小羊の悲鳴は止まない

好きな映画を好きな時に好きなように語りたい。

肖像画も恋も、相手を見つめ、知ることから始まる(『燃ゆる女の肖像』ネタバレ考察)

目次




初めに

どうも、お久しぶりです。
レクです、生きてます。
いやはや、ブログ更新サボっててすみません。

本日、映画館で予告を観て以来ずっと楽しみにしていた『燃ゆる女の肖像』をやっと観ることができました。
久々にブログを書こうと思った次第であります。


それはそうと、めちゃくちゃ美人なアデル・エネルを拝めたので、それだけでもう満足しちゃいました(笑)

2020年3月に『ディアスキン』という変態映画で拝んだぶりです!

アデル・エネルが素敵だなと思った方はこちらも是非チェックしてみてください。



ではでは、早速『燃ゆる女の肖像』について語っていきます。

※この記事はネタバレを含みます、未鑑賞の方はご注意ください。




作品概要

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原題︰Portrait de la jeune fille en feu
製作年︰2019年
製作国︰フランス
配給︰ギャガ
上映時間︰122分
映倫区分︰PG12



解説

18世紀フランスを舞台に、望まぬ結婚を控える貴族の娘と彼女の肖像を描く女性画家の鮮烈な恋を描き、2019年・第72回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィアパルム賞を受賞したラブストーリー。画家のマリアンヌはブルターニュの貴婦人から娘エロイーズの見合いのための肖像画を依頼され、孤島に建つ屋敷を訪れる。エロイーズは結婚を嫌がっているため、マリアンヌは正体を隠して彼女に近づき密かに肖像画を完成させるが、真実を知ったエロイーズから絵の出来栄えを批判されてしまう。描き直すと決めたマリアンヌに、エロイーズは意外にもモデルになると申し出る。キャンパスをはさんで見つめ合い、美しい島をともに散策し、音楽や文学について語り合ううちに、激しい恋に落ちていく2人だったが……。「水の中のつぼみ」のセリーヌ・シアマが監督・脚本を手がけ、エロイーズを「午後8時の訪問者」のアデル・エネル、マリアンヌを「不実な女と官能詩人」のノエミ・メルランが演じた。
燃ゆる女の肖像 : 作品情報 - 映画.comより引用





オルフェウスの神話

セリーヌ・シアマ監督はセクシャリティーをカミングアウトしており、本作『燃ゆる女の肖像』では元パートナーのアデル・エネルをエロイーズ役に起用しています。

そこには監督の愛というものに対する価値観が詰まっているようで。
本作はその愛の価値観に、劇中で語られたオルフェの神話を織り交ぜた作品となっているように思います。


オルフェウスの神話は主に妻への愛の物語として描かれる。
この物語を知っていると更に深みが増します。

とはいえ、劇中である程度の内容は語られるので事前に知っておく必要はありません。
そのシーンで、彼女らと一緒にオルフェウスの"振り返り"について考えると、自分の価値観を確かめられますね。




視線の交錯

画家のマリアンヌはエロイーズの結婚相手に渡すエロイーズの肖像画を描くために雇われています。
エロイーズの姉の自殺の件もあり、マリアンヌは画家だということをエロイーズ本人には打ち明けずに描きあげる必要がありました。

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第一の視線としては、マリアンヌの画家としての視線です。

また、エロイーズはと言うと、マリアンヌに見られていることを知らない。
マリアンヌの一方向の視線しかないんですね。


マリアンヌはエロイーズに自分は画家として雇われたという真相を打ち明けた時、エロイーズは自分の肖像画を見て「自分ではない」と言います。

これはマリアンヌがエロイーズのことを何も知らず肖像画を描きあげたことで、画家としての視線、一方向の感情、表面的なものしか感じなかったからでしょう。
マリアンヌはエロイーズの姉の肖像画のように描きあげたエロイーズの肖像画の顔を消してしまいます。

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そこで、マリアンヌは数日の滞在を許され、エロイーズはモデルになることを決めます。
ここから二人の関係は大きく変化していきました。

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肖像画も恋も、相手を見つめ、知ることから始まるんですね。




マリアンヌがエロイーズをモデルとして肖像画を描いている途中の会話。
マリアンヌはエロイーズの表情と感情を結びつけるのです。
この時には既にマリアンヌはエロイーズのことを想っています。

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第二の視線が、エロイーズに対する恋の視線です。

表情から感情を言い当てられたエロイーズは、仕返しをするかのようにマリアンヌの表情と感情を結びつけます。
この時、エロイーズもまたマリアンヌに対して恋の視線を送っていたことがわかります。



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マリアンヌはエロイーズを、エロイーズはマリアンヌを、互いが互いを観察している。
つまり、画家から恋慕の情になることで、マリアンヌの一方向の視線からマリアンヌとエロイーズの双方向の視線へと変化しているんです。


このインタラクティブな視線の交錯が実にエモーショナルで。
画家の仕事という理性と恋慕という感情の二重構造の視線が非常に上手く交錯している。


淡々とした話運びの中で、静かに恋心に火が灯っていたこと。

地位も立場も性別も何の隔たりもなく垣根を越えた真実の愛がそこには確かに感じられた。





ここで先程、記述した"オルフェウスの冥府下り"が活きてきます。

オルフェウスは妻との思い出を胸に死者の国まで赴く。
マリアンヌとエロイーズもまた肖像画というアイテムを思い出として胸にしまい、それが二人の心を結びつけるものとして存在する。


「振り返ってはいけない」
死者の国の王ハデスはオルフェウスに告げる。
それでも振り返ってしまったオルフェウスをエロイーズは"身勝手"だと切り捨てる。

別れの時、屋敷を出るマリアンヌに声を掛けたエロイーズ。
"身勝手"に振り返ってエロイーズの未来を壊すことはできない。
"振り返る"ことが死別を意味する神話、マリアンヌの選択は…。

一方向であった視線が双方向の視線へ。
その双方向の視線が別れへと繋がる。



ここで改めてポスターを見ていただきたい。
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『燃ゆる女の肖像』の『肖』の文字が反転していることに気が付きます。
これはキーワードでもある"振り返る"ことを意味していることがわかります。

肖像画は出会いのキッカケであり、はたまた肖像画の完成が別れを意味する。
なんて哀しい愛の物語なのだろうか。





そしてラストの3分間ワンカットのシーン。
マリアンヌはもう一度エロイーズを見ることを許される。
しかし、エロイーズは目に涙を浮かべたままマリアンヌと視線が交わることはない。

画家として成功を収めたマリアンヌの視線は、エロイーズへの一方向の視線へと帰結する。

そうです、オルフェウスの神話において"振り返る"という行為が別れを意味するからこそ、逆説でエロイーズは"振り返らない"ことを選んだとも受け取れる。



オルフェウスの神話には劇中で語られていない結末があります。

それはこちらです。

死んだ彼は黄泉の国に行き、もう振り返っても消えることのないエウリディケーと幸せに暮らしているということです。その二人の姿が、次の絵です。
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J=B.カミーユ・コロー〈冥府のオルフェウス〉ヒューストン美術館

ギリシャ神話|ハーデース:オルフェウスのその後[冥界の二人]より引用


双方向の視線を交わしていたあの時間は現実世界では叶わない。
それでも彼女らの恋の炎は心の中で永遠に燃え続けている。

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それでもやはり、二人の距離を縮めたあの曲が鳴り響く中でただただ見つめることしかできないマリアンヌの胸中を思うと切なく心が締め付けられた。



観客もまた、彼女たちを見つめることしかできないのだ。





終わりに

ということで、『燃ゆる女の肖像』について書き綴りましたが、最後に一言。

2020年の年間ベストに入れます!

お読みくださった方、ありがとうございました。



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(C)Lilies Films.


世界に殴り込む〈和〉ホラー(『超擬態人間』感想)

目次




初めに

どうも、レクです。
お久しぶりです(定型文)。

ということで、随分とブログも放置しておりましたが、『狂覗』の監督・藤井秀剛の新作とあらば公開日初日に行くしかねえ!とずっと楽しみにしていた『超擬態人間』を観てきました。

Twitterでは語りきれないことを好き勝手に語っております。



※この記事は後半ネタバレを含みます、未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要

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製作年︰2018年
製作国︰日本
配給︰イオンエンターテイメント
上映時間︰80分
映倫区分︰R15+


解説

「狂覗」の藤井秀剛監督が、赤子を抱える男の幽霊を描いた伊藤晴雨による幽霊画「怪談乳房榎図」に着想を得て、幼児虐待をテーマに描いたホラー。いつものように朝を迎え、目を覚ました風摩と蓮の親子は、いつもと違う異変にすぐに気が付いた。2人が目を覚ました場所、それは深い森の中だった。一方その頃、結婚式を控えたカップルと新婦の父親を乗せた車がなれない山道で方向を見失い、山中で車が故障してしまう。やがて結びつく2つの話。それが意味するのは世界崩壊の始まりだった。

超擬態人間 : 作品情報 - 映画.comより引用



ネタバレなし感想

北海道・夕張市で開催中の「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2019」のオフシアター・コンペティション部門でワールドプレミア上映された本作『超擬態人間』は『狂覗』同様にミヤ・サヴィーニこと宮下純さんをはじめ、俳優兼裏方として活動されていて、その団結力ある制作チームCFAを率いる藤井秀剛監督の「世界で戦いたい」という意志のもと、キャスト・スタッフともに同じ方向を向いて制作された力の入ったとんでもない作品です。



昨年、フォロワーさん主催の非公式イベント『狂覗』の絶句上映オフ会では、藤井秀剛監督はじめキャスト・スタッフの皆様と直接お会いして少しお話もさせていただきましたが、ストイックで情熱もあって、とても良い雰囲気だと感じました。

また、主演を務めておられます杉山樹志さんは2017年8月にお亡くなりになられていて、本作『超擬態人間』が遺作。
是非とも劇場へ足を運んで、杉山さんの演技を目に焼き付けてほしい。
そして、監督・キャスト・スタッフの熱意をスクリーンで感じてほしい。
というのが僕個人の願いでもあります。



さてさて、まずはネタバレなしで本作『超擬態人間』の魅力について語りたいと思っておりますが
藤井秀剛監督作『狂覗』を未鑑賞の方は、そちらもオススメです。
低予算ながら、画面から醸し出される不気味さや禍々しさ。
そして人の醜さを介し、社会の縮図として魅せる素晴らしい作品です。




本作『超擬態人間』でも『狂覗』同様に社会の縮図を見せつつブラッシュアップされたテーマがホラー演出によって際立つ。

幽霊画からの着想ということで実に日本的でインディーズ邦画ホラーとしての面白さは勿論のこと、加えて児童虐待で連想するホラー映画『ザ・チャイルド』や『悪魔のいけにえ』など、海外ホラーを彷彿とさせるようなスラッシャー描写。
和洋折衷の娯楽性を追求した笑いと恐怖が怒涛の如く押し寄せる。


日本的なもので言えば、着物や竹林、幽霊、そしてなまはげ!

「泣ぐ子(ゴ)は居ねがー」「悪い子(ゴ)は居ねがー」ってやつですね。
本作『超擬態人間』では悪い大人はたくさんいます!!!

なまはげは幼児に対する教育の手段として用いられている側面もあり、本作『超擬態人間』では悪い大人たちへの教育の一貫とも取れますね(笑)





僕がホラー映画にハマった中学生時代。
それなりに地上波放送が多く流れる中、それなりに映画を観ていた僕が映画好きになったキッカケ、映画好きの導入は実はホラー映画なんですよ。
※オールタイムベストである『羊たちの沈黙』はレンタル店でよくホラーの棚に並べられています(実際はサスペンス映画)

アメリカンホラーからジャッロ、フレンチスプラッターを経てスペインホラーと恐らくホラー映画を観る上では王道な順序を辿っていると思います。
少しズレて『◯◯・オブ・ザ・デッド』を漁った時期もありましたが。

本作『超擬態人間』を観てると、そんなホラー映画を観ている時のハラハラ感やその先の展開、特に役者陣の殺られっぷりを想像してワクワクしていたあの頃を思い出しちゃったんですよ(笑)



本作『超擬態人間』ではその予想を裏切る先の読めない展開に観客も惑わされる。
単なるスラッシャームービーでは終わらない奥深さに驚かされた。

藤井秀剛監督はジャンル映画の鬼才と言われてますが、散りばめられた暗喩はジャンルにハマらない独創性とセンスを感じます。





※以下、テーマに触れるため、ネタバレとなります。
未鑑賞の方はご注意ください。






擬態と虐待

※ここからはネタバレありの感想となります。





本作『超擬態人間』は赤子を抱える男の幽霊という日本唯一の幽霊画【怪談乳房榎図】(伊藤晴雨・画)に藤井秀剛監督が着想を得てオリジナルの物語を構築したとのこと。

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この父の幽霊には恐怖だけでなく、辛さや苦しみといった感情が重なる。
また、父の敵を討った子は視点を変えれば父親の憎しみを背負った形と言えよう。



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本作『超擬態人間』では児童虐待がテーマとしてあります。
その児童虐待の裏側には払拭できない親子関係の負の連鎖が。

息子に虐待をする主人公・丸山風摩(杉山樹志)もまた、幼少期に父親の英之(越智貴広)によって虐待されていました。
つまり、風摩もまた虐待の辛さや苦しみ、そして英之の憎しみを背負っているのです。



被害者転じて加害者へ。

加害者である英之と被害者である風摩の関係が、加害者の風摩を生み出す。
そして、加害者となった風摩は息子である蓮を被害者として追い込む。

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そう、被害者である蓮が"擬態"という能力によって加害者へと変貌する物語が、主人公・風摩が被害者から加害者へと変貌したことに繋がる。



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"擬態"とは。
天敵から身を守る為に変異すること。



虐待を受けている子供も、動物同様に何かしらの方法で我が身を守る術を会得します。
虐待されている子供の天敵は…虐待する大人たちですね。


【怪談乳房榎図】の我が子を救おうとする父親の姿は幽霊か?はたまた幻か?
我が子をひとりの人間に育てるのではなく、怪物に変えてしまう。
そんな状況になって初めて大人たちは自分の罪を悟る。
それが生きているうちか、死後かの話で。





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何度も繰り返される虐待の円環のように、ここで映画も冒頭と同じシーンへと戻ります。

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冒頭とラストのシーン。

蓮の腕に巻かれた途切れたチェーンは負の連鎖を断ち切ったことのメタファーか?



否!

本作『超擬態人間』を観ると見えてくる大人の醜さ、犠牲となる子供たち。
親に虐げられてきた蓮にとって、復讐すべき相手は"大人たち"なのだ。

彼の手に巻かれた負の連鎖はターゲットを追い込む凶器だとさえ感じてしまい、僕は思わず震え上がった。

この円環構造の裏テーマに"擬態"が身を守ることや現実逃避ではなく、強い者へと立ち向かう挑戦的な攻めへと進行していってるんです。

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待てよ?
これって、藤井秀剛監督の「世界と戦いたい」にも通ずるやん!!!

海外ホラー映画のオマージュ(謂わば"擬態")は娯楽性の追求として観客を満足させるための一つの演出。
その裏にはしっかりと「オレはこれがやりたいんだ!」という闘争本能が見える。



これに気付いた時、思わず心の中で
藤井秀剛監督、すげぇええええ!!!
と叫んでしまいました。





恐らく、このラストの解釈も如何ようにも取れるものだと思う。
藤井秀剛監督の中での答えはあるのだろうけれど、敢えてこの物語に不可解さと不明瞭さをミックスし、確信的に一つの結論として出していない。

観客が自然と問われているかのように、そして自ずと自身の解釈へと促される形になっていると思います。
その辺りも上手いなあと感心するばかりです。




終わりに

ということで、僕が本作『超擬態人間』を鑑賞し、思ったことを書かせていただきました。


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本当はホラー映画のオマージュやらその辺りも語りたかったのですが、まだ上映館も少ないため具体的な描写については語らないでおこうと考えたが故の感想でした。

マジで忖度抜きにこの映画『超擬態人間』はオススメですよ!



お読みいただいた方、ありがとうございました。



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2018 (C) POP CO., LTD.


時間逆行(『TENET テネット』とノーラン監督の過去作)

目次




初めに

お久しぶりです、レクです。
この度は映画垢界隈で盛り上がりを見せる『TENET テネット』について語っています。

が、『TENET テネット』についての考察ではなく、クリストファー・ノーラン監督の作家性について過去作へと遡る形で書いていこうかなと思っています。
時間の逆行という意味で(?)


つきましては、今作『TENET テネット』を含むノーラン監督作の明確なネタバレは避けて書かせていただきますが、語る上で多少なりとも内容に言及する形となりますので
念の為、未鑑賞作については飛ばしてお読みいただいた方がいいかもしれません。

『TENET テネット』についてはネタバレの言及がありますので、未鑑賞の方はご注意ください。




作品概要

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原題︰Tenet
製作年︰2020年
製作国︰アメリカ
配給︰ワーナー・ブラザース映画
上映時間︰150分
映倫区分︰G


解説

「ダークナイト」3部作や「インセプション」「インターステラー」など数々の話題作を送り出してきた鬼才クリストファー・ノーラン監督によるオリジナル脚本のアクションサスペンス超大作。「現在から未来に進む“時間のルール”から脱出する」というミッションを課せられた主人公が、第3次世界大戦に伴う人類滅亡の危機に立ち向かう姿を描く。主演は名優デンゼル・ワシントンの息子で、スパイク・リー監督がアカデミー脚色賞を受賞した「ブラック・クランズマン」で映画初主演を務めたジョン・デビッド・ワシントン。共演はロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、アーロン・テイラー=ジョンソンのほか、「ダンケルク」に続いてノーラン作品に参加となったケネス・ブラナー、そしてノーラン作品に欠かせないマイケル・ケインら。撮影のホイテ・バン・ホイテマ、美術のネイサン・クローリーなど、スタッフも過去にノーラン作品に参加してきた実力派が集い、音楽は「ブラックパンサー」でアカデミー賞を受賞したルドウィグ・ゴランソンがノーラン作品に初参加。
TENET テネット : 作品情報 - 映画.comより引用




クリストファー・ノーラン

ということで、早速本題に入っていきます。


ちなみに、クリストファー・ノーラン監督は好きな映画監督のひとりで、過去作はすべて鑑賞済み。
個人的ノーラン監督作ベストは現時点ではこんな感じです。

①インターステラー
②インセプション
③ダークナイト
④プレステージ
⑤メメント
⑥ダークナイト ライジング
⑦フォロウィング
⑧バットマン ビギンズ
⑨ダンケルク
⑩インソムニア



恐らく、『TENET テネット』は⑧辺りになると思います。

「え?低くない?」って思われる方もおられるかもしれませんが、ノーラン監督作自体がほとんど高水準であり、決して『TENET テネット』がダメな映画だったわけではないことはご理解いただきたい(笑)



クリストファー・ノーランの作品全てに共通する話なのですが
映画が観客を操るのではなく観客が自ら誤解するような構造になっていること。

劇中で起こる事柄に関して観客を欺くことは存在論的に虚偽の中にある真実を我々に信じ込ませることにあり、更にはそのフィクション構造がリアルを表面化しているんです。


これは今作『TENET テネット』にも言えることで
自分自身を欺く構成となっている主人公を介して観客自らが誤解する形が取られています。


それではここから時間逆行するようにノーラン監督作を公開降順で語っていきます。




ダンケルク

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原題︰Dunkirk
製作年︰2017年
製作国︰アメリカ
配給︰ワーナー・ブラザース映画
日本初公開︰2017年9月9日
上映時間︰106分


解説

「ダークナイト」「インターステラー」のクリストファー・ノーラン監督が、初めて実話をもとに描く戦争映画。史上最大の救出作戦と言われる「ダイナモ作戦」が展開された、第2次世界大戦のダンケルクの戦いを描く。ポーランドを侵攻し、そこから北フランスまで勢力を広げたドイツ軍は、戦車や航空機といった新兵器を用いた電撃的な戦いで英仏連合軍をフランス北部のダンケルクへと追い詰めていく。この事態に危機感を抱いたイギリス首相のチャーチルは、ダンケルクに取り残された兵士40万人の救出を命じ、1940年5月26日、軍艦はもとより、民間の船舶も総動員したダイナモ作戦が発動。戦局は奇跡的な展開を迎えることとなる。出演は、今作が映画デビュー作となる新人のフィオン・ホワイトヘッドのほか、ノーラン作品常連のトム・ハーディやキリアン・マーフィ、「ブリッジ・オブ・スパイ」でアカデミー助演男優賞を受賞したマーク・ライランス、ケネス・ブラナー、「ワン・ダイレクション」のハリー・スタイルズらが顔をそろえた。第90回アカデミー賞では作品賞ほか8部門で候補にあがり、編集、音響編集、録音の3部門で受賞している。2020年7月、クリストファー・ノーラン監督の「TENET テネット」公開にあわせ、IMAX、4D、Dolby Cinemaでリバイバル公開。
ダンケルク : 作品情報 - 映画.comより引用



『ダンケルク』はノーラン監督が今まで見せてきた作家性の中でも革新的な特徴があります。
それが、同時系列と思わせる偽りの時間構造の中に異なった時系列という真実を隠していること。

これは今作『TENET テネット』でも応用として遺憾なく発揮され、時間逆行という時系列を順行する時系列の中で同時に描くという演出が成されている。

冒頭から見せられる違和感、順行する時系列の中で謎の逆行が起こっているという偽りの時間軸に未来からの時間逆行という真実を隠していたことになります。


ノーラン監督が過去作で徹頭徹尾描いてきた時系列をいじる演出、技術が文字通り一つの映像に集約され、詰め込まれている素晴らしい完成度と言えるのでないでしょうか。

予告にもありますが、走行する車の目の前で横転した車が逆再生したかのように元に戻るシーンは一番アガりましたね。
『TENET テネット』はノーランの作家性が爆発した作品であることは間違いないですね。


また、『ダンケルク』に関して言うとディテールに拘った本物志向はここでも発揮されています。
後述しますが、この本物志向は『フォロウィング』から拘っているノーラン監督の特徴のもう一つでもあります。

観客が戦場にいるかのような疑似体験を促す『ダンケルク』のように、時間逆行という摩訶不思議な体験を主人公目線で体感すると『TENET テネット』は物凄く引き込まれるのではないだろうか。




インターステラー

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原題︰Interstellar
製作年︰2014年
製作国︰アメリカ
配給︰ワーナー・ブラザース映画
日本初公開︰2014年11月22日
上映時間︰169分
映倫区分︰G


解説

「ダークナイト」「インセプション」のクリストファー・ノーラン監督によるオリジナル作品。世界的な飢饉や地球環境の変化によって人類の滅亡が迫る近未来を舞台に、家族や人類の未来を守るため、未知の宇宙へと旅立っていく元エンジニアの男の姿を描く。主演は、「ダラス・バイヤーズクラブ」でアカデミー主演男優賞を受賞したマシュー・マコノヒー。共演にアン・ハサウェイ、ジェシカ・チャステイン、ノーラン作品常連のマイケル・ケインほか。「ダークナイト」や「インセプション」同様に、ノーラン監督の実弟ジョナサン・ノーランが脚本に参加。撮影は、これまでのノーラン作品を担当していたウォーリー・フィスターが自身の監督作「トランセンデンス」製作のため参加できず、代わりに「裏切りのサーカス」「her 世界でひとつの彼女」などを手がけて注目を集めているホイテ・バン・ホイテマが担当。2020年9月には、クリストファー・ノーラン監督の「TENET テネット」公開にあわせたノーラン監督作のリバイバル上映企画「ノーラン夏祭り」の第4弾としてIMAX版でリバイバル公開。
インターステラー : 作品情報 - 映画.comより引用


