夢と恐怖がシンクロする(『ラストナイト・イン・ソーホー』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
今回は『ラストナイト・イン・ソーホー』について語っています。
エドガー・ライト監督によりネタバレ禁止令が出されていたこともあり、未鑑賞の方はネタバレを読まずにまず映画本編を観ていただきたいというのが本音です。
鑑賞された方のみ、お読みいただければ幸いです。
※この記事はネタバレを含みますので、ご注意ください。
作品概要
原題︰Last Night in Soho
製作年︰2021年
製作国︰イギリス
配給︰パルコ
上映時間︰115分
映倫区分︰R15+
解説
「ベイビー・ドライバー」のエドガー・ライト監督によるタイムリープ・ホラー。ファッションデザイナーを夢見て、ロンドンのソーホーにあるデザイン専門学校に入学したエロイーズは、寮生活になじめずアパートで一人暮らしを始める。ある時、夢の中できらびやかな1960年代のソーホーで歌手を目指す美しい女性サンディに出会い、その姿に魅了されたエロイーズは、夜ごと夢の中でサンディを追いかけるようになる。次第に身体も感覚もサンディとシンクロし、夢の中での体験が現実世界にも影響を与え、充実した毎日を送れるようになったエロイーズ。夢の中で何度も60年代ソーホーに繰り出すようになった彼女だったが、ある日、夢の中でサンディが殺されるところを目撃してしまう。さらに現実では謎の亡霊が出現し、エロイーズは徐々に精神をむしばまれていく。エロイーズ役を「ジョジョ・ラビット」「オールド」のトーマシン・マッケンジー、サンディ役をNetflixの大ヒットシリーズ「クイーンズ・ギャンビット」のアニヤ・テイラー=ジョイがそれぞれ演じる。
ラストナイト・イン・ソーホー : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
11月半ばに、映画宣伝会社スキップ様よりオンライン試写に招待していただきまして、上映前に鑑賞することができました。
その節はありがとうございました。
一般上映よりも先に鑑賞しましたが、しつこいようですがもう一度言わせていただきます。
ネタバレ記事を公開日当日にしたのは、エドガー・ライト監督自身がネタバレを禁止する旨のツイートを上げたからです。
— edgarwright (@edgarwright) 2021年9月4日
「『ラストナイト・イン・ソーホー』のヒロインであるエロイーズは旅をします。まずは田舎から都会へ、そして別の時間へ。10月29日に映画が(海外で)公開される際には、観客の皆さんにも、その旅に出かけていただきたいと思います。この秋にわざわざ公開を延期したので、できるだけ大きなスクリーンで楽しんでいただきたいと思いますし、また夜が長くなるので、何も知らない皆さんは文字通り震え上がるのではないかと思います。
私や『ラストナイト・イン・ソーホー』のキャスト&スタッフは、ベネチア国際映画祭でのプレミア上映を本当に喜んでいます。そして最初の観客の皆さんには、後から観る方々のため、秘密を口外しないようお願いいたします。
この映画の脚本を執筆している時、皆さんにはエロイーズとともに物語を発見していってほしいと考えていました。ですから、未来の観客の体験を完全なものに保てるよう、どうか『ラストナイト・イン・ソーホー』で起こったことは、ソーホーに置いていってください。」
エドガー・ライト、最新作に「ネタバレ禁止令」発令 ─ 『ラストナイト・イン・ソーホー』プレミア上映に絶賛集まる | THE RIVERより引用
よって、核心に迫る言及は避けているので深くは掘り下げていませんが、まだ鑑賞されていない方は劇場への足を運んでいただいて本作『ラストナイト・イン・ソーホー』を観た後に、レクがどう感じたのか興味のある方だけ先にお進みいただけるようお願いいたします。
では前置きが長くなりましたが、本題へと入っていきたいと思います。
ファッションデザイナーを夢見てロンドンのソーホーにあるデザイン専門学校に入学したエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は同級生と馴染めず寮生活から離れて独り暮らしを始めます。
独り暮らしのアパートで眠りに就いたエロイーズは60年代のソーホーの夢を見ます。
そこで歌手を夢見るサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)の姿を追いかけ、次第に同化していきます。
エドガー・ライト監督の創り出す世界に吸い込まれるように現実と虚構、実像と鏡像が入り乱れる美しくも恐ろしい悪夢の追体験。
映画愛に溢れた傑作スリラーであり、ユーモア性を抑えた演出が今を生きるすべての女性へのリスペクトを感じさせます。
考察
ロメロのゾンビ映画をリスペクトした上で自分のテイストで撮った『ショーン・オブ・ザ・デッド』。
いくつかの作品を経て、新たなステージへと進んだ『ベイビー・ドライバー』。
そして、エドガー・ライト監督の新境地だと思わされた本作『ラストナイト・イン・ソーホー』。
エドガー・ライト監督は、本作『ラストナイト・イン・ソーホー』のテーマは「過去を理想化するのは危険だということ」だと述べています。
「時が経つとその時代を知らない人々が当時の良い面ばかりに目を向けるような傾向があると思います。
(中略)
よく考えてみると、今現在に起きている悪いことは、すべて当時にも起きていたことです。」
夢の中では『007/サンダーボール作戦』の看板がデカデカと映ります。
エドガー・ライト監督の映画好きの反映と、当時のボンドの女性への扱いやボンドガールに対する批判のようにも見えます。
60年代をリスペクトするとともに、現代のテーマをも浮かび上がらせています。
昔の輝かしき良い面と、その裏側にある悪しき面を同時に見せること。
これらを比喩するように夢と現実、過去と現在、実像と鏡像の境界線を濁す演出。
連続殺人犯をアレックスとすることで、男女の性別を曖昧にするミスリード。
そして、夢に憧れ、夢を追いかけて、夢に囚われる。
ネオンに照らされる彼女たちの姿を見る我々に、美しさと怖さの両側面を感じさせる映像表現には痺れました。
本作『ラストナイト・イン・ソーホー』ではトーマシン演じるエロイーズがアニャ演じるサンディに憧れを抱いて同化していきます。
そんなサンディは時代や業界による男性からの強要を受け、そんな姿を見るエロイーズは現実でも男性の亡霊のようなものに襲われる幻覚を見るようになります。
ジャッロ映画がモチーフとされている本作『ラストナイト・イン・ソーホー』で、この亡くなった者たちの影に怯えるという点ではニコラス・ローグ監督作『赤い影』の影響を受けている印象です。
『赤い影』
エロイーズは夢の中、60年代でサンディを介して男性への恐怖心や嫌悪感を募らせていきます。
これは自分の目で見ていたエロイーズ自身の内にある"恐れ"の表れ。
ロマン・ポランスキー監督作『反撥』にも近い、男性に対する潜在的恐怖心を示しています。
『反撥』
また、女優とモデルの違いはありますが、服飾関係の周りで連続殺人事件が起こるという展開はジャッロ映画のパイオニアでもあるマリオ・バーヴァ監督作『モデル連続殺人!』とも繋がる。
『モデル連続殺人!』
原色のネオンに照らされる町や人とスリラー性がリンクする作りはダリオ・アルジェント監督作『サスペリア』にも通ずる点でもあり、ポスターのワンシーンそのままオマージュとしても使われています。
鏡を使った演出は、鏡がキーアイテムとなるこちらもアルジェント監督作『サスペリア PART2』の影響も考えられます。
『サスペリア』
『サスペリア PART2』
上記のように、鏡をひとつの媒体とすることで物事の二面性や二重性を、もしくは対称性や対照性を表しています。
そして、ジョーダン・ピール監督作『アス』でも語りましたが
"鏡の法則"によって、そのスリラー性は自身の内にあるものとして表面化しているのです。
"鏡の法則"
私たちの人生は、私たちの心の中を映し出す鏡であるという法則です。
つまり、自分の人生に起こる問題の原因は、すべて自分自身の中にあるという考え方です。
例えば、鏡を見た時に髪が乱れていたとします。
鏡の中に手を突っ込んで髪を直すことはできませんよね?
髪を直すには、自分自身の髪を直すしかないんです。
しかし現実には、鏡の中の髪を直そうと必死に頑張る人が多い。
鏡の中と外で相対するエロイーズとサンディの構図と同じだと思いませんか?
解決するためには自分が変わらなければならない。
そう、この物語はエロイーズにとっての大人になるための、現実を知るための通過儀礼でもあるのです。
炎に包まれる現在のサンディが時折若かりしサンディの姿に見えたのも、エロイーズが現実を知ることで過去に囚われたままの現在のサンディを救うこと。
つまりは、過去で生きる若かりしサンディを救うことにも繋がっているのです。
そんなエロイーズの姿を我々観客の意識と同化させることで
過去を、現実を知ることによって、今を生きるすべての女性たちへのリスペクトを感じさせます。
前作『ベイビー・ドライバー』で映像と音のリンクで我々観客を興奮させたエドガー・ライトが本作『ラストナイト・イン・ソーホー』では視覚と精神をリンクさせ、尚且つスクリーンと現実をシンクロさせる。
そこではじめて見えてくる現代に通ずるテーマ。
このように、ジャッロ映画という昔の作品をリスペクトしながらも現代的なメッセージとして再構築した。
これが、エドガー・ライトの新境地だと唸らせた彼の新たな作家性ではないだろうか。
終わりに
ということで、エドガー・ライト監督自身のネタバレ禁止令もあって、物語の深くは掘り下げていませんが言いたいこと、感じたことは汲み取れる内容として書かせていただきました。
恐らく、一般公開されて批評も増えてくるでしょうが、私レクはこの映画が大好きです。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
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愛は悲劇で偶然は喜劇(『悪なき殺人』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
今回は先日、フォロワーさんと観に行った『悪なき殺人』について語っています。
フォロワーさん2人と観に行ったのですが、1人が眠そうにしていたので上映前に「イビキはかくなよ!」と冗談交じりに話していたら、上映開始直後にイビキが聞こえてきて「フリじゃねえよ」と思っていたらイビキをかいてたのはそのフォロワーさんの後ろの席のおじいちゃんでした。というのがこの映画のハイライトです(笑)
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Seules les betes
製作年︰2019年
製作国︰フランス・ドイツ合作
配給︰STAR CHANNEL MOVIES
上映時間︰116分
映倫区分︰R15+
解説
「ハリー、見知らぬ友人」のドミニク・モル監督が、ある失踪事件を軸に思いもよらない形でつながっていく5人の男女の物語を描き、2019年・第32回東京国際映画祭コンペティション部門で最優秀女優賞と観客賞を受賞したサスペンス(映画祭上映時タイトルは「動物だけが知っている」)。吹雪の夜、フランスの山間の町で女性が失踪し、殺害された。事件の犯人として疑われた農夫のジョセフ、彼と不倫関係にあったアリス、そして彼女の夫ミシェルなど、それぞれに秘密を抱えた5人の男女の関係が、失踪事件を軸にひも解かれていく。そして彼らが、フランスとアフリカのコートジボワールをつなぐ壮大なミステリーに絡んでいた事実が明らかになっていく。「イングロリアス・バスターズ」のドゥニ・メノーシェが主人公となるミシェル役を演じ、東京国際映画祭で女優賞を受賞したナディア・テレスツィエンキービッツは、ミシェルと思いがけないタイミングでかかわることになるマリオン役を演じている。
悪なき殺人 : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
まずはTwitterに上げた感想から。
『#悪なき殺人』観た。
— レク@映画ブロガー (@m_o_v_i_e_) 2021年12月4日
女性の失踪事件を軸に描く5人の男女の物語。
感情は在りもしないものに意味を与え、その想いは藻掻きながら行き場を見失う。
丁寧すぎて描写・演出の取捨選択の悪さは見えるも、一方通行の愛と偶然に次ぐ偶然で紡がれる強引さはフィクションならではの面白さではないだろうか。 pic.twitter.com/IoKdo9kVY9
第32回東京国際映画祭コンペティション部門で最優秀女優賞、観客賞を獲得した本作では『悪なき殺人』。
当初のタイトルは『動物だけが知っている』。
当初のタイトルの方が人間の滑稽さが際立っていたように思えます。
本作が『悪なき殺人』であるかどうか。
その判断は個人によって異なりますが、個人的には"悪なき"ではないんですよね。
ジャンルに関してもサスペンスミステリーというよりもサスペンスドラマ。
"殺人"が主体ではなく、登場人物たちの抱える秘密と愛による連鎖、そして複数の視点から成り立つ円環構造の中でどうやって"殺人"に至ったかの経緯を知る物語なので。
この辺りも絡めつつ、考察に進みます。
考察
本作『悪なき殺人』は女性の失踪事件を軸に
①アリスパート
②ジョセフパート
③マリオンパート
④アマンディーヌパート
の全4章で構成されています。
この物語は登場人物の誰もがある秘密を抱えながら誰かに向けた愛で語られています。
①アリスパート
オープニングクレジットの後、このアリス視点から物語は始まります。
前半は女性が失踪した直後。
伏線が回収されていく構成でもあり、このアリスパートでは伏線がばら撒かれているので今後の展開を楽しむためには注目すべきパート。
アリス自身は夫ミシェルにジョセフとの不倫がバレてしまったと思い込んでいる。
アリスの抱える秘密は、不倫。
アリスの愛は、ミシェルという夫がありながら、同じ町に住むジョセフに想いを寄せている。
伏線は、ジョセフの反応と犬、ミシェルの電話と顔の傷、エヴリーヌの夫が海外出張しているという警官からの情報。
②ジョセフパート
2つ目のパートがジョセフ視点。
こちらも女性が失踪した直後。
女性の死体を発見し、死体を隠す。
警官の話からこの死体がエヴリーヌだと悟る。
ジョセフの秘密は、死体を隠していること。
ジョセフの愛は、亡くした最愛の母の想いから女性の死体を愛してしまう。
伏線回収は、セックス中に上の空だったこと、飼い犬の死の真相、ジョセフが消えた理由。
伏線は、女性の死体が置かれた理由、エヴリーヌのカギのキーホルダー。
③マリオンパート
話は変わって新キャラが登場します。
彼女はウェイターとして働いています。
女性の失踪事件よりも前の時系列に。
マリオンはエヴリーヌと出会い、肉体関係となる。
エヴリーヌを追いかけて町へとやってくるが、エヴリーヌと仲違いし、その後警官からエヴリーヌが失踪したことを聞かされる。
マリオンの秘密は、同性愛。
マリオンの愛は、既婚者であるエヴリーヌへの想い。
伏線回収は、エヴリーヌのカギについた猿のキーホルダー、ミシェルの顔の傷。
伏線は、ヒッチハイクの車、キャンピングカーでの出来事、ミシェルとの関係。
④アマンディーヌパート
舞台はフランスからコートジボワールへ。
貧困層のアルマンという若者が登場します。
出会い系サイトを使って詐欺をはたらいた相手がミシェルということが明かされます。
アマンディーヌという女性は架空で、ミシェルからお金を搾取する。
アルマンは詐欺でお金を稼いでマリーという別の女性と一緒に住むことを夢見ていた。
そのアマンディーヌの写真を見たミシェルが、エヴリーヌを追いかけて町へとやって来たマリオンをアマンディーヌと勘違いし、マリオンとエヴリーヌの口論を目撃してエヴリーヌを殺めてしまう。
アルマンの秘密は、詐欺をはたらいていたこと。
アルマンの愛は、マリーとその娘。
伏線回収は、ミシェルとマリオンの関係、マリオンのヒッチハイク、キャンピングカーでの出来事、エヴリーヌを殺した犯人、ジョセフの家に死体を置いたこと、アリスの聞いた電話、マリーがエヴリーヌ夫の愛人だったこと。
「無いものを与えるのが愛。
有るものを与えるのは快楽。」
ジョセフはアリスの生の温もりではなく、母を想う死の冷たさが必要だった。
ミシェルはお金で愛を買おうとし、マリオンの「お金なんかいらない、あなた(エヴリーヌ)が欲しいの」といった台詞がありましたが、正にこれ。
アルマンのお金もマリーにとってはエヴリーヌの夫がいれば十分で。
まとめると、一方通行の愛は以下の通り。
アリス→ジョセフ→エヴリーヌ(死体)
ミシェル→アマンディーヌ(マリオン)→エヴリーヌ→エヴリーヌの夫
アルマン→マリー→エヴリーヌの夫
エヴリーヌ(死体)も生存時には夫への愛を求めていたと考えると、この物語は円環構造でありながら、全ルートでエヴリーヌの夫に収束するんですよ。
つまり、すべての原因はエヴリーヌの夫の"存在"にあったんです!(笑)
まあこれは少々強引な考察ですが
エヴリーヌの夫がいなければ、もしかしたらエヴリーヌはマリオンと両想いになれたかもしれない。
もし、エヴリーヌの夫とマリーが出会ってなければ、マリーはアルマンと一緒に暮らせたかもしれないし、アルマンは詐欺をはたらかず真面目に働いたかもしれない。
ミシェルは詐欺に遭わずエヴリーヌを殺さなかったかもしれない。
そうすると、ジョセフも死体と出会わなかっただろうし、アリスへの愛に身を委ねていたのかもしれない。
当然ですが、"偶然"で紡がれた物語は"if(もし〜なら)"で全く別の物語になっている可能性があります。
殺人の良し悪しの話ではなく、そこに至る経緯を楽しむ物語。
この物語の全容は登場人物たちは誰しもが知り得ない話であり、その事実を所々見ていたのが、各シーンに登場する動物たち。
だからこそ、上記で上げたタイトルへの言及に繋がるのですが…。
この物語の全貌を知ることができるのは鑑賞した人のみ。
神の視点で高みの見物をする劇場の観客だけという、ある種の特権のような優越感を覚えさせてくれる作品でもあります。
ところで皆さんは、偶然の必然性、計画的偶発性理論というものをご存知でしょうか?
1.好奇心:たえず新しい学習の機会を模索し続けること
2.持続性:失敗に屈せず、努力し続けること
3.楽観性:新しい機会は必ず実現する、可能になるとポジティブに考えること
4.柔軟性:こだわりを捨て、信念、概念、態度、行動を変えること
5.冒険心:結果が不確実でも、リスクを取って行動を起こすこと
この5つによって成り立つキャリア論なのですが、この物語においてもこの5つが重なって偶然という必然を引き寄せてしまったのではないかと思わされますね。
正直、脚本としては面白いけど完成度でいうとそこまで緻密さはないと思っています。
現実ではあり得ないとか、無理矢理だとか、ご都合主義だとか、様々な意見も挙げられそうな作りでもあるし。
恐らく、この偶然と偶然の繋がりを楽しめるかどうかで、この映画の評価が決まると思う。
一方通行の愛と偶然に次ぐ偶然で紡がれるこの強引さは、フィクションならではの面白さではないだろうか。
終わりに
ということで、「偶然には勝てない」というある意味で卑怯な脚本でここまで楽しませてくれると、否が応でも楽しくなっちゃいますよ。
特に不可避ではない物事に愛が絡むことで視野が狭くなり、不可避な悲劇に吸い込まれていく過程が面白かったです。
「Life is a tragedy when seen in close-up,but a comedy in long-shot.」
人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。
言い得て妙ですね(笑)
当事者たちにとっては悲劇だけど、その全貌を見ることができる我々観客にとっては喜劇になる。
伏線回収が好きな人にはオススメの映画でした。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
(C)2019 Haut et Court - Razor Films Produktion - France 3 Cinema visa n° 150 076
世界が狂う(『ヴェノム︰レット・ゼア・ビー・カーネイジ』ネタバレ考慮)
目次
初めに
どうも、レクです。
今回は公開日初日にドルビーシネマで鑑賞してきました『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』について語っております。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Venom: Let There Be Carnage
製作年︰2021年
製作国︰アメリカ
配給︰ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
上映時間︰98分
映倫区分︰G
解説
マーベルコミックのダークヒーロー、ヴェノムの活躍を描いたトム・ハーディ主演作「ヴェノム」の続編。圧倒的戦闘力と残虐性を持ち、ヴェノムの大敵となるカーネイジとの戦いを描く。「悪人以外を食べない」という条件でエディの体に寄生した地球外生命体シンビオートのヴェノムは、食欲制限を強いられ不満を抱えながらも、エディとの共同生活をそれなりに楽しんでいた。そんな中、ジャーナリストとして未解決事件の真相を追うエディは、刑務所で死刑囚クレタス・キャサディと再会する。クレタスは猟奇殺人を繰り返したシリアルキラーで、死刑執行が迫っていた。エディに対し異様な興味を示すクレタスは突如として彼の腕に噛み付き、その血液が人間とは異なることに気づく。そして死刑執行の時、クレタスはついにカーネイジへと覚醒する。主人公ヴェノム/エディ役をハーディ、エディの元恋人アン役をミシェル・ウィリアムズが続投で演じ、「スリー・ビルボード」のウッディ・ハレルソンがカーネイジ/クレタス役を演じる。そのほか新キャラクターのシュリーク役で、「007」シリーズのナオミ・ハリスが参加。「モーグリ ジャングルの伝説」など監督としても活躍する俳優アンディ・サーキスがメガホンをとった。
ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
正直ですね、前作『ヴェノム』はあまりノレテナイんですよ(笑)
前作『ヴェノム』の感想がこちら。
だからこそ、というわけでもありませんが、本作『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』は期待しすぎず観に行きました。
まあまあ楽しかった!
