意識の強くなかった僕は、そういう方向性に躊躇があったのです。

ですから望月さんから話をたっぷり聞き、それと同じくらい官僚の人たちを取材しようと考えました。『僕はこういう映画を撮りますが、新聞記者が内閣をぶっとばす映画にはしたくない。だから力を貸してください』とアプローチし、政府が情報操作しているという報道について、また、どういう思いで国に向き合っているかなどを聞いていったのです。首相官邸前の警察官にも取材した結果、映画ではデモ隊を見つめる若い警察官の視点も入れてあります。
(中略)
記者たちには、国を是正するために権力の番人として監視する責務がある。一方で官僚の人々からは、この国の安泰を維持するために日夜努力しているのに、あることないこと書かれて批判されるという不満も聞きました。両サイドに『大義』があるんです。たがいに相入れない善悪の境界みたいなものがあり、そうした部分を、映画では松坂さんが演じる杉原の葛藤で描こうとしました」

内閣×マスコミを、日本映画でここまで描ききった勇気、客観性…。『新聞記者』藤井道人監督インタビュー(斉藤博昭) - 個人 - Yahoo!ニュースより引用


政府が"悪"、メディアが"善"という構図はあくまでもエンタメであり、内調が国を維持するための仕事、大義は"必要悪"なのか?

勿論、フィクションであるが故の原作者の思考は見え隠れする。

望月 衣塑子(もちづき いそこ、1975年 - )は、中日新聞社の社員。2018年10月現在、東京本社社会部記者。
『新聞記者』 角川書店〈角川新書〉、2017年10月12日。

望月衣塑子 - Wikipediaより引用


実際、原案者の望月記者が劇中にも登場している。
この映画から得られる情報は中立的に受け入れたい。



Twitterにも書きましたが
行き過ぎた正義は正義ではなくなるんです。
真実と事実は異なるものなんです。

これは国家を守るという名目で情報操作をする政府側にも、事実を歪めて報道するメディア側にも言えること。

劇中のセリフにもありました。
「真実かどうかはお前が決めるんじゃない。国民だ。」
情報操作された誤った情報を信じた時点で、ねじ曲げられた事実は真実となるんです。

つまり、しっかりと掘り下げていくと単純に政府が"悪"、メディアが"善"としたプロパガンダな構図ではないのです。


この映画のラストシークエンスは、エンタメ映画として楽しませながらも、真実を追求し報道するジャーナリズムの在り方を世の中に突きつけると同時に、"誰よりも自分を信じ疑え"という若手新聞記者の父からのメッセージを真に伝え、単なるフィクションとして笑って済ませられないものとなっているんです。


キャッチコピー
"この映画を、信じられるかーー?"

兎に角、今は情報社会になっているからこそ、SNS等色々取り入れやすい環境の中で流れてくる情報のファクトチェック、その真偽を自分の目でしっかりと持つということが大事なんです。


そう、この映画が伝えたいことは
批判ではなく、是非を問うこと。

批判というものは一方通行なんです。
現代社会において、ヒエラルキーパワハラトップダウン同調圧力、様々な抑圧があり言葉を飲む、言葉を濁す事の方が多いのかもしれない。
そんな社会を批判するだけで変えていけるのだろうか?
決してこれは綺麗事ではなく、もし、社会を変えられるとするのなら、批判ではなく是非を問うことではないだろうか?

是非を問うこと、この映画の内容を鵜呑みにせず、善悪を判断するリテラシーを持つことが大切であるというメッセージすら感じる。


だからこそ、だからこそ、この映画を観てほしい。
この映画を観て思うこと、感じることは人それぞれだ。
まずは観ることに意味があると思います。



終わりに

ということで、今回もダラダラと話してきましたが、あくまでも個人的な見解であることを念頭に置いた上で御容赦ください。

正直なところ、米国のように実名での批判や直接的な描写はなく踏み込みきれなかった部分は多々感じます。
しかし、この映画が作られ、そして上映された意義を今後の邦画はどう活かしていくのか?
そういう意味でもこの映画の存在価値は高い。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2019「新聞記者」フィルムパートナーズ

建築と殺人は芸術となり得るのか?(「ハウス・ジャック・ビルト」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は待望のラース・フォン・トリアー監督最新作「ハウス・ジャック・ビルト」について語っています。

この記事にはネタバレが含まれます。
未鑑賞の方はご注意ください。

尚、今回はいつものように深堀りしていくガチガチの考察ではなく、自分の記憶を整理する為にもつらつらと書き綴るダラダラの考察になります。



作品概要


原題:The House That Jack Built
製作年:2018年
製作国:デンマーク・フランス・ドイツ・スウェーデン合作
配給:クロックワークス
上映時間:152分
映倫区分:R18+


解説

ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ニンフォマニアック」の鬼才ラース・フォン・トリアーが、理性と狂気をあわせ持つシリアルキラーの内なる葛藤と欲望を過激描写の連続で描いたサイコスリラー。1970年代、ワシントン州。建築家を夢見るハンサムな独身の技師ジャックは、ある出来事をきっかけに、アートを創作するかのように殺人を繰り返すように。そんな彼が「ジャックの家」を建てるまでの12年間の軌跡を、5つのエピソードを通して描き出す。殺人鬼ジャックを「クラッシュ」のマット・ディロン、第1の被害者を「キル・ビル」のユマ・サーマン、謎の男バージを「ベルリン・天使の詩」のブルーノ・ガンツがそれぞれ演じる。カンヌ国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門で上映された際はあまりの過激さに賛否両論を巻き起こし、アメリカでは修正版のみ正式上映が許可されるなど物議を醸した。日本では無修正完全ノーカット版をR18+指定で上映。
ハウス・ジャック・ビルト : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



物語の本筋

まずはTwitterの感想から。




いやー、おバカ映画でしたね!
なんなんですかね、この超絶大傑作は(笑)

まず
ラース・フォン・トリアー監督は鬱描写を使わなくてもちゃんと映画が撮れるんじゃないか!
あんた、鬱病完治したんか!」
が鑑賞後の率直な感想でした(笑)

褒めてます、めちゃくちゃ褒めてますよ!



今作の主人公ジャックは強迫性障害を持っていました。
強迫性障害といっても、強迫観念と強迫行為の2つの症状があるんですよね。

強迫観念とは、頭から離れない考え、その内容が不合理だとわかっていても頭から追い払うことができない。
一方、強迫行為とは、強迫観念から生じた不安にかきたてられて行う行為のことで、無意味とわかっていても止められない。

簡単に言えばかっぱえびせんのようなものです。
止められない止まらないです。
これが日常生活に支障をきたすとOCD(強迫性障害)という病気と診断されます。


第1の出来事、車の修理を頼まれたジャックが助手席に乗った女性をジャッキで殴打して殺害します。

元々殺人衝動があったのか、それとも感情的となった突発的なものなのか。
いずれにせよ、この殺害がきっかけでその衝動を抑えられなくなっていく。
しかし、ユマ・サーマンが早々にリタイヤは笑わせてもらいました。



第2の出来事で、ジャックは保険屋を装って家屋に侵入し女性を扼殺後に胸部を刺した後始末で、早く現場から離れなければならないのに取り憑かれたかのように血痕を何度も流し、清掃する。

これは確認行為にあたるもの。
身近にあるものとしては、例えば外出した際にふと「家の戸締まりをちゃんとしたかな?」や「ガスの元栓は閉めたかな?」など思うことがありますよね?
その不安が抑えきれなくなって指差し確認や何度も触って確認する行為になります。

確認行為によりなかなか現場から離れられないジャックのもとに現れた警官とのやり取りをくぐり抜け、死体を引きずって自宅まで帰る。

この死体を引きずった血の跡を突然降り出した豪雨が洗い流してくれる。
神が守ってくれていると思い込むんです。



第3の出来事ではライフル銃と散弾銃の話から狩るものと狩られらるものの関係性を猟犬と血痕、虎と羊に喩えて語られる。

小銃一般を指し、ライフル(英:Rifle)あるいはライフル銃と呼ぶこともある。
近代から現代にかけて、主に歩兵一個人が携行する最も基本的な武器(歩兵銃)として使用されている。近距離から遠距離まで、広い範囲の射撃をこなせる万能性を持つ。
小銃 - Wikipediaより引用

