小羊の悲鳴は止まない

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「生きるとは何か」を深く問いかける(「教誨師」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今日は大杉漣さんプロデュースの「教誨師」を観てきました。

今作は上映時間の大半が拘置所の密室、主に会話劇である為、少し考察を交えつつ、感じたまま、受け取ったままを吐き出していこうと思っております。

どうしても核心に迫る部分についての言及が多くなるためネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
上映時間:114分
映倫区分:G


・解説

2018年2月に急逝した俳優・大杉漣の最後の主演作にして初プロデュース作で、6人の死刑囚と対話する教誨師の男を主人公に描いた人間ドラマ。受刑者の道徳心の育成や心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く教誨師。死刑囚専門の教誨師である牧師・佐伯は、独房で孤独に過ごす死刑囚にとって良き理解者であり、格好の話し相手だ。佐伯は彼らに寄り添いながらも、自分の言葉が本当に届いているのか、そして死刑囚が心安らかに死ねるよう導くのは正しいことなのか苦悩していた。そんな葛藤を通し、佐伯もまた自らの忘れたい過去と向き合うことになる。死刑囚役に光石研烏丸せつこ古舘寛治。「ランニング・オン・エンプティ」の佐向大が監督・脚本を手がけた。
教誨師 : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編




教誨師と死刑囚

先ず、主人公である教誨師と死刑囚についてお話しておかなければなりません。


教誨(きょうかい)とは、第1義には、教えさとすことをいう。同義語として教戒(きょうかい)があるが、こちらは、教え戒めることをいう。両者の違いは「誨(意:知らない者を教えさとす)」と「戒(意:いましめ。さとし)」の違いである。また、これらから転じて第2義には、受刑者に対し、徳性(道徳をわきまえた正しい品性。道徳心。道義心)の育成を目的として教育することをいう。

受刑者に対して教誨・教戒を行う者は、教誨師教戒師(きょうかいし)という。

教誨 - Wikipediaより引用


死刑囚(しけいしゅう)は、死刑の判決が確定した囚人に対する呼称である。死刑が執行されるまでその身柄は刑事施設に拘束される。また死刑は自らの生命と引換に罪を償う生命刑とされることから、執行されるとその称は「元死刑囚」となる[1]。刑事施設法などの日本の法令では死刑確定者と呼ばれる。

21世紀初頭現在、国連総会で採択された自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)の影響もあり、死刑廃止国も多いため死刑囚が現在も存在する国は限られてきている。

死刑囚 - Wikipediaより引用



作中にも語られた通り、EU加盟国は死刑廃止国が条件であり、欧州諸国はベラルーシを除き死刑は廃止されています。

本国における死刑囚に対する刑の執行は法務大臣の命令によらなければならないとされ、法律上は特別な理由のない限り、死刑判決が確定してから6か月以内に死刑が執行されなければならない。

また、作中冒頭でも記載された通り
死刑判決を受けた者(死刑囚)の執行に至るまでの身柄拘束は刑の執行ではないとして、通常刑務所ではなく拘置所に置かれる。



今作は死刑囚と対話する日本の教誨師を主人公としたドラマ映画であり、大杉漣さんが教誨師を演じています。
6人の死刑囚がバラバラに登場し、教誨師である佐伯(大杉漣)が対話をしつつ、各々の死刑囚に合わせて罪の意識に問いかける。
形式上はそうなのだが、単なる死刑囚の救済、そんな綺麗事で終わる話ではないのだ。
教誨師としての葛藤や苦悩。
死刑囚の生きる意味や訴えたいこと。
このふたつに接点を持たせること、人と人が交わる難しさを描く。


なんと言っても序盤から終盤にかけての6人の死刑囚たちの演技、人物描写が素晴らしい。
ひとりひとりに与えられた教誨の時間は短く、出演時間も断片的だ。
それでも一回目の登場から各死刑囚がどのような人物なのかを大まかに把握することが出来る。

勿論、大杉漣さんも主人公ながら聞き役として徹し、素晴らしい演技です。


また、拘置所の静謐に満ちた独特な雰囲気も肌で感じることが出来る。
無音に響き渡る足音、扉の開閉の音、椅子の軋む音、対話、雨音に至るまで、無駄なBGMを排除したからこそ味わえる臨場感。

死刑囚相手という張り詰めた空気感、会話からのみ与えられる情報の少なさに、各死刑囚たちがどのような経緯で殺人を犯し、死刑囚として収監されたのか?
そして死刑執行は6人の中の誰なのか?(予想はつきますが)
その推理サスペンスとしての側面、面白さもある。

そんな観客の推理と並行するように教誨師の佐伯が彼らと対話したことで相手がどのような人間なのかが明らかとなっていく。



登場人物の整理

本題に入る前に6人の死刑囚と教誨師佐伯がどのような人物なのかを当管理人の目線で簡単に紹介したいと思います。

これを踏まえた上で次の考察に入ります。




ストーカー規制法により相手と家族を殺めた鈴木死刑囚
彼はずっと押し黙ったままだったが、佐伯の語りに少しずつ心を開いていく。
鈴木自身、ストーカーだとは気付かず妄想を描いて心の安寧を手にする。




酒好きのヤクザ組長、吉田死刑囚
佐伯と最も親しく映る一方で、佐伯以外には態度が変わる。
悪びれることもなく、他に犯した罪を佐伯に伝える。
刑の執行について人一倍に敏感だった所も印象的だ。




よく喋る関西のオバチャン、野口死刑囚
マシンガントークは観ているこちらも思わず笑ってしまうほどで一見明るい。
しかし、リストカットの跡があったり、虚言癖があったり、自分の話を邪魔されるとキレだす。
精神的に不安定であり、自身の罪の意識よりも周りが周りがと他人のせいにする傾向が見られる。




家族のことを思う気弱で心優しい小川死刑囚
死刑囚たちの中で唯一、犯行についての詳細が明かされた人物。
その経緯には哀れみの感情すら覚えてしまう。
裁判のやり直しを助言する佐伯に対して、諦めを見せる姿に胸が痛くなりました。




ホームレスの進藤死刑囚
字が読み書き出来ず、連帯保証人になっても他人を心配するお人好しのおじいちゃん。
死刑囚の中で最も明確に佐伯に救済された人物でもあると思う。
キリスト教に入りたいと願い、佐伯に字を教えてもらう。




博識で人を見下す高宮死刑囚
この作品で最重要人物である彼は他の死刑囚とは違う。
彼は常に社会をより良いものにしたいという理想を持っています。
一方で話すことは正論ではあるが、屁理屈でもあり、表情や態度に至るまで全てが不快。
佐伯も怖いと表現したように、理性的であるが故の人間らしさが見えない人物。




佐伯
教誨師としての彼は聞き役であり、死刑囚との対話、救済が求められるが、彼自身もその教誨師という立場に苦悩する。
それは過去の出来事があるからだ。
兄が人を殺めていること、その原因が自分にあること。
迷いが決心に変わる瞬間、意外な素顔など牧師ではない彼の姿との対比が実に人間味溢れる。



このように、会話劇にも関わらず、全てが全て説明的にならずに断片的な部分のみを見せることによってその人物の人となりを想像で保管するようになっています。
例えば、こんな酷いことをしたんだから死刑になっても当たり前じゃないか。なんて先入観や固定概念を抜きに、二人の対話から読み取る情報で自分自身が判断する仕様になっている事が素晴らしいんですよ。



さて、ここでこの作品の核心に迫る部分について言及していこうと思います。

・この作品のメッセージとは?
・ラストに残されたメッセージの意味とは?

この2点に絞って考えていきます。



無知の知

・この作品のメッセージとは?

刑の執行対象者は高宮でした。
これは概ね予想のつくものではありましたが、そこに至るまでの過程がこの作品のメッセージそのものなんですよね。



作中の二人の対話について着目します。

佐伯「どんな命でも生きる権利がある、奪われていい命など無い」
高宮「牛や豚は良いのにイルカは殺してはダメな理由は?」
佐伯「イルカは知能が高いから…」
(中略)
高宮「どんな人間でも殺してはいけないと言うのに死刑があるのは?」

この言葉に反論出来ず沈黙してしまう佐伯。
この時の表情はとても印象的だと思います。

このシーンこそがこの作品の核心部分であり
今作は"生と死"、そして"罪とは何か?"がテーマなのは明白で、死刑囚は生きる意味があるのか?という難しい問題を教誨師を通して観客が考えるものとなっています。



教科書通りの牧師の言葉では高宮の心を動かすことは出来ない。
高宮から返ってきた言葉が佐伯の考え方を変えることとなる。

上記にも佐伯は高宮のことを「あなたを知らないことが恐ろしい」と表現しています。
「生きることと死ぬこと」
これも同じで、知らないことは怖いのだと説く。


その根底にあるのは哲学でしばし用いられる
"無知の知"である。

「無知であることを知っていること」が重要であるということ。
要するに「自分が如何にわかっていないかを自覚せよ」ということです。

これは自分自身だけでなく、相手に対してもそう。
無知を自覚することで新しい何かが見えてくる。

佐伯自身も死刑囚たちと対話することで少しずつ人となりを知っていくこととなる。
しかし、「知る」とは「理解すること」ではない。
「空いた穴を一緒に見つめる」と表現されたように、相手が犯した罪、心情の変化に寄り添うことなのです。


その結果、「どうして空いたのか?誰が空けた穴なのか?」などはどうでも良くて「空いた穴を一緒に見つめる」こと、つまり寄り添うことを選んだ佐伯は教誨師としては失格、今までの形を崩した対応を見せ、高宮を変えることとなったわけです。

この対応が「ああ、高宮が死刑の執行対象者なんだな」と気付かされる部分ではあるのですが。


死刑囚との対話を通して、佐伯は「何もできない」という教誨師としての絶望感を抱いたのだと思います。
それでも「自分にできることは何か?」を見つめ直し、彼らに寄り添うことしかないという答えを出したのではないか?