純粋に鑑賞中は前作よりも楽しめました。
前作でのヴェノムがダークヒーローになる動機づけの曖昧さは、本作では2作目ということを考慮せずとも同じ特性を持つ新たな敵カーネイジが登場することでしっかりとカバーできている。
寄生と共生によるエディとヴェノムの関係性も良いし、掛け合いによるコミカルさも前作以上。
ただ、やはり映倫がGということで、ヴェノムの立ち位置が可愛さしかなく、グロさもないので、ヴィラン感は完全に消失。
ダークヒーローとしての地位を確立してしまっているのは個人的には物足りない点でもあります。
加えて、一番盛り上がるであろうヴェノムとカーネイジの最終バトルも物足りなさが半端ないですね。
エディとヴェノムの残虐の庇護者もそうですが、カーネイジは完全に名前負けしてます。
もっと人を食え!
ダンの炎とフランシスの音の使い方も微妙。
大聖堂の鐘の方が良い仕事をしてくれてます(笑)
ヴェノムとカーネイジが同じ特性を持つということで、鐘の音によって生身の身体同士で戦う展開は面白いですが。
また、フランシスの最期は鳴らない鐘によって齎される皮肉ときたもんだ。
その上、マリガン刑事の目の色がシュリークみたいに光るし。
ヴェノム3作目に向けての伏線ですよね、これ。
ということで、最終バトルには正直がっかりでした。
考察
では早速、考察に入りたいと思います。
本作『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』は"繋がり"の物語だと感じました。
その3つの"繋がり"について語っておきます。
①共生と寄生
残虐と大殺戮、共生と解放、傷心と愛。
エディとヴェノム、クレタスとカーネイジ、二組の対比を物語と上手く絡ませながら進行するので見易さもあります。
特にヴェノムとカーネイジの対比として、想い人への対応で顕著に現れています。
エディとアンの関係は前作からの"繋がり"もあり、ヴェノムとアンの関係も良好。
それはエディとヴェノムの関係性と深く結びついています。
一方で、クレタスとフランシスは両想いであるにも関わらず、カーネイジとフランシスの相性は最悪。
炎と音が弱点のシンビオートにとって、フランシスの能力でもある音波攻撃は邪魔でしかない。
クレタスとカーネイジはあくまでも利害の一致にすぎず、エディとヴェノムの関係性とは相反するものとして描かれています。
そんなクレタスとカーネイジの"繋がり"を通して、エディとヴェノムの"繋がり"を強調する。
二人がまるで恋仲のようにイチャついたり喧嘩別れする展開は面白かったですね。
それでも、前作でも描かれた適正が擬似的にも信頼関係を築き、本作ではそこから一歩先に進む互いの必要性を身を以てわからせ、彼らを引き離すことができない"繋がり"をバディ・ムービーとして魅せてくれました。
②血と痛み
人は血と痛みから生まれる。
皮肉にもカーネイジもこの血と痛みから生まれてしまう。
カーネイジ本人もヴェノムを父と呼ぶように、本作のもう一つのテーマが"父殺し"。
これはクレタスの過去とも深く関わっており、フランシスとの結婚を急いだこともまた、彼なりの家族形成なのだろう。
"父殺し"に関しても、過去の悪しき"繋がり"を断つことで、新たな"繋がり"を結ぶことになる。
"父殺し"といえばギリシア悲劇『オイディプース王』の物語が浮かぶと思います。
オイディプースもまた、知らなかったとはいえ父を殺め、母と交わることで新たな"繋がり"を築いています。
そして、親という存在は子の最初に立ち塞がる障害でもあるんです。
『スター・ウォーズ』などでも描かれてきましたが、『オイディプース王』との違いは和解の有無。
当然、本作のヴェノムとカーネイジに関して和解などはなく、"父殺し"も未遂に終わり、エディとヴェノムの関係をより固いものとしました。
エディとアン、ダンとアン、クレタスとフランシス、三者三様の愛の"繋がり"の比較も面白い。
また、本作ではアンとヴェノムの"繋がり"も脚本上に練りこまれていました。
とても良い!
③エンドクレジット
ヴェノム2作を終えて、ついにピーター・パーカー登場。
これは『スパイダーマン︰ファー・フロム・ホーム』のラストです。
『スパイダーマン︰ノー・ウェイ・ホーム』及び『Doctor Strange in the Multiverse of Madness』の世界線へと召喚されたことになります。
ああ、ついに繋がってしまった!
ひとつのテーマでもある"繋がり"はシリーズを超えてここにまでの"繋がり"を持たせてしまったということですね。
終わりに
「荒ぶるヴェノム 弄ぶカーネイジ 世界が 狂う」
全然世界が狂わねえ!と思ってたら、マルチバース案件だったんだもの…世界は狂っちゃうね。
ということで本作『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』を終えて、今後のMCU映画を観るために予習しなければならない映画が増えたことになります。
今からMCUを追いかける人は本当に大変だ!
さて、僕はいつMCUを卒業しようか…。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
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恐怖の対象と"それ"の正体(『ダーク・アンド・ウィケッド』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
今回は『ダーク・アンド・ウィケッド』について語っています。
監督は『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』のブライアン・ベルティノ。
こういったホラー映画はどんどん作っていってほしいですね!
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰The Dark and the Wicked
製作年︰2020年
製作国︰アメリカ
配給︰クロックワークス
上映時間︰95分
映倫区分︰PG12
解説
父の最期を看取るため田舎の農場に帰郷した姉弟を襲う怪異を描き、シッチェス・カタロニア国際映画祭2020で最優秀女優賞と撮影賞を受賞したホラー。父の病状が悪化したとの報せを受けたルイーズとマイケルの姉弟は、生家であるテキサスの人里離れた農場を久々に訪れる。そこには、母に見守られながらひっそりと最期を迎えようとする父の姿があった。しかし母は「来るなと言ったのに」と彼らを突き放し、姉弟は両親の様子がどこかおかしいことに気づく。その夜、母は首を吊って死亡。やがて姉弟は、想像を絶する恐怖に巻き込まれていく。姉ルイーズを「あるふたりの情事、28の部屋」「アイリッシュマン」のマリン・アイルランド、弟マイケルを「ディック・ロングはなぜ死んだのか?」のマイケル・アボット・Jr.が演じた。監督は「ストレンジャーズ 戦慄の訪問者」のブライアン・ベルティノ。
ダーク・アンド・ウィケッド : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
いやはや、久しぶりに洋画で面白い心霊ホラーに出会えました!
オーソドックスな心霊系ハウスホラーと見せかけて、往年のホラーとは異なるアプローチを見せています。
ちなみに、ホラー映画が苦手な人はなかなか観るのは厳しいでしょう。
その一つにジャンプスケアの多用があります。
来るぞ来るぞという流れで来るので親切設計ではありますが。
そしてもう一つが、日常生活に溶け込む恐怖。
電話や呼び鈴、お風呂や暗闇。
ホラー映画が苦手な人にとって、鑑賞後にも引きずる怖さがあります。
また、なんと言っても本作『ダーク・アンド・ウィケッド』はその不気味さが際立つその構成力がすごい。
目新しさこそないものの、好きな人には堪らないホラー映画ではないだろうか。
この辺りを掘り下げつつ、考察していきたいと思っております。
考察
では早速考察に入っていきましょう。
本作『ダーク・アンド・ウィケッド』は姉弟が母親の家に来るまでの不可解な現象を冒頭とし、そこからは姉弟が来訪してからの一週間が描かれます。
つまり、日曜日には良くも悪くもこの家での出来事は終わりを迎えるということ。
まあ先に言っておくと、バッドエンドなんですが(笑)
何故そんな家に一週間も居座るのか?
床に伏せる父親という存在が、家族をこの家に引き止める理由付けになっているんですよね。
ここがまた卑怯なのよ。
死亡フラグがビンビンなのに、半ば強制的に束縛されて途中で逃げ出せないんですから。
さて、この一週間をざっくり振り返ってみましょう。
月曜日。
母親は野菜を切りながら自分の指を切り落として微塵切りにします。
その時に聞こえた声こそ悪魔の囁き。
火曜日。
姿を消した母親を探す姉弟は小屋で首を吊って死んでいた母親を発見する。
水曜日。
ショックを隠しきれない姉ルイーズはシャワー浴びていると物音がし、寝室で寝ているはずの父親(悪魔)の姿を見る。
このシーンは排泄描写あり。
木曜日。
寝室に寝たきりとなっている父親の口から蜘蛛が這い出てくるのをルイーズが見る。
弟マイケルは窓の外に死んだはずの母親(悪魔)の姿を見る。
聖職者が注意喚起するも追い返される。
金曜日。
夜中の3時にチャーリー(悪魔)来訪。
ルイーズ(悪魔)を見たチャーリーが銃自殺。
土曜日。
家畜のヤギが大量死。
生き残りの妊娠中のメスヤギ出産に立ち会い、マイケルが小屋で再び母親(悪魔)を見る。
日曜日。
マイケルは家族のために帰宅。
父親の看護師が蜘蛛を見て自殺。
死んでいる家族(悪魔)を見てマイケルが自殺。
ルイーズがマイケル(悪魔)の声を聞き、父親は衰弱死。
ルイーズが襲われED。
神学的に見れば、一週間と聞くと分かる人にはすぐに思いつくと思います。
そうです、旧約聖書の創世記、天地創造の期間です。
創世記2章7節
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
神は神に似せた人をつくられます。
悪魔もまた、人を唆すために神に似せた人を創り出す。
面白いのが、姉ルイーズには父親の姿だけを、弟マイケルには母親の姿だけを見せていること。
そして、神は最後に人をつくられた。
悪魔は皮肉にも7日目に父親の命を奪います。
悪魔は人の心の隙を狙って侵食してきます。
ひとりでヤギたちの世話をしながら夫の看病を続けていた母親が犠牲となり、弟マイケルも家族の死(悪魔の幻覚)に直面して死を選び、姉ルイーズは父親の死によって絶望に陥る。
"孤独=恐怖"の波状攻撃によって畳み掛ける構成となっています。
加えて、信心深い看護師には「イエスはあなたを愛する」と唆して自殺を促す。
無神論者の母親が口ずさむ賛美歌、ひっそりと集めていた十字架。
キリスト教徒、無神論者、問わず悪魔の存在を認めざるを得ない怪現象が起きる。
無神論者は勿論のことキリスト教圏ではない者にとって、神の存在と同様に悪魔の存在というものは恐怖の対象にはなりにくい。
"不可解=恐怖"とすることで、悪魔という存在を信じていない人でもしっかりと恐怖を体験できるものとなっています。
そうなんです。
本作『ダーク・アンド・ウィケッド』における恐怖の対象は、あくまでも不可解さなんです。
分からない何かに襲われるという往年のホラー映画の要素を軸に、往年のホラー映画で描かれるような謎解き要素は一切描かないんですよ。
例えば、心霊ホラーの代表作『ポルターガイスト』(1982)ではポルターガイスト現象が起こる理由を探っていきます。
Jホラーを代表する『リング』(1998)でも呪いのビデオの出生について過去を調べていきます。
『死霊館』(2013)もそう。
他のホラー映画とは一線を画す傑作ホラー『へレディタリー/継承』(2018)もそう。
今年2021年公開『レリック 遺物』(2020)にしてもそう。
『#レリック遺物』観た。
— レク@映画ブロガー (@m_o_v_i_e_) 2021年9月4日
祖母の失踪をきっかけに母と娘、三世代が一堂に会す。
認知症を屋敷ホラーとして描くことで、"老い"と"死"への恐怖を個人ではなく家族という集団に当てはめたのが上手い。
親から子へと受け継がれる連鎖は大切な人が変貌していく悲しみと孤独へ寄り添うことを表面化させる。 pic.twitter.com/U7hPrVTA7J
原因を探っていく謎解き要素というものがホラー映画のひとつの形としてあるんです。
例外として『テリファイド』(2017)のように因果や正体が明かされないまま恐怖描写だけを切り取ったような作品もあるにはありますが。
悪魔という抽象的な概念による恐怖だからこそ描ける、分からないものは分からないまま。
信じるか信じないかはあなた次第…
ではなく、これ!
"不可解な現象をただ見せて"恐怖心を煽るのではなく、"不可解な現象がそこ(劇中)に在る"と思わせることで恐怖心を掻き立てるもの。
言い換えるなら
人物描写をあえて深く描かず、感情移入というものを排除し、ただ"そこに在る現象"を描くことで"不可解な恐怖"を可視化しているんです。
他にも神学的に考察する余地は大いにあります。
蜘蛛に関しては聖書には蜘蛛の巣がいくつか登場します。
芥川龍之介『蜘蛛の糸』もルカによる福音書から着想を得たことは知られた話ではあるが、神による救済が気まぐれであることを示しているもので、悪魔はそれを使って揺さぶりをかけているのが分かります。
そして、もう一つ登場する重要な動物がヤギです。
不可解な恐怖と言っておきながら真相を探るのは野暮というものですが、このヤギが本作『ダーク・アンド・ウィケッド』の悪魔の正体を解き明かす重要なヒントになっています。
レビ記16章8-10節
その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。
しかし、アザゼルのためのくじに当ったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをなし、これをアザゼルのために、荒野に送らなければならない。
つまり、悪魔の正体は"アザゼル"ではないかと推測できます。
アザゼル(地獄の辞典の挿絵)
アザゼルは神に背いて天界を追放されたことでも知られる堕天使で、人間を監視する役目を担っていました。
また、天使ラファエルによって、暗闇に幽閉されたとも言われています。
レビ記16章の二頭のヤギは贖罪日(ヨム・キプル)の儀式のこと。
一頭はいつものように屠られ、その血をアロンが聖所に供える。
もう一頭は、生きたまま荒野に放たれる。
これは罪が赦されることを意味するだけでなく、荒野に放たれたヤギによって罪が取り除かれたことを意味しています。
レビ記よりヤギは贖罪の生贄(スケープゴート)とされており、他人の罪を背負うという意味合いとして使われます。
劇中でも悪魔の犠牲となりますよね。
レビ記16章27節
罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。
アザゼルのやぎ。
ヘブル語でアザゼルは「取り除く」という意味を持ちます。
本作『ダーク・アンド・ウィケッド』はこうした神の赦しをも、悪魔による死への誘いとして描いているんです。
終わりに
如何でしたか?
本来なら不可解なまま終わらせるのが本作にとって最良だとも思いましたが、分からないからこそ知りたくなるのが人間の性というもの(笑)
ということで、悪魔の正体についてあくまで個人的な見解を書かせていただきました。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
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2度の目覚めによる夜明け(『アンテベラム』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
今回はずっと観たかった映画のひとつ『アンテベラム』について語っています。
『アンテベラム』は絶っっっっ対にネタバレを読まずに行った方がいいです。
こんな記事、読んではいけません(笑)
何も知らずに観に行くことで感じるものこそがこの物語のメッセージとして最も重要なことで、そこで振り回されて自分の価値観と向き合ってもらいたい。
そういう考えではいるので、正直なところ『アンテベラム』のネタバレ記事を書くことも憚られる思いでいました。
それでも見える形として、僕自身がどう感じたのかを残しておこうと記事を書かせていただいております。
なので、しつこいようですが、まだご覧になられていない方はUターンをお願いします。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Antebellum
製作年︰2020年
製作国︰アメリカ
配給︰キノフィルムズ
上映時間︰106分
映倫区分︰G
解説
「ムーンライト」「ドリーム」のジャネール・モネイが境遇の異なる2人の人物を1人で演じた異色スリラー。人気作家でもあるヴェロニカは、博士号を持つ社会学者としての顔も持ち、やさしい夫と幼い娘と幸せな毎日を送っていた。しかし、ある日、ニューオーリンズでの講演会を成功させ、友人たちとのディナーを楽しんだ直後、彼女の輝かしい日常は、矛盾をはらんだ悪夢の世界へと反転する。一方、アメリカ南部の広大なプランテーションの綿花畑で過酷な重労働を強いられている女性エデンは、ある悲劇をきっかけに仲間とともに脱走計画を実行するが……。ヴェロニカとエデンの2役をモネイが演じている。製作に「ゲット・アウト」「アス」のプロデューサー、ショーン・マッキトリック。
アンテベラム : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
うわーーーーー!
めちゃくちゃ胸糞悪い話だったーーーー!!!
ということで、冒頭から黒人差別を可視化したプロットにメンタルをガリガリ削られながら観ましたよ。
『ゲット・アウト』『アス』のプロデューサーとのことで、内容は概ね予想した通りではありましたが、冒頭から凄まじい。
この2作のようなコミカルさはなく、シニカルに描いています。
まるで悪夢を見ていたかのように。
現在の物語を過去の出来事、過去の物語を今の出来事のように錯覚させ、時系列を反転させ、夢オチに見せかける脚本と演出にやられましたね。
ちゃんと劇中で分かりやすく明示されるんですが、過去パートから「何かがおかしい」と匂わせてくるんですよ。
この違和感、点と点が線で繋がった時に押し寄せてくる感情…物凄く胸糞悪い。
考察
物語は主人公エデンをはじめ黒人たちが白人たちに奴隷として扱われ綿花を摘まされていた時代(以下、エデンパート)から始まります。
黒人奴隷制度です。
プランテーション(商業的大規模農園)はイギリス領アメリカ植民地の南部で発展し、南北戦争によって廃止されるまで200年以上にわたって存続した悪しき歴史。
そこでは、捕虜となった黒人たちが会話を禁じられ、綿花を摘まされ、暴力と性的搾取を受ける姿が映し出される。
逃げるものには死を、歯向かうものには焼印を。
そこで夢オチのように、スマホの着信音で目を覚ます女性ヴェロニカ(以下、ヴェロニカパート)へとシーンは移ります。
彼女はリベラル派としてテレビにも出演する有名な学者。
優しそうな夫、そして可愛らしい娘と過ごす幸せな家族の様子を見せられる。
観客はあのエデンパート、「黒人奴隷制度が悪夢であった」とほっと胸をなでおろすと思います。
この時には「もしかしてエデンはヴェロニカの前世の記憶なのか?」などとスピリチュアルな妄想なんかしてしまっていたんですが…。
そんな安堵も束の間
彼女は人として支持されているにも関わらず、黒人女性というだけでホテルのフロントで順番を後回しにされる。
予約したレストランでは隅っこの狭い席を案内され、ウエイターから安いワインを提供される。
これこそが現代でも起こり得る黒人差別の現状であるということ。
そして、ヴェロニカは白人たちによってパーティー会場から拉致されてしまいます。
ここで、シーンはエデンパートへと再び戻ります。
このエデンパート(現時点では南北戦争時代と思っている)であるはずのないスマホがでてくることで、エデンパートが時系列では現在、ヴェロニカパートが過去の出来事だったことを観客が悟るように劇中で開示される。
あの黒人奴隷制度が行われていた凄惨な光景は、まさに今起きている出来事だったのです!