散弾銃(さんだんじゅう)またはショットガン(Shotgun)は、多数の小さい弾丸を散開発射する大口径の大型銃。
散弾銃は、近距離で使用される大型携行銃で、弾丸の種類によっても特性が変わるが、散弾は概ね50m以内で最大の威力を発揮する。
散弾銃 - Wikipediaより引用


両方とも狩猟用の装薬銃ですが、前者は主に鹿や猪、熊などの大物を仕留める際に、後者は動きの早い鳥などを仕留める際に使用される。

ここで儀式行為が更に顕著に現れる。
巻狩りの"最後の侮辱"である。
並べられた遺体と大量のカラスの死骸。

2014年のゲッティンゲン大学の研究チームによって行われた実験によれば、少なくとも一部のカラスは欲求を我慢することができるとのこと。
つまりこの儀式で並べられたカラスはジャック自身の欲求に抗う自制心への反抗とも取れます。



第4の出来事では、ひとりの女性との間に新たな感情が芽生えます。
恋心を抱きながら、恋とは認識せずに乳房を切り取り殺害する。

ここでは相手の持ち物を持ち帰る、シリアルキラーの典型的な行為も見られます。

デニス・レイダー(Dennis Rader 1945年3月9日 - )は、BTKまたはBTK 絞殺魔として知られるアメリカのシリアルキラー。彼はBind(緊縛)、Torture(拷問)、Kill(殺す)の頭文字を取って自分自身で "BTK"と名乗り、1974年から1991年の間にカンザス州ウィチタ近郊で10人を殺害し、逮捕されるまで30年以上にわたって地元民を恐怖に陥れた。
デニス・レイダー - Wikipediaより引用


最も有名なのがBKT絞殺魔デニス・レイダー。
彼の特徴として、被害者の持ち物を記念品として持ち帰ることが挙げられている。
また、2015年にはフロリダの元保安官代理キンバレー・マグガースが各種の状況証拠に基づいて、"BTK絞殺魔"として知られるデニス・レイダー受刑者こそがゾディアックであるという著書を発表しています。

ジャック自身が自覚するしないは別に、その殺人鬼としての裏の顔が完全に定着していることが伺えます。
今作のジャックのように被害者の持ち物ではなく体の一部を記念品として、女性の頭皮を剥がして持ち帰るシリアルキラーを描いた『マニアック』もありますね。

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「男に生まれただけで罪を背負っている。」
「男はいつも犯罪者。」
無茶苦茶な自論で女性の性の象徴でもある乳房を切り取ること。
ここでは実質的な女性としての死を意味する。
とはいえ、流石に人目に触れるおっぱい財布はギャグとしか思えませんが(笑)



第5の出来事ではフルメタル・ジャケット弾ひとつで何人を同時に殺せるか、という実験を試みます。



フルメタルジャケット弾(full metal jacket/被覆鋼弾、完全被甲弾)
貫通性が高い通常の弾丸。弾芯が金属(メタル)の覆い(ジャケット)で覆われているメタルジャケット弾の一つ。ボール(Ball)弾とも呼ばれる。
ほとんどのフルメタルジャケット弾は、弾芯である鉛をギルディング・メタル(真鍮。混合率は銅95%、亜鉛5%)で覆っている。
弾丸 - Wikipediaより引用


なぜこのような仕様になっているかというと、鉛は人体に当たった時に弾体に変形し、衝撃と共に苦痛も与えてしまう。
これがハーグ条約違反となり、硬い金属で鉛の弾丸を覆い、人体に着弾したときに変形しないように加工されています。
苦痛をなるべく与えず殺すこと、言わば人道的なものです。

キューブリック監督作の映画『フルメタル・ジャケット』では、硬い金属で覆って人を殺す弾丸に作り変えたフルメタル・ジャケット弾のように、優しさや思いやりを非人道的扱いによってぶっ壊し、普通の青年たちを殺人マシーンに作り変える軍隊訓練が描かれる。

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人道的な側面から作られたフルメタル・ジャケット弾で第二次世界大戦下でのナチスの非人道的な行為を現代で試みるという嗜虐性、不条理。

ライフルの射程圏内に入れられず開かずの扉を開いた先に待っていたのがヴァージでした。
このシーン、笑いませんでした?
なんなんだよこの登場は!?(笑)


そして、ついにジャックは警察に見つかり、死体で築き上げられた家の穴から地獄へと誘われます。
地獄の底へと着いたジャック。
後述していますが、幼少期の話から草むらは楽園とされ、"捕まりたい欲望"は罪の清算

しかし、世の中そんなに甘くはない。
刈られたのは草ではなく、ジャックの首でした。

めでたしめでたし。



と、一連の流れはこんな感じでしょうか。
自分の記憶を整理する為にも書き出してみました。
間違ってたら教えてください。

さて、ここで本筋の合間に挿入された描写についてどんな意味があったのか、を簡単に考えたいと思います。



物語の補填

この物語は、ジャックとヴァージの会話により上記に記述した本筋のように、大きく5つの出来事として段階的に流れていきます。
その節々ではジャックの行為について、心理的もしくはそのバックグラウンドとして様々な芸術や歴史等が補填として挿入されます。

情報量が多く、まだ一度しか鑑賞していないので全てを拾うことは出来ませんでしたが、ここでは覚えてる範囲で順番に振り返っていきます。



・天才ピアニスト

ジャックが唯一認める天才ピアニスト、グレン・グールド
彼の音楽は芸術だと評価しています。


グレン・ハーバート・グールド(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家。

グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽であった。バッハは当時でももはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影した。

グレン・グールド - Wikipediaより引用


グレン・グールドは音楽だけでなく、エッセイスト、ドキュメンタリー製作者など、多彩な文化人として振舞っています。
特に彼の有名な言葉「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」はジャックにも影響を与えたことだろう。

これは後に第4の出来事で語られる"技師は楽譜、建築家は演奏"としても具体的に取り上げられています。

また、第5の出来事で作られた死体の家、"静力学(建築)と殺人"とも繋がりがあり、ひとつひとつの殺人(驚嘆)と冷凍保存(静寂)の積み重ねが作り出したもの。

ちなみに、静力学は主に建築学構造力学で用いられる力学の分野で、全ての物体にかかる力とトルクの総和が0、つまりは静的状態で働いている全ての力と同じ大きさの逆向きの力がある状態です。
仮想仕事の原理なんですが、詳しく説明すると長くなるので端折ります。



・草むらと隠れんぼ

幼少期に隠れんぼをして遊んでいた頃、あえて見つかりやすい草むらへと隠れること。
劇中では"捕まりたい欲望"として語られていました。
隠れんぼは連続殺人を犯したジャックの逃亡を、草むらで草を刈られる人は追う側、つまり警察を暗喩し、いずれ罰を負うことを可視化したものです。

幼少期にアヒルの子の足を切断するシーンで既にこの時から殺人衝動が芽生えていたとも捉えられることからも、ジャックが自身の行動に罪の意識を持っていたとも取れます。



・写真撮影

殺人衝動とは別にジャックには儀式行為な部分も見受けられます。
儀式行為とは、一連の流れ、ルーティンを行わなければ何か悪い事が起こると思い込む強迫性障害の症状のひとつ。

最も顕著に現れた儀式行為は写真です。
これは殺人と芸術を繋げるという意味合いが強いですが、死体を写真に収めるという行為自体に記念品や験担ぎのような意味合いもある。

こう思うきっかけは上記に記載した"雨の描写"だと思われます。
自身の行動は神に守られているという妄想。
故に写真の撮り直しにも拘って、死体を再び現場に持ち出すという危険を冒してしまう。

また、死体の写真がネガ(反転)として映し出されるのは、後述する"天国と地獄"にも通じる。
光があるから闇が存在する。
もしくは、闇があるから光が存在する。
つまりは、ジャック自身の裏表の顔、殺人鬼と二枚舌な人間性の表裏一体を表しているのではないだろうか。