これまで冷静で上から目線だった高宮が執行直前に弱々しく怯えていた姿はしっかりと脳裏に刻まれている。
執行時、黒いマスクを被せられた時に漏らした言葉
「あれ?」
この時、彼は一体何を思ったのだろうか?



キリストの言葉

・ラストに残されたメッセージの意味は?

佐伯に字を教えられ、脳梗塞か何かの病で倒れた進藤が佐伯に洗礼を受けた後に涙ながらに渡したグラビアアイドルの写真。
ここに書かれていたメッセージは

あなたがたのうち、
だれがわたしに
つみがあると
せめうるのか

これはヨハネ福音書8章46節。
(参考:John / ヨハネによる福音書-8 : 聖書日本語 - 新約聖書)

聖書では、キリストが神の子であることを疑い悪霊に取り憑かれているんだと言う人々に投げかけた言葉です。

この言葉の続きはこうだ。
「わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。
神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである。」

進藤が覚えた平仮名で佐伯に何を伝えたかったのだろうか?
進藤は唯一、明白に救済された死刑囚であり、可能性として罪なき罪の贖い、冤罪だったということも有り得るのではないだろうか?



終わりに

言葉というものは他人に物事を伝えるコミュニケーションにおいて最適な手段で、とても大きな力を持っている。
しかし、この作品のように時にはそのコミュニケーション機能が全く果たせないこと、すれ違うことで蟠りができることだってあります。

教誨師と死刑囚の対話を通して表現された言葉の難しさを受けて、色々自分なりに考えてほしい。


また、大杉漣さんを劇場で拝めてよかったです。
惜しい人を亡くしたと改めて痛感しました。
是非、劇場に足を運んでもらいたい作品です。


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)「教誨師」members

現実と虚構の水面下で見えるもの(「アンダー・ザ・シルバーレイク」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今日は楽しみにしていた『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観てきました。

一度鑑賞した後で纏まらないようならもう一度観ようと思ってましたが、一先ず無理矢理にでも纏めてみました。

とは言っても、これだ!という答えが出せた訳ではなく、それこそこの映画に含まれるテーマのひとつでもあるかと思います。
相も変わらず、こじつけて考察していますので、あくまでも個人の解釈であるということを念頭にお読みいただけると幸いです。


この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Under the Silver Lake
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:ギャガ
上映時間:140分
映倫区分:R15+



・解説

「イット・フォローズ」で世界的に注目を集めたデビッド・ロバート・ミッチェル監督が、「ハクソー・リッジ」「沈黙 サイレンス」のアンドリュー・ガーフィールド主演で描いたサスペンススリラー。セレブやアーティストたちが暮らすロサンゼルスの街シルバーレイク。ゲームや都市伝説を愛するオタク青年サムは、隣に住む美女サラに恋をするが、彼女は突然失踪してしまう。サラの行方を捜すうちに、いつしかサムは街の裏側に潜む陰謀に巻き込まれていく。「私たちは誰かに操られているのではないか」という現代人の恐れや好奇心を、幻想的な映像と斬新なアイデアで描き出す。サラ役に「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のライリー・キーオ。
アンダー・ザ・シルバーレイク : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編






本作のテーマ

監督のデビュー作『アメリカン・スリープオーバー』が流れるシーン。
登場する女性が劇中に登場する娼婦として作り替えられているのが印象的である。

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これは表立った舞台に立つ人間の裏の顔を暴くというメッセージのようで、監督自身の作品をネタにする辺りが、この映画にも裏があるんだぞと言わんばかりの挑発的演出にも映る。



劇中で聞こえた懐かしの電子音。
そう、1983年に発売された大人気ゲーム「マリオブラザーズ」のBGMです。

土管に入り、下へと潜っていくマリオはまるでこの先のサムを示唆するようでもある。

下、例えばアンダーグラウンドといったように"下"という言葉には表面下に潜む闇を暫し表す言葉として用いられる。
タイトル、そして劇中にも登場する「シルバーレイクの下」という言葉は物理的な意味ではなく、 我々の住む現実世界の根底を支配している闇、現実と虚構の狭間をテーマに混沌とした深層心理を描いた作品であると思います。


さて、このテーマを基にここで『アンダー・ザ・シルバーレイク』を象徴する都市伝説や陰謀について掘り下げていきましょう。



犬殺し

まずは"犬殺し"から考えていきましょう。

冒頭にも登場したカフェの窓ガラスに書かれた「BEWARE THE DOG KILLER(犬殺しに気をつけろ)」の警告文。
資産家の失踪事件とサムが見た夢、そして彼女の失踪と事件を繋ぐキーワードとなっています。

劇中ではシルバーレイクの都市伝説としても使われる"犬殺し"。
しかし、本来は別の意味があることをご存知でしょうか?



当管理人は三国志が好きなんです。(唐突)


三国志とは魏呉蜀の対立を描いた中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃〜280年頃)の興亡史。
この三国時代の蜀の初代皇帝、劉備は有名ですよね?

彼の先祖に当たる人物、劉邦
項羽と劉邦」でも有名ですが、劉邦は秦の始皇帝の死後、項羽とともに戦い天下を手に入れた漢王朝の初代皇帝です。

その劉邦の沛時代からの配下である樊噲の仕事は"犬殺し(狗屠)"
本作『アンダー・ザ・シルバーレイク』における"犬殺し"とは少し違ったものなんですよね。

この時代、中国で犬は食用でした。
貧しい人々が食料とする為、野良犬として生きてはいけない。
飼い主を失った犬がどんなに惨めか。
その為に産まれた子犬を食料として処理する"狗屠"という職業があったんです。

古代中国では飼い主がいなくなり住む家も失った犬は、すぐ誰かに食べられてしまう運命が待っているという現実。
アンダー・ザ・シルバーレイク』を観ていて劇中のサム自身と重なる部分があるなと考えてました。


また、サラが失踪する前夜にサムが見た夢を思い出してもらいたい。
夜道にサラの飼っていた犬が殺され、彼女の姿をした女性が男性の腸に食らいつく姿。
劇中の"犬殺し"もただ犬だけではなく、人をも、そして食料として屠る者だという明白な描写なんです。


サムが見たサラや女性達が犬のように吠える幻想も、後に出てくるセブンスの娘の台詞「犬を殺せるなら人も殺せる」を連想させるように犬と人の境界線を曖昧にし、"犬殺し"に対するサムの抱いた恐怖心の可視化なのだと思います。
尾行されている(と思い込んでいた)のも恐怖心の表れかと。


劇中の台詞「犬は無条件に愛情をくれる」から考えると"犬"は夢のメタファーとなる。
つまり、"犬殺し"は後に人々をも飲み込んでしまう現実の恐ろしさを指すものと解釈しましたが、作中では畏怖するものの象徴として描かれていますね。



ついでに後半に登場したコヨーテについても記述しておきます。

コヨーテはイヌ科イヌ属に属する哺乳類。


米インディアン(カド族)の昔話コヨーテとお人好しのオポッサム

アメリカインディアンのほとんどの部族が、コヨーテをトリックスターとして崇めている。彼らにとって、大文字で「Coyote」と書くとコヨーテ神の意味を持っている。彼らの伝承で、コヨーテによって人間社会にもたらされたものはタバコ、太陽、死、雷をはじめとして、あらゆるものに及んでいる。
コヨーテ - Wikipediaより引用


劇中でも語られたように、コヨーテは聖なる生き物と称されています。
ここは後ほど少し絡めてお話します。



フクロウのキス

フクロウって、実際にキスするんですね。

ギリシャ神話において、フクロウは女神アテーナーの象徴であるとされる。知恵の女神アテーナーの象徴であることから転じて知恵の象徴とされることも多い。

東洋では、フクロウは成長した雛が母鳥を食べるという言い伝えがあり、転じて「親不孝者」の象徴とされている。
「梟雄」という古くからの言葉も、親殺しを下克上の例えから転じたものに由来する。

フクロウ - Wikipediaより引用


フクロウはかつて、アメリカの先住民に死の象徴として捉えられていたという話もあるみたいです。
アンダー・ザ・シルバーレイク』の都市伝説では街の裏組織にとって都合の悪い者を秘密裏に始末しているというもの。


フクロウは音を立てずに獲物に飛び掛かることから「森の忍者」と称されることがありますが、劇中でも足音を立てずに背後から忍び寄る全裸のフクロウ女が登場しました。

同人作家の自殺の件からも、恐らくはこのフクロウ女は自殺のメタファーであると考えられます。
もしかするとサムもあと一歩で自殺していたのかもしれません。


また、フリーメイソンイルミナティのシンボルもフクロウです。
フクロウがアメリカのドル紙幣に刻まれているというのは劇中にも挙げられています。


イルミナティのシンボル①「フクロウ」より引用。





実際に話として存在する都市伝説を映画という創作物の中で使用する。
こういった演出もまた、この映画のテーマにもある現実と虚構に沿ったものではないでしょうか?