『インターステラー』は宇宙というフィクションを介して愛という真実を手繰り寄せる物語

当初はスティーブン・スピルバーグが監督を担当する予定してて、ジョナサン・ノーランに脚本を依頼したが実現せず。
それに興味を示していた兄クリストファー・ノーランが引き継いだらしい。



いやはや、この映画は大好きですね。
『インターステラー』はノーラン過去作の良いところ取りみたいなところがあるんですよ。

物語の核が『バットマン ビギンズ』のように父と子の関係性であり、一般相対性理論とワームホール理論による時系列からの逸脱は『プレステージ』のマジックから。
意識と時間の混濁は『フォロウィング』や『インソムニア』から『インセプション』を経て今作『インターステラー』へ。

また、記憶の頼りとなる小物を使った演出は『メメント』と重なるところも。
ノーラン監督の作家性が反映されているのは間違いなく、愛というテーマも実にノーランらしい。



今作『TENET テネット』と比較するなら
『TENET テネット』は未来というフィクションを介して友情という真実を手繰り寄せる物語でもあり、また男女や親子の愛を副題として未来(終焉)へと向かう世界を変える物語でもある。

また、理論的なものを理解しなくとも楽しめる娯楽作でありながら、理屈を超える物が人の感情であることも共通する点ではないでしょうか。



時系列の観点から見ると、惑星によって時間の進む早さが異なる。
ミラーの星での1時間は、地球での7年に相当する。
つまり、ミラーの星にいれば1時間経っても1時間しか経過しませんが、地球から観測した場合には7年の時間を要するということ。

この時間差を順行と逆行というそれぞれ相反する世界での時間軸で表しているのが今作『TENET テネット』ですね。
惑星間のように順行の世界と逆光の世界、どちらの観測地点から見るかで時間の流れ方が変化する。




ダークナイト三部作

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原題︰Batman Begins
原題︰The Dark Knight
原題︰The Dark Knight Rises
製作年︰2005年/2008年/2012年
製作国︰アメリカ
配給︰ワーナー・ブラザース映画
上映時間︰140分/152分/165分


解説

DCコミックスの人気キャラ「バットマン」の新作。両親を目の前で殺された大富豪ブルース・ウェインが、いかにしてバットマンとなり、悪と戦うに至るかを描く。監督は「メメント」「インソムニア」のクリストファー・ノーランで、キャストにはクリスチャン・ベール、マイケル・ケイン、リーアム・ニーソン、モーガン・フリーマン、ゲイリー・オールドマン、渡辺謙ら演技派が集結。
バットマン ビギンズ : 作品情報 - 映画.comより引用

DCコミックスの人気ヒーロー、バットマンの誕生を、クリストファー・ノーラン監督&クリスチャン・ベール主演で描いた「バットマン ビギンズ」の続編。ゴッサム・シティに現れた史上最悪の犯罪者ジョーカー。バットマン=ブルース・ウェインは、協力するゴードン警部補や新任地方検事ハービー・デントらとともにジョーカーに立ち向かうが……。2008年に製作・公開され、全米で当時歴代2位となる5億ドルを超える興行収入を記録し、全世界興収も10億ドルの大ヒットを記録。重厚かつ圧倒的なリアリティで支持を集め、第81回アカデミー賞にも8部門にノミネートされるなどコミック原作映画の歴史を塗り替えた一作。なかでも「悪のカリスマ」と呼ばれるジョーカーを演じたヒース・レジャーは撮影直後に急逝するが、本作が公開されるとその演技が絶賛され、アカデミー助演男優賞を受賞した。2020年7月、クリストファー・ノーラン監督の「TENET テネット」公開にあわせ、IMAX版と4D版でリバイバル公開。
ダークナイト : 作品情報 - 映画.comより引用

クリストファー・ノーラン監督による「バットマン ビギンズ」「ダークナイト」に続くシリーズ完結編。「ダークナイト」から8年後を舞台に、ゴッサム・シティを破壊しようとする残虐な殺し屋ベインと戦い、謎に包まれたキャット・ウーマン/セリーナ・カイルの真実を暴くブルース・ウェインの姿を描く。主演のクリスチャン・ベールのほか、新キャストとしてアン・ハサウェイやノーラン監督の前作「インセプション」にも出演したトム・ハーディ、ジョセフ・ゴードン=レビット、マリオン・コティヤールらが参加する。
ダークナイト ライジング : 作品情報 - 映画.comより引用



『ダークナイト』三部作に関しては続編ということもあり、一貫したテーマは同じです。
なので、三作纏めて語らせいただきます。



ヒーローものにおいて、法は正義の実現のための必要十分条件ではないということ。
だからこそ、法では裁けない、法の外側で正義の行動を行う例外的な人物がヒーローたるものだと。

その例外が、例えば空を飛ぶ能力であったり、素早く動けたり、スーパーマンとフラッシュマンのことなんですが。
そんな超人的な力を持っていることがヒーローとされがちなんです。

『ダークナイト』三部作では、ヒーローというのはどういうものなのか?をノーラン監督は非常に巧みに描いてます。



『バットマン ビギンズ』でのバットマンはどうか。
バットマンはヒーローそのものがフィクションなんです。
そもそもこの作品は、元々バットマンを正義と悪の境界線に立たせて現実的に描くことを目的とされていたそうです。
バットマンの正義は超法規的な暴力であり、これは次作『ダークナイト』で主題化されています。

バットマンは幼少期に井戸に落ちてコウモリに襲われる。
ブルース・ウェインは『スパイダーマン』のピーターパーカーのようにコウモリに噛まれてバットマンの能力を手に入れたわけではない。
ヒマラヤで訓練に耐えて鍛え上げられた肉体がヒーローとしての能力として活かされれているだけ。
ヒマラヤでの訓練での忍術と同様に特殊武器も自分の強さを偽る演出のひとつであり、その演出の中に真実の強さを隠す。

マスクを被る行為も自らにフィクションを作り上げる。
バットマンがコウモリの姿を偽るのも、敵にも幼少期に受けたコウモリの恐怖心を体験させるためであり、黒を好む理由は身を隠すためとは別に自分の恐怖心を包むため。
ヒーローという偽りのアイデンティティはブルース・ウェインという人物のアイデンティティを覆い隠す真実なんですよ。



『ダークナイト』ではバットマンとジョーカーの対立を介して英雄的行為と犯罪行為の二面性、秩序と破壊を描いているわけですが。
どうしても犯罪行為側、ヒース・レジャー演じるジョーカーのインパクトが強く悪役に目が行きがちだが本質はそこではないと思う。

もちろんジョーカー大好きなんですが、この映画の主役はあくまでもバットマン。
ヒーローは嘘をつかなければならないということが根底にある。

バットマンというヒーローが自らに課すフィクション、『バットマン ビギンズ』にも記述しましたがマスクで正体を隠すなどのフィクションからの脱却(マスクを取って素顔で英雄を名乗ることなど)は不可能だと言っているようにも思えるんです。
この『ダークナイト』の結末が全てを語ってます。

バットマンを闇の騎士として描くことで、バットマン自身の公衆での評価や認識が180度変わってしまう。
この結末を描くことによって、再びバットマンが現れた時、その行動が正義か悪か、英雄的行為か犯罪行為の区別ができなくなる。
その二面性を同時に我々観客に認めさせることになるんですよ。
それが真実と虚偽の融合なんです。



これは『ダークナイト』とほぼ同時期(2008年)に公開されたジョンファブロー監督作『アイアンマン』と比較するとわかりやすい。

アイアンマンの場合、恐らく英雄的行為がたとえ法を犯す超法規的な暴力であっても劇中で肯定される。
ひとつの大きな要因はトニースタークという人物の認知とアイアンマンが絶対的ヒーローとなるから。
正義のために必要であり、だからこそ正当化され、それがなければ正義が悪に打ち負かされてしまうという保守的とも取れる形を取らざるを得ない。
MCUに関しては後にルッソ兄弟の『シビル・ウォー』でその辺に言及される形になるんですが。

それを踏まえた上で、バットマンは『バットマン ビギンズ』でのリーアム・ニーソン演じる悪役ラーズ・アル・グールや『ダークナイト』のヒース・レジャー演じるジョーカーとの対比にもなる。
バットマンは正義のために法を犯す超法規的な暴力も正義として行使する。
ラーズは大義名分のために己の正義のために犯罪行為を行う。
ジョーカーは法と犯罪の間にある不均衡な部分、言わば犯罪は法律という牢獄に囚われた服従の悪であり、それに抗うものとして一般人から切り離されたヒーローという存在とは真逆の存在として描かれる。

また何度も言いますが、バットマンはヒーロー、主にマスクというフィクションで自分というアイデンティティを覆い隠している。
一方でジョーカーはDNAや指紋の記録もなければなんの情報も持たない。
彼は自らの正体を巧みに隠しているのではなく、隠すべきアイデンティティがないことを示して、バットマンとの対比を描いているんです。



『ダークナイト ライジング』はデントの死から8年後、受刑者の仮釈放しか認められないデント法が施行され悪が一掃された街を描いたもの。
つまり闇の騎士ダークナイトであるバットマンはこの街に必要とされていないわけです。

今作はそんなバットマンが再びダークナイトとして立ち上がる話なんですが
一作目をヒーローの誕生
二作目を悪を描いた犯罪ドラマ
とするなら、この三作目は都市の無秩序を描いた災害ドラマであり、ブルース・ウェインの人生の再生譚でもある。
悪役のベインは災いという意味があります。
バットマンとジム・ゴードンの嘘の上に築かれた嘘で固めた勝利、偽りの平和が崩れ、真実が明らかとなる。



僕が思うに『ダークナイト』三部作が積み重ねてきたヒーローの持つフィクションは徹底されていると思います。
そして、その虚偽が暴かれた時、バットマンが行ってきた正義、つまりは真実が公になる。

劇中のブルース・ウェインの「誰でもバットマンになれる、マスクを被れば。」というセリフと
ベインの「必要悪だ。」というセリフの対比。
つまりは、正義という定義は曖昧であり、悪という定義は明確であるということ。



三部作を語ったので少し長くなりましたが、今作『TENET テネット』でも同じことが言えるんですよ。

悪とされるケネス・ブラナー演じるセイターは世界を終焉に導く絶対悪として明確に描かれている。
一方で、その悪に立ち向かうヒーローのポジションである主人公は名も無き男、そして「TENET(主義、信条)」という言葉とその組織の曖昧さ。

バットマンはマスクを被ることで自分自身にフィクションを課せていました。
今作『TENET テネット』では自身の正体を隠すことで過去の自分へフィクションを課せて真実を隠しているんです。




インセプション

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原題︰Inception
製作年︰2010年
製作国︰アメリカ
配給︰ワーナー・ブラザース映画
日本初公開︰2010年7月23日
上映時間︰148分
映倫区分︰G


解説

「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督が、オリジナル脚本で描くSFアクション大作。人が眠っている間にその潜在意識に侵入し、他人のアイデアを盗みだすという犯罪分野のスペシャリストのコブは、その才能ゆえに最愛の者を失い、国際指名手配犯となってしまう。そんな彼に、人生を取り戻す唯一のチャンス「インセプション」という最高難度のミッションが与えられる。主人公コブにレオナルド・ディカプリオ、共演に渡辺謙、ジョセフ・ゴードン=レビット、マリオン・コティヤール、エレン・ペイジほか。第83回アカデミー賞では作品賞をはじめ8部門にノミネートされ、撮影賞、視覚効果賞、音響編集賞、音響録音賞 と技術系の4部門を受賞した。2010年製作・公開。2020年8月には、ノーラン監督の「TENET テネット」公開にあわせ、IMAXおよび4Dでリバイバル公開。IMAXでは、「インセプション」公開10周年を記念してIMAXデジタルリマスター版で上映される。
インセプション : 作品情報 - 映画.comより引用



『インセプション』は人が最も無防備になる夢の中で、無重力や騙し絵トリックなど迫力ある映像や世界観と何層にも重なる緻密な構成を用いて観客を惑わし、何が本当の出来事かを推察させる。

つまり、我々観客は夢というフィクションの中で欲望という真実を追いかけているんです。


真実ではなく虚偽、現実ではなく虚構、フィクションである題材を主軸として登場人物、主に主人公を惑わす構成が、同時に観客自らが誤解する形で観客を騙す作品となってます。

これは後述しますが『メメント』の応用であり、今作『TENET テネット』にも通ずるノーラン独自の特徴でもあると思います。



インセプションというタイトル自体にも、本人のものではない嘘のアイデアを精神に植え付けるという意味を持ってます。
この作品も時間と夢の世界の複数構造が用いられ、意識や記憶といった精神にトラウマやアイデンティティをめぐらせる辺りもノーランらしくある。

また、時間軸の観点から見ても『インターステラー』の惑星間と同様に夢の世界と現実世界で時間の進み方が異なる点、これらについても『メメント』から受け継がれている時系列をいじるノーラン監督の作家性が生み出した世界観の一つ。




プレステージ

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原題︰The Prestige
製作年︰2006年
製作国︰アメリカ
配給︰ギャガ・コミュニケーションズ
上映時間︰130分


解説

「メメント」「バットマン・ビギンズ」のクリストファー・ノーラン監督が、クリストファー・プリーストの小説「奇術師」を映画化。19世紀末のロンドンを舞台に、ライバル関係にある2人の天才マジシャンが、お互いの意地とプライドを賭けて戦いを繰り広げる。主演のマジシャン2人にはヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベール。マジック監修はデビッド・カッパーフィールドが担当。
プレステージ : 作品情報 - 映画.comより引用



『プレステージ』は世間一般にはノーラン監督作の中ではあまり評価されていませんが、僕個人としては大好きな作品ですね。

『プレステージ』はマジックの3つの要素であるプレッジ(保証)、ターン(折り返し)、プレステージ(名声)、二人のマジシャンの其々異なる苦悩と犠牲、人生が3つのパートで構成されている。

主にマジックを見せることで観客と登場人物を欺いていく。
これは先程から語っているように、主人公を介して観客自らが誤解する形式は一貫したノーラン監督のテクニックですね。


また、デビュー作『フォロウィング』と同様にフラッシュバック映像による回想形式で二重構造としても描いています。
『メメント』同様に主人公の記憶の混乱が結末の伏線にもなっていて、記憶の中で騙し騙される展開がサスペンスとして深みを与えています。

ノーラン初期作品から追いかけていた自分としては初期作の『フォロウィング』と『メメント』のノーラン要素がしっかり詰まっている度肝を抜かれた作品なんですよ。

この辺りから、ノーラン監督は自身の過去作を次の新作に活かしていること、過去の経験を踏まえた上で更なる成長を遂げていることがわかってくるんですよね。




インソムニア

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原題︰Insomnia
製作年︰2002年
製作国︰アメリカ
配給︰日本ヘラルド映画
上映時間︰119分


解説

「メメント」のクリストファー・ノーランの長編第3作は97年の同名ノルウェー映画のリメイク。製作総指揮にスティーブン・ソダーバーグとジョージ・クルーニーが参加。白夜の季節のアラスカの小さな町で、全裸の少女の猟奇殺人事件が発生、ロサンゼルス警察のベテラン警部ドーマーと相棒は捜査に赴く。が、ドーマーは警察上層部から彼の内偵を命じられていた相棒を事故死させ不眠症に陥り、猟奇殺人犯は彼の弱みを知り取引きを申し出る。
インソムニア : 作品情報 - 映画.comより引用



さて、ここでノーラン監督作ワーストでもある『インソムニア』まで遡ってきました(笑)

世間一般としてもノーラン監督作の中では評価されていない作品ですが、この作品にもノーラン監督の作家性はしっかりあります。
ノーラン要素は薄めですが。



『インソムニア』は犯罪スリラーの形を呈し、捜査官自体が捜査の主体にも対象にもなるという構成を持つ作品です。

ミステリーやサスペンスに多い演出のひとつなんですが、捜査官側の視点から犯罪者側の視点へと切り替わるシーンがあります。

例えば僕の大好きな映画ジョナサン・デミ監督作『羊たちの沈黙』でもジョディ・フォスター演じる捜査官クラリスが、テッド・レヴィン演じる犯人ジェイム(バッファロー・ビル)を捜索する場面と、バッファロー・ビルが誘拐した女性を脅す場面が交互に映されます。

『インソムニア』では観客に対してオープニングでそのような映像の切り替えを見せて観客を欺きます。
オープニングというものは何も知らない観客に対して先入観を与える場面として最も優れていて、オープニングシークエンスは後に機能するというのは『メメント』でも証明済み。


これは今作『TENET テネット』でもありましたね。
オペラハウス襲撃の犯罪スリラーと見せかけて、実はTENETによる試験的なものであったことが明かされ、『インソムニア』同様に主人公自身が襲撃救助の主体にも対象にもなっています。


また、オーソドックスなサスペンスに見えるけど、不眠症という意識と記憶の混濁をテーマにしたあたりはノーランらしさがある。
この点は後のノーラン監督作品(主に『インセプション』)に活かされた設定だと思います。




メメント

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原題︰Memento
製作年︰2000年
製作国︰アメリカ
配給︰アミューズピクチャーズ
上映時間︰113分


解説

強盗犯に襲われて妻を失い、頭部を損傷し、約10分間しか記憶を保てない前向性健忘という記憶障害になったレナード。彼は、ポラロイド写真にメモを書き、体中にタトゥーを彫って記憶を繋ぎ止めながら、犯人を追う。実在するこの障害を持つ男を主人公に、時間を遡りながら出来事を描くという大胆な構成が話題を呼び、全米でインディペンデントでは異例のヒットを記録。監督は本作が第2作の新鋭、クリストファー・ノーラン。
メメント : 作品情報 - 映画.comより引用


『メメント』はノーラン監督を一躍有名にした代表作でもあります。
ノーラン監督を追いかけていこうと思ったのもこの作品から。


時系列を遡り自分自身を欺く構成となっている主人公の記憶自体に観客自らが誤解する。
主人公であるレナードが自分ででっち上げた事実を真実と思い込むように。

今作『TENET テネット』を鑑賞して、この『メメント』という作品がノーラン監督のやりたいこと、見せたいことの核であることは間違いないと改めて感じました。



と言っても騙しや偽りを巧みに利用する監督はノーラン以外にも沢山います。

例えば"どんでん返し"で有名なM・ナイト・シャマラン監督は、映画で描かれた現実を覆して意表を突く、トリッキーなエンディングを使います。
個人的にはシャマラン監督の本質は"どんでん返し"ではなく、"裏の裏を返して表を見せる手法"だと思っています。

つまり、シャマラン監督は真実(表)を隠した偽り(裏)を見せることで観客を騙し、その偽りを劇中でひっくり返すことで真実を表面化させている。
一方、ノーラン監督は予め真実は見せておいてその真実を偽りだと思い込ませた上で、本当の真実を見せる。

微妙な違いなんですがニュアンスは分かりますかね?


シャマラン監督作で最も有名な作品としては『シックス・センス』が挙げられます。
ネタバレになるので言及は避けますがシャマラン監督とノーラン監督、例えば『シックス・センス』と『メメント』を比較しても、『メメント』は映画が明らかにする真実の一部として偽りが組み込まれている。
『シックス・センス』は真実と偽りが独立しているんです。
※両作品の内容は全く異なります。


『シックス・センス』はそのオチである真実を知ってしまえば、映画がどのような偽りで構成されていたかを偽りの視点から再鑑賞時に確認することが出来る。
『メメント』では、真実にたどり着くためには偽りを辿らなければならない。
再鑑賞時にも真実と偽りの両側面から確認しなければならない。

偽りの中に真実が存在し、偽りを避けると真実から遠のいてしまうということ。



映画、劇中のフィクションを現実として提示することで観客を欺く。
映画という枠の外にある現実を忘れ、スクリーン上がリアルではなくフィクションであることを知った上で、映画の中にある現実を見る。
その没入感を利用し、フィクションの中のリアルを、偽りの中の真実を観客が自ら現実、真実と錯覚する。


もう一度言おう。

今作『TENET テネット』を鑑賞して、この『メメント』という作品がノーラン監督のやりたいこと、見せたいことの核であることは間違いないと改めて感じました。




フォロウィング

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原題︰Following
製作年︰1998年
製作国︰イギリス
配給︰東芝エンタテインメント
上映時間︰70分


解説

「メメント」で一躍世界で注目を浴びたクリストファー・ノーランが、約1年もの歳月をかけ、監督・脚本・製作・撮影・編集の5役を兼ねて作り上げた長編デビュー作。ロッテルダム映画祭をはじめ、世界各国のインディペンデント系映画祭で“ヒッチコックの再来”と讃えられた才能の原点がここにある。
フォロウィング : 作品情報 - 映画.comより引用



ノーラン監督作を時間の逆行と題して遡ってきましたが、いよいよ最後の作品となりましたね。


ここまで散々ノーラン監督を褒めちぎってきましたが、実際ノーラン監督は決して万能な監督ではないと思います(笑)
しかし、独自の世界観を作り出し観客を巻き込むセンスはあります。
それだけでなく本物志向に拘るからこそ、『メメント』で語ったようなリアルとフィクションの融合が成り立つのではないか?