これは上記に記載したグレン・グールドにも繋がります。
"驚嘆と静寂"という二面性。
また、劇中に語られた街灯の話にも繋がります。
ジャックは自己の不安(強迫性障害)を抑え込むために殺人を犯します。
劇中では強迫性障害の軽減と解放と表現されていました。
表を光、裏を影と考えた場合、街灯の光に照らし出されたところに生まれる影は殺人鬼ジャックとして見ることが出来る。
街灯の真下では最も色濃くなる。
街灯から離れるにつれて影の色は薄くなり、しかし大きく伸びていく。
そして次の街灯の真下で再び影は最も色濃くなる。

その光を驚嘆とするなら、その光の下を目指す道中は静寂であり、繰り返し歩み続けてしまうジャックの殺人衝動と繋がります。



・太陽と月の徴

劇中でも語られた"太陽と月の徴"新約聖書ルカによる福音書21章でも記されています。

21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」


要約するとエルサレムの滅亡からキリストの再臨に至る話がされています。
旧約時代の人々、とくにイスラエルの人々はやがて救い主が来られることを長い間待ち望んできました。
これを"アドベント(到来)"といいます。
これは第5の出来事で現実に(?)登場する異世界への案内人ヴァージのことを指します。

また、日本の彫刻家荻原碌山の名言にもある「愛は芸術なり、相剋は美なり。」
劇中でも愛は芸術とされ、遺体となった子供と震え怯える母親を囲むピクニックは不謹慎ながらユーモアたっぷりでしたね。

まさに狩るものと狩られるもの、シュヴァイス(猟犬)と血痕、虎と羊、命の相剋こそ最高の美であるのだと言わんばかりの。



・ワイン

劇中でブドウを腐らせるものとして、霜、乾燥、貴腐の3つが例に挙げられていました。
これらはワインの格付けによるものです。

大きく5つに格付けされるワインの中で最も上にあるものがプレディカーツヴァインと呼ばれるものです。
そのプレディカーツヴァインも7段階の格付けがされています。

ブドウを霜に晒して自然凍結させ作られたワインはアイスヴァイン。
藁や葦の上で乾燥させ作られたワインはシュトローヴァイン。
そして貴腐菌によって作られたワインをトロッケンベーレンアウスレーゼと言います。

貴腐(きふ)とは、白ワイン用品種のブドウにおいて、果皮がボトリティス・シネレア(Botrytis cinerea[* 1]) という菌(カビ)(灰色かび病も参照)に感染することによって糖度が高まり、芳香を帯びる現象である。 貴腐化したブドウを「貴腐ブドウ(きふぶどう)」と呼び、それを用いて造られた極甘口のワインが「貴腐ワイン」と称される。
貴腐 - Wikipediaより引用


トロッケンベーレンアウスレーゼが3つの中で一番価値があるもの。
敢えて過酷な環境に置くことでブドウの糖度が増し、一級品として価値が出る。

「人の最終的な価値が決まるのは、生前ではなく死後である。」

まさにこれです。

これは家を建てることとも同じと語られました。
一見無関係にも見えるが、これは廃墟価値の理論
建てては壊すを繰り返すジャックの家。
最終的に肉塊(死体)で築き上げられた家(芸術)。
倫理で芸術を殺す。

死体の腐敗も同様に芸術、死後にこそ価値が生まれると信じ込んだ歪んだ倫理観。
建築と殺人は芸術となり得るのか?
これが、ジャックが求め続けた芸術の辿り着いた答えなのです。



ジェリコのラッパ

劇中では戦闘機の威嚇として付けられた不快なサイレンとして語られていました。
実際に、第二次世界大戦でドイツ空軍が有する急降下爆撃機は前線で大きな戦果を挙げており、特に急降下の時に鳴り響く独特のサイレンは"ジェリコのラッパ""悪魔のサイレン"などと呼ばれ、空爆による敵への物理的ダメージとともに敵軍兵士に心理的な威嚇を与える効果があったとされています。


Ju 87 B-2

Ju 87 シュトゥーカ(Junkers Ju 87 Stuka )は、ドイツにおいて第二次世界大戦中に使用された急降下爆撃機である。

愛称の「シュトゥーカ」(Stuka)とは、本来は本機種の固有の愛称ではなく、“急降下爆撃機”を意味するドイツ語の「Sturz KampfFlugzeug」(シュトゥルツカンプフルクツォイク)の略であったが、本機がドイツ軍の用いた急降下爆撃機の代表として扱われたため、この名が用いられるようになった。

Ju 87 (航空機) - Wikipediaより引用


"ジェリコのラッパ"という言葉は旧約聖書の『ヨシュア記』に記載されている"ジェリコの戦い"が基になっています。

ジェリコの戦い(英語:Joshua Fit The Battle Of Jericho)は、旧約聖書に登場する、古代イスラエルモーセの後継者ヨシュア(英名:ジョシュア)によるカナン人の都市ジェリコの攻略を歌った歌である。

ヨシュアジェリコとの戦いを始め、兵士達は手に槍を持って突撃した。ヨシュアはこの戦いは我が手中にあると言い、兵士達に叫べ、角笛(羊の角を使ったトランペット)を吹けと命令した。すると笛と声によってジェリコの城壁は崩れ落ちた、という「ヨシュア記」6章の内容が歌詞となっている。

ジェリコの戦い - Wikipediaより引用


"ジェリコのラッパ"はその笛の音で城壁を崩したとされ、今作においてはジャックの殺人鬼としての生活が崩れる警告とも取れる。



・天国と地獄

第5の出来事でヴァージに導かれるまま、ジャックは地獄へと歩みを進めていく。
死体で築き上げられた家の穴は地獄の門の入口だったのです。

地獄の最下層へと案内されたジャックに対してヴァージは本来は地獄の底の2層上が行き先だと語ったように、地獄は何層にもなっています。
壊れた橋の先は天国へ通じる道。

今作の地獄の世界観は挿入されたダンテの小舟からも、ダンテの『神曲が基になっていることは明らかですね。
ヴァージもこのダンテの『神曲』に登場する人物です。


ダンテの小舟(1822年、ルーヴル美術館所蔵)
"La Barque de Dante"

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ (Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798年4月26日 - 1863年8月13日) は、フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。

ウジェーヌ・ドラクロワ - Wikipediaより引用



また、『神曲』の影響を受けたゲーテの『ファウストでも天国と地獄を行き来する物語が描かれています。

神曲』(しんきょく、伊: La Divina Commedia)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。
地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。

地獄篇 (Inferno)
煉獄篇 (Purgatorio)
天国篇 (Paradiso)
の三部から構成されており、各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から成る。

神曲 - Wikipediaより引用


主に『神曲』における地獄は

・第一圏 辺獄(リンボ)
・第二圏 愛欲者の地獄
・第三圏 貪食者の地獄
・第四圏 貪欲者の地獄
・第五圏 憤怒者の地獄
・第六圏 異端者の地獄
・第七圏 暴力者の地獄
・第八圏 悪意者の地獄
・第九圏 裏切者の地獄


ジャックの行き着く地獄は2層上ということで第七圏。

第七圏 暴力者の地獄 - 他者や自己に対して暴力をふるった者が、暴力の種類に応じて振り分けられる。

・第一の環 隣人に対する暴力 - 隣人の身体、財産を損なった者が、煮えたぎる血の河フレジェトンタに漬けられる。
・第二の環 自己に対する暴力 - 自殺者の森。自ら命を絶った者が、奇怪な樹木と化しアルピエに葉を啄ばまれる。
・第三の環 神と自然と技術に対する暴力 - 神および自然の業を蔑んだ者、男色者に、火の雨が降りかかる(当時のキリスト教徒は同性愛を罪だと考えていた)。

神曲 - Wikipediaより引用


Wikipediaによれば、第一の環ですかね。


また、楽園を表すものとしてヤン・ブリューゲルの『楽園』の絵が挿入されていました。


ヤン・ブリューゲル (子)画
『楽園』(1620年頃)

ヤン・ブリューゲル (子) (Jan Brueghel de Jonge; 1601年9月13日 –1678年9月1日)は、フランドルの画家。ヤン・ブリューゲル (父)の息子である。

ヤン・ブリューゲル (子) - Wikipediaより引用


新約聖書ルカによる福音書では、イエスがともに十字架に架けられた悔い改めた罪人はイエスとともに"paradise"に入ると述べています。
このことからも、天国は楽園的な安息であると考えられています。

今作でジャックは、悔い改めるばかりか散々罪を犯しながらもまだ天国へ行こうと欲望のまま地獄の壁を登ろうとします。

あれだけのことをしておいてまだ助かろうとしとるんかい!!!