3という数字

次に気になったのが"3"の数字です。
失踪者セブンスは3人の娼婦と焼死したとニュースに流れました。
そのうちの一人がサラだとサムは気付いたわけですが。

サラの持っていた人形も3体。
サラを探してサムが後を追った女性も3人組。
そしてパーティー会場で見たバンド「イエスとドラキュラの花嫁たち」も女性3人。
シューティングスターの娼婦も3人。

特に構図として、人形を除いて全て男性1人に対して女性3人なんですよね。
ある意味、玩具としては男根1に女性3でしたが(笑)



パーティー会場入口付近で女性が「3、3、三位一体」と歌っていたのは覚えてますでしょうか?


1210年頃に描かれた『三位一体の盾』の図式。

三位一体は、キリスト教において「父」と「子(キリスト)」と「聖霊聖神)」が「一体(唯一の神)」であるとする教え。
三位一体 - Wikipediaより引用


カトリック教会では「老人の姿の父、キリスト、火の姿で表される聖霊」の図像も広く用いられている。
正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。

つまり、父はソングライターの老人、子は人気バンドを含むアーティストたち、聖霊は上記にも記載した通り聖なる生き物と称されたコヨーテ。
バンドの曲から暗号を解読し、コヨーテに導かれ、ソングライターと出会う。

そしてポップカルチャーの裏側、闇、アンダーグラウンドな世界も理解するのではなく信じる対象として強調するものと考えられる。
非常に妄信に描き出した宗教的な図式であることがわかる。



敬意と隠喩

アンダー・ザ・シルバーレイク』は言うまでもなく様々な映画作品のオマージュとメタファーが散りばめられていますね。

前から姿を消した美女を追い求める様は『めまい』を。
双眼鏡で覗く様は『裏窓』を彷彿とさせる。


劇中にはヒッチコックの墓も登場し、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督のアルフレッド・ヒッチコックへ対する執着の畏怖とも取れる敬意が感じられる。



サムの白昼夢のような妄想でサラが失踪してから再びプールに姿を表すシーンではサラがマリリン・モンローの遺作『女房は生きていた』と同じポーズをとる。

これは死んだはずの女性が再び目の前に現れるという虚構世界そのもの
サラ自身が持っていた3体の人形のひとつがマリリン・モンローという細かい演出も良い。



メタファーと言えば、サムが大切にしていた雑誌「PLAYBOY」のカバーと後半のシルバーレイク貯水池での演出。

監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルの言葉を借りるなら

いつも水にインスパイアされているんだ。
水辺の光景や音は観客を映画の中に招き込むと思っている。
水は物理的なものでもあるけれど、同時に全てを超越するものでもあるんだ。
アメリカン・スリープオーバー』のパンフレットより引用


今作同様に、彼の過去作『イット・フォローズ』でも血に染まりゆくプールの描写がありましたが


澱みないものが穢れていく様、そして形のないものの変容性、シルバーレイクという水面下から虚構が現実を飲み込んでいく様を描き出している。



サムの母親から送られてきた『第七天国』のVHSにあるジャネット・ゲイナーの「うつむかないで、上を向いて」という台詞。
これは
シルバーレイクの下へと足を踏み入れたサムが形のない答えを探して現実と虚構の狭間で現実を、上を向く展開、構図を端的に表現したものとなっている。


また、"犬殺し"と"フクロウ"の二点から少しずつ見えてくるものがあるんですよ。
それが、サムの見た妄想が現実世界でも見え始めること。

犬殺しでは単なる悪夢だったが、フクロウでは虚構が現実に干渉している。
つまりはサム自身の現実逃避の進行の現れ。
何が現実で何が虚構か分からなくなる、作り上げた妄想が真実を曇らせ、その世界観に引きずり込まれる。
デヴィッド・リンチ監督作『マルホランド・ドライブ』に近いものもあるのだろう。

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ただ、『マルホランド・ドライブ』と違うところは、サムの妄想から物語が始まっていること。
カート・コバーンは絶望して自分の命を絶っているが、サムは命ではなく(恐らくは音楽の)夢を絶ったと考えられる。

そんな彼を妄信させたのが隣人のサラ。
彼女と出会うことで、サムの現実逃避に拍車が掛かる。
「イエスとドラキュラの花嫁たち」の曲「回る歯」のように。

サムが目にしたものを妄想として現実世界で見せたのも、この映画のテーマである現実と虚構の狭間を可視化する為だと分かる。



総評

ポップカルチャーへの熱量と情報量の多さ。
現実と虚構の狭間で我々観客が掻き立てられる探究心は、まるで暗号を探す主人公と重なるように混沌とした深層心理、ネオ・ノワールの世界へと嵌っていく。

作中に散りばめられたオマージュやメタファー、その伏線をしっかりと回収しつつ芸術的に魅せるデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の才能と腕に惚れてしまった。
過去作『イット・フォローズ』は性と死というテーマの元、愛や青春を交えた希望を主軸に描かれていました。
今作『アンダー・ザ・シルバーレイク』ではその希望を見出すまでの絶望、もがき苦しむ現実逃避が主軸のように思います。

きっとあの排泄物を映した意味の無いシーンにも何か理由があるのでしょう。
便器の中が現実世界を表してて、現実はクソだとでも言いたいのだろうか?

この映画は答えを出すものではなく、探すものだと思う。
理解するよりも信じること、考えるより感じるもの。
それでもこの難解さはどうしても考えたくなる。
何が正解で何が間違いかは分からない。
だからこそ、自分の中でその答えを探し続けていく。
そういうものだと思いました。



終わりに

うーん、上手く纏まらなくてすみません(笑)
もしかしたらもう一度鑑賞しに行くかもしれないし、DVDが発売したら必ず観返します。

その時にまた、追記するかもしれませんが、この辺で許してください。



この手の映画考察は楽しいですね!
ぼちぼち更新も頑張りますので暖かい目で今後も見てやってください。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2017 Under the LL Sea, LLC


アメリカンホラーのお手本(「クワイエット・プレイス」ネタバレ感想)

目次


初めに

こんばんは、レクと申します。

えー、暫く更新が滞っておりまして、申し訳ございません。
今回は久しぶりにブログを書きたい!となった作品「クワイエット・プレイス」について(?)語ってます。




原題:A Quiet Place
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:東和ピクチャーズ
上映時間:90分
映倫区分:G



今回はいつものような感想や考察ではない内容となってますので、あらすじ等は省かせていただきます。
久しぶりの更新で面倒臭いとかではない(笑)

ネタバレ有りなので、未鑑賞の方はご注意ください。


ホラーの観点

先ずはTwitterの感想から。



よくTSUTAYAなどのレンタルショップでは大まかにホラー映画と分類されていますが、ホラー映画は更に小分類化できるんですよね。
個人的な観点から製作国各国の特徴を挙げてみます。



日本はじめじめと湿った雰囲気の心霊オカルトものが多い。
リングや呪怨などが代表的な作品ですね。

リング

リング

呪怨 劇場版

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タイや台湾などアジア映画はJホラーの影響を大きく受けた作品が多数見受けられます。

the EYE (アイ) デラックス版 [DVD]

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心霊写真 [DVD]

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韓国では猟奇殺人もののサスペンス調のものが多い印象ですが、エクソシストもの、心霊オカルトものも多数あり、近年ではゾンビものと幅広いジャンルが楽しめます。

箪笥 [DVD]

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フレンチホラーといえばスプラッターが代名詞ですね。

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屋敷女 [DVD]

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北欧ホラーは美しい情景と物悲しいストーリーが印象的。

などなど、挙げればキリがないので早速本題に入ります。

Twitter投稿のリプにも記載しましたが、自分が思うアメリカ的ホラー演出といえば音で驚かせることがテンプレであり、今作の静謐を要するシチュエーションにおいては最も効果的な手法である。



上記に挙げた映画は全てハリウッドリメイクされています。
※「屋敷女」は2018年に日本公開「インサイド」。
※「新感染」は現在進行中。

ザ・リング(字幕版)

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アイズ [DVD]

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シャッター [Blu-ray]

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ゲスト (字幕版)

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モールス BD [Blu-ray]

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では、ハリウッドリメイクされたらオリジナルと比べてどうなるのか?
これもあくまでも個人的な観点での主張です。

ストーリーは家族愛へ特化。
モンスターパニック化。
精神的恐怖から視覚的恐怖に。

全てとは言いませんが、良くも悪くもこのパターンに収まるところが多い気がします。



では、今作「クワイエット・プレイス」はどうなのか?