ここで本来なら「どひゃー!!!」と驚くところですよね?
恐らく、製作側もそれが狙いの大きな仕掛けでもあります。
実はこの少し前に、エデンパートからヴェロニカパートへ移行した直後、エデンの腰にあるはずの焼印の位置をヴェロニカの腰のクローズアップで映すショットが挿入されるんです。
そこでなんとなく気づいちゃうんですよね…この2人は同一人物なのでは?と。
エデンパートで焼印を押された時、押されるまで頑なにエデンは自分の名前を名乗らなかったことも、有名な学者であるヴェロニカということを伏せるためのものであると後に気づけたりもします。
とはいえ
段階的にヴェロニカパートでも過去の黒人差別が現代でも残っているということを観客に分からせながら、エデンパートでは現実的には難しい再現トリックを使って更に黒人差別そのものを可視化させて、映像として観客をぶん殴ってくるんだもん。
タイトルのロゴが反転していることでもちゃんとこのトリックを匂わせている、とても真摯でフェアな構成なんですよね。
簡単なようで難しい、シンプルだからこそ凄いと思えるんです。
やられたの一言ですよ。
2度の目覚めにスマホという現代を象徴するアイテムを使用することで時系列を逆転させる面白さもここにありますね。
1度目はエデンパートを悪夢だと観客に思わせる目覚め。
2度目はエデンパートは悪夢なんかじゃないぞと観客に思わせる目覚め。
この2度の目覚めを通して、我々観客が目覚めなければならないんです。
現実に在る悪夢から。
創作物である映画という媒体を使って、タイトルの意味によるミスリードで、そして観客の知識を逆手に取り、このエデンパートを過去の歴史の光景のように見せる。
観客は南北戦争時代、アメリカ南部でのイギリス人による凄惨な黒人差別を目の当たりにしているのだと勘違いさせられる。
ここですよ、前情報やネタバレを見ずに本作『アンテベラム』を観るからこそ得られるものはここなんですよ!
まさか現代で、黒人奴隷制度のような凄惨な黒人差別が行われているはずがない。
そんな観客の先入観や固定観念を利用した映画的でありながら実に見事な作劇。
以下、エデン=ヴェロニカパート。
エデンが蝶番に油を塗り続けていたこと、軋む床板を避けて歩く素振りを見せていたこと。
これらの違和感の答えを出しながらヴェロニカの習っていたホットヨガを生かしたスリリングな脱出劇。
黒人奴隷として捕虜となった黒人たちの会話を封じること、沈黙もここで効いてくる。
そう、彼女らは現代を生きる人間たちだ。
つまり現代的な会話から観客に気付きを与えてしまう。
つまりは、再現されたプランテーションということを観客に悟らせないための沈黙でもあるということ。
騙されているのは実は観客だったいうこの辺りも『ゲット・アウト』同様に上手いなと思わされます。
ヴェロニカに送られた花束、リベラル派としてテレビに出ていたこと、「あなたが唯一の希望」と言われた有名な学者であることの周知。
これらの伏線も回収しつつ、白人と黒人、女性と女性の戦いを経てヴェロニカは解放、自由を手にする。
実際に、現代では多様性が謳われ、多かれ少なかれ差別に関しても万人が意識をしていると思います。
が、しかし、そんな現代でもにおいても、黒人差別が根強く残っている、そういった差別意識を自覚的、無自覚的に持っている人たちいる。
つまり、黒人たちにとって黒人差別とは過去のものではないということ。
また、イギリス人が連れてこられた黒人女性に惚れるも、暴力を振るって白人優位を見せつけるシーンも印象深い。
再現されたプランテーションという閉塞的な空間で、周りの環境によって自らの意思ですら偏見や差別に染まってしまう。
フェミニズムを描く上でのマチズモ的な思想を明るみにしているのだから。
黒人差別をテーマに作られた映画なので、黒人差別に絞って話をしていますが、こういった性差別や他の差別意識にしても同じことが言えます。
「過去の出来事だから。」
こういった心のない言葉というのは、今、自分が安全圏にいるから言えることであり、差別を受けている方々にとっては現在進行系の負の遺物であるということ。
本作で冒頭のウィリアム・フォークナーの言葉が引用されたことはここに繋がります。
「過去は決して死なない。過ぎ去りさえしないのだ。」
『ゲット・アウト』は、黒人差別の裏をついて人間の意識の奥底にある偏見を呼び起こす物語。
『アス』では、奴隷解放宣言からの公民権運動を経たアファーマティブ・アクション、表面化する偏見や差別意識に焦点を当てた物語。
そして本作『アンテベラム』は、過去の負の歴史である黒人奴隷制度を通して、現在も尚根強く残る差別意識を可視化した物語となっていますね。
終わりに
ということで、如何でしたか?
『アンテベラム』について語ってきました。
本作の脚本は監督の見た悪夢にインスパイアされて作られたそうですが…あえてもう一度ここで言っておきましょう。
我々観客が目を覚めなければならないんです。
現実に在る悪夢から。
『それでも夜は明ける』。
スティーヴ・マックイーン監督作品のように、「いつか夜は明ける」と願うばかりです。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
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残酷な人形のテール(『ほんとうのピノッキオ』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
久しぶりに行った某ミニシアター、上映開始早々に後ろの席のおじいさんがいびきをかき始めてどうなることかと思いましたが、挫けぬ心で観てきました!
ということで、今回は『ほんとうのピノッキオ』について語っております。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Pinocchio
製作年︰2019年
製作国︰イタリア
配給︰ハピネットファントム・スタジオ
上映時間︰124分
映倫区分︰G
解説
ディズニーの名作アニメ「ピノキオ」でも有名な児童文学「ピノッキオの冒険」を、「ゴモラ」「ドッグマン」などで知られるイタリアの鬼才マッテオ・ガローネ監督が、美しくも残酷に映画化したダークファンタジー。ジェペット爺さんの家を飛び出したピノッキオが繰り広げる奇想天外な冒険を、社会風刺や示唆に富んだ物語として描く。貧しい木工職人のジェペット爺さんが丸太から作った人形が、命を吹き込まれたようにしゃべり始める。ピノッキオと名付けられた、そのやんちゃな人形は、ジェペットのもとを飛び出し、導かれるように森の奥深くへと分け入っていく。「人間になりたい」と願うピノッキオは、道中で出会ったターコイズブルーの髪を持つ心優しい妖精の言いつけも、おしゃべりコオロギの忠告にも耳を貸さず、ひたすら命がけの冒険を続けるが……。2021年・第93回アカデミー賞で衣装デザイン賞、メイクアップ&スタイリング賞の2部門にノミネートされている。
ほんとうのピノッキオ : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
本作『ほんとうのピノッキオ』の監督はマッテオ・ガローネ。
『ドッグマン』の監督ということで観に行ったと言っても過言ではない。
『ドッグマン』のアプローチ、社会の縮図から価値観に縛られない逆説的な応援と皮肉を描いた点を僕自身が高く評価しているということもあります。
では、本作『ほんとうのピノッキオ』はどうだったか?
端的に面白かったですね!
上映中にも数回、笑いが起きるほど独特な間や笑いのセンスを感じました。
原作にこれだけ忠実なピノッキオの映画はこれまで作られてこなかったのではないかと思います。ピノッキオの本当の物語を発見してもらい、観客を驚かせることができると思ったし、昔は存在しなかった特殊視覚効果を使って今までにない新しい映像を楽しんでもらえるのではないかと思いました。本当に木でできた操り人形を主役に据えた実写が作れるのではないかと考えたのです。実際、特殊効果や映像には随分と手をかけました。
「観客を驚かせることができる」マッテオ・ガローネ監督、キャラクター造形、映像表現にこだわった「ほんとうのピノッキオ」に自信 : 映画ニュース - 映画.comより引用
と監督も語るように、ディズニーの映画『ピノキオ』しか知らない人は驚く描写もいくつかあります。
それより驚いたのが、本作『ほんとうのピノッキオ』のジェペット役ロベルト・ベニーニが監督として2003年公開作『ピノキオ』を既に撮っていたこと。
この起用はここに繋がってるのかと思うと、微笑ましくもあります。
様々な作品に影響を与えた児童文学作品をマッテオ・ガローネ監督はどう表現するのか?
ここがやはり今回の評価のポイントのひとつとなります。
ファンタジーとしての世界観の構築、そこにユーモアを交えながら社会的な背景を匂わせる秀逸な作りは好みでした。
考察
ここからは考察に入っていきます。
ピノキオと聞いて一番に連想するのは、やはりディズニーでしょう。
ディズニーの映画が良くも悪くもイメージを定着させている。
それだけディズニーの影響力が大きいということでもあるのですが…。
ピノキオの原作は『ピノッキオの冒険』。
イタリアの作家・カルロ・コッローディの児童文学作品です。
Enrico Mazzantiによる1883年の挿絵
これに影響された作品は多く、例えば王道少年漫画『ONE PIECE』などはウソップというキャラだけでなく、ラブーンの件など。
童話をモチーフとすることで親しみやすさが付与されていると感じます。
また、個人的に好きな映画でもあるスティーヴン・スピルバーグ監督『A.I.』もこの『ピノッキオの冒険』が下敷きにあると思っています。
さて、早速内容に触れていきます。
正直、ディズニーの映画はあまり好みではないので『ピノキオ』の印象は何かと聞かれたら
・人形の子どもが人間の子どもになりたいと願う。
・嘘をつくと鼻が伸びる。
・キツネとネコに騙される。
・クジラに飲み込まれる。
思い浮かんだのはこの程度です。
ディズニーの映画『ピノキオ』には残酷描写が描かれていないという批判をよく目にします。
ひとつの理由として、88分という時間制約の中で、アニメの特性を使って分かりやすい内容が求められたであろうと予想できる。
また、老若男女問わず楽しめる明るく愉快な物語にする必要性もあっただろう。
その結果、原作よりもディズニーの映画の方が認知されることとなり、良い意味でも悪い意味でもイメージを確立してしまった。
実際に原作『ピノッキオの冒険』では残酷描写が描かれ、過酷さや苦悩、それらを経験して、子どもから自立して大人になっていく姿を描いています。
原作の残酷描写でいえば、コオロギ殺しがあります。
ピノキオは怒って飛び上がり、長椅子からハンマーを手に取るとありったけの力を込めてそれを物言うコオロギに投げつけます。
最後に弱々しく鳴くと、コオロギは壁から落ちて死んでしまいます。
児童文学書としてはなかなか攻めた内容。
ディズニーの映画『ピノキオ』では、冒頭から物語の進行役としておしゃべりなコオロギを登場させ、当然このコオロギ殺しが描かれなかったことが最大の問題点である。
これにより、ピノキオと小動物たち、そしてピノキオの行動を見守る後見役コオロギが世の真理を伝える役目が省かれてしまっています。
本作『ほんとうのピノッキオ』では殺しはしませんが、真理を述べ助言するコオロギに対して、ピノッキオは反抗し、ハンマーを投げつけてコオロギを泣かせてしまうというシーンが挿入されていました。
また、原作では
悪さをしたピノッキオが警官に捕らえられ、野次馬の証言により保釈。
代わりにジェペットが捕まってしまう。
という理不尽な描写もあります。
本作『ほんとうのピノッキオ』では、ピノッキオがキツネとネコに金貨を騙し取られたことから裁判所に赴きます。
そして、金貨を盗まれたことを証言し、無罪で投獄されそうになったところ、嘘をついて保釈されます。
他にも、金貨の木の生える奇跡の野原でネコとキツネによって樫の木に首吊りにされる描写や、ロバに変えられてサーカスで芸をさせられるピノッキオを悲しげな表情で見つめる青髪の妖精など。
物語の節々の印象的なシーンがディズニーの映画ではカットされています。
そこをしっかりと描き込み、動く木片から作られた人形ピノッキオの冒険とそれに付随するピノッキオの成長によって見られる人間形成に厚みを持たせることに成功しています。
ジェペットは一張羅を売り捌いてでも息子ピノッキオの教科書を買って学校へ通わせようとする。
ピノッキオはそのお金で買ってもらった教科書を売って、人形劇を見る。
コオロギの忠告を振り切り、反抗する。
はたまた、貰った金貨をキツネとネコに騙し取られる。
無罪で投獄される不条理さや教鞭で叩かれる仕打ち。
ロバに変えられて殺されそうになる。
労働で得る賃金や報酬。
子どもというのは好奇心や探究心、失敗や間違い、困難や叱責されることなど、物や人に触れること、それらを繰り返しながら成長していくものである。
人形劇の団長に燃やされそうになった人形を庇おうとする。
サメの腹の中でジェペットと再会し、背負って必死に助けようとする。
弱ったジェペットのために労働を厭わず、ジェペットの面倒を見る。
これらはピノッキオの成長した姿であると同時に、人形から人間らしさが開花したことを意味する。
この人形から人間へと変わっていく過程において、様々なメッセージが読み取れます。
原作者カルロ・コッローディは1826〜1890年。
ヨーロッパの列強とイタリアの不遇の時代。
現代の社会とではその時代が大きくかけ離れてしまい、当然ながら社会背景も変化しています。
それに加えて、我々日本人にとっては国や言語、風習や文化なども異なっています。
そんな『ピノッキオの冒険』を忠実に映画化した本作『ほんとうのピノッキオ』を受けて、我々日本人がどう読み解けるのか?
冒頭でも記述しましたが、様々な作品に影響を与えた児童文学作品をマッテオ・ガローネ監督はどう表現するのか?
この映画を語る上では、この点についても語っておかなければならないと思います。
ディズニーの映画『ピノキオ』では分かりやすい内容が求められたことから勧善懲悪となっている。
つまりは、ネコとキツネが悪役に徹して強調されているということ。
それに対して、原作『ピノッキオの冒頭』及び本作『ほんとうのピノッキオ』では、ネコとキツネはあくまでもキッカケにすぎず、他人からの指示ではなくピノッキオ自身の選択によって行動した結果であること。
つまり、自らの過ちによる失敗ということが強調されている。
だからこそ、ピノッキオは「もう騙されない」とネコとキツネに啖呵を切ることで、成長した姿を見せることができるのである。
また、ピノッキオ自身の選択という点で重要なものは、父親であるジェペットから逃げ出すこと。
様々な困難を経験した後、父親であるジェペットのもとへと帰ることになったピノッキオにとって、逃亡で手にした自由の中身はどうだったのか?
ここにこの物語の核がある気がしてならない。
命の尊厳、教えと人間らしさ、善悪の区別、欲と渇望。
これからの社会を作っていくのは今の子どもたちなのだ。
そんな社会の縮図を見せてくれたような気がしますね。
舞台がファンタジーの世界であっても、現実世界であっても、根底にある人間というものは同じ。
フィクションを介してリアルを描く、童話の奥深くに眠るテーマを掘り起こした傑作。
『ドッグマン』然り『ほんとうのピノッキオ』然り。
こういった作品が今後も生み出されることで、創作の必要性を改めて感じさせられる。
自分が娯楽である映画に求めている部分もきっと、ここに通じているのだと思いました。
終わりに
ということで、ディズニーの映画や原作を絡めて少し語りましたが、本作『ほんとうのピノッキオ』はダークファンタジーとしての楽しさだけでなく、ピノッキオの成長や人間として大切なものに気づかせてくれる素晴らしい作品でした。
『ドッグマン』に続き『ほんとうのピノッキオ』と好きな映画が続いているので、マッテオ・ガローネ監督の作品は今後も追いかけていきたいと思いましたね!