と、心の中で笑いながら激しくツッコミを入れました。
まあ、そんな馬鹿野郎が天国に行けるわけもなく(笑)
足元を掬われ、罪人の永遠の滅びの場所ゲヘナへと落ちていきましたとさ。

めでたしめでたし。(2回目)



終わりに

ということでダラダラと書き綴って来ましたが、まとめです。

今作『ハウス・ジャック・ビルト』は連続殺人鬼ジャックの蛮行を5つのエピソードで描き、道徳、倫理からかけ離れた問題作。
かもしれませんが、ある意味で真っ当なトリアー作品のように感じる。
寧ろ、マトモすぎて、冒頭でも語ったように「鬱病完治したのか?」とさえ思ってしまうほどである。

エピソード一つ一つが酷いんですよ、自分を正当化し、都合のいいように解釈し、言い訳をする。
このジャックのバカバカしさがホラーという側面とコメディという側面の二面性、表裏一体感を出している。
トリアーの自虐と見せかけながら、実は我々観客にも突きつける人間の愚かさや醜さを露呈している。

そんな妄想と知的好奇心を刺激して止まない超絶大傑作なのです(個人的意見)。



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



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ギリシア神話から読み解く映画「聖なる鹿殺し」ネタバレ考察

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は前回の『ロブスター』に続いてヨルゴス・ランティモス監督作『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』について語っています。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Killing of a Sacred Deer
製作年:2017年
製作国:イギリス・アイルランド合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:121分
映倫区分:PG12


解説

「ロブスター」「籠の中の乙女」のギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモス監督が、幸せな家庭が1人の少年を迎え入れたことで崩壊していく様子を描き、第70回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞したサスペンススリラー。郊外の豪邸で暮らす心臓外科医スティーブンは、美しい妻や可愛い子どもたちに囲まれ順風満帆な人生を歩んでいるように見えた。しかし謎の少年マーティンを自宅に招き入れたことをきっかけに、子どもたちが突然歩けなくなったり目から血を流したりと、奇妙な出来事が続発する。やがてスティーブンは、容赦ない選択を迫られ……。ある理由から少年に追い詰められていく主人公スティーブンを「ロブスター」でもランティモス監督と組んだコリン・ファレル、スティーブンの妻を「めぐりあう時間たち」のニコール・キッドマン、謎の少年マーティンを「ダンケルク」のバリー・コーガンがそれぞれ演じる。

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア : 作品情報 - 映画.comより引用



ギリシア神話から読み解く

前作『ロブスター』に続き、今作『聖なる鹿殺し』でもギリシア神話との関係性について考察しています。

前作『ロブスター』の考察はこちらから。


Twitterに上げた感想です。



監督ヨルゴス・ランティモスは『聖なる鹿殺し』の製作にあたってこのように語っています。

「大まかに話すと‘正義’と‘報復’、‘信念’、‘選択’などでしょうか。人生で大きなジレンマに直面すると、何が正しくて何が間違っているのか判断できなくなることですね」
ヨルゴス・ランティモス監督、映画作りの醍醐味語る 『聖なる鹿殺し』特別インタビュー映像|Real Sound|リアルサウンド 映画部より引用


マーティンという人物を中心に作られた物語の中で、ギリシア神話に重なる部分がいくつも見えてくる。
当記事ではそのギリシア神話と個人的見解を中心に考察していますが、その根底には人間の業の深さがあると思います。
こちらの見解に関しても後述しておきます。



さて、まずは前作『ロブスター』同様にギリシア神話を絡めつつ見ていきましょう。



劇中にも語られるギリシア悲劇作家エウリピデス『アウリスのイピゲネイア』。
娘のキムはこの作品の作文で教師から評価を得ていました。

ギリシア軍は、トロイアへの出航準備を済ませてボイオーティアのアウリス港で待機していたが、風がぴたりと止んだため果たせずにいた。カルカースに占わせた結果、これは単なる気象異常ではなく、女神アルテミスの意志によるものだと分かる。アガメムノーンが女神の逆鱗に触れたため、女神は風を止めたのである。

カルカースは将軍に、女神の怒りを和らげるためには、アガメムノーンは長女イーピゲネイアを生贄にささげなくてはならないと告げる。アガメムノーンは恐懼したが、浜に集められた兵士たちは鬱屈しており、このままでは反乱が起きる可能性が高まっていたため、決断せざるを得なくなる[要出典]。アガメムノーンは、妻のクリュタイムネーストラーに伝令を送り、戦に出立する前にギリシア軍兵士のアキレウスとイーピゲネイアを結婚させると言って、娘をアウリスに呼び寄せる。

アウリスのイピゲネイア - Wikipediaより引用



生贄とされたイピゲネイアは鹿と引き換えにアルテミスによって救われた説もあります。

『聖なる鹿殺し』というタイトル。
本作に鹿は登場しません(笑)
このギリシア悲劇を主軸に『聖なる鹿殺し』の全てを読み解ける訳ではありませんが、タイトルとギリシア神話の関連から概ねプロットを理解することは可能です。
 


事の発端はスティーブンがマーティンの父親の心臓の手術に失敗し、死なせてしまったことにある。
物語の中盤で明らかになったのは、スティーブンが酒を飲んだ状態で手術を行ったこと。
つまりマーティンの要求は、自分の父親を殺した報いとして、スティーブンに犠牲を払って貰うというもの。

ヨルゴス・ランティモス監督が語るように、マーティンにとっては"正義の報復"であり、断罪。
ティーブンにとっては、究極の"選択"となる"信念"のぶつかり合いなのだ。



その報復はスティーブンの家族の身に起こる不可解な現象から始まる。

①手足の麻痺
②餓死するまで食事の拒否
③目からの出血
④死亡

の四段階であり、家族のうち誰か1人を犠牲にしなければ家族全員が死んでしまうというもの。

 
マーティンが望むのは、あくまでも自分と同等の苦しみをスティーブンに与えること。
自分以外の家族を失う悲しみや苦しみを味わせることなんですね。



『アウリスのイピゲネイア』でもアガメムノンは「ヘラス人のためにお前を殺さなければならない。」と述べており、娘イピゲネイア自身も「アルテミスが私の身体を望んでいるのであれば捧げます。」と自ら犠牲になることを承諾しています。

このイピゲネイアの台詞と同じような内容をキムが語っていました。
「自分を殺してほしい。家族を愛している。」と。

キムが『アウリスのイピゲネイア』の作文を書いたことにより、影響を受けていることが見受けられる。
つまりはキム自身をその悲劇のヒロインに重ねていたことが考えられます。



しかし、最終的にスティーブンは目隠しのロシアンルーレットで家族一人の生贄を"選択"することを選びます。
結果的にボブが射殺され死んでしまう。
この点に関しても、『アウリスのイピゲネイア』での一説、"イピゲネイアの代わりに鹿が生贄とされた"ことと繋がる。



ここで、ギリシア悲劇から

アガメムノンはスティーブン
その妻クリュタイムネーストラーはアナ
娘イピゲネイアはキム
女神アルテミスはマーティン
そして、犠牲となった聖なる鹿はボブ

という構図が決定付られるわけです。





さて、ここで更に踏み込んだ考察が出来てしまうんですね。
個人的な見解として、この考察が最もしっくりきたものでもあります。

それは『アウリスのイピゲネイア』の後日譚である『オレステイア悲劇三部作』です。


‪『オレステイア悲劇三部作』では『アウリスのイピゲネイア』で描かれた生贄とイピゲネイアの悲劇、そして支配と隷属から復讐の連鎖が紡ぎ描かれます。‬

『オレステイア』(希: Ὀρέστεια, 英: Oresteia)は、古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロスの書いた、トロイア戦争におけるギリシア側総大将アガメムノーン一族についての悲劇作品三部作。
オレステイア - Wikipediaより引用