この本物志向はデビュー作『フォロウィング』が圧倒的に際立っていると思います。
なぜなら、制作の過程で1年をかけ週末だけを使って作られた低予算映画だからです。
制作費も6000ドルと限られた中で、自然光や16ミリフィルムを使用し、素人の俳優を起用。
この本物志向、実物主義が画に説得力を齎す。


これは以前に僕がツイートした韓国映画における不味そうなご飯の話と同じです。
不味そうなご飯を不味そうに映しながら美味しそうに食べるからこそ、その画に説得力が生まれる。
僕がよく冗談混じりに言っている排泄映画の存在意義と必要性にも繋がるんですが、映画における排泄描写もそうです。
人は汚いものには蓋をするじゃないけれど、汚いものから目を背けがちで、だからこそ人にとって最も見られたくない汚物を見せることでその画は画力を持ち、リアルさ、説得力が生まれるんです。

つまり、映画という現実味のないフィクションの中でも本物を使用することによってフィクションがリアルさを帯びるわけですね。

僕は美しいものが美しいのは当たり前で、汚いものを美しく見せることが美徳だとも考えています。
ノーラン監督の本物志向はリアルなものをリアルに見せること、そして映画というフィクションの中でリアルさを追求することが美徳であるとも取れる。
『フォロウィング』に限らず、ノーランの本物志向、実物主義は今の時代、CGでも補える細部を現実の物で描くことでその画に画力を与え、圧倒的な説得力をもって我々に見せつけてくれる。



また、『フォロウィング』のオープニングでは真実に対する偽り、騙しを示しています。
例えば、誰か分からない人物の両手や箱など、様々な小物のクロースアップで構成されています。
クロースアップとは、対象物を画面いっぱいに撮影する事。
このオープニングが観客を惑わせることを目的としたシークエンスとして描かれます。

このようにノーラン監督の観客が惑わされ騙される構成はデビュー作『フォロウィング』でもしっかりと臭わせてはいましたが、その次作である『メメント』でそれを物にしたと感じられます。

言い換えれば、僕がノーラン監督を評価している部分が最も色濃く反映されているのがその『メメント』ということになるんですよね。
この『フォロウィング』を観たからこそ言えることなんですが。

そして、この『メメント』を経て作られたのが『プレステージ』と『インセプション』。
この三作がノーラン監督作の中でも最も作家性を体現させた作品であると思っています。
故に今作『TENET テネット』はある意味でこの三作を踏まえ、そこに『ダンケルク』等の他の作品の要素を応用し、作家性を爆発させた作品でもあるのかなあと思います。




終わりに

最後に『TENET テネット』の感想を書いて終わります。


『TENET テネット』は時間の逆行で物語を進行させる。
時系列をいじることで自分自身を欺く構成となっている主人公を介して観客自らが誤解する『メメント』の構成を設定に組み込み、それに加えて異なる時系列を同時系列のように描いた『ダンケルク』の応用。
ノーラン監督の作家性を濃密に昇華した作品と言える。

ノーラン監督の過去作、主に初期作では時系列をいじり、人の"記憶"の混乱を核として描いてきたが『TENET テネット』では無知であることを利用した騙しが施されている。
その欺き、虚偽は真実を曇らせ現実を突きつける未来の"記憶"であり、人から物へと対象が移ったことで描ける範囲が広がりを見せる。

時系列をいじる対象が人ではなく物へと移行したこと、例えば横転した車が元に戻ったり、落ちた弾丸が時間の逆行により掌に戻るなどは演繹的な判断が成され、それが『TENET テネット』の物語、原因と結果の相互関係に波及している。

良い意味でも悪い意味でもノーラン節全開。
ただ、設定をこねくり回した反面、主軸を単純化しすぎたせいで『インセプション』や『インターステラー』のように一つに集約するようなドラマ性が見られなかったことで割と散漫になってしまい、ラストシークエンスが薄味に感じてしまったことは否めない。

映画としては間違いなく面白いと言えるが、物語としてはつまらなかったのが残念です。



以上で、『TENET テネット』から過去作への時間逆行の記事を終わります。

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



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魂の孤独と世界への扉(「はちどり」ネタバレ考察)

目次




初めに

どうも、レクです。
どうもどうも。
今回はTwitterの映画垢で話題だけでなく、実際に映画館でもほぼ満席の韓国映画『はちどり』について語っています。


えー本来は大阪アジアン映画祭2020で3月頃に観られるチャンスがあったものの生憎チケットが完売で見逃し、一般上映も関東圏より数ヶ月遅れということもあり、上半期では観れなかった悔しさとともに4〜5か月の僕の想いを乗せた映画でもあるのです(笑)

ということで、観るのが遅くなってしまったこともあってある程度の考察が出回ってしまっていると思いますので、僕なりの視点とあまり考察されていない部分についてまとめてみました。

最後までお読みいただけると幸いです。



※この記事はネタバレを含みます、未鑑賞の方はご注意ください。




作品概要

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原題︰House of Hummingbird
製作年︰2018年
製作国︰韓国・アメリカ合作
配給︰アニモプロデュース
上映時間︰138分
映倫区分︰PG12


解説

1990年代の韓国を舞台に、思春期の少女の揺れ動く思いや家族との関わりを繊細に描いた人間ドラマ。本作が初長編となるキム・ボラ監督が、自身の少女時代の体験をもとに描き、世界各地の映画祭で数々の賞を受賞した。94年、空前の経済成長を迎えた韓国。14歳の少女ウニは、両親や姉兄とソウルの集合団地で暮らしている。学校になじめない彼女は、別の学校に通う親友と悪さをしたり、男子生徒や後輩の女子とデートをしたりして過ごしていた。小さな餅屋を切り盛りする両親は、子どもたちの心の動きと向き合う余裕がなく、兄はそんな両親の目を盗んでウニに暴力を振るう。ウニは自分に無関心な大人たちに囲まれ、孤独な思いを抱えていた。ある日、ウニが通う漢文塾に、不思議な雰囲気の女性教師ヨンジがやって来る。自分の話に耳を傾けてくれる彼女に、ウニは心を開いていくが……。
はちどり : 作品情報 - 映画.comより引用





社会情勢

1994年が舞台の今作『はちどり』。
この1994年という時代背景こそがこの物語のテーマを上手く機能させ、14才の主人公ウニの視点を介して、当時の韓国の社会情勢を描いているんですよね。


この物語の数年前、1988年開催のソウルオリンピックを終えて韓国の経済は安定期に入っていました。
1992年には、ソビエト連邦が崩壊。
朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は消滅し、金泳三政権は文民政権と呼ばれることになった。

また、韓国映画の民主化三部作と言われる『タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜』、『1987、ある闘いの真実』、『工作 黒金星と呼ばれた男』でも描かれたように経済成長と民主化を達成した"漢江の奇跡"の時代でもあります。






そうです、この時代の韓国は軍事政権時代の旧体制でもあった社会主義という体制が大きく揺らぎ、民主化という新体制と経済成長期の社会構造との板挟み状態にあった時代なんです。

韓国社会と思春期真っ只中にあるウニの不安定な心情が重なって描かれているという見方もできます。



そんな社会情勢と思春期の不安定さを加速させるように、劇中でも流れた1994年の朝鮮民主主義人民共和国の首相、金日成主席の逝去のニュース。
そして、1994年10月21日に起きた聖水大橋の崩落事故。

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事故当日の落橋現場

1977年4月に着工し2年後の1979年10月に完成した。ところが、わずか15年後の1994年10月21日に橋の中央部分がおよそ50メートルにわたって突然崩壊し、通行中の乗用車や漢星運輸(朝鮮語版)所属の16番市内バスなどが巻き込まれ32人が死亡し17人が重軽傷を負った。

聖水大橋 - Wikipediaより引用


この出来事は、1981年生まれのキム・ボラ監督自身も子供時代に体験したものでもあり、韓国の未来に対する不安感を煽る出来事でもあるんです。

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김보라 (영화 감독) - 위키백과, 우리 모두의 백과사전より引用



1981年生まれのキム・ボラ監督は、東国大学映像学科を卒業後、コロンビア大学院で映画を学ぶ。
2011年に監督として製作した短編映画『リコーダーのテスト』が各国の映画祭で映画賞を受賞し、注目を集める。

ちなみに今作『はちどり』はこの短編『リコーダーのテスト』で9歳だった主人公ウニのその後の物語だそうです。

タイトルとなった「はちどり」は世界で最も小さい鳥の1種でありながら、羽根を1秒に80回も羽ばたかせ、蜜を求めて長く飛び続ける鳥。キム監督は、希望、愛、生命力の象徴であるはちどりの姿が、主人公ウニと似ていると語っている。
韓国で異例の大ヒット! 90年代ソウルに生きる少女の青春と痛みを描くベルリン受賞作、4月公開 : 映画ニュース - 映画.comより引用



キム・ボラが映画を撮ったきっかけはアメリカの大学院に留学した時に「また中学校に三年間通う夢」を見たからだそうです。

中学生という時期は揶揄されることが多い。
日本や韓国では"中二病"、アメリカでも"八年生シンドローム"という言葉があり、理想化される一方で揶揄される。
そんな年齢に興味を示しているんです。

この映画を作って自身で追体験し、当時感じた問題と再度向き合った。
同時に、大人になっても同じように過去の問題を抱える人が多いことも知る。

またキム・ボラはこうも語っています。
「個人的なことと普遍的なことをどう見つめ、この時期の韓国社会をどのように捉えるか。
大きな絵を描きつつ、社会と個人を結びつける作品を作りたかったんです。」



ここが反映されたのがまさに聖水大橋の崩壊ですね。

ウニは家や学校で様々な崩壊を経験します。
この個人の精神的な崩壊と橋の物理的な崩壊、個人と社会が映画的に結びつく構造が非常に上手く作られています。



禅語と文学から見る物語

さて、本題に入っていきます。
まずは劇中で語られた禅語から話していきましょう。


・相知満天下知心能幾人

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「相知るは天下に満つるも、心を知るは能く幾人ならん」

「知っている人は何人もいるけれど、心から分かり合える人は多くはいない」
といった意味を持つ言葉で、これは千年も前の宋代の禅僧が詠んだ句だそうです。

恐らくこの言葉は鑑賞された方が誰しも印象に残った言葉のひとつだと思います。



この言葉を知ってから、家族、友達との関係を見つめ直すような出来事が立て続けに起こっていく。

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1990年代を舞台に自分と家族、自分と他人、はたまた今を生きる世界へと広がりを見せていく構造を持つ『はちどり』の物語。
実に現代的な言葉でありながら、この言葉はウニが最も自分を省みた瞬間、そして世界との関係性を感じた瞬間となっている。

14才の少女がそれまで意識しなかった自分と他人(=世界)を見つめ直すきっかけ。
そんな接点こそがこの言葉であり、この言葉を投げかけ、自分の言葉に耳を貸してくれる漢文塾の女性講師ヨンジの存在こそが自分の存在を感じることができる、自分と世界が繋がる実感として描かれているのだ。

それに加えて、恋人や友人に裏切られ、何故そのような言動に至ったのか訳も分からず涙を流す。
そんな苦い経験もまた、観客が自分の過去を振り返ってしまう瞬間なのかもしれません。


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一方で大人になった今、実際には子供の頃に、あの頃に戻りたいと願ったり、あの頃は良かったと美化することはあると思います。
しかし、キム・ボラ監督はインタビューで「子供時代は、耐える事が多くあまり良い思い出はない。」と語っています。

また、ウニだけでなく登場人物たちに自身を投影したと語っています。
ウニは中学生の自分、ヨンジは今の自分自身、そして父や兄は時に利己的となる自分の内在する部分。
ウニのボーイフレンドの優柔不断さ、ウニに好意を寄せる後輩の同性の人に惹かれた軽い気持ち。

その中でもウニとヨンジに一番愛情を感じ、物語の軸として機能している。



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このような監督の自己投影が、そして子供を社会的弱者として見せることで、我々観客が子供の頃に一度は経験したであろう"大人からの理不尽な抑制"とリンクして感情移入もしくは共感してしまうのだろう。





それから、韓国では家父長制がほとんどであり、家庭内で男性優位として描かれることが多い。
それは家庭だけでなく社会の体制であることは言うまでもない。
近年ではフェミニズム運動も果敢に行われており、転機にあることは間違いないでしょう。


そんな男性優位の家庭内でウニが頼れるのは同じ女性である母親の存在。
しかし、劇中で母の姿を見かけて何度も叫ぶも声が届かないといった描写が登場しますよね?

これはウニ自身が「自分は家族から愛されていない」といった不安に駆られていることを意味しているのではないでしょうか。


同時に、母親自身もウニの声が聞こえていない。
つまり家庭から外に出た時には母親ではなくひとりの女性であるというメッセージもあると思う。
決して娘を愛していないわけではない。
それでも自分の時間というものを大切にしたいのが人間というもの。

これこそ、母親が自分と世界を切り離した瞬間であり、自分と世界を繋げようとしているウニとの対比としても描かれている。


ウニが万引きで捕まり、店長がウニの父親に電話した際の父親の対応もまた「気にかけてもらえてない」といったウニの不安が募る。
兄からの暴力についても、両親からの叱咤ではない点がそうだろう。
対照的に父親に正面から叱られる姉の姿が、よりウニの家庭内での疎外感を際立たせている。

これらの不安はすべてが冒頭シーンに繋がる構成の凄さ。
むしろ、この映画『はちどり』の冒頭シーンこそがこの映画のすべて。



"何度呼びかけても反応がない=自分を見てくれていない"
そんな子供たちの孤独の反復が、"自分と他人(=世界)を分断する扉"として表現されているんですね。




一方で、男性たちが不意に泣き出すシーンも印象的で。

ウニの耳の下に出来たしこりの診察で病院に付き添った父親の涙。
聖水大橋の崩落後、食卓を囲む際に流した兄の涙。

これらは家父長制、男性優位である家庭で男性が弱さを吐露する瞬間なのだろう。



そう。
心から分かり合える人はいますか?

他人はおろか、たとえ家族であってもその真意は汲み取れないということなのです。
これもまた、自分と世界との分断を表しています。





・クヌルプの生涯の三つの物語

劇中で主人公ウニが手に取る書物『クヌルプ』。
ドイツの抒情詩人ヘルマン・ヘッセの作品です。

クヌルプ(新潮文庫)

クヌルプ(新潮文庫)



『クヌルプの生涯の三つの物語』は『早春』、『クヌルプの思い出』、『最期』の三部構成からなるクヌルプの漂白の人生が綴られたもの。

何故、ウニはこの書物を手に取ったのか?
それにはまず『クヌルプ』について触れなければならない。





【早春】

定職に就かない流浪の人、クヌルプが病気になり、慰安の場を求めて皮なめし師の家で暮らす。
その隣家に丁稚奉公に来ている娘とのエピソードが描かれる。
また、親方の細君に恋心さえ抱かせる。

『はちどり』との共通点として
主人公が病を患うこと。
恋をする相手がいること。
そして、他の人物から好意を抱かれること。
『はちどり』のウニにとっての慰安の場所は漢文教室であり、『クヌルプ』の娘にあたるのが漢文教室のヨンジ。


ここでクヌルプの信仰に対する言葉ある。

「何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。
そういうことはめいめい自分で考え出すほかないんだ。
本から学ぶことはできない。
これがぼくの意見だ。
聖書は古い。
昔のひとは、今日のひとがよく知っていることをいろいろとまだ知らなかったのだ。
だが、だからこそ聖書には美しいことりっぱなことがたくさん書いてある。
ほんとのことだってじつにたくさんある。」
『クヌルプ』より引用


ある意味でこれは真理だと思う。
人生とは知り得ないからこそ美化することもあれば核心を突くこともある。
それを他者から学ぶのではなく、自分で考え出すことで見えてくるのではないだろうか。


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『はちどり』のウニにとって、世界はまだまだ知らないことばかり。
他の家庭がよく見えたり、ヨンジという存在が憧れであったり。
それらを通して自分を省みるからこそ見えてくるものがあるのだ。



【クヌルプの思い出】

二章は主にクヌルプと友人の会話。
そこで語られるクヌルプの台詞がとても印象深い。

「人間はめいめい自分の魂を持っている。
それをほかの魂と混ぜることはできない。
ふたりの人間は寄りあい、互いに話しあい、寄り添いあっていることはできる。
しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれの場所に根をおろしている。
どの魂も他の魂のところに行くことはできない。
行くのには根から離れなければならない。
それこそ出来ない相談だ。
花は互いにいっしょになりたいから、においと種を送り出す。
しかし、種がしかるべき所に行くようにするために、花は何をすることもできない。
それは風のすることだ。
風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする」
『クヌルプ』より引用


とても詩的な台詞なのですが、要約すると人間の魂は孤独であるということ。


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これは『はちどり』においても共通する点であり、恋人や親友、好意を寄せてくれる相手に裏切られ、よりを戻したり戻さなかったり。
寄り添いあうことはできても、混ざり合うことはない。
ウニの心情も孤独な世界に閉じ込められたままなんです。

また、孤独であることを理解した上で自由に生きるためにはどうしたらいいのか?と世界に視野を広げているのです。
まさに今作『はちどり』のテーマと合致するんですよね。



【最期】

病に冒され死期を悟ったクヌルプが生まれ故郷に戻り、童心に帰って自身の気持ちを確認する旅が描かれる。
また、神と会話し、後悔の念を捨て去ってこの世を去る。

クヌルプは過去に初恋の女性に裏切られたことがある。
このエピソードがはじめて三章で語られるのですが、それが一章、二章のクヌルプの言動と繋がっていきます。

クヌルプの最期の言葉
「何もかもあるべきどおりです」

過去の裏切りも、病に伏せる今の現状も、すべてを受け入れること。
『はちどり』でもウニは何度も裏切られます。
そして、ヨンジという心の拠り所を失います。
それでもウニは受け入れていかなければなりません。
すべてを受け入れて生きていかなければならない。

これらを経験することによって、彼女の孤独な世界から扉は開かれ、世界が拡がりを見せたのだから。





さて、初めの問いに戻ります。
何故、ウニはこの書物を手に取ったのか?


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それは、『クヌルプの生涯の三つの物語』はキム・ボラ監督と『はちどり』の主人公ウニを繋げるメタ的な演出ではないでしょうか。


つまりこの書物は、 我々観客がこの映画『はちどり』を観て子供の頃を振り返るように、キム・ボラ監督にとって過去の自分を振り返り自己投影して作ったこの映画『はちどり』そのものなんですよね。




終わりに

如何でしたか?

個人の小さな物語は社会及び世界の大きな物語と繋がっています。
その逆も然り。
今作『はちどり』は韓国映画っぽくないと言われていますが、こういった構成は結構韓国映画に多いんですよね。

キム・ボラ監督はエドワード・ヤン監督作『ヤンヤン 夏の思い出』が好きだそうで、韓国映画っぽさがないのはエドワード・ヤンの作り出す世界観に影響を受けているのでしょう。
また、韓国映画監督では僕も大好きなイ・チャンドンが好きだということで、キム・ボラ監督は今後も追いかけていきたい監督の一人となりました。

冒頭で語った『タクシー運転手』の脚本オム・ユナも『マルモイ ことばあつめ』で監督デビューしています。
韓国でも女性監督の台頭は目覚ましいものがありますね。



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。

見えないものにこそ本質がある(「透明人間」ネタバレ考察)

目次




初めに

お久しぶりでございます。
どうも、レクです。

いやー本当にお久しぶりですね(笑)
コロナの影響もありますが、映画鑑賞の本数自体は減ってはいません。
が、なかなかブログを書く気力が湧かなくて停滞していました。
申し訳ございません。

また書きたいと思える映画を鑑賞した際にはマイペースにアップしていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。



さて、今回はリー・ワネル監督脚本『透明人間』について僕なりのひとつの解釈を語っています。

この記事にはネタバレが含まれています。
未鑑賞の方はご注意ください。




作品概要

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原題︰The Invisible Man
製作年︰2020年
製作国︰アメリカ
配給︰東宝東和
上映時間︰122分
映倫区分︰PG12



解説

「ソウ」シリーズの脚本家リー・ワネルが監督・脚本を手がけ、透明人間の恐怖をサスペンスフルに描いたサイコスリラー。富豪の天才科学者エイドリアンに束縛される生活を送るセシリアは、ある夜、計画的に脱出を図る。悲しみに暮れるエイドリアンは手首を切って自殺し、莫大な財産の一部を彼女に残す。しかし、セシリアは彼の死を疑っていた。やがて彼女の周囲で不可解な出来事が次々と起こり、命まで脅かされるように。見えない何かに襲われていることを証明しようとするセシリアだったが……。主演は、テレビドラマ「ハンドメイズ・テイル 侍女の物語」のエリザベス・モス。
透明人間 : 作品情報 - 映画.comより引用




本題

ということで、まずはTwitterに上げた感想から。




えー、今作『透明人間』はとても考察の余地がある、解釈の幅が広い作品だと思います。

なので、様々な考察が可能だと思うのですが、僕が今から考察する部分はほんの一部。
いつも(と言っても久しぶりの考察記事)のように簡単に掘り下げていこうと思います。



ラストのセシリアの表情の意図は?

ここが論点になるのですが、僕個人のひとつの解釈を単刀直入に言います。

すべてはセシリアの妄想からの計画的犯行なんだよ!!!

です。


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透明人間として現れる前の夫エイドリアンからのDVシーンは一切なく、またセシリア自身の夫に対する恐怖心は本物であったことから、夫からの暴力行為はセシリアの妄想で、逃亡に成功したが突然現れた透明人間の恐怖に怯えるもその透明人間を利用して夫を殺す計画を立てたと考えたわけです。





なぜそのような結論に僕が至ったのか?
そのためには、今作『透明人間』で監督、脚本を手がけたリー・ワネルについて少し語らなければなりません。



リー・ワネルといえば脚本家として有名な作品は多々あります。
まずは『ソウ』と同じくジェームズ・ワン監督とタッグを組んだ『デッド・サイレンス』から話していきますね。

『デッド・サイレンス』はある夫婦のもとに送り主不明の腹話術人形が届けられ、舌を切り取られた妻の死体が発見される。
そこからその夫が事件に巻き込まれていき、誰が何の為にこんなことをするのか…といった謎に迫っていくホラー映画。

この映画は『ソウ』ほどのどんでん返しがあるわけではないんですが、今作『透明人間』と通ずるところがありまして。
『デッド・サイレンス』の明確なネタバレは避けて言いますが、犯人の正体は謎のまま様々な怪奇現象が起こるんですよ。
で、実は真犯人なんていなくて個人への恨みのような負の感情に囚われた呪いが殺人をしていくって感じなんです。

『透明人間』においても、透明人間の犯人は正直なところ誰でもよくて、セシリアが夫に対する負の感情の蓄積(妄想を含む)から殺人に至ったと考えられるんですよね。



次に、リー・ワネルが脚本だけでなく監督として手がけた『アップグレード』についても今作『透明人間』と重なる点がありました。

『アップグレード』は妻を殺され全身麻痺となった男が最先端技術を駆使して復讐する話なんですが
今作『透明人間』も最先端技術を駆使した復讐劇という点で共通しているのかなあと。

ただ、今作『透明人間』は復讐劇ではなく妄想からの計画的犯行であると考えると、復讐劇の枠内で描いたAIと人間の共存やその世界観を利用してオチにした『アップグレード』のアプローチとは逆。

復讐劇の枠から出た夫婦間の関係性、『透明人間』ならではの世界観を利用したオチなんだと思えてくる。

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リー・ワネルが脚本担当した代表作『ソウ』に関して言うとワンシチュエーションを活かしたホラー演出、『インシディアス』のようなジャンプスケアのタイミングと使い分けの巧さ、『狼の死刑宣告』のように目の前で家族を殺される憎しみと復讐心。

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また、リー・ワネルは『ソウ』と同じように、タネ明かしのタネを劇中で予め見せておきながら観客を騙すのが巧いフェアな監督なんです。

そうなんです。(『ソウ』だけに)
彼は劇中で真実しか映してないんです、アンフェアなことは一切せずに観客を見事に騙してるんですよ!



今作『透明人間』では、そのタネ明かしのタネ、結論に至ったのには色々と理由があるのですが、具体的に掲示されたものが薬。

先程から言う"妄想"はここがキーポイントではないかと思います。
セシリアが避妊薬として飲んでいた薬ビンの中身は夫によってジアゼパムと入れ替えられていました。
所謂、精神安定剤や睡眠薬のようなものです。

しかし、この薬には鬱病を悪化させる副作用があるんですよね。


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セシリアが鬱病を患っていたとしたら、夫の暴力が仮になくても夫から逃げ出し追い詰められたような姿を見せられてもなんら不思議ではない。




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他にわかりやすいシーンで言うとこのシーン。

セシリアが精神病院に収監された時に透明人間も一緒についてくる。
で、警察官やらをなぎ倒すんですが、その時セシリアは座ったまま後ろにいるとか注意するだけなんですよね。

これは脱走の機会を窺ったとも取れるのですが、セシリアは透明人間の存在を可視化して、夫が透明人間であることを周りに信じ込ませようとしたのではないだろうか。

ここからセシリアの透明人間を利用した計画的犯行を匂わせてくるんですよ。




ということで、解釈が大きく分かれる部分をいくつか見ていくと


①劇中の抑圧や恐怖は現実か虚構か。

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夫からの暴力と束縛、そんな抑圧から逃げ出したセシリアが透明人間となった夫にストーカーされる恐怖。

これがこの物語の核となる部分ですよね?