めちゃくちゃアメリカ的!!!



まあそりゃそうですよね。
製作国がアメリカなんですから(笑)



むしろアメリカ的ホラーのお手本!!!




家族愛、モンスターパニック、そのアメリカ的な王道な作りが音を立ててはいけないという単なるアイデアひとつで突き詰めた映画でなく、あくまでもホラー映画として観客を楽しませることを突き詰めたかのようで好感が持てるんですよ。

音を立ててはいけないという精神的な緊迫感と音を立てるとモンスターに襲われるという視覚的な恐怖のバランスが秀逸であり、アメリカ的ホラーの要素を存分に活かした作品だと思います。

個人的には精神的な恐怖が好みではあるが、今作においてはアメリカ的な演出、視覚的な恐怖への満足度が大きい。


観客を楽しませる

さて、では今作がどう観客を楽しませることを突き詰めた映画なのかについて語らねばなりません。

皆さんは、自分を楽しませてくれる映画とはどのような映画だと思いますか?



自分はですね、その世界観に没入させてくれる映画です。

勿論、その世界観に入れなくても素晴らしい作品はたくさんあります。


しかし
鑑賞中に作品中の何かに心を捉えられている状態、鑑賞後に現実に引き戻される尚且つ心に留まり続ける感覚を味わえるもの。

それこそが自分が
「映画を楽しめた」
と感じる大きな要因の一つです。



今作「クワイエット・プレイス」はその観客との一体化という点においてある種のアトラクションのような臨場感を味わえるのです。


まず、退廃した閉鎖的な街並み。
やはり登場人物たちが置かれた状況というものに我々は敏感です。
それはその映画の世界観に入り込もうとするが故。

例えば某ファンタジー映画では魔法学校が舞台であったり、某SF映画では宇宙船で惑星に降り立ったり。
ホラー映画においても、その置かれた状況や街並みというものは非常に重要なものとなってきます。

似たような街並みでパッと思いついた映画がこれです。


廃墟と化した封鎖された異世界のような街で、鳴り響くサイレンを合図に闇と共にクリーチャーが襲いかかる。
映画「サイレントヒル」はゲームが原作のホラー映画であり、その世界観を最も忠実に再現した作品の一つであると思っています。

そうです、世界観に没入することでその恐怖心や登場人物の心情を我々はより密に感じることができるのです。


他の要因として、得体の知れない何かに襲われる恐怖。
例えば、本日一緒に観てきた「MEG ザ・モンスター」はメガロドンという巨大サメに襲われる映画。
アナコンダ」は蛇、「ジュラシックパーク」は恐竜、と明確に何に襲われるのかが分かっている状態です。

今作のように地球上に存在しない得体の知れない何かに襲われる恐怖は上記のように正体の分かっているモンスターに襲われるのとは比較にならないと思います。

近いものを上げるとするなら

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この辺りでしょうか?





次にその世界観を肌で感じてもらうこと。
冒頭始まって数秒で
「あ、音立てたら即死」というキャッチコピーが脳内に過ぎり、物音を立てるどころか息付く暇さえ無くしてしまう。

裏を返せば
劇場で物音を立ててしまうと周りのお客様からの袋叩きにあって即死
するということです。

というのは冗談ですが、それくらいのマナーの質が求められる、音を立ててはいけないとより一層張り詰めた空気が劇場内を包み込んでしまう。

こんな映画、今までありましたか!?




はい、「ドント・ブリーズ」!!!

ありました(笑)
とはいえ、盲目で聴力が発達した相手という共通点はありますが対人間。
今作のモンスターとは迫力が違います。

冒頭の息子の死がここでもいいアクセントになっているんですよね。
得体の知れないモンスターへの恐怖心とトラウマを早期に観客へと植え付ける。


また、その伏線が妻の妊娠と出産、夫の我が子を守りたいという想いへと繋がっていく。

そうなんです。
上記にも書きましたが
単なるアイデアひとつで突き詰めた映画ではなく、しっかりと盛り上がりポイントへの伏線を敷いた計算され尽くした物語となっているんです。

色々とツッコミどころは満載でしたがそれはご愛嬌(笑)


エミリー・ブラントの魅力

と、今作とホラー映画について語ってきましたが、今作を語るにあたってこの話題は絶対に外せないだろう。


※鼻をほじってるわけではありません。

そう、なんと言ってもエミリー・ブラントの可愛さが僕の中で爆発したのだ。



ここから先、少々変態発言がありますのでご注意ください。










先ず、ここ!
マタニティエミリーを見れること!

音を立ててはいけないという設定の中での子作り。
無音でセッ〇ス…つまりは喘ぎ声を堪えたということで、それはもう興奮材料でしかない!!!


すみません、取り乱しました。



子を持つ母親の気持ちは分かりませんが、我が子を守れず死なせてしまったこと。

その分、新たに宿った命を大切にしたい。
そんな気持ちと、今作の設定やシチュエーションに出産シーンは最高潮に盛り上がったシーンではないか?




バスタブにエミリー。

じゃなくて(笑)
出産に伴う痛みに耐えながら、音を立てて襲われるかもしれない恐怖にも耐える。
二重苦で必死に堪えるエミリーの姿には興(自主規制)


出産祝いの花火やでー!!!



もうここは真面目に語るつもりは毛頭ございませぬ。



最も心を奪われたのは、ほっぺを膨らませる仕草。
生憎、画像は見つかりませんでしたが可愛すぎる。

「なんなんだこの可愛さは!」
と上映中に叫び、即死するところでした。

いや、そもそも可愛さに即死だったんですが。

エミリーがほっぺを膨らますシーンの画像をお持ちの方は僕のTwitterへリプお願いします。




僕はエミリーに抱きしめられる家の柱になりたい(錯乱)



・・・あ、もう話すことはありませんよ?


終わりに

ということで、最終的にエミリーへの気持ち悪い愛を書き殴っただけになりましたが、久しぶりにブログ書けて楽しかったです。
ブログを書きたい!という作品は幾つかあったのですが、なかなか手が付けられず…今作「クワイエット・プレイス」を観てよかったと思います。



ということで、「IT/イット "それ"が見えたら、終わり」の考察も置いておきます。


更新は今後も不定期になりますが、何卒よろしくお願いいたします。






(C)2018 Paramount Pictures. All rights reserved.

母親である前にひとりの女性(「タリーと私の秘密の時間」感想考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「タリーと私の秘密の時間」について語っています。

前半はネタバレなし。
後半はネタバレあり。
で書かせていただいてます。



作品概要


原題:Tully
製作年:2018年
製作国:アメリ
配給:キノフィルムズ
上映時間:95分
映倫区分:G


・解説

「JUNO ジュノ」「マイレージ、マイライフ」のジェイソン・ライトマン監督が、「ヤング≒アダルト」でもタッグを組んだシャーリーズ・セロンを再び主演に迎え、3人の子を育てる母親と不思議な魅力をもったベビーシッターの女性との交流や絆を、コミカルかつハートウォーミングに描いたドラマ。仕事に家事に育児にと何でも完璧にこなしてきたマーロだったが、3人目の子どもが生まれて疲れ果ててしまう。そんなマーロのもとに、夜だけのベビーシッターとしてタリーという若い女性がやってくる。自由奔放でイマドキな女子のタリーだったが、仕事は完璧で、悩みも解決してくれ、マーロはそんなタリーと絆を深めることで次第に元の輝きを取り戻していく。タリーは夜明け前には必ず帰ってしまい、自分の身の上を語らないのだが……。セロンがマーロ役を演じ、「ブレードランナー 2049」などで注目されるマッケンジーデイビスがタリーに扮した。脚本を「JUNO ジュノ」「ヤング≒アダルト」のディアブロ・コーディが手がけた。
タリーと私の秘密の時間 : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編





役作りと演出

この作品の素晴らしいところは何と言ってもシャーリーズ・セロンの役作りと演技。
そしてジェイソン・ライトマン監督の演出。
ヤング≒アダルト」でもこの二人はタッグを組んでますね。

ヤング≒アダルト スペシャル・コレクターズ・エディション [Blu-ray]

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今作では少し重い話を優しく包む込むような映像や音楽で演出されています。


台詞ひとつひとつもジョークめいた軽いコメディが散りばめられていて軽快。


セロンは育児に疲れた母親を体現するため体重を約18キロ増加して役に挑んだそうで、前出演作「アトミック・ブロンド」のセロンとは全く体型が違う。
彼女の役作りは「モンスター」で13キロの増量にも驚かされたが、本当に凄い。

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子育てに苦悩するという脚本は「ヤング≒アダルト」も担当したディアブロ・コーディの実体験だそうですね。