『オレステイア悲劇三部作』は『アガメムノーン』、『供養する女たち』、『慈しみの女神たち』の三つの悲劇から構成される。

その後日譚の内容を簡単に纏めます。
『アガメムノーン』では妻が夫恨んでおり夫殺しを、『供養する女たち』ではアガメムノーンの息子が父の仇討ちとして母を殺し、『慈しみの女神たち』では親殺しを行った息子の罪を問われるが無罪となり、エウメニデスによって慈しみをもって憎しみと復讐の連鎖はついに断ち切られ、ギリシアに調和と安定がもたらされた。


オレステースを責める復讐の三女神 (ウィリアム・アドルフ・ブグロー/絵, 1862)

エリーニュス(古代ギリシャ語: Ἐρινύς, Erīnys)は、ギリシア神話に登場する復讐の女神たちである。
エリーニュスたちは恐るべき女神であり、本当の名前を出すことははばかられるため、エウメニデス(慈しみの女神たち)と呼ばれる。

エリーニュス - Wikipediaより引用

今作の劇中でも、スティーブンの妻アナは娘キムよりも息子のボブを可愛がっていた描写が幾つか見て取れる。
そんな娘キムは父であるスティーブンよりも母であるアナを嫌っていた描写が幾つかある。
そして、キムはマーティンに恋心を抱いていた。


つまり
聖なる鹿(ボブ)殺しであるスティーブンを恨んだ妻アナが夫を殺し、その夫殺しの仇討ちとして娘キムが親殺しを行う。
その後、キムはマーティンとくっつくのではないか?


これこそが、今作『聖なる鹿殺し』のラストから想像として補完できる物語の終結ではないのだろうか。
そう思える描写が物語の冒頭とラストのシーンに詰め込まれていたように思います。


冒頭、マーティンはスティーブンとの相席でポテトを最後に食べます。
好きなものは最後に残しておくという理由です。
一方、ラストでのキムはどうでしょう。
真っ先にポテトに手を付けていました。

物語でもキムはマーティンと出会って早々にマーティンに思いを寄せます。
このことから好きなものは先に食べるのではないか。
マーティンは"報復"という食事を終え、好きなもの(キム)は最後に食べると…(突然の下ネタ)



マーティンという人物を『アウリスのイピゲネイア』の女神アルテミスとして、そして『オレステイア悲劇三部作』の復讐の女神エリーニュスから慈しみの女神たちエウメニデスとして描かれているのではないか。


色々と考えすぎかもしれませんが、『アウリスのイピゲネイア』の後日譚があるからこそ、『聖なる鹿殺し』の物語があれで終わったとは思えなかったんですよね。



人の業の深さ


ということで、ここからは上記のギリシア神話の考察を踏まえた上で、余談や個人的見解になります。



余談として、関連性は不明だがギリシア悲劇『アウリスのイピゲネイア』と類似した内容のものがキリスト教にもあります。
それは『イサクの燔祭』。


イサクを捧げるアブラハム ローラン・ド・ラ・イール 1650

イサクの燔祭(イサクのはんさい)とは、旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話を指す概念であり、彼の前に立ちはだかった試練の物語である。その試練とは、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられるというものであった。この試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒キリスト教徒、並びにイスラム教徒によって讃えられている。

イサクの燔祭 - Wikipediaより引用

こちらは神への信仰心を確認するための神に捧げられる至上の犠牲の物語なのですが、イサクの燔祭においても最後には雄羊が屠られる。

キリスト教学においては、子羊はイエス・キリストを指す言葉としてしばしば用いられ、人間の罪に対する贖いとしてイエスが生贄の役割を果たすことを踏まえており、古代ユダヤ教の生贄の習慣にも由来する。


ギリシア悲劇『アウリスのイピゲネイア』においても犠牲となる生贄は娘イピゲネイアであり、生贄の選択は出来ませんでした。
今作では家族3人のうち誰か1人という選択が可能だったわけですが、妻アナの「殺すなら当然子供。私たちならもう1回子供作れる」というセリフが最も恐ろしかったですね。



ギリシア神話においては、鹿は聖なる生き物として扱われており、女神アルテミスの聖獣ケリュネイアの鹿を指すことが多い。
このことからも、タイトル『聖なる鹿殺し』はアルテミスの聖獣ケリュネイアの鹿を生贄として捧げることを指すと考えられる。

また、泉で水浴しているアルテミスの裸身を見てしまったアクタイオーンに怒り、アクタイオーンを鹿に変えたという『変身物語』もあります。




人間の罪に対する贖罪といえばドストエフスキーの『罪と罰』。
主人公ラスコーリニコフはある理念の元に行動します。
それが「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」

ティーブンは医師として多くの患者の命を救っている。
また、マーティンに時計をプレゼントしたりとひとつの罪を償うように善行を重ねる。

ひとつの罪とは酔ったまま手術してマーティンの父親を死なせてしまったこと。
言わば、事故死という形で正当化された殺人なわけです。



"罪の償い"に対して、マーティンはスティーブンに父親殺しの罪と対等の罪を償えば、それ以上の罪は求めてはいなかった。
ティーブンがマーティンを地下室に監禁したシーンから各々の立ち位置を推測することができる。


アナはマーティンの傷の手当をした際に、足の甲にキスをします。
これは隷属関係を示し、アナが既にマーティンの支配下に置かれていることが分かります。
不可解な現象が現れなかったことも、地下室から解放したことも関係していると思われます。

この時、キムも床に這いつくばっており、マーティンの方が立場が上であることを示しています。
その上、キムはマーティンに思いを寄せており、支配下に置くことは容易い。

しかし、ボブだけは椅子に座ったままでマーティンと同じ視線の高さでいます。
「父親がいないとお前が支配者のようだな。」とボブに向けたセリフからもボブだけはマーティンの支配下にはなっていない。



家族がそれぞれスティーブンに訴えかけるセリフからもその家族の立ち位置が見て取れる。

自分の命はいいからお母さんと弟を救って欲しいと語るキム。
ティーブンの好きな黒いドレスに身を纏い服従を誓うアナ。
いずれもスティーブンに対して立場は下なんです。

ボブはどうだったか。
自分の夢は実は心臓外科医になることだと涙ながらに訴えかけるんです。
これはスティーブンに対して対等な立場になることを意味します。


以上のことから、実は家族3人のうち誰か1人という選択が可能ではなかったのではないでしょうか?
予め、ボブが聖なる鹿として犠牲になることが定められていたとも考えられます。



マーティンが拘束された際に、スティーブンの腕に噛み付いたシーンから、スティーブンとの関係性も明らかとなります。
ティーブンに噛み付いた直後、自分の腕にも噛み付き、対等な立場を作る。

これは他の描写でも伺えます。
例えば、スティーブンに時計をプレゼントされれば、その家族にプレゼントを返す。
アナにレモネードを出されれば、スティーブンを家に招待しレモネードを振る舞う。


あくまでも現状で対等の立場を貫くことで、罪の償いをさせず、スティーブン一家を支配下に置き、父親殺しという罪を"正義の断罪"として振り翳して裁くことができるからですね。


「目には目を、歯には歯を」
ハンムラビ法典に記述された有名な言葉ですが、これはあくまでも対等な身分であることが条件です。
また、ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを目的としてはおらず、 過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて復讐の連鎖を断ち切る
つまりは、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めることが本来の趣旨です。



また、マーティンはスティーブンに対して、自分の父のように尊敬し父親のようになってほしいと思っているかのようにも映る。
一方で、マーティンの実の父親の描写は希薄。
キーパーソンであるにも関わらず息子であるマーティンとのエピソードは"パスタを食べる時のフォークの使い方"のみである。
この特徴を「誰だって同じだ」と自ら否定する。

マーティンの中で、父親は既にいないものとして決定づけるものだろう。
だからこそ、家族を失う苦しみを与えること、スティーブンの家族のうちの誰か1人を失ってもらう必要があるという"覚悟"や"信念"にも映る。




マーティンの報復は果たして同等の懲罰なのか?
過剰ではないと言えるのだろうか?