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
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傲慢と自惚れと勇気(『最後の決闘裁判』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
2021/10/15公開作品は観たい作品が多くて大変です(笑)
その中でも期待していた作品の一つ、『最後の決闘裁判』について今回は語っております。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題:The Last Duel
製作年:2021年
製作国:アメリカ
配給:ディズニー
上映時間:153分
映倫区分:PG12
解説
巨匠リドリー・スコット監督が、アカデミー脚本賞受賞作「グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち」以来のタッグとなるマット・デイモンとベン・アフレックによる脚本を映画化した歴史ミステリー。1386年、百年戦争さなかの中世フランスを舞台に、実際に執り行われたフランス史上最後の「決闘裁判」を基にした物語を描く。騎士カルージュの妻マルグリットが、夫の旧友ル・グリに乱暴されたと訴えるが、目撃者もおらず、ル・グリは無実を主張。真実の行方は、カルージュとル・グリによる生死を懸けた「決闘裁判」に委ねられる。勝者は正義と栄光を手に入れ、敗者は罪人として死罪になる。そして、もし夫が負ければ、マルグリットも偽証の罪で火あぶりの刑を受けることになる。人々はカルージュとル・グリ、どちらが裁かれるべきかをめぐり真っ二つに分かれる。「キリング・イヴ Killing Eve」でエミー主演女優賞を受賞したジョディ・カマーが、女性が声を上げることのできなかった時代に立ち上がり、裁判で闘うことを決意する女性マルグリットに扮したほか、カルージュをマット・デイモン、ル・グリをアダム・ドライバー、カルージュとル・グリの運命を揺さぶる主君ピエール伯をベン・アフレックがそれぞれ演じた。
最後の決闘裁判 : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
端的な感想は
「めちゃくちゃおもろいやないかーい!!!」
でした。
ちなみに、この物語が面白いと言ってしまうと語弊があるので、この映画の構成が面白いと言っておきますね。
リドリー・スコット監督作品は『グラディエーター』などの歴史スペクタクル超大作が好きなのですが、本作『最後の決闘裁判』では歴史的な背景を生かしたミステリードラマ。
三幕構成でありながら、黒澤明監督の代表作『羅生門』の構成と同様にそれぞれの視点から物語を繋ぎ合わせる妙。
これは2021年の年間ベストのマストではないでしょうか。
考察
本作『最後の決闘裁判』は、14世紀末のフランスで実際に行われたフランス史上最後の決闘裁判を題材にしています。
強姦にあった女性の夫が加害者を訴え、証拠不十分ということから被害者の夫と加害者の一騎打ちの決闘で判決を下すという流れが縦軸。
一章
マット・デイモン演じるジャン・ド・カルージュ。
彼の主観による物語が展開される。
ここで描かれるのは、ジャンという男が友人ル・グリと最後の決闘裁判を行うことになった理由と、ジャン本人の理念。
良き夫であると信じ、また王のために騎士として成果を上げる。
理想と自分を重ねて男らしい主人公という印象を残す。
三章まで見ればジャンの印象はすっかり変わってしまうのだけれど、妻に対する態度、ル・グリに対する嫉妬や真っ当な評価がされないと苛立つ傲慢さなど自分自身を美化しているように映る。
二章
アダム・ドライバー演じるジャック・ル・グリ。
彼の主観による物語が展開される。
ここで描かれるのは、友人ジャンとの確執、そしてマルグリットへの愛。
二章の序盤では一章で見たジャンの思い描くル・グリよりも少し嫌な奴の印象は和らぐが、運命的な出会いかのように勘違いするストーカー気質と強姦を両想いの情交だと言うヤバさも同時に見せられる。
そこを補完するようにマルグリットとの視線の交差を自分の都合の良いように解釈しているのが、三章にて明かされる。
姦淫の罪を犯したことを認め、赦しを乞う一方で強姦の罪を認めない身勝手さも。
恐らく、ル・グリ自身「相手は本気で嫌がっていない」と思い込んでいて、マルグリットは訴えないと踏んでいたのだろう。
ピエール伯という巨大な後ろ盾があることも含めて。
三章
ジョディ・カマー演じるマルグリット・ド・カルージュ。
彼女の主観による物語が展開される。
ここで描かれるのは、マルグリットが夫であるジャンとの間で子宝に恵まれなかった苦悩、ル・グリに対する本当の想いと強姦の真実。
そしてオープニングと繋ぐ、一章から三章までを集約した"最後の決闘裁判"。
一章では良い夫のように描かれたジャンが妻目線によって傲慢さ極まりない姿で見せられる。
二章ではル・グリ視点故に思わせぶりのようにも映ったマルグリットの真意と強姦での悲痛な叫びが…。
勿論、強姦シーンはキツいものがあるが、強姦された事実を夫に打ち明けるシーンやセカンドレイプの尋問シーンがまたキツい。
鑑賞後にも、目に涙を浮かべる彼女の表情が脳裏から離れない。
そこで着目したいのが
三章だけわざわざテロップに「真実」という文字が強調されて出たこと。
このポスターでも「真実」という文字が強調されています。
つまり、一章のジャン主観による真実、二章のル・グリ主観の真実、そしてジャンの妻マルグリットの視点もまた真実であり、それは一章と二章を見てきた我々だけが知る唯一の"真実"でもあるんです。
二章でも強姦されたことは最早明白。
更に加えて、馬の交尾シーンを生々しく描いたことも、マルグリットが強姦されたことを強調するもの。
そこに疑念を持つことが、女性を搾取した男どもや、あの決闘裁判における民衆たちの視点とリンクする構図は見事。
また、現代にも通ずる男側の女性に対する抑圧。
ル・グリが秘密にしろと言ったように、女性側の恥ずかしさや夫への罪悪感、背徳感につけ込む汚いやり方。
役と演者は別というのを前提に話しますが、アダム・ドライバーのことが嫌いになりそうなくらい。
セカンドレイプへの描写も辱めから目を背けずその延長線上にあるものとして挿入することで、より強姦に対する罪の意識とその周りの目というものを際立たせているように思う。
この畳み掛けるように積み重ねた嫌悪が、マルグリットの抱える感情の重さを表現しています。
改めて纏めますが
一章では理想を掲げる自分本位で傲慢な夫ジャンの主観。
二章では情念に駆られる自惚れの男ル・グリの主観。
そして、三章では男どもに翻弄され搾取される女性が勇気ある行動を起こすマルグリットの主観であり、同時にこの物語の真実を暴き出す諦観。
即ち、被害者当人と加害者や被害者の関係者、及び当事者ではない第三者との相違を可視化しているんです。
それぞれの話の食い違いは然程なく、それでいて物語の結末で驚きの真実が明かされるような派手さもない。
同じようなシーンや同じ物語を3人の視点で振り返るだけ。
なのに、全然飽きず、めちゃくちゃ面白い。
この面白さの理由はそれぞれの考えや思い込み、そうであるという揺るがない感情などを下敷きとして、彼らの主観で描かれるから。
男どもが如何に自分本位に視点を歪めていたのかがわかりますね。
三幕を比較し些細なシーンの違いを見つけることで、彼らがその時にどう感じているのか、どう見えているのか、どう振る舞っているのか、見えないものが見えてくる。
短評でも黒澤明監督作品『羅生門』と同様の構成と記載しましたが、正確には黒澤明が『藪の中』を組み込んで再構築した『羅生門』で、原作者である芥川龍之介の『羅生門』とは異なる。
構成自体は原作『藪の中』と同じ。
「羅生門」観た。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2020年8月20日
芥川龍之介の原作をもとに人間の心の闇をダイナミックに描く。
食い違う証言、虚偽と虚栄、真実と事実。
三者三様で魅せるエゴは人の本能なのか、人は何をもって生きるのか。
死して尚、業を肯定することで鮮明に見えてくる人間の本質。
検非違使に問われたる物語の真相は"藪の中"。 pic.twitter.com/XxTM9stpd1
『羅生門』とは
ある日の夕暮れ時、主人から暇を出された下人が羅生門の下で雨が止むのを待っていると、女の死体の髪を抜く老婆の姿を見る。
正義感から老婆を押さえつけた下人は、その老婆から生きるためと話を聞かされる。
下人は悪を肯定する心が芽生え、自分も生きるためと老婆の衣服を剥ぎ取って夜の中に駆け去っていく。
『藪の中』とは
平安時代のある藪の中を舞台に、殺人と強姦の2つの事件を巡って4人の目撃者と3人の当事者が告白する。
しかし、それぞれの証言は矛盾していて真相が見えてこない構成になっており、未だ真相は見出されていない。
このことから「真相は藪の中」という慣用句ができたとされている。
『羅生門』の下人と同様に、ル・グリの主張は悪事を正当化することでそれが許されるという言い訳にしか聞こえない。
一方で、この『藪の中』と同様の構成を使ったことへの皮肉がすごいんです。
本作『最後の決闘裁判』では真実は既にそこに在るのだから。
性被害に対する見方。
たとえ訴えを起こしても、誘ったのではないか?など確証のない理由をもとに訴えそのものを捻じ曲げようとする。
はたまた、冤罪を恐れて聞く耳を持たなかったり、証拠を出せとセカンドレイプが行われてしまう。
真実がたとえ明白であっても、たったひとつの真実しかなくても、異なった視点で事実は違ったものに見えてしまう、真実が歪められてしまうということが如実に語られている気がする。
それから、女性が声を上げても、信じてもらえない、受け入れてもらえないからこそ、女性自らが手を下さなければならなかった往年のリベンジもの。
14世紀末のフランスを舞台とした本作『最後の決闘裁判』では、過去の物語がその現代のリベンジものから一歩先へと踏み込んだ物語となっているのが素晴らしい。
夫は自身の尊厳のために妻を巻き込みながらも、男性が男性とケリをつけるという構図は"女性が声を上げること"の重要性を問うひとつの形ではないかと思う。
なぜなら、納得する結果が出ないから声を上げない。
それでは男性優位の社会で抑圧された義理の母と同じ選択をすることになる。
結果はどうあれ、声を上げても何も変わらないかもしれない世の中(時代)でも、こうして声を上げることで少なからずその状況は変わったのだから。
本作『最後の決闘裁判』は、そんな現代にも通ずる"女性への抑圧"に対するアンチテーゼとなり得るのではないだろうか。
終わりに
さて、ここまで語ってきて最後に後味の悪い話をするのは憚れるのですが
1385年、ジャック・ル・グリが覆面をしてジャン・ド・カルージュの妻に性暴力をはたらいたと訴え、決闘による裁判を申し込んだ。
カルージュ対ル・グリ事件。
後になり、ジャンは覆面をした強姦魔は自分自身であったと告白した衝撃の一説も残っています。
その説によると、決闘裁判の正当性そのものが認められないとして、フランスでの決闘裁判が廃止されたとのこと。
神は正しい者に味方すると考えられており、戦いに勝った方が正義、という考えはフランスではルイ十四世の時代まで適用されていた決闘裁判の根拠にもなっている。ルイ十四世の時代に決闘は廃止されたのは、決闘が正しさを必ずしも保証するものではないことが明らかになったからである。1385年に、ジャン・ドゥ・カルージュは、ジャック・ル・グリが覆面をして自分の妻に乱暴をはたらいたとして決闘による裁判を申し込んだ。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、カルージュの主張が認められた。だが、カルージュは後に強姦したのは自分自身であったと自白しため決闘の正しさが保証されないことが明らかになり、フランスの決闘裁判は廃止された。
山内進『決闘裁判―ヨーロッパ法精神の原風景―』参照
ここまでくると、この物語の全容が"ジャンによる復讐の物語"として成立してしまうんですよね。
ル・グリに嫉妬したジャンが彼に汚名を着せて自らの手で葬り去るためのものだと。
この真実もまた、誰かの視点によって歪められた真実なのかもしれない。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました。
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私の名を呼べ(『キャンディマン』ネタバレ感想・考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
今回は鏡の前で5回その名を唱えると殺される都市伝説を描いたホラー映画、ジョーダン・ピールが脚本と製作に携わった『キャンディマン』について、1992年公開の『キャンディマン』を交えつつ語っております。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題:Candyman
製作年:2021年
製作国:アメリカ
配給:東宝東和
上映時間:91分
映倫区分:PG12
解説
1992年製作のカルトホラー「キャンディマン」を、「ゲット・アウト」「アス」のジョーダン・ピール製作・脚本で新たに映画化。シカゴの公営住宅「カブリーニ=グリーン」地区には、「鏡に向かって5回その名を唱えると、右手が鋭利なかぎ爪になった殺人鬼に体を切り裂かれる」という都市伝説があった。老朽化した公営住宅が取り壊されてから10年後、恋人とともに町の高級コンドミニアムに引っ越してきたビジュアルアーティストのアンソニーは、創作活動の一環としてキャンディマンの謎を探っていた。やがて公営住宅の元住人だという老人と出会ったアンソニーは、都市伝説の裏に隠された悲惨な物語を聞かされる。主人公アンソニー役は「アクアマン」で強敵ブラックマンタを演じて注目されたヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世。アンソニーを支えるブリアンナ役で「ワンダヴィジョン」のテヨナ・パリスが共演。監督は「キャプテン・マーベル」続編の「ザ・マーベルズ」に抜てきされたニア・ダコスタ。
キャンディマン : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
まずはTwitterに上げた感想から。
『#キャンディマン』観た。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2021年10月15日
ジョーダン・ピールと相性抜群。
差別意識とスリラー要素を、創作を介して現実に表現する作家性。
特に紙芝居や鏡像演出は安全圏から俯瞰で見ている我々観客と黒人差別の連鎖をリンクさせ、過去を現代に蘇らせる解釈の余地がない芸術がそのメッセージ性に付加価値をつける。 pic.twitter.com/7TQYR6Cug3
キャンディマン
キャンディマン
キャンディマン
キャンディマン
言わないよ?
はい、これがやりたかっただけです、すみません(笑)
ここからは真面目に語っていきます。
本作『キャンディマン』は過去作1992年公開の『キャンディマン』(以下『キャンディマン』(92))と同じ題材を使いつつ、続編的な構成で再度映画化。
そこに、脚本・製作ジョーダン・ピールの作家性、主に繰り返される歴史や継承されてしまう差別意識を組み込み、新たな『キャンディマン』として作り上げられています。
一方で『キャンディマン』(92)を観てなくても楽しめる親切設計ながら、『キャンディマン』(92)を観ているとまた別のテーマも浮かび上がってきます。
つまり、過去の作品を良い意味で自分色に変えた脚本力や演出力で魅せるリブート、続編的な位置づけ。
例えば
ダリオ・アルジェント監督作品『サスペリア』(1977)から大きく世界観を変えて"ドイツの秋"など歴史的な要素を練り込み、再構築したルカ・グァダニーノ監督作品『サスペリア』(2018)。
ジョン・カーペンター監督作品『ハロウィン』(1978)からスリラー要素を残しつつアクションエンタメへと振り切り、後日譚として作り直したデヴィッド・ゴードン・グリーン監督作品『ハロウィン』(2018)。
これらの毛色と近いと思います。
考察
もう少し掘り下げて見ていきましょう。
①再映画化の意義
リメイクやリブートはこれまでも多くの作品でされてきました。
リメイクやリブート、つまり再映画化される大きなメリットというものがあります。
ひとつは、宣伝効果、話題性の高さ。
もうひとつは、過去の古い作品にもスポットが当たること。
そして、新しい監督による作家性との化学反応。
※ジョーダン・ピールの作家性については後述しています。
言うまでもなく、全くイチからオリジナル脚本で1本の映画を撮るよりも過去作を再映画化することでタイトルの周知や宣伝、話題などが広まりやすい。
それと同時に過去作に再度スポットが当たることで、新しいお客さんの導入も期待できる。
また、VFXなどの最新技術でより映像が鮮明に綺麗に作り直すことができる。
この段階では、映画の出来不出来は然程問題ではなく、商売として成立する映画においては鑑賞されることが目的でもあるので新旧ともにWin-Winな関係でもあるんですよ。
本作『キャンディマン』なら『キャンディマン』(92)、及び今や視聴難易度が高すぎる『キャンディマン2』『キャンディマン3』など過去作を鑑賞しようとされる方が一定数は現れます。
新旧の比較もまた、鑑賞者側からすれば楽しみでもあるんですよね。
単に前作を真似して物語をなぞり、世界観を崩さずに作り直したとしても、そこには何の魅力も持たないんですよ。
先ほど書いた話題性や宣伝効果は置いておいて、映像は兎も角、映画としては「オリジナルでいいでしょ、これなら。」と思っちゃう側でして。
新たな監督が自分色に染めて再映画化することで、同じ映画でも"新しさ"を求められているわけです。
まさに、自分が思うリメイクの意義というのはここが大きい。
②オリジナルとリメイクの繋がり
先程も語りましたが、本作『キャンディマン』はオリジナル版『キャンディマン』(92)の続編的な立ち位置と言える。
鏡の前でその名前を5回唱えると現れるという“キャンディマン”の伝説。そのことを研究していた女子大生ヘレンの前に、謎の黒人が現れるが、彼こそキャンディマンであった……。
キャンディマン - 作品 - Yahoo!映画より引用
キャンディマンの正体はダニエル・ロビタイルという黒人男性。
1890年代、彼は絵描きを生業として白人女性と恋に落ちて妊娠させてしまう。
それを知った白人たちの手によって悲惨な死を遂げた。
大学院生の白人女性ヘレン・ライルはキャンディマンの存在を疑い、襲われる。
これが本作『キャンディマン』でも影絵で語られた都市伝説であり、『キャンディマン』(92)の物語。
その背景には"カブリーニ・グリーン"地区の貧困や差別、暴力といった問題を孕む。
一方で、本作『キャンディマン』でのキャンディマンの正体はシャーマン・フィールズだと語られる。
生き証人でもあるバークから都市伝説の話を聞き出すと、どうやら飴を子どもたちに配る鉤爪の黒人男性だったそうだ。
そんなある日、白人少女の飴にカミソリの刃が混入していたという事件が起こる。
白人警官は無抵抗なシャーマンを射殺、しかしその後にもカミソリの刃が混入した飴が子どもに配られていたことが発覚する。
僕はこの時、『フルートベール駅で』という映画を思い浮かべました。
「#フルートベール駅で」観た。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2020年8月27日
淡々と描かれる日々、刻一刻と押し迫る時間、新たな年の幕開けに人生の幕を閉じる。
神への祈りなど届かない不条理な世界で復帰や更生という前向きな意志が取り留めのない日常に溶け込んでいるからこそ、実話である事実と目に映る現実に悲哀と憤りの感情が入り乱れた。 pic.twitter.com/PZrLj3pLxe
暴力の連鎖は今も続いている。
現実は何も変わっていないんだと思うと悲しくなりましたよ。
バークは続けててこう語る。
「白人たちはガールXやダントレル・デイビスには無関心だ。白人女が一人死んでも騒ぐのに」
痛烈な人種差別に対する批判ですね。
その後、キャンディマンは一人ではないことを知る。
ロビタイル、ベル、サミュエル、シャーマン…そしてアンソニー自身も。
"キャンディマンは人じゃない。ハチの巣箱だ。"
積年の問題、黒人差別の歴史をキャンディマンという都市伝説を介して我々に伝える素晴らしい改変点と言えるでしょう。
③ジョーダン・ピールの作家性
さて、脚本・製作ジョーダン・ピールとはどのような監督なのでしょうか?
『ゲット・アウト』でアカデミー賞脚本賞を受賞した彼のフィルモグラフィーから見てもそれは明らかで、ジョーダン・ピールの作家性とはズバリ
人種差別や偏見をテーマとした創作物を介して、その顕在意識を利用して我々観客の潜在的差別意識を炙り出す。
これだと思います。
『ゲット・アウト』では、人間の意識の奥底にある偏見を呼び起こす秀逸な脚本力。
『アス』では、表面化する偏見や差別意識と黒人の歴史を結びつけるメッセージ性。
劇中でも効果的に使われたギミック、鏡。
鏡像の対称性と写し鏡の自己投影、そして至る所で黒人の歴史、格差社会を匂わせる。
これはジョーダン・ピールが監督・脚本を手掛けた過去作『アス』との共通点でもあります。
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また、人種差別への先入観を利用した過去のキャンディマンの不当な扱い、また主に黒人を対象とした潜在的な差別意識は『ゲット・アウト』にも通ずるメッセージでもあります。
(C)2017 UNIVERSAL STUDIOS All Rights Reserved
そう、本作『キャンディマン』では今まで自ら撮った映画の性質やテーマを併せ持つ作品となっているわけです。
『キャンディマン』(92)の設定や題材を引き継ぎつつ、ニア・ダコスタ監督とこのジョーダン・ピールの作家性を組み合わせてひとつの新たな映画を作り上げているわけです。
④現代に語り継ぐもの
ということで、ジョーダン・ピールが自らの作家性を生かして描きたかったことが改めて見えてきます。
それは
キャンディマンという都市伝説と、創作が持つ現代に語り継げる媒体の融合。
『キャンディマン』(92)の舞台でもあるアメリカのイリノイ州シカゴにある"カブリーニ・グリーン"地区。
かつて低所得者が住まう公営住宅地だったこの地区は暴力が蔓延る場所であった。
そこに住まう人々の間では、ある都市伝説が語り継がれている。
「鏡に向かって5回その名を唱えると、どこからか殺人鬼が現れて鉤爪で切り裂かれる」
芸術家である主人公・アンソニーはその都市伝説を耳にしたことから、新作を描くために独自調査を始める。
そこで完成したアートが画廊の展示会にも出品された作品「私の名を呼べ」。
この絵を批評する人間は白人で、また「キャンディマン」と5回唱えて殺された被害者も白人。
ここで初めて、創作が現実となった。
芸術作品を通して、都市伝説が蘇った。
これは現代に、後世に語り継がれるものとして芸術と都市伝説がリンクしていくわけです。
語り継がれるという意味では、都市伝説を語る時やエンドロールで見せた影絵もそう。
『キャンディマン』(92)と本作『キャンディマン』を繋ぐ"カブリーニ・グリーン"。
この都市伝説では事実は塗り替えられ、ヘレン・ライルは誘拐犯とされていました。
創作とは様々な解釈ができてしまう。
白人に虐げられてきた黒人たちは人種差別を受ける一方で、白人(ヘレン)を悪者として都市伝説を作り上げている。
その事実をアンソニーは自らの出生を知ることで我々観客にも明かされる。
ここは『キャンディマン』(92)を観ていると、ジョーダン・ピールが意図的に仕組んだ仕掛けであることがわかるし、『キャンディマン』(92)を観ていない人だけが驚くことのできるジョーダン・ピールの差別意識や偏見を逆手に取った脚本の上手さですね。
そうやって曲解されたものが語り継がれることで、真実と事実に乖離が生まれていくのですが
ここで、アンソニーが都市伝説を耳にして初めて描いたアートを思い出してほしい。
"解釈の余地がない暴力描写"と表現されていました。
そう、この絵は過去の黒人たちが差別によって受けてきた歴史そのもの。
そこには解釈の余地はなく、ただ暴力によって虐げられてきた事実がある。
人種差別という負の歴史、決して捻じ曲げてはいけない事実として語り継がれるべきものというメッセージを我々に突きつけてきます。
映画という媒体もそうです。
監督の意図がどれだけあろうと、観客の解釈ひとつで見え方も伝わるメッセージさえも変わってしまう。
様々な解釈はあっていいと思っているし、そう感じたのならそれでいいと思っている。
だからこそ、あの"解釈の余地がない暴力描写"とわざわざ台詞にしてでもあのアートを強調する必要性があったんです。
この映画が伝えたいメッセージがブレないために、他の解釈がなされないために。
暴力の連鎖は今も続いているんです。
正直な話、観客に委ねることも時には必要だと思っているのですが
この点に関しては賛成で、明白に観客に伝えきることは大切だと思っています。
語りすぎ描きすぎによって野暮ったい印象を残してしまった『アス』のクライマックスを踏まえた上での改善だとしたら、個人的には嬉しい。
終わりに
『キャンディマン』で象徴的なものは鉤爪とハチですよね?