物語が生まれたきっかけは、脚本を執筆したディアブロ・コーディ(「JUNO ジュノ」など)の実体験。3人目の子どもを出産した直後、すでに2人の幼い子どもに時間とエネルギーを費やしていたコーディは、夜の10時から翌朝までの夜間ベビーシッターを雇っていた。その際のことを「(シッターは)救世主のように思えたわ」と語っており、今作では「分娩後の気持ちの落ち込み」と「育児に疲弊した母親の現実」、そしてそれを癒す数々のエピソードをつづっている。
“お疲れママ”を助ける“救世主”は誰!? C・セロン主演「タリーと私の秘密の時間」場面写真 : 映画ニュース - 映画.comより引用


で、どの演出が素晴らしいのかと言うとですね…
全てです!と言いたい。

母親の苦悩、父親の無関心さ、子供の自由奔放さ、他人の無関係さ、ベビーシッターの有難み、少しずつ心を開いていく様、家族に笑顔が戻る瞬間。
どのシーンを切り取っても素晴らしいの一言に尽きる。
いや、一言では言い表せない素晴らしさが詰まってます。

正直なところ、自分は子供もいなければ未婚であり、夫婦生活は疎か子育てに対する苦悩も想像でしか出来ません。
そして、子供の頃の記憶なんて曖昧で。
私情ながら家は母子家庭であり、どれだけ母親に迷惑を掛けてきたのか、すべてを分かるのは難しい。


そんな分からないなりにも、この映画のセロンを見ていると育児というものの難しさと苦悩、抱える問題が見えてくる。
それでいて語りすぎない演出が成されているんです。

全てを台詞で説明しなくとも伝わってくる。
それは感情移入とセロンの現実味ある役作り、演技の賜物ではないだろうか。

妊娠によるボディラインの崩れ、目の下のクマ、母乳、ここまでリアルを追求されたらもう出産後の母親にしか見えないでしょう(笑)




さて、ここからはいつも通りひとつの事を掘り下げつつ考察していきたいと思います。

この先はネタバレとなっております。
未鑑賞の方はご注意ください。






夢に見たものとは?

タリーの存在や脚本、これは恐らく他の方も感想などに挙げておられると思うので自分は夢について考察していこうと思っています。

作中で幾つか夢の映像が流れましたよね?
マーロの夢とは一体何を表しているのか?を考えてみました。


夢は大きく分けて二種類。
海の中の映像と現実的な映像。

海の中は終盤の事故で川へと落ちたシーンにも繋がりますが、他にも幾つか意味があると思います。


先ず、海が意味するもの。
夢占いによると

海の夢がおもに象徴するのは以下のようなこと。

・母親・母性
・豊さ
・潜在意識(思考のクセ)
・精神状態や体の状態
・出会い・妊娠など恋愛に関すること

全ての生命の源である海は、私たちに様々な恩恵を与えてくれます。
海水が蒸発して雲になり、雨を降らせれば恵みの雨となる。緑や生物など生命を維持していくために必要なものですよね。
人間の体の中にも海と同じようなものが存在していて、それはお母さんのお腹の中です。
誰もがお母さんのお腹の中にいる事を経験していて、「海に行くと落ち着く」このような感覚を感じたこともあるのではないでしょうか。
このように海は全ての源泉・源と言っても過言ではありません。
ですから、人間が生きていくうえで生じる問題や、嬉しい出来事を幅広く象徴するのが海の夢だと捉えてください。

【夢占い】海の夢!海辺・海岸・波など夢の意味を幅広く解釈 | 夢占いで心模様を洗い出すより引用

海中はお腹の中。
つまり新たに生まれてくる羊水に包まれた胎児のメタファー。
もうひとつは、新たな出会い。生まれてくるミアのこと。
そして、ベビーシッターのタリーとの出会いを示唆させるもの。


では人魚が意味するものとは?
空想上の生き物である人魚は、夢占いでは現実逃避したいという願望を表しているそうです。

人魚が海で泳ぐ夢は、夢占いでは女性らしさの発揮や、母性が高まっていくことを暗示します。人魚が泳ぐ夢は才能の開花や生命力の高まりを意味しますが、海は母性やかさの象徴です。
穏やかで美しい海の中を泳ぐことで、これまで以上に生活が充実してくることが考えられます。また結婚している人がこの夢を見た場合には、妊娠を暗示することもあります。
人魚の夢占いの意味15選|泳ぐ/助ける/死ぬ/食べる/自分/人間になる | Cutyより引用


人魚の夢もまた、母性の高まり、妊娠を暗示しているようです。




次に夢の中で、車中でジョナが二人現れた理由について考えていきます。

夢占いで子供の夢は、「あなたの側面・あなた自身・育むコトやモノ・可能性・不安の種か、可能性の種か?」を意味します。

子供は誰かと血を分けた存在。
夢の中に登場した子供は、実際に子供がいない人が夢を見た場合でも、あなたと血を分けた存在なんです。
ですから、子供の夢は、あなたの側面であって、あなた自身をあらわすこともあります。

また、子供は放っておくことができず、手のかかる存在。
育むべき、「コトやモノ」全般を象徴するものと捉えてください。
愛を育むことを意味するかもしれませんし、自分の魅力や才能かもしれません。あなたがこれから育て培っていくものを暗示する場合があります。

また実際の子供と同じように、育むことによって、その先には可能性が広がることも。子供の夢は可能性を象徴することがあります。
一方で、子供につきまとうものは、不安です。
子供はとても手がかかりますよね、放っておくことはなかなか難しいです。
子供の夢を見た場合は、あなたのなかに絶えずつきまとう不安のようなものを象徴することもあります。

【夢占い】子供の夢17選!自分に子供がいる夢・話す・遊ぶ・抱っこなど | 夢占いで心模様を洗い出すより引用



正直、ジョナはマーロにとって可愛い我が子であると同時に悩みの種でもありました。

これから育て培っていくものを暗示。
絶えずつきまとう不安の象徴。
そして、自分自身。つまりはマーロとタリー、二人の関係を示唆するもの。



母親となったマーロと対比するように演出されていた母親になる前のマーロ(タリー)。
最後の夢に人魚姿のタリーが現れたこと。
このことからも、水中に沈む車内からタリーがマーロを助け出した描写は育児に疲れた母親への精神的な救いを意味していると考えられます。

そして
これらの夢の共通点は母性の高まり、愛を育むこと。
すべては"暖かい家庭を築く"というラストシークエンスへ繋がる。



女性は母親になると我が子の為にと自己犠牲も厭わない状況に陥る。


タリーと私の秘密の時間」とはそんな自分自身と向き合った時間。
そして、ワンオペ育児で追い詰められていたマーロの苦悩からの解放、つまりは夫の育児への理解。
その為に費やした時間なんだと。

何度も言いますが、これらを台詞ではなく演出で分かりやすく魅せたところが本当に素晴らしいんですよ!



終わりに

あくまでも独身男性目線でしか見れないので、本当の育児の大変さは分からないのですが、分からないなりに感じたものは多々ありました。


完璧な人間なんていないんです。
完璧な母親を求めちゃいかん。
そして、母親である前に、ひとりの女性なんですよ。

母親視点で描かれた映画のようで、実は世の中の父親に対するメッセージが込められた作品なんですよね。
お互いに足りないところを補い合うのが本来の夫婦、家族の在り方なのだ。

ということで、女性の社会進出が進行している現代で、父親の育児協力も必要だという認識がもっと社会に広まればいいなあと思う作品でした。


お読みくださった方、ありがとうございました。





(C)2017 TULLY PRODUCTIONS.LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

形而上学の視点から見る非現実世界(「未来のミライ」ネタバレ考察)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は「未来のミライ」について語っています。
久しぶりの考察記事となってます。

この記事はネタバレを含みますので
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


製作年:2018年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:98分
映倫区分:G


・解説

バケモノの子」「おおかみこどもの雨と雪」の細田守監督が手がけるオリジナルの長編劇場用アニメーション。甘えん坊の4歳の男児くんちゃんと、未来からやってきた成長した妹ミライの2人が繰り広げる不思議な冒険を通して、さまざまな家族の愛のかたちを描く。とある都会の片隅。小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳のくんちゃんは、生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、戸惑いの日々を過ごしていた。そんな彼の前にある時、学生の姿をした少女が現れる。彼女は、未来からやってきた妹ミライだった。ミライに導かれ、時を越えた冒険に出たくんちゃんは、かつて王子だったという謎の男や幼い頃の母、青年時代の曽祖父など、不思議な出会いを果たしていく。これがアニメ声優初挑戦の上白石萌歌がくんちゃん、細田作品は3度目となる黒木華がミライの声を担当。両親役に星野源麻生久美子、祖父母役に宮崎美子役所広司
未来のミライ : 作品情報 - 映画.comより引用



・予告編





矛盾点

鑑賞後、端的に言って混乱しました。

なぜなら作品内の設定を自ら崩した脚本となっているから。
整合性のないストーリー展開となっているため、自分の中で想像した過程と結果というレールを大きく脱線してしまったんです。

これは明らかに制作側の作為的なもの。と判断せざるを得ない。
つまりは、何か理由があるんです。

その点について考えていこうと思っています。



・現在

まず、冒頭のファンタジー要素。

樫の木が生えた庭で、くんちゃんは変な男に話しかけられます。
この変な男は飼ってるペットのゆっこ。

衝撃的な描写として、その擬人化ゆっこに生えた尻尾を引っこ抜いただけでなく、くんちゃんは自分のア〇ルにそれを突っ込んで犬になってしまうんです!