でも、実は
夫からの暴力や束縛はなく、セシリアは鬱病によってそう思い込んでいる。
不安により逃げ出したセシリアを連れ戻すために夫は透明人間となって近づく(直接会えばセシリアが発狂するから)が、透明人間によって追い詰められるシーンすべてが真実ではなくセシリアの妄想を交えたものとして描かれている。


とも解釈できます。

ちなみに、夫が犯人だと確信するラストシーンの「サプライズじゃない」のセリフ。
これも透明人間による蹂躙が一部セシリアの妄想だと仮定すると犯人が夫でなくとも、犯人を夫だと思い込んでいるセシリアが「サプライズ」というセリフを聞いたとしても矛盾はないかと。




②透明人間の正体は?

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ここで、透明人間の正体が夫であるか夫の兄であるかがまた論点になります。

夫が犯人の場合、兄に罪をなすりつけて自分はセシリアと復縁できると考えるが、信じてもらえず殺される。

夫が犯人の場合、無実の夫が犯人だという思い込みで殺される。


セシリアの妹エミリーが目の前で殺されたことから、夫からの暴力を受けていたとした場合には透明人間の正体は夫である可能性は高い。
しかし、夫が暴行していたこと自体がセシリアの妄想だったとした場合、透明人間の正体は夫の兄である可能性が高い。

仮に犯人が夫ではなく兄であった場合、①の夫がセシリアを連れ戻すために透明人間となったということ自体が否定されてしまうのですが、行方を眩ませたセシリアを探し出せずに透明人間となった兄に監禁されていたとすれば辻褄は合います。


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また、前半の透明人間は夫であり、中盤以降の透明人間は夫を監禁して入れ替わった兄である可能性も考えられる。
なぜなら突然透明人間が暴力的になったからだ(笑)

いずれにしてもセシリアは夫が透明人間の犯人だと思い込んでいるので、セシリア視点のこの物語においてラストシークエンスの結末になんら違いはなく、犯人が誰であろうとセシリアにとっては然程問題はない。


とはいえ個人的には、上記に書いた『ソウ』から見たリー・ワネルの特徴からも、透明人間の正体は夫の兄であり、"『ソウ』の犯人は初めからそこにいた!"と同様に"初めから犯人は兄だった!"ので、そこにどんでん返し(兄が犯人?いや、真犯人は夫だ!的なもの)はないと思っています。

リー・ワネルは劇中に真実を映すので。




③ラストの表情は?

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この記事の結論に戻ります。
Twitterに上げた感想にも書いてますが

「心身ともに追い詰められる支配と暴力、そこから生じる精神的な崩壊は不可視の恐怖により強調される。」

つまり、劇中で掲示するリー・ワネル監督のタネ明かしを、"透明人間の不可視なものによって可視化される恐怖"をフィルターのように覆い隠し、我々観客を騙しているんです。

「この物語はセシリアが受けた抑圧への抵抗と復讐劇だぞ」と思わせんばかりに。


リー・ワネルが我々観客にネタばらしして、この物語自体が"セシリアの妄想からの計画的犯行"なんだと示したのがラストのセシリアの浮かべた表情なんです。

あの笑みは抑圧からの解放による被害者女性の"安堵の笑み"なんかじゃない。
計画的犯行を終えて満足した妄想女の"したり顔"なわけですよ。





『透明人間』は目に見えないものにこそ本質があって、セシリアの妄想と劇中で実際に起きている現実の交錯として観客がそれを"事実"だと誤認させられている構成になっていると思うんですよね。

「見えるのは、殺意だけ。」

このキャッチコピーは実は透明人間のことではなく、主人公セシリアのことを指す言葉だとさえ深読みしてしまうほどリー・ワネルの騙しに騙されて何が真実か全然見えてこない凄い映画なんです(笑)




終わりに

如何でしたか?

普通に考えれば夫の暴力や束縛から逃れた被害者女性の復讐劇なんですが、こういった解釈もできるんじゃないかな?ということでダラダラとひねくれた考察を並べました(笑)

今作『透明人間』はそんなに深読みせずに純粋に透明人間に襲われる恐怖とラストのスカッとする感覚を持って鑑賞を終える方が楽しいんでしょうが、鑑賞後のひとつの楽しみ方として色々と考察してみるのも面白いです。

というわけで久しぶりのブログ更新となりましたが、最後までお読みくださった方、ありがとうございました!



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(C)2020 Universal Pictures


恋しさとせつなさと心強さと(「オンリー・ザ・ブレイブ」ネタバレ感想)

目次




初めに

どうも、レクです。

今回は感想を書いてなかった映画『オンリー・ザ・ブレイブ』についてちゃんと語っておこうかと、この映画を選ばせていただきました。

タイトルはふざけてますが、内容は至ってマジメであります!

最後までお付き合いいただけると幸いです。



作品概要


原題︰Only the Brave
製作年︰2017年
製作国︰アメリカ
配給︰ギャガ
上映時間︰134分
映倫区分︰G



解説

「オブリビオン」のジョセフ・コジンスキー監督が、巨大山火事に命懸けで立ち向かった消防士たちの実話をもとに映画化した人間ドラマ。学生寮で堕落した日々を送っていた青年ブレンダンは、恋人の妊娠をきっかけに生き方を改めることを決意し、地元の森林消防団に入隊する。地獄のような訓練に耐えながら、ブレンダンはチームを率いるマーシュや仲間たちとの絆を深め、彼らに支えられながら少しずつ成長していく。そんなある日、山を丸ごと飲み込むかのような大規模な山火事が発生する。キャストには「ノーカントリー」のジョシュ・ブローリン、「セッション」のマイルズ・テラー、「クレイジー・ハート」のジェフ・ブリッジス、「ビューティフル・マインド」のジェニファー・コネリーら実力派が集結。
オンリー・ザ・ブレイブ : ポスター画像 - 映画.comより引用





感想

仕事と家族、信頼と愛情。
ダメな男のサクセスストーリーだけでなく、人生とは何か、命の尊さについても真摯に語りかけてくる。

人々を守るために危険な仕事の任務に就く。
しかしそれが、愛すべき家族との乖離を生んでしまう皮肉。
そして、森林の火災と生命の灯火という対比が自然の非情さを突きつける。


タイトル『オンリー・ザ・ブレイブ』。
勇気と無謀は違う。
唯一無二の勇気とは家族や友人、愛すべき人々を守る強さ。

犠牲の上に成り立つ命はない。
助けられる命も助ける命も同じ、かけがえのないものなんです。

ブレンダンが背負うものが大きすぎて観ているこっちまでもが辛くて苦しい。



以下、ネタバレあり駄文です。





考察

劇中のある2つの台詞が後に僕の心を掻き乱すこととなる。



一つはエリックの妻が言った台詞。
"相手との関係で人は変われる"


善し悪しに関わらず、人というのは誰かに影響を与え、そして影響されるもの。

子供ができて更生するために森林消防隊員となったブレンダンはエリックと出会い変わり始める。
そんなブレンダンを若い頃の自分と重ねてしまうエリック。
この師弟にも似た関係がエピローグに繋がるんです。


ここで言う関係というのは何も直接的に接することが全てではない。
例えばSNSでの発信、投げかけられる言葉ひとつでも誰かに影響を与え、影響されるものです。

それは映画も然り。
映画が人に与える影響も必ずあります。


何度かTwitterでもお話したことがある持論なのですが
僕にとって映画はあくまで娯楽であり"映画は人生"といった大それた事は言えません。
それでも、"自分のための映画だ"と感じたり"価値観を変えてくれる映画"は存在します。

そういった映画と出会えた時、映画鑑賞が趣味で良かったなと素直に思えるのと同時に、映画が娯楽という枠を超えた瞬間でもあるんですよね。

映画との関係性、向き合い方ひとつで
今作「オンリー・ザ・ブレイブ」がこの映画を観た誰かの仕事観、家族観、人生観を変えるかもしれない。



もう一つの台詞はエリックの言葉。
"人は時に誰かの問題でも自分に重ねてしまう"


物語の大半は消防隊員の日常が描かれます。
主にエリックとブレンダン、二人の男の仕事と家族の両立への苦悩や葛藤です。

観客である我々はそんな日常、言い換えるなら映画的ドラマを通して、隊員たちの人生を追体験させられる。
だからこそ、残された遺族、そして唯一生き残ったブレンダンのサバイバーズ・ギルトに対して感情移入させられるのです。

もうこのシーンはずっと号泣ですよ。
溢れ出す涙を止めることができませんでした。


改めてもう一度言おう。
"人は時に誰かの問題でも自分に重ねてしまう"

映画として描かれる劇中の登場人物が抱える問題に観客が重ねてしまう。

この台詞とこの映画の本質が見事にリンクするんですよね。
"実話に基づく映画"としては100点満点なのではないか?


これも持論なのですが
映画とは客観的に観るものだと思うんです。
なぜなら第四の壁と呼ばれるものがスクリーンと観客の間には必ずあるから。

映画によっては劇中の登場人物が観客に向かって台詞を語るといった謂わば第四の壁を破る演出もしばしば見られますが、基本的にはスクリーンと観客の間にはフィクションとリアルといった明確な一線があります。

ただ
客観視していたものが主観に変わる瞬間、フィクションとリアルの境界線を濁す映画作品があるのも事実。

感情移入が最も近い感覚だと思うのですが
リアルにいる自分がフィクションの中にいる登場人物と同化する瞬間というものがあったりするんです。

そういう映画って鑑賞中に心を揺さぶられるだけでなく、鑑賞後に余韻に浸ったり、帰宅して、数日が経ってふと反芻したり。
いつまでも自分の中に留まり続けるんですよね。


少し話が逸れたので戻しますが
このエリックの台詞が正しく僕そのものだったんです。
めちゃくちゃ共感しちゃって鑑賞後になんかグッときちゃいました。




今作『オンリー・ザ・ブレイブ』は上記でも述べた通り、消防隊員たちの日常ドラマが主軸です。
特にブレンダンとその家族よりもエリックとその妻の関係性が強く描かれていたように思います。


エリックが何故ブレンダンを雇うことにしたのか。
何故子供は作らないと頑なに拒んでいたのか。
何故ブレンダンの退職を素直に認めなかったのか。



エリックが生きてきた人生を深読みしてしまいそうになるこの構成をラストの火災が一気に全てを飲み込んでしまうんですよね。
今まで散々やってきた迅速だと評価されるほど鍛え抜かれた訓練ですらも無意味になるほど。

他人事で非常に申し訳ないのですがあえて言わせていただくと
この喪失感って、命が失われる儚さそのものなのでは?
とさえ思ってしまう。


改めて冷静になって見てみると
喪失感の後に来る虚無感が、クライマックス後の遺族やブレンダンに感情移入させやすくしたのではないか?と思えてくるんですよ。


そして、これが実話である。
つまり、現実に失われた命がそこにあったという事実がじわじわと追い打ちをかけるように襲ってくる。

もし仮に、ここまで計算されて作られた映画の構成だとしたら、この映画は本当に"実話に基づく映画"としては100点満点なのでは?(二回目)




終わりに

少し持論も交えながら語りましたがとても良い映画でしたね!
ということで、まだ何の映画にするか未定ですが次回もよろしくお願いいたします。

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2017 NO EXIT FILM, LLC

‪神の沈黙という声(「沈黙 -サイレンス-」ネタバレ感想)

目次




初めに

どうも、レクです。
皆様、如何お過ごしでしょうか?
私は元気です。

今回はマーティン・スコセッシ監督作『沈黙 -サイレンス-』について語っております。

よろしくお願いいたします。




作品概要


原題︰Silence
製作年︰2016年
製作国︰アメリカ
配給︰KADOKAWA
上映時間︰162分
映倫区分︰PG12



解説

遠藤周作の小説「沈黙」を、「ディパーテッド」「タクシードライバー」の巨匠マーティン・スコセッシが映画化したヒューマンドラマ。キリシタンの弾圧が行われていた江戸初期の日本に渡ってきたポルトガル人宣教師の目を通し、人間にとって大切なものか、人間の弱さとは何かを描き出した。17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したとされる師の真相を確かめるため、日本を目指す若き宣教師のロドリゴとガルペ。2人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという日本人を案内役に、やがて長崎へとたどり着き、厳しい弾圧を受けながら自らの信仰心と向き合っていく。スコセッシが1988年に原作を読んで以来、28年をかけて映画化にこぎつけた念願の企画で、主人公ロドリゴ役を「アメイジング・スパイダーマン」のアンドリュー・ガーフィールドが演じた。そのほか「シンドラーのリスト」のリーアム・ニーソン、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」のアダム・ドライバーらが共演。キチジロー役の窪塚洋介をはじめ、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシといった日本人キャストが出演する。
沈黙 サイレンス : 作品情報 - 映画.comより引用




感想

排他的で閉鎖的な江戸時代、日本の教科書に"踏み絵"という簡単な言葉で記載される禁教令、キリスト教弾圧の時代を背景に、原作者である遠藤周作が弱者救済という確固たる意図を持って書かれた作品。
神の沈黙と信仰心の揺らぎは、思想や信仰の在り方の多様性を肯定する。


上映時間に対して体感時間は短く、それだけこの世界観と重厚な雰囲気に惹き込まれたのだろう。
日本人だからこそ、この作品を観るべきではないでしょうか。

想像させる演出はあくまで想像の上でしか成り立ちません。
言葉や映像でわかりやすく演出してくれるスコセッシ節の技量が活かされる今作はしっかりと丁寧に描くことで事実を事実だと伝えることに重きを置かれていますね。


では以外、ネタバレ感想、考察となります。




考察

『沈黙 -サイレンス-』は冒頭にあったような唯一無二の信仰の押し付けではなく、現代にあった信仰の多様性の在り方を肯定した作品ではないだろうか。


各々の宗教の相違から分裂を生んだ4つの信仰の形。

教えを元に布教活動する者。
異教と化した宗教紛いに縋る者。
教えに対する裏切りと赦しを繰り返す者。
現実を受け入れ棄教した者。

それに対して、人間の苦難に沈黙を続ける神の存在。


沈黙とは、単に"黙っている"だけではなく、"意図として発言しない"ということを表しています。

そこには様々なメッセージが隠されています。
"神の沈黙"は上記で述べた4つの信仰の元では受け取り方に大きな違いが生じると思われる。




・ロドリゴと神

主人公であるロドリゴは「苦難を信徒達に与えるのか?」と現実と理想のズレに絶望し、神の存在を、信仰心の揺らぎを覚えます。

この絶望は踏み絵のシークエンスに繋がり、自分の信仰する西洋的な形(理想)を踏み絵という行為で背き、ある種のカタルシスを覚え、日本のキリスト教の在り方(現実)に向き合ったと解釈しました。
簡単に言えば、自分の描くキリスト像の変化を示しています。

この流れからも、ロドリゴが神の声を聞くシーンはただただ違和感しかありませんでした。
これはロドリゴ自身の内なる声であってもなかなか理解に苦しむ。

スコセッシの悪い癖と言いますか、わかりやすい表現、演出を見せるが故のあからさまな演出。
この作品において、このようなわかりやすい形での神の啓示や救いを見せるべきではなかったと思います(個人的な意見)。


ラストの火葬されるロドリゴの手に見えた十字架。
これは棄教した彼の最後まで貫いた信仰心を表していると思われる。
これはあくまで今まで信じてきたキリスト像ではなく、踏み絵後に描いた日本的キリスト像なのだろう。

このラストの些細なカタルシスが悲壮感や哀愁を齎せてくれる。
実際に、鑑賞した後の余韻は凄まじく、正にロドリゴは神が見えていたかのように哀しくも清々しさで満ち溢れていた。




・キチジローの立ち位置は?

注目した人物キチジロー。
彼はキリストにおけるユダ的な立ち位置なのか?

ユダとは、新約聖書の4つの福音書、使徒行伝に登場するイエスの弟子のうち特に選ばれた12人、いわゆる使徒の一人である。
ユダはイエスに対する信仰心を持たず、信仰告白と忠誠を誓わず沈黙しています。
しかし、一方で"ユダの福音"には、ユダは12使徒の中で最も信仰心が篤く素質があったとされています。

"ユダの福音"はグノーシス主義の考えが強く反映されており、精神と物質を善と悪として対置させるその根本的な思想に基づいて、イエスを捕まえ、悪である肉体から解放させた称賛すべき者としてユダを描いています。
実はキリストとユダとの間には常人には理解し難い信頼関係や愛があったのかもしれません。

キチジローは何度も裏切り、赦しを請い、人の醜さ、弱さを見せます。
この弱さは神を信じる信じないの中で最も人間らしかったとも言えるのではないでしょうか?
ユダはキリストを裏切る際に接吻をします。これは予め伝えておいた合図です。
キチジローも、何度も裏切り(接吻にあたる)神父に赦しを請います。
神父は告解を拒んではならない決まりがあるのを知っているからです。

そして、キリストがユダに言った台詞をロドリゴがキチジローに言わんとする描写。
キリストとユダが仮にも常人には理解し難い愛で繋がっていたとするのならば、ロドリゴがキチジローに対して諭した赦しも頷ける。
この事からもユダのメタファーではないかと推測されます。
ロドリゴの言葉がキチジローの存在意義であり、弱さの肯定に繋がると思います。


『沈黙 -サイレンス-』は遠藤周作が弱者救済という確固たる意図を持って書かれた作品で、彼の弱者への思いを汲み取れる描写ではないだろうか?
そういった意味でも、キチジローは作者自身を映し出す鏡のようなものではないだろうか。




・神の声について

劇場2回目の鑑賞で、無神論者である自分の価値観ではなく、あくまで客観視で見るとまた違った印象を受けました。

上記でも述べたように、1回目の鑑賞では神の啓示があからさまな描写だと指摘しました。
しかし、信仰心の揺らぎを覚え、"神の沈黙"に疑問を持ったロドリゴが本当に神の存在を信じることが出来たという描写の表れなんですね。


ロドリゴの踏み絵のシークエンスから。
彼が踏み絵を行った瞬間の「司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」について自分は仏教(日本における信仰概念)で輪廻転生を暗に意味していたと感じました。

朝が来るとは日の出。つまり、大日で日本における神の御子。
鶏の鳴き声は生まれ変わりを示唆します。
彼の中における信仰の変化ですね。


日本国における仏教の教えに諸行無常という言葉があります。
これは自然とは命あるもの。命あるものは儚くいずれは必ず消えてしまう。というもの。
そして、命あるものは生まれ変わる。輪廻転生です。

「山鳥の ほろほろとなく 声きけば
父かとぞ思う 母かとぞ思う」

行基菩薩の和歌の一句。

山鳥が鳴く声を聞いて、輪廻転生は人間だけでなくもしかすると父か母の生まれ変わりかと思う。という意味です。
これが今作『沈黙 -サイレンス-』では"鶏の鳴き声"にあたるのかなあと。

"山川草木悉皆成仏"という仏教の思想、みな平等で生けとし生きるものが寄り沿い合う"法華経"の世界観、"八百万の神"といわれるような日本の神々の思想が融合され、日本の仏教が形成されています。


このことからも、フェレイラの「自然の内でしか信仰を見出せない」という言葉が頷けます。
作中の自然描写、オープニングとエンドロールに常に流れる自然の音。
まさに核心をついた一言だと思いました。




自分の中でしっくり来たということは是非は兎も角として個人的に『沈黙 -サイレンス-』が語るメッセージを受け取れたということなのではないか?

あくまでもこれは個人的な見解なので答えではありません。
これこそ、まさに宗教の思想と同じではないでしょうか。

如何様にも取れる解釈と思想や信仰の在り方に正解は無いのです。




終わりに

ということで、ダラダラと語ってきましたが
まだちゃんと語っていない好きな映画は沢山あります。

新旧問わずTwitterなどで物足りなくなった時、このような形ではありますが発信させていただこうかなと思いますのでよろしくお願いします。

最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



(C) 2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

先へと歩ませるメッセージ(「メッセージ」ネタバレ感想)

目次




初めに

どうも、レクでございます。
最近、新作を観ていないこともありブログの更新頻度が著しく低下しているので、更新することを目的とした上で、自分の思考や映画から受け取った感想などを簡単に語っておこうと思い、書かせていただきました。

今回の記事はドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作『メッセージ』です。



作品概要


原題︰Arrival
製作年︰2016年
製作国︰アメリカ
配給︰ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
上映時間︰116分
映倫区分︰G



解説

「プリズナーズ」「ボーダーライン」などを手がけ、2017年公開の「ブレードランナー 2049」の監督にも抜擢されたカナダの鬼才ドゥニ・ビルヌーブが、異星人とのコンタクトを描いた米作家テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」を映画化したSFドラマ。ある日、突如として地球上に降り立った巨大な球体型宇宙船。言語学者のルイーズは、謎の知的生命体との意思疎通をはかる役目を担うこととなり、“彼ら”が人類に何を伝えようとしているのかを探っていくのだが……。主人公ルイーズ役は「アメリカン・ハッスル」「魔法にかけられて」のエイミー・アダムス。その他、「アベンジャーズ」「ハート・ロッカー」のジェレミー・レナー、「ラストキング・オブ・スコットランド」でオスカー受賞のフォレスト・ウィテカーが共演。
メッセージ : 作品情報 - 映画.comより引用



感想

先に言っておきますが、今作「メッセージ」は僕の劇場鑑賞2017年ベスト4です。



ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作の中でも上位に入るほど気に入っている映画ですね。


では早速、本題に入っていきます。



SF設定を非常に上手く使った人間ドラマであり、内容は濃密で綺麗に纏め上げられた傑作。
SFというジャンルにおいては今まで観てきた作品をも凌駕する圧倒的な完成度の高さ。

未知との遭遇、そんな得体の知れない何かへと接触を試みるまでの過程はもの静かでどこか不気味な音響と相俟って緊張感を高めてくれる。



そしてファーストコンタクト。
あえて無音にすることで息づかいや鼓動までもが聞こえてきそうな緊張のピークを非常に巧みに演出しています。

地球人が宇宙人と遭遇する作品はこれまでにも幾つもあります。
しかし、宇宙人の音声言語は必ずしも今の我々が理解できる言語とは限りません。
その音声言語を如何に表現し、未知の音声言語からどう意思疎通を図るのか。
細かく一から過程を描いた作品は珍しいのではないでしょうか?


以外、ネタバレありの駄文。




考察

さて、前置きでは未知との遭遇について記述しましたが、ここから本題へと入っていきます。


ヘプタポッドの使用する象形文字のような言語。
この文字が円形なのもまた、過去と現在と未来を繋ぐ輪のようなものを表している。

逆を言えば、彼らの言語は時間という概念を持たない。ということ。
それに触れることでルイーズは未来の映像を少しずつ見ることができるようになります。

それは時間という概念、束縛からの解放を意味しています。 しかし、これは過去や未来を変える力ではなく、あくまでも見ることができるだけの力。
言い換えるなら、新たな見方、視点、価値観、世界観を獲得したということに繋がるのです。


時とは不可逆的なもので過去も未来も変えられない。 そんなある意味、残酷な現実を突きつけつつも、新たな物事の向き合い方に気付かせてくれる。

現在、未来への価値や可能性を示唆させるこの作品は自分たちを先へと歩ませるメッセージだと思う。



とは言ったものの、自分に待ち受ける未来が悲しい結末だったとして、それを受け入れることは果たして可能なのだろうか?