ハチが鏡の中と外でカンカンする演出はとても好きでした。
そして、鉤爪での殺害シーン。
あの掌を返した白人批評家が殺されるシーンは最高でしたね!
またボディホラーとしても秀逸で、ハチに刺された右腕が化膿していく過程は痛々しい。
これは『ハエ男の恐怖』のリメイク作品でデヴィッド・クローネンバーグ監督作品『ザ・フライ』からインスピレーションを受けたとニア・ダコスタ監督は語っています。
今回はジョーダン・ピールを中心に語ってきましたが、ニア・ダコスタ監督の演出力や画の撮り方へのこだわり、そしてメッセージとして描きたかったことも評価しております。
ということで、最後までお読みいただいた方、ありがとうございました!
(C)2021 Universal Pictures
喪失が獲得するもの(『PITY ある不幸な男』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
最近はなかなか映画館に行けず、新作の鑑賞もままならない状況ではありますが、同情は要りません(笑)
また書きたい内容の作品に出会ったらブログ更新していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
ということで、ついに公開されましたね『ロブスター』脚本家の最新作!
ということで、今回は『PITY ある不幸な男』について語っております。
※この記事はネタバレを含みますので、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Pity
製作年︰2018年
製作国︰ギリシャ・ポーランド合作
配給︰TOCANA
上映時間︰99分
映倫区分︰G
解説
「ロブスター」でアカデミー脚本賞にノミネートされた脚本家エフティミス・フィリップとギリシャの新鋭バビス・マクリディス監督がタッグを組み、他人からの同情に依存する哀れな男の狂気と暴走を描いたサイコスリラー。10代の息子と小綺麗な家に住み、礼儀正しく身だしなみも良い弁護士の中年男性。何不自由ない暮らしを送っているように見えるが、彼の妻は不慮の事故で昏睡状態に陥っている。彼の1日は、妻を思ってベッドの隅でむせび泣き、取り乱すことから始まる。そんな彼の境遇を知り、同情心から親切になる周囲の人々。この出来事がもたらした悲しみは、いつしか彼の心の支えとなっていた。ところがある日、妻が奇跡的に目を覚まし、悲しみに暮れる日々に変化が訪れる。
PITY ある不幸な男 : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
本作『PITY ある不幸な男』があのヨルゴス・ランティモス監督作品『ロブスター』などに携わる脚本家エフティミス・フィリップということで観ました。
へーーーーんな映画っ!!!
ヨルゴス・ランティモス監督作品の脚本にエフティミス・フィリップが絡んだものを見ていくと生き物が象徴的なんですよね。
『籠の中の乙女』は飼い慣らされた不自由さを模す犬。
『ロブスター』は選択の余地を奪われた先に待つ動物。
この映画における犬もまた兄の選んだ不自由さの表れ。
『聖なる鹿殺し』は命の不自由さを象徴する生贄(人間)。
では本作『PITY ある不幸な男』ではどうなのか?
ワンちゃんでした(笑)
犬を飼う家は家庭的にも安定していること、毎日おいしいご飯を貰うこと、そして海に投げ出されても帰ってこれる強運。
この犬が象徴するものこそ、"幸福"なんですよ。
一方で、主人公は幸せな家庭にありながら、不慮の事故で妻が昏睡状態となってしまう。
そんな不幸を幸福だと感じるドMで構ってちゃんの男が、喪失による同情や悲哀に依存し、同情されることで悲しみを背負うことで自身を満たしていく。
某ドラマで「同情するなら金をくれ!」という名台詞がありますよね。
本作『PITY ある不幸な男』では"同情を嘘偽りで買う"んです。
「世の中、捨てたもんじゃない」なんて言葉をよく耳にしたりしますが、それを逆手に取った人間の本質を暴き出す怪作でした。
考察
さて、ここからは少し内容を掘っていきます。
①喪失が獲得するもの
弁護士で妻子を持つ一見何不自由のない男が不慮の事故で昏睡状態となった妻の悲しみに打ちひしがれる。
「なんて言ったらいいか…」
「気をしっかり持って」
寝たきりの妻への哀れみから、毎朝ケーキを差し入れしてくれる隣人、値引きをしてくれるクリーニング屋の店長、優しく接してくれる秘書、励ましてくれる友人。
周りの人々との関係を紡いでいく。
言葉を掛けられない代わりに善意の行動を取ってしまう周りの反応。
悲哀で満たされていく快感と他人から同情されることへの依存。
主人公が弁護士であることも素晴らしいと思う。
なぜなら、弁護士という職業は(言い方は悪いですが)依頼人を守るために裁判官や傍聴席に向けて同情心を掻き立て、無罪を勝ち取るもしくは減刑させることを仕事とするものだから。
「他人の不幸は蜜の味」なんて言葉もありますが、自分の不幸を蜜の味にしちゃうアプローチ、そこに焦点を当てたものというのは、今までにありそうでなかったのではないでしょうか。
例えば、自虐的なネタを話して場を笑わせることってありますよね?
悲劇は時に喜劇にもなり得るものなんです。
また、募金活動のボランティアで同情心から寄付し、自分が良い気分になったり。
同情とはなにも掛けられる側だけの問題でもない。
更には、劇中のように同情心を利用した嘘もある。
寝ていたいとかサボりたいという理由で、しんどくもないのに熱が出たと学校や仕事をサボる。
もしくは、家族の誰かが亡くなったと偽って、学校や仕事を休むなど。
これもまた、現実世界にある利得です。
何かを失って何かを得る利得関係。
喪失が獲得するものとは、他人からの同情や哀れみに留まらない"己の欲求"である。
②不協和音
本作『PITY ある不幸な男』は音というものが重要となっています。
息子が楽しそうな曲をピアノで弾いていると、明るい曲は弾くなと父親が怒鳴りつけ、弔いの曲を歌う。
また別の日には、息子の指が成長してないことからピアノに向いてないのではないかと、ピアノ講師に詰め寄る。
そして、奇跡的に目を覚した妻が退院した後
息子が楽しそうな曲を弾くと、ピアノの調律を崩して不快な音しかならないピアノを夜な夜な作り上げた。
日常生活の中でも不幸を模索し、押し付けようとしているのがわかると思う。
冒頭では昏睡状態となった妻への悲しみと裏腹に、劇伴はベートーヴェンの『交響曲第9番』がけたたましく流れ出す。
ここから一気にこの物語に吸い込まれていくわけだが
妻が退院し、喜びに満ち溢れた場面ではモーツァルト『レクイエム』が流される。
雰囲気と音のズレによる違和感や矛盾こそ、幸福を不幸へと塗り替える主役、夫視点、物語であることが全面に押し出されています。
③涙
妻が昏睡状態となってから、夜な夜な独りで肩を揺らして泣きじゃくる夫。
何も知らない我々観客は、この姿に『PITY』("同情"や"哀れみ")の感情を抱くだろう。
しかし、ある日を境に泣こうにも泣けなくなってしまう。
妻が目を覚したあの日から。
主人公がトランプ遊びをしながら友人にある映画の話をするというシーンがあります。
この会話に挙がった映画は『チャンプ』という1979年に公開されたヒューマンドラマ。
元ボクシングチャンピオンの父と息子は妻に逃げられてふたり暮らし。
妻と再会したことで惨めさから息子のために再びチャンピオンを目指す。
劇中ではこの映画のネタバレが話されてしまうのですが(笑)、泣ける映画の代名詞みたいに話し出すんですよ。
ここで主人公が悲しみを抱いて泣きたいと思っていることが掲示されるわけです。
リビングに掛けられた絵を嵐に襲われる船の絵に差し替える主人公はきっと形から入る人なのでしょう。
催涙ガスを手に入れてまで無理矢理に泣こうとするシーンはただのおバカなんですが(笑)
涙を流すほどの悲しみが心の支えとなり、周りからの同情なしには生きられなくなってしまった男は、同情されたいという願望と並行して不幸で泣ける状況を作ろうとします。
確かに何か遭った時には誰かに「大丈夫?」と心配されると嬉しかったりしますよね(笑)
悲劇を乗り越えようとする姿を見て、周りが支えとなってあげたくなる。
そうすると、自分が被害者だと注目を浴び、そのことに満足感を覚えてしまう。
『PITY』(同情、哀れみ)は時として、対象者を誤った方向へ促す危険性を孕むものなのです。
④ギリシア神話と悲劇
短評でも記載した通り、本作『PITY ある不幸な男』の脚本家エフティミス・フィリップは、ヨルゴス・ランティモス監督作品の多くに脚本として絡んでいます。
『籠の中の乙女』
『ロブスター』
『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』
これらの作品ではギリシア神話に絡めて考察をしてきました。
『籠の中の乙女』では"アクタイオーンの悲劇"。
『ロブスター』では"オイディプースの悲劇"。
『聖なる鹿殺し』では"イピゲネイアの悲劇"。
ギリシア神話も主に悲劇の物語が多いんです。
悲劇や不条理な物語というものを好む脚本家なのか、そういった結びつきも過去作から見えてきます。
アカデミー脚本賞にノミネートされた『ロブスター』同様、本作『PITY ある不幸な男』でも"オイディプースの悲劇"が。
そう、最も有名な"父殺し"がありましたね。
オイディプースの場合、殺した相手が父親だったことを後に知る、つまりは無自覚であったことに対して
本作の主人公はの場合、その悲劇を呼び込むために父親を殺めてしまう。
それも、依頼で弁護することになった老人殺害事件を模した殺し方で偽装工作までして。
本作『PITY ある不幸な男』は同情に依存してしまった男の愚かでエゴイズムでしかない末路を迎えることになるのだが、本作のカメラ視点はずっと定点で俯瞰的に捉えています。
カメラの外から突然声が聞こえてくることもある。
それでもカメラは動かない。
カメラが捉える画をどう見るかは観客次第だと言っているようにも映る。
この一歩引いた視点が、ある意味で最も冷静であり、主人公に同情するように寄り添うことも、はたまた突き放すように揺さぶることもしない。
ギリシア神話のように"悲劇と不条理な物語"として、我々観客に的確に伝えてくれます。
終わりに
如何でしたか?
ギリシャ映画に詳しくないので、テオ・アンゲロプロス監督かヨルゴス・ランティモス監督くらいしか把握してませんでしたが、本作『PITY ある不幸な男』の監督・バビス・マクリディスの名前もちゃんと覚えておこうと思いました。
正直、面白さはヨルゴス・ランティモス監督作品の方が上だと個人的には思いますが
それでもバビス・マクリディス監督は無駄がなく分かりやすい、だからこそ伝えたいであろうメッセージがちゃんと伝わってくる良い監督ですね。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
(C)2018 Neda Film, Madants, Faliro House
過去を忘れて未来へ進む(『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』ネタバレ感想)
目次
初めに
どうも、レクです。
先日、映画007シリーズのマラソン全24作を観終え、IMAXで『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(以下『NTTD』)を観てきました。
Twitterにも感想を上げましたが、個人的な感想としては酷評ではなく「この結末か…」という残念な気持ちが大きいのです。
ネタバレを気にすると抽象的に話さなければならないので、伝わらないことも多いと思います。
ここからはネタバレありで『NTTD』について思うところを語っていきたいと思います。
『NTTD』及び『スカイフォール』が好きな方は気分を害されるかもしれません。
あくまで個人の意見なのでそのまま無言でUターンをお願いします。
※この記事は新作及び過去作についてもネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰No Time to Die
製作年︰2021年
製作国︰アメリカ
配給︰東宝東和
上映時間︰164分
映倫区分︰G
解説
ジェームズ・ボンドの活躍を描く「007」シリーズ25作目。現役を退きジャマイカで穏やかな生活を送っていたボンドのもとに、CIA出身の旧友フェリックス・ライターが助けを求めにやってきたことから、平穏な日常は終わりを告げる。誘拐された科学者を救出するという任務に就いたボンドは、その過酷なミッションの中で、世界に脅威をもたらす最新技術を有した黒幕を追うことになるが……。ダニエル・クレイグが5度目のボンドを演じ、前作「007 スペクター」から引き続きレア・セドゥー、ベン・ウィショー、ナオミ・ハリス、ロリー・キニア、レイフ・ファインズらが共演。新たに「ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密」のアナ・デ・アルマス、「キャプテン・マーベル」のラシャーナ・リンチらが出演し、「ボヘミアン・ラプソディ」のフレディ・マーキュリー役でアカデミー主演男優賞を受賞したラミ・マレックが悪役として登場する。監督は、「ビースト・オブ・ノー・ネーション」の日系アメリカ人キャリー・ジョージ・フクナガ。
007 ノー・タイム・トゥ・ダイ : 作品情報 - 映画.comより引用
『スカイフォール』の功罪(罪)
『NTTD』がどうこうと同時に話さなければならないことがあります。
それが『007/スカイフォール』の功罪について。
流れ上、先に罪の部分を。
後半に功績の部分をかいております。
批判的な意見が読みたくない方は、前半は飛ばして後半の褒めをお楽しみください(笑)
正直なところ、『スカイフォール』は映画として面白いと思います。
しかし、この『スカイフォール』によって『スペクター』ないし『NTTD』が個人的に低評価となってしまった大きな要因でもあるんです。
まずはTwitterに上げた『NTTD』の感想を貼りましょう。
『007/#ノータイムトゥダイ』観た。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2021年10月5日
映画007シリーズ第25作目。
新章として一新した結末がこれか。
それもこれも功罪のすべては『スカイフォール』。
全盛期を描かなかったことで続編と結末への間口を狭めてしまった結果。
クレイグボンド引退という切なさはあるものの、踏み入れてはいけない領域だ。 pic.twitter.com/mA42eDPBBi
はっきり言って『スカイフォール』の評価を下方修正しなければならないとさえ思ってしまいました。
感想にも書きましたが、『スカイフォール』で全盛期を描かなかったことがその後の展開の幅を狭めてしまっているんですよ。
世代交代を明確に描いた『#スカイフォール』は『007』シリーズとして異質ながら、ひとつの映画として観てもとても面白い。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2021年10月3日
しかし『#カジノ・ロワイヤル』『#慰めの報酬』からの流れ、やはりボンドの全盛期を本シリーズで描かなかったことには不服だ。
そこを描いてこそ本作の意義が生きてくると思う。 pic.twitter.com/zZFjHPkiWY
つまり、『スペクター』『NTTD』ともに描けるものが少なく、結果、あの結末という選択肢も上がってきちゃうわけです。
そう、踏み入れてはいけない領域【ボンドの死】です。
映画007シリーズとはボンド役及び他キャスト陣が交代してもその世界観を大きく崩すことのないスパイアクション映画です。
初代ショーン・コネリーから始まり、ジョージ・レーゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナン、ダニエル・クレイグとジェームズ・ボンドは受け継がれてきました。
だからこそ、前任のボンド役が人気またはイメージを確立している役者であったレーゼンビー、ダルトン、クレイグは現に非難されています。
ダニエル・クレイグは当初、金髪ボンドということで世間からは酷い扱いを受けてきました。
そんな世間の声を黙らせたのが『カジノ・ロワイヤル』。
この作品は自分も傑作だと思っています。
一般的に評価の低い次作『慰めの報酬』とセットで。
往年の007はほとんどが現役の英国諜報部員として活躍しているボンドを描いています。
だから役者が変わってもジェームズ・ボンドとして見られる、良い意味でのリアリティラインが低い作品。
そう、『カジノ・ロワイヤル』からダニエル・クレイグという新たな007として再構築した物語がスタートしたわけですね。
今までのユーモア性を排除し、現代に合わせたスパイ映画を。
最高のスパイとして活躍するジェームズ・ボンドを誕生譚から描くことで非常に人間味の溢れるキャラクターへと作り変えていったわけです。
Casino Royale (C)2006 Danjaq,LLC,United Artists Corporation,Columbia Pictures Industries,Inc
「さあ、ここからダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドとして活躍するぞ!」と思っていたら
『スカイフォール』で晩年期を、『スペクター』では引退(実質00の死)を、そして『NTTD』でボンドの死を描いてしまった。
実際には過去に『消されたライセンス』や『ダイ・アナザー・デイ』でもボンドが殺しのライセンスを取り消される作品はあります。
引退も『女王陛下の007』で描かれてきました。
『スペクター』でこの選択をしたこと自体はいいと思っています。
SPECTRE (C) 2015 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc., Danjaq, LLC and Columbia Pictures Industries, Inc. All rights reserved
ただ、『NTTD』の結末、これをやられると別物の映画だとわかっていたとしても007シリーズとして変な意識が生まれてしまうんですよ。
【ボンドは死んだ】って。
『007は二度死ぬ』とはわけが違うんですよ。
もう一度言いますが、踏み入れてはいけない領域なんですよ。
そうなると『スペクター』『NTTD』だけでなく、今後の007シリーズが【ボンドの死】というイメージを払拭しなければならなくなり、非常に描きにくくなるんですよね。
単純にこの『NTTD』の結末を描くのは早いと思うんです。
シナリオ上、人の死は簡単に使うことができます。
ただ、人を死なせたからにはその責任は重いということを作り手は自覚しなければならないし、『ワイ◯ピ』のように簡単に生き返らせてはいけないんです(笑)
今後、前日譚以外の007シリーズを作らないのであれば、この終わり方で有終の美とも呼べるでしょうが。
なんですかあの最後のテロップ「ジェームズ・ボンドは帰ってくる」って。
笑えない冗談でしょ。
そういう意味でも間口を狭めた『スカイフォール』の罪は重い。
『スカイフォール』の功罪(功績)
さて、ここからは『スカイフォール』の功績について思うことを書いていきます。
"功罪"、つまり功績もある。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2021年10月5日
『スカイフォール』によって晩年期、ボンドのヒューマンドラマに重きを置く流れとなっている分、『#ノータイムトゥダイ』ではドラマ面をしっかり描けていたと思う。
それが6代目ボンド、D・クレイグ引退作という切なさと相俟ったラストシークエンスのエモさは評価したい。 pic.twitter.com/aAOygfLEwa
『NTTD』は特にラストシークエンスの流れが実にエモーショナルですよね。
『スカイフォール』で晩年期を描いたからこそ、ボンドの引退から死という一連の流れも作れたわけで。
このドラマ性と6代目ボンド、ダニエル・クレイグの引退作が相俟ったラストシークエンスのエモさは評価したいです。
ダニエル・クレイグ、本当にお疲れ様でした!