上記で記述した通り、ラスト後の物語の想像としての補完は『オレステイア悲劇三部作』からも復讐の連鎖を生む形となっている。
そして、その復讐の女神たちも説得され慈しみの心を持てば物事は収束し、調和と安定がもたらされる。

今作は、人の業の深さ、人ひとりの命の重さを訴えるものであるように思います。



終わりに

今回もダラダラと語ってしまいましたが、『聖なる鹿殺し』はかなり自分好みの映画でしたね。

ヨルゴス・ランティモス監督がギリシャ人ということもあり、彼の作品にギリシア神話とは切っても切れないものだと思います。
あくまでもひとつの見解として考察していますが、ギリシア神話に結び付けずとも今作『聖なる鹿殺し』は『ロブスター』よりも単純なプロットであり、見易く分かりやすいと思います。

ギリシア神話は日本人にとって馴染みのないもの。
だからこそ、興味を持つことで今後の彼の作品に深みが出ると思います。
女王陛下のお気に入り』は彼の作品の中では初ということもあり、ギリシア神話を絡めての考察はしていません。
が、ギリシア神話に纏わる物語が何か隠されているのではないか?と思ってしまうほどヨルゴス・ランティモスという監督に興味が持てました。

次回鑑賞作は『籠の中の乙女』になると思います。
また考察したくなればブログに書き起すこととします。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




(C)2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited


ギリシア神話から読み解く映画「ロブスター」ネタバレ考察

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は『ロブスター』について語っています。
久しぶりに新作ではない映画の考察記事になります。

この記事はネタバレを含みます。
ご注意ください。



作品概要


原題:The Lobster
製作年:2015年
製作国:アイルランド・イギリス・ギリシャ・フランス・オランダ・アメリカ合作
配給:ファインフィルムズ
上映時間:118分
映倫区分:R15+


解説

アカデミー外国語映画賞ノミネート作「籠の中の乙女」で注目を集めたギリシャヨルゴス・ランティモス監督が、コリン・ファレルレイチェル・ワイズら豪華キャストを迎えて手がけた、自身初の英語作品。2015年・第68回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞。独身者は身柄を確保されてホテルに送り込まれ、そこで45日以内にパートナーを見つけなければ、動物に変えられて森に放たれるという近未来。独り身のデビッドもホテルへと送られるが、そこで狂気の日常を目の当たりにし、ほどなくして独り者たちが隠れ住む森へと逃げ出す。デビッドはそこで恋に落ちるが、それは独り者たちのルールに違反する行為だった。
ロブスター : 作品情報 - 映画.comより引用




ギリシア神話から読み解く

まずはTwitterにあげた感想から。


ということで、自分が感じたギリシア神話との共通点についてサクッと語っていきます。


テイレシアースは盲目の予言者として知られるが、盲目となった理由は諸説あります。

一説には、テイレシアースがキュレーネー山中で交尾している蛇を打ったところ、テイレシアースは女性になってしまった。9年間(オヴィディウスの『変身物語』では7年と書かれている)女性として暮らした後、再び交尾している蛇を見つけ、これを打つと男性に戻った。あるときゼウスとヘーラーが、男女の性感の差について、ゼウスは女がより快感が大きい、ヘーラーは男の方が大きいとして言い争いとなり、テイレシアースの意見を求めた。テイレシアースは「快感を10倍に分けており、男を1とすれば、女はその9倍快感が大きい」と答えた。ヘーラーは怒ってテイレシアースの目を見えなくしてしまった。ゼウスはその代償に、テイレシアースに予言の力と長寿を与えたという。
テイレシアース - Wikipediaより引用



動物に変えられるというシュールな設定もこのギリシア神話"変身物語"からの着想を得たのではないかという個人的見解です。

この"変身物語"でテイレシアースは蛇の交尾を見つけ、打ったことで女性となってしまった。
そして、再び同じ行動をして男性に戻った
ことから、物語冒頭のバイ・セクシャルに繋がる。
主人公デビッドがテイレシアースに準えられた事を示すものではないのか?と考えたわけです。


また、盲目の代償として予言の力と長寿を与えた。
予言の力についてだが、テイレシアースがナルキッソスを占って「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と予言する場面がある。
ナルキッソスは動物ではなく水仙という花に変えられてしまうのだが、ナルキッソスはナルシストの語源であり、自分自身を知るとは人を愛すること、今作では盲目の女性を愛する自分の姿。
愛を知らなければロブスターとなり長寿を得ることになる。
この物語の大筋とナルキッソスを占ったテイレシアースの予言の共通点です。



"オイディプース王の悲劇"に出てくる、かの有名なスピンクスの謎かけ。


オイディプススフィンクス

オイディプースはポーキスの三叉路から逃げてテーバイへと向かった。この頃テーバイではヘーラーにより送られたスピンクス(スフィンクス)という怪物に悩まされていた。

この謎は「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」というものであった。

テーバイに来たオイディプースはこの謎を解き、スピンクスに言った。
「答えは人間である。何となれば人間は幼年期には四つ足で歩き、青年期には二本足で歩き、老いては杖をついて三つ足で歩くからである」

また一つの解釈として、スピンクスの謎かけの答えは「オイディプース」であるとも言われる。それは、初めは立派な人間(=二つ足)であったが、母と交わるという獣の行いを犯し(=四つ足)、最後は盲目となって杖をついて(=三つ足)国を出て行く、と言うオイディプースの数奇な運命を表すものである(この解釈では朝・昼・夜という時系列は、青年期・壮年期・老年期となる)。この解釈は蜷川幸雄演出の『オイディプス王』(2002年、野村萬斎主演)でも演じられた。

オイディプース - Wikipediaより引用

これも彼らの行動と一致する。
人間として生きていく道を選んだ二人。
厳密には近親相姦ではないが、森での禁じられた行為(異性間交遊)として描かれていると思ってもらえれば。



ちなみに、テイレシアースとオイディプースの共通点でもあるテーバイについても言及しておこう。

テーバイは、ギリシャ神話で重要な役割を果たす土地である。
神話によれば、テーバイの創建者はカドモスである。
父を殺し母を妻としたオイディプースの悲劇の舞台であり、オイディプースはカドモスの玄孫にあたる。

オイディプースには2人の男子(エテオクレース、ポリュネイケス)と2人の女子(アンティゴネー、イスメーネー)がいた。2人の男子は王位をめぐって争い、テーバイ攻めの七将の物語となる。七将は攻略に失敗し、反逆者として埋葬が禁止された兄ポリュネイケースの亡骸を葬ったアンティゴネーは自害した。

テーバイ - Wikipediaより引用


テイレシアースは上記に記載した通り、テーバイの預言者
オイディプースの2人の男子は王位をめぐって争い、テーバイ攻めをする。
その攻略に失敗し、反逆者として埋葬が禁止された。

今作に当てはめるなら、テーバイは例のホテルを指し、逃亡した独身者は反逆者を指す。
誰も埋めてはくれない、自分の墓を掘れという設定は反逆者は埋葬が禁止されたことに基づくと考えられる。



愛とは何か?

あくまでもギリシア神話はこの物語の大筋の話を準えるだけであって、その根底にあるメッセージはTwitterの感想にも記述した通り、"愛とは何か?"なんですよ。


ホテルのルールとして45日以内にパートナーを見つけなければ動物になる。
極端な話、好きでもない異性に好かれる為に偽りの共通点を探すわけです。
その嘘に綻びが出ればカップルにはなれず動物となってしまう。

だから、それが嫌で独身者のままであろうとする逃亡者が森へと逃げ出す。

面白いのが、その逃亡者たちレジスタンスを麻酔銃で眠らせて捉えれば、一人あたり一日のホテル滞在期間が延長されるというもの。

ホテル滞在者は動物にされまいと必死であり、独身者は格好の餌食。
つまり、まだ動物になっていない逃亡者は既に動物のように狩られる立場にあるということです。

ホテルでも規則に縛られ、レジスタンスでも規則に縛られる。
いずれにしても待っていたのがファシズムの抑圧なわけです。



ここで、レジスタンス側としてデビッドは近視の女性と恋に落ちて逃避行するわけですが、もっと早くに出会っていれば…といった人の運命論的観点が皮肉が見え隠れする。


デビッドが思いを寄せる女性に近づいた男に必要以上に近視かどうか迫るシーンでも、近視であることが二人の共通点、運命の相手である条件、運命の出会いであると信じていたから。