ラストでルイーズはイアンと結ばれることを望みます。
離婚し、娘が病死することを知っていても。

いや、知っているからこそ、それまでのひとつひとつの幸せを選んだわけです。


人間というのは「こうしておけばよかった」「こうなりたい」など過去や未来に現在では手に入らないもの、後悔や理想を求めてしまういきものです。

過去は二度と変えられない。

一方、明るい話をするなら未来は変えられる可能性はある。
しかし、変えることができない事象があることもまた事実なのだ。

そんな期待を匂わせつつも、逃れられない現実を見せることで、その時間の価値に気付かせてくれる。

辛い現実が待ち受けていようとも、見方を変えれば家族と過ごす時間は大切なひと時は何物にも代え難い幸せなのだと改めて考え直させるものなのだ。

この事に気付かせてくれたもの。
それは紛れもなくヘプタポッドとの出会いであり、意思疎通できる言語、つまり"言葉"、コミュニケーションということ。


作中でもヘプタポッドの語彙が足らず"WEPON"と"GIFT"の言葉選び一つで危機的状況に陥りましたが、我々も同じように意味をちゃんと伝えなければ誤解が生じます。

しっかりと話し合い、コミュニケーションが取れれば共に理解し合えることもある。
それがヘプタポッドが人類に与えた"WEPON"なのだということ。

あくまで未来を見通せる力はその過程で得た結果であり、その根本はコミュニケーション能力、"言葉"にあると自分は思います。
そして、その"言葉"が齎すものが"愛"なのだと感じさせてくれる。

ルイーズの『もし未来が見えたら選択を変える?』 に対し、イアンは『いや、もっと愛を伝えることにする』と返答したのが正にこれです。 非常に綺麗な終わり方だと自分が思ったのもここなんですよね。



SF作品「インターステラー」
その作品でも愛は時空を超える唯一のもの。と表現されています。
圧倒的な映像美や近未来設定だけがSF作品ではない。


「メッセージ」もまた、愛をテーマとした美しい人間ドラマなんです。

あまりに圧倒された作品なので、自分の中で美化している部分はあるかもしれない。
この作品の"メッセージ"を全て汲み取れたとも言えないし、上手く言葉で表現出来ているかも疑問だ。

あえてここで一つだけ言うとするなら、自分はこの作品が好きだということです。



終わりに

ということで、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作「メッセージ」について簡単に語らせていただきました。


最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



© 2017 SONY PICTURES ENTERTAINMENT (JAPAN) INC. ALL RIGHTS RESERVED.

流動的な愛の相関(『タイラー・レイク -命の奪還-』ネタバレ感想)

目次




初めに

どうも、レクです。
今回は今話題の『タイラー・レイク -命の奪還-』についてさらっと語っております。

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題︰Extraction
製作年︰2020年
製作国︰アメリカ
上映時間︰117分


解説

「マイティ・ソー」「アベンジャーズ」シリーズのクリス・ヘムズワースが主演を務め、「キャプテン・アメリカ」「アベンジャーズ」シリーズの監督アンソニー&ジョー・ルッソ兄弟が製作、「アベンジャーズ エンドゲーム」などでスタントコーディネーターを務めたサム・ハーグレイブが初メガホンをとったNetflixオリジナル映画。誘拐された少年を奪還するべく敵だらけの街に潜入する傭兵の死闘を描いたサバイバルアクション。裏社会の危険な任務を生業とする凄腕の傭兵タイラー・レイクは、ムンバイで誘拐された犯罪組織のボスの息子を救出するため、ギャングが支配するバングラディシュのダッカ市街地に向かう。敵のアジトに単身突入したタイラーは少年の奪還に成功するが、街中のギャングたちから猛追を受ける。絶体絶命の状況の中、卓越した戦闘スキルを駆使して戦うタイラーだったが……。Netflixで2020年4月24日から配信。
タイラー・レイク 命の奪還 : 作品情報 - 映画.comより引用





父と子の物語

わたくし、アクションに疎いんです。

いきなり何を言い出すんだ?とお思いでしょうが、今回の記事ではアクション映画にも関わらずアクションについて言及することができません。

なぜなら、アクションに疎いから(笑)



ということで、アクションに関しては詳しい方の意見や感想を置き気になられた方が有意義だと思いますので割愛させていただきます。





では何を語るのか?

ざっとしか見られてないのですが、「ストーリーが平凡」「物語が薄い」などアクション映画でよくありがちな批評もチラホラあったので、この映画『タイラー・レイク -命の奪還-(以下タイラー・レイク)』は決してそんなことはないぞ!?と言いたいがために書かせていただきました。

反論とかそういうものではなく、僕は今作『タイラー・レイク』の物語に心を揺さぶられたので「平凡」や「薄い」とは決して思わないという意思表示だと思って読んでいただけると光栄です。






目を見張るほどのアクションの連続、そしてどうやって撮ったのか驚いてしまうカメラワークと長回し。
ここにやはり目がいくのですが、冒頭でも申した通り僕はアクションに疎いのでそれほど得意とするジャンルでもないんですよ。


しかしながら、アクションが凄いことはわかる(笑)
そんな凄いアクションもあってどうしてもストーリー部分で弱く映りがちなのですが、今作『タイラー・レイク』はしっかりとその物語部分にも感動を呼ぶ父と子の話があるのです。





傭兵として危ない仕事を引き受けるタイラーには妻と息子がいました。
病気を患い、幼くして命を落とした息子。
タイラーはそんな息子の死から逃げていたのです。


序盤の崖から飛び降りて水に潜るシーン。
タイラーはこうすることで気持ちを落ち着かせ、尚且つ息子のことを思い出していたんですね。



そんなある日、麻薬王の息子であるオヴィが攫われたことから、救出の任務にあたります。
共に逃げることでふたりはまるで父と子のような疑似家族の絆を深めていきます。

タイラーはオヴィを亡くした息子と重ね、命を救うことで息子への贖罪にも近い感情を抱くようになる。
また、オヴィもタイラーに助け出されることで、麻薬王ではない自分を守ってくれる父親像をタイラーに重ね合わせる。



この心理的な変遷が顕著に示されるシーンが、傭兵とタイラーが揉み合いになる場面です。

タイラーを救うため、オヴィは傭兵を射殺します。
その傭兵にも家族があり、そんな彼を射殺したことで麻薬王の父と自分自身を重ねてしまう。
また、父という存在を失うであろう彼の家族と自分自身とも重なってしまう。

やり場のない悲しみと罪の意識を抱いたオヴィに寄り添うタイラーもまた、家族を失った悲しみと罪の意識を抱く者。
そんなふたりの姿が胸を打つ。




原題の意味

原題『Extraction』

意味は色々ありますが、今作においては恐らく「抽出」という意味であろうと感じましたので、それを前提に話を進めていきます。



上記で記述しました。

序盤の崖から飛び降りて水に潜るシーン。
タイラーはこうすることで気持ちを落ち着かせ、尚且つ息子のことを思い出していたんですね。


このシーンは、今作『タイラー・レイク』のラストシーンと繋がります。
単純にタイラーとオヴィの心の繋がりとして解釈できる。



プールの高台から飛び降りたオヴィが水面に浮上した先にタイラーらしき人物が見えて幕を閉じます。


あ、タイラーは少年に撃たれて死んじゃってるんでこれはタイラーが生きてたよ!ってわけではないと思われます。
恐らく、オヴィの心の中にタイラーという父にも近い存在がいること、そして一度は息子から逃げたタイラーがオヴィを見守っていること、を視覚的に見せた幻影でしょう。

この点に関しては賛否あると思いますが、個人的にはいいんじゃない?くらいです。





話を戻しますが、原題の意味は「抽出」
今作『タイラー・レイク』では"水"がキーワードであることは間違いないですね。


ここで、Twitterに上げた感想を。


そうです、水と感情というものは一見無関係であるように見えますが密接な関係があるんですよね。



例えば、感情というものは表面的な部分でも表れます。
感動して"涙を流し"たり、興奮して手に"汗握る"など、感情によって体の水分が作用されることがある。
感情と水との間には共起関係があり、感情の起状と相関であると言えます。


また、勇気や愛が"溢れる"や不平を言うことを"零す"と言ったりしますよね。

こういった比喩は、水という身近なものを媒介とすることで第三者から見ても理解がしやすいという利点がある。
それから、イスラムにおいて水は体を清めることでもあるんです。



今作『タイラー・レイク』においても、何度も言うように視覚的に凄いアクションを見せられるとどうしても心理的に訴える物語は弱く見えてしまいます。


そこで、水を感情のメタファーとして組み込むことでアクション描写へのノイズにならず、観客の心へスッと"染み入る"ような物語になっているのではないでしょうか?

そして、ラストシーンはオヴィの悲しみと罪を"洗い流した"ことを意味するのではないでしょうか?



タイラーの抱く過去の悲しみと罪、それを抽出するオヴィ。
悲しみと罪を抱いてしまったオヴィから、それを抽出するタイラー。

"贖罪"であり"救済"である"流動的な愛の相関"が優しく僕の心を揺さぶったんですよね。




終わりに

と、さらっと感想を書きましたが
とりあえずこれだけは言っておきたい。

ゴルシフテ・ファラハニはいいぞ!!!



『バハールの涙』でも強い女性を演じておられます。



トイレで報復とか最高かよっ!

ゴルシフテ・ファラハニはいいぞ!!!



ということで(?)
Netflixオリジナルはダメだ!なんて言われたりしますが、本当にそんなことないんですよ。
掘り出し物は結構あるんです。
今作『タイラー・レイク』のような映画が作られたことで更に「Netflixオリジナルも捨てたもんじゃないよ!」と言えるのではないでしょうか?



最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。




Netflix映画「タイラー・レイク 命の奪還」


ギリシア神話から読み解く映画「籠の中の乙女」ネタバレ考察

目次




初めに

どうも、レクです。
映画館に行けないのでブログ更新の頻度も落ちてしまいましたが、今回は旧作の考察となります。

『ロブスター』、『聖なる鹿殺し』に続いてヨルゴス・ランティモス監督作『籠の中の乙女』について語っています。

ヨルゴス・ランティモス監督作品4作目の鑑賞となる今作『籠の中の乙女』。
考察記事を書かせていただいた2作とはまた異なった奇妙さ、変な映画でしたね(笑)

この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題︰Dogtooth
製作年︰2009年
製作国︰ギリシャ
配給︰彩プロ
上映時間︰96分
映倫区分︰R18+


解説

2009年・第62回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でグランプリを受賞し、10年・第83回米アカデミー賞では、ギリシャ映画として史上5本目となる外国映画賞にノミネートされたサスペンスドラマ。妄執にとりつかれた両親と純真無垢な子どもたちを主人公に、極限の人間心理を描く。ギリシャ郊外に暮らすある裕福な一家は、外の汚らわしい世界から守るためと、子どもたちを家の中から一歩も出さずに育ててきた。厳格で奇妙なルールの下、子どもたちは何も知らずに成長していくが、ある日、年頃の長男のために父親が外の世界からクリスティーヌという女性を連れてきたことから、家庭の中に思わぬ波紋が広がっていく。
籠の中の乙女 : 作品情報 - 映画.comより引用


ギリシア神話から読み解く

『ロブスター』、『聖なる鹿殺し』同様に、今作『籠の中の乙女』もギリシア神話との関係性から語っていこうと思います。






今作『籠の中の乙女』の原題は『DOGTOOTH(犬歯)』





劇中でも、厳格な父親によって犬歯が生えかわらなければ外に出てはいけないとされ、飼い犬のように厳しく躾けられた兄姉妹の姿が映し出されます。

他にも犬に纏わる話があるのですが、それは後述しています。



紀元前5~4世紀の古代ギリシアは元々、小さな独立国家でした。
『籠の中の乙女』では家族が住む豪邸が舞台であり、そここそがその独立国家、閉鎖的空間なのです。
そこでは父親が法律、この暮らしが当たり前であり、すべてなのです。


『ロブスター』ではカップルにならなければ動物に変えられてしまう施設。
『聖なる鹿殺し』では郊外の豪邸。
『女王陛下のお気に入り』では貴族の住む宮廷。

このように閉鎖的空間はヨルゴス・ランティモスの後の作品でも使われていますね。

また、これら3作もある規則によって主人公が縛られているのも今作『籠の中の乙女』との共通項ではないでしょうか?





『女王陛下のお気に入り』に関してはギリシア神話を絡めた考察をしていないので割愛させていただきますが、僕自身ヨルゴス・ランティモス作品をおよそ遡る形で観てきまして、ここで今作『籠の中の乙女』はギリシア神話と後の2作『ロブスター』、『聖なる鹿殺し』を繋ぐものを見出せたと思います。

あくまでも僕個人の見解ですが。



『ロブスター』ではテイレシアースの予言とオイディプース王の悲劇について主に語りましたが、オウィディウスの"変身物語"についての言及もしています。
その"変身物語"には女神アルテミスの裸を目撃したことから鹿に姿を変えられてしまうという話があります。

そうです、鹿といえば『聖なる鹿殺し』。
『聖なる鹿殺し』の考察では主に"イピゲネイアの悲劇"について語りましたが、そこでもアルテミスと鹿の話はさせていただきました。



今作『籠の中の乙女』ではその『ロブスター』、『聖なる鹿殺し』と繋がるオウィディウスの"変身物語"から"アクタイオーン"を絡めて考察をさせていただきます。

アクタイオーンは女神アルテミスの裸を見てしまったことで鹿に姿を変えられます。
その後に犬に噛まれています。

出ましたよ、犬。
実はこの犬たちは猟師アクタイオーンの飼う猟犬なんですよ。
アクタイオーンは女神の逆鱗に触れ、飼い犬に噛み殺されちゃうんです。


「飼い犬に手を噛まれる」とはこのことで。
日頃から可愛がっていて面倒を見ていた者から酷い害を受けたり裏切られることを意味する諺なのですが、本来は抵抗するための牙である犬歯が反抗の抑止力となっている矛盾点は今作『籠の中の乙女』でも皮肉となっています。

また、アルテミスの裸を見てしまったことは男性の抑えきれない性欲を象徴しているとも取れる。
今作『籠の中の乙女』でも性欲が唯一の外界との接触であり、それをきっかけに崩壊するきっかけでもある。

犬を使って狩る者が犬によって狩られるという悲劇。





『ロブスター』ではオイディプース王の悲劇。
『聖なる鹿殺し』ではイピゲネイアの悲劇。
今作『籠の中の乙女』ではアクタイオーンの悲劇。

まさにこれら3作は"ギリシア神話の悲劇を用いた三部作"と言っても過言ではない。


また、これら3作には他にも共通項があります。

『籠の中の乙女』は飼い慣らされた不自由さを模す犬。
『ロブスター』は選択の余地を奪われた先に待つ動物。
この映画における犬もまた兄の選んだ不自由さの表れ。
『聖なる鹿殺し』は命の不自由さを象徴する生贄。

付け加えるなら『女王陛下のお気に入り』では権力争いに縛られ身動きの取れない兎といったところでしょうか。


『籠の中の乙女』では外界を知らないという視覚的な制限。
『ロブスター』は神話(オイディプース王の悲劇)による物理的な視覚の去勢。
『聖なる鹿殺し』では目隠しによる実刑。

『女王陛下のお気に入り』では愛の所在を探る盲目の女王。


こう見ると、如何に今作『籠の中の乙女』がヨルゴス・ランティモスの作家性の原型であるかがわかっていただけると思います。





さて、『籠の中の乙女』の話に戻りますが
犬に纏わる描写がいくつかありましたね?


外の世界には猫という怪物がいるから危ないぞと血糊を付けたり、犬のように吠える練習をしたり。

冒頭の兄が体罰を受けるシーンもそうである。
まるで犬が主人の合図を待つように、モンダミンを口に含んで吐き出せないという「待て」が視覚的に演出されている。



『ロブスター』の考察で言及した"変身物語"のオウィディウスは他にも"恋の技法"を著作。
その冒頭にはこんな記述があります。

ピュリラの子(キュロン)は少年のアキレスを琴の達人に仕立てあげた。
そしてそのはげしい気性を、おだやかな(琴の)技術によって抑えつけてしまった。
[中略]
(アキレスの)手も、師の命があれば、すなおに鞭の前に差し出したではないか。
『恋の技法』より引用


古代ギリシアでも体罰は行われており、まるで犬の獰猛さを抑えつけられた飼い犬として躾けられているこの家族のように厳しいものでした。



近親相姦についても、ギリシア神話では多く登場します。

最も有名なものが『ロブスター』の考察でも言及した"オイディプース王の悲劇"
母親への愛から父親を敵対する、フロイトが提唱した"エディプス・コンプレックス"の語源にもなっています。

よくよく考えてみたら、この"エディプス・コンプレックス"は『聖なる鹿殺し』に通ずるところがありますね。
『聖なる鹿殺し』考察段階では全く気が付きませんでした(笑)





子どもたちの身体的発育が青春期に入ったことで外界との唯一の接触の兆しが見えた中、映画という外界を知ってしまった長女に激昂した父親が選択した行動は内界での性欲処理としての女性の提供。

今作『籠の中の乙女』での近親相姦は母親と息子という関係ではなく、長女と長男という関係。

『聖なる鹿殺し』の考察でも言及した"アウリスのイピゲネイア"同様、我が子を生贄に捧げたとも取れる。


また、おかしな話なのですが
ギリシア神話の主神たる全知全能の存在であり、人類と神々双方の秩序を守護、支配する神々の王であるゼウスは姉弟の近親相姦によって産まれた子。
そして、ゼウス自身も姉であるヘーラーと兄弟姉妹婚、多数の子を作っています。



井の中の蛙

ということで、ギリシア神話の考察を踏まえた上で余談と感想を語っていきます。


まず、この映画を観終わった後に出た感想がこれでした。

"井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る"



基本的には、"井の中の蛙大海を知らず"で使われることの多い諺。

「狭い世界に生きていて、広い世界のことを知らない」といった意味なのですが、それには続きがあります。

"されど空の深さを知る"
つまり、「狭い世界でなにか一つのことを突き詰めれば、その世界の深いところまで知ることができる」ということ。



今作『籠の中の乙女』は、僻地の豪邸という狭い世界で外界のことを何も知らない兄姉妹のおかしな生活を、定点カメラから観客である我々が覗き見る感覚の映画でした。

狭い世界にいるからこそ知ることができる世界。
そんな彼女らの世界を見ていたからこそ見えてくるこの家族のおかしな点。

あくまでもこの映画は犬歯をへし折って外の世界へと足を踏み出す女性の話なのですが、そこに付随する人生論なんですよね。




長男も長女も次女も「家を出るのは、犬歯が抜けた時」という両親の教えを信じている。

外界へ出ることの禁止に恐怖というメタファーを被せたこの"犬歯"をへし折った長女。
父の車のトランクに隠れて明朝に父が出勤する。

念願の外界。
しかし、その後に彼女の姿が一切映し出されない


外界に対する好奇心と恐怖心の葛藤か。
車のトランクだけがアップで切り取られるが、何も起こらない構図を見せて終幕する。





今作『籠の中の乙女』はドイツ映画『白いリボン』に似ている。

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概要を説明しておくと
第二次世界大戦前のドイツ、キリスト教によって厳しく育てられた子供たちがいる村が舞台。
その村において"普通"でないものを排除してモラルから逸脱していく…といったお話。

簡単に言ってしまえば、ナチスの体制と重なる映画なのですが
今作『籠の中の乙女』も同じように舞台である豪邸が世界、両親が全てであり、この生活が"普通"だとして育てられています。

謂わばアメリカのキリスト教原理主義が行っているホームスクールに近い。
外からの情報が我が子に悪影響を及ぼさない為の隔離なのですが、その異常さは隔離されている当の本人にとっては当たり前であり、外の世界が異常なのです。




外界の悪影響といえば正しく劇中で長女が観た映画。
そのハリウッド映画を観て影響を受けたことが窺える細かな演出もあります。


プールでの長女の台詞は『ジョーズ』の引用。
口を歪ませて行なうシャドーボクシングは『ロッキー』、ギリシャの民族音楽に乗せて踊るシーンは『フラッシュダンス』のオマージュ。

外からの影響力、映画の影響力、そして長女の父親に対する反乱の意志。
これらをそのワンシーンワンシーンの一瞬で分からせるヨルゴス・ランティモスの巧さ。




外に出たくても出られない。

犬歯をへし折ったその度胸も、外界への好奇心も、幼少から躾けられた教育(洗脳)の前では全く歯が立たないのだ。


ヨルゴス・ランティモス監督はインタビューでこう語っています。

「私が描きたかったのは、人の心を操作しようとすること、自分の意のままに何かを信じ込ませようとすることが、相手をどこまで極端に走らせてしまうかということです。
とても危険なことですよ。」


つまり、淡々と映し出されていたおかしな生活ではなく、このラストシーンこそが"純粋培養"の本当の恐怖なのではないだろうか?



終わりに

如何でしたか?

ずっと観なければならないと思いつつ先延ばしとなってました『籠の中の乙女』。
率直に割と好みな映画ではありましたね。

ただ、『ロブスター』や『聖なる鹿殺し』と比べるとインパクトに欠ける点はありますがヨルゴス・ランティモスの作家性と共通項を得られたことは自分の中でも大きな収穫となってます。




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完結にして連結(『ムカデ人間3』ネタバレ考察)

目次




初めに

いつもありがとうございます、どうもレクです。

先日、『ムカデ人間』でヨーゼフ・ハイター博士役を演じられたディーター・ラーザーさんがお亡くなりになったという訃報を目にし、書く予定のなかった『ムカデ人間3』の考察ブログを書くことを決意しました。

この記事は『ムカデ人間3』のネタバレは勿論のこと、シリーズ物ということで『ムカデ人間』及び『ムカデ人間2』もネタバレを含みます。
いずれも未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題︰The Human Centipede III (Final Sequence)
製作年︰2015年
製作国︰アメリカ・オランダ合作
配給︰トランスフォーマー
上映時間︰108分
映倫区分︰R18+


解説

人間の口と肛門をつなげるというショッキングな内容で話題を集めた問題作「ムカデ人間」シリーズの第3弾。暴動数、医療費、離職率が全米ワースト1になってしまった刑務所の所長ビル・ボスは、州知事から解雇通告を受けてしまう。囚人たちをうまく手なずけることができず困り果てていたビルに、忠実な部下ドワイトがあるアイデアを提案。それは映画「ムカデ人間」をヒントにしたもので、囚人たちに究極の罰と抑止力を与えるばかりか食費さえも節約できる夢のようなアイデアだった。ビルとドワイトは、500人もの囚人たちをつなげて「ムカデ囚人」を作り出そうとする。第1作でハイター博士役を演じたディーター・ラーザーが刑務所長ビル役を、第2作でマーティンを演じたローレンス・R・ハーベイが部下ドワイト役を演じた。第1作でムカデ人間の先頭をつとめた日本人俳優・北村昭博も登場。監督・脚本は前2作も手がけたトム・シックス。
ムカデ人間3 : 作品情報 - 映画.comより引用




過去作との比較

さて、本題に入る前に。
今回の記事では当ブログの過去記事についても触れておりますので、未読でしたら一度お目通しいただけると幸いです。



ということで、『ムカデ人間』の考察はほぼネタとなっております。
『ムカデ人間2』の考察は割とガチでやりました。

今回はどちらになるでしょう?