えー、『スカイフォール』の功績はこれだけです(笑)
『007/#スカイフォール』再鑑賞。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2021年10月3日
映画007シリーズ第23作目。
世代交代と不易流行。
過去を引きずりMを襲うシルヴァ、それと対峙するのがMを守る遺物ボンドという対比の構図が実に見事。
これは言い換えるなら、"スパイは時代遅れ"とされる現代での"『007』シリーズの存在意義"を示すものでもある。 pic.twitter.com/DQPjesKY9h
あとは感想にも書きましたが、『スカイフォール』自体は現代におけるスパイ映画007の存在意義を示すものだと思います。
世代交代を裏側ではなく劇中で描いた新鮮味とひとつの映画としても面白いということくらいか。
NTTDの短評
クレイグ1作目『カジノ・ロワイヤル』でヴェスパーという心から愛する女性と出会ったボンド。
彼女に裏切られ(厳密にはボンドを助けるため)、彼女は死んでしまった。
最愛の人を失った悲しみを背負い、自分と似た境遇の女性カミーユと出会って『カジノ・ロワイヤル』、ヴェスパーのケリをつけたのが『慰めの報酬』。
『スペクター』でマドレーヌという女性に出会い、恋に落ちる。
Casino Royale (C)2006 Danjaq,LLC,United Artists Corporation,Columbia Pictures Industries,Inc
こういう流れだと思っていたんですが、未だにボンドはヴェスパーのことを未練タラタラに想っていたんですね。
『NTTD』ではヴェスパーのお墓がある街で"過去を忘れて未来へ進む"。
ここでマドレーヌの過去が現在と繋がっていくわけですが。
マドレーヌを簡単に疑ってしまうほどヴェスパーに裏切られたことを引きずってた割に、お墓の前で紙燃やしてお墓を爆破された後、ヴェスパーのヴェの字も出さないボンドは簡単に過去を忘れ過ぎじゃない?とも思った。
最愛の人のお墓を爆破されたら憤慨ものだけど、再びエルンスト・スタヴロ・ブロフェルドと対面しても何も言わないし。
あの怒りはマドレーヌを罠にはめて二人の仲を引き裂かれたことへの怒りでしょ。
忘れたらもう過去の人はどうでもいいの?
ヴェスパーを超えるキャラクターを作り出せず、ヴェスパーに囚われ、散々ヴェスパーを利用してきた制作陣に嫌気が差した。
他にもセキュリティ面や敵の行動理念の弱さなども気になる。
ドラマ面を脚本が足引っ張ってる感じでそんなボンドから愛してるとか言われても、なんか感情的に入り込めないんですよ。
『スペクター』の劇中でも語られましたが
この結末でどのような感情になったとしても、"惨劇から生まれる美"とは自分は一切思えませんでしたね。
せめて最期はボンドに子供は抱かせてやってくれよ…。
せめて最期はボンドに子供の声を聞かせてやってくれよ…。
終わりに
ということで、好きな方は本当に申し訳ないですが、この結末はダニエル・クレイグのボンドシリーズとしては選択肢としてあるものなので仕方ない面もありますが、んー…。
やはり原因は『スカイフォール』から。
結果的に「まだ見たくなかった」というものを3作連続で見せられた感じです。
"過去を忘れて未来へ進む"
次のボンドは一体誰になるのでしょうか。
今後の007シリーズに一抹の不安はありますが、楽しみにしているのも事実です。
次は頼むぞ、バーバラ!
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
(C)2019 DANJAQ, LLC AND MGM. ALL RIGHTS RESERVED.
思い出は心の貯蔵庫(『レミニセンス』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
今回はクリストファー・ノーラン監督の弟ジョナサン・ノーランが製作を手がけ、ジョナサンの妻リサ・ジョイが監督を務める『レミニセンス』について語っています。
この記事はネタバレを含みます、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Reminiscence
製作年︰2021年
製作国︰アメリカ
配給︰ワーナー・ブラザース映画
上映時間︰116分
映倫区分︰PG12
解説
ヒュー・ジャックマンが記憶に潜入するエージェントに扮したSFサスペンス大作。「インターステラー」「ダークナイト」などクリストファー・ノーラン作品で脚本を担当してきた、クリストファー・ノーランの弟ジョナサン・ノーランが製作を手がけ、ジョナサンの妻でテレビシリーズ「ウエストワールド」のクリエイターとして知られるリサ・ジョイがメガホンをとった。多くの都市が水没して水に覆われた世界。記憶に潜入し、その記憶を時空間映像として再現する「記憶潜入(レミニセンス)エージェント」のニックに、検察からある仕事が舞い込む。それは、瀕死の状態で発見された新興勢力のギャング組織の男の記憶に潜入し、組織の正体と目的をつかむというものだった。男の記憶から映し出された、事件の鍵を握るメイという名の女性を追うことになったニックは、次々とレミニセンスを繰り返していく。しかし、膨大な記憶と映像に翻弄され、やがて予測もしなかった陰謀に巻き込まれていく。「グレイテスト・ショーマン」でもジャックマンと共演したレベッカ・ファーガソン、「ウエストワールド」のタンディ・ニュートンらが脇を固める。
レミニセンス : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
まずはTwitterに上げた感想から。
『#レミニセンス』観た。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2021年9月19日
潜入ではなく没入、過去への憧れと未来への歩み。
C・ノーラン監督が得意とするSF設定を活かした世界観の構築。
それとは逆に、SF設定が後に効いてくるドラマ性を演出したリサ・ジョイ監督。
当然、監督が変われば作風も変わる。
ノーランの名前に踊らされすぎは良くない。 pic.twitter.com/rTojE2YKZN
これは個人的意見として聞き流してもらいたいんですが
クリストファー・ノーランって世界観の構築は本当に凄いと思っているんですが、ドラマに関してはつまんない作品もあります。
(ちなみに自分はノーラン好き)
個人的に、本作『レミニセンス』はドラマ面だけを見れば『ダンケルク』や『テネット』より断然面白いと思っています。
Twitterの感想に書いた通り、SF設定が後に重要な要素となる恋愛映画なんですよね。
ヒュー・ジャックマン演じる主人公ニックがある事をきっかけに出会ったレベッカ・ファーガソン演じるメイという女性を追っていく。
SFミステリーを期待すると物足りないと感じてしまうかもしれません。
あくまでもミステリータッチなラブストーリーくらいの気持ちで観るとこの映画から受ける印象も変わるのではないでしょうか。
考察
男性が女性を追っていくミステリーはアルフレッド・ヒッチコック監督作『めまい』などがありますが、この追っていく中で少しずつ情報が開示され、謎が明らかになっていく面白さというのはちゃんとあります。
『めまい』(C)1958 Alfred J. Hitchcock Productions, Inc & Paramount Pictures Corporation. All Rights Reserved.
Restored Version (C)1996 Leland H. Faust, Patricia Hitchcock O'Connell & Kathleen O'Connell Fiala, Trustees under the Alfred J. Hitchcock Trust. All Rights Reserved.
その情報開示というのが、主に本作『レミニセンス』の目玉設定でもある"記憶を覗き見る"こと。
つまり、他者の記憶に潜入はできないんですよ。
これは嘘です(笑)
トニー・スコット監督作『デジャヴ』やダンカン・ジョーンズ監督作『ミッション:8ミニッツ』のように、過去の記録としてあくまでも"俯瞰的に覗き見る"ことしかできない。
『デジャヴ』(C)2006 TOUCHSTONE PICTURES and JERRY BRUCKHEIMER INC. ALL RIGHTS RESERVED.
『ミッション:8ミニッツ』(C)2011 Summit Entertainment, LLC. All rights reserved.
ただ、挙げさせていただいた2作と比較しても、どうしても設定上の甘さは見えてきます。
そこまで完成度は高くありません。
例えば、舞台設定。
舞台は海面の上昇により海に沈みかけている世界。
地主が土地を失った人々を搾取する格差社会。
そんな退廃的な世界で主人公のニックは他者の記憶を映像化して覗き込む装置をビジネスとして使用している。
現実世界が閉塞的だからこそ、過去に縋る人々という心情にも説得力が生まれます。
その一方で、このような高度な技術が存在しているなら、半水没した世界を救う何かしらの手立てはあるのでは?
と思ってしまうんですよね。
また、他者の記憶を覗き込むことができるなら、もっと犯罪にも利用されるはず。
今回ニックが巻き込まれた事件も、近づくために偽装された記憶を見せて、金持ちの不倫相手の記憶を保存したメモリーカードのようなものを盗み出すだけという。
しかし、しかしですよ。
挙げた2作は事件を解決するために記憶を覗き見る謂わば雇われの身、与えられた任務なんですが、本作『レミニセンス』のニックはヒッチコックの『めまい』同様にほぼほぼ私情で動きます。
こういう設定はとても好きなんですよね。
過去に起きた出来事は変えられないという当たり前の事実を元に手探りに事件を解決していく。
主人公と同時に我々観客にも情報開示がされるわけで、主人公視点に入り込みやすいんです。
ヒュー・ジャックマンを起用したリサ・ジョイ監督の意図もしっかり反映されていますね。
また、記憶を覗いてレベッカ・ファーガソンが歌うシーンを見たことで魅了されるヒュー・ジャックマンはどこか『グレイテスト・ショーマン』のワンシーンのようでもありました。
『グレイテスト・ショーマン』(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation
改めて言います。
クリストファー・ノーラン作品に携わってきたジョナサン・ノーランの名前ばかりが先行していますが
本作『レミニセンス』はクリストファー・ノーランのようなSF設定を全面に押し出した作品ではなく、SF設定をギミックとして使った恋愛映画なんです。
クリストファー・ノーラン監督作ではなく、リサ・ジョイ監督作なんです。
最後になりますが
そんな『レミニセンス』で語られるある価値観に対して語っておかなければなりません。
ある価値観が、自分の価値観と近いものと相反するものを突きつけられて良い意味で僕の価値観は揺さぶられました。
まずはハッピーエンドの価値観について。
劇中でもニックは
「ハッピーエンドはないさ、必ず悲しみが残るのだから」
と語っています。
自分も以前から、ハッピーエンドとは人生という長い期間の中で幸せな時間の一部を切り取ったものでしかないと考えていました。
自分がハッピーエンドを好まないのは、あくまで人生の一端として幸せな時間を切り取ったに過ぎないからだ。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2018年4月12日
とことん堕ちればあとは上がるのみ。
"幸せは長く続かないように不幸も長く続かない"
幸せがあるから不幸を感じる。逆も然り。
人は順応していく生き物ということを忘れてはならない。
物語は終わりよければすべて良しなところがありますが、人生はそうはいきません。
悲しい時もあれば幸せな時もある。
悲しみがあるから幸せを感じるもの
だと。
幸せな時間ばかりが良い物語ではないというのも正直なところ。
この"ハッピーエンド"についての価値観はほぼほぼ自分と同じものを感じました。
一方で、過去に関しての価値観は大きく異なりました。
過去について、自分はこう考えています。
過去を忘れるということは自分が楽になることでもある。
人は不快な記憶を忘れることによって防衛する。
ジークムント・フロイトの名言
また、過去に囚われたままでは歩み進めることは出来ず、過去を受け入れることで前進することができるとも考えています。
過去に縋ることはマイナスなイメージが多く持たれると思います。
しかし、この物語は悲劇を如何にハッピーエンドに変えることができるか。
ということなんだと思いました。
上記のニックの台詞に対して、メイはこう語っています。
「それなら、幸せな時間で終わらせればいいの」
と。
死んだ妻を取り戻すために冥界へ行ったオルフェウスが振り返ってはならない約束を破り、妻を失ってしまう悲劇が描かれる『オルフェウス』の神話も劇中で挙げられました。
『オルフェウス』の神話を基に作られた現存する最古のオペラ『エウリディーチェ』は神話の悲劇の結末は大きく異なり、夫が振り返らずに妻を取り戻すハッピーエンドになっています。
"振り返らないこと"で掴むハッピーエンドではなく、"振り返ること"で悲劇にもハッピーエンドにもなる。
それが『レミニセンス』でニックが自ら選んだ結末。
他者から見れば悲劇だとしても、本人にとって幸せならそれでいいじゃない。
死人は蘇らない。
でも記憶の中に大切な人は在り続ける。
そんな愛の可視化なんですよね。
こんな人生の終わり方もある。
それを選ぶことができるほど、幸せな時間を経験したニックが羨ましいとさえ思える。
自分との価値観の相違は見られるものの、自分が納得させられる物語となっていました。
終わりに
ということで、あまり評価は高くありませんが
個人的にはドラマ方面でリサ・ジョイ監督を評価しています。
またジョナサン・ノーランとリサ・ジョイの夫婦で映画を撮ってほしいですね。
ありがとうございました。
(C)2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved
恐怖のシナジー効果(『オールド』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
今回はM・ナイト・シャマラン監督最新作『オールド』についてシャマランの過去作も交えながら語っております。
当記事はいくつかのシャマラン監督過去作も含め、ネタバレが含まれます。
未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Old
製作年︰2021年
製作国︰アメリカ
配給︰東宝東和
上映時間︰108分
映倫区分︰G
解説
「シックス・センス」「スプリット」のM・ナイト・シャマラン監督が、異常なスピードで時間が流れ、急速に年老いていくという不可解な現象に見舞われた一家の恐怖とサバイバルを描いたスリラー。人里離れた美しいビーチに、バカンスを過ごすためやってきた複数の家族。それぞれが楽しいひと時を過ごしていたが、そのうちのひとりの母親が、姿が見えなくなった息子を探しはじめた。ビーチにいるほかの家族にも、息子の行方を尋ねる母親。そんな彼女の前に、「僕はここにいるよ」と息子が姿を現す。しかし、6歳の少年だった息子は、少し目を離したすきに青年へと急成長していた。やがて彼らは、それぞれが急速に年老いていくことに気づく。ビーチにいた人々はすぐにその場を離れようとするが、なぜか意識を失ってしまうなど脱出することができず……。主人公一家の父親役をガエル・ガルシア・ベルナルが演じ、「ファントム・スレッド」のビッキー・クリーブス、「ジョジョ・ラビット」のトーマシン・マッケンジー、「ジュマンジ」シリーズのアレックス・ウルフらが共演する。
オールド : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
時間経過というものは不可視なもの。
その不可視なものが可視化される恐怖。
子供たちの成長、朽ちていく大人たちの老いをスリラーへと溶け込ませる演出力は流石だ。
そして、家族の崩壊と再生へ仕向ける舞台設定。
時間は有限であるからこそ執着し、或いは諦観することでその価値を見出すドラマ性。
スリラーに拘り続けたM・ナイト・シャマラン監督が我々に放つ映像体験と言えよう。
しかし、急速な成長を見せる本作と比べて過去作『ヴィジット』からツイスト映画としての成長が見られなかった。
これはあくまでもツイスト映画として、である。
詳しくは下記の"考察"で言及しています。
考察
先日、Twitterでツイートしましたが、M・ナイト・シャマラン作品はどんでん返しが主体ではない。
『シックス・センス』のイメージでM・ナイト・シャマランはラストの展開、どんでん返しを期待される監督とされていますが、個人的には彼の作品の本質はどんでん返しではない。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2021年8月27日
"裏の裏を返して表を見せる"手法。
人が持つ恐怖の多様性を描くのが上手く、それを彼の独自の世界観で魅せているんですよ。 pic.twitter.com/oWZF2lsrJZ
つまり、ラストの展開に期待しすぎると肩透かしを食らう可能性があるんです。
『シックス・センス』で成功を収めたM・ナイト・シャマラン。
そのイメージが常に付き纏っていることが一つの要因ですね。
もう一つの要因は、この"シャマラン独自の世界観からスリラー要素を媒体に捻った切り口で語ること"にあると思います。
一般的にはツイスト映画(観客が観てきたものをひっくり返して驚きのエンディングを迎える映画)と呼ばれていますが
自分はどんでん返しが主体ではなく、"裏の裏を返して表を見せる"手法だと表現しています。
これがシャマラン節だと思っています。
さて、ここで先ずは代表される作品を簡単に振り返ってみます。
『シックス・センス』(1999)
死者の姿が見える少年と彼を担当する小児精神科医の交流を衝撃的な展開で描き、M・ナイト・シャマラン監督の出世作となったサスペンススリラー。これまで多くの子どもたちを救ってきた小児精神科医マルコム。ある夜、10年前に担当した患者ビンセントがマルコムの自宅を襲撃し、彼を銃撃した後に自ら命を絶つ。完治したはずのビンセントを救えなかったことは、マルコムの心に大きな影を落とした。1年後、マルコムは8歳の少年コールのカウンセリングを担当することに。コールは誰にも言えない秘密を抱えており、周囲に心を閉ざしていた。2人は交流を続けるうちに心を通わせていき、ついにコールはマルコムに秘密を打ち明ける。なんとコールは、死者の姿が見えるというのだった。精神科医マルコムをブルース・ウィリスが演じ、少年コール役を務めたハーレイ・ジョエル・オスメントはアカデミー助演男優賞にノミネートされ、天才子役として名をはせた。
シックス・センス : 作品情報 - 映画.com
この映画がシャマランを評価する一番有名な作品ではないでしょうか。
最早ネタバレが常識化してしまっているこの映画の結末と真相。
主人公マルコムは映画のほぼ全編にわたって死んでいたという衝撃的事実が明かされる。
持論に当てはめるなら
死者から見た映画の本筋(裏側)
死者は元々死んでいる(裏の裏側=表側)
つまり、死者が死人であることを我々観客が"騙された"形(裏側)で物語が進行するんです。
この構成は一度結末、真実を知れば新たな視点(表側)から再度この映画を見直し、この映画に隠された"騙し"を検証することができる。
『アンブレイカブル』(2000)
フィラデルフィアで起こった悲惨な列車衝突事故。131人の乗員・乗客が死亡したこの事故で、デビッドはただ1人、傷ひとつ負わず奇跡的に死を免れた。「なぜ、俺だけが?」 やがてイライジャと名乗る男が現れ、デビッドこそが不滅の肉体を持つ者“アンブレイカブル”であり、弱き者を守る使命を帯びたヒーローだと告げる。