そんな近視の女性はレジスタンスのリーダーに騙されて失明する。
近視ではなくなった女性との共通点がなくなったデビッドが取った行動がラストシーンです。

ラストで足の不自由な男が鼻血の偽装を行ったように、彼も盲目となったか否かについては、個人的見解では否であると考えています。

様々な解釈が出来る故、盲目を選んだ視点もあり。
盲目になることを選んだと解釈するなら、盲目の預言者であるテイレシアースに繋がり、盲目の人が杖をついて歩く姿からオイディプースの三本足(この物語の終盤を指す)にも繋がる解釈が可能です。

エンドロールに流れる波の音からも、彼は盲目となるという決断が出来ず、ロブスターになった説の方が濃厚ですね。
エンドロールに入る間際の彼を待ち続ける彼女の長回しからもそれは推測できる。



「せめて生まれ代わることができるのなら、人間なんて厭だ。しかし、牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。どうしても生まれ代わらなければならないのなら、私は貝になりたい。なぜなら、深い海の底の岩にへばりついている貝は、何の心配もない。兵隊にとられることもない。」

元陸軍中尉・加藤哲太郎の獄中手記『狂える戦犯死刑囚』の遺書部分をもとに創作されたドラマ『私は貝になりたい』。
その遺書の一文です。

これと似たような内容の詩があります。

I should have been a pair of ragged claws
Scuttling across the floors of silent seas.
(カニかなんかの一対のボロ爪になって、しいんとした海の底を急いで渡ってたほうがよかったね。)
The Love Song of J. Alfred Prufrock by T. S. Eliotより引用


『The Love Song of J. Alfred Prufrock』
J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌というトマス・スターンズ エリオットの処女詩集。


まさに今作でのデビッドの想いそのもの。
愛から逃れるために、人間ではいたくなくなった。
ロブスター(カニ)のように海の底で静かに生きようと。

デビッドは盲目になることを避け、視力の代わりに彼女の愛を失ったのでしょうか。



終わりに

ということで、簡単にギリシア神話から見た『ロブスター』の考察と補足をしましたが、様々な解釈が出来る面白い映画でしたね。


久しぶりに旧作映画で考察したいと思える作品に出会いました。
ヨルゴス・ランティモス監督作、実は『女王陛下のお気に入り』が初鑑賞作であり、『ロブスター』は彼の作品の二作目なんです。



『聖なる鹿殺し』は劇場鑑賞を逃してしまって、まだ鑑賞出来ていません。
また機会がありましたら、ブログに起こすかもしれません。

その際は、よろしくお願いします(笑)



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。


(C)2015 Element Pictures, Scarlet Films, Faliro House Productions SA, Haut et Court, Lemming Film,
The British Film Institute, Channel Four Television Corporation.



現代社会に切り込む聖書(「幸福なラザロ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は『幸福なラザロ』について語っています。

この映画を深く語ろうとすればネタバレを避けることはできません。
したがって、この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Lazzaro felice
製作年:2018年
製作国:イタリア
配給:キノフィルムズ
上映時間:127分
映倫区分:G


解説

カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作「夏をゆく人々」などで世界から注目されるイタリアの女性監督アリーチェ・ロルバケルが、死からよみがえったとされる聖人ラザロと同じ名を持ち、何も望まず、目立たず、シンプルに生きる、無垢な魂を抱いたひとりの青年の姿を描いたドラマ。「夏をゆく人々」に続き、2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、脚本賞を受賞した。20世紀後半、社会と隔絶したイタリア中部の小さな村で、純朴な青年ラザロと村人たちは領主の侯爵夫人から小作制度の廃止も知らされず、昔のままタダ働きをさせられていた。ところが夫人の息子タンクレディが起こした誘拐騒ぎを発端に、夫人の搾取の実態が村人たちに知られることとなる。これをきっかけに村人たちは外の世界へと出て行くのだが、ラザロだけは村に留まり……。
幸福なラザロ : 作品情報 - 映画.comより引用

予告編



時代背景

今作『幸福なラザロ』は20世紀後半のイタリア中部にある小さな村が舞台。

貧しい生活の中で働き者の純朴なラザロと村人たちは、小作制度の廃止を隠蔽する侯爵夫人に騙され、社会から隔離された生活を強いられていました。
ある日、侯爵夫人の息子タンクレディ狂言誘拐騒ぎを起こし、この事件をきっかけに村人たちは外の世界に出ていく。



このあらすじは監督アリーチェ・ロルバケル自身が"小説より奇"な事実から着想を得たと語っています。

「何よりもイタリアで80年代にやっと中世――労働を奴隷制度と見なす考え方が終わったことで生まれた大きな可能性について語りたかったの。それは政治の力で労働が人類にとって重要なものであることを再認識するチャンスだったから。ところが奴隷制を続ける選択がなされた。肌の色が変わり、出身地も変わって、以前の農民たちとは違うけれど、奴隷であることに変わりはない」
カンヌ脚本賞「幸福なラザロ」A・ロルバケル、インスピレーションの源は“小説より奇な”事実 : 映画ニュース - 映画.comより引用


イタリアでは、1964年から1982年という18年もの時間をかけて廃止になったメッザドリアという小作人制度がありました。
メッザ(半分)という言葉からも分かる通り地主に収穫の半分を納めるというものです。

小作制度(こさくせいど)とは、農民が生産手段としての土地をもたず、その土地の所有者や占有者から土地の使用権を得て農作物の生産に従事する制度。小作制度は土地の性格あるいは所有権や占有権の性格の差異によって多様な様相をもつ。
小作制度 - Wikipediaより引用


1982年に封建的な小作制度が廃止されても尚、労働環境は改善されず、搾取も隷属状態も改善されない。
それどころか、貧困問題は一層過酷になっている。
農民たちは自由を手に入れたが、特権階級は搾取のターゲットを貧しい外国人たちに変え、更に搾り取ろうとしていました。



これは嘘のようで本当にあった出来事。
容赦のない現実の不条理を描き出すため、アリーチェ監督が選んだ主人公がラザロなのです。

目を見張るほどの善人であり、純粋故に人を疑うことを知らない。
扱き使われる村人のためでも、自己中心的な侯爵夫人の息子のためでも、望みを聞いて回る。
隷属関係にある下僕のようにも、はたまた人々を助ける聖人のようにも映る。
そんなラザロの姿が静かに淡々と、それでいて清く淑やかに慎ましく物語を引っ張っていく。



第一部

ラザロくんは二度死ぬ!



いきなり核心をつくネタバレをぶち込みました。

そう、ラザロくんは劇中で二度死んじゃうんです。
あらすじに書かれたストーリーは第一部に過ぎません。
一度目の死からの復活で物語は第二部へと入ります。

色々あってラザロくんは一度死んでから、時を経て再び目覚めるんですよね。



まず、ラザロくんは新約聖書に聖人ラザロがモデルなのは言うまでもないですね。


ラザリ(ラザロ)の復活のイコン(15世紀ロシア)

ラザロはユダヤ人の男性で、イエスの友人。日本ハリストス正教会ではラザリと転写される。ユダヤ名エリエゼルがギリシア語化した名と推測される。

正教会非カルケドン派カトリック教会・聖公会で聖人。記念日は6月21日。エルサレム郊外のベタニアに暮らし、マリアとマルタの弟で共にイエスと親しかった。イエスは彼らの家を訪れている(『ルカによる福音書』10:38-42)。

また『ヨハネによる福音書』11章によれば、イエスによっていったん死より甦らされた。ラザロが病気と聞いてベタニアにやってきたイエスと一行は、ラザロが葬られてすでに4日経っていることを知る。イエスは、ラザロの死を悲しんで涙を流す。イエスが墓の前に立ち、「ラザロ、出てきなさい」というと、死んだはずのラザロが布にまかれて出てきた。このラザロの蘇生を見た人々はイエスを信じ、ユダヤ人の指導者たちはいかにしてイエスを殺すか計画しはじめた。カイアファと他の大祭司はラザロも殺そうと相談した。(ヨハネ12:10)