『ムカデ人間』シリーズ完結ということで、ネタも放り込みつつガチで考察にしていきたいと思います。
とは言えですね、困ったことに『ムカデ人間3』は前2作に比べると本当にキツい内容なんですよ。

あ、描写が、ではなく映画的に(笑)

強調するなって話なんですが、端的につまんないんです。
が、そこにこそ魅力を見出してこその『ムカデ人間』好きではないのか?
と自身を鼓舞して書いていきます!!!



今作『ムカデ人間3』にも『ムカデ人間』の博士役、ディーター・ラーザーが所長として出演されていますね。

『ムカデ人間』の日本人カツロー役、北村昭博や『ムカデ人間2』のマーティン役、ローレンス・R・ハーベイも出演と『ムカデ人間』ファンとしては嬉しいキャスティング。

ただ、三部作それぞれの作風を変えたいということで、役柄も性格も異なった配役となっているそうです。



えー、ということでヨーゼフ・ハイター博士及びビル・ボス所長(ディーター・ラーザー)に黙祷を捧げたいと思います。



黙祷・・・


































天国で見てくれてますか博士ー!!!

ということで、今作『ムカデ人間3』のコンセプトは「ぜ・ん・ぶ・つ・な・げ・ま・し・た」です。

僕が好きな映画館、京都みなみ会館(旧館)ではこんな狂ったイベントが開かれていたくらいの魅力作なんですよ(笑)

みなさん、『ムカデ人間』の繋がりを絶やさぬ為にも、是非『ムカデ人間』シリーズを観ましょう!!!
と宣伝してください(笑)



前置きが長くなりましたが、ここから本題です。

舞台はアメリカの刑務所。
そこには凶悪な男囚人たちが収監されているんですが、この刑務所は全米で最も職員の離職率が高く、釈放された囚人の再犯率も異常で出所後の再収監率が全米で一番高い。
その上、所長が変態で、囚人たちを拷問するため医療費も全米一。


(C)荒木飛呂彦&LUCKY LAND COMMUNICATIONS / 集英社

ビル所長の刑務所はァァァァァァァアアア全米一ィィィイイイイ!!!
…状態です(笑)



所長はこの問題を解決するために全囚人を去勢することを考えるが、そこで出てきたのが

我らがマーティン(『ムカデ人間2』)ではなく、『ムカデ人間』シリーズのファンである刑務所の会計士のドワイトです。

『ムカデ人間』こそ最高の抑止力だと力説するドワイトの可愛さには萌えますよ(笑)



それでなんやかんや(割愛)あって、トム・シックス監督の有り難いお言葉「私の映画は100%医学的に正確」もいただき、囚人500人を全員繋げてしまうという暴挙に出るといった流れですね。



今作『ムカデ人間3』は前作『ムカデ人間2』と同様に主人公による『ムカデ人間』の模倣です。

ただ、前2作との最も大きな違いは、刑期を終えた囚人は出所しなければならないため、取り外しが可能だということ。
実際に歯を抜かずに口を開けたまま縫合。
膝の靭帯も切らず、関節を麻痺させる形を取っています。

また、後方になるほど死亡率は高まるという『ムカデ人間』の僕の考察結果も今作『ムカデ人間3』ではビタミン剤を投与するなどでカバーしています。

比較は『ムカデ人間』の考察記事にて。


『ムカデ人間2』との比較に関しての相違点は『ムカデ人間2』では『ムカデ人間』が好きなマーティンの理解者は自分だけであったのに対し、今作『ムカデ人間3』では『ムカデ人間』が好きな人間に同意する人間が現れること。

『ムカデ人間2』では『ムカデ人間』が大好きなマーティンが隠してあった『ムカデ人間』の資料が母親にバレてしまうシーンが挿入されます。


(C)2011 SIX ENTERTAINMENT


(C)2011 SIX ENTERTAINMENT

今作『ムカデ人間3』では所長に『ムカデ人間』を薦めた会計士ドワイト、そして『ムカデ人間』の監督作トム・シックス本人だ。


『ムカデ人間』に影響を受けた人間が如何に変態的素養を得たのか?に対して『ムカデ人間2』と『ムカデ人間3』は別の答えがあると思います。


映画が悪影響を及ぼすのではなく影響を受けた人間が問題なのだということが『ムカデ人間2』でのメッセージであり、『ムカデ人間3』ではその影響を受けた人間が更に第三者へ影響を与える、影響を受けてしまう人間が出てくること。
そして『ムカデ人間』でハイター博士役のディーター・ラーザーが『ムカデ人間3』では所長役、『ムカデ人間』大好きなマーティン役ローレンス・R・ハーヴィーが『ムカデ人間3』でも『ムカデ人間』シリーズ大好きなドワイト役を担っていること。


このことから

『ムカデ人間2』は犯罪を犯す人間への批判。
『ムカデ人間3』では再犯及び模倣犯に対する問題視がメッセージ。

と考えられます。


また、犯罪抑制のために超法規的な暴力によって支配すること、権力を持った独裁者を産んでしまうという皮肉にもなっていますね。
アメリカが製作国に関わったことで、その社会問題の含意があからさますぎて前作までのキレは薄まっている印象ですが。



監督のメッセージ

トム・シックスの考える映画とは。

万人受けすることを目的に作られた映画は興行収入を得ることだけが目的だ。
ある一定の人たちが作る民衆的な映画は世の人たちが見たいものを集めて混ぜて完成させる。
まったく個性のない作品が完成する。

監督が脚本も製作も担当して映画を作るべきだと思う。
監督が1人でショーを作り出す。
つまり監督は独裁者で僕の考えがすべてだ。
民主主義的に作品を作る必要はないと思う。
僕の目的は"自分の映画を作ること"だ。

僕にとっては脚本も監督も同じだ。
映画のために思いを込めて脚本を書く。
だから自ら脚本を書いて製作する監督が好きだ。

『ムカデ人間3』監督コメンタリーより引用


とのこと。
だからこそ、『ムカデ人間』シリーズのような尖った映画を作り出すことが出来るんですね。
興行収入とか考えずに自分の作りたいものを自分が作るから。



この監督のメッセージから、『ムカデ人間3』のビル・ボス所長はトム・シックスの自己投影…いや、『ムカデ人間3』にはトム・シックス本人が『ムカデ人間』の監督として登場するから自己投影ではない。
そう、この所長はトム・シックスの欲望の権化なのだろう。

映画における監督(独裁者)と刑務所における所長(独裁者)の双方の考え方でリンクする部分が多いように思う。


また、『ムカデ人間3』のコメンタリーで『ムカデ人間』は完結したからもう二度と作らないが、幾つか胸糞悪い映画を取った後で『ムカデ人間3』にも登場したイモムシ人間も映画として作りたいと語っています。

既に映画数本分の脚本は書き上がっているそうです。
そこから映画製作される見通しは立ってませんが、新作を早く作ってくれ、トム・シックス!



このコメンタリーで犯罪防止の抑止力に刑罰に『ムカデ人間』を推奨しながら酒を飲んで、途中でトイレに行くトム・シックスもどうかしてる。

トイレは編集でどうにかならなかったのか(笑)



トム・シックス曰く、一作目『ムカデ人間』を執筆中に三部作の映画を作ろうと思ったそうです。
その理由は
「『ムカデ映画』となるから」

ちょっと何言ってるのかわからない(笑)

二作目も三作目も前作と繋がった形を取りたかったということですね。
『ムカデ人間2』は『ムカデ人間』の最後の場面、『ムカデ人間3』も『ムカデ人間2』の最後の場面から始まってます。


そこでトム・シックスは更にこう語っています。

「いつか三部作を繋げて4時間半の超大作にしてみたい」

誰が観るんや(笑)
まあ公開されるなら観ますけども!!!



完結にして連結

今作『ムカデ人間3』は500人もの人間を全部繋げました!というおバカなコンセプトの裏には深刻な社会問題が含まれたトム・シックス監督が撮りたかった政治的に不正確な映画なんです。

以上を踏まえた上で・・・



ムカデ世界新記録樹立!

・・・やはりおバカ映画でした(笑)


一作目『ムカデ人間』では3人。


二作目『ムカデ人間2』では12人。


三作目『ムカデ人間3』では500人。



それぞれ過去作のブログ記事でムカデ人間の数の意味についても触れましたので、今回もこの500という数字について考えてみました。

『ムカデ人間』では試験的な意味もあり、3人でした。
『ムカデ人間2』では12人で、儀式的な要素があったと考えています。
※詳しくは僕のブログ記事を参照



では、今作『ムカデ人間3』では何故500人という数字に飛躍したのか?

ローマ数字で500は「D」と表記される。

1000は○に十の記号が省略されて「⊂|⊃」となった。「∞」と書いた例もあります。
最初、500は1000を表す「⊂|⊃」から左の⊂を外し、「|⊃」と表記。
やがて2つの記号がくっつき、「D」となったとされています。

つまり「∞」の半分という意味を持ち、単に膨大な数を意味していることから、囚人の数=犯罪数の多さや再犯率の高さを表しているとも考えられます。



また、エンジェルナンバーで500の意味は「人生を変える重要な変化が訪れる」
神の意志によって導かれるまま、流れに身を任せて行動しようというメッセージともなっています。


(C)2011 SIX ENTERTAINMENT

『ムカデ人間2』では"ムカデ人間を作り出す"物語『ムカデ人間』が映画として扱われ、最後の場面でマーティンが夢から目覚める所謂夢オチで完結します。

『ムカデ人間』も『ムカデ人間2』も"ムカデ人間を作る"という行動自体は創作物(映画や夢)なんですよね。


しかし、今作『ムカデ人間3』ではその"ムカデ人間を作る"という行動自体が(劇中で)現実の行動となっています。





そこでですね、この『ムカデ人間 完全連結ブルーレイBOX』に収録されている『ムカデ人間3』の幻のエンディングが素晴らしい輝きを放つんです!!!


今作『ムカデ人間3』の劇場公開版ラストシークエンスでは、『ムカデ人間』というアイデアにより刑務所の問題を解決できた。
そのアイデアを出したドワイトを射殺することで所長は手柄を横取りする。
その後で所長がムカデ人間500人を前に雄叫びを上げて幕切れとなります。



しかし、その幕切れには実は続きがありました。
これが完全連結ブルーレイBOXに収録された幻のエンディングです。


フェンスも必要なくなった刑務所でムカデ人間500人を前に雄叫びを上げる全裸のビル・ボス所長。
その雄叫びの夢から目覚めてベッドに横たわるハイター博士の姿が。
悪夢に魘されたハイター博士は翌日、車内でムカデ人間製作の構想を練るところで幕切れ。

この最後の場面は『ムカデ人間』の冒頭の場面です。
ハイター博士は『ムカデ人間3』の夢を見たから、試験的に"ムカデ人間を作る"という夢を持った。



つまり、『ムカデ人間3』の物語も全て創作物(夢)であり、『ムカデ人間』の製作者ハイター博士が"ムカデ人間を作る"前に見た夢ED。

『ムカデ人間2』は『ムカデ人間』の最後の場面、『ムカデ人間3』は『ムカデ人間2』の最後の場面、そして『ムカデ人間』は『ムカデ人間3』の最後の場面から始まっていることになる。

【ハイター博士がムカデ人間を作った映画『ムカデ人間』を観て、ムカデ人間を作った夢を見たマーティンの映画『ムカデ人間2』を観て、ムカデ人間を作った所長の夢を見たハイター博士が『ムカデ人間』を作る】
という「∞」の円環構造が出来上がる。





よって、『ムカデ人間3』のメッセージでもある再犯及び模倣犯に対する問題視を

ハイター博士(『ムカデ人間』)

マーティン(『ムカデ人間2』)

ビル所長(『ムカデ人間3』)

各主人公を通してシリーズ全体に派生していく。





『ムカデ人間』シリーズはすべて「つ・な・げ・て・み・た・い」に帰結する「ぜ・ん・ぶ・つ・な・げ・ま・し・た」。
これぞ、完結にして連結。

これがトム・シックスの言ってた『ムカデ映画』なのか(笑)
『ムカデ人間』シリーズ3作を通した一つの物語であり、超傑作ではないか!!!



終わりに

改めてお聞きすることでもないのですが、如何でしたか?(笑)



トム・シックス監督によれば
一作目『ムカデ人間』は100%医学的に正確な映画。
二作目『ムカデ人間2』は100%医学的に不正確な映画。
三作目『ムカデ人間3』は100%政治的に不正確な映画。

らしいです。



すべてを鑑賞した僕の見解では
一作目『ムカデ人間』は道徳メッセージを含んだ教育映画。
二作目『ムカデ人間2』は犯罪に対する社会派メッセージを孕む問題作。
三作目『ムカデ人間3』はアメリカの再犯率及び模倣犯を皮肉るブラックコメディ。

でした(笑)



ということで

みなさん、『ムカデ人間』の繋がりを絶やさぬ為にも、是非『ムカデ人間』シリーズを観ましょう!!!



最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




(C)2015 SIX ENTERTAINMENT COMPANY

Netflixで映画を観よう!【オススメ映画30選】

目次




初めに

いつもありがとうございます、レクです。

今回はいつもの考察ブログではなくですね
こんなご時世だからこそ自宅で映画を観よう!
がテーマです(笑)


普段はゆっくり自宅で映画鑑賞なんてできない人も多いのではないでしょうか?
コロナウイルスの影響で学校が臨時休校。
仕事に影響が出ている方もおられます。
そして外出自粛と、自宅に籠もる時間が増えた今だからこそ、観ようよ映画!ということでこの記事を書かせていただきました。


とはいえ、僕はNetflixの他にAmazonプライム、auユーザーなのでビデオパスを契約しております。
数多くあるサブスクの中からNetflixを選んだ理由はNetflixオリジナル作品にあります。
また、Netflixオリジナル作品以外でも、レンタルにすらないNetflixでしか配信されていないような映画も多数あります。


Amazonプライム等そこでしか観られない作品がありますが、今回はあえてNetflixに絞っております。
観られる環境にない方が居られることは承知の上で、限定的なターゲットに向けた記事となっておりますのでご了承いただければと。



Netflixオススメ映画4選

さて、早速本題に入らせていただきますが
この記事では、わたくし個人が選ぶ面白いと感じたNetflix配信映画をランキング形式ではなく順不同で幾つかご紹介させていただきます。


勿論、僕が鑑賞した上での判断なので、合う合わないはあるかと思いますが、たとえつまらなかったとしても「へー、レクはこんな映画が好きなのか。」くらいに思っていただければ幸いです。


また、僕が挙げたNetflix配信映画以外にも「面白い映画がまだまだあるだろ!」といった意見もございますでしょうが、個人的にこれを推していきたいという理由もありますので、その辺りもよろしくお願いいたします。

その際は僕にコメントなりいただければ未鑑賞作であれば数日中に鑑賞いたします。





では、まずはド定番というか絶対に外せない劇場公開4作品から。



「ROMA/ローマ」
『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン監督。
政治的混乱に揺れる1970年代メキシコを舞台に、とある中産階級の家庭に訪れる激動の1年を家政婦の視点から描く。


劇場鑑賞したのですが、帰ってすぐにNetflixでもう一度観ちゃいました(笑)
まあ本音を言うならこれはもう映画館案件ですよ。
自宅で観るよりもスクリーンで観てこそという映画ではあります。



「マリッジ・ストーリー」
『ヤング・アダルト・ニューヨーク』ノア・バームバック監督。
スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーを主演に迎えて描いたNetflixオリジナル映画。
女優のニコールと夫で舞台演出家のチャーリーが結婚生活に葛藤を抱え、離婚に向かっていく姿を描く。


めちゃくちゃ泣いた。
映画館ではなく自宅で観たのですが、家でよかったと本当に思ったくらいです(笑)
この手の映画は映画館ではなく自宅で観るからこそ輝ける映画ではないでしょうか。



「失くした体」
『アメリ』の脚本家としても知られるギョーム・ローランの小説『Happy Hand』原作。
パリのとある医療施設から、逃げ出した切断された手が持ち主である孤独な青年ナウフェルを捜して彷徨う。


これはもうめちゃくちゃ面白かったですね。
切断された右手が主人公であるが故に見えてくるもの、そして触れることによって思い出す記憶や温もりが体温として甦る。
普遍的でありながら特殊で、斬新さはないものの新鮮で。

鑑賞済みの方は哲学的な視点から考察したネタバレブログも一読よろしくお願いします。



「ブレッドウィナー/生きのびるために」
タリバン政権下のアフガニスタンを舞台に、過酷な日常を生き抜こうとする少女とその家族の姿を描く。
Netflixの配信では『生きのびるために』のタイトルで配信されています。


アニメーションであるからこそ表現される描写、演出が素晴らしい。
特に映画館のスクリーンだからこそという映画でもないので、自宅で観ても大丈夫かと思います。



で、ですね。
これだけは言っておかなければならないと思うのですが…
申し訳ございません、わたくし「アイリッシュマン」をまだ観ておりません!



ジャンル別4選

さて、ここからは映画のジャンルごとに4作品ずつご紹介させていただきます。

まずはアクション映画から。
はい、僕の苦手とするジャンルの一つですね(知らん)。



「ホイールマン -逃亡者-」
犯罪者の逃亡を請け負うドライバーが受けた着信。
そこから事件に巻き込まれていく。


トム・ハーディ主演『オン・ザ・ハイウェイ』やライアン・ゴスリング主演『ドライヴ』のような雰囲気を味わいつつ、それでいてなんと言ってもフランク・グリロの演技ですよ。
終始車内の映像から映し出される物語の展開なので、それ故に派手さはないものの自宅で見る分には十分楽しめるのではないでしょうか?



「スペクトル」
未知なる脅威との死闘。
それに立ち向かうのは、ある技師と精鋭揃いの特殊部隊。


近未来SFアクションの中でもとんでも設定ながらなかなか面白い映画でしたね。
何よりも見えない敵という存在がもう素晴らしいてじゃないですか(笑)
個人的にあまり詳しくないからかアガったのですが、ミリタリーアクションが好きな方の感想をお聞きしたい。



「6アンダーグラウンド」
自らの死を偽装した世界随一のスキルを持つ男が世界中から精鋭たちを集めてチームを結成、任務を遂行する。


冒頭からヒシヒシと感じるマイケル・ベイ感。
マイケル・ベイのマイケル・ベイによるマイケル・ベイファンの為の映画でしょ、これ。
なぜこれが劇場公開されないのか、甚だ疑問だ。
アクション映画が苦手な自分の一つの理由が、アクションの途中で飽きてしまうこと。
しかし、マイケル・ベイはそのマイケル・ベイ感にも起伏を持たせて最後までマイケル・ベイ感を持続させる腕があるんですよ。
これはアクションが苦手な僕でもすげえって思うんです。



「シャドー・オブ・ナイト」
少女を見逃したために組織に命を狙われる羽目になった元殺し屋が壮絶な殺し合いに見を投じる。


『マカブル 永遠の血族』などホラー監督を務めたティモ・ジャヤント。
『V/H/S ネクストレベル』というオムニバス形式のホラー映画では『ザ・レイド』ギャレス・エヴァンスと名を連ね、その『ザ・レイド』で主演を務めたイコ・ウワイスを起用した『ヘッド・ ショット』よりも更にグロゴア描写に特化したアクション映画という最高オブ最高。





続いては僕が好きなジャンルのひとつ、SF映画です!

「アナイアレイション -全滅領域-」
『エクス・マキナ』監督・脚本アレックス・ガーランドが『ブラック・スワン』主演ナタリー・ポートマンを迎え、SFファンタジー作家ジェフ・バンダミアのベストセラー『サザーン・リーチ』を実写映画化したSFアクションスリラー。
もう紹介だけでワクワクするんですが。


Blu-Rayが発売されたので、レンタルにもあると思いますが、Netflix映画も配信の枠をどんどん超えてほしいですね。

何を隠そう、僕のオールタイムベストに『エクス・マキナ』が入っています。
一見、何てことのないAIの恐怖を描いた映画なのですが、そこには神学的、哲学的に考察すると非常に計算され尽くした完璧に近いアレックス・ガーランドの知性が見えてくるんですよ。
そこと比較すると『アナイアレイション』は少々粗はありますが、神学的且つ哲学的なSFスリラーとしてはなかなか面白いと思います。



「ホンモノの気持ち」
アンドロイドが実用化された近未来を舞台に、ユアン・マクレガーとレア・セドゥーが共演したSFラブストーリー。


『ブレードランナー』や『アイ,ロボット』、『エクス・マキナ』のように自我を持つA.I.の自立ではなく、恋愛要素や世界観は『her』に近いが、精神描写やテーマ性は『A.I.』に近い。
この手の映画が好きな人には刺さるものがあると思います。



「アイ・アム・マザー」
文明崩壊後の地球を舞台に、アンドロイドの母親に育てられた少女の運命を描いたオーストリア制作のSFドラマ。


後半は少し失速気味でしたが、世界観はものすごく好みですね。

少々難しい点もあり、個人的な考えをフィルマークスにてネタバレありで纏めています。
もし、ご鑑賞いただけたなら一読よろしくお願いします。



「嵐の中で」
時空のズレにより25年前の少年を救ったことで、自分の娘が存在しない世界線へと移動してしまう。


『オーロラの彼方へ』や『バタフライ・エフェクト』などタイムリープ系映画が好きな人には楽しめるのではないでしょうか。
個人的にこの手の知的探究心を掻き立てられるような映画が大好物でして、Netflixを契約して早いうちにこの映画と出会ったのですが、もうそれからずっと好きです。
なんと言っても監督・脚本が『ロスト・ボディ』や『インビジブル・ゲスト 悪魔の証明』のオリオル・パウロですからね。
面白くないわけがないでしょ。





ちょっとSFは熱く語りすぎてしまいました。
続きまして、サスペンス・スリラー映画へ移りたいと思います。



「愛なき森で叫べ」
『愛のむきだし』の鬼才・園子温によるNeflixオリジナル映画。
実在の猟奇殺人事件にインスパイアされて描いたサスペンススリラー。


とのことで一時期話題になっていましたよね、園子温がNetflixで映画を配信するって。
観たのはめちゃくちゃ最近なんですけどね、園子温の過去作が好きな方は好きだと思うし、園子温が苦手な方にとって苦手な映画なので万人にオススメできるような映画ではないのですが、これを紹介せずしてこのジャンルは語れないなということでトップバッターを務めていただきました。



「ぼくらと、ぼくらの闇」
親友同士であった少年らがある事故で仲違いし、少しずつ恐怖と狂気が互いの絆を引き裂いていく。


ジャンル的には暗めの青春ドラマなのですが、心が蝕まれていく姿やその後の精神状態などスリリングでスリラージャンルにねじ込んでみました(笑)
事件とトラウマ、その後の人生と派生していく闇は必見。



「パーフェクション」
将来を嘱望されながらも、母の介護のため夢を諦めた天才チェロ奏者を襲う悲劇を描いたNetflixオリジナル映画。
『ゲット・アウト』でヒロイン役を務めたアリソン・ウィリアムズ。


なかなかのグロ描写がありますので、苦手な方は観ない方がいいかもしれません。
ちょっと気持ち悪くなる描写もあって、ご飯食べながら観てたんですが、ちょっと手が止まってしまいましたね(笑)
この映画は着地点がものすごく好きで、ネタバレになるので詳しくは言えませんが、完璧な人間はいないといったメッセージを残しつつも、その不完全である人間が完全となるようなラストに痺れました。



「ザ・ベビーシッター」
『チャーリーズ・エンジェル』シリーズのマックG監督が、ベビーシッターの恐るべき裏の顔を知った少年の運命をブラックユーモアたっぷりに描いたサスペンススリラー。
『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』のジュダ・ルイス主演。


Twitterにも書きましたが、淡い青春ドラマから一転、スプラッターコメディになるそのオチ幅とノリ、テンションのギャップが良い。
こういうの観ながらゲラゲラ笑える方にはオススメです。





さてさて、一応ジャンル別はこれで終わり。
ラストはヒューマンドラマです。


「キング」
ティモシー・シャラメがイングランド王ヘンリー5世に扮して主演を務めたNetflixオリジナル映画。
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』2部作や『ヘンリー五世』に着想を得た物語。


こちらも劇場公開作になりましたが、映像やスケールは映画館案件かと思われます。
シェイクスピアの戯曲の原型はほとんどなく、概ね脚色されたものとなってますね。
この時代背景にしては見易く作られていた点も評価していますし、脇を固める役者陣がいいです。



「7月22日」
『ジェイソン・ボーン』ポール・グリーングラス監督が、2011年7月22日に起こったノルウェー連続テロ事件を題材に描いた実録ドラマ。


『ウトヤ島、7月22日』で描かれた内容はこの映画では30分程度。
そこから被害者遺族や事件当事者のトラウマなどに焦点を当てたポール・グリーングラスの巧さが光る。
正直、『ウトヤ島』は僕には合わなかったのですが、この映画は染み入りましたね。
観る順番としては先に『ウトヤ島』を、その後に今作『7月22日』を観て、唐突に事件に巻き込まれる体験をしてその後を知るといった流れを作れば完璧ではなかろうか?