アンブレイカブル : 作品情報 - 映画.com
恐らく『シックス・センス』の次に有名な作品ではないだろうか。
こちらはシャマラン・ユニバース化された『スプリット』(2017)、『ミスター・ガラス』(2019)も絡めて話をします。
『アンブレイカブル』では新たなヒーローの誕生を望む虚弱体質で悪意のない(ように見える)イライジャこそが、実は人殺しの悪人だという事実が明かされる。
これは、ヒーローを求める者は悪人ではないという先入観を利用したもの。
ここで、改めてデイヴィッドが自身のヒーロー性に気付かされるんです。
『スプリット』では人が内包する特異性を解離性同一性障害として描き、この作品内で生まれた新たなヴィランに対して『アンブレイカブル』がクロスオーバーし、『ミスター・ガラス』へと繋げる。
このやり方はズルいですよね(笑)
単作だと思わせておいて、実は『アンブレイカブル』の世界と繋がっていたなんて。
そして『ミスター・ガラス』。
ヒーローとヴィラン、不死身と虚弱、相反する存在の誕生を描いた『アンブレイカブル』とそれを破壊する怪物ヴィランを産んだ『スプリット』が一つになる。
『アンブレイカブル』のヒロイズムに対抗する『スプリット』のアンチヒロイズム。
ヴィランはヒーローと対峙するもの。
正義は必ず勝つ。
そんな常識すらも覆し、フィクションとされるアメコミを全肯定することで、特異性及びマイノリティを我々に認めさせる映画でもあります。
『サイン』(2002)
妻の事故死により信仰を失った元牧師グラハムが2人の子供と弟メリルと暮らす農場で、怪現象が発生。とうもろこし畑に一夜にして巨大な図形=ミステリー・サークルが出現したのだ。いったい誰の仕業なのか。監督は「シックス・センス」、「アンブレイカブル」のシャマラン。ミステリー・サークルは「X-ファイル」でもおなじみの実在の怪現象。直径20メートルにも及ぶ巨大な幾何学図形が畑などに出現するもので原因は不明。
サイン : 作品情報 - 映画.com
妻の死後に起こった不可解な出来事、ミステリー・サークルが出現する。
このミステリー・サークルは宇宙人が次に襲う家を記した"サイン"だった。
これから何か予期せぬことが起こるのではないか?といった不安に駆られる人間目線と、予め襲うことを決めていた宇宙人目線。
この作品も表から見れば至極真っ当なものだが、裏から見せることによってそのスリラー要素を演出しています。
『ヴィレッジ』(2004)
「サイン」のM・ナイト・シャマラン監督の最新作。1897年、米ペンシルバニアの小さな村。村の周囲を取り囲む森には恐ろしい存在がいるため、村人が森に入ることはタブーとされていた。だが、村で皮を剥いだ動物の死骸が発見され、誰かがタブーを破ったのではないかという疑惑が持ち上がる。ロン・ハワード監督の実娘ブライス・ダラス・ハワードがヒロイン役。撮影はコーエン兄弟監督作の常連ロジャー・ディーキンスが担当。
ヴィレッジ : 作品情報 - 映画.com
この作品に関しても、『シックス・センス』同様に結末の近くで新しい情報を導入し、ある事実を明かす。
この真実の開示によって、観客が今まで観てきたものに対して解釈し直し、何に騙されていたのかを確認することになる。
また、サスペンススリラーと見せかけたラブロマンスという点でも、自分は見事に騙されました。
『ヴィジット』(2015)
「シックス・センス」「サイン」のM・ナイト・シャマラン監督が、「パラノーマル・アクティビティ」「インシディアス」といった人気ホラー作品を手がけるプロデューサーのジェイソン・ブラムと初タッグを組んだスリラー。休暇を利用して祖父母の待つペンシルバニア州メインビルへとやってきた姉妹は、優しい祖父と料理上手な祖母に迎えられ、田舎町での穏やかな1週間を過ごすことに。祖父母からは、完璧な時間を過ごすためにも「楽しい時間を過ごすこと」「好きなものは遠慮なく食べること」「夜9時半以降は部屋から絶対に出ないこと」という3つの約束を守るように言い渡される。しかし、夜9時半を過ぎると家の中には異様な気配が漂い、不気味な物音が響き渡る。恐怖を覚えた2人は、開けてはいけないと言われた部屋のドアを開けてしまうが……。
ヴィジット : 作品情報 - 映画.com
子供たちを介して見るPOV視点。
祖父母の顔を知らない子供たちという設定が、祖父母はサイコパスであるという真実を隠し、観客は子供視点だからこそ騙されるという構成。
その虚偽を覆うベールが祖父母の家で守らなければならない約束であり、その約束を破ることで祖父母の隠された真実が暴かれる。
怖さよりも笑いが勝ってしまったが、子供のいる親の気持ちになって観るとこの作品での恐怖度も増すのではないでしょうか。
では本題に入っていきたいのですが
先ずはじめに疑問となる"なぜあのビーチだけ時間の流れが速いのか?"です。
これは視点の違いではないかと考える。
例えば、コイルに磁石を近づけるとする。
すると、そこでは発電が起こります。
コイルの視点で見ると磁石が近づいてきてマクスウェル方程式によって電場が生じる。
この電場によってコイルの電子が運動を始めて電流が流れる。
一方、磁石の視点では近づいてきたのはコイルである。
磁場は変化せず、ローレンツ力によってコイルの電子が移動した。
コイル視点では変化があったのに対して、磁石視点では変化はない(変化したのはコイル側)。
このように視点によって事象に差が生じること、この考え方は相対性理論にも結びつくのですが、上記に当てはめると
磁場を帯びたビーチ傍の岩場が磁石視点、閉鎖空間であるビーチに送られた彼らがコイル視点と考えられる。
尚且つ、それを遠くから見るシャマラン演じる監視者視点で見るとビーチに隔離された人たちの時間の経過速度は速く見える。
と、もっともらしい感じで適当に結論付けましたが、当たらずとも遠からず?こんな見解はサクッと流してください(笑)
では、過去作を絡めつつ、本作『オールド』(2021)の話に入っていきましょう。
過去作を振り返ると、初期作の『シックス・センス』、『アンブレイカブル』、『サイン』で幽霊、ヒーロー、宇宙人、と子供が好奇心を持ったような題材を選んでいることがわかる。
それらをスリラー要素を介して、フィクションの肯定として解き伏せて見せている。
そして中期、『ヴィレッジ』と『ヴィジット』によってフィクションからリアルへ、"見えない恐怖への対峙と可視化"へと昇華していることがわかる。
『ヴィレッジ』では盲目の少女が見えない恐怖に怯えながら村に隠された真実に触れていく。
『ヴィジット』では無知な子供が見えない恐怖に晒され、約束を破ることで見える恐怖に襲われることになる。
本作『オールド』は、この"見えない恐怖への対峙と可視化"を突き詰めたものとなっていると感じた。
何が起こっているのかわからない目に見えない恐怖。
そして体に起こる異変、朽ちていく老化や迫りくる死、目に見えないものを可視化することで見えてくる時間に対する恐怖心。
老いといっても見た目の変化、記憶力、視力、聴力の衰えなど。
また、時間経過は切り傷の治癒、病の進行、出産、老衰、死体の分解まで。
様々なアプローチから登場人物たちを追い込んでいく。
そこに抜け出せないビーチという舞台設定が畳み掛ける。
物語が進行していくことで引き起こされる恐怖のシナジー効果。
これは『ヴィジット』でも使われたものと同じで、わからない恐怖と知った上で感じる恐怖の相乗効果ですね。
さて、先程"短評"で「ツイスト映画としては『ヴィジット』から成長していない。」と語りました。
要はラストのタネ明かしは全く違えど、やっていることは『オールド』も『ヴィジット』も全く同じなんですよ。
持論に当てはめるなら
隔離された者が見ている視点(裏側)
それをある目的で監禁、監視する側の視点(裏の裏側=表側)
自らある閉鎖空間へと赴き、そこで隔離された者が恐怖に苛まれ、真実が明らかになった時にその閉鎖空間が意図的に作られたものだと知る。
ツイスト映画としてはほとんど成長してないんですよ、シャマラン監督は。
ただ、ただですよ。
本作『オールド』に関してこれだけは言いたい。
『ヴィジット』より断然面白い!
『ヴィジット』は恐怖体験による子供たちの成長を描いているのだが、本作『オールド』はそんな子供たちの成長を正に"目に見えるもの"として描いちゃってるんですよね!
あんな老けた6歳と11歳を見たら、おじさんも困っちゃうよ。
それに加え、父と母の夫婦愛を描くことでドラマ面でも厚みが増しているんです。
序盤にガエル・ガルシア・ベルナル演じる父とビッキー・クリープス演じる母がホテルで夫婦喧嘩をするシーンがありました。
そこで、「あなたはいつも未来ばかり見ている。私は今しかないのに。」という台詞が挿入されます。
この二人が終盤では、老いて未来が閉ざされたことで"今"という時間を大切にしようとするんです。
ちょっと感動しちゃったよね…。
終わりに
ということで
一般的な評価はあまり高くないですが、個人的にはなかなか面白かったです。
というか、シャマランは良い意味でも悪い意味でもスリラーに拘ったシャマランらしさを貫いてるんだなあと改めて思いました。
シャマラン好きにはたまらん!(これが言いたかっただけ)
ありがとうございました。
宣戦布告と下剋上(『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』ネタバレ考察)
目次
初めに
どうも、レクです。
私は元気です。
暫くの間、更新が停滞してましたが
久しぶりのブログ更新となります。
今回は公開から少し経ってしまいましたが、ジェームズ・ガン監督作『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』について語っております。
よろしくお願いいたします。
この記事にはネタバレが含まれます。
未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰The Suicide Squad
製作年︰2021年
製作国︰アメリカ
配給︰ワーナー・ブラザース映画
上映時間︰132分
映倫区分︰R15+
解説
「バットマン」や「スーパーマン」を生んだDCコミックスに登場する悪役たちがチームを組んで戦う姿を描いたアクションエンタテインメント。デビッド・エアー監督により映画化された「スーサイド・スクワッド」を、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズで大きな成功を収めたジャームズ・ガン監督が新たに描く。ジョーカーと別れて彼氏募集中の身になり、ますますクレイジーになったハーレイ・クインを筆頭に、最強スナイパーのブラッドスポート、虹色のスーツに身を包んだ陰キャのポルカドットマン、平和のためには暴力もいとわないという矛盾な生き様のピース・メイカー、ネズミを操って戦うラットキャッチャー2、そして食欲以外に興味のないキング・シャークという、いずれも強烈な個性をもった悪党たちが、減刑と引き換えに、危険な独裁国家から世界を救うという決死のミッションに挑む。出演は、前作に続いてハーレイ・クイン役を演じるマーゴット・ロビーほか、イドリス・エルバ、ジョン・シナ、ジョエル・キナマンら。サメの姿をしたキャラクター、キング・シャークの声をシルベスター・スタローンが担当した。
ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結 : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
本作『ザ・スーサイド・スクワッド "極"悪党、集結』(以下、『新スースク』)を鑑賞するにあたって、デヴィッド・エアー版『スーサイド・スクワッド』(以下、『旧スースク』)を再鑑賞しました。
(C)2016 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC., RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC AND RATPAC ENTERTAINMENT, LLC
「バットマン」や「スーパーマン」などと同じDCコミックスに登場する悪役たちがチームを組んで戦う姿を描くアクション作品。バットマンをはじめとするヒーローたちによって投獄され、死刑や終身刑となった悪党たちが、減刑と引き換えに「スーサイド・スクワッド(自殺部隊)」の結成を強制され、危険なミッションに挑む。ウィル・スミスや「ウルフ・オブ・ウォールストリート」のマーゴット・ロビー、「ロボコップ」のジョエル・キナマンら豪華キャストが共演。バットマン最大の宿敵として知られ、これまでにジャック・ニコルソン、ヒース・レジャーが演じてきたジョーカーを、「ダラス・バイヤーズクラブ」でアカデミー賞を受賞したジャレッド・レトが新たに演じる。監督は「フューリー」のデビッド・エアー。
スーサイド・スクワッド : 作品情報 - 映画.com
というのも、『旧スースク』が公開された当初、DCコミックに疎い自分からすると、キャラクターに思い入れがないヴィラン集団と脚本の弱さで印象に残らない作品となっていたからです。
ただでさえヴィランがヴィランヴィランしていないのに、ヴィランよりヴィランヴィランしてるおばさんが出てきて、ヴィランの変な仲間意識がそのヴィランヴィラン感を更に下げてしまっていると感じました。
そう、本作『新スースク』にも登場しているこの方ですね。
アマンダ・ウォーラー(ビオラ・デイビス)
この、ヴィランによるヒロイズムというのは過去作のDCEUでも課題だと思っています。
例えば、本作『新スースク』にも登場するハーレイ・クインが主人公の映画『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』(以下、『BOP』)。
『BOP』でも、あくまでヴィランのはずのハーレイ・クイン自身がヴィランヴィランしていないんですよね。
ちょっと捻くれた単なる良い奴なんですよ。
性格が変わったんじゃないか?ってくらい。
その理由はこちらの記事にも書かせていただいてますが、『BOP』よりは『旧スースク』の方がまだ、ハーレイ・クインはヴィランらしかったとさえ思うほど。
そう、このヴィランヴィランしていないという弱点に関して、ジェームズ・ガン監督は新たなキャラクターを交えて、『旧スースク』でのヴィランヴィランしてないことを好転させてガンガンやってくれた!(これが言いたかっただけ)
本作『新スースク』を評価する点のひとつがここなんです。
考察
さて、ここからは個人的な解釈になります。
一意見としてお読みいただければ幸いです。
本作『新スースク』での決死部隊のミッションは減刑と引き換えに危険な独裁国家から世界を救うというもの。
何より冒頭が素晴らしい。
『旧スースク』から続投のキャプテン・ブーメラン率いる第一決死部隊。
彼らは敵を引きつけるエサであり、『新スースク』で登場したブラッドスポート率いる第二決死部隊が任務を遂行する。
彼らには2つの部隊に別れていることを知らされておらず、第一決死部隊はキャプテン・ブーメラン含む『旧スースク』メンバー、ハーレイ・クインがいる。
この第一決死部隊が早々に壊滅することで、決死部隊は捨て駒であるということを一瞬で観客に理解させる。
そして、尚且つジェームズ・ガンは
「『旧スースク』は終わり。ここからはオレの映画、『新スースク』が始まるんだ。」
と言わんばかりに本編へと入っていくのだ。
そんなこんなでラストシークエンスまでの導線はアクションあり、グロあり、ブラックコメディありで飽きることなく展開され、ジェームズ・ガン監督のやりたいようにやったであろう娯楽映画を体験できます。
ここで、短評でも語ったヴィランによるヒロイズム問題ですが
MCUとDCEUのヒロイズムの違いは以前に話したことがあります。
それはクリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト』。
バットマンは英雄的行為と犯罪行為の二面性をテーマに描かれる。
この『ダークナイト』とほぼ同時期(2008年)に公開されたジョンファブロー監督作『アイアンマン』と比較するとわかりやすい。
アイアンマンの場合、恐らく英雄的行為がたとえ法を犯す超法規的な暴力であっても許諾され、劇中で肯定される。
ひとつの大きな要因はトニー・スタークという人物の認知とアイアンマンが絶対的ヒーローとなるから。
正義のために必要であり、だからこそ正当化され、それがなければ正義が悪に打ち負かされてしまうという保守的とも取れる形を取らざるを得ない。
MCUに関しては後にルッソ兄弟の『シビル・ウォー』でその疑問に言及する形になるんですが。
一方で、DCEUのバットマンは正義のために法を犯す超法規的な暴力でさえも、正義として行使する。
それに伴い、国民からの反感やヒーローとしての支持を失い、葛藤することとなる。
本作『新スースク』ではヴィラン要素によって超法規的な暴力をヒロイズムではないものとして描ける。
要はヴィランなら極論、何をしても許されるのだ(笑)
このヒーローではなくヴィランを描く強みとジェームズ・ガンの相性が良すぎる。
グロ描写とブラックコメディのバランス、匙加減も流石といえます。
また、『旧スースク』や『BOP』の良さを引き継ぐハーレイ・クインが特に良かった。
ジョーカーと別れて彼氏募集中の身になっているとのことで、時系列は『BOP』よりも後の設定。
『旧スースク』での吊り下げプレイ、『BOP』での柔軟性を活かした派手なアクション、これらを見事に本作『新スースク』で披露して見せている。
つまり、冒頭で『旧スースク』から『新スースク』へ移行するぞというジェームズ・ガン監督の意思表示を見せておきながら、ちゃんと過去作を踏まえた上で過去をなかったものとしないで本作のハーレイ・クインを描ききっているんです。
それに加えて、リック・フラッグとピースメイカーが互いの正義のぶつかり合いで仲間割れをした時、一番に目撃したのはラットキャッチャー2。
考え過ぎかもしれませんが、これはディズニーに居たジェームズ・ガンがディズニーから受けた不当解雇を自分自身が俯瞰的に見ている構図のようにも感じる。
そんなラットキャッチャー2がピースメイカーに殺されそうになったところ、タイミング良く救ったブラッドスポートこそワーナー・ブラザーズ映画。
ジェームズ・ガン監督は当初の結末を変更したとも語っています。
当初はポルカドットマンではなく、ラットキャッチャー2を殺す予定だったという。ガンはVarietyとのインタビューで、「変化があった。私がピッチしたオリジナルのエンディングでは、1人のメインキャラクターが死に、1人のメインキャラクターは死ななかった。そして、死んだ主役はラットキャッチャー2だった。彼女はとても優しくて、それだとあまりにも暗すぎると感じた。ポルカドットマンが嫌いなわけではない。愛している。ただ、( ラットキャッチャー2を)殺すことはできなかった。だから我慢した。」と述べている。
ジェームズ・ガン監督が映画『ザ・スーサイド・スクワッド』のエンディングが当初の構想から変更されたという | Amecomi Info(アメコミ・インフォ)
これは、ジェームズ・ガン監督がディズニーに解雇された過去。
それを受け入れた上で、ディズニーの掌の上では決してできないことをワーナー・ブラザーズで好き勝手にやる。
『旧スースク』同様にあまりヴィランヴィランしていないブラッドスポートとラットキャッチャー2というキャラクターが居たからこそ成り立つこの物語に仕上げた。
言い換えれば、ラットキャッチャー2がジェームズ・ガン監督の意志そのものの反映だと思うんですよ。
それを踏まえた上で
ラスボス的存在のスターロ大王に勝利した彼らの武器、それが大量のネズミと一本の槍。
それが何を意味するのか?