そして、更に分からないのが、その尻尾を付けたくんちゃんをお父さんやお母さんがゆっこと呼ぶんです。
つまりは、お父さんやお母さんからはくんちゃんはゆっこに見えていることになります。

時間軸としては現在の時間経過そのもの。


ファンタジーの導入部としては力で押し切る展開…と思いきや、その後の展開で庭での不思議体験にファンタジー色は薄まり、SF色が強まるんですね。
後半に差し掛かるにつれて益々自分の中でこの冒頭のファンタジー導入部は必要だったのか?とさえ思ってしまう。(※ここについては後述しています。)



・未来から現在へ

次に、くんちゃんが未来のミライと出会うシーン。

ここでも違和感がずっと残ったままなんですよね。
右手の痣は恐らく4歳児のくんちゃんが未来から来たミライをミライだと判断するための設定でしょう。
庭で起こる不思議体験も、既にゆっこの擬人化を経ているのですんなり(?)受け入れられる。

問題は擬人化ゆっこを見ても未来のミライは動じないこと。
あくまでも冒頭での不思議体験はくんちゃん自身のもののはず。
未来のミライが知るはずがないんです。


もうひとつ言及するなら、未来から来たミライが過去に干渉することの危険性。
くんちゃんは分からないとして、未来のミライが自分本位に過去改変することへの違和感。

冒頭のファンタジー体験とこの未来のミライ体験、これをくんちゃんの脳内妄想として仮定した時に、雛人形の片付けという物理的干渉がどうしても納得いかない。

この二点から、ひとつの道筋が見えてきました。(※こちらについても後述しています。)

そして、同じ時間軸に同じ人物が同時に存在できない設定。
ここも後半パートでその設定を崩しています。(※こちらも後述しています。)



・現在から過去へ


次に、お母さんの幼少期と曾祖父さんに会うシーン。

過去へと飛んだくんちゃん。
泣いている少女(お母さんの幼少期)と出会います。
部屋を散らかし放題にし、お母さんのお母さん(お婆ちゃん)に叱られるお母さん(幼少期)を自分に重ねるような展開ですね。

実際に時間軸を移動したとして、過去の自分の母親に会うことはかなり危険です。
一方で、過去への干渉は現在の物理干渉は起こっておらず、くんちゃんの脳内妄想として仮定することもできます。


次に、自転車に乗ることを挫折したくんちゃんは再び過去へと飛びます。
すみません、ここで少し睡魔がきてしまいウトウトしてました。
なので、観てはいましたが事実と異なることが記載されていた場合はご指摘の方をお願いします。

そこで出会った青年はくんちゃんと馬に乗り、バイクに乗り、前を向くことを教えてくれました。
くんちゃんはこの青年をお父さんだと思い込むんですね。

しかし、実際は曾祖父さん。
4歳児のくんちゃんは曾祖父さんの顔を認識出来てなかったのか、若い頃の曾祖父さんだから気付かなかったのか。
現在へと戻ってきたくんちゃんはアルバムの写真で曾祖父さんだと認識します。

こちらも同様に、現在への物理干渉がなされてないので、脳内妄想として仮定できます。

いずれにせよ、この過去シーンが最もSFらしい展開となってますね。



さて、この後にもうひと展開あるのですが
一旦、ここでこの現在、未来、過去の3時間軸について整理したいと思います。



矛盾点の整理

まず、鑑賞中に感じたこと。
それは時間軸の移動は全てくんちゃんの脳内妄想ではないのか?です。


上記にも記載した通り、この3時間軸の整合性のない矛盾点は明らかに制作側の作為的なもの。と判断せざるを得ない。

整合性のないもの、とするなら
現在の擬人化ゆっこと犬化という不思議体験。
未来のミライ、過去のお母さんと曾祖父さん。


冒頭の擬人化ゆっこはこれから始まるこれらの不思議体験はファンタジー、脳内妄想ということを指し示すための演出の具現化、可視化ではないだろうか。
よって、その方向性で考えてみると全ての不思議体験はくんちゃんの脳内妄想という結論に至る。



擬人化ゆっこと出会うことで、赤ちゃん返りが治る。
未来のミライと出会うことで、雛人形の片付け。
過去のお母さんと出会うことで、母親への思いやり。
過去の曾祖父さんと出会うことで、自転車に乗れる。


自転車の件を終えた後のお父さんの台詞にもあった通り、子供は突然色んなことができるようになる。
不思議体験と現在のくんちゃんとのリンクはくんちゃんの現在置かれた状況と不思議体験後の自我の芽生えにあると思います。


その点で考えていくと、未来のミライ雛人形を片付けた点。
ここが唯一物理干渉を起こした点であり、最も大きな矛盾点となります。

雛人形の件もくんちゃんが一人で片付けたことになっちゃう。
果たしてそんなことが可能なのだろうか?(笑)

擬人化ゆっこを見ても未来のミライは動じなかった件は、くんちゃんの脳内妄想とするならば納得はできます。
未来のミライにも擬人化ゆっこは犬のゆっことして見えていたとできるからです。


しかし
時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想
とすると、後半パートで更に作品内設定を崩す設定が登場するんですよね。


それが樫の木の存在。
くんちゃんが不思議体験をしたのは家の庭に生えている樫の木が原因でした。
これは作品中でも説明されています。

過去のお母さんのエピソードから、靴に手紙を入れる。
猫好きだったお母さんのペットが犬である理由。
そして、傷ついた鳥とくんちゃん宅の鳥の巣。
過去の時間軸が現在に干渉している。


ということは
時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想→時間軸の移動
結局、振り出しに戻ってしまうんですよ。

でもですよ、時間軸の移動とするなら
擬人化ゆっこの件がまた説明できなくなるんです。
唯一、時間軸を移動してない不思議体験ですからね。


ここが最も混乱した理由です。
単に意味が分からないから混乱したのではないんです。
SF観点から考察すべきか、ファンタジー観点から考察すべきか、分からないから混乱したんです(笑)



矛盾点の結論

はい。
少し長々と行ったり来たりで話してきましたが、ここで自分なりの結論を出したいと思います。


自分が提唱する説は
形而上学的成長譚
です。

何言ってんだよ!ってのはやめてください(笑)
あくまでも個人的考察によるものなので正解を求めている訳ではありません。
自分が納得出来る仮説を説きたいだけです。

形而上学(けいじじょうがく、希: μεταφυσικά、羅: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: métaphysique、独: Metaphysik)
感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。対立する用語は唯物論である。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場や、ヘーゲルマルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと。
形而上学 - Wikipediaより引用



今作は不思議体験を通して得たくんちゃんの成長譚であること、そして家族の絆を描いたもので間違いないと思います。

くんちゃんが不思議体験する際には必ず、喜怒哀楽などの感情の起伏が起点となっています。
嫉妬、怒り、悲しみ、そういったなかなか受け入れられない駄々をこねる状況で不思議体験を経て、現実でくんちゃんがその経験を踏まえて成長を見せる。
自分の成長と共に家族との絆を育む。

大まかに纏めるとこんな感じ。
愛を奪われたくんちゃんが愛を取り戻す、北斗の拳的な話でもありますね(違う)

愛をとりもどせ!!

愛をとりもどせ!!



結局、この話は時間軸の移動なの?それとも脳内妄想なの?というところなんですが
SFファンタジーとするなら両方の要素があってもいいのではないか?
という安直な結論しか導き出せませんでした、すみません(笑)


時間軸の移動→整合性の矛盾→脳内妄想→時間軸の移動
ではなく
整合性の矛盾→脳内妄想≒時間軸の移動
もしくは
整合性の矛盾→脳内妄想+時間軸の移動


全てはくんちゃんの妄想だと纏めてしまえば簡単な話なんですが
やはり引っかかる雛人形の物理的干渉、そして
物理学に興味があるならまだしも鉄道マニアな4歳の男の子が果たしてこんな壮大な時間軸の移動と設定を妄想可能なのか?
というところで「脳内妄想+時間軸の移動」としています。


また、そのひとつの理由が
この作品における時間軸の移動はすべて過去に遡るもの。

そして、くんちゃんが現在の出来事をリンクして時間軸の移動、不思議体験を脳内妄想したと考えると、現実世界と非現実世界での繋がりが見えてきたんです。



・擬人化ゆっこの愚痴を聞く(くんちゃんの脳内妄想)
→赤ちゃん返りが治る



雛人形を片付ける(未来のミライの時間軸移動)
→おもちゃを片付けない



・現実世界でミライの顔にお菓子を乗せるイタズラをする
→非現実世界で魚の群れに襲われる


→非現実世界でお母さん(幼少期)が叱られて泣く(くんちゃんの時間軸移動)
→現実世界でお母さんが泣いている



・現実世界で自転車に乗れない
→非現実世界で馬やバイクに乗る(くんちゃんの時間軸移動)
→現実世界で自転車に乗れる



・くんちゃんの迷子(くんちゃんとミライの時間軸移動)
→くんちゃんがミライを妹として認める



そうです、3時間軸からもうひと展開あったくんちゃんの迷子シーンで判明したのですが

くんちゃん宅の樫の木は図書館のようなものでインデックスが出来ており、家系の過去、現在、未来の3時間軸全ての出来事がカードのような形になって収められている。
インデックスの中は球体状になっており、そこには系統樹が張り巡らせ枝分かれするような形で記録が残されているという。

そこから行きたい場所を見つけるのは困難という未来のミライの台詞。

ここで仮説が立てられますね。


くんちゃんの迷い込んだ場所(ここを俯瞰的世界とします)。
くんちゃんの描写では、とある駅の待合室でした。
未来のミライは時間軸の移動で現在へと来ている。
そして、この3時間軸に関わる俯瞰的世界にも未来のミライが登場していることから


ミライもくんちゃんと同じように、未来での樫の木による不思議体験者なのではないだろうか?