「最初に父が殺された」
アンジェリーナ・ジョリーが監督・脚本・製作を手がけ、クメール・ルージュ支配下のカンボジアで過酷な少女時代を送ったルオン・ウンの回想録『最初に父が殺された 飢餓と虐殺の恐怖を越えて』を映画化したNetflixオリジナル作品。


アンジー、ここまで来たか!って感じですね。
ほぼほぼ実録なのでドキュメンタリーに近い感じで少女視点で描かれるのですが、もう凄惨なんて言葉すらも軽々しいくらい少年少女にとってトラウマなシーンが練りこまれていて。
ポル・ポト政権を事前に知っておいた方が見易いとは思いますのでWikipediaで十分なので調べてから観てみてください。



「マウトハウゼンの写真家」
強制収容所の囚人となった写真家が盗み出したネガ、そこにはナチスの悍ましい所業が写し出されていた。


脚色云々は別として、これがフィクションではなく実話というのだから衝撃だ。
ホロコーストでイメージするのはユダヤ人の迫害ですが、それだけではない事実は多々あります。
一枚の写真が持つ重み。
事実を映し出す写真が、映画という別の形で後世に刻まれる。
ホロコースト映画が好きな方は是非観てもらいたい映画です。



製作国別4選

どうしても、どうしてもこれだけはオススメしておきたい!
ということで、ジャンル抜きに僕が好きな韓国映画とインド映画からオススメ映画を4作品ずつ、ご紹介させていただきます(笑)



まずは韓国映画からいきます。



「オクジャ okja」
『殺人の追憶』ポン・ジュノ監督が、ブラッド・ピットの映画製作会社プランBとタッグを組んで手がけたNetflixオリジナル映画。
ティルダ・スウィントン、ジェイク・ギレンホール、ポール・ダノら豪華キャストが共演。


Netflixオリジナル映画の中でも、この映画を観たいがためにNetflixに入ったところもあります。
韓国映画もといポン・ジュノ好きなので。
韓国映画にハマったきっかけが『殺人の追憶』ですからね、そりゃもうそこからずっと片想いですよ(笑)
また、ティルダ・スウィントンも好きな女優さんでして、これは観るしかないなと。
結果そこまですげぇ!とはなりませんでしたが(笑)それでもポン・ジュノの巧さには脱帽ですよ。



「記憶の夜」
誘拐された兄が19日間の記憶を失ったまま帰宅。
兄の様子がおかしいと気づいた弟が真実を探り始める。


Twitterであまりいいねついてませんが…Netflixオリジナル映画の中でも秀作ですよ。
あらすじからわかると思うのですが、非常にミステリー要素が多く、色々と想像を張り巡らせるんですよね鑑賞中に。
それが良いか悪いかは別として、自然とそうさせる力がこの映画にはある。
やっぱり韓国映画はひと味もふた味も違うなといった印象です。
気になった方はTwitterのRT&いいねよろしくお願いします(笑)



「サバハ」
新興宗教の取材を生業とする牧師が追う新たな宗教団体。
そこには恐ろしい秘密が隠されていた。


オカルトテイストな宗教スリラー映画なのですが、まあ物好きは好きでしょこういうの!って感じで全然万人受けを狙ってないところが好印象(笑)
なんならこういうの好きですが?とまんまと引っかかってしまう始末。
オカルトにありがちな不明瞭で曖昧な背景設定に、宗教的な構造を用いることで深みが増し、その上でリアリティをも付与するという二段構えの徹底度。
信仰心と神に対する不信感、そこに面白みを見出だせたならきっとハマります、この映画。



「鋼鉄の雨」
北朝鮮のクーデターにより一触即発の状態に陥った朝鮮半島を舞台に、戦争を阻止するべく奔走する男たちの戦いを描いた韓国製サスペンスアクション。


こちらもTwitterであまりいいねついてませんが、めちゃくちゃ面白いからなっ!
『アシュラ』で共演したチョン・ウソンとクァク・ドウォンの熱演、『JSA』や『工作 黒金星と呼ばれた男』『PMC ザ・バンカー』のような南北の友情と一触即発感。
そしてポリティカルスリラーとして魅せるエンタメ性。
これを観ずしてNetflixオリジナル映画を、韓国映画を語れるのか!?
あ、これは言いすぎました。
でも本当に劇場公開すべき映画ですよ。
もうとりあえずNetflix契約してるなら観てほしい。





Netflixオリジナル作品ではないのですが、Netflixにはインド映画が多数配信されています。
ということで、ここからはインド映画をご紹介させていただきますね。



「地上の星たち」
問題児扱いされてばかりの空想好きな少年が全寮制学校で美術教師と出会い、その豊かな才能を開花していく。


観た直後、なんていい映画なんだ…と泣きましたね。
アーミル・カーンがまたずるい。
『シークレット・スーパースター』みたいに子供の心を掴んで個性を伸ばしてくれるんですよ。
映画としての構成は上手いと手放しで褒められるものではないのですが、ガンガンと心を揺さぶってきて。
インドの社会、学校教育にメスを入れ、教育の在り方を熟考させる本当に素晴らしい映画。



「オーマイゴッド 〜神への訴状〜」
ムンバイで神像を扱う店を経営する無神論者の男がある日、大きな地震によって店を失う。
天災は保険の対象外で、怒った男は神を訴えることに。


この映画の面白いところは宗教的な側面もそうなのですが、無神論者の男の前にだけ神が姿を見せること。
そこに宗教と信仰心の本来あるべき姿が掘り起こされる。
韓国映画『シークレット・サンシャイン』やカナダ映画『神のゆらぎ』、ポール・シュレイダー監督作『魂のゆくえ』など、信仰心の揺らぎがテーマにある映画は多数存在するが、その中でも異質。
多宗教あるインドならではの宗教観も窺い知ることができて一見の価値はあります。



「ビジョン」
警察署長官の息子が行方不明になり、ある男に容疑をかけられる。
しかし、彼にはアリバイがあった。


Netflixでのタイトルは原題『DRISHYAM』。
あらすじは真逆で、本来は倒叙ミステリー。
犯人は冒頭で明らかとなり、どうやって警察署長官を騙せるか?を楽しむ内容なので、謎解き目的であらすじだけを読んで観ると拍子抜けしてしまうので注意。
ある視点において『容疑者Xの献身』を彷彿とさせる。
そこがこの映画を好きな理由の一つかもしれない。
『容疑者Xの献身』同様に、劇中で善悪の判断基準が揺らぐことで鑑賞者側にとっての善悪の倫理観を思惟させて自ら顧みる構造となっているのが巧い。
客観的な善悪ではなく、「もし自分が親の立場であったら?」と主観に訴えかける演出は流石だ。
恐らくインド映画のサスペンスではベスト。



「レインボー」
憧れの映画スターならきっと弟に目の手術を受けさせてくれるはず。
少女は盲目の弟の手を取って旅に出る。


インドでも神格化されている映画スターのサルマン・カーンとシャー・ルク・カーン。
弟思いの姉が姉弟ふたりで旅に出るロードムービー。
もうこれだけで泣けてくるんですけど。
祈りは生きてる。希望は捨てるな。
映画大国インドにおける映画の存在は娯楽を超えて人々の支えになっているのだと思うとその重要性に気付かされる。
インド映画に偏見があったり、観たことがないという方も、姉弟愛に満ちたロードムービー感覚で観てほしい。





他にも、韓国映画『アジョシ』のインド版リメイク「ロッキーハンサム」や、同じく踊らないインドの代表作的な位置付けにあるインドのサスペンス映画「女神は二度微笑む」なども捨てがたいですよね!

既に配信が終了してしまった、韓国映画『悪魔は誰だ』のインド版リメイク「真実を知る者」や、同じく踊らないインド映画「壊れた魂」などと同様に、Netflixオリジナル作品ではないので配信が終了する可能性もあります。


興味がございましたら早めに鑑賞されることをオススメします。

もう一度言っておきます。

興味がございましたら早めに鑑賞されることをオススメします。





最後に、変わり種映画を。


「ジャックは一体何をした?」


そろそろみんな忘れてる頃だろうと思いまして、挙げてみました(笑)
あのデヴィッド・リンチがNetflixでショートフィルムを作ったと話題になりましたね。
17分の中でリンチが猿に取り調べをするという内容なのですが、リンチの頭の中が心配になります。



「ムンバイのバイオリン弾き」


こちらはNetflixオリジナル作品ではありませんが、こういった規模の映画もNetflixでは配信されています。
超低予算ながら、何とも言えない余韻に浸れるインド映画。
インド映画は歌って踊るだけという概念をぶち壊してくれる真っ当な映画であり、こういう映画はなかなか作れないぞ?といった内容で、掘り出し物ですね。



終わりに

如何でしたか?
サクッと紹介するつもりが、気が付けば30作品も挙げてました。

個人的な好みで選んだ映画なので強く推せないところもありますが、興味がございましたら是非!


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。



束縛からの解放(「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」ネタバレ感想)

目次




初めに

こんにちは、レクと申します。
今回は書くつもりがなかったのですが、「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」について語っています。

考察ではなく、感想…と言いますか僕が感じたことをそのまま言葉にしようと思っています。
少し批判的な意見も入りますが、一個人の意見として聞き流していただければ幸いです(笑)

また、この記事にはネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題︰Birds of Prey: And the Fantabulous Emancipation of One Harley Quinn
製作年︰2020年
製作国︰アメリカ
配給︰ワーナー・ブラザース映画
上映時間︰109分
映倫区分︰PG12


解説

「スーサイド・スクワッド」に登場して世界的に人気を集めたマーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインが主役のアクション。悪のカリスマ=ジョーカーと別れ、すべての束縛から解放されて覚醒したハーレイ・クイン。モラルのない天真爛漫な暴れっぷりで街中の悪党たちの恨みを買う彼女は、謎のダイヤを盗んだ少女カサンドラをめぐって、残忍でサイコな敵ブラックマスクと対立。その容赦のない戦いに向け、ハーレイはクセ者だらけの新たな最凶チームを結成する。マーゴット・ロビーが自身の当たり役となったハーレイ・クインに再び扮し、敵役となるブラックマスクをユアン・マクレガーが演じた。監督は、初長編作「Dead Pigs」がサンダンス映画祭で注目された新鋭女性監督キャシー・ヤン。
ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY : 作品情報 - 映画.comより引用




DCEUの新たな風

DCエクステンデッド・ユニバース(DC Extended Universe (DCEU))はマーベル・シネマティック・ユニバース(Marvel Cinematic Universe)との差別化を図るため全てが一つに繋がるユニバースとしての形から個々の特徴を活かした単作品の排出を選んでいますよね?

『スーパーマン』や『バットマン』シリーズから『ジャスティス・リーグ』へ。
そこから『アクアマン』や2020年公開『ワンダーウーマン 1984』とユニバース方面の映画も同時進行。
そして、2021年には『The Batman』『The Suicide Squad』と続きます。


MCUはどうしても単作品で途中から入りにくい、謂わば新参者に優しくない仕様となっているのに対して、DCEUは2019年公開『シャザム!』のように単品でも楽しめる新参者にも優しい仕様の映画も作られています。

現に今作『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(以下BIRDS OF PREY)』も『スーサイド・スクワッド』と一応は繋がりがあるのですが、前作を知らなくても、DCEUを知らなくても楽しめる映画となっていました。


これは2019年の顔と言っても過言ではない映画『ジョーカー』でも言えること。


『ジョーカー』は厳密に言えばDCEUのユニバースとしての繋がりはなく、世界線も異なる。
製作会社にDCフィルムズが絡んでいますが、DCEU作品ではありません。
故にDCEU初見でも、アメコミを知らない人でも一つの映画として楽しめる親切設計となっています。


『ジョーカー』と同様に社会風刺を練り込み、DCEUが打った次なる一手がこの今作『BIRDS OF PREY』。
またハロウィンの仮装などでも人気を博したハーレイ・クインが主人公というアメコミを知らない方々にも観てもらえるようにといった背景も見えます。



ネタバレ感想

では、早速本題に入っていきましょう。
まずはTwitterに上げた感想から。



私個人が受け取った今作『BIRDS OF PREY』の物語。

それは

ハーレイ・クインが主人公ではない

ということ。


上記に「人気を博したハーレイ・クインが主人公というアメコミを知らない方々にも観てもらえるように」と記載しましたが、実際はこの映画の主人公はハーレイ・クインではありません。


観ていただいた方にはわかっていただけると思いますが、この物語は‪ブラックキャナリー、ハントレス、レニー・モントーヤの3人がそれぞれ虐げられた者としての解放や自立、そしてチームの誕生譚であること。

つまり、籠の中の鳥が飛び立つことを意味し、ハーレイ・クインはその一役を担うだけ。‬
‪それらを繋げるきっかけがダイヤを盗んだカサンドラであり、ジョーカーとハーレイ・クインの関係性がBIRDS OF PREYのメンバーの自立と連想される。

だからこの物語の語り部が、ハーレイ・クインなのです。


原題『Birds of prey: And the Fantabulous Emancipation of One Harley Quinn』からもわかる通り
BIRDS OF PREYの3人が主人公であり、ハーレイ・クインの解放、自立はあくまでサブストーリーなんですよ。

ここの見解の相違でこの映画から受け取る印象も、そもそもの評価も変わってきてしまうと思います。


そして、『ジョーカー』と同じく社会風刺が練り込まれている。
それが社会的弱者の救済なのですが、女性たちを主人公としたことで見えてくるフェミニズムの押し出し。

ここがどうも個人的には少々クドさが残ったんですよね。
その理由はちゃんとあります。



女性を主人公として描く単純な【ヒロイズム】ではないこと。

例えば
同じくDCEUの映画『ワンダーウーマン』では女性監督ならではの視点から見た男尊女卑の偏見や先入観をダイアナという女性目線のフィルターを通してジェンダーレスな作品へと昇華しています。

個人的な引っかかりがあり、この映画自体はあまり評価していないのですが、このジェンダーレスの観点に関しての描き方は素晴らしいと思います。


MCUの映画『キャプテン・マーベル』に関してもそう。
90年代のジェンダー的な抑圧を軸にキャロルが"強い女性"ではなく"強くならなければならなかった女性"としてアイデンティティーに向き合う自立を描いています。


この2作に共通するものが女性を主人公として強い女性像を見せる【ヒロイズム】なのです。



では、今作『BIRDS OF PREY』はどうなのか?


まず、ハーレイ・クインに関して言えば
悪が公正したわけでもなく、所謂ダークヒロインのような存在であること。
(の割には終盤ただの良い人になっててキャラ崩壊してますが)

ジョーカーという後ろ盾がなくなったことで命を狙われる。
そんな危機感の中でジョーカーに囚われていた自分を解放し、立ち向かえる強さ(自立すること)を手に入れた。
それはあくまでも自分のやりたいようにやる、自分の生き方や生き様を見つけたようなもの。
故に、単純なヒロイズムではない。



一方で
BIRDS OF PREYの3人は悪と対を成すチーム、ヒロイズムとして描かれていますね。

ブラックキャナリー

シニオス(ブラックマスク)によって支配されていました。
ザーズから小鳥と揶揄されていたことからも籠の中のように逃げられない状態、束縛からの解放(emancipation)が描かれました。


ハントレス

幼少期にマフィアに一族を殺され、復讐心に燃える。
過去に囚われていたという意味で籠の中の鳥であると考えられ、ザーズを殺したことでその恨みから解放された。


レニー・モントーヤ

問題はここです、警察署内での上司の手柄の横取り。
女性ということで出世は出来ず警官を辞職、悪を取り締まることだけは継続することになる。

男社会という抑圧からの解放と見ればそうかもしれないが、レニー・モントーヤに関して言えば束縛からの解放や自立として見るにはあまりにも弱く、このキャラクター設定がフェミニズムを誤った方向で強調してしまっている。
加えて、元々警官ということで悪と敵対する立場であることからもヒロイズムとしての転換も弱く、却ってセクシズムに拍車を掛けてしまっていると思うんですよね。


悪vs正義が男vs女となっているとかそういったことでのセクシズムという話ではなく、ここがTwitterで書いた内容の全貌です(笑)
レニー・モントーヤというキャラクターが悪いのではなく、そもそもの設定と描き方に問題があり、そこが単に鼻についただけなんですが。



気になる点がもう一つ。
先程も記載した通り、この物語の主人公はBIRDS OF PREYの3人であり、ハーレイ・クインは主人公ではなく繋ぎであること。
そこでこの映画の形式上、ハーレイ・クインが語り部として物語が進行していくのですがその回想ですよ。

回想シーンは本来、主軸である物語の進行、テンポを著しく損ねる恐れがあります。
今作『BIRDS OF PREY』の回想シーンへの導入パターンは大きく分けて3つ。


1つ目はハントレスに殺されたマフィアの死体を警官であるレニー・モントーヤが状況把握するシーン。
過去と現在が交錯するように回想シーンを導入するんですよね。
これは個人的に好きな見せ方。
物語のテンポを損ねず過去と今を同時に映し出すことができています。


2つ目はブラックキャナリーがレニー・モントーヤにスマホで連絡をするシーン。
ハーレイ・クインがわざわざ説明をするために巻き戻し映像後に経緯を説明する。
これがもう全然ダメ。
特に伏線回収でもなんでもないシーンであり、ただこんな映像や撮り方も見せられるよ!と監督がニヤニヤしてるのがわかる。


3つ目はハントレスの過去。
これはぶつ切りで過去の時間軸に飛ぶお決まりのパターン。
これは仕方ないというか、まあそうだろうなって感じ。


この3パターンをそれぞれ見せる意味が全くわからない。
観客を飽きさせないため?
だとしたら見せる順番は違うし不用意に過去、回想シーンを挟まなくてもハーレイ・クインが語り部として語る以上は描くことも語ることもできたはず。
これらが物語のテンポにチグハグ感を覚えてノリ切れなかった理由の一つでもあります。



褒めるべき点はなんと言っても女性らしい女性ならではの柔軟性を活かしたアクション。
力のない女性が男を薙ぎ倒すための遠心力の凄まじさと爽快感に溢れ、スカッとしますね!

アクションを語れるほどアクション映画が好きなわけでもなく、こんな僕がアクションを語ること自体が烏滸がましいので割愛します。

アクションについては僕の意見なんかよりも、この手のジャンルが得意な方の意見を聞いた方が何万倍も役に立ちますよ(笑)



終わりに

ということで、フォロワーさんのモンキーさん(@‪monkey1119)と一緒に鑑賞してきたわけですが。

僕は『スーサイド・スクワッド』を基準にハードルを下げて観に行ったのでまあまあ良かったという感想でしたが、横を見た時のモンキーさんの顔は今でも忘れられません(笑)

そんなモンキーさんの感想はこちら。

こちらも一読よろしくお願いします!



さてさて、僕個人が引っかかったところをつらつらと書いてきたわけですが、好きな方にとっては何言ってんだよ最高だろうが!となることもわかっているので本当にサラッと流してくださいね?