ラザロ - Wikipediaより引用


ラザロ蘇生の奇跡は、人類の罪をキリストが贖罪し、生に立ち返らせることの予兆とされています。

このラザロ蘇生はメタファーやメッセージ性として多くの文学に用いられています。
例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』でも、主人公である殺人犯ラスコールニコフが自白を決意する際にラザロの死と復活について娼婦ソーニャに請うて朗読させる場面があります。


また、ラザロという言葉は医学用語としても用いられます。

ラザロ徴候(ラザロちょうこう、英語: Lazarus sign, Lazarus phenomenon)は脳死とされる患者が自発的に手や足を動かす動作のことである。1984年にA・H・ロッパーによって脳神経科学誌の『Neurology』に報告され、ラザロ徴候と名づけられた。名前は新約聖書でイエスによってよみがえったとされるユダヤ人のラザロに由来する。
ラザロ徴候 - Wikipediaより引用


ラザロ徴候を題材としたSFホラー映画も作られていますね。



ちなみに、新約聖書旧約聖書に対して、新しい契約という意味がある27の文書からなるキリストの正典です。

旧約聖書ユダヤ教の正典であり、モーゼとの契約について記されたもの。
新約聖書はキリストの誕生後の神の啓示を記したもの。
マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書でイエスの行動と説教を伝え、ペテロ・パウロなどの活動を伝える「使徒行伝」があり、パウロの手紙といわれる13の書簡が続く。
最後に「ヨハネの黙示録」ではローマ帝国の迫害下にある信者に対し、忍耐と希望を呼びかけ、終末での神の審判への期待を記している。



劇中の冒頭で、村人たちが宴を繰り広げている夜、一人で鶏小屋の見張りをするラザロの姿がひとつ。
侯爵夫人に搾取される村人たちからも搾取されるラザロくんという構図は言わば食物連鎖の底辺に位置する。

もうひとつは高熱に魘された夜
村人たちはラザロの頭をご利益があるかのように順番に撫でていく。
足元もおぼつかない様子で高所から転落する一度目の死は、侯爵夫人と村人の隷属関係の崩壊を意味し、小作人たちは救済される。





ここで、劇中に一貫して登場する"狼"について考えていきます。

小作人たちにとって、家畜は財産のようなものです。
そんな大切な家畜、主に羊や鶏を殺すものとして狼は恐れられている存在。
隔離された社会の外部からやってきてその集落を撹乱させる存在です。

羊や鶏を見張るラザロは村人からも搾取される立場。
しかし、そんなラザロこそがその集落を守り、支える役割を担っていたのだろう。



小作人である村人たちを搾取する側の立場であるタンクレディと搾取される側のラザロが兄弟という形で友好的な関係を築き、"狼の遠吠え"を真似たシーン。
これは集落が内部から崩れることを予兆するもの。

結果、デ・ルーナ侯爵夫人を頂点とする食物連鎖は、タンクレディ狂言誘拐によって崩壊することとなった。



新約聖書には"羊の皮をかぶった狼"という言葉が登場します。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。(新約聖書 マタイの福音書 7章 15節)

意味としては「親切そうにふるまっていながら、内心ではよからぬことを考えている人物」となります。
ちなみに"羊"という動物は聖書の中では、象徴的な意味を持つ動物。
それは時にイエス・キリストを象徴する時もあれば、人間を象徴することもあります。

つまり"羊の皮をかぶった狼"とは侯爵夫人やニコラのように小作人を搾取する側を指す。
村人たちが侯爵夫人のことを"毒ヘビ"と表現していたこの言葉がそれと同等の意味を持つ。

新約聖書にてパウロが毒蛇に噛まれる話がありますが、旧約聖書から一貫して毒蛇は悪の象徴であると考えられます。

旧約聖書においても創世記3章にて、蛇はアダムとエバをそそのかし、神様が食べてはいけないと言われていた木の実を食べさせてしまいます。
これが人間の罪の始まりでした。

村人にとって、侯爵夫人は悪の存在というわけです。



少し話が逸れましたが、狼の話に戻します。
ラザロくんの一度目の死から、再び目覚めたシーンで、狼がラザロの匂いを嗅いでいました。

狼は善人の匂いを嗅ぎ分けられるのか?



イタリアオオカミという品種がいるのはご存知でしょうか?


メスはオスに比べて1割ほど小さい。 オスの平均体重は、24~40kg、体長100~140cmで体毛は黒や灰色、茶色をしている。

イタリアオオカミは、1800年代半ばまでは、シチリア島を含め、イタリア半島の広範囲に及んでいたが、 1940年代にはシチリア島から姿を消した。 1960年から1970年の間に400頭以上のイタリアオオカミが殺害された。

イタリアオオカミ - Wikipediaより引用


劇中に登場した狼もイタリアオオカミです。
狼はイタリアにとって象徴的な動物なんですね。

ラザロには両親はいません。
いつ、どこで生まれたのかも知りません。
狼と育った可能性も。
そして一度目の死で、狼がローマの魂を運んできた、とも考えられます。

ローマに伝わる伝説にも、狼に育てられた双子の話があり、ローマの街には狼の銅像も建っています。
狼に育てられた双子ロムルスとレムスは羊飼い夫婦ファウストゥルスとラレンティアに発見され、二人のもとでたくましい青年に成長し、羊飼いをしていたという話もあります。
この兄ロムルスという名前が、後に"ローマ"の名前の由来となったそうです。



第二部

一度目の死からの復活、時を経て目覚めたラザロはひとり過去に取り残されたかのように彷徨い歩く。

第一部ではたばこ農園と自然の風景を中心に、実話に準えたストーリーで村人たちをリアリズムに捉えていました。


時を経て第二部へと入り、舞台が隔離された村から北イタリアの大都市へ転ずると、ラザロの聖人像は一層色濃くなります。


アントニアやタンクレディと再会したラザロが訪れた教会のシーン。
まるで神がラザロを祝福していたかのように、彼が去った後の教会から音楽が逃げてしまいます。
聖歌はラザロを追って空を舞うのです。

その時、ラザロが流した一筋の涙は観ている我々観客の心を浄化するように美しく、清らかで。。。



兄弟と信じ込み、タンクレディとの再会を喜んだのも束の間、ラザロはその裏切りにより悲しみに暮れます。

タンクレディに招待される直前、タンクレディとラザロは再び"狼の遠吠え"をします。
これは二人の関係を崩壊させることを予兆していたのか?

ラザロは尚、兄弟であるタンクレディを救うべく、差し押さえられた財産を取り戻すために銀行へ向かいます。
辛くもタンクレディとの絆でもあった武器"パチンコ"を銃と間違えられ、怒り狂った市民の暴力によってラザロは動かなくなりました。

二度目の死を迎えたラザロの元を離れ、車道を走る狼は、"聖人"ラザロの清き魂を古都ローマへ連れ帰ったのか。





新約聖書にラザロはもう一人登場します。

金持ちとラザロはイエス・キリストのたとえ話(ルカによる福音書16章19~31節)に登場する対照的な人物である。

16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

金持ちとラザロ - Wikipediaより引用


この話に登場するラザロは聖人ラザロとは別人です。

ラザロという名前はヘブル名ではエルアザル(神はわが助け)という意味。
貧しい病人のラザロに対し同情心を持たなかった、ある金持ちの死後の世界での末路について語られる。
そして、イエスが教えを語り、悔い改めを促しても彼らは一向に耳を傾けないだろうと言う意味が込められている。



ラザロの一度目の死からの復活、第一部は"聖人ラザロ"。
そして、復活してからラストの二度目の死までの第二部は"金持ちとラザロ"に登場するラザロとの共通点が非常に多いんです。



終わりに

第一部では過去に実際にあった事実を基に"聖人"ラザロの復活を。
そして第二部では第一部で描いた小作制度が残す傷跡、現代社会を見据える"聖人"視点で映しながら、貧困層が抱える問題を描いた寓話、いや聖書である。


独特な世界観や空気感、それを押し付けがましくなく、すっと心に染み渡るように優しく、そして心の澱を掬ってくれるように慎ましく現代の"聖人"を作り上げたアリーチェ・ロルバケル監督の手腕を見せつけられました。
過去作を観ると共に、新作を追いかけていこうと思いましたね。

ということで『幸福なラザロ』、なんとも言えない余韻に包まれる素晴らしい映画でした。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




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