ということ。
索引の使い方をくんちゃんに教えていたのも頷ける。
とするなら、雛人形の物理的干渉も説明できます。
また、擬人化ゆっこを見ても動じなかったことも説明ができます。
時間軸を移動して、既に知っていたからです。


ここで前半パートと後半パートの矛盾点、雛人形を片付ける際に説明された同じ時間軸に同じ人物は同時に存在できない。という設定も
俯瞰的世界、つまりどの時間軸でもない世界では過去と現在と未来が混在しているのではないか?と推測できます。

したがって、俯瞰的世界では
現在のくんちゃんと待合室にいた未来のくんちゃん。
が同時に存在できたのではないか?



これらの不思議体験を何らかの実体として認めると仮定しよう。
(ゆっこの尻尾でくんちゃんがゆっこに見えた件、未来のミライが物理的に干渉した件などを考慮し)

これは広い意味で、様相実在論と呼べるのではないか?

非現実世界は現実に存在しない。
とするなら、この主張は様相形而上学的には否である。
裏を返せばすべての実体は現実に存在するものということが言える。
つまりは、哲学的理論(ここで言う不思議体験)に使われる実体もすべて現実に存在する。と言えるのではないか。


現実世界と非現実世界の区別はどこか?
例えば、「此処」と「此処以外の場所」の区別や
「現在」と「現在ではない時間軸」の概念と類似すると思う。

「此処」と発した時点での場所を「此処」と定義するなら、「現在」と発した時間が「現在」なわけで、非現実世界を現実だと認識したのならば現実世界であり、現実世界での現実としての認識と区別されることはない。
つまりは非現実世界も形而上学的には特別なものということにはならない。

無数の不思議体験は論理空間を探索する知的旅行である。



かなり極論なのは承知の上で述べてます。
こうしないと纏まらなかったんです。

締まりが悪いなあ。。。



総評

考察してきた矛盾点が気になって気になって感想どころではなかったので、改めて感想を。


SFファンタジーとする一方で、しっかりとうざいくらいに子供目線で描かれている点も評価できる。
また、作品内容だけでなくアニメ作画としても素晴らしい。
息を吹きかけて曇る窓ガラスとそれを拭う手の跡。
人型であるくんちゃんの犬化モーション。
泳ぐ魚や駅の描写まで。

恐らく、自分が考察してきたような理論的なものではなく、「考えるのではなく感じろ」映画だったのは間違いないだろう。
ただ、ファンタジー導入部が機能しきれず後半になるにつれてSF色が強まったことは勿体無い気もします。

そもそも、細田守監督が壮大なファンタジーを描けるとは思っていなかったので、不思議体験が家の中で、それも庭という限られたミニマム空間でしか起こっていないことは英断としか思えない。

よって脚本の粗さはあるものの、時間跳躍によって紡がれる家族という共同体を冷たくも温かく描き出したことが素晴らしく、また過去へしか遡っていない設定は未来は自分で切り開いていくものだというメッセージにも取れる。



終わりに

なんだかグダグダと語り出したら止まらなくなってきて、長々と失礼しました。
結局答えはビシッと出せず抽象的になりましたが、疲れたのでこの辺でやめておきます。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C)2018 スタジオ地図

この森で、天使はバスを降りた(ネタバレ感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は映画「この森で、天使はバスを降りた」について語っています。
フォロワーさんからのオススメ映画を観た第三弾になります(笑)

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:The Spitfire Grill
製作年:1996年
製作国:アメリ
配給:東宝東和
上映時間:116分


・解説

さびれた町にやって来たよそ者の少女が、しだいに人々の傷ついた心を癒していく様を描くヒューマンドラマ。監督・脚本はテレビシリーズ『探偵レミントン・スティール』で知られるリー・デイヴィッド・ズロートフで、彼の劇映画デビュー作。製作は「ボブ・ロバーツ」のフォレスト・マーレー、製作総指揮はウォレン・G・スティット、撮影は「Dr.ギグルス」のロブ・ドレイパー、音楽は「アポロ13」のジェームズ・ホーナー、美術は「ユージュアル・サスペクツ」のハワード・カミングス、編集は「フォー・ルームス」のマージー・グッドスピード、衣裳は「ユージュアル・サスペクツ」のルイーズ・ミンゲンバック。主演は「蒼い記憶」のアリソン・エリオット。共演は「キルトに綴る愛」のエレン・バースティン、「クラッシュ」のマルシア・ゲイ・ハーデンほか。96年サンダンス映画祭観客賞受賞。
この森で、天使はバスを降りた : 作品情報 - 映画.comより引用



・トレーラー






調和からの脱却

自然に囲まれた閉鎖的な小さな村。
そこにバスから降り立つ一人の素朴な女性。


変化を求めない調和、現状維持の傾向は、いい意味で平凡であり平和なのだろう。
一方で、排他的な視線で外部を受け入れようとはしない偏見が見られるんですよね。

そこで、力で押し切り何かを変えようとする強引な演出がないところもこの映画の魅力のひとつ。


彼女が服役していた罪は殺人罪
刑期を終えた彼女はその罪からも逃れられずにいる。
食堂スピットファイアを営むハナもまた、自責の念に囚われている。

この二人と食堂を取り巻くように物語は展開されていくわけだが、ひとつのアイデアが現状を一変させる。



作文コンテスト。
100ドルの応募金で作文を作り、優勝者にはこの食堂を譲るというもの。
自然に囲まれる田舎の食堂だからこそ価値があり、パーシー同様に新たな地で人生をやり直したいと願う人は多数いるのだ。

この寄せられる一つ一つの文が、それを読む村中の人達の表情が和やかで心温まる。



パーシーのアイデアを受け入れたことは、それまで調和を求めた村全体に変化を齎せた。
自分が変わろうとするパーシーには人を変える力がある。

ハナも少しずつパーシーを受け入れるようになっていく。
怪我をきっかけに少しずつパーシーを頼るようになっていくのだ。


ハナの甥ネイハムの妻であるシェルビーもまた、パーシーと出逢ったことで少しずつ変わっていく。

最もそれが表れたシーンが、シェルビーが夫ネイハムに逆らうシーンだ。
それまでは夫の言いなりで閉鎖的な村同様に調和を求めていた。
ハナのお金が盗まれた時、シェルビーはパーシーを疑うなら離婚すると言ったのだ。

これはパーシーによって変わりゆく村のメタファーとして描かれていると思う。


こうだと決め込んでしまうとそれ以上にはならない。
変化することは恐怖もある。
そして変化するためには勇気がいる。
変わるきっかけを作ってくれたのがパーシーであり、変えることができたのは彼女ら自身なのだ。



見えないものの恐怖

傷が深ければ、治るのもそれに比例して苦しいのか?