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。



(C)2019 WBEI and c&TM DC Comics


癒やしと恐怖の不協和音(「ミッドサマー」ネタバレ考察)

目次




初めに

おはようございます、レクと申します。
今回は公開日初日にフォロワーさんとご一緒させていただいて観てきた『ミッドサマー』について語っていきます。


その前にこれだけは言わせてください。

Twitterで『ミッドサマー』がトレンド入りって異常事態だろwww

コホン、失礼しました。
それでは早速続きを書いてきいます。


この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題︰Midsommar
製作年︰2019年
製作国︰アメリカ
配給︰ファントム・フィルム
上映時間︰147分
映倫区分︰R15+


解説

長編デビュー作「ヘレディタリー 継承」が高い評価を集めたアリ・アスター監督の第2作。不慮の事故により家族を失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人たち5人でスウェーデンを訪れた。彼らの目的は奥地の村で開催される「90年に一度の祝祭」への参加だった。太陽が沈むことがないその村は、美しい花々が咲き誇り、やさしい住人たちが陽気に歌い踊る、楽園としか形容できない幸福な場のように思えた。しかし、そんな幸せな雰囲気に満ちた村に不穏な空気が漂い始め、妄想やトラウマ、不安、そして恐怖により、ダニーの心は次第にかき乱されていく。ダニー役を「ファイティング・ファミリー」のフローレンス・ピューが演じるほか、「トランスフォーマー ロストエイジ」のジャック・レイナー、「パターソン」のウィリアム・ジャクソン・ハーパー、「レヴェナント 蘇えりし者」のウィル・ポールターらが顔をそろえる。
ミッドサマー : 作品情報 - 映画.comより引用




逆転の発想と対比

先ずはTwitterの感想から。



こんなツイートを載せるなって話ですが、このようなネタに走ったのには理由があるんです。

それは僕の感想がネタバレなし140字では語れなかったこと。
ずっと矛盾点や違和感が気になって非常に感想に困ったからなんですよね。
ということで、簡単な感想から書いていきます。




今作『ミッドサマー』アリ・アスター監督の長編デビュー作『へレディタリー 継承』と同じく家族にトラウマを持つ主人公が擬似家族による集団を形成することである種の救済措置として機能している。



今回のテーマの一つである疑似家族を成り立たせる為の失恋は同時に縁切りの意味も兼ねているのだろう。
そして、もう一つのテーマが逆転の発想と対比。


青空が広がる自然、日が暮れない白夜。
ホラー映画の定石を覆すきらびやかで明るい世界で描き出す不可解さは、一周回って笑いをも巻き起こす。

ダニーの冒頭とラストでの表情。
閉鎖的な村と我々の住む世界。
輪廻転生と祖先の宿る木。
血の継承と近親相姦。
崖の儀式での悲嘆と狂喜の反応。
クリスチャンと村人の寄り添い方。

これらを視覚的に表したのが、天地を返すカメラワーク。



そして意味有りげに英語からスウェーデン語へと表記を変える『サマー』。


今作『ミッドサマー』はホラー映画ではなく、コメディ映画です。
しかし、コメディとして見るとホラー的な要素が見えてきます。

この逆転の発想と対比は今作『ミッドサマー』の随所で見られ、整合性のない意図的に作られた不協和音が奏でる祝祭が恐怖を癒しへと変える。



ここで、アリ・アスター監督のコメントを読んでみましょう。

「ホラーじゃないって言っているのは、ホラー映画だったら見ないという人もいることを残念に思うからなんだ。そういう人にも楽しんでもらえると思うし、そもそも、ホラー映画というラベルがこの作品に合っていないと僕は思う。確かに、劇中では恐ろしいことも起こるけれど、ほとんどの映画で恐ろしいことって起きるよね。僕にとっては、ホラーというよりダークコメディだし、カタルシスを感じる物語。心動かされる作品であってほしいしと同時に、ざわざわした気持ちになってほしい。ホラーが苦手な人が感じて困るざわざわではないと思うよ」
「ミッドサマー」はホラー映画じゃない? 真意をアリ・アスター監督が明かす : 映画ニュース - 映画.comより引用


本当にそうなんですかね!?
アリ・アスター監督にとってのダークコメディは我々にとってのホラーなんじゃないのか?
などと深読みしていたら、ちょっと恐ろしいものが見えてきたんですよ。



数字の9


今作『ミッドサマー』でメインとなる儀式。

"ミッドサマー"とは文字通り夏の真ん中、"夏至"を意味することが劇中で明かされます。


この儀式は定期的に行われるが、大規模な夏至祭は90年周期で行われる祝祭が9日間続く特別なものであること。
ラストで明かされたその祝祭の生贄が内外合わせて9人であること。

そして"ミッドサマー(夏至)"のもう一つの意味
人生を四季に当てはめた時に
0-18歳は春
18-36歳は夏
36-54歳は秋
54-72歳は冬

主人公ダニーは大学院の博士号卒業前に誕生日を迎えたことから27歳であることがわかる。
18-36歳のちょうど中間地点の年齢。
18歳に9を足した数字であり、36歳から9を引いた数字でもある。


つまり、ダニーこそが『ミッドサマー』であり、予め女王になるように作為的にこの閉鎖的な村に招かれた可能性を推察できます。



このように、絵や台詞から"9"という数字に深い意味があるかのように意識付けてくるんですよ。
そこで"9"という数字が持つ意味を色々考えてみました。


・宗教における9

一般的に日本では9は「苦」とされあまりいいイメージはありません。
しかし、本来は縁起の良いものとされています。

僕の住む京都にある上賀茂神社では毎年9月9日の"重陽の日"に開催されている神事"烏相撲"という行事があるんです。
9月9日は奇数の最高の数である9が2つも並んでいることで最も縁起のよい日と考えられていて、"烏相撲"の神事により悪霊退治が執り行われています。
これは上賀茂神社の御祭神である賀茂建角命(かもたけつぬみのみこと)が八咫烏となり桓武天皇の東征のときに先導したことに由来する神事です。
神社仏閣が並ぶ日本ではある意味で儀式とされるような験担ぎや催し物があるのです。


中国では奇数は幸運数、偶数は忌数と考えることから9は幸運数となっています。
また中国語で9は"久"という漢字の読みと同じく"ジュー"と発音し、永遠を表すことからも幸運と考えられています。


新約聖書〈マルコによる福音書〉15章25節によれば
イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。
とされる。



・タロットカードにおける9

大アルカナにおける9番目のカードには"隠者の絵"が描かれています。
このカードは真実の探求を意味し、隠された真実を探求することで、確信に向かって進むことを表しています。
このカードの正位置は、深慮、忠告を受ける、崩壊などを表しています。


また、小アルカナには杖、聖杯、剣、金貨という4種類があります。

杖の9は、9本の杖の間に立つ男性の姿が描かれていて、吉報という意味があります。
このカードの正位置は、前兆などの意味があります。

聖杯の9は、9つのカップの下に座る男性の姿が描かれていて、願望達成を表しています。
このカードの正位置は、願いが叶うことを意味しています。

剣の9は、9本の剣の横でベッドに座って心配をしている女性が描かれていて、不安や大きな悲しみを示しています。
このカードの正位置は、不幸、失望を意味しています。

金貨の9は、8つのコインの前で手に取りを乗せて佇む女性の姿が描かれていて、チャンスの到来を意味しています。
このカードの正位置は、良家に嫁ぐ、希望の実現などを表します。



・エンジェルナンバーにおける9

0-9の中で一番大きい数字である9は別れ、終焉、解放などを意味します。
同時に新しい始まり、前進、癒しという意味を示すことになります。



これらはあくまで"9"という数字の意味を並べただけですが、今作『ミッドサマー』と重なる部分は多いと思います。

これらの意味を踏まえた上で次の目次に進んでください。



ルーン文字


今作『ミッドサマー』ではルーン文字による儀式が描かれていましたね。


ルーン文字(ルーンもじ)は、ゲルマン人がゲルマン諸語の表記に用いた古い文字体系であり、音素文字の一種である。

ルーン文字は「呪術や儀式に用いられた神秘的な文字」と紹介されることもあるが、実際には日常の目的で使われており、ルーン文字で記された書簡や荷札なども多数残されている。呪術にも用いられていたが、それが盛んに行われるようになったのは、むしろラテン文字が普及しルーン文字が古めかしくいかにも神秘的に感じられるようになった時代に入ってからである。

ルーン文字 - Wikipediaより引用


今作のメインともなる祝祭の聖典にはルーン文字で感情を示す16の言葉が刻まれていました。
これは儀式によってすべての感情を解放するといった意味合いではないかと考えています。

共に笑い、泣き、怒ってくれる。
孤独な時に支えになる。
それがひとつの家族の在り方。

家族を失い、悲嘆の感情しかないダニーの他の感情を解放する為に、ひとつの家族となる為に行われた祝祭。



さて、ここでWikipediaのこの部分に着目していただきたい。

呪術にも用いられていたが、それが盛んに行われるようになったのは、むしろラテン文字が普及しルーン文字が古めかしくいかにも神秘的に感じられるようになった時代に入ってからである。


ルーン文字が呪術として用いられたのはラテン文字が普及してから。
このことから上記の数字の9が持つ意味も色々と活きてきます。

昔からある伝統、血などの受け継がれる歴史の前では今を生きる人間はごく小さな存在でしかない。
ある種の宗教やまじないや占いごとに身を委ねることから、自身の救済の道が開けることもある。



そんな人間の感情の弱さを逆手に取ったのが今作『ミッドサマー』ではないか?

つまり、結論から言えば
この大掛かりな祝祭自体がルーン文字や9という数字の持つ意味をそれらしく用いてそれっぽい儀式として見せ、説得力を持たせるための偽装工作。



そう考え出すと村のしきたりは二つの矛盾がありましたね?

一つは上記にも書きました

"輪廻転生と祖先の宿る木"です。


0-72歳で人生の四季を表し、72歳を過ぎれば崖の儀式によって自ら命を絶つ。
四季のように巡る輪廻転生とするなら、祖先は赤子となって生まれ変わるはずで、祖先が木に宿るわけがないんです。

また、90年に一度ではなく、72歳を迎えた村人が出る度にこの祝祭を行っていたとも考えられます。


もう一つの矛盾点が

"血の継承と近親相姦"です。


昔からよくある血にまつわる呪いやおまじない、そして儀式、後継ぎなどがあります。
村のしきたりで近親相姦はないとされつつ、その後すぐに近親相姦でできた奇形の子が登場する。
これも村人の近親相姦により子を授かった事態を神の子のように崇め儀式の一つとして組み込んだ後付けでは?

また、クリスチャンの飲むジュースだけ色が違ったり、食べ物に毛が入っていたことから、女性器の血による惚れ薬は実際に試されている。
この村に血にまつわる呪術は実際にあるのかもしれない。
いや、それすらも偽装工作のひとつなんです。



真っ先に矛盾点や粗が気になったわけですが、アリ・アスター監督はあえてこのような一貫性のない粗を見せることで、この村の儀式やしきたり自体が形骸化されたものであることを観客に勘づかせているのではないだろうか。

これらの点から少しずつ見えてくるもの、村の儀式には恐るべき真実が隠されていたんです。(個人的見解)



祝祭の真相


では、何故長年続く伝統の儀式のように祝祭を偽装工作する必要があったのか?


早速答えを言いますが
祝祭の目的は村の繁栄の為に優秀な"種"を持つ男性を外部からスカウトしてくること。

華やかで明るい雰囲気も途中で外部の人間が途中で逃げ出さないようにする為。


そう考えると上記で記載した

ダニーこそが『ミッドサマー』であり、予め女王になるように作為的にこの閉鎖的な村に招かれた可能性を推察できます。

この件に関してまた矛盾が生じる。

目的が優秀な"種"を持つ男性であるなら女性は不要なはず。
ここで出した結論が以下の通りです。


優秀な"種"を持つ男性とはつまりモテる男であることが一つの条件とも取れないか?
とするなら、交際相手が必ずいるという前提条件を満たしている必要がある。

優秀な"種"として狙われたクリスチャンを誘った村のスカウトマンのペレ。
そこにダニーがついてくることも、ダニーの精神状態を知っていたペレにならわかるはずだ。

優秀な"種"を持つ男を種付け馬としてスカウトし、その交際相手は村の一員として村に迎え入れる(子を産ませるため)。
そして、種付け馬の役目を終えた男性は生贄とされ、その現場を目撃させ悲しみに打ちひしがれる女性は共に涙してくれる村人たちと疑似家族のような関係を築くこととなる。



このことから更に推察すると

村での近親相姦を避けるべく取られた対策が村の外部からの種付け馬と子を産む為の体をスカウトしてくること。

これこそが、本来の祝祭の目的なのだと考えました。


家族を失い悲嘆に打ちひしがれるダニーが祝祭を経て感情の解放、狂喜を手にする失恋と自由の物語。
その裏側には村の存亡を賭けた意図的で計画的な子孫繁栄の物語。

カルト集団への批判を描きつつ、またその批判者を丸め込んでしまう恐ろしさも同時に見せているのです。

これが、冒頭でも語った逆転の発想、対比による不協和音。
僕個人がずっと違和感を抱いていて、なかなか感想を書けなかった理由です。


この物語は恋に関する物語でもなければ単なる異文化交流の話でもない。
ホラー映画でもなければ、単なるダークコメディ映画でもない。
全ては二面性を持つ人間の欲と感情の物語



『へレディタリー 継承』の感想等でも思いましたが
その映画の本質がどうとか深くまで読んでいるかとかそういう話ではなく、基本的に人間は表か裏のどちらかしか見ていないんだということ。
例えば視覚的なものに騙されて精神的なものが見れなかったり、非現実的な恐怖にばかりに囚われて現実が見えなかったり。

今作『ミッドサマー』では、異文化交流や華やかな祝祭、癒やし効果、視覚的にわかるグロ描写、過激な性描写。
表面ばかりに目がいっているような気がしなくもない。

だからこそより一層、今作『ミッドサマー』において常に表と裏を見ているアリ・アスター監督の恐ろしさを感じました。
今作の主人公ダニー(Dani Ardor)はアリ・アスター監督(Ari Aster)の自己投影であり、内と外の両側から『ミッドサマー』を捉えている。

とはいえ、個人的には『へレディタリー 継承』の方が『ミッドサマー』より好きなんですけどね(笑)



終わりに

如何でしたか?
これは、あくまでも個人的見解に基づく個人的解釈ですが
TwitterのTLでセラピー的な感じで絶賛が並ぶ『ミッドサマー』に違和感しか感じなかったので、その違和感とは何なのだろうか?とこの物語の真相を自分なりに掘り下げてみました。

僕の考察が当たらずとも遠からずだとアリ・アスター監督は本当に恐ろしくセンスのある監督ですよ。
観客を魅了し、核心を隠したまま洗脳に近い効果を観客に与えてるんですから。

これって、ホルガの村人と観光客の関係と同じですよね?
それを知った今、今作『ミッドサマー』を笑いながら「癒やしだ」などと言ってる姿を見るのって怖くないですか?


最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

ヘレディタリー 継承 [Blu-ray] https://www.amazon.co.jp/dp/B07N472JW4/ref=cm_sw_r_cp_api_i_m22vEbMZZ2YYZ

 

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存在論から見た「ア・ゴースト・ ストーリー」ネタバレ考察

目次




初めに

こんばんは、レクと申します。
今回は久しぶりの旧作の考察となります。
2018/11/27に劇場鑑賞した「A GHOST STORYア・ゴースト・ストーリー」です。

何故今更?ということですが、それは後述でお話します。


この記事はネタバレを含みます。
未鑑賞の方はご注意ください。



作品概要


原題︰A Ghost Story
製作年︰2017年
製作国︰アメリカ
配給︰パルコ
上映時間︰92分
映倫区分︰G


解説

「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のケイシー・アフレックと「キャロル」のルーニー・マーラの共演で、幽霊となった男が残された妻を見守る切ない姿を描いたファンタジードラマ。田舎町の一軒家で若い夫婦が幸せに暮らしてたが、ある日夫が交通事故に遭い、突然の死を迎える。病院で夫の死体を確認した妻は、遺体にシーツを被せて病院をあとにする。しかし、死んだはずの夫はシーツを被った状態の幽霊となり、妻が待つ自宅へと戻ってきてしまう。アフレックがシーツ姿の幽霊となってさまよい続ける夫役を、マーラがその妻役を演じる。デビッド・ロウリー監督がメガホンを取り、「セインツ 約束の果て」の監督&主演コンビが再結集した。
A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー : 作品情報 - 映画.comより引用





考察の前に

まずは僕が観た感想から。


さて、何故今になってこの作品の考察を始めたのか?
それは単純な理由です。
2020/02/22に行われるオフ会に僕が参加させていただいたからです(笑)


蓮城さん(‪@renzy0u)
なつをさん(‪@Cr_Ha_Quesse)
じぇれさん(‪@kasa919JI)
【蓮なつシネマ談話andじぇれ シーツ映画上映会】

僕自身、初鑑賞時も良い映画だなあとは思っていたものの、年間ベストには入れず。
しかしながら、今では鑑賞後にじわじわとくるこの映画の魅力に取り憑かれている一人です。

参加するにあたり、自分の考えを纏めておこうという目的もあって改めて考察をしてみました。



幽霊を描いた映画

早速、本題に入っていきます。

今作『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー(以下ア・ゴースト・ストーリー)』はあらすじに記載された通り、交通事故で死亡した男が幽霊となって最愛の妻を見守るという何とも切なく悲しい物語なんですよね。


僕のオールタイムベスト10にも入っている『マンチェスター・バイ・ザ・シー』のケイシー・アフレックが上映の大半でシーツを被ったままという斬新さ(笑)


また、未亡人となったルーニー・マーラの哀しみに暮れ無気力になっていく様子もその儚げな美しさも最高なんです。

この構図はシュール過ぎますが(笑)



過去の映画でも、幽霊を主人公とした映画は多々あります。
中でも有名作として『ゴースト/ニューヨークの幻』があります。


この映画も、主人公が最愛の人を見守る優しく切ない物語となっています。
他にも『幽霊と未亡人』や『オールウェイズ』などなど。


幽霊となった人間が現世で未練または恋、もしくは恋人を見守るという構図はある意味で使い古されたものです。

では今作『ア・ゴースト・ストーリー』の魅力とは一体何なのか?
観た人ならわかっていただけると思います。


そう、幽霊の視点から描いた死後の世界を通して見る現在の演出
これが素晴らしいんです!


言いたいことはまだまだあるのですが、今回はそこに絞って考察を進めていきます。



存在と時間

この映画を鑑賞した際、生者と死者を描く上で当然あるべきことを上手く可視化しているなといった視覚的感動があったんですよね。

それが"時間"の概念です。


我々が生きているうちには、当然一秒、一分、一時間、一日、一年と時間によって縛られています。
逆を言えば、その時間という概念があるからこそ人生は有限であり、一分一秒を生きていると"生"を実感する。


では死者の場合はどうなのか?
時間は止まったままなのか?
それとも我々生者と同じように流れるのか?

上記で挙げた『ゴースト/ニューヨークの幻』をはじめ幽霊の出てくる映画は基本的にはその場に囚われ、しかし生者と同じ時間を過ごす。

今作『ア・ゴースト・ストーリー』では、その死者から見た現在、その時間の概念をも映像化してしまっているから凄いんです。



そこで連想したのがドイツの哲学者ハイデガーの『存在と時間』です。


マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 - 1976年5月26日)

1927年の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事にその努力が向けられた。

マルティン・ハイデッガー - Wikipediaより引用


『存在と時間』の巻頭言はプラトンの対話篇『ソフィステス』の引用から始まります。

「『ある』という言葉でもってわれわれが一体なにを思い描いているのか、という問いの答えを、今日われわれは持っているだろうか? われわれはいままでその答えを持っていると思い込んでいたのに、いまではまったく心もとなくなっている。」

存在の問い。
その何であるかを問われて答えられない存在そのものを"存在"。
その他の何であるかを答えられる個別に存在しているものを"存在者"とした時、存在者と存在を区別した上で存在の意味についての問い、つまりは「存在者が存在するという意味はどういうことなのか?」を明らかにしようとしました。



・"存在"とはどういうものなのか?

我々の身の回りには有形無形問わず様々な存在者に囲まれています。
例えば、友人知人であったり、スマホであったり、テレビであったり、紙やペン、動物に植物、自然もそう。
それら存在者の総体としての世界の内に自分は存在しています。

そんな切っても切れない環境と自分の在り方を"世界-内-存在"といい、今ここに在る自分のことを"現存在"といいます。
存在者の中でも「自分はなぜ在るのか?」と自問できるのが存在者、つまり"現存在"です。



・なぜ在るのか?

例えば、お箸の意味は"ご飯を食べるため"。
食事という目的のためにお箸は意味を成します。
ご飯を食べるためにお箸を使わない人にとっては、お箸に"ご飯を食べるため"といった意味を持たせません。

人間は、仕事をするため、ご飯を食べるため、好きなことをするため、様々な目的がそこには付随します。
それらはすべて"生きるため"なんです。

この目的とは言い換えれば"未来"であり、自分(現存在)が持つ目的(未来)が取り囲む存在者を意味付ける。
これが自分の"世界"観なのです。



・存在から見た今作

劇中の台詞「小説家は物語を書き、作曲家は曲を作る」も現存在が存在者を意味付けるものとして語られています。

そこに在るものとしてそこに在ることを問えるもの、それは存在しているということ(現存在)。
しかし、そこに在っても在るものとして認識されない(問えない)のであれば、それは存在しないということにもなる。
また、過去にそこに在ったものが未来になければ、それは存在しないということになる。


これらを『ア・ゴースト・ストーリー』に当てはめると、ケイシー・アフレック演じる幽霊Cがこれに該当するんです。

勿論、ルーニー・マーラ演じるMは生者であり人間であるため、現存在の位置付けとなります。

Cの存在は自分を認識されない虚無の"世界"。
そして未来にも語り継がれない過去のもの。
しかし、自身には"妻Mを見守る"という目的があり、それは自身を問える、つまりは現存在にも当てはまる。


今作『ア・ゴースト・ストーリー』の幽霊の描写は、存在すると存在しないの絶妙な境界線で"存在"している幽霊の"世界"観を見事に描き出すことに成功しているんです。




・時間の概念とは?

ハイデガーは時間においても「過去、現在、未来」という三つの時間が均質的に、尚且つ無限に続いて存在するというものであるとした上で
根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す働きのようなものだと主張しています。

一般的に考えられている時間の概念は直線的です。
未だ来ない"未来"は今である"現在"になり、やがて現在は過ぎ去り"過去"になる。
これは"未来、現在、過去"が均質な関係として成り立っています。

ハイデガーの場合、未来、現在、過去の代わりに、"将来、現成化、既在"を立てます。
"既在"とは、過ぎ去った過去ではなく、今までの自分はどうあったかというものです。
言い換えるなら"現在にある過去"。
自分は今まで「何者であったか」という問いが"既在"の認識によって、"将来"の「何者であるか」を決定づけるんです。



・時間の終わり

では、時間に終わりは来るのでしょうか?
繰り返される時計の針、一定の速度で進む時間。
その終わりを告げるものこそが"死"です。

"世界-内-存在"の現存在が消滅してしまうこと。
"将来"を"死"として覚悟し生きることが、ハイデガーの言う本来的在り方なんです。

その自身の死と向き合うこと(将来)が、人生を生きるということであり、そのために今何をすべきか(現成化)を問うことが現存在、つまり存在することなのです。




・時間から見た今作

これらを今作『ア・ゴースト・ストーリー』に当てはめると、Cは死してやっと本来的在り方に辿り着けたと言える。

自身の"世界"観ないしMや生者の"世界"観から切り離され、時が止まったCにとって"将来"はない。
つまりは、Mとともに歩む時間の流れとは別の次元へと移ったことになる。
だからこそ、今までの自分がどうであったか(既在)を問い、傍観者としてその場に留まることしか出来ず他者の"世界"観を俯瞰することしかできないのだ。



・存在と時間から見た今作

幽霊となったCが現世に存在する理由はMが壁に残した手紙を読むという目的(現成化)。
その中で家が取り壊されその目的を成せないことで時系列が未来へと移行する。
Cにとって手紙を読みたかったこと(既在)が将来(夢や願い)になることで、時系列が円環的となり未来と過去が繋がり時間軸が移動している。

これこそが、今作『ア・ゴースト・ストーリー』での時間跳躍の演出に該当するのではないだろうか?


過去に移ることで、なぜここに居るのか?という問いを思い出させてくれるのが過去の少女が残したメモ。
なぜ自分は家にこだわるのか?という問いがCの感情を円環的に繋げる。
そして、過去に自分たちの住む家が建てられることで、手紙を読むという目的が達成されることとなる。


隣人の幽霊が家での待ち人を待つという目的(現成化)と将来を達成できず消えてしまったように、幽霊であるCは手紙を読むという目的(現成化)が達成され、存在する意味を失い消えた(成仏した)と考えられるのではないだろうか。



終わりに

余談ですが、この映画はシュールでありながら結構シリアスに描かれてますよね?

実は「手を触れようとしてすり抜ける」や「シーツがドアに挟まれる」などの遊び心も撮影時には試されたらしく、結局「この映画には合わない」と撮り直したそうです。


マジでグッジョブ!(笑)

多分、そういうコミカルな描写があったらこの映画をそこまで好きにはなってなかったと思いますね。


ということで、今回は"存在と時間"について考察をしてみました。
実際は理性的に観る映画ではないと思うので、こんな考察は忘れて皆さんもっと感情的に『ア・ゴースト・ストーリー』を楽しみましょう!

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最後までお読みくださった方、ありがとうございました。




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