それは、"底辺が集まれば巨悪を黙らせることができる"に集約される下剋上だと思うんです。
これも過去を受け入れ、今を描いたジェームズ・ガン監督が、今後はディズニーではなくワーナー・ブラザーズでやっていくという決意表明。
以上のことから
本作『新スースク』はジェームズ・ガンの MCUヒーロー映画への宣戦布告、皮肉交じりのDCEUヴィラン映画だと思っています。
終わりに
ということで本来このブログの趣旨でもある
「好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。」
をモットーに不定期ながら更新を再開していきますので、今後ともよろしくお願いします。
ありがとうございました。
(C)2021 WBEI TM & (C)DC
緋色と銀の正義(『名探偵コナン 緋色の弾丸』感想)
目次
初めに
どうもレクです。
今回は『名探偵コナン 緋色の弾丸』について語っています。
映画『緋色の弾丸』の事件の概要及び物語に関するネタバレ、名探偵コナンの原作コミックス、及び前作までの劇場版名探偵コナンのネタバレは含みます。
未読、未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
製作年︰2021年
製作国︰日本
配給︰東宝
上映時間︰110分
映倫区分︰G
解説
青山剛昌の人気コミックをアニメ化した大ヒットシリーズ「名探偵コナン」の劇場版24作目。世界最大のスポーツの祭典「WSG」と、世界初の「真空超伝導リニア」の開発という2つのキーワードを軸に、前代未聞の事件に挑む江戸川コナンの活躍を描く。FBI捜査官・赤井秀一が、シリーズ20作目「純黒の悪夢(ナイトメア)」以来に劇場版に登場。さらに、赤井の弟でプロ棋士の羽田秀吉、女子高生探偵の妹・世良真純、3人の母親で“領域外の妹”と名乗る謎の女性メアリーも登場し、“赤井ファミリー”が集結する。4年に一度開かれる世界最大のスポーツの祭典「WSG ワールド・スポーツ・ゲームス」が東京で開催され、その開会式にあわせ、最高時速1000キロを誇る世界初の「真空超電導リニア」を開発することが発表された。しかし、世界の注目を集める中、名だたる大会スポンサーが集うパーティ会場で突如事件が発生し、企業のトップが次々と拉致されてしまう。そして、その裏には事件を監視する赤井秀一と、彼の指令を待つFBIの姿があった。江戸川コナンは、今回の事件と、15年前にアメリカのボストンで起きた「WSG連続拉致事件」との関連性を疑うが……。
名探偵コナン 緋色の弾丸 : 作品情報 - 映画.comより引用
本作を観る前に
ここ数年の劇場版名探偵コナンは原作コミックスの知識が前提の物語となっていることは否定できません。
とはいえ、往年の劇場版名探偵コナンと同様に、本作『緋色の弾丸』はある事件の真相を明かすという意味では映画単体でも観ることができます。
ただ、本作『緋色の弾丸』において過去作と決定的に異なる点は、原作ありきのキャラクタームービーにも関わらず劇中でキャラの掘り下げが甘い。
キーパーソンで赤井家の長兄・赤井秀一及び赤井一家とその人物相関図を事前に知っておくことが重要となります。
つまり、ここ数年の劇場版名探偵コナンは原作コミックスの知識が前提の物語となっていることに加えて、一見さんお断りまではいかずともキャラクタームービーとして作られていることから非常にターゲットを絞り込んでしまっているということが分かります。
ということで、僕なりに本作『緋色の弾丸』を十二分に楽しむためにはどの話を読んでいればいいのか?を纏めてみました。
原作及びアニメファンの方もどの話を復習すればいいのか?の目安になれば幸いです。
赤井一家
世良真純。
赤井家の長女でボクっ子、ジークンドーの使い手。
転校してきた女子高生探偵、毛利蘭や鈴木園子の同級生。
ある目的でコナンや灰原に接触を図る。
名字の世良はメアリーの旧姓。
赤井秀一のことは死んだと思っており、沖矢昴の正体は知らない。
必須ではありませんが、劇場版名探偵コナン18作目『異次元の狙撃手』で活躍。
本作でも登場する阿笠博士の発明品、花火ボールはこの映画で初登場。
彼女の愛車のバイクXT4009Eも本作で登場します。
初登場回は漫画73巻「幽霊ホテルの推理対決」。
漫画92巻「さざなみの魔法使い」で幼少期に工藤新一、毛利蘭と出会っている。
世良に関しては原作コミックスの復習は不要。
羽田秀吉。
赤井家の次兄で将棋で七冠を達成し、太閤名人の異名を持つ。
頭脳明晰で暗記能力が天才的。
名字が異なるのは、父親・赤井務武の友人・羽田家の養子に入っているから。
初登場回は漫画80巻「現場の隣人は元カレ」。
交通安全課の宮本由美と交際中。
秀吉についても原作コミックスの復習は不要です。
赤井メアリー。
赤井家の母親で自らを領域外の妹と称す。
sister(妹)からterritory(領域)のterを外すとSIS(通称MI6)となることから、コナンの推理力を確認した。
少女のような姿をしていることから察すると思いますが、黒の組織の開発した毒薬APTX4869によってコナンや灰原同様に体が縮んでいる。
このことを知っているのは娘の世良真純だけ。
初登場回は漫画83巻「意外な結末の恋愛小説」。
漫画90巻「霊魂探偵殺人事件」ではコナンが落とした蝶ネクタイ型変声器を使って毛利小五郎の声で事件解決。
漫画92巻「さざなみの魔法使い」で幼少期の工藤新一と出会っている。
メアリーに関しても原作コミックスでの復習は特に不要です。
赤井秀一。
赤井家の長兄でFBI捜査官で射撃の名手。
なんと言っても本作『緋色の弾丸』の主役であり、人物相関図の中心人物。
初登場回は漫画29巻「謎めいた乗客」。
灰原哀たちを乗せたバスがバスジャック犯に選挙される事件で乗り合わせた乗客の一人として登場する。
この時にはまだFBI捜査官とは明かされず、灰原の感じ取れる黒の組織の匂いに怯える事件だ。
次に蘭の回想「工藤新一NYの事件」を観るのもいい。
ニューヨークで通り魔を追っている赤井秀一と毛利蘭と出会ったこの事件で赤井秀一がFBIであることが正式に明かされます。
この2つは必須ではありませんが、赤井秀一を掘り下げたいのであれば読んでおくといいかもしれません。
押さえておきたいのが漫画48〜49巻「ブラックインパクト! 組織の手が届く瞬間」。
ここで、「赤と黒のクラッシュ」の伏線、重要となる人物でもある水無怜奈が初登場します。
合わせて、「赤と黒のクラッシュ」に繋がる漫画53巻「黒の組織の影」も読んでおいた方がいい。
そして、赤井秀一を語る上で必須の事件「赤と黒のクラッシュ(来葉峠)」。
漫画では57〜59巻と非常に長い話ですが、ここを読んでいるのと読んでないのとでは赤井秀一=沖矢昴と家族の関係及び赤井秀一の現在の立ち位置が軽視されてしまう。
更に、来葉峠の事件の後に明かされる安室透の正体と赤井秀一の関係性を匂わせる漫画84〜85巻「緋色シリーズ」を観ておくこともオススメしますが、本作を観るにあたっては必須ではありません。
これを踏まえた上で劇場版名探偵コナン22作目『ゼロの執行人』を鑑賞するとまた見え方も違ってきます。
沖矢昴として登場する回は本作『緋色の弾丸』には深く関っていないので読まなくでも問題はないでしょう。
『緋色の弾丸』公開に向けて、『名探偵コナン 緋色の不在証明』も公開されてますよね?
人気アニメ「名探偵コナン」のテレビシリーズ特別総集編。劇場版第24作「名探偵コナン 緋色の弾丸」(2021年4月16日公開)でキーパーソンとなる赤井一家について、これまで断片的に明らかになっている彼らの正体や謎に焦点を当てる。FBI捜査官で狙撃の名手・赤井秀一、一家の末妹で女子高生探偵の世良真純、赤井の弟で7冠を達成したプロ棋士・羽田秀吉、「領域外の妹」と名乗る少女で正体は一家の母メアリー。来葉峠で死亡したと思われていた赤井秀一を中心に、それぞれのキャラクターのパーソナリティや見どころをテレビアニメシリーズからクローズアップし、その関係性をひも解く。また、赤井秀一の宿敵であり「名探偵コナン」人気キャラクターの安室透/バーボンも登場する。劇場上映用に江戸川コナンによるナレーションを新規収録し、音響も新たに編集しなおされているほか、新規映像「赤井秀一からのシークレットメッセージ」や「緋色の弾丸」最新予告編も上映される。
名探偵コナン 緋色の不在証明 : 作品情報 - 映画.comより引用
こちらは未鑑賞なので何も言えませんが、原作を知らない方は赤井一家について知ることができる総集編になっているそうです。
もう一度言いますが、過去作同様に映画単体で楽しめる仕様となっており、登場人物と人物相関図さえ頭に入れておけば問題はありません。
しかし、本作『緋色の弾丸』においては原作を読んでいないと盛り上がりに欠ける内容となっています。
ネタバレ感想
さてさて、過去の劇場版名探偵コナンの記事でも何度も語っている自論"名探偵コナン"とは何たるか。についてですが改めて語りましょう。
原作「名探偵コナン」では新一と蘭、平次と和葉、園子と京極…など様々なラブコメが描かれています(青山剛昌先生がラブコメ大好き)。
極論ですが、自分は「名探偵コナン」はラブコメありき、寧ろラブコメのない「名探偵コナン」は「名探偵コナン」ではないと思ってます。
毒薬APTX4869を飲まされ幼児化してしまった工藤新一が江戸川コナンとして事件解決していく中で、物理的には平行線のままであるラブコメが水面下で本来は進展しないはずのラブコメが徐々に進展していく様、お互いの気持ちを素直に言えないもどかしさや物理的な障害が最大の魅力だと思っています。
「ホームズの黙示録」でロンドンにて遠回しな告白をした新一。
そして「紅の修学旅行」で蘭が答えを出したことで正式に付き合ったことになった二人。
そんな中で起きた今回の事件。
単純にラブコメ要素が少なすぎるんじゃあああああああああ!!!!!
なんなら、蘭がピンチのシーンですらその描写が淡白。
登場ゲストキャラの少なさから犯人が概ね分かってしまい、ミステリーとしても弱い。
ラブコメミステリーとは程遠いただのアクション映画に成り下がった始末。
前作『紺青の拳』から引き続き監督を務められた永岡智佳さん。
ラブコメ要素に関してはべた褒めしていただけにがっかりです。
キャラクタームービーとして見れば、赤井一家総出且つ灰原哀の演出には魅力を感じただけに更にがっかりです。
それでもちゃんとキャラクタームービー、ファンムービーとして楽しませてくれた『緋色の弾丸』はやはり素晴らしいのか。
特に褒めたいのが
黒の組織のジンの宿敵でもあり"Silver bullet"(銀の弾丸)と呼ばれる赤井秀一がJapanese bulletをSilver bulletで撃ち抜くというシーンのカッコ良さ。
マジで赤井秀一がカッコイイんですよ。
過去にも700ヤード離れたジンのスコープのど真ん中をライフルで撃ち抜いてますからね(笑)
現実離れした赤井さん、流石としか言えない。
鑑賞前にも何度か言っていましたが、『ゼロの執行人』と本作『緋色の弾丸』は対となる作品です。
共に櫻井武晴さんが脚本を担当されてますね。
『ゼロの執行人』の主役、私立探偵の安室透は公安警察の降谷零、黒の組織バーボンとトリプルフェイスを持つ男。
そして本作『緋色の弾丸』の主役、FBI捜査官の赤井秀一は死を偽装し大学院生・沖矢昴として生活を送り、諸星大(ライ)として黒の組織に潜入捜査官していた。
また、黒の組織のスコッチという男がこの二人の因縁を結びつける鍵となっています。
『ゼロの執行人』では東京サミットが開催される会場での事件を軸に公安警察の正義と悪の境界線を描いている。
一方で、本作『緋色の弾丸』では東京開催のWSGに関連するWSG連続拉致事件を軸にFBIの正義と悪の境界線を描いています。
ここで、名探偵コナンの主人公でもある江戸川コナン(工藤新一)の信念とも呼べる正義が際立つんですよ。
「犯人を推理で追い詰めて、みすみす自殺させちまう探偵は…殺人者とかわんねーよ…」
最近リメイクして新たにアニメで放送もされた、神回とも名作とも称されるかの有名な事件『ピアノソナタ「月光」殺人事件』(漫画では7巻、アニメでは11話に収録)。
この事件でコナンは唯一、犯人を逮捕できず自殺させてしまいます。
これが彼の悔いでもあり正義である。
日本を守るためにどんな手でも尽くす公安警察・安室透、司法取引をしてでも犯人を捕まえるFBI捜査官・赤井秀一の対比でもあるんですね。
また、劇場版名探偵コナン18作目『異次元の狙撃手』にて、FBI捜査官のジョディ・スターリングに人質を取った凶悪犯の殺し方を説く赤井秀一のシーンもありました。
犯人は殺さないコナンと犯人を殺してでも市民を守るFBIの対比としても見れる。
黒の組織のベルモット曰く、銀の弾丸は赤井秀一だけでなく江戸川コナン(工藤新一)かもしれないと原作でも語ったように、本作『緋色の弾丸』での銀の弾丸バディのクライマックスシーンは良い演出だったと思います。
それから、メアリーがAPTX4869で体が縮んでいることを知っているのは現時点では世良真純だけと記述しましたが、本作『緋色の弾丸』で赤井秀一がその事に気づいたようなシーンがありました。
原作でも少し気づいているような素振りはありますが名言は未だされていません。
逆にメアリーも沖矢昴が赤井秀一だと悟った可能性も見えてきます。
劇場版名探偵コナン22作目『ゼロの執行人』で赤井秀一が生きていたことをアニメよりも前に明かしたサプライズが、本作『緋色の弾丸』でも描かれたことになります。
終わりに
現時点での最新巻99巻ではメアリーの謎に迫ると同時に、黒の組織と赤井一家及び羽田浩司殺害事件に少し近づく伏線がありましたね。
まだRUMの正体までは近づけず、次巻は大台の100巻。
楽しみにしています!
また、劇場版名探偵コナンの次作はどうやら警察学校編をテーマにしているようで。
更に観客の間口をファンに絞った内容となることは間違いないと思われるので、それが吉と出るか…。
来年、無事公開されることを願っております。
最後までお読みくださった方、ありがとうございました。
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
現実逃避が持つ力(「ゴーストランドの惨劇」ネタバレ感想)
目次
初めに
どうも、レクです。
皆様、如何お過ごしでしょうか?
私は元気です。
ということで、新作映画でブログを書こうと思える作品があまりなく、そもそもブログを書くこと自体のモチベーションも上がらなくて更新が停滞してましたが
久しぶりの映画の駄文企画、第四弾です。
今回は公開から暫く経っても未だにちょくちょくTLにも感想が流れてくるパスカル・ロジェ監督作『ゴーストランドの惨劇』について語っております。
よろしくお願いいたします。
この記事にはネタバレが含まれます。
未鑑賞の方はご注意ください。
作品概要
原題︰Incident in a Ghostland
製作年︰2018年
製作国︰フランス・カナダ合作
配給︰アルバトロス・フィルム
上映時間︰91分
映倫区分︰R15+
解説
「マーターズ」の鬼才パスカル・ロジェが6年ぶりにメガホンをとり、絶望的な惨劇に巻き込まれた姉妹の運命を、全編に伏線と罠を張り巡らせながら描いたホラー。人里離れた叔母の家を相続し、そこへ移り住むことになったシングルマザーのポリーンと双子の娘。奔放で現代的な姉ベラとラブクラフトを崇拝する内向的な妹ベスは、双子でありながら正反対の性格だった。新居へ越してきた日の夜、2人の暴漢が家に押し入ってくる。母は娘たちを守るため必死に反撃し、姉妹の目の前で暴漢たちをメッタ刺しにしてしまう。事件から16年後、ベスは小説家として成功したが、ベラは精神を病んで現在もあの家で母と暮らしていた。久々に実家に帰って来たベスに対し、地下室に閉じこもるベラは衝撃の言葉をつぶやく。出演はテレビドラマ「ティーン・ウルフ」のクリスタル・リード、「ブリムストーン」のエミリア・ジョーンズ。
ゴーストランドの惨劇 : 作品情報 - 映画.comより引用
感想
暴漢に襲われトラウマを抱えた姉妹に焦点を当てた『マーターズ』で知られるパスカル・ロジェが贈る悪夢。
『マーターズ』ではグロやゴア描写といった視覚的な部分で話題になることが多いが、その本質は心理描写である。
一線を超えた人の欲望。
その恐ろしさや不条理さ、そこに別の嫌悪感を抱くもの。
昨今では、劇中のある仕掛けによって恐怖が増幅されるようなホラー映画が多く作られています。
本作『ゴーストランドの惨劇』はというと
物語の核はその転調における心理描写の起伏の差。
人は幸せであればあるほどその落差は大きく、また不幸であればあるほど幸せを思い描く気持ちが強くなる。
非日常でのそんな普遍的な感情を現実逃避という形で心を抉る巧みな演出。
そして、その現実逃避への問題提起の答えを劇中でしっかりと示す計算された脚本。
虐げられる絶望と生に縋りつく希望の対比を斜め上から切り込む絶妙なバランスで描かれる。
視覚的な部分でいうなら、グロやゴア描写は大したことはなく、人形大好き変態暴漢に恐怖と戦慄が走る。
また、魔女の方が不気味ではありますが
この2人の関係が劇中では明かされず、観客の想像による補完しか出来ないことがこの作品がもう一歩足りない点ではあると思う。
なぜならば、ここまでの連続監禁殺人鬼の背景にある狂った価値観を見せるほどに彼女らの身を案じ、観客が自らの感情で恐怖心を煽るものだと個人的に思うからである。
この映画はパスカル・ロジェ監督の考える『マーターズ』で描かれた"人の欲望"のその先にあるものとは何か?の答えを示した映画でもあり、その物足りなさは彼の作家性を鈍らせるまでには至らず。
高水準なサスペンススリラー、そして人間ドラマとして描けているのが凄い。
ただ、この殺人鬼の背景を描かなかったことにも意図があることが後になって分かってくる。
それは創作物(妄想)としての物語だから。
観客の想像を以て問題提起するパスカル・ロジェ監督の技巧。
今作『トールマン』は『マーターズ』ほど視覚的なインパクトはないが、問題提起においてはデビュー作『MOTHER マザー』に通ずるものを感じる。
— レク (@m_o_v_i_e_) 2020年6月26日
加えて、『ゴーストランドの惨劇』のように観客の想像を介して監督のメッセージを表面化させる手法。
これぞパスカル・ロジェの技巧と言えるだろう。 pic.twitter.com/MIdZMIhTIR
ということで、詳細は下記にて。
駄文
さて、ここからは鑑賞した方の解釈が大きく割れるこの物語の個人的な解釈を語っています。
一意見としてお読みいただければ幸いです。
もう一度書きますが、劇中で示される現実逃避への問題提起の答えとは『マーターズ』で描かれた"人の欲望"のその先にあるものの答え。
作品の冒頭と劇中にはラヴクラフトが登場します。
これは何を意味するのか考えていました。
ラヴクラフトは死後に知名度が上がったこと、そして幻想小説家の先駆者として知られており、有名な作品に『クトゥルフ神話』がある。
彼は幻想や妄想を"実在"するかのように、超自然的恐怖として小説に記す。
初めはラヴクラフト自身がパスカル・ロジェ監督の投影かとも考えたが、少し違う気がしました。
ラヴクラフトはあくまでも現実逃避の中での主人公とは別の創作者、ということは主人公がパスカル・ロジェ監督自身の投影であり、「こうなりたい」という主人公の願望と監督の「こうでありたい」という理想の可視化なのではないか?と考える。
現に主人公はラヴクラフトに憧れて現実逃避の世界で小説を執筆している点からも妥当な見解かと。
よって、この映画のタイトル『ゴーストランドの惨劇』が主人公が現実逃避の中で作り出した小説であることとそこに登場するラヴクラフトの作家性から"創作物(現実逃避)の中の創作物(小説)が現実に干渉する"という複数構造の上に成り立つ認識構造の可視化を描いていると思う。
著者の作り出したものなのか、はたまた読み手の想像が生み出したものなのか。
人の感情=欲望や願望=創作物とするとこの物語を認識する世界が変わって見えてきます。
これが『マーターズ』、死後の世界は素晴らしい世界なのか?それとも虚無の世界なのか?の答えでもあり、この答えはある意味で現実逃避を肯定的に描きつつもその闇を映して突き落とすパスカル・ロジェ監督の思想の答えではないだろうか。
結論として
死の境地を越えた先にある素晴らしい世界とは "人の欲望=現実逃避=創作物" が見せるリアリズムであると解釈できる。
現実逃避という言葉自体にはあまり良いイメージはないですよね?
現実を受け入れられない、逃げることといったマイナスなイメージしかありません。
しかし、人間は生きる上で、現実逃避をすることで生きられることもあるのではないでしょうか?
例えば、小説を読んだり映画鑑賞をしたり、食事やドライブなどを含む娯楽はそうですよね?
日頃の仕事のストレスなどから解放され、リフレッシュできたり。
一時でも好きなことをすることで嫌なことを忘れられる時間を自らが作ること。
現実逃避(妄想)できることは、ある意味で創作が持つ力のひとつでもある。
本作『ゴーストランドの惨劇』においては
「助かった」と思い込んだままの精神が、さも現実であるかのように見せられている(現実逃避の世界から帰って来られていない)
という解釈が自分の中ではしっくりくるんですよね。
創作物が如何に現実に作用するか?
だからこそ、その創作物(現実逃避)が現実に勝つ。
言い換えるなら、現実で主人公が助かっていようがなかろうが、現実逃避の中では「助かった」と思いこんでいる主人公にとって現実的に救われていることになるんです。
現実逃避の中の妄想で小説を執筆する。
この小説のタイトルが『ゴーストランドの惨劇』。
悲劇を創作物と置き換えることで、その現実を乗り越えること。
これをすべて物語ったのが、ラストの主人公の台詞なのだと思います。
終わりに
ということで、考察よりも気軽に書ける駄文シリーズは今後も続けていこう。
「好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。」
をモットーに不定期更新していきますので、今後ともよろしくお願いします。
ありがとうございました。
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