‪人間が持つ内包的な善悪、犯罪に至る経緯や心情の変化、憎悪や嫉妬、猜疑心や欺瞞、そういった負の感情というものは、築かれつつあった関係を一瞬で崩れさせる。‬

しかし、周りの目を気にするような消したい過去、例えばパーシーのように罪を犯して刑務所に入っていた過去があったとしても、その経験を後の人生に活かすことも出来るんだ。
つまりは生かすも殺すも自分次第であり、自分がどう立ち振舞って行くかが重要だということ。



何よりも怖いのが、分かっているつもり、知っているつもりで相手を決めつけてしまうことだろう。
潜在的にある偏見や差別の目、自分のフィルターを通して見た姿と相手の本心、真意との乖離や齟齬。


「彼女のことを知ってるつもりでした。」
ネイハムのこの言葉が全ての懺悔と罪の意識を物語っている。

そう、「何も知らなかった。」んです。
思い込みは時に良からぬ方向へと進んでいってしまう。
信じることとそう思い込むことは違うんです。


そして、さらに言うならば、大切なものは失って初めて気付かされるということ。

手の届かない場所、もう会えない場所へ旅立った。
その時になって人々は与えられた小さな物事の大きさに気付かされる。



交わる接点

我が子を失った母親と我が子を亡くした母親。
境遇は違うし、互いの気持ちを理解し合うことは出来ない。
それでも我が子に対する愛情という点においては共通するものがある。


人は決して相手の気持ちを全て理解することなんて出来ない。
それでも、相手の気持ちを察することは出来る。


気持ちに乖離があっても接点を持つことは出来るんです。

だからハナの息子であるイーライに、パーシーは産まれてくるはずだった子どもと同じジョニー・Bと名付け、命を賭けて助けようとしたのだろう。
意図するものではなく、無意識に。本能的に。


自分は我が子に会えなかった。
しかし、ハナとイーライを会わせることが出来た。
これは紛れもなくパーシーの立ち振る舞いの結果である。



作文コンテストの優勝者はクレアという女性。

子を身篭った時に応募されたもので、応募金は100ドルに満たない。
しかし、息子のこれからの人生のチャンスを与えてあげようといった内容には、我が子への愛情、そしてこれから先の未来を見据えた希望が見える。
ハナはその希望に託したのだと思えるのです。


拍手でクレアを迎え入れる村人たちとその笑顔は当初の排他的な村の印象はない。

そう、これは決して爽やかなハッピーエンドでもなければ悲劇的なバッドエンドでもない。
今、ここから始まる物語なのです。



終わりに

この作品を観て分かる邦題の素晴らしさ。
単にタイトルを見ただけでは分からないこの作品の良さがこの放題に詰め込まれている。

何このセンス!
邦題が良すぎてブログ記事のタイトル何も浮かばんかった(笑)

扱うテーマは重いものの、ラストは荒んだ心に静謐を齎してくれるような、そんな映画でした。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



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不遇への葛藤と愛を見つけた希望の物語(「プレシャス」ネタバレ感想)

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は映画「プレシャス」について語っています。
フォロワーさんからのオススメ映画を観た第二弾になります(笑)

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題:Precious
製作年:2009年
製作国:アメリ
配給:ファントム・フィルム
上映時間:109分
映倫区分:R15+



・解説

1987年のニューヨーク・ハーレムで、両親の虐待を受けながら希望のない日々を生きる黒人少女プレシャス。レイン先生に読み書きを習い、つたない文章で自分の心情を綴り始めたプレシャスは、ひたむきに人生の希望を見出していく。サファイアの小説「プッシュ」を、「チョコレート」で製作を務めたリー・ダニエルズが映画化。マライア・キャリー、レニー・クラビッツ、ポーラ・パットンらが出演。2009年のサンダンス映画祭でグランプリ、第82回アカデミー賞助演女優賞と脚色賞を受賞した。
プレシャス : 作品情報 - 映画.comより引用



・キャスト






・予告編





人生の選択

16歳のプレシャスは父親からの性的虐待で二度目の妊娠。
母親からも逆恨みの虐待を受け、友達や恋人も出来ず、読み書きもできない。
妊娠を理由に退学させられたプレシャスはここで人生のターニングポイントに差し掛かる。



一つ目の重要な選択は
教育を受けること。

プレシャス自身の本当の想いは分からない。
しかし、子は親を選べないという自分の不遇を愛する我が子たちにして欲しくないという母性の目覚めを自分は感じました。

その為には先ず自分がちゃんとした生活を手にする必要がある。
愛を知らない齢16の女の子が、学校に通いつつ産まれてきた子ども二人を育てる。
非常に困難で突きつけられる現実、大きな壁、障害は多い。


そして、もう一つの重要な選択が
母親との離別。

プレシャスの母親だって初めは心から娘を愛していたんです。
我が子に名付けたその名前こそがそれを証明しています。
宝物(プレシャス)

この作品で、恐らく誰もがよく思わない母親という存在。
娘に対する虐待は決して許せない問題であるが、彼女自身も被害者であることは忘れてはならない。
彼女もまた夫からの愛を知らずに人生を歩んできたのだ。

プレシャスはそんな母親との離別を決意し、我が子へ愛を注ぎ、同時に愛を知ることとなる。
自分を本当の意味で愛してくれる人の存在は大きい。
生きる希望にもなるし、自分の存在意義にもなりうる。
同時に、親が子を愛することは当たり前ではなく、時には別の愛する人のために捨て置くことも有り得るのだ。


1980年代、経済格差の渦中にあったアメリカでは、貧困の中に疎外された男性たちのDVや性的虐待などの暴力が蔓延っていました。
原作者のサファイア自身もDVのある環境に育っていたようで、今作の監督てをあるリー・ダニエルスは原作を読んで深く感心を寄せたという。
母親役のモニークも兄からの性的虐待を告白していることからも、この役作りに徹したモニークには脱帽です。

「プレシャス」で第82回アカデミー助演女優賞に輝いたモニークの兄ジェラルド・アイムスが、4月19日放送の米ABC「オプラ・ウィンフリー・ショー」に出演し、子どものころのモニークに性的虐待を行っていたことを告白した。
アイムスは、自身が13歳、モニークが7歳のころから1、2年にわたり性的虐待を行ったと明かし、「本当にすまないと思っている」と涙ながらに謝罪。かねてモニークは、兄から性的虐待を受けていた過去をメディアに語り、「プレシャス」で演じた鬼のような母親役を、その経験をもとに演じたとコメントしていた。
オスカー女優モニークの実兄、性的虐待を告白 : 映画ニュース - 映画.comより引用




変化と成長

大きく分ければこの上記2つがプレシャスの重要なターニングポイントでした。

一方で、人生とは無数の選択肢の上に成り立ちます。
勿論、この劇中にも様々な選択肢がありました。
その中でも大きく関わったのはフリースクールで出会った生徒たちとレイン先生です。


あの時、校長先生が自宅を訪ねて来なければ。
もし、プレシャスが校長先生の言葉に耳を傾けなければ。
翌朝、フリースクールへと足を運ばなければ。
・・・etc.

その中でも印象に残ったポイントだけ挙げていきます。



・レイン先生の質問

フリースクールでの初めての自己紹介。
名前、出身地、得意なこと、好きな色を教えて。


一度はパスしたプレシャスは勇気を振り絞って自己紹介をします。

人は名前も、生まれる場所も、肌の色も選べない。
それでも好きな色は自分で選ぶことが出来る。
得意なことを伸ばすことは自分の自信へと繋がる。

人生とは自分の選択肢で歩んでいくものなんだ。
というメッセージとも取れる非常に素晴らしい描写がさり気ない演出のひとつとして落とし込まれているんですね。



・プレシャスの妄想

冒頭から何度か劇中に挿入されるプレシャスの妄想。
こうありたいと願う夢が可視化される瞬間は色鮮やかで表情も明るく煌びやかな演出がなされています。

この現実と夢との対比は、不遇な彼女を通した現実世界は甘くないという痛烈な皮肉にも、現実逃避にも思える妄想はある種の前向きな姿勢の表れにも取れる。

また、この妄想や表情からも、プレシャスは人生のすべてにおいて自己憐憫に浸ってはいないということが伺える。
そして、物語を終始取り巻く暗く落ちていくような雰囲気を少しでも和らげる観客への救いにも思えてならない。
ポジティブな人を見ていると何処か元気が出てくるアレに近い(語彙力)。



・プレシャスの心境の変化

フリースクールへと通う前は自分の都合のいいように妄想をしていたプレシャス。
思い出してほしいのですが、身支度をする鏡に映った自分の姿が白人の金髪女性として演出されています。
上記に記述した通り、プレシャス自身のこうありたいという理想像。


しかし、母親との対談の場に歩む前、ロビーで映る自分自身の姿は金髪女性ではなくありのままの自分自身でした。

妄想することで現実から目を背けてきた彼女自身を払拭する決意の表れ、現実と向き合ったこと、現実と向き合う強さを持ったことを意味するのではないかと思う。

フリースクールが人生の転機となったのはこれ以上説明するまでもありませんが、この時にプレシャスが自分のありのままの姿を受け入れたこと。
そして、自分の人生を歩み出したことを示唆させます。

勿論、転機を見逃さないことも必要ですが、その転機に乗っかることが出来る自己選択も重要なのではないだろうか。


いつか子どもに読み聞かせると語った絵本。
フリースクールで習ったことは読み書きだけでなく、人間としても母親としても成長させたのでしょう。



終わりに

プレシャスは過去のしがらみを断ち切った。
一見、ハッピーエンドにも見えるラストでしたが、プレシャスはやっとスタートラインに立てたんです。

この先、我が子が成長し、自分の出生について知る機会もあるでしょう。話さなければいけないことも沢山あるでしょう。
その時に、どう向き合っていくのか。
ただ言えることは、プレシャスにとって我が子は宝物です。

良い母親として我が子へ愛を注いでやってほしい。
そして二人の子どもにとっても、プレシャスは母親としては勿論のこと、かけがえのない存在で在り続けてほしい。
そう願わざるを得ないラスト。


重くのしかかる題材の中に、諦めないことで自ら見出した光を掴む、そんな希望に溢れた未来を想像できる非常に感慨深い作品でしたね。